(その7からのつづき)
「その7」までは、ラタラジューの用いたネパール語についての検証を述べてきました。
今回からは、ラタラジューの語った内容についての検証を述べていきます。
①ナル村の実在について
ラタラジュー人格が最初に現れ、ナル村村長だと告げた2005年6月当時のネット検索では「ナル村」はヒットしませんでした。
このことは、拙著『前世療法の探究』を読んだ大門教授も、同様に2006年に検索しておりヒットしなかったことを確認しています。
したがって、初回セッション時に里沙さんがネット検索によって「ナル村」を知っていた可能性は排除できます。
ところが、二回目の実験セッション直後の2009年5月21日に、念のため再度「ナル村」を検索したところヒットしたのです。
それは青年海外協力隊の派遣先としてナル村が掲載されていたからでした。
その記事によれば、カトマンズから直線で南方25kmの距離にある寒村でした。
そのローマ字表記のNalluで検索すると、ナル村は、ゴルカ地方に隣接するラリトプール地方のカトマンズ盆地内にあり、1991年の調査によれば、320世帯1849名、村民の言語の97%はタマン語であることが分かりました。
ラタラジューが日本語で語った「カトマンズに近い」、ネパール語で語った「父はタマン族」にも符合し、ナル村はこの記事の村だと特定できると判断できます。
筆者が調査を依頼した、ネパール在住のソバナ・バジュラチャリヤ博士(文化人類学)、ディック・バジュラチャリヤ氏夫妻の現地調査によれば、ナル村は海抜1,800m、カトマンズ中心部から南へ34km(車で2~3時間)にあり、2010年現在、人口2,277人、420世帯の四方を山に囲まれた寒村でした。
人口の97%を占めるタマン族の90%以上が仏教徒、7%以上がヒンズー教徒であるということです。自動車を用いると、未舗装の狭い山道を命がけで目指すという僻地にあり、観光客のけっして寄り付くような場所ではないということでした。
したがって、被験者里沙さんが、このナル村の存在をネット検索など通常の方法で知った可能性はまず考えられません。
カトマンズ住人でさえほとんどナル村の存在を知らないからです。
里沙さんはネット検索そのものができません。仮にできたとしても、Nalluというやや特殊な表記を知っていない限りヒットしないのです。
日本人観光客が見るべきものなど皆無の交通不便なナル村に立ち寄ることも考えられません。
したがって、ネパール観光に訪れた知人・友人からナル村の情報を取得した可能性は排除できます。
また、里沙さん自身が、ネパール旅行をしたことがないことも確認しました。
里沙さんがナル村を知ったとすれば、知人などにナル村に派遣された海外青年協力隊員がおり、そこからナル村の情報を取得することでしょう。
しかし、そのような知人・友人は存在しませんでした。
そもそも、ラタラジューが最初に顕現化した2005年当時には、ナル村には青年海外協力隊は派遣されていないのです。
そのようなナル村の存在をなぜ里沙さんが語ることができたのでしょうか?
また、ラタラジューという、古風で、現在ではかなり稀な、しかし確かに実在する名前をどうして知ったのでしょうか?
2005年6月におこなったセッションで、タエの次の人生としてラタラジューが顕現化していますから、このときのセッションの事前に、ラタラジューという名前、ナル村の諸情報を収集しており、それらを素材に作話していたことを意図的に語ったということでしょうか?
それとも、たまたま潜在記憶としてそれら諸情報が蓄積されており、無意識的にそれら諸情報を編集・加工してラタラジューの架空物語を語ったのでしょうか?ならば、どこでそのような諸情報に接することができたのでしょうか。
そうした可能性を疑うのは、何としても生まれ変わりを認めたくないがための牽強付会な解釈に思えます。
「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の解釈については、ラタラジューの語りの検証後にじっくり検討したいと思います。
(つづく)
「その7」までは、ラタラジューの用いたネパール語についての検証を述べてきました。
今回からは、ラタラジューの語った内容についての検証を述べていきます。
①ナル村の実在について
ラタラジュー人格が最初に現れ、ナル村村長だと告げた2005年6月当時のネット検索では「ナル村」はヒットしませんでした。
このことは、拙著『前世療法の探究』を読んだ大門教授も、同様に2006年に検索しておりヒットしなかったことを確認しています。
したがって、初回セッション時に里沙さんがネット検索によって「ナル村」を知っていた可能性は排除できます。
ところが、二回目の実験セッション直後の2009年5月21日に、念のため再度「ナル村」を検索したところヒットしたのです。
それは青年海外協力隊の派遣先としてナル村が掲載されていたからでした。
その記事によれば、カトマンズから直線で南方25kmの距離にある寒村でした。
そのローマ字表記のNalluで検索すると、ナル村は、ゴルカ地方に隣接するラリトプール地方のカトマンズ盆地内にあり、1991年の調査によれば、320世帯1849名、村民の言語の97%はタマン語であることが分かりました。
ラタラジューが日本語で語った「カトマンズに近い」、ネパール語で語った「父はタマン族」にも符合し、ナル村はこの記事の村だと特定できると判断できます。
筆者が調査を依頼した、ネパール在住のソバナ・バジュラチャリヤ博士(文化人類学)、ディック・バジュラチャリヤ氏夫妻の現地調査によれば、ナル村は海抜1,800m、カトマンズ中心部から南へ34km(車で2~3時間)にあり、2010年現在、人口2,277人、420世帯の四方を山に囲まれた寒村でした。
人口の97%を占めるタマン族の90%以上が仏教徒、7%以上がヒンズー教徒であるということです。自動車を用いると、未舗装の狭い山道を命がけで目指すという僻地にあり、観光客のけっして寄り付くような場所ではないということでした。
したがって、被験者里沙さんが、このナル村の存在をネット検索など通常の方法で知った可能性はまず考えられません。
カトマンズ住人でさえほとんどナル村の存在を知らないからです。
里沙さんはネット検索そのものができません。仮にできたとしても、Nalluというやや特殊な表記を知っていない限りヒットしないのです。
日本人観光客が見るべきものなど皆無の交通不便なナル村に立ち寄ることも考えられません。
したがって、ネパール観光に訪れた知人・友人からナル村の情報を取得した可能性は排除できます。
また、里沙さん自身が、ネパール旅行をしたことがないことも確認しました。
里沙さんがナル村を知ったとすれば、知人などにナル村に派遣された海外青年協力隊員がおり、そこからナル村の情報を取得することでしょう。
しかし、そのような知人・友人は存在しませんでした。
そもそも、ラタラジューが最初に顕現化した2005年当時には、ナル村には青年海外協力隊は派遣されていないのです。
そのようなナル村の存在をなぜ里沙さんが語ることができたのでしょうか?
また、ラタラジューという、古風で、現在ではかなり稀な、しかし確かに実在する名前をどうして知ったのでしょうか?
2005年6月におこなったセッションで、タエの次の人生としてラタラジューが顕現化していますから、このときのセッションの事前に、ラタラジューという名前、ナル村の諸情報を収集しており、それらを素材に作話していたことを意図的に語ったということでしょうか?
それとも、たまたま潜在記憶としてそれら諸情報が蓄積されており、無意識的にそれら諸情報を編集・加工してラタラジューの架空物語を語ったのでしょうか?ならば、どこでそのような諸情報に接することができたのでしょうか。
そうした可能性を疑うのは、何としても生まれ変わりを認めたくないがための牽強付会な解釈に思えます。
「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の解釈については、ラタラジューの語りの検証後にじっくり検討したいと思います。
(つづく)
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