2023年4月14日金曜日

生まれ変わり探究のわたしの遍歴

 SAM催眠学序説  その161

 
はじめに
 
 『科学的探検雑誌』編集長バーンハード・M・ハイシュは、イアン・スティーヴンソンの膨大にして緻密な「生まれ変わりの実証的(科学的)研究」について次のように解説しています。

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人間の行動を考えると、生まれ変わりという考え方が、物事を説明するうえで、利点を持っていることは明らかである。 恐怖症や変わった能力、強迫観念、性的方向といったものはすべて、精神分析の往々にして回りくどい論理よりも前世の具体的状況に照らしたほうが、おそらくはよく理解できるであろう。 遺伝と環境に加え、過去世での経験という第三の要因も、人間の人格の形成にあずかっているのではないか、とする考え方は正当な提案といえる。(中略)               スティーヴンソンは、「生まれ変わりという考え方は最後に受け入れるべき解釈なので、これに代わりうる説明がすべて棄却できた後に初めて採用すべきある。どの事例にしても、一例だけでは生まれ変わりの存在を裏付ける決定的証拠になるとは思っていない。私の詳細な事例報告をお読みいただければ、私たちが説得力に欠けると考えている点が明らかになることは間違いなかろうが、それによって読者の方々が、生まれかわりを裏付ける証拠など存在しないと否定なさるとは思われない。 もし、そのようなご意見をお持ちの方があれば、その方に対しては『どういう証拠があれば、生まれ変わりが事実だと納得なさいますか』とお聞きしたいと思う」と述べている。
 
(イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP.526-527)

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わたしも、上記の見解のゴチック部分にはとりわけ同感しています。

 

you-tubeで公開している「タエの事例」・「ラタラジューの事例」の証拠動画、このブログに公開しているセッション逐語録とその解説を、虚心坦懐に見聞きしたうえで、それでも生まれ変わりの証拠などではない、と否定される方がおいでになるならば、「どういう証拠であれば、あなたは、生まれ変わりと魂の存在が事実であると納得なさいますか」とわたしも、スティーヴンソン同様に尋ねたいと思います。                                     

なぜなら、わたしの生まれ変わりの実証的探究も、スティーヴンソンの実証的研究の仕方をモデルとしているからに他ならないからです。

 

人間が死ねば無になるのではなく、どんな形にせよ何かが死後も存続することが科学的に証明されれば、人生観・世界観はもちろんのこと、自然界のあらゆるものに対する見方など広汎な領域にわたって根底からの深甚な変革が迫られるに違いないでしょう。

 

そうであるからこそ、そして、わたし自身も死から逃れることが不可避であるからこそ、わたしは、誰もが「魂と生まれ変わりの有無」という人生の根源的な問いを回避せず、当事者性をもって、早急に答えを求めず、地道に問い続けることが大切なのだと考えています。

 

わたしの70年余の人生を振り返って、自分の死への圧倒的恐怖感を当事者性をもって迫った原体験は、小学校6年生12歳の晩秋でした。              

 

母方の祖父の遺体が、火葬場の焼却炉の火炎の中で、燃やされ灰と骨になっていく様子を、焼却炉に穿たれた穴から、好奇心とイタズラ心から係員の目を盗んで見てしまったのです。                             

 

いつか自分も必ずそうなることを身に浸みて実感してしまったのです。     哲学的に言えば、実存的原体験とでも呼ばれる体験だろうと思います。

 

死んで無になる恐怖感です。                        

 

この恐怖感は眠ることへの恐怖感となり、12歳にして不眠症になり、中学校に上がるまで一冬中続きました。                         痩せていくわたしを心配した母親は医師の診察に連れていき、睡眠剤を処方される事態にまで悪化しました。

        

この原体験以来、遺体が焼けていく光景が、心の深層に沈殿し続け、折に触れてはフラッシュバックし、死への恐怖から逃れることがありませんでした。
 

 

とはいえ、わたしの性格は、観念的な死生観を説くだけの諸宗教に救いを求めることはどうしてもできませんでした。                     「観念より事実」「理屈より実証」を求めるのが、わたしの生まれつきの性向なのです。

 

そして、それまでは唯物論者であったわたしあてに、59歳のとき、守護霊団を名乗る霊的存在から第三者を経由して霊信が来るという超常現象が2007年に起き、その霊信によって、魂の転生と生まれ変わりの秘密について開示を授かるという超常現象に遭遇することになりました。
 

わたしは、催眠を用いた探究の方法によって、その霊信内容の真偽の検証ができる立場にありました。

しかしながら、これまでの検証によって確かめてきた「魂の転生と生まれ変わりの事実」は、検証の方法論が、催眠被験者の語る「意識現象の事実」を対象にするしかない、という限界があるため、当然のことながら間接的な証明でしかなく、けっして100%の事実の証明にはなりえません。

そうであっても、そこでわたしの得た知見をわたしだけに留めず、この問題意識に「科学的テーマ」として正対し、「生まれ変わりの有無」に真面目な関心を寄せる人々に伝えることが、わたしあてに霊信を贈ってきた霊的存在(守護霊団)の恩恵に対する、わたしの礼儀と責務だろうと思っています。

そして、スティーヴンソンをはじめとして、生まれ変わりの先行諸研究の成果は、生まれ変わりの可能性を示す証拠が、それを否定する証拠より質・量ともに無視できないほどに蓄積されていると思います。

 

わたしのSAM前世療法の実践の累積による成果を要約すれば、わたしの肉体の死後も、霊体に宿っていた現世のわたしの人格(個性、記憶などの心的要素)は魂表層に吸収され、魂表層を構成する「前世人格」の一つとして存続し、魂はさらに成長・進化に資するための多様な体験を求めて新たな肉体に宿る。                            

 

このようにして、「わたし」は、死後も魂の表層を構成する「前世人格」の一つとして存続し、無に帰することはないということが、SAM前世療法を用いた15年余の生まれ変わりの探究の累積から得た現時点における知見です。
 

ちなみに、わたしあて霊信によれば、現世のわたしの魂は369回目の転生なんだそうです。                                

さらにまた、わたしの魂の転生は369回目の今回が最後なんだそうです。         だから、転生を終える最後の仕事として、生まれ変わりの諸相を探究し、その結果を人々に伝える仕事をしなさいということらしい。

 

それでは、生まれ変わりを探究するSAM前世療法の独自・固有の立場である「前世の人格を呼び出す」という仮説が、どのような経緯によって成立してきたかについて、時間軸にそって述べてみます。  

 

 

 1  「タエの事例」との出会い(2005年5月)

                                                                                                            

2005年5月、被験者里沙さんへの前世療法実験セッションをおこないました。
この時点では「SAM前世療法」は、成立していませんから、従来の「前世の記憶を想起する」という前提で、この「タエの事例」が遂行されています。      当時彼女は47歳でした。

以下は、「タエの事例」の逐語録抜粋です。

(『前世療法の探究』春秋社、PP.156-160)
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稲垣:あなたは今13歳で、年号は何年ですか?

里沙:安永九年(1780年)

注:年号「安永」は九年で終わっていることをセッション後確認。安永という年号を、わたしを含めて実験セッション立ち会い者7名全員(医学博士1名、国立大教授1名を含む)が知らなかった。

稲垣: はあ、安永9年で13歳。で、今桑畑にいる。それがなぜ、楽しいのでしょう。

注:前回のセッションで、タエは天明3年16歳の時、浅間山大噴火による龍神のお供えとして溺死した、と語っている。そこで、その恐怖の記憶を想起させればパニックになる畏れがあると判断し、最初に一番楽しかった場面を想起させた。


里沙:桑の実を摘んで食べる。

稲垣:桑の実を食べるんですか。口の周りどんなふうになってるか分かりますか?

里沙:真っ赤。(微笑む)①おカイコ様が食べる桑の木に実がなる。

稲垣:それならどれだけ食べても叱られることないんですか。ふだんはやっぱり遠慮がちなんですか? (里沙頷く)拾われてるから。あなたと同じように拾わ れた兄弟も一緒に葉を摘んでますか?(里沙頷く)楽しそうに。(里沙頷く)じゃ、ちょっと 夕飯の場面に行ってみましょうか。三つで夕飯の場面に行き ますよ。一・二・三。さあ今、夕飯の場面ですよ。どこで食べてますか?

里沙:馬小屋。みんなも。

稲垣:下は?

里沙:ワラ

稲垣:どんな物を食べてますか?

里沙:ヒエ。

稲垣:ヒエだけですか。おかずは?

里沙:ない。

稲垣:ヒエだけ食べてるの。白いお米は食べないんですか? (里沙頷く)だからあまり夕飯は楽しくない。で、みんなとどこで寝るのですか?

里沙:馬小屋。

稲垣:馬小屋で寝るの。お布団は?

里沙:ない。

稲垣:寒いときは何にくるまるのですか?

里沙:ワラ。

稲垣:ワラにくるまって寝るの。あなたの着てる物を見てごらんなさい。どんな物を着てますか?

里沙:着物。

稲垣:着物の生地は何でできていますか?

里沙:分っからない。

稲垣:粗末なものですか。(里沙頷く)手を見てごらんなさい。どんな手になってます か?

里沙:きれいな手じゃない。

注:キチエモンは捨て子を拾い育てているが、おそらくは農作業の労働力として使役するためであろう。したがって、牛馬同様の過酷な扱いをしていたと考えられる。

稲垣:じゃ、もう少し先へ行ってみましょう。三年先へ行ってみましょう。悲しいことがきっとあると思いますが、その事情を苦しいかもしれませんが見てください。どうですか? で、三年経つと何年になりますか?

里沙:天明3年。(1783年、タエ16歳)

稲垣:天明3年にどんなことがありましたか? 何か大きな事件がありましたか?

里沙:あ、浅間の山が、お山が、だいぶ前から熱くなって、火が出るようになって・・・。

注:天明三年六月(旧暦)あたりから浅間山が断続的に大噴火を始めた。         七月に入ってますます噴火が激しくなり、遂に七月七日(旧暦)夜にかけて歴史的大噴火を起こした。この大噴火によって、鎌原大火砕流が発生し、このため麓の鎌原村はほぼ全滅、火砕流は吾妻川に流れ込み、一時的に堰き止めた。                          その数時間後に火砕流による自然のダムは決壊し、大泥流洪水となって吾妻川沿いの村々を襲った。                                       この大泥流洪水の被害報告が、『天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳』天明三年七月あさまやけどろおしりゅうしつじんばかおくひがいかきあげちょう として記録に残って いる。                                この大泥流に流されてきた噴火による小山のような岩塊が、渋川市の吾妻川沿いの通常の水面から10メートル近く高い岸辺に流れ着いて、「浅間石」と名付けられて現存している。わたしは現地で浅間石の確認をしている。                      吾妻川・利根川沿岸55か村におよぶ被害は、流死1624名、流失家屋1511軒であった。                                       ちなみに、渋川村の上流隣村の川島村は、流死76名、流失家屋113 軒、流死馬36頭であり全滅状態であった。                              

ただし、渋川村の被害は「くるま流 田畑少々流水入 人壱人流」(くるまながれ、でんばた少々ながれ、みずいる、ひと一人ながる)となっており、流死者はたった一人であった。こうした事実は セッション後の検証で判明した。                   この流死者こそタエだと推測できる。                        また、「くるま流れ」の「くるま」は、渋川村上郷から吾妻川の橋のある川原までタエを乗せて運んだ大八車だと推測できる。

稲垣:火が渋川村から見えますか?

里沙:うん。

稲垣:噴火の火がみえますか?

里沙:フンカ?

注:天明の頃に「噴火」という用語は無く、浅間山の噴火を「浅間焼(あさまやけ)」と表現している。

稲垣:噴火って分かりませんか? (里沙頷く)分からない。火が山から出てるんですか?

里沙:熱い!

稲垣:煙も見えますか?

里沙:は、はい。

稲垣:じゃ、灰みたいな物は降ってますか? そのせいで農作物に何か影響が出てますか?

里沙:白い灰が毎日積もります。

注:渋川市は浅間山の南東50Kmの風下に位置する。天明三年六月(旧暦)から断続的に噴火を続けた浅間山の火山灰が1メートルを超えるなど相当量積もったことは事実である。

稲垣:どのくらい積もるんでしょう?

里沙:軒下。

稲垣:軒下までというと相当な高さですね。単位でいうとどのくらの高さですか? 村の人はなんて言ってますか?

里沙:分からない。

稲垣:軒下まで積もると農作物は全滅じゃないですか。

里沙:む、村の人は、鉄砲撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いても、雷神様はおさまらない。

注:当時の村人たちは、噴火にともなう火山雷を、雷神の怒りだと考えた。鉄砲を撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いてこれを鎮めようとしたことは当時の旅日記などに残されている事実である。              

稲垣:その結果なにが起きてますか?

里沙:龍神様は川を下ります。

注:浅間山は、当時龍神信仰の山であった。浅間山に住む龍神が、噴火で住めなくなって、浅間山麓の東を流れる吾妻川を下ると当時の村人は考えたのであろう。                             タエは吾妻川を下る龍神の花嫁として、川中の柱(橋脚)に縛られ供えられたと思われる。

稲垣:その結果どうなりました?

里沙:天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、あま、あま、あまつ、吾妻(あがつま)川を下るので ・・・水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります。

注:2006年10月放映のアンビリバボーでは上記の下線部分「上の村が水にやられるので」の台詞が消去されてしまっている。この台詞があると、タエが人柱になる理由 が渋川村を救うためではなく上流の村々を救うためになり、視聴者には人柱の理由が分かりずらくなる。タエが自分の住む渋川村を救うために人柱になる、としたほうが話の筋として納得されやすいとアンビリ側が考えたうえで事実の歪曲がおこなわれたものと思われる。ちなみに、「吾妻川」を知っていたのは7名のセッション立ち会い者のうち1名 だけであり、わたしも知らなかった。

稲垣:自分から志願したの?

里沙:そうです。きれいな着物を着て、(微笑む)②おいしいごちそう食べて・・。

稲垣:それをしたかったのですか? でも、命を失いますよ。それでもいい?

里沙:村のために・・・。

稲垣:誰か勧めた人がいますか?

里沙:おとっつあん。

稲垣:キチエモンさんが、そう言ってあなたに勧めた。

注:7年後の再セッションで、キチエモンは、吾妻川上流の村々から生糸や野菜を買い入れ、吾妻川を舟で運んで交易をしていたとタエは語っている。そのための舟着場を持っていた。キチエモンは交易相手の上流の村々を水害から救うために、人柱を必要としたと推測できる。記録によれば、渋川村の被害は「くるま流 田畑少々水入 人壱人流」(くるまながれ、でんばた少々ながれ、みずいる、ひと一人ながる)となっており、流死者はたった一人であった。 

タエは渋川村を救うための人柱ではなかったのである。           

 

里沙:恩返し。みんなのために(微笑む)③うれしい。
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このセッション逐語録の話者「里沙」を「タエ」に置き換えて違和感があるでしょうか。
 
わたしには「タエ」であったときの前世の記憶を、「里沙」さんが想起し話している、として解釈することに大きな違和感を感じました。

ありのままに受け取れば、里沙さんが自分の前世であった「タエの記憶 」を想起して語っているのではなく、「タエという人格自身」が里沙さんの口を借りて、自分の人生を語っている、と受け取ることがごく自然であると思われました。

つまり、タエの人格そのものが、被験者里沙さんの肉体を借りて顕現化し、自分の人生を語っているのではないか、という直感が湧き起こったのです。
 
そして、里沙さんの口調は、実年齢47歳でありながらまさに16歳の少女としか思われないものに変化していました。

この思いは、下線を引いた(微笑む)という里沙さんの表情①~③の個所でより強い実感になっていったのです。(注:you-tube公開の「タエの事例」動画参照)

微笑んでいるのは里沙さん自身の表情ですが、微笑ませている主体は、里沙さんではなくタエの人格そのものではないかと思われました。
 
事実、セッション中のわたしの意識は、被験者里沙さんではなく、里沙さんとは別人格のタエの人格を対象にして対話していたのです。

里沙さんの肉体は、前世人格タエが顕現化するための媒体ではなかろうか、という現象学的発想と問題意識が生まれた瞬間でした。                

しかし、仮に前世人格の顕現化現象を認めるとして、2005年当時の前世療法では、前世人格の顕現化という発想を持った前世療法は皆無でした。(2023年現在も同様)     

 

そして、仮に前世人格の顕現化現象を認めるとして、ではその前世人格タエはいったいどこから顕現化してくるのか、脳内からなのか 、脳以外の場からなのか。

肉体の臓器である脳は、死後消滅します。

当然脳内(海馬)に保存されていた現世の記憶も無に帰することになります。

にもかかわらず、脳内から前世の記憶が想起されることは論理的にありえないことになります。

そして、 記憶だけが死後も消滅せずどこかに存続している、という科学的実証はありません。

 

となれば、前世の記憶は、フィクションでしかないことになります。

 

SAM前世療法の成立以前、2004年に立命館大学で開催された「日本催眠医学心理学会」・「日本教育催眠学会」の合同学会で、「前世の記憶を想起させた前世療法」としてわたしの実践事例を発表した研究討議でも、大学の催眠研究者、医師など60名余りの参会者の意見の大勢は、前世の記憶はフィクションでしかない、として批判を受けました。(『前世療法の探究』春秋社、PP.137-148)

 

ただし、この時点で「タエの事例」は、『前世療法の探究』に掲載されていませんし、フジTV「アンビリバボー」で放映されてはいません。

 

しかし、おそらく19年を経た現在でも、アカデミックな催眠関連学会の生まれ変わりについてのこうした見解は、ほとんど変化してはいないだろうと思われます。

 

日本のアカデミズムでは、生まれ変わりや前世の存在を研究対象に取り上げること自体が、オカルト扱いされ、特殊専門科学として論及する立場にはない、という了解ないし学問的禁欲があると思われます。

 

催眠中にあらわれる前世の記憶の真偽について、生まれ変わりの科学的研究の泰斗、イアンスティーヴンソンは、みずからの前世療法催眠実験の結果について次のように述べています。

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前世の記憶 らしきものをはじめからある程度持っている者に催眠をかければ、細かい事実を他にも思い出すのではないか、とお考えになるかもしれない。             私自身もそのように考えたため、自然に浮かび上がった前世の記憶らしきものを持つ者に催眠をかけたことがある。                              この人たちの持つ記憶らしきものは前世に由来しているかも知れないが、特に地名と人名については、事実かどうか確認できるほど明確に語ってはいなかった。          催眠状態なら、人物や場所の名前を一部にせよ正しく思い起こしてくれるかもしれないし、そうすれば、この人々の記憶に残っているという前世人格の存在が確認できるのではないかと考えたのである。                                私はこのような実験を13件自らおこなったり指導したりしている。          一部では私自身が施術をおこなったが、それ以外は他の術者に実験を依頼した。      その結果、ただの1件も成功しなかった。                      (イアンスティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP.79-80)

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そもそも、意識が脳から生み出されるという科学的実証はいまだにないわけですから、この問題の判断は留保としておくしかありませんでした。

 

この4年後、SAM前世療法を開発した2008年に、SAM前世療法を用いて魂表層からタエの再顕現化実験をおこない、タエの人格自身が、魂表層から顕現化しているという意識現象を確認しています。                                      

 

このことは、前世人格タエは、たまたま憑依した第三者の憑依霊などではなく、里沙さんの魂表層を居場所にしている前世人格であることの証左であるととらえています。

 

同時にSAM前世療法の技法にしたがえば、前世人格の再顕現化が可能であることの実証であり、SAM前世療法は、「再現性の保障」という科学性の条件の一つを満たしていると思います。

 

ちなみに、「前世の記憶」として扱った事例で、これは「前世の記憶」ではなく「前世人格そのものの語り」ではないかと思われた先駆的事例3例(亜由美の事例、佳奈の事例、佐恵子の事例)を拙著『前世療法の探究』PP.50-136で紹介しています。
 

こうして、前世人格顕現化の問題はひとまず棚上げし、「タエの記憶」として語られた前世の内容を徹底的に検証した結果を紹介した『前世療法の探究』を春秋社から2006年5月に出版しました。                      

 

管見するかぎり、少なくとも日本においては、前世の記憶を想起するという前提の前世療法によって、語られた前世の記憶を科学的検証にかけ、「前世の記憶」の存在がフィクションではないことを実証しようと試みた書籍類は、現在においても拙著以外に知りません。

 

前世人格の顕現化現象を認めるとして、ではその前世人格はいったいどこから顕現化してくるのか、脳内からなのか 、脳以外の居場所からなのか、この問題意識への執拗なこだわりこそ、その後のわたしの探究の原動力でした。

 
 
2  わたしあて霊信現象との遭遇(2006年1月~2月)
 
 
006年12月末、『前世療法の探究』を読んだ、当時26歳の東京在住の派遣社員であったM子さんから、拙著についての感想メールが届きました。             
 
続いて、翌2007年1月11日~2月14日の1ヶ月間、このM子さんを霊媒として、パソコンの自動書記によるわたしあての霊信が毎夜届くという超常現象が起こりました。                               
 
このわたしあて全霊信は、『SAM催眠学序説 その47~72で公開しています。

2007年1月23日の第11霊信で

「前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。あなたの療法は、あなたにしかできないものになる」と告げられ

そして、同じく第11霊信で、「あなたが探究すべきものは、これまでよりもさらに深奥にあるものである」と通信霊は告げていますから、第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信の回答は、「これまでよりもさらに深奥にあるもの」を示唆しているのであり、わたしが「探究すべきもの」であると思われました。

第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信における通信霊の、魂・脳・意識・心、の関係性についての難解な諸回答をまとめると次のA~Dのようになります。

A 「脳」「意識」を生み出していない。

B 「意識」を 生み出しているものは、「魂の表層」を構成している前世の者たちである。つまり、前世の者たちは「魂の表層」に存在している。したがって、「魂」は、中心(核)となる意識体と、その表層を構成する前世の者たちとの「二層構造」となっている。

C 「魂表層」の前世の者たちによって生み出された「意識」は、肉体を包み込んでいる「霊体」に宿っている。霊体はオーラとも呼ばれる。

D 「魂表層」の前世の者たちは、互いにつながりを持ち、友愛を築き、与え合うことを望んでいる。つまり、前世の者たちは、死後も「魂表層」で相互に交流を営んでいる。加えて、魂の表層には、「現世のわたし」の人格を担う者が位置付いている。

こうした霊信内容は、わたしの問題意識に対して大きな示唆を与えるものとなりました。
後にこれら霊信内容を作業仮説にしてSAM前世療法を創始することになりました。  

 

3 M子セッションとの出会い(2007年1月


 

こうした霊信を受け取っている最中の2007年1月27日、わたしは、霊信受信者M子さんの自動書記による霊信現象の真偽と、M子さんとわたしの前世での関係性を探るためのセッションをわたしのほうからお願いしました。

当時M子さんは26歳の派遣社員でした。

 

以下はM子さんとのセッションの逐語録の抜粋です。
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M子:(毅然とした別人口調で)今はその必要はありません。

注:この別人口調の話者はM子さんの守護霊だと思われる。
 

稲垣:どうしたらいいでしょう? 
わたしにできることは、仕事としては「そのもの」を癒すということが必要ではありませんか?

M子:「そのもの」ではなく、あなたが今日、癒すべきものはM子という存在であり、アトランティスでの過去世について深く触れることは今日はできない。
だが、あなたは先ほど癒した傷ともう一つ、あなたが知らなければならない傷がある。だが、その傷は癒され始めている。それは、直接あなたと過去世で関わり合う者であり、「その意識」は、先ほどからあなたを見詰めている。

稲垣:そうですか。

M子:その幼子は、あなたへと伝えたい言葉をずっと胸のうちに秘めていた。

稲垣:残念ですが、わたしにはそうした存在と交信する能力がありません。
M子さんに代弁してもらえますか? その幼子の言葉を。
M子さんが霊媒となって、訴えてる幼子とわたしとの仲立ちになってくだされば、その幼子を癒すことができるかもしれませんが。

注:このあとM子さんの過去世である幼子の口調に変わって話す。                 

M子:先生!・・・先生、ありがとう。(泣き声で)ぼく、先生を悲しませて、ごめんなさい。

稲垣:分かりました。で、あなたは何をしたんですか?

M子:(泣き声で)ぼくだけじゃなくて、みんな、みんな死んで、先生泣いたでしょ。
ぼく、先生が、ずっとずっといっぱい大切なことを教えてくれて、先生、ぼくのお父さんみたいにいっぱいで遊んでくれて、ぼくは先生のほんとの子どもだったらよかったと思ったけど、でも、死んだ後に、ぼくのお父さんとお母さんがいてね、先生は先生でよかったんだって・・・。
でも、ぼく、先生に、先生が喜ぶこととか何もできずに死んだから、ぼく、ずっとね、先生に恩返ししたいってずっと思ってて・・・このお姉ちゃんは、ぼくじゃ ないけど、でも、先生とお話したりできるのは、このお姉ちゃんだけだよ。でも、ぼくも、ずっとこのお姉ちゃんと一緒だから、だから、ぼくのこと忘れないでね。

注:この幼子「ぼく」は、M子さんの魂表層を構成している前世人格の一つとして存在し、魂表層から顕現化し、現世のM子さんの肉体を借りて自己表現していることを示している。つまり、このセッション1年後に成立するSAM前世療法の前駆的現象である。

稲垣:分かりました。きっと忘れませんよ。
それからあなたがね、こうやって現れて、直接あなたの声を聞く能力は、わたしにはありません。
でも、そのうちにそういう能力が現れるかもしれないと霊信では告げられています。ですから、そのときが来たら存分に話しましょう。
先生は忘れることはないだろうし、あなたからひどい仕打ちを受けたとも思っていません。だから、あなたはそんなに悲しまないでください。

M子:ぼくは、先生に「ありがと」って言いたかった。

稲垣:はい。あなたの気持ちをしっかり受け止めましたからね。
そんなに悲しむことはやめてください。先生も悲しくなるからね。

M子:うん。

稲垣:あなたは片腕をなくしていますか?

M子:生まれつき右腕がないんです。でも、先生は、手が一本だけでも大丈夫だっていつも言ってくれた。

稲垣:そうですか。今、あなたが生きている時代はいつ頃でしょう。
わたしには、それも見当がつかない。西暦で何年くらいのことか分かりますか?
 

注:この後、幼子が大人の男性的口調になり、霊的存在が憑依したと思われる。    

M子:紀元前600年。

稲垣:どこのお国でしょう?

M子:・・・プ、プティアドレス。

稲垣:それは地球上にあった国ですか? ほかの惑星ですか?

M子:それは地球にあり、前後の違いにより、今は別の地名として伝えられている。

稲垣:日本ではないようですね。中近東とかヨーロッパですか?

M子:違う。

稲垣:中南米とか南米でしょうか?

M子:南米に近いが・・・パレンケ・・・パレンケ・・・。

注:パレンケ (Palenque) は、メキシコに現存するマヤ文明の古代都市遺跡で、メキシコの世界遺産の一つである。                              ユカタン半島の付根にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた都市の遺構(ウィキペディアの記事より)。                      わたしの前世の一つとして、古代都市パレンケの孤児院の教師をしていた、ということらしい。                                       うがった見方をすれば、わたしあて霊信の受信者M子さんは、当然のことながら霊信の告げた魂の仕組みについて知っているので、それに合わせて、彼女の前世であるマヤのパレンケの片腕のない少年の話を、無意識的に創作して語ったという解釈も可能であろう。     

しかし、彼女が、パレンケ遺跡について知っていた可能性は、ほぼ棄却できる。     したがって、わたしはM子さんの創作説を採らない立場であるが、残念ながらこのパレンケの片腕のない少年および、教師であったわたしの存在の真偽を検証することは不可能である。ちなみに、当時26歳であったM子さんとは、2007年1月27日のセッションで会ったのが最初で最後で、その後メールのやりとりが断続的に続いたが、2008年以後2023年の現在まで、彼女のメール連絡先も携帯電話先も不通になり、完全に連絡手段は途絶えたままである。手を尽くしてみたが、彼女の居場所、状況などの消息も一切不明となっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、このM子さんのセッションで注目すべきは、M子さんの前世として現れた少年の存在です。

「このお姉ちゃん(注:M子さんのこと)は、ぼくじゃ ないけど、でも、先生とお話したりできるのは、このお姉ちゃんだけだよ。でも、ぼくも、ずっとこのお姉ちゃんと一緒だから、だから、ぼくのこと忘れないでね」

と語っている片腕のない少年「ぼく」の語りです。
少年「ぼく」は、この「お姉ちゃん(M子さん)」じゃない別人格ではあるけれど、稲垣と会話できるのはM子さんだけだ、そして、少年「ぼく」はずっとM子さんとずっと一緒にいる、と語っています。
 

この語りだけに注目すると意味不明ですが、このセッションの直前の霊信が告げていること、すなわち前掲の第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信の告げた内容のうち

B 「意識」を 生み出しているものは、「魂の表層」を構成している前世の者たちである。つまり、前世の者たちは「魂の表層」に存在している。

と照合して意訳してみると、 少年「ぼく」は、死後もM子さんの魂の表層で、M子さんとともにずっと存在しており、「ぼく」は、彼女の魂の表層から顕現化した前世の人格なのだ。 だから、「ぼく」自身は、現世のM子さんではない。彼女の魂表層に存在している前世の「ぼく」は、彼女の肉体を借りて顕現化でき、稲垣とお話できるということになります。

M子さんが、自分の前世である古代都市パレンケの片腕のない少年「ぼく」であった「記憶」を語っているのではなく、まさしく前世人格である少年「ぼく自身」が顕現化し、M子さんの口を借りて、自分の思いを語っていると受け取らざるをえないのです。                                そして、26歳の
M子さんの口調は、少年そのものでした。

2005年当時「タエの事例」において、里沙さんが自分の前世であった「タエの記憶 」を想起して語っているのではなく、「タエという前世人格自身」が里沙さんの口を借りて、自分の思いを語っている、と受け取ることがごく自然であるという直感は、この少年「ぼく」の語りによって、はっきり裏付けられたと思われました。                             

のちにこうした現象を「自己内憑依」と名付けています。               

つまり、魂表層の前世人格の顕現化とは、「生まれ変わりである現世の者の肉体に憑依して自己表現している」ということに他ならないということです。

 

このM子さんのセッションの4日前、2007年1月23日の第11霊信で告げられた

「前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。あなたの療法は、あなたにしかできないものになる」

という予言は、「クライアントが前世の記憶を想起する」という一般の前世療法の前提とはまったく異なり、「クライアントの肉体を借りて顕現化した前世人格自身が対話する」という前提でおこなう、わたしにしかできない独自・固有の前世療法の創始を意味しているのだ、と思わざるえない事態が起きたのです。

こうして、これまでの前世療法とまったく前提を異にした、「魂の表層を構成している前世人格自身を呼び出し対話する」という作業仮説による新たな方法論と技法による前世療法を構築する試行錯誤が、その後2007年春から1年間にわたって続きました。
 

やがて、2008年春には、クライアントを「魂状態の自覚」へと誘導する世界に類のない新たな催眠誘導技法によって、魂の表層に存在している前世人格を呼び出すことが、9割の確立で成功することが可能であることが明らかとなりました。

この前代未聞の作業仮説による前世療法を、従来の「前世の記憶を想起する」という前世療法とは明確に識別するために、また、この前世療法が霊的であるがための誤解・偏見によって歪められ誤った形で流布されることを防ぐためにも、2008年春に「SAM前世療法」と命名し、商法登録をすることにしました。
 

SAM」とは、Soul Approach Methodの略です。
つまり、魂の状態にアプローチする方法による前世療法という意味を込めた命名です。


4 「ラタラジューの事例」との出会い(2009年5月)


そして、前世人格を呼び出し対話するというSAM前世療法の仮説を、自信をもって掲げることができた事例こそが、翌2009年5月におこなった応答型真性異言の実験セッション「ラタラジュー の事例」でした。

「ラタラジューの事例」は、SAM前世療法独自の誘導技法にしたがって被験者里沙さんを魂状態の自覚まで誘導し、魂の表層から顕現化した前世の人格です。

顕現化した前世人格のラタラジューは、ネパール人の対話相手のカルパナさんと応答的に真性異言であるネパール語で25分間対話しています。

被験者里沙さんが、ネパール語を学んでいないことは、ポリグラフ検査の鑑定によって明らかになっているので(後述) 、ネパール語で対話したラタラジュー人格は明らかに里沙さんとは別人格である前世人格です。

しかも、ラタラジュー人格は、現代 ネパール語ではほぼ死語となっている「swasni、スワシニ(妻)」、「ath・satori、アト・サトリ、8と70(78)」といった古いネパール語単語や古い数の数え方を用いて対話をしています。

また、ネパール語の文法では、主語の人称に対応して「です」に当たる助動詞が、一人称では「hu(フ)」、二人称では「hunuhuncha(フヌフンチャ)」、三人称では「ho()」のように変化しますが、ラタラジューはこれを正しく使い分けて会話しています。                                             

さらに、ラタラジューという名前は、ネパールでは一昔前には使われていたそうですが、現在ではほとんど使われていない人名だということです。         

 

ちなみに、里沙さんがネパール語を学んでいたのかどうかの有無を、「日本法科学鑑定センター」の荒砂正名氏(元大阪府警科学捜査研究所長)に依頼し、2時間半にわたるポリグラフ検査を実施しました。                        

その結果、彼女がネパール語を学んだ記憶の形跡は一切ない、という鑑定書の発行を得ています。

 

そして、里沙さんが、小・中・大学・近隣で、ネパール人との交際や接触が一切ないことも、綿密な聞き取り調査によって確認しています。

こうして、ネパール語を里沙さんが秘かに学んでいた形跡は一切ないのです。

 

 さらに、ラタラジューは対話相手のネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と問いかけ、そうです、という返事に対して、「お、お、・・・」と喜びを表明し、明らかに現在進行形の対話をしています。              

 

これは、ラタラジュー人格が、ただいま、ここに、被験者里沙さんの肉体を借りて憑依し、自己表現している、としか解釈できないのではないでしょうか。

前世人格ラタラジューは、次のような、現在進行形のきわめて象徴的な対話をしています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

:KAはネパー人対話者カルパナさん


里沙:  Tapai Nepali huncha?         
   (あなたはネパール人ですか?)

KA:  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)

里沙:  O. ma Nepali.
   (おお、私もネパール人です)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
この短いやりとりの重要性は、ついうっかり見落とすところですが、現れた前世人格のありようについて、きわめて興味深く示唆に富むものだと言えます。

つまり、前世人格ラタラジューのありようは、ネパール語話者カルパナさんに対して、現在進行形で「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、ただ今、ここで、問いかけ、その回答を求めているわけで、「里沙さんの潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示しています。

ラタラジューは、前世記憶の想起として里沙さんによって語られている人格ではないのです。
里沙さんとは別人格として、ただ今、ここに、顕現化している、としか考えられない現象です。

この現象は「別人格である前世のラタラジューが、里沙さんの肉体(声帯と舌)を用いて自己表現している」と解釈することが自然な解釈ではないでしょうか。
 

つまり、ネパール語で応答型真性異言を話している主体は、里沙さんではなく、別人格であるラタラジュー人格そのものとしか解釈できないということです。

換言すれば、 前世人格ラタラジューが、里沙さんに「自己内憑依」しているということです。
 

自分の魂の内部に存在している前世人格が、自分に憑依して語る、などという憑依現象はこれまで知られていません。
そこで、SAM前世療法では、前世人格の顕現化という憑依現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしています。

この現在進行形でおこなわれている会話の事実は、潜在意識の深淵には魂の自覚が潜んでおり、魂の表層には前世のものたちが、今も、意識体として存在している、というSAM前世療法独自の作業仮説が正しい可能性を示している証拠であると考えています。

ちなみに、応答型真性異言の研究をおこなったイアン・スティーヴンソンも、「グレートヒェンの事例」について、顕現化したドイツ人少女グレートヒェンについて次のように述べています。

「私自身はこの被験者を対象にした実験セッションに4回参加しており、いずれのセッションでも、トランス人格たるグレートヒェンとドイツ語で意味のある会話をおこなっている」
(イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳 『前世の言葉を話す人々』春秋社1995、P.9)

ドイツ語を話す人格をどのように位置づけるか・・・
(前掲書P.10)

 「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出だそうと試みた」
(前掲書P.11)

応答型真性異言で対話したグレートヒェンを、被験者の「前世の記憶」として話したのではなく、「前世の人格」グレートヒェンとして顕現化したのだ、と判断しています。
ただし、イアン・スティーヴンソンは、そうした前世の人格が、どこから顕現化しているかについては一切言及していません。

 

「グレートヒェンの事例」の前世療法臨床に立ち会ったスティーヴンソンが、グレートヒェンの語りを被験者の前世の記憶ではなく、トランス人格であるグレートヒェン自身の顕現化であるととらえていることに、わたしが勇気づけられたことは言うまでもありません。                          ちなみに「トランス人格」とは、催眠中に現れた別人格の意味です。

以上縷々述べてきた5年間の経緯によって、SAM前世療法おいては前世の人格と対話する、という明確な見解と仮説を掲げるに至ったというわけです。

「心搬体(サイコフォア)と「魂」について


SAM前世療法では、「前世の人格そのものを呼び出し対話する」という仮説に基づいてセッションを遂行します。

したがって、肉体の死後も無に帰することなく存続し、生前の人格・個性・記憶など心的要素を来世へと運搬する意識体の存在を前提としています。
 

生まれ変わりには、志向性がなく無目的で偶発的に起こるものではない、とすれば、なんらかの志向性を帯びて死後存続する意識体の存在を想定しないと、生まれ変わりを繰り返すという現象の説明が完結できません。

そして、なんらかの目的性・志向性を帯びて、生前の心的要素を運搬し死後も存続し続ける意識体を、SAM催眠学では「」と呼ぶことにしています。
 

同様に、イアン、スティーヴンソンも「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を『心搬体(サイコフォア)』と呼ぶことにしたらどうかと思う」と提案しています。(イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、P.359)

ただし、スティーヴンソンのいう心搬体(笠原敏雄氏の訳語)は、生まれ変わりを繰り返したすべての諸前世の、心的要素によって構成されている、とは述べていません。
また、心搬体になんらかの志向性や目的性のあることにも触れてはいません。

スティーヴンソンは、「私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているかはまったく知らないけれども、肉体ない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化していくのではないかと思う」
(前掲書P.359)と述べているだけです。
そして、心搬体は変化していくのではないかと思うとその変化の可能性に言及していますが、心搬体の変化になんらかの志向性や目的性のあることには触れてはいません。

こうして、スティーヴンソンのいう心搬体は、なんらかの構成要素によって成り立ち、変化していく可能性のある意識体であることが含意されていると推測できるでしょう。

心搬体とは、いわゆる(肉体に宿って精神作用をつかさどるもの)の言い換えでしょうが、「魂」という用語につきまとう宗教臭を払拭するために、科学的中立性の意味を強調した新しい造語の「心搬体」という用語をあえて提案していると思われます。
 

したがって、心搬体の変化に関わるなんらかの志向性や目的性に触れることは、宗教臭を与えるおそれがあり、彼はそれに触れることをあえて自制しているのだと推測しています。

スティーヴンソンの生まれ変わり研究の論述は、緻密かつ慎重で抑制的です。  したがって、いわゆる学問的禁欲が働いていると思われます。            

 

しかし、あえて言うなら彼には、霊信現象による魂と生まれ変わりについての開示を受けた体験がなかったからではないかとも推測しています。

 

これに対し、SAM催眠学の「魂」は、なんらかの目的性・志向性を持った中心(核)となる意識体と、その中心(核)となる意識体の表層を、生まれ変わりをしてきた諸人格によって構成された二層構造になっていると定義しています。

この魂の「二層構造仮説」を単純化した立体モデルにたとえると、魂はミラーボールのようなものになります。
中心となる球体(中心(核)となる意識体)と、その表面に貼り付いている1枚1枚の鏡の断片(生まれ変わりをしてきた前世の諸人格)から、魂は構成されているというわけです。

この「魂の二層構造仮説」は、わたしあて霊信の告げてきたそのままの内容を作業仮説に採用し、その仮説の検証をおこなってきたSAM前世療法によって確認された「意識現象の事実」の累積をもとに提唱しているものです。

なお、 SAM催眠学の定義している「魂」にも、宗教的意味合いは一切ありません。

一般におこなわれている前世療法は、クライアントのどこか(脳内?)に保存されていると思われる「前世の記憶」をイメージとして想起するという前提でセッションをおこないます。

それでは、SAM前世療法で扱う対象が、「前世の人格」でなければならない合理的理由はどこにあるのでしょうか。
 

わたしの主張している、「前世人格」を顕現化させて対話する、という仮説は、けっして奇を衒っているわけではありません。
こうした仮説にたどりつく必然性の経緯があったということです。

なぜ、「前世の記憶」では不都合なのでしょうか。
このことは、SAM催眠学における中核的かつ本質的で重要な問題です。

わたしが、SAM前世療法おいては前世の人格と対話する、という明確な見解と仮説を持つに至った2005年~2009年の5年間に起きた経緯については述べてきたとおりです。

 

6 生まれ変わりの志向性についての考察

 

こうして、セッションであらわれた「意識現象の事実」の15年間の累積から、わたしが、魂と生まれ変わりの実在を認める立場を主張している理由は、

それら「意識現象の事実」を、魂の存在や生まれ変わりの証拠として認めることが直感に著しく反していないからであり、

魂と生まれ変わりを事実として認めることが、不合理な結論に帰着しないからであり、

前世人格の顕現化という霊的現象(とりわけ応答型真性異言現象)が、唯物論によってどうしても説明できないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、霊信の告げた魂の二層構造を前提として導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識をどんどん遡行していくと、「意識現象の事実」として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。
 

この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることが、クライアントの「意識現象の事実」として明らかになっています。

ラ タラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが応答型真性異言で会話した事実を前にして、魂や生まれ変わりの実在を 回避するために、深層心理学的概念を駆使してクライアントの「意識現象の事実」に対して、何としても唯物論的解釈でおさめようとこだわることは、現行科学の知の枠組みに固執した不毛な営み だ、とわたしには思われるのです。

魂状態の自覚、そこであらわれる前世人格の顕現化という「意識現象の事実」に対して、事実は事実としてありのままに認めるという現象学的態度をとってこそ、霊的意識現象の探究を実りあるものにしていくと思っています。
 

そして、クライアントの示す「意識現象の諸事実」は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
 

魂と生まれ変わりの実在を認めることを非科学的だと回避する立場で、あるいは魂や霊的現象はすべて妄想だと切り捨てて、どうやって顕現化した前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得できる説明ができるのでしょうか。

わたしの主張する「魂」の存在を想定せずに、「臨死体験」や「前世の記憶」を説明しようとする理論に量子論を援用した理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフに よって提唱されている「量子脳理論」があります。

 「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。                            そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、 体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」
 
という主張(仮説)が「量子脳理論」による「臨死体験」と「生まれ変わり」の説明です。

イアン・スティーヴンソンの後を継いだバージニア大学のジム・タッカーも、量子脳理論に同調していると思われ、スティ-ヴンソンの提案している、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する心搬体という媒体を想定する」という生まれ変わりの説明概念を放棄しているようで、次のように述べているようです。

量子論の創始者であるマックス・プランクなど、一流の科学者は物質よりも意識が基本的であると語りました。                               つまり、意識は脳が生み出したのではないのです。                  脳や肉体の死後も意識は生き残り続けます。意識は量子レベルのエネルギーです。    ですから、意識は前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に貼り付くのです」

 ジム・タッカーが、イアン・スティーヴンソンの提唱している生まれ変わりの説明概念である、「心搬体」という媒体の存在をなぜ考慮せず、なぜこのような量子論による考え方に至ったのかの合理的根拠も、理由も不明です。
 

「心搬体」のような霊的媒体を想定した説明より、最新物理学の量子論による唯物論的説明のほうが、科学的で説得力があるのだと考えているのでしょうか。
あるいは、「心搬体」も意識体として、次の肉体に宿るまでの間、量子レベルのエネルギーの形でどこかに存在していると考えているのでしょうか。
 

そもそも、「意識」がどこで生まれるかが分かっていない現時点で、「意識は量子レベルのエネルギー」だとなぜ断定的に言えるのでしょうか。

ハメロフやタッカーの言う「意識」とは記憶であり「情報」です。
応答型真性異言の応答的会話は、「情報」には還元できない暗黙知である「技能」です。

「意識・情報」の伝達は量子論で説明できても、「技能」の伝達が量子論で説明できるとは思われません。
 

したがって、会話技能の発揮である「応答型真性異言」現象は「量子脳理論」では説明できません。
 

言語に置き替え可能な「記憶情報」と、言語に置き換え不可能な暗黙知である「技能」との決定的に重要な相違を無視したかなり粗雑な考え方が、「量子脳理論」だと言うほかありません。

この事実を前にすれば、「量子脳理論」による生まれ変わりの説明が破綻していることはすでに明らかです。
 

わたしに言わせれば、現時点で「量子脳」の実在が実証されているわけではなく、量子脳という唯物論的観念論による検証不能な「説」の域を出るものではないと思っています。

量子として宇宙にあり続ける膨大な死者たちのうちの誰かの意識が、偶然に現世の誰かの肉体(脳)と結び付くことを「生まれ変わり」だと言うのであれば、霊信が告げ、これまでに模式図で提示した「死後も存続する魂が、ある目的・志向のもとに新しい肉体に宿る」ことを「魂の転生」と呼び、生前は現世人格であった者が肉体の死後は前世人格となり、新たな現世人格が魂表層に位置付くことを「生まれ変わり」と呼ぶとする、SAM前世療法の作業仮説に則れば、量子脳理論を受け入れることはできません。

意識は量子レベルのエネルギーであり前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に貼り付くということが事実であれば、それは、「たまたま脳に貼り付いている誰かの前世記憶が蘇っただけの現象」というべきでしょう。
 

魂の存在を排除し、生まれ変わることに目的性や志向性は一切なく、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的に、たまたま、誰でもよかった誰かの脳に貼り付き宿ること、この偶然の繰り返しが「生まれ変わり」であるとすることを、SAM前世療法セッションで確認してきた「意識現象の事実」から、認めることはできません。

なぜなら、SAM前世療法のセッションにおける「意識現象の事実」として確認してきた、何らかの目的性・志向性を帯びて死後存続する魂が、その器である肉体の死後、次の新しい肉体に宿り、転生を繰り返している、という事実に反するからです。
 

また、わたしあて霊信の告げている転生する魂の仕組みに反しています。

魂表層から呼び出し、科学的検証を経ている「タエの事例」、「ラタラジューの事例」という「意識現象の事実」が、このことを実証しています。

宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的に、たまたま、誰でもよかった誰かの脳に貼り付き宿ること、この偶然の繰り返しが「生まれ変わり」であるとするなら、「生まれ変わり」は、無意味な、単なる偶然の産物であり、その繰り返しには、もともと意味や志向性など全くないということになります。

魂、ないし心搬体の存在を否定し、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的かつ偶然に、誰かの脳に貼り付き宿ることを生まれ変わりだとすれば、たとえば、現世の里沙さんにとって、もはや「ラタラジュー」も「タエ」も、何らかの目的・志向を帯びた魂が宿っていた人格とはいえず、現世の彼女とは一切のつながりのない、まったく無関係・無縁の死者である、タエやラタラジューの意識が、たまたま、偶然に、里沙さんの脳に貼り付いているだけだ、ということになります。

したがって、タエやラタラジューにも、何らかの目的・志向を帯びて死後存続する同じ魂が宿り、その同じ魂が現世では里沙さんに宿って転生していると、もはや言うことはできません。

「前世の記憶」と言う場合においても、「現世に生まれ変わっている私とは無縁ではなく、つながっているはずの前世であったときの記憶」という含意があるはずですが、タッカーの説いている脳に偶然貼り付いた前世の記憶(量子)では、「何らかの目的・志向のもとに生まれ変わった現世のわたしが、前世の人生を生きていたときの記憶」とは、呼べないことになります。

ただし、付言しておきますと、生まれ変わりの研究者の間でも合意されている「生まれ変わり」の明確な定義があるわけではありません。

SAM催眠学の「転生」と「生まれ変わり」を区別する定義は、「魂の二層構造仮説」から必然的に導き出されてきた「創出的定義」creative definition であり、これまでになかった定義です。
辞書的定義によれば、「転生」と「生まれ変わり」の意味の区別がなく、両者は同義語となっています。

SAM催眠学では、二層構造の魂全体が、その器であった生前の肉体の死後、何らかの目的・志向のもとに、新たな別の肉体(器)へと宿り替えすることを「魂の転生」と定義しています。

そして、魂の転生にともなって、魂の表層を構成していた「生前の現世の人格A」は、肉体の死後「前世の人格A」となって魂表層に位置付き、「現世を生きる肉体を持つ別人格B」が、魂表層の構成要素として新たに位置付くことを、「前世のAが現世のBへと生まれ変わる」と定義しています。

新しい理論(仮説)を構築すれば、それにともなって、これまでになかった新しい概念を意味する用語が必要になるのは当然のことです。
 

SAM催眠学で用いている、「魂の二層構造」や「自己内憑依」や「魂遡行催眠」などの用語が、それらの一つひとつです。

また、魂の転生と、それにともなって「前世の人格」が「現世の人格」へと生まれ変わるのは、惰性や偶然によるものではなく、魂が成長・進化するための目的性、志向性を帯びておこなわれている、これがSAM前世療法がこれまで確認してきた「意識現象の事実」です。

 

おわりに
 

このブログを開始してからの国内・国外の累積アクセス数は、現在31万回を超えています。
けっして読みやすい内容ではないにもかかわらず、これまでお読みくださった読者のみなさんに感謝いたします。
 

縷々述べてきましたが、「SAM前世療法」の誕生と、そのセッションの累積による「SAM催眠学」は、里沙さん・M子さん、霊信を告げたわたしの守護霊と守護霊団の諸霊、そして、イアン・スティーヴンソン博士の著書、恩師成瀬悟策医学博士のご著書とご指導、恩師上越教育大学教授杵淵俊夫教育学博士のご指導、拙著『前世療法の探究』の編集者鷲尾徹太氏の的確なご校閲などの諸恩恵なしには、展開できることがけっしてありえなかったことに深く感謝いたします。

また、濃尾平野の田舎町岐阜県可児市に在って、出版のような手間のかかる紙媒体によらず、わたしの主張をこうして一気に世界中に発信でき、読んでいただける、インターネット社会に生まれた恩恵にも感謝せずにはいられません。