2018年6月15日金曜日

SAM催眠学序説 その114

       私の考え方の立ち位置

私の立ち位置は、「実証的スピリチュアリスト」と言えるようです。
しかし、この立ち位置は、「確信的スピリチュアリスト」の人からすれば、何だ!?という批判を受けそうです。
 

真性の「確信的スピリチュアリスト」とは、科学的実証はできないであろう信憑性の高い諸霊信(『シルバーバーチの霊言』、『モーゼスの霊訓』、カルディックの『霊の書』など)の告げている内容を「確信している人」のことを指して呼ぶわけですから。
 

歴史的に近代スピリチュアリズムとは、①地上の人間と霊界の高級霊との交信を認める、②そうした霊の存在と霊界の存在を認める、③ 霊魂と生まれ変わりの存在を認める、③ひいてはすべてを統べる全知全能の神の存在を認める、ことを内容としています。
この内容を「霊的真理」として、霊的真理を人生の指針として、よりよく生きようとする人こそ、「確信的スピリチュアリスト」と呼びます。
霊的現象に強い興味関心を持つだけの人、霊能らしきものがあると自称するだけの人をスピチュアリストと呼ぶことは正しくありません。

私が「実証的スピリチュアリスト」だと言うのは、私あて霊信内容を私の実践しているSAM前世療法よって確認(実証)できた意識現象の事実に限定してそれを認めるという表明をしているので、その立場を強いて呼ぶなら「実証的スピリチュアリスト」と位置づけてよいだろうというだけのことです。
 

私が自覚し納得しているのは、自分は「プラグマティスト」であるということです。
プラグマティストとはいかなる立場・態度をとる人間であるのか、以下に説明します。
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日本語で「道具主義」と訳されるプラグマティズムが、卑近な実用と功利だけを重んじる安手の常識哲学だと思い込むことは誤りです。
プラグマティズムを基盤とする「プラグマティスト」は次のような生活態度を反省的に身につけようとします。
そもそもプラグマとはギリシア語で「行為」を意味します。
 

①官僚の文章や仏教、儒教、キリスト教の熟語に代表されるような美しい荘重な文言を、聞いたり口にしたりすれば、それで万事片付いたように思う言語主義(バーバリズム)を捨てて、ことばや文章の意味する内容からどういう実際的帰結が生ずるかを見届けようとする実際主義を身につけようとする。
 

②生活体験を十分にくぐらない観念や信念だけでものごとを解決しようとする態度を捨て、事実の構造と法則に裏付けられた観念や信念を形成し、またこの真偽を行動・体験によって吟味する態度を身につけようとする。
 

③自分の正当な利害や幸福を追求することを何か悪いことのように感ずる卑屈感を捨て、自己を正当に主張するよい意味の個人主義的な自主性を身につけようとする。
こうした態度があってこそ、他人の人格や権利を正当に尊重し、他人と民主的に交わることができるようになると考える。
またこうした考えにもとづいて行動しようとする。
 

④こうしたプラグマティズムは、一つ間違うと功利主義、実利主義へとかたより、個人の直接体験を偏重する主観主義に傾き、また悪い意味での自然主義におもむいて、手放しのオプティミズム(楽観主義)に走りやすくなる。
そうならならないよう絶えず「反省的思考」によって、バランスある言動・思考態度をとろうとする。
 

私の言う「反省的思考」とは、たとえば「ラタラジューの事例」における「生まれ変わり仮説」の真偽の検証において

①自分に都合のよい事象のみを「選択的に抽出」してはいないか?

②そうした「選択的抽出」した事象を「拡大視」し、不都合な事象を「縮小視」し、あるいは切り捨ててはいないか?

③「選択的抽出」によって「拡大視」したごくわずかな都合のよい事象を短絡的に「極端に一般化」する結論へと導いていないか?

④「極端に一般化」した結論をもって、手前勝手な「恣意的推論」を展開していないか?
 
つまり、以上の4点を絶えず点検し、独りよがりの「認知の誤り」に陥ることへの警戒を怠らない思考態度を「反省的思考」と言います。


こうして、プラグマティズムは、専門的哲学の体系というよりは、よりよい充実した人生を送るための「生活態度」だと言えると思います。
 
プラグマティズムの真理観は、「説明の成功」ですから、私のこれまで述べてきたブログ上の言説も、現時点でとりあえず説明が成功している「とりあえずの真理」だと理解していただきたいと思います。
したがって、たとえば「タエの事例」や「ラタラジューの事例」について、今後「生まれ変わり仮説」よりも、簡潔で明確な整合性のある別の仮説によって「説明の成功」がなされれば、そちらを受け入れることに躊躇することはありません。

さて、プラグマティズムの系譜に連なる教育哲学者J・デューイは、哲学とは生活態度である、と述べ、次のように定義しています。
 

「哲学とは全体的・普遍的・究極的な生活態度である。世界の素材と取り組んで、統一ある、一貫した完全な人生を自覚的に努力するとき、人は哲学する(philosophize)。人は、哲学することによって、生活の進め方を規定する知恵を得ようとする」
 

その「哲学する(philosophize)生活態度」とは次の3つの態度に集約されます。
 

1「全体性」・・・起こってくるさまざまな事件に対する反応のしかたの一貫性を保とうとする態度。
 

2「普遍性」・・・何事もバラバラに受け取らず、それぞれの事実をそれに意味を与える広い文脈の中に位置づけようとする態度。
 

3「究極性」・・・すべての事象や対象の裏面にまで進んでいって、それらの連関を発見しようとたゆみなく努める態度。  
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私がプラグマティストであるがゆえに、
生活体験による実証を十分にくぐらない観念である諸霊信を受け入れる「確信的スピリチュアリスト」になりきれず、実証的態度を手放さないでいる意味において、「実証的スピリチュアリスト」にとどまっていることがお分かりいただけると思います。
そして、この立場は、SAM前世療法の臨床によってあらわれた「タエの事例」や「ラタラジューの事例」をはじめとする前世人格の顕現化、未浄化霊の顕現化、生き霊の顕現化など「霊的な諸意識現象の事実」への検証と考察によって形成されてきたものです。

その結果として、

●その「霊的意識現象の事実」が、著しく臨床的直観に反することはなく、
●そうした「霊的意識現象の事実」を認めることが、不合理な結論に帰着することはなく、
●そうした「霊的意識現象の事実」が、検証の結果、これまで知られている脳の特性(心・脳の一元論)から考えるとどうしても説明できない特異的な意識現象(超常現象)として存在していること、を認めざるをえない。

という立場が形成されてきたわけです。  
こうした、生まれ変わりや霊魂の存在に関わる、「いかなる霊的意識現象も先験的に否定せず、いかなる霊的意識現象も検証なくして容認せず」という思考態度が「実証的スピチュアリスト」であり、プラグマティストであると私が自称することの理由になっています。


付言すれば、私の考え方の立ち位置に決定的な影響を与えてくださったのは教育哲学者であり、上越教育大学院教授杵淵俊夫教育学博士でした。
35歳のとき、現職教員の身分で2年間の大学院研修を許され、上越教育大学院修士課程の勉学の中で、指導担当教授杵淵先生との出会いと薫陶がなければ、今の私の考え方の基盤は形成されなかった。
杵淵先生の口癖であった「あなたのその考え方は、ほんとうにそうですか ?」という認知の誤りを点検する問いが、そのまま今の私の中で生き続けています。


その結果、教育現場にもどってからの私は、それまで当然のように承認してきた、文科省や県教委の教育方針や言説に否応なしに違和感を抱くことが多くなり、教員としての人生が随分生きづらく感じるようになってしまったと思います。
あるいは、最近では、現在の政治状況(不十分な審議のままの自民党の強行採決、嘘で固めようとするモリカケ問題など)に対する不信感と怒りから、十二指腸潰瘍になって治療を受ける羽目になっています。

私の考え方の立ち位置は、人生を生きづらくする毒があるのかもしれません(笑)。


2018年5月21日月曜日

SAM催眠学序説 その113

私の死に対する原体験と生まれ変わり研究


芥川賞作家で臨済宗妙心寺派福聚寺の玄侑宗久住職は、自分の死に対する原体験を次のように語っています。

「小学校2年生のとき、『自分が死ぬこと』ばかりを思って、毎晩のように泣いていました。たとえ死んでも、人の意識はしばらく肉体に留まっていると考えていたからです。その状態で火葬されれば、棺が炎に包まれて、棺の中にいる私に刻々と迫ってくる。あるいは、土葬で埋められた私の体中に蛆が湧きはじめる。それを思うと恐ろしくてどうしようもなかったんです」

私の死に対する原体験は、体験年齢は玄侑宗久住職より遅いのですが、死への強烈な恐怖体験は、氏とほぼ同様の内容でした。
は小学6年の晩秋、母方の祖父が、火葬場の焼却炉の火炎に包まれて、刻々と骨と灰になっていく様相を覗き窓から目の当たりにしたのです。

昭和30年代当時の火葬の焼却炉は、かなり原始的な仕組みで、火葬場職員が小さな覗き窓から遺体の焼け具合を見るようになっており、私は職員が席を外したときをねらって、覗き窓からこっそり覗いてしまったというわけです。
重油バーナーから吹き出される猛烈な火炎の中で、肉が焼け、肋骨や頭蓋骨が露出していく恐怖の光景から目を離そうとしても離せないで、おそらく十数分間は釘付けになっていたと思います。

私も、いつか、必ず、遺体は焼かれ、骨と灰になる、という逃れられない事実を目の当たりに突きつけられ、この恐怖体験はぬぐいがたいトラウマとなって、この12歳の冬中、眠って目覚めなければ死ぬ、という深刻な恐怖に苛まれ不眠症に陥りました。

夜明けの四時、五時のボンボンという架け時計の時刻を打つ音を聞き、うとうとして六時にはもう目が覚めてしまうという生活が3ヶ月続き、体重は10キロ近く減りました。

今度は眠らないと死んでしまう、という恐怖にとりつかれ、眠ろうとすればするほど目がさえて眠れないという悪循環に悩まされました。

さすがに母親は、私の痩せ具合と顔色のすぐれないことを心配して、医者のところへ連れていかれました。
これを飲めば必ず眠れる、という猛烈に苦い水薬を処方され、中学生となって部活動の適度な疲労とあいまって、やっと不眠症から解放されました。

不眠症から解放されたとはいえ、死への圧倒的恐怖は、私の心の底に潜むマグマのようなトラウマとなって深く刻印され、その後の人生で、24歳で突然死した妹、40代で癌死した親友、などに直面するたび、死への恐怖が噴出し、しばらくしては沈静していくことを繰り返すことになっていきました。

私は、理屈より実証、観念より事実へと向かう心性がきわめて強く、死後の世界や生まれ変わりを説くだけで、実証のともなわない宗教的言説に与することは、どうしてもできない人間です。
したがって、信仰に救いを求めることは、しないし、できませんでした。

そうした中で、50歳半ばにして「タエの事例」に遭遇しました。
もし、この事例の検証によって、生まれ変わりが「科学的事実」であることをこの手で証明でき、納得できれば、つまり、死後存続する魂と呼ばれる意識体がある、ということになれば、死後も「私」は、無に帰するのでなく、何らかの形で存在し続けるならば、死への恐怖は随分緩和されるはずだと思ったのです。

こうして、「タエの事例」への偏執的とも言える検証へ取り組むことになっていきました。
その執拗な検証は、本ブログの2012年11月9日付「タエの語りの謎に迫る」で報告したとおりです。
こうした、きわめて執拗な検証態度の原動力は、生まれ変わりの科学的実証によって、私自身の死の恐怖を緩和したい、救われたいという切実な求めこそが第一義でした。
 「ラタラジューの事例」の検証動機もまったく同様です。

その後、「SAM前世療法」の実践は以下のような、憑依現象とも遭遇していくことになりました。

霊媒体質を持つ52歳男性クライアントの功徳を積むということで、SAM前世療法で魂状態の自覚に至ったところで次のような暗示をして、未浄化霊の憑依を許可し、浄霊しました。
「この部屋(研究室)の光に引き寄せられて、癒しを求めている未浄化霊には、この者に憑依することを許可します。3つ数えたら憑依をしてよろしい」 
3つ数えた後、憑依状態を確認しました。

「あなたの身元を尋ねます。あなたは男性ですか、女性ですか、名前と年齢を教えてください」

「ナカガワチエコ18歳です」 このあとすすり泣きを始めました。

「あなたはどのような状況にいるのですか」

「空襲で周りは火事になっています。私は防空頭巾を被って逃げています。爆弾が落ちてきて・・・・学徒動員で工場で働いていて・・・・その後はわかりません」
 すすり泣きが激しくなりました。

「あなたの生活している町はどこでしょう?」

「名古屋です」

「あなたは空襲の爆弾が落ちてきた後、命をなくしているのですよ。それが分かっていませんか?」

「分かりません。家族がどうなってしまったか心配でたまりません」

「あなたは死んでいるのに、それに気づかず、苦しいのでこの者に憑依をしているのです。あなたはもう肉体がないのです。だから、行くべき光の世界へいきなさい。そこへ連れていってくださる方が現れますから、その方に導かれて光りの世界、霊界へと上がるのですよ」

クライアント男性は「苦しい、熱い」と言い出してもがき始めるので、

「あなたが憑依しているこの者の肉体を通してあなたをヒーリングをします。苦しみが癒されますよ。そのあとで、浄霊の儀式をしてあなたを必ず送ってあげますからね」

こうして、未浄化霊が穏やかに落ち着くのを待って、浄霊をおこないました。

覚醒後に、体験した意識現象の感想は次のようでした。
里沙さんとは違い、このクライアントは憑依中の記憶があり、それを次のようにモニターできたようです。


①白いブラウスにモンペのようなものを履いた防空頭巾の若い娘の姿が見えた。
②アツタという言葉と昭和20年5月14日という日付が脳裏に浮かんだ。

そこで、「名古屋大空襲」で検索したところ、昭和20年5月14日にB29爆撃機530機、投下爆弾2,515トン、罹災者66,585名、死者319名という記録が確認できました。
「アツタ」という言葉は、名古屋市「熱田区」を指すのでしょうが、5月14日の空襲では熱田区は被害区域には入っていませんでした。
 この日の空襲は、名古屋市北部に存在した軍需工場に集中されたらしく、そうした軍需工場で働くナカガワチエコはそこで罹災したものと思われます。
そして、彼女の実家が熱田区であろうと推測できます。

このクライアントの生地・現住所ともに関西です。
名古屋や中京圏に在住したことはなく、名古屋の土地勘はまったくありません。
熱田神宮は知っているということでしたが、「熱田区」のあることは知らないし、昭和20年5月14日の名古屋大空襲についてはまったく知らないということでした。
こうした検証から、この未浄化霊とおぼしき「ナカガワ・チエコ」18歳の実在した信憑性はかなり高いと思われました。
5月14日の319名の死者名簿が現存していれば、検証してみたいものです。

こうしたSAM前世療法の「魂の自覚状態」における未浄化霊の意図的被憑依現象は、クライアントに霊媒体質があれば、意識現象の事実として、顕現化が可能であるようです。
これまでにも、未浄化霊や守護的存在の意図的被憑依現象は数十例を数えます。

余談になりますが、太平洋戦争における米軍の非戦闘員への無差別空襲は明らかに国際法違反です。
ましてや広島・長崎の原爆投下は言語道断の非人道的犯罪行為です。
しかも、これら戦争犯罪に対する公式謝罪は今もなされていません。
ナカガワチエコの無念さ、戦後60余年もさまよっている哀れさに胸が痛みました。


生まれ変わりを認めたくない人は、生まれ変わりを否定する証拠をもって反証する以外に方法はありません。
生まれ変わりを裏付ける証拠のように重大な問題の場合、完璧なもの以外は証拠として受け入れられないと言われるのであれば、イアン・スティーヴンソンに倣(なら)って、この問題が重要であるからこそ、不完全なものであろうが可能性を示す証拠については科学として検討をするべきだ、と答えたいと思います。
細部が不正確・不明であるという欠点よりは、重要なことについて確実なことを示す事実にこそ意味があると考えているからです。
そして、こうした探究が決して無駄であるとは思われません。

私の現在の見解は、人間の生まれ変わりを裏付ける証拠は、その証拠を根拠に生まれ変わりを認めることが妥当ではないかと考えられる証拠が、これまでの海外の諸研究によって十分に累積されていると思っています。
しかしながら、これらの諸証拠は現段階ではまだ完璧なものではないので、誰もが完全に納得出来るだけの説得力を持っていないことも、認めざるをえません。
生まれ変わりを認めたい人には十分な証拠、しかし、認めたくない人には、まだまだ疑う余地の残されている証拠、のレベルでしか生まれ変わりの科学的事実は開示されていないのです。

「タエの事例」、「ラタラジュー事例」の二つの事例をはじめ、未浄化霊「ナカガワ・チエコの事例」など、こうした生まれ変わりの諸証拠の存在を知った人は、その証拠を材料として、必ずやってくる死に正対して、生まれ変わりと魂と呼ばれる意識体は、あるのか、ないのか、自分の立場を明確にせざるをえないと思います。

本ブログ記事がそうした材料の一助になったとすれば、本ブログの目的は十分果たされたものと思います。 

2018年4月17日火曜日

SAM催眠学序説 その112

タエは里沙さんの魂表層から顕現化した前世の人格である


2005年3月・6月に、里沙さんを被験者にワイス式でおこなった2回の前世療法で、私は「タエの事例」に出会いました。
ただし、この時点では「SAM前世療法」は開発していません。

このワイス式でおこなった前世療法によるタエの語りは、里沙さんの前世記憶の想起として語られたというより、タエという前世人格が顕現化し、里沙さんとは別人格のタエ自身が語っていると解釈することが妥当ではないか、という強い印象を受けました。

この印象の妥当性を検討するきわめて貴重な資料が、セッション後に里沙さんが記してくれたセッション中の意識状態を内観(内省)した体験記録です。

この体験記録をお願いするにあたって、私は、催眠中に起こった意識内容を出来る限り詳しく思い出して書くように注文を出しました。
初めて出会ったきわめてまれな事例であったので、後の事例研究のために是非とも残しておきたかったからです。

下記に転載したのは体験紀録の抜粋です。(『前世療法の探究』春秋社,2006,PP.221-222)
なお、1回目のセッションは2005年3月におこない、2回目のセッションは2005年6月におこなっています。
このうち、2回目セッションの録画が2006年10月のフジTV「奇跡体験アンビリバボー」に25分間取り上げられて紹介されています
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【転載はじめ】
1回目のセッションでは、稲垣先生の誘導により、暗闇のトンネルを進み、前世の世界の扉を開けることから始まりました。
次は、そのときの状態を、記憶に残っているままに書き留めたものです。

扉を開けると、まばゆい光の世界が見え、そこにもう一人の私がおりました。
前世の私と思われるそれは、姿も形もなく、無論男か女かも分からない、音も声もない、小さな光の塊ではありましたが、まちがいなく私でした。
そして、一瞬にして、すべてのものが、私の中に流れ込んできました。
私は、自分が何者なのかを知り、状況も把握できました。


私の前世は、タエという名前の女性で、天明三年に起きた火山の噴火を鎮めるために人柱となって、16歳で溺死するというものでした。
目の前に迫る茶色い水の色や、「ドーン」という音もはっきり分かりました。
水を飲む感覚、息が詰まり呼吸できない苦しさ、そして死ぬことへの恐怖、それは言葉では言い表すことのできない凄まじいものでした。
私は、タエそのものとして死の恐怖を体験しました。
(中略)
二回目のセッションでの私の望みは、できることなら痛みに耐えて、生きてゆく意味を、自分なりに見つけたいということでした。

このセッションは、70分という時間がかかったことを後で聞かされましたが、私には、せいぜい30分程度の感覚でした。
後でビデオを見せてもらいましたが、「偉大な存在者」の記憶は全くなく、そのあたりで時間のズレができたのではないかと思います。
ただし、タエと、ネパール人と、中間世の魂となっている部分の記憶は、催眠から覚醒しても、ハッキリ覚えていました。

次は、二回目のセッションの記憶を書き留めたものです。

前回と同じように、扉を開けると、あっと言う間に、私は13歳のタエで、桑畑で桑の実を摘んで食べていました。
私がそのタエを見ているのではなく、私自身の中にタエが入り込んでくるという感覚でした。


稲垣先生から、いろいろ質問がされましたが、現世を生きている私が知るはずもない遠い昔の出来事を、勝手に口が動いて、話が出てしまうという状態でした。
それは本当に不思議なことでした。

【転載おわり】
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さて、検討したい個所は次の記述です。
扉を開けると、まばゆい光の世界が見え、そこにもう一人の私がおりました。
前世の私と思われるそれは、姿も形もなく、無論男か女かも分からない、音も声もない、小さな光のかたまりではありましたが、まちがいなく私でした。
そして、一瞬にして、すべてのものが、私の中に流れ込んできました。
私は、自分が何者なのかを知り、状況も把握できました。


「まばゆい光の世界」にあって「姿も形もなく」、「男女の性別もわからない」、「小さな光の塊であるような」自分である自覚が認められ、一瞬にしてすべてのものが、私の中に流れ込んできた、そして自分がタエという名の16歳の少女であり、そのときの状況も把握できた、と里沙さんは言います。

さらに、タエそのものとして、泥流によって溺死した体験をした、と記述しています。
2回目のセッションでは、あっという間にタエになっており、それは「自分のなかにタエが入り込んでくるという感覚」であったと記述しています。

また、そのようなタエが話すときは、「勝手に口が動いて話が出てしまう状態」だったと言います。
そして、「姿も形もなく、男女の性別もわからない、小さな光のかたまりであるような自分である自覚」とは、まさしく「魂状態の自覚」だと考えられるでしょう。


このような意識状態になったという記述をありのままに受け入れるとしたら、どのように説明がつくのでしょうか。
里沙さんが、このセッションで「記憶催眠」レベルの催眠深度に達していたことは、標準催眠尺度によって確認しています。

そのような深い催眠状態に至って、里沙さんは自動的に「魂状態」になり、その「魂状態」になったそのときに、魂表層に存在しているタエという前世の別人格が、一瞬にして顕現化した、と考えることがもっとも妥当な解釈ではないでしょうか。

里沙さんとタエとは別人格であるので、タエの人格が話すときには、里沙さんの発声器官を借りて、タエ自身が話すことになる、話す主体は里沙さんではなくタエであり、里沙さんの意志がはたらく余地がありません。
したがって、「勝手に口が動いて話が出てしまう」という自覚を持たざるをえなくなってしまうのでしょう。

ただし、現行の催眠学的解釈をすれば、こうしたタエという人格が顕現化したようにみえる意識現象は、里沙さんが無意識的に起こした「役割演技」だとみなすことが可能です。
実際に「記憶催眠」レベルは、「人格催眠」レベルとも名付けられており、このレベルの催眠深度に至れば、人格変換、つまり、役割演技を引き起こせることが分かっているのです。

しかし、役割演技として顕現化したタエという架空の人格が、里沙さん自身はまったく入手していない、天明3年7月日7日夜の浅間山大噴火とそれに伴う「浅間焼泥押し」と呼ばれる大泥流被害などの正確な情報を話せるはずがありません。

タエの語りの内容の史実との一致率は80%を上回っています。
残り20%弱の語りは、検証不可能であり、結局、タエの語りについての明確な誤りは一つもなかったのです。

そして、2009年に実施した2時間以上にわたるポリグラフ検査によって、タエの語り内容の情報を、里沙さんが事前に入手していていた可能性は完全に否定できるという鑑定結果が出ています。
つまり、タエは、里沙さん自身のまったく知らない天明3年浅間山大噴火と浅間焼泥押しにまつわる諸情報を語ったということが検証できたのです。

この検証結果は、「超ESP仮説」を考慮しないとすれば、里沙さんがタエの生まれかわりであることの証明、ひいては「魂」と呼ばれる死後存続する意識体の実在している間接的証明ができたことを意味していると考えることができます。

そして、「タエの事例」から4年後、2009年5月に、SAM前世療法によって「超ESP仮説」を打破する応答型真性異言「ラタラジューの事例」があらわれました。

ここに至って、私は、すくなくとも里沙さんにおいては、生まれ変わりは「科学的事実である」と宣言して支障はないと判断しています。

そして「SAM前世療法」という手続きを踏めば、90%程度の成功率(直近100事例における成功率)で、被験者は「魂状態の自覚」に至り、前世人格が顕現化することが可能であることが確認されています。

こうした事実から、顕現化した前世人格の検証ができなくとも、生まれかわりは多くの人に起こっている蓋然性が高いのではないかと思っています。

2018年3月14日水曜日

SAM催眠学序説 その111

前世人格の所在はどこなのか


2005年の「タエの事例」、2009年「ラタラジューの事例」において、被験者里沙さんの「前世記憶の想起」ではなく、「タエの人格・ラタラジュー人格そのものの顕現化」したものだとすれば、そのような前世の人格は、いったいどこに存在しているのでしょうか。

これが「タエの事例」以後、4年以上にわたって私を悩ませることになった大きな謎でした。

この謎について言及した先行研究は、イアン・スティーヴンソンに求めるほかないと思われました。

以下は、イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、1989からの抜粋です。

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生まれ変わったと推定される者では、先述のイメージ記憶、行動的記憶、身体的痕跡という三通りの要素が不思議にも結びついており、前世と現世の間でもそれが一体になっていなかったとは、私には想像すらできない。
このことからすると、この要素(ないしその表象)は、ある中間的媒体に従属しているらしいことがわかる。この中間的媒体が持っている他の要素については、おそらくまだ何もわかっていない。

前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォア)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う。(中略)

私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。
実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返さ れた過去世の人格に由来する「個性」なのである。人格は、一人の人間がいずれの時点でも持っている、外部から観察される心理的特性をすべて包含しているの に対して、個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる。したがって、私たちの個性には、人格としては決して表出するこ とのないものや、異常な状況以外では人間の意識に昇らないものが数多く含まれているのである。

前掲書PP.359-360
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イアン・スティーヴンソンの言う「中間的媒体」、あるいは「心搬体(サイコフォア)」は、いわゆる「魂」と同義です。
厳密な科学者スティーヴンソンは、「soul(魂)」という語にまとわりつく宗教臭を払拭し「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体」という科学的定義を明確にしたのだと思われます。
ただし、私は、前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を、そのまま従来の「魂」の概念でも不都合はないと思いますし、新しい概念でもないのに「心搬体」などの造語を用いることは不要だと思っています。
さて、前世人格の所在についてのスティーヴンソンの結論は、「心搬体(サイコフォア)」=「魂」が、前世人格の所在であるということになるのでしょうか。

また、彼の、「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う」という見解は、SAM前世療法の作業仮説を設けるときの重要な参考となっています。
つまり、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化(変化)する仕組みになっている」という仮説を支持する見解だと言えそうです。

ただし、スティーヴンソンは、「心搬体」=「魂」を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない、と述べています。

「魂は二層構造になっており、その表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格たちは互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・ 進化する仕組みになっている」というのが、SAM催眠学における作業仮説です。
つまり、「心搬体」=「魂」の表層全体は、変化していくものだということを、その後の、SAM前世療法のセッションで顕現化した前世人 格の語りから確かめています。

さらに、「一つの『人格』がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しない」というスティーヴンソンの見解は、そのままSAM催眠学が主張する見解と同様です。

「現世の私」という一つの人格が、来世にそのままそっくり生まれ変わるわけではなく、魂表層を構成する一つの前世人格として生き続けるのであって、生まれ変わるのは「表層を構成する前世諸人格を含めた一つの魂全体」だというのが、SAM前世療法セッションで示される生まれ変わりの実相だと言えます。

また、「実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる」というスティーヴンソンの考え方も、私の見解にほぼ一致します。

現世の個性は、魂表層の前世人格たちから人生の知恵を分かち与えられており、このようにして繰り返された前世の人格に由来する「個性」と、現世での諸経験とによって、形成されているに違いないのです。

さて、私が、スティーヴンソンに求めたのは、前世の記憶を語る子どもたちの「記憶」の所在についての考究でした。

彼が、「前世の記憶」が脳にだけあるとは考えていないことは、「心搬体」という死後存続する「媒体」を想定していたことに照らせば、間違いありません。

私の期待したのは、その心搬体と脳との関係についてのスティーヴンソンの考究です。

前世の記憶を語る子どもたちは、その前世記憶の情報を、心搬体から得て話したのか、脳から得て話したのか、それとも記憶ではなく前世の人格の顕現化であるのか、いずれなのでしょうか。

しかし、スティヴンソンの著作は、この問いについてはなにも解答を与えてくれませんでした。

私が求めた解答を与えてくれたのは、人間ではなく、私の守護霊団を名乗る霊的存在でした。

2018年2月16日金曜日

SAM催眠学序説 その110

インナーチャイルドは「記憶」か「人格」か


 一般的なインナーチャイルド療法は、記憶催眠(深い深度の催眠)まで誘導の後、年齢退行によって「傷ついている子どもの意識」を呼び出し、癒すということになっています。
一般的に「インナーチャイルド」とは、「内なる子ども」と訳されますが、具体的には子ども時代の記憶や心情、感傷のなどを指しているようです。
しかし、インナーチャイルドは、ほんとうに「子ども時代の心情、感傷の記憶」なのでしょうか。

SAM前世療法の作業仮説では、魂は二層構造になっており、その表層は前世のものたちによって構成されていると考えています。
ミラーボールの球体表面に一枚一枚の鏡の断片が張り付いているように、魂の表層は、一人一人の前世のものたちが張り付き構成していると考えるといいかもしれません。
それら前世のものたちが潜在意識・意識を作り出しているということもSAM前世療法の仮説です。

そして、魂の表層には、前世のものと同時に「現世のもの」が位置付いています。この「現世のもの」は、現世に誕生して以後の現世での潜在意識・意識を作り出しているものということになります。
したがって、魂の表層の「現世のもの」の内部にインナーチャイルドが内在していると考えられます。

インナーチャイルドに出会ったのは、私が40代の終わり、現職の小学校教頭であったときです。
私は37歳で上越教育大学大学院で2年間の留学研修を終えて教育現場に復帰し、教頭職にあって教育催眠を生徒指導面に応用する臨床研究に没頭していました。
そうした中で、小学4年生男子の「夜驚症」の改善を母親から依頼されました。

夜驚症とは、睡眠中に突然起き出し、叫び声をあげるなどの恐怖様症状を示す症状のことで、数分から十数分間症状が続き、夢とは異なり目覚めた時に本人はそのことを覚えていないのが普通のようです。
成長とともに自然に治まるとされていますが、母親には心配でたまらなったようです。
そこで、家庭訪問で、この男子児童を記憶催眠(自分の名前が抑制されて想い出せない催眠深度)まで誘導し、年齢退行によって夜驚の原因の記憶を探ってみました。
なんと現れたのは2歳時の記憶であり、小児病棟で一人で寝ることの寂しさと悲しみ、母親からの見捨てられ不安を泣きながら訴えました。
この意識現象のありのままの事実と実感は、「悲哀の記憶」ではなく、「悲哀に苦しむ2歳児人格の訴えそのもの」と現象学的に解釈するほうが適切だという強い印象でした。

つまり、強烈な悲哀を体験した2歳児の思念の集合体は、成長していく本体の人格から分離し、取り残され、当時のままの幼児人格として潜在意識下に生きており、睡眠中に顕現化し、恐怖や不安を訴えているのではないか、という解釈をすることでした。
つまり、インナーチャイルドとは、「子ども時代の記憶や心情、感傷」ではなく、「強烈な悲哀を体験した結果、成長していく本体の人格から分離され、取り残されてしまった残留思念の集合体としての子ども人格」ではないかという仮説を持つことになったというわけです。


こうした仮説に基づき以下の手順で、SAM前世療法によるインナーチャイルド療法を実験的におこなってみました。
被験者は32歳男性です。
彼は、自分に向けられた叱声はもちろん、他人が受けている叱声にも過剰に反応し、異常なほどの恐怖感と激しい動悸に襲われるという症状を持っていました。
特に大声で叱声を浴びると、耐えられないほどの恐怖と動悸に襲われると訴えました。
そこで、仮説に基づくインナーチャイルド療法を以下の手続きでこころみることにしました。

1 魂遡行催眠まで誘導し、魂の自覚状態に至っていることを確認する。

2 魂の表層の「現世のもの」を呼び出す。

3 「現世のもの」の内部に存在し、症状を作り出している「子どもの私」を呼び出す。

4 「子どもの私」がどのような原因から傷つきを持ち、苦しんでいるのかを聞き出す。

5 苦しみに共感的理解をしてやりながら、分離され取り残されている「子どもの私」に 「成長を続けている私」と一つになるように説得する。

セッションの結果、呼び出しに応じて現れた被験者の「子どもの私」は3歳でした。
子どもどうしで遊んでいるときに、遊び相手の子どもが、大声でわめきながら、奪い合いをしていたオモチャで気を失うほど激しく殴ったということでした。
その傷つきの恐怖体験によって分離した「子どもの私」が、類似のことが起こる場面に遭遇しそうな度に、恐怖感と動悸を起こさせて、警告しているということでした。
こうした語りをしてもらった後、この「子どもの私」にヒーリングをし、大人の私と一つになるように説得してセッションを閉じました。

同様の手続きによって、会食するときに限って腹痛を起こさせている小学1年生の女児のインナーチャイルド、男性と親密な人間関係になることを拒否している小学6年生女児のインナーチャイルドの顕現化の事例があります。
 前者のインナーチャイルドは、学校給食で食べ残しを許されず、無理矢理担任教師から毎日居残りで完食することを強制されていた小学1年の女児でした。クライアントは40代女性です。
 後者のインナーチャイルドは、父親から性的暴力を受けていた小学6年生の女児でした。クライアントは60代女性です。


以上のようなSAM前世療法によるインナーチャイルド療法の改善効果の累積と検証はこれからの課題です。
インナーチャイルドとは、「子ども時代の記憶や心情、感傷」ではなく、「強烈な悲哀を体験した結果、成長していく本体の人格から分離され、取り残されてしまった残留思念の集合体としての子ども人格」ではないか、という私の現象学的仮説を否定するような意識現象の事実は現時点では確認されていません。
ただし、私の仮説は、催眠学上の「人格催眠」レベルで現象化する「人格変換」や「役割演技」という解釈も成り立つ余地があります。
つまり、「子ども時代の心情、感傷の記憶」の想起が、あたかも子どもの人格を装って顕現化した、という解釈もできるということです。

インナーチャイルド、未浄化霊、生き霊などの意識現象の顕現化を知れば知るほど、「意識」の謎は深まるばかりです。

2018年1月5日金曜日

SAM催眠学序説 その109

「ポスト物質主義科学」へのパラダイムシフトは進むか

精神医学・大脳生理学などの科学の主流では、物質である脳が意識を生み出していることが当然の常識として前提されています。
そのため、意識の源である脳さえ研究すれば、意識の発生メカニズムがわかると唯物論科学者らは信じています。
しかし、これまで決定的な成果はあがってないどころか、彼らの信念を揺るがすような臨死体験や応答型真性異言などの反唯物論的現象が報告されています。

意識は脳の随伴現象であり、脳の消滅とともに意識も消滅してしまえば、生前に経験されたものはすべて棄却されてしまう、という言説(帰無仮説)は、唯物論科学の立場から、その立場上構成されている「信念」や「主張」であって、この信念・主張が科学的に確定された手続きによって、検証・証明されたものではありません。


意識はそもそも非物質であるため、既存の物質科学では理解できず、さらに意識内容そのものを検出する科学機器も存在せず、したがって、意識体験者の報告に頼るほかありません。こうして意識は物質科学の対象として認めることができないと考えられてきました。

意識のメカニズムを解明できない物質的な科学主義の行き詰まりを打開するため、米アリゾナ大学医学部精神科の教授で、「意識と健康の科学の先進に向けた研究所」の所長も務めるゲイリー・シュワルツ教授は、「ポスト物質主義科学マニフェスト18条」を示しパラダイムシフトを提起しています。


ゲイリー・シュワルツ教授のこの主張は、科学の諸領域で確認されてきた超常諸現象に基づく「心・脳の二元論」の主張であるとも理解できるでしょう。

そして、生まれ変わりの科学的研究の先駆者イアン・スティーヴンソンの次のような考え方と重なっています。
「肉体のない世界はどこにあるか、と問われれば私は、私たちが肉体と結びついている現世で、誰もが持っている心理的空間の中に存在すると答える。ここでまとめると、宇宙には、物理的世界と心理的(ないし心霊的)世界の二つがあるのではないか、と私は言おうとしているのである。(とは言え、その指摘は私が最初だなどと主張する気は毛頭ない。)この二つの世界は相互に影響を及ぼし合う」


「ポスト物質主義科学マニフェスト18条」(抄訳)

第1条
近代科学の世界観は、物質主義や還元主義に則っている。

第2条
19世紀にこれらの前提は科学的物質主義というドグマになり、精神は脳の物質的活動に還元され、意識・思考は脳や身体など物質世界に影響することがないとされた。

第3条
20世紀には科学的物質主義がアカデミズムの常識となり、多くの科学者が世界の物質的理解のみが合理的な科学的思考だと信じるようになった。

第4条
科学的物質主義は自然の理解に大きな進歩をもたらすのみならず、科学技術の発展を通して自然の抑制や自由を人類にもたらした。

第5条
しかし同時に、科学的物質主義は科学を極端に限定し、精神やスピリチュアリティの探究を阻むものとなっている。

第6条
本来の科学は観察・実験・理論を通して自然を探究する史上初の非ドグマ的方法である。そして、科学的方法は物質主義とイコールではない。

第7条
量子力学の分野では、観察者の意識が物質世界に影響を与えることが判明した。このことで、物質は現実に存在する唯一のものではなくなり、自然の理解は意識への言及なしには不可能であることが証明された。

第8条
心理学や精神神経免疫学の分野では、心理的な要素が肉体に多大なる影響を及ぼしていることが判明している。

第9条
超心理学の分野では、精神作用が物質に影響を与えることが研究され、異常や例外として排除できないほど頻繁に超自然的現象が起こることが証明されてきた。

第10条
心臓発作の数秒後に脳の活動が停止するにもかかわらず、心臓発作に伴う臨死体験や、臨死体験が宗教経験を引き起こす例が頻繁に報告されてきた。

第11条
霊能者が故人の情報を正確に言い当てることが、厳密な実験でも明らかになっている。精神は肉体とは別に存在している可能性が示唆されている。

第12条
物質主義に偏った科学者や哲学者は、物質的に解明できない現象を否定する。そういった非物質的現象は彼らが持つ排他的な世界認識と相容れない。しかし、これらの諸現象を否定したり、ポスト物質主義を支持するような科学的発見の公表を差し控えることは、科学的探究の精神に反する。従来の科学の理論や信念に合わないデータが排除されてはならない。そのような態度は科学ではなくイデオロギーである

第13条
超能力、臨死体験、霊との通信などが異常に見えるのは、物理主義の観点からのみである。

第14条
物理主義は、脳から意識が生まれる仕組みの解明に失敗している。今こそ物理主義の束縛から抜け出し、自然世界の概念を拡張し、ポスト物質主義のパラダイムを受け入れるべきである。

第15条
①)精神は物質世界と同程度に現実的である。精神は宇宙の基本的要素である(物質に由来せず、物質に還元することもできない)。

②精神と物質世界には深く相互に結びついている。

③精神は物質世界の状態に影響を与え、空間的な制約を受けない(脳や身体などに精神があるわけではない)。

④全ての精神は、ただ一つの精神に包括されている。

⑤臨死体験では、脳は精神活動のトランシーバーのような役割を担っている。つまり、精神は脳を通して活動するが、脳から生み出されたわけでない。臨死体験では肉体の死後も意識(精神)が残っていることが分かっている。

⑥科学者は、精神や精神的経験の探究を恐れるべきではない。なぜなら、精神は人間存在の中心的側面であるから。

第16条
ポスト物質主義科学は、これまでに獲得された科学知識を否定せず、世界の重要な構成要素として物質を包含する。

第17条
ポスト物質主義パラダイムは、我々の自己認識を根本から変え、人間として、科学者としての尊厳と権能を取り戻すものである。世界の非物質的理解は古代の宗教伝統や生活実践にも見られてものであり、我々はその事実から目をそむけてきたにすぎない。

第18条
物質主義からポスト物質主義への移行は、コペルニクス革命よりも重要なものとなるだろう。
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「意識」の問題については、私あて第8霊信(2007年1月)で次のように私の守護霊を名乗る通信霊が告げています。

「あなたがこれまで今生を通し、より強い興味や探究心を引きつけるものを、あなたはそこで理解していた。すべては『意識』であると理解していた。言葉としての「意識」をあなたは理解している。だが、それの本質はまだ理解に及んでいない。あなたが覚醒するにしたがって、それは思い出されるものとなる。・・・あなたが『なぜか』と考えること、疑うことは、あなた自身が生じさせる思考であると同時に、私たちが投げかけている課題なのだと理解しなさい。あなたが催眠を深く探究したのと同じように、これからあなたは多くのものについて知ることとなる」

私の「意識の本質」への理解は、この霊信から10年後の現在でも、ほとんど進んではいないことを認めないわけにはいきません。
きわめて深い催眠事態にあらわれる意識現象の事実の累積は、「意識の本質」の深淵をますます露わにし、意識の謎を深めるばかりです。

ただし、ここに紹介した、アカデミズムに所属する ゲイリー・シュワルツ教授のような識者からポスト物質主義の提起が堂々とされたことに勇気づけられて、催眠という切り口から潜在意識の本質をこれからも探究し続けていこうと思います。

2017年11月24日金曜日

SAM催眠学序説 その108


 「生まれ変わり」否定の諸反論のまとめ

「SAM催眠学序説」も、2017年末をもって、今回の「その108」まで公開することができました。

ネット上に表明される文章は、ツイッターやフェイスブック、2チャンネルを見ても分かるとおり、「軽薄短小」が圧倒的な流れです。
こうした意味で本ブログは反時代的であると言えるでしょう。

本ブログのテーマ「生まれ変わりの実証的探究」は、実証性を重んじる、真面目な内容の性格上、おのずと「重厚長大」になりがちです。

また、そうでないと「実証的探究」の実証の中身が十分伝わらず、充実しません。

いずれにせよ、本ブログは反時代的な代物であることは管理人として重々承知しているところです。

そもそも、政治も企業社会も、「いまだけ、かねだけ、じぶんだけ」の風潮が主流の現代日本で、まだまだ自分の人生の先が長いと思っている人は、今、いかに必要なお金を稼ぐかが一番の関心事であるのは当然ですし、まずは明日を生きることに必死で、この先の日本や世界の行方、ましてや死後の行方などに真剣に目を向けるゆとりなどとんでもない、と思われるのが大方の実情だろうと思います。

だから、「生まれ変わりや死後の有無」を真面目に科学的に考えるなどは 、酔狂なヒマ人が勝手にやっとればよい、ということになるのはもっともなことだと思っています。
そして、私は、酒も賭け事もやらず「簡素で、自給的で、喜びを軸とする生活」を理想としているヒマ人であります。

したがって、本ブログ内容の需要はけっして高くはないということは開始当初から承知しています。
それでも、ブログ更新時には1日200近いアクセスがあり、そうでないときでも毎日100前後のアクセスがありますから、真面目な継続的読者のおいでになることは、ほんとうにうれしく思います。
この2017年1年間のご愛読にこころより深謝いたします。
ちなみに海外からのアクセスも1日30前後あり、2014年8月からの総アクセス数は11万を超えました。

人はいつか必ず死を迎える、この厳然たる事実を直視して、死への不安を抱いて今を生きることは重苦しいでしょうから、多くの人々は死の不安から目を背け、スポーツに熱狂したり、芸能界のスキャンダルやらを面白がったりしながら気晴らしに興じ、自分の死について正対し、真面目に考える重苦しさを先延ばしにして、あいまいにすることで、この生きにくい時代をやりくりしながら、なんとか日々を送っているのではなかろうか、というのが年末にも関わらずシコシコ書く時間のあるヒマ人、私の感想です。

しかし、死に直面化せざるを得ないときが、遅かれ早かれ人生のどこかで必ずやってきます。

死は無に帰することなのか、自分は死ともに完全に消滅するのか、それとも死後はあるのか・・・。
これは、すでに生きる時間の折り返し点を間違いなく通過している私自身のきわめて切実な問いであります。


本ブログは、この重大かつ根本的な問いに、科学的な実証をもって答えの一端を見出そうとしている試みです。


そして、実証のともなわない、観念的な、宗教的言説、霊能者的言説とは一線を画し、「観念より事実、理屈より実証」の旗印のもとに、私みずから手がけた生まれ変わり示す具体的事例の科学的検証という私の身の丈に見合った守備範囲を限定して述べてきました。

その生まれ変わりを示す「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を掲げて、生まれ変わりの実在可能性を主張してきましたが、当然それへの反論をいくつかコメントしていただきました。

今回、2018年を迎えるに当たって、そうした諸反論の経過を振り返ってみたいと思います。

Ⅰ 史実を踏まえた学問的反論


まず、特筆すべきは、2015年1月1日付「SAM催眠学序説その34」から開始され、3月22日の「その42」まで3ヶ月近く続いた、「タエの事例」について読者VITAさんから提示された下記2つの疑義に関しての論争です。

疑義 その1

 タエは泥流の水によって溺死をしているように見受け られましたが、その様子はこの分野における学問の知見と一致しないとする専門家の意見を以前拝見したことがあります。この方の見解は、泥流は大量の岩石を 含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、とのようなものであったように記憶しております。私は以上のようなことから、タエの事例に限定して言えば、歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っているのではないかという感想をこの度持ちました。

 疑義 その2

浅間焼泥押に関する最新の研究の知見では、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった、とのようにも伺っておりますもち ろんセッションにおいてタエの人格も「急ぐの、急ぐ、時間がない」とのように語ってはおりますが)。もし研究の知見とタエの語った内容に差異がある場合、 タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要となるようにも感じられました。

浅間焼泥押についての最新の研究の知見を述べ、拙著の批判をしているのは地質学者の群馬大教授早川由紀夫氏のブログhttp://togetter.com/li/608596 です。

早川教授のブログで示された二つの疑義についてきちんと解明したいということでした。
私としては、専門家である大学教授の権威ある批判(学問的見解)に対して、真っ向勝負することであり、タエの語りで不明であったことの解明につながる緊張感に満ちた仕事でした。

この議論の経過と決着は、「SAM催眠学序説その34」~「その42」のブログ記事およびコメント記事をお読みください。
記事内容の質、量ともに専門学会でおこなわれる討論をしのぐハイレベルの内容であったと自負しています。
この討論の仕掛け人であるVITAさんにはあらためてお礼申し上げます。
また、泥流の流れ方についての専門的知見を展開し、討論に参加してくださったUROノートさんにもあつくお礼申し上げます。

Ⅱ自称霊能者からの無根拠な妄想による反論


さて、「ラタラジューの事例」 については、霊能者を自称している人物のブログで、ラタラジューは未浄化霊の憑依であり、里沙さんはその憑依霊の霊障によって転写された腰痛などに襲われるであろう、という根も葉もない霊視?結果が、2010年の「ラタラジューの事例」のアンビリ放映後に次のように述べられていました。
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 私の感応によりますと、数十年前に亡くなったネパール人男性が、日本へ行く旅行者に憑依して、日本霊域に来ています。

昭和までの幽界が強い時代は、日本の結界が強力に存在していて、外国人のさ迷う霊が日本に入ることは非常に難しかったのです。しかし近年は、この結界が崩壊している様です。私は番組を見て、この事を再認識させられました。

日本霊域でさ迷っていたネパール人男性は、ある時、退行催眠で無防備に成っていた女性の所へと引き寄せられたと言います。そして簡単に入り込む事(憑依)が出来たので、自分の言いたい事を話したのです。

女性(注:被験者里沙さん)は、長年の腰痛治療の緩和に成れば良いと思い、安易に退行催眠による腰痛治療を始めました。
ところが術者先生(注:稲垣)による「問い掛け」とは、物を言いたい霊に対して、場所を提供することに成るのです。この結果、彼女は異国の男性の憑依を受けたのです。
問題は、そのネパール人の霊は、この女性に執着していました。

今後、彼女には腰痛に加えて、憑依する霊がいまだに持つ腹痛も、現実的な病気として彼女に転写するでしょう。それ以外にも、彼女の人生に影響を与えて変えてしまいます。
現に番組では、ネパール人男性が戦争に行き、人間を刃物で刺した記憶が、彼女が料理で肉を切る時にフラッシュバックして苦しいと、彼女は話していました。
人の意識に干渉する治療は、予想外の二次被害を生み出しますの注意してください。お金を払ってまでして、違う危険性を新たにはらみます。
これもやはり、先生も相談者も「無知ゆえの事」です。

彼女は過去生において、東北の弁財天信仰をする滝のそばで、口寄せ(くちよせ:霊を憑依させてお告げをすること)をさせる行者の元にいました。
そこで、寄り代(よりしろ)に彼女自身がされていたのです。その時の因縁の白蛇が、彼女の腰のチャクラに巣食っています。これは腰痛として現れています。
このような過去生の行為が、再度また男性の元に引かれて、口寄せをする行為につながっています。 
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すでに7年以上前の記事ですが、この霊能者のもっともらしい上記予言は完全に的外れでした。
セッション後の里沙さんに霊障(ラタラジューの腹痛の転写)らしき身体の痛み現象などが、これまでにまったく起こっていないことが実証されているからです。
この自称霊能者は、感応できたと称する意識現象が客観的事実であるのか、主観的な妄想であるのかを自己点検する謙虚さを欠いたまま、臆面もなく断定できる厚顔無恥そのものの人物のようです。


Ⅲ 唯物論者からの応答型真性異言事例そのものが錯誤であるという反論

 的外れな反論としては他にも、それぞれ別人からの2つの反論がネット上に掲載されていました。

①ラタラジュー程度のネパール語会話であれば、ネパール語を知らない誰でも会話できる。
②ラタラジューのネパール語会話は、それらしく聞こえる空耳の羅列にすぎない。

上記①②の反論は、言いがかり以上のものではなく、検証実験すればその主張が成り立たないことが歴然としています。
臆面もなく、よくもこのようなめちゃくちゃの反論ができるものだと呆れるばかりでした。
両反論者ともに、生まれ変わりなどあってたまるか、という完全な唯物論者です。
「応答型真性異言」という、唯物論者にとってきわめて目障りな超常現象そのものをなかったことにしようとする目論見です。
「生まれ変わり」、「霊魂」という単語に過剰な拒絶反応を示し、非科学的迷信、社会の害悪だと決めつけ、きちんとした検証抜きで、問答無用のありえない戯言だと切って捨てる傲慢な態度です。
そのため、顕著な認知の歪みに陥るのではないかと思われます。
そうした傲慢な態度に陥らないためには、本ブログ「投稿の留意点」に掲げてある「いかなる意識現象も先験的に否定せず、いかなる意識現象も検証なくして容認せず」という思考態度を持ち続ける必要があるのです。


Ⅳ 潜在記憶仮説で説明可能であるという反論 

無意識のうちに入手している「潜在記憶」で生まれ変わりとおぼしき記憶は説明可能である、という反論はもっとも妥当性がある反論です。
この反論には、たとえば次に紹介するような実証的根拠がありますから説得力があります。

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「催眠によって誘発される特殊な服従状態の中で被術者は、何らかの、過去にあった出来事らしきものを物語らずにはいられない衝動に駆られるため、現世の生活の中からそれらしきものが捜し出せない場合には、前世らしき時代の記憶がそれまで全くなかった場合でも、それらしき話を作り上げるかもしれないのである。(中略)

記憶の中に潜んでいるいろいろな情報をつなぎ合わせ、それをもとに前世の人格を作り上げてしまうのである。このようにして作られた前世の人格は、長年月にわたって繰り返し呼び出されても、それなりの感情や一貫した性格を示して見せることであろう。(中略)

前世の記憶らしきものをはじめからある程度もっている者に催眠をかければ、細かい事実を他にも想い出すのではないか、とお考えになる方がおられるかもしれない。私自身もそのように考えたため、自然に浮かび上がった前世の記憶らしきものを持つ数名の者に催眠をかけたことがある。
この人たちの持つ記憶らしきものは前世に由来しているのかもしれないが、特に地名と人名については、事実かどうか確認できるほど明確な形では語っていなかった。催眠状態なら、人物や場所の名前を一部にせよ正しく想い起こしてくれるかもしれないし、そうすれば、この人々の記憶に残っているという前世の人格の存在が確認できるのではないかと考えたのである。
私はこのような実験を13件自らおこなったり指導したりしている。一部では私自身が施術をおこなったが、それ以外の実験では他の施術者に実験を依頼した。その結果ただの1件も成功しなかった」
 イアン・スティーヴンソン『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP79-80
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「タエの事例」、「ラタラジューの事例」は、潜在記憶仮説で説明できるのではないか、という点については、当然のことながら私も疑いをもちましたから、潜在記憶の入手可能性を徹底的に調査しました。
調査結果では、潜在記憶となる情報を入手できそうな入手先の痕跡は一切発見できませんでした。
最終的にポリグラフ検査をおこないましたが、検査結果の鑑定は「意図的に情報を入手した記憶は一切認められない」ということでした。
反論者の常套句は、「どこかで」無意識的に情報を入手したに違いない、という論理で主張してくるのですが、肝心の「どこか」については具体的に触れようとしません。
その「どこか」をさんざん調査しても発見できなかったのですから、無理難題、ないものねだりと言うほかありません。
タエにしてもラタラジューの語った情報にしても、通常の手段による意図的情報収集でも、あれだけの内容は入手できるとは考えられません。
まして、偶然の経緯で、しかもインターネット(注:里沙さんはネット検索の技能を持っていません)などの手段を使わず、あれだけの情報を入手することはあり得ないでしょう。
両事例を潜在記憶仮説によって説明することは、記憶の入手先がない以上、成り立ちようがありません。

ただし、「タエの事例」については、被験者里沙さんの心の力、つまり彼女は催眠中に万能の透視・テレパシーの能力を発揮してあらゆる情報を入手できたはずだ、とする「超ESP仮説」が適用できないわけではありません。
応答型真性異言である「ラタラジューの事例」については、応答的会話技能はESPでも取得できないとされていますから、超ESP仮説によっても説明できません。


Ⅴ ポリグラフ検査の被験者に不正(催眠による細工)があったのではないかという反論

ところが、私が催眠を用いて里沙さんの受けたポリグラフ検査をスルーさせたのではないか、という疑いを持つ人がついに出てきました。
つまり、被験者里沙さんは意図的に情報入手しているが、その事実がポリグラフ検査にひっかからないように、つまり嘘をついても心理的動揺が生じないように、催眠が用いられていたのではないか、という疑いです。
徹底した懐疑主義に立てばこうした疑いも出るでしょうが、これは私と里沙さんの人間性を否定されかねない疑いです。
したがって、次のような反論をしてあります。
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「催眠暗示により、嘘を嘘として認知しないようにポリグラフ検査前に細工するということは、嘘をつくことが道徳に反する、という価値観の持ち主には原則的に不可能です。
私の数度の催眠実験でも、嘘をつくことを強要する催眠暗示した場合、被験者は拒否するか覚醒してしまいました。
したがって、里沙さんに虚言癖のような傾向が無い限り、嘘をついても心理的動揺を起こさず平然としていられるような催眠暗示が有効であるとは思われません。
催眠は、良心に反することを強要できるほど強力ではない、というのが催眠学上の定説です。
また、ここで紹介したポリグラフ検査は被験者里沙さんが嘘をついても平然としているかどうか、つまり動揺せず、したがって生理的諸反応が起きないかどうかを確認する本検査前の予備検査がされています。
内容は、彼女の年齢を問う予備検査です。
30代か、40代か、50代か、60代かそれぞれにすべてに『いいえ』と答えさせるものでした。
その結果、50代で明白な特異反応が認められました。
彼女は、検査当時51歳でしたから、50代か? で『いいえ』と嘘をつき、それが特異反応として検知されたというわけです。
この事前検査結果からも、彼女が嘘をついても心理的動揺を起こさず平然としている、などの催眠暗示がおこなわれていないことは、すでに明らかです。
仮に、そうした事前暗示がなされていても無効であったことが証明されています。
また、つづく本検査結果においても、以下の鑑定が出ています。
『鑑定事項1『タエの事例』に関する情報入手経緯については『本・雑誌類で』で明確な特異反応(顕著な皮膚電気反応)を認めたが、内観には考慮すべき妥当性があり、前世療法を受ける以前の認識(記憶)に基づくものか否かの判断はできない。
考慮すべき妥当性ある内観とは『先生(稲垣)からこんな本読んだことはないかと尋ねられる度に本屋に走り本を読んだりした。こうした経緯があり、前世療法を受けて以後のことながら、一回目の質問時から引っかかりを感じた』という内観報告である。したがって、特異反応はこうした内観に矛盾しないものである』
この鑑定は、つまり里沙さんは、完全な嘘をついていなくても、少しでも心理的なひっかかりがあれば動揺が生じること、正直で素直な性格であることを示しています。
こうした諸事実によって、少なくとも、ここで実施されたポリグラフ検査を、催眠により問題なく通過させたなどの不正が起こり得たはずがありません。
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上記私の反論について、疑義を提出した人からの再反論はありません。


Ⅵ 量子脳理論を説明仮説へと援用し拡大解釈した反論

この反論を持ち出した人は、Wikipediaに掲載されている量子脳理論についての次の引用記事をヒントにしていると思われます。
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ペンローズ・ハメロフ アプローチ
理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフに よって提唱されているアプローチ。二人によって提唱されている意識に関する理論は Orchestrated Objective Reduction Theory(統合された客観収縮理論)、または略して Orch-OR Theory(オーチ・オア・セオリー)と呼ばれる。
意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と 呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説 明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している。[1]
臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、 体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」と述べている。

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上記ゴチック部分のハメロフの主張の問題点を挙げると

①「脳で生まれる意識は・・・」と、脳が意識を生み出すことが確定されているかのような前提を述べていますが、脳が意識を生み出しているという科学的立証はいまだにありません。
②量子脳理論提唱者のハメロフの主張は、「臨死体験」の説明仮説としては論理が通っているでしょうが、「心臓が止まると意識は脳から出て拡散する。体験者が蘇生した場合は意識が脳に戻る」などの主張の科学的立証は一切ありません。
立証しようにも検証方法がないのです。
そして、臨死体験が「脳内現象」であるのか、「体外離脱現象」であるのかの決着さえも、いまだについていません。
したがって、ハメロフの主張は、臨死体験論争に、目新しい量子脳理論を持ち出して説明しようとする「私論」、ないし「試論」でしかないと言えるでしょう。

③ハメロフの言う「体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」、あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」という主張に、「ラタラジューの事例」の反論者は、待ってましたとばかり飛びついて、「量子脳理論で生まれ変わりは説明できる」と断定しているのですが、ハメロフは、宇宙にあり続ける死者の意識情報は「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」ときわめてあいまいな表現しかしていません。
理論とは言えないレベルの、科学的実証の見込みのない恣意的推論に過ぎないからでしょう。

④私は、ハメロフの量子脳理論による「生まれ変わり」の説明については、次のような決定的な欠陥のあることを反論しています。
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「かつて、ラタラジューが生きており、死後ラタラジューの意識(人格)が量子として宇宙に偏在したとします。
そのラタラジューの意識(人格)がなぜわざわざ日本人の里沙さんの意識を選んで宿るのか、その理由がまったく説明ができないではありませんか?
宇宙に偏在していたラタラジューの意識(人格)が、たまたま気まぐれで偶然に里沙さんの意識に宿ったわけですか?
また、そのような偶然が普遍的に起こるとしたら、応答型真性異言現象がもっと多くの人々の間に起きてもいいのではありませんか? 
つまり、学んではいない異国語で応答的会話のできる人々が、これまで世界に5例にとどまらず、もっと相当数現れてもいいはずです。
この点についての整合性のある合理的説明ができない限り、量子脳仮説で生まれ変わりを説明できるとは到底考えることはできません」
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上記の私の反論についての再反論はありません。

量子として宇宙にあり続ける膨大な死者たちのうちの誰かの意識情報が、偶然に現世の誰かの生命体と結び付いて生まれ変わる、とすればこうした現象は、すでに「生まれ変わり」という辞書的定義を逸脱しています。
生まれ変わることに目的性は一切なく、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的かつ偶然に、生まれてきた誰でもよい誰かの肉体に宿る、こうしたまったく無縁である死者の意識が、生を受けたまったく無縁の現世の者の意識に偶然に宿ること、これを「生まれ変わり」と呼べるのでしょうか。

おそらく、量子脳理論について生かじりの知識しかなく、量子論という最新科学を背景にした目新しい主張に、軽率に飛びついてみただけだからでしょう。

Ⅶ 形態形成場仮説を借用し飛躍した推論による反論


形態形成場仮説は、Wikipediaの説明記事の引用によれば、次のようになっています。
この仮説は、生物学者シェルドレイクの提案だとされています。
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この仮説は以下のような内容からなる。

  1. あらゆるシステム形態は、過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する(時間的相関関係)。
  2. 離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する(空間的相関関係)。
  3. 形態のみならず、行動パターンも共鳴する。
  4. これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。
簡単に言えば、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」とする仮説である。
この仮説を肯定する人々もいる。だが、「事実上、超常現象超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つ」と否定的な見解を示す人もいる[2]
また、シェルドレイクは記憶経験は、ではなく、ごとサーバーのような場所に保存されており(記憶の外部保存仮説)、脳は単なる受信機に過ぎず、記憶喪失の回復が起こるのもこれで説明が付く、という仮説も提唱している。
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反論者は、上記の、生物学者シェルドレイクの提案している形態形成場仮説の説明のうち、「記憶の外部保存仮説」を借用し、拡大解釈をして、生まれ変わりについて次のように反論しています。

「わたしは否定派ですが、理由は『死後の世界』を想定しなくても『この世』だけてすべて説明可能だからです。(中略)
わたしにはむしろシェルドレイクなどが主張する『形態形成場仮説』のほうが説得力を感じます。
つまり、そもそも『記憶』というものは『脳内』存在せず、重力場や電磁場と同じように種ごとに世代を越えて(つまり故人も含めて)共通の『場』に蓄積さ れていくものだ、ということです。従って、『脳』」は中継器のようなものであり、生物は『脳』」を通じて遺伝子というキーを使って自分の『記憶』にアクセスし ていると見るのです。
実際、脳科学が進歩した現在においてさえ、『記憶』が『脳内』に存在している、という確証はないのです。
ここで、ある条件下において他者の『記憶』にアクセスできるとすれば鳥類の『渡り』や魚類の『回遊』など世代を越えた情報交換が必要な現象や『本能』の謎も説明できることになります。
そして、この仮説により前世記憶や臨死体験などは勿論のこと、テレパシーなどの『記憶』に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります

私は、反論者の上記のゴチック部分について次のような再反論をしました。
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「形態形成場仮説(記憶の外部保存仮説)によって、ある条件下において、他者(死者)の「記憶」にアクセスできる、という主張は、「ある条件下」の具体内容が示されないかぎり、検証実験はできません。
そ の検証実験によって、他者(死者)の記憶にアクセスが成功したという検証がいくらかでもできて初めて、『「形態形成場仮説によって前世記憶や臨死体験などをは勿論 のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります』という科学としての言説が成り立つのではありませんか?
こうした、検証のされていないところで、『前世記憶や臨死体験などをは勿論のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります』という主張は、形態形成場仮説の極端な一般化という認知の誤りに陥った短絡的な恣意的推論と言うべきでしょう。
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そ もそも、形態形成場仮説によって他者(死者)の記憶にアクセスできる、などの、あたかも最新量子物理学の成果を装った主張は、形態形成場仮説を『ラタラ ジューの事例』に都合よく援用した安易な拡大解釈、ないし実証のない恣意的推論だと受け取るしかないではありませんか。
だからこそ、『ある条件下において』などという、安直で曖昧模糊とした、反証可能性に閉じた言い回しをして、逃げを打っているのではありませんか?

『ある条件下』の内容が不明では、その条件を満たすにはどうすればよいのか、その検証が不可能ですから、科学的仮説の体裁になっているとは言えません。
仮説の検証方法が示され、仮説の再現方法が保障されていてこそ、仮説→検証→検証結果の分析と考察→仮説の実証、という科学的方法の適用が可能です。
したがって、反証可能性に閉じられており、検証のできない仮説は、科学的な仮説ではなく、恣意的推論の表明に過ぎないという誹りを免れません。

検証のできない、反証可能性に閉じられた仮説を持ち出すのは、前世などあるはずがない、という決めつけの前提から、『死後の世界を想定しなくてもこの世だけてすべて説明可能だ』という唯物論絶対の砦に立て籠もって、自分の唯物論世界観の安定を図ろうとする硬直した態度のように私には思えます。

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上記の私の再反論についての反論はありません。

さらに加えて言えば、「ある条件下において」の文言を、「超ESPなどの能力が発揮できる条件下において」と置き換えれば、「超ESP仮説」と同様のことを述べていることになりませんか?
「超ESPという能力を発揮できる条件においては、死後存続のあらゆる証拠は、生者による超能力で完全に説明できる」と考える理論が、「超ESP仮説」と呼ばれているものです。
つまり、「死後の世界を想定しなくても、この世だけですべて説明可能だ」とする理論です。
こう考えれば、「形態形成場仮説」のうち「記憶の外部保存仮説」は、「超ESP仮説」のような仮説に「事実上、超常現象超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つ」という否定的見解を示す人が出るのは当然でしょう。
そして、「超ESP」という万能の超能力者が、発見されているわけではありません。
また、超ESPを用いて、情報である記憶は入手できても、情報に還元できない「暗黙知」である技能は取得できず、会話技能を示す応答型真性異言「ラタラジューの事例」を、「記憶の外部保存仮説」で説明することはできません。

「記憶」は情報であり、その取得は、最近の「量子もつれ」現象で説明可能かもしれませ
ん。
しかし、応答的会話は「技能」であり、暗黙知である「技能」の取得は、超能力であろうと形態形成場仮説であろうと「量子もつれ」であろうと説明できるはずがないのです。
したがって、応答型真性異言現象は、生まれ変わり以外の説明は成り立たないのです。

「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を生まれ変わりの証拠とする私の主張への反論を、7点にわたって網羅しました。
このうち、両事例について、具体的反証を挙げて反論しているのは、Ⅰぐらいでしょうか。
「実証的探究」を掲げている本ブログ管理人としては、Ⅰ以外は、実証性に乏しく少々物足りない観念的反論だと評価するしかありません。
「理屈より実証、観念より事実」の旗印からすれば、実証なき理屈、事実なき観念による反論では十分な説得力を認めることはできません。

現時点において、これら諸反論では、両事例が示す生まれ変わりの実証性を揺らがせることがいささかもできなかった、と評価するしかなかったからです。
とりわけ、最新の量子論を背景にした量子脳理論、形態形成場仮説(記憶の外部保存仮説)でタエ・ラタラジューの両事例を説明できると主張されていますが、その主張の杜撰さから、どうやら生まれ変わりの科学的研究(SPRおよび超心理学)における先行研究の造詣があるとは思われませんでした。
生まれ変わり仮説の「否定が先にありき」であり、したがって、私の主張根拠である両事例の反証可能な点についての具体的な検討をすることなく投稿されているように思われます。

このことは、「前世を語る子どもたち」の膨大な実証的研究、3つの「応答型真性異言」の実証的研究を残した、生まれ変わりの科学的探究の先駆者バージニア大学の故イアン・スティーヴンソン博士の業績と、それを模範とする私のささやかな探究が、少なくとも現時点では、否定することはできない、と自負してよいと思われます。

しかしながら、私の主張している「生まれ変わり仮説」は、生まれ変わりの濃厚な事実を示す状況証拠に基づいていますが、完璧な証拠だと断定できるまでに至っているものではありません。
だから、常に批判(反論)にさらされているあり方、常に反証可能性に開かれているあり方こそが、真理を求めるための、公正で科学的な探究態度だと思っています。
こうした公正で慎重な探究態度を逸脱しないために、私自身も、生まれ変わりがあってほしいという願望による、事実認識の歪みの有無についての自己点検を、常に怠ってはならぬと自戒しています。

諸反論の幾つもの波を被り、揉まれ、洗われ、再反論を慎重に検討し、粘り強く思考していくプロセスの繰り返しがあってこそ、生まれ変わり仮説はより強靱なものに仕上げられていくに違いないからです。
そして、反論は、反証可能性に開かれた形で証拠として提示されている具体的諸事実に基づいて実証的になされるべきでしょう。
法廷のルールに則れば、私が具体的諸証拠を提示して生まれ変わりがある、と主張しているのですから、生まれ変わりなど絶対にない、と主張する人は、私の掲げている諸証拠に対して具体的反証を挙げて生まれ変わりがないがないことを実証する「立証責任」があるということです。 

こうして生まれ変わりを否定する諸仮説をすべて公正に検討し、最後に残ったもっとも妥当性の高い仮説が「生まれ仮説」でなければ、宗教的信仰ではなく、科学的な事実としての生まれ変わりを、多く人々が納得することはできないでしょう。


生まれ変わりのように、きわめて重大で、広範囲に深甚な社会的影響力をおよぼすことを、科学的事実だと主張することであればなおさらです。
なお、私は、もし生まれ変わりのないことが、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の具体的反証をあげて「科学的に実証」されるなら、怪しげな宗教的言説、怪しげな自称霊能者のお告げ、胡散臭い霊感商法などが、きれいさっぱり完全に一掃できる画期的なことだと評価しますし、私の主張は、潔く誤りを認めて撤回します。
このことは、ひいてはスティーヴンソンの生まれ変わり研究の業績もすべて否定することになるでしょう。

最後に、you-tubeに公開している「ラタラジューの事例の英語版」に寄せられた海外からの2つの好意的評価コメントを紹介して締めくくりとします。
文面から、それぞれ生まれ変わりの科学的研究への造詣があると思われるお二人です。
また、コメント文面から「ラタラジューの事例」の公開動画にある説明コメントを丁寧に読んだうえでのコメントであると推測できます。

ちなみに、量子脳理論、および形態形成場仮説を持ち出して否定論を述べているお二人は、おそらく「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の動画にある説明コメントをきちんと読んでおいでになるとは思われません。

さて、お一人からはCongrats. Well done! 、 もうお一人からは Great job!という「!」付きの身に余るうれしい評価でした。
日本の濃尾平野の片隅の田舎町から、机に座ったままで世界に向けて発信出来る幸運な現世に生まれ合わせた喜びを噛みしめています。

Quite incredible! A very well planned session. It's amazing that she, as Rataraju, understands Nepali and gives many replies in Nepali (although many times she says "I don't know').. Congrats. Well done! To me, xenoglossy is evidenced here through the route of a spirit.


Hi. I think at some point when Ratarajou mentioned about his stomach pain, he died at that point and when people cross over its hard to communicate with them because like Dr.Brian Weiss said they are in state of resting or sleeping. If you noticed it was harder to talk to him after that point. Questions that he were answering in the earlier parts of the video, he answered "I dont know" or not understand at the point after he died(of stomach pain) because Rataraju was already resting and its hard to talk to them when its like that. If you are familiar with Dr. Michael Newton works the regression approach to be able to talk to people who are already in the spirit home or people who already cross over is by LBL type regression. But Kudos to this video, this is a great material supporting the reality of past lives and reincarnation. Great job!


最後まで辛抱強くお読みくださった読者の方には、あつくお礼申し上げます。

2018年が、あなたにとって、意義深く稔り多い成長進化の年になりますように、お祈りいたします。

そして、世界中のすべての人々にとってもそうであるように。

どうぞ、よき新年をお迎えください。
2018年も、どうぞよろしく。