2015年1月25日日曜日

「タエの事例」セッション逐語録3

    SAM催眠学序説 その37


ここから先は2006・10月のアンビリでは一切放映されていません。

私に言わせれば、生まれ変わりの真実を探究するとすれば、この先こそ重要なのです。
ここからはタエが魂として肉体を離脱したあとの、霊界(中間世)に在ったときの記憶を探るという形をとっています。
また、ここで初めての、催眠中における守護的存在の意図的憑依実験を試みています。
催眠を用いて、意図的に霊的存在を憑依させる、という試みを私はこれまで本で読んだことはありません。
ただし、ブライアン・ワイス 『前世療法』PHP、の中に「マスター」とワイスが呼んでいる高級霊が偶発的に被験者キャサリンに憑依するという現象が記述されています。
私はこの事例を知っていましたから、偶発的な憑依が起こるならば、意図的に憑依が起こせないか、と思ったのです。


注:THはセラピスト稲垣、CLは被験者里沙さんの略です。


TH:身体から抜けましたか? 抜けましたか? あなたはどこにいますか?

CL:・・・暗い。
注:この「暗い」所とは、臨死体験者が、体外離脱後、魂として霊界に向かう過程で共通して報告する「トンネル体験」だと思われる。里沙さんは、臨死体験関係の著作を読んだことは一切ない。

TH:じゃあ、その先へ行きましょう。・・・穏やかな気持ちで、今いますか?

CL:はい。

TH:もう暗くはありませんか?

CL:はい。

TH:どんなふうですか? 言葉にしにくいかもしれませんが、できるだけたとえてみたら、どんなふうですか?

CL:・・・うーん、明るい・・・光の、世界。
注:いわゆる「トンネル体験」を経て霊界(中間世)に至った記憶だと思われる。
 

TH:あなたには肉体はあるのですか?

CL:ありません。

TH:意識だけがあるのですか? 意識って分かりますか? 心。

CL:「わたし」です。

TH:「わたし」がいるだけ? 身体はないのですか? じゃ、あなたが男か女か分かりますか?

CL:分かりません

TH:ほかにも、あなたのように「わたし」だけという存在を感じますか?

CL:はい。

TH:その世界で何をしているのですか?

CL:・・・浮かんでいます。

TH:ずーっと永遠に浮かんでいるのですか?

CL:上へ上へと、行く。どんどん、光の中を。

TH:で、「わたし」という存在のことを、魂と呼んでいいのですか?

CL:はい。

TH:魂のあなたは、そこにずーっと居続けるわけですか?

CL:・・・入れ替わります。

TH:「わたし」が入れ替わるとは、また誰かに生まれ変わるということですか?

CL:はい。
注:この返答は後になると「分かりません」になっている。生まれ変わることについて、魂のタエは知っているのか、知らないのか判然としない。

TH:それまでその世界にいるわけですか。で、その世界の居心地はどうですか?

CL:気持ちいいー。

TH:また生まれ変わりたいと思わないくらい気持ちがいいのですか?

CL:・・・分かりません。・・・生まれ変わる?
注:あとで守護霊が語ったところによれば、里沙さんの魂は、タエが最初の人生である、したがって、タエのまえに前世はないということで、生まれ変わりの体験がないので、生まれ変わるという意味が分からないと答えていると解釈できる

TH:次に生まれ変わるのが、もう嫌というぐらい居心地がいいのですか?

CL:・・・分かりません。

TH:実は、その時間も空間も超越した世界のことを中間世って呼びます。そこには、あなたの次の人生を、どう生きたらいいのかを導いてくれる、偉大な存 在者がいると言われています。でも、その存在者がどんなふうかは私には分かりません。あなたには分かるはずです。その存在者とコンタクトはできますか?

CL:はい。

TH:その姿が見えますか?見えたらどんなふうか、お話してください。

CL:大きい人。髪と髭が白くて巻き毛で長い。眉も長い。鼻は大きい。目も大きい。 唇は厚い。

TH:異国の人ですか? そうではない?

CL:そうです。

TH:肌の色は?

CL:赤黒い。
注:セッション後の里沙さんの記憶では、この「偉大な存在者」が赤黒い肌に見えたのは、後光が差しており、逆光の中で顔の色が赤黒く見えたということであった。したがって、異国の人のような感じがしたということであった。

TH:どんな衣装を着けてみえますか?

CL:白い・・・マント? ・・・。

TH:ローブみたいなものですか?

CL:(頷く)

TH:その方はあなたのそばにみえますか? じゃ、コンタクトはとれますか?

CL:はい。

TH:じゃあ、私がいくつか尋ねるので、あなたからその方に尋ねて、答えをもらってください。そこでは言葉がいりますか?

CL:いりません。

TH:心で思ったことが、ストレートに相手に伝わるわけですか。(CL頷く)じゃ、尋ねます。あなたがわずか16歳で、みなし子として貧しい生活の中で 生きてきて、そして、みんなのための犠牲になって死ぬわけだけど、その短い人生で、あなたが学ばなければならなかったことは何でしょう?私から見る と、ただ悲しいだけの人生 に思えるんだけど。その方に聞いてみてください。なぜ、あなたはそんな人生を歩まなければならないのでしょう? 答えが返って きたら教えてください。
注:ここからは、魂となっているタエの霊界の「記憶」の想起ではない。「偉大な存在者」とタエの魂との現在進行形の対話に移行している。セラピーをおこなっ ている私は、「里沙さんがタエであったときの前世の記憶」とし扱っていたはずなのに、知らぬ間に、「タエが魂状態に在る現在」として扱っているという時制 の混乱を起こしている。
この奇妙な時制の混乱は、里沙さんが前世の記憶にあるタエを語っているのではなく、タエという存在は、里沙さんとは別に、今、ここに、顕現化している前世人格だ、という扱いを無意識的に私がしていることから生じている。
こうした分析がきっかけとなって、「前世の記憶」として扱うことから、「前世人格の顕現化」として扱うことへと考え方を大きく転回するSAM前世療法の理論的基盤が生まれることとなった。そして、このセッションから1 年半後、私あて霊信(2007,1,11~2,14)の告げた魂の二層構造によって、SAM前世療法の明確な作業仮説の骨格が与えられることになる。

CL:・・・みなのために、村を救う、みなを、幸せにするために、生きる人生だった。

TH:あなたは、今、満足していますか? 自分のタエという人生を振り返って。

CL:はい。

TH:もう一つ聞いてもいいですか。今度は、できればあなたの口を借りて、その偉大な存在者とお話することはできないでしょうか? 要するに、あなたに乗 り移るということですよ。直接にその方の言葉で、伝えてもらえないでしょうか? できなければ無理は言いません。できたら、それをやっ:てみたい。できます か?
注:この試みは、守護的存在との現在進行形の対話を企てたということになる。
この試みを提案した私は、明らかな自覚として、今、ここに、里沙さんに乗り移っ た(憑依した)守護的存在と、対面することを望んだのである。
もはや、里沙さんの前世記憶という扱いを放棄している。そして、里沙さんに霊媒としての役割 を担ってもらい、守護的存在と交霊しようと試みたということになる。

CL:・・・はい。


(その4に続く)

2015年1月18日日曜日

「タエの事例」セッション逐語録2

   SAM催眠学序説 その36

注:THはセラピストの稲垣、CLはクライアント里沙さんの略です。


TH:あなたが人のために犠牲になることをなんて言うんですか?

CL:お供えに。・・・馬も。馬。ばと様。ばと様。・・・馬頭観音様。
注:馬頭観音を「ばと様」と呼ぶことを里沙さんは知らない。里沙さんの周辺地域には馬頭観音を祀ってあることが稀である。なお、渋川市上郷良珊寺の僧侶よ り、現在でも「ばと様」という呼び方が現地に残っていることが確認出来ている。ちなみに、このときの私には、「ばと様」という意味がまったく理解できな かった。

TH:馬頭観音様と一緒に? ふーん。
タエがなぜ馬頭観音のことを持ち出したのか、このときには皆目見当がつかなかった。後の守護霊との対話で、雷神へのお供えとなる馬が暴れて口取りができないので、馬を鎮め守るためにタエの左腕を切り落とし上郷馬頭観音下に埋納したことが語られた。タエの「お供えに。・・・馬も。馬。ばと様。ばと様。・・・馬頭観音様」という語りは、馬頭観音に自分の左腕が埋納されたことを指している。


CL:雷神様は馬に乗ります。龍神様はわたしを乗せて行きます。

TH:龍神様というのは吾妻川のことですか?
注:2006年アンビリ放映では渋川市教委文化財保護課小林氏が、吾妻川を龍神に見立てたのであろう、という推測を述べているが、そうではなく、タエの言うように、浅間山に龍神が住まうと当時の村人は考えていたと思われる。吾妻川そのものを龍神と考えていたわけではない。浅間山に龍神信仰のあったことは、浅間山麓嬬恋村住人から確認している。

CL:浅間のお山に住む龍神様です。熱くて、住めないので、川を下ります。

TH:お山が熱くて住めないので、浅間山から川を下る龍神様に、あなたが乗るということですか。じゃ、今あなたはどこにいるのですか? 川の中ですか?

CL:はい。

TH:川の中でどんなふうにされているんですか?

CL:白い着物を着て、橋の柱に縛られています。
注:この橋は現存していない。史実によればタエの人柱以後、橋は架けられることなく渡し舟に代用(杢の渡し) された。当時の街道を結ぶ橋のあったことは事実で、その場所は現地調査で確認している。再セッションでは、雷神を乗せる馬も、タエとと もに橋の柱に繋がれていたと語っている。当然、馬も流されているはずであるが、渋川村の流失人馬の被害の中に、馬の記述はない。流されることが自明のことなので被害として計上されなかったと思われる。あるいは馬は助かった可能性もある。タエも同様に流死することが自明であったはずであるが、さすがに人の流死は伏せることができなかったのであろう。「人壱人流(ヒトイチニンナガル)」の記録がされている。

TH:それは自分から縛ってもらったのですか?

CL:はい。

TH:じゃ、川岸では誰かあなたを見守ってるでしょ?

CL:行者様。導師様。みんないます。
注:セッション後、現世の稲垣が、このときの「行者様」であったと里沙さんが告げている。2012年には別の男性クライアントのセッションでも、天明3年当時榛名山の樵であったという前世人格から、旅の行者であった現世の稲垣と出会ったと告げられている。不思議な符合であるが検証はできない。

TH:あなたの村では他にも犠牲になった人はいますか? 人々のために。あなたが第1号?

CL:いません。

TH:他の村でも、そういう話を聞きましたか? 人柱って言うんですよ。

CL:知らない・・・。・急ぐの・・・急ぐ。

TH:急ぐ?

CL:急ぐ! 時間がない。
注:天明3年7月8日(旧暦)午前10時頃浅間山大噴火の火砕流(鎌原火砕流)が吾妻川上流部に流れ込み、狭隘部で自然のダムとなり、下流の流れがところどころで一時的に止まっ た。やがてダムは決壊し、未曾有の大泥流が一気に流れ下った。下流の伊勢崎市には午後3時頃に押し寄せた記録が残っている。この史実から計算すれ ば、渋川村辺りに大泥流が押し寄せたのは、7月8日昼過ぎ前後であろうか。この泥流は、その後タエの人柱地点(杢の渡し)からすぐ下流の利根川との合流地点でも自然のダムを作ったと推測されており、一時的に泥流を堰き止めたので、干上がった河床で魚を獲ったという記録が複数残っている。

タエが「急ぐ!時間がない」と語っていることから、タエを人柱にすることは、旧暦7月初め以降に浅間山の噴火が激しさを増した頃から、すでに企てられており、タエを説得し、噴火に関わる何らかの激しい異変が起こったときには、いつでも人柱として送り出す下準備がされていたと思われる。前夜7月7日の大噴火と、翌8日午前に吾妻川の流れが一時的に数回止まる、というただならぬ異変が観測され、村人の狂騒状態の中で、慌ただしく、龍神の花嫁になるタエの酒宴が催されたのではなかろうか。そのあたりの事情を、水が止まっている時間は短いので、「急ぐ!時間がない」と語っているのだろうと思われる。

TH:それで、そうやって人のために犠牲になると、みんなが供養してくれませんか?
お地蔵さんかなにかに祀られませんか?
注:一般に人柱の犠牲者を供養するために、地蔵尊などに祀ることが多い。こうした供養の事実を地元郷土史家に調査していただいたが、タエの人柱供養のための 地蔵尊、供養塔などの言い伝えは渋川市には残っていないとの回答を得ている。上・下流の村々の多数の流死者被害に紛れて、タエの供養どころではなかったかもしれない。ただし、渋川村の流死者だけは「人壱人流(ヒトイチニンナガル)」となっている。他の村々の流死の記述は「人、○人」となっており、渋川村に限って流死者の数の後に「流」が付け加えられている。意味ありげな記述に思われる。

CL:分からない。

TH:あなたは自ら望んで、みんなのために、人柱になったのですね。

CL:(頷く)・・・うれしい。(微笑む)ごちそう食べて、白い着物着て。

TH:その着物って絹ですか?

CL:花嫁衣装。
注:タエは、やがて起こるであろう大泥流から上流の村々を救うために、浅間山から吾妻川を下る龍神の背に乗る花嫁として人柱になるという悲劇のヒロインに表向きには仕立てあげられたらしい。しかし、このセッション後、フラッシュバックして里沙さんにタエが語った内容には、人柱の裏に、義父母キチエモン・ハツには、タエを亡き者にしたいという企みもあったと推測できる。ここでは支障があるのでその事情に触れることができない。

そのタエを人柱に送り出すための酒宴が おこなわれたと再セッションでタエは語っている。そこで、タエはキチエモンに勧められるまま、意識朦朧となるまで酔わされたらしいとも語っている。

TH:花嫁衣装で。あなたは、今、何歳?

CL:16。

TH:16歳ですか。川岸にキチエモンさんの姿見えますか? それで川の水は増えているんですか?

CL:昼間だけど真っ暗で提灯が・・・ 分からない。
注:浅間山から東南東に50km離れている渋川村で、大噴火の噴煙で「昼間でも真っ暗で提灯が必要」というタエの語りは誇張のように思われる。しかし、当時の日記に東に60km離れている伊勢崎市でも「七月七日(旧暦)昼になっても暗夜のようだ」と記述されている。また東南東62km本庄でも「七日、14時 頃にわかに暗くなり闇となった。往来の人は提灯を使う」と当時の記録(『天明度沙降記』)にある。こうした史実に照らせば、タエの「昼間だけど真っ暗で提灯が」という語りが、真実を語っていることに間違いない。ちなみに、7月7日(旧暦)深夜に大噴火があり、吾妻火砕流が起きている。翌8日午前には鎌原火砕流を起 こした大噴火が続いて起きている。

TH:なぜ昼間なのに暗いんでしょう? 分かりますか、そのわけが。

CL:お山が火を噴いてるから。

TH:煙で暗いわけですか。太陽が遮られて。(CL頷く)そういうことですか。それで昼間に提灯がいるくらい暗い。あなたのいる川の水は今どんどん増えていますか?

CL:は、は、はい。増えてます。ウウーククー。苦しいー。ハア、ハア。ググッウー ウウー・・・ハア、ハア・・・。                      

TH:どんどん増えてますか? 大丈夫ですよ。苦しいですか?
注:ここでタエは泥流に呑まれて溺死する。このタエの溺死の苦悶が里沙さんの肉体に再現され、その苦しさ筆舌に尽くしがたいと言う。したがって、タエの再セッショ ンを7年後の2012年5月まで許可していただけなかった。そして、この再セッションにおいても、突然溺死場面に戻ることが起き、その苦悶はすさまじかっ た。このことは証拠映像に撮ってあるので、you-tube(タエの事例第2セッション)の中で公開している。


(その3へ続く)

2015年1月12日月曜日

「タエの事例」セッション逐語録1

   SAM催眠学序説 その35

『SAM催眠学序説前世療法ー生まれ変わりの実証的探究』と題したドキュメンタリー動画制作にあたって、「タエの事例」のセッション全記録映像を前半のメインとしました。
2005年6月4日のセッション以後、今日までの9年半の間に、新たに分かってきたことを「注」のコメントを加えて公開します。
生まれ変わりの科学的証拠としては、この「タエの事例」は「超ESP仮説」の適用ができるため、応答型真性異言「ラタラジューの事例」と比べて、生まれ変わりの証拠としての完全性は一段低くなるとされます。
ただし、被験者里沙さんが、タエとして語った諸史実について、セッションの事前に意識的に入手していたことはポリグラフ検査で否定されています。
また、ふだんの生活において里沙さんがESP(透視・テレパシーなどの能力) を発揮したことは一切ないことを本人および家族から確認しています。


なお、THはセラピストの稲垣、CLはクライアント里沙さんの略です。


TH:さあ、これであなたは、時間も空間も関係のない次元に入りました。もし、あなたに、今の人生のほかにも人生があったら、そこに自由にどこへでも行く ことができます。でも、最初にこの前行った江戸時代へ行ってみましょう。何も心配したり怯(おび)え ることはありません。私が付き添ってガイドします からね。それでは、これから三つ 数えます。そうしたら天明の時代に生きたあなたの楽しい場面にまず行ってみましょうか。いいですか、天明に生きたおタエ さんの一番楽しい場面に戻りますよ。一・二 ・三。・・・
さあ、あなたはどこで何をしていますか?
注:最初に一番楽しい場面に戻る、という暗示をしたのは、前回3ヶ月前のセッションで、タエ溺死の場面に戻ってパニックになったことが分かっているので、それを避けるためである。

CL:・・・桑畑で桑の葉を摘んでいます。

TH:あなたのお名前は?

CL:タエ。

TH:それで、桑畑には他にもあなたの知ってる人がいますね。誰がいますか?

CL:・・・働いてる。

TH:働いてる? あなたの親とか兄弟はいませんか? あなたは一人ですか?

CL:はい。

TH:あなたはみなし子ですか?

CL :はい。

TH:今あなたは何歳ですか?

CL:13。

TH:13歳ですか。あなたがみなし子だった事情を誰かから聞いていませんか?

CL:捨てられてた。

TH:気がついたときには、赤ちゃんで捨てられていたのですか?

CL:そう。

TH:それで、あなたを育ててくださった人がいますね。どんな人ですか?

CL:安永九年(1780年)、渋川村、上郷(カミノゴウ)、名主クロダキチエモン。
注:渋川市教委を通じて、渋川市史編集委員の郷土史家の蔵書の検索によって、当時の渋川村の名主が4名であったことが判明。そのうち一人がホリグチキチエモ ンであった。クロダキチエモンではなかった。2012年5月29日の再セッション(映画で公開予定)によって、クロダキチエモンは、「クロダのキチエモ ン」と呼ばれていたことをタエが語った。名主キチエモンの田畑の土が黒かったので村の衆がそう呼んだ。つまり、「クロダのキチエモン」は俗称であり本名で はなかった。本名をタエは知らないと語っている。ホリグチ家は初代以後明治になるまで当主は代々ホリグチキチエモンを襲名していることが判明。村の衆は、 当代ホリグチキチエモンを先代、先々代と区別するために「クロダのキチエモン」と俗称で呼んだことは信憑性が高いと思われる。

TH:クロダキチエモンがあなたの義理のお父さん。キチエモンさんの連れ合いであなたの義理のお母さんは?

CL:ハツ。
注:ハツの実在を検証するため、渋川市上郷の良珊寺にあるホリグチ家の墓碑を探したが、古い石塔は苔むして文字が判読不可能で特定に至らなかった。残る検証 方法は良珊寺に残る過去帳で検索することであるが、差別戒名の問題によって過去帳の公開は禁止となっている。なお、当時の人別帳は焼失して残っていない。

TH:クロダキチエモンさんとハツさんご夫婦に、あなたは育てられたわけですね。あなたが捨てられていたことは、そのお父さん、お母さんが話してくれたわけですね?

CL:(頷く)・・・たくさん。

TH:たくさん拾われた子どもがいるんですね。キチエモンさんは、そういう篤志家(とくしか)ですか。渋川村の名主さんですね。渋川村というのはどの辺りですか?
注:渋川村は、現群馬県渋川市となっている。渋川市には上郷(カミゴウ)の地名が残っており、天明年間は(カミノゴウ)と呼ばれていたことが判明。渋川村が現渋川市として存在していることを、私を含めて8名全員が知らなかった。 

CL:上州、上野(こうずけ)の国。

TH:あなたは今13歳で、年号は何年ですか?

CL:安永九年。(1780年)
注:安永は9年で終わっていることがセッション後判明。安永という年号があることは、私を含めてその場の見学者7名全員が知らなかった。


TH: はあ、安永9年で13歳。で、今桑畑にいる。それがなぜ、楽しいのでしょう。


CL:桑の実を摘んで食べる。


TH:桑の実を食べるんですか。口の周りどんなふうになってるか分かりますか?

CL:真っ赤。(微笑む)おカイコ様が食べる桑の木に実がなる。

TH:それならどれだけ食べても叱られることないんですか。ふだんはやっぱり遠慮がちなんですか? (CL頷く)拾われてるから。あなたと同じように拾わ れた兄弟も 一緒に葉を摘んでますか?(CL頷く)楽しそうに。(CL頷く)じゃ、ちょっと 夕飯の場面に行ってみましょうか。三つで夕飯の場面に行き ますよ。一・二・三。今、 夕飯の場面ですよ。どこで食べてますか?

CL:馬小屋。みんなも。

TH:下は?

CL:ワラ

TH:どんな物を食べてますか?

CL:ヒエ。

TH:ヒエだけですか。おかずは?

CL:ない。

TH:ヒエだけ食べてるの。白いお米は食べないんですか? (CL頷く)だからあまり夕飯は楽しくない。で、みんなとどこで寝るのですか?

CL:馬小屋。

TH:馬小屋で寝るの。お布団は?

CL:ない。

TH:寒いときは何にくるまるのですか?

CL:ワラ。

TH:ワラにくるまって寝るの。あなたの着てる物を見てごらんなさい。どんな物を着てますか?

CL:着物。

TH:着物の生地は何でできていますか?

CL:分っからない。

TH:粗末なものですか。(CL頷く)手を見てごらんなさい。どんな手になってます か?

CL:きれいな手じゃない。
注:キチエモンは捨て子を拾い育てているが、おそらくは農作業の労働力として使役するためであろう。したがって、牛馬同様の過酷な扱いをしていたと考えられる。

TH:じゃ、もう少し先へ行ってみましょう。三年先へ行ってみましょう。悲しいことがきっとあると思いますが、その事情を苦しいかもしれませんが見てください。どうですか? で、三年経つと何年になりますか?

CL:天明3年。(1783年)

TH:天明3年にどんなことがありましたか? 何か大きな事件がありましたか?

CL:あ、浅間の山が、お山が、だいぶ前から熱くなって、火が出るようになって・・・。
注:天明三年六月(旧暦)あたりから浅間山が断続的に大噴火を始めた。七月に入ってますます噴火が激しくなり、遂に七月七日(旧暦)夜にかけて歴史的大噴火を起こした。この 夜の大噴火によって、鎌原大火砕流が発生し、このため麓の鎌原村はほぼ全滅、火砕流は吾妻川に流れ込み、一時的に堰き止められた。その後に火砕流による自然のダムが決壊し、大泥流洪水となって吾妻川沿いの村々を襲った。この大泥流洪水の被害報告が、『天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳』として残って いる。この大泥流に流されてきた噴火による小山のような岩塊が、渋川市の吾妻川沿いの川面から数メートル高い岸辺に流れ着いて、「浅間石」と名付けられて現存している。
吾妻川沿岸55か村におよぶ被害は、流死1624名、流失家屋1511軒であった。ちなみに、渋川村の上流隣村の川島村は、流死76名、流失家屋113 軒、流死馬36頭であり全滅状態であった。ただし、渋川村の被害は「くるま流 田畑少々流水入 人壱人流」となっており、流死はたった一人であった。こうした事実は セッション後の検証で判明した。

TH:火が渋川村から見えますか?

CL:うん。

TH:噴火の火がみえますか?

CL:ふんか?
注:天明の頃には「噴火」という語は無く、浅間山の噴火を「浅間焼」と言った。

TH:噴火って分かりませんか? (CL頷く)分からない。火が山から出てるんですか?

CL::熱い!

TH:煙も見えますか?

CL:は、はい。

TH:じゃ、灰みたいな物は降ってますか? そのせいで農作物に何か影響が出てますか?

CL:白い灰が毎日積もります。
注:渋川市は浅間山の南東50Kmの風下に位置する。天明三年六月(旧暦)から断続的に噴火を続けた浅間山の火山灰が相当量積もったことは事実である。

TH:どのくらい積もるんでしょう?

CL:軒下。

TH:軒下までというと相当な高さですね。単位でいうとどのくらの高さですか? 村の人はなんて言ってますか?

CL:分からない。

TH:軒下まで積もると農作物は全滅じゃないですか。

CL:む、村の人は、鉄砲撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いても、雷神様はおさまらない。
注火山灰に苦しむ村々が、鉄砲を撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いて噴火を鎮めようとしたことは当時の旅日記などに記述されている事実である。当時の村人たちは、噴火にともなう火山雷を、雷神の怒りと見なした。

TH:その結果なにが起きてますか?

CL:龍神様は川を下ります。
注:浅間山は、当時龍神信仰の山であった。浅間山に住む龍神が、噴火で住めなくなって、浅間山麓の東を流れる吾妻川を下ると当時の村人は考えたのであろう。タエは吾妻川を下る龍神の花嫁として供えられた。

TH:その結果どうなりました?

CL:天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、あま、あま、あまつ、吾妻(あがつま)川を下るので ・・・水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたし がお供えになります。
注:2006年10月放映のアンビリバボーでは上記「上の村が水にやられるので」の台詞が消去されてしまっている。この台詞があると、タエが人柱になる理由 が渋川村を救うためではなく上流の村々を救うためになり、視聴者には人柱の理由が分かりずらくなる。タエが自分の住む渋川村を救うために人柱になる、としたほうが分かりやすいとアンビリ側が考えたうえで事実の歪曲がおこなわれたものと思われる。ちなみに、「吾妻川」を知っていたのは7名の見学者のうち1名 だけであり、私も知らなかった。

TH:自分から志願したの?

CL:・・・そうです。きれいな着物を着て、(微笑む)おいしいごちそう食べて・・・。

TH:それをしたかったのですか? でも、命を失いますよ。それでもいい?

CL:村のために・・・。

TH:誰か勧めた人がいますか?

CL:おとっつあん。

TH:キチエモンさんが、そう言ってあなたに勧めた。
注:7年後のセッションで、キチエモンは、吾妻川上流の村々から生糸や野菜を買い入れ、吾妻川を舟で運んで交易をしていたとタエは語っている。そのための船着場を持っていた。キチエモンは交易相手の上流の村々を救うために、人柱を仕組んだと推測できる。タエは渋川村を救うための人柱ではなかったのである。

CL:恩返し。・・・みんなのために(微笑む)・・・うれしい。

TH:もう一度確認しますよ。あなたのいる村は?

CL:渋川村、上郷。

TH:川の名前が吾妻川?

CL:吾妻川。



(その2に続く)

2015年1月1日木曜日

タエの溺死と人柱についての疑義の検証

   SAM催眠学序説 その34


このテーマについては、「その33」のコメント欄で相当量の議論がされています。
これを整理し、現時点の私の結論をあらためて述べたいと思います。

タエの泥流による溺死と人柱についての疑義、つまりタエの語りの一つについて、信憑性に重大な疑いをかけられるということは、拙著『前世療法の探究』2006、で述べた検証についても、その信憑性に疑いが持たれることになります。
執筆者に対して、指摘された疑義についての説明責任を果たし、現時点の諸証拠を挙げて、できうる限りの決着をつけることが求められています。

まず、「その33」のコメント欄で、疑義を提示されたVITA ÆTERNA さんのコメントのご見解を示し、次いでそのご見解についての私の反証を挙げるという順序で述べてみます。 

   VITAさんの疑義 その1

 また、タエは泥流の水によって溺死をしているように見受け られましたが、その様子はこの分野における学問の知見と一致しないとする専門家の意見を以前拝見したことがあります。この方の見解は、泥流は大量の岩石を 含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、とのようなものであったように記憶しております。私は以上のようなことから、タエの事例に限定して言えば、歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っているのではないかという感想をこの度持ちました。 
2014年12月23日 10:32 

浅間焼泥押に関する最新の研究の知見では、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった、とのようにも伺っておりますもち ろんセッションにおいてタエの人格も「急ぐの、急ぐ、時間がない」とのように語ってはおりますが)。もし研究の知見とタエの語った内容に差異がある場合、 タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要となるようにも感じられました。
2014年12月24日 22:08

VITAさんの疑義は上記のゴチック部分2点です。つまり、

タエを巻き込んだのは泥流ではなく、大量の岩石を含んだ土石流状の流れであるから、溺死ではなく即死である。(注:語りでは、タエは泥流に呑まれて苦しみながら溺死している)

吾妻川の流れが止まった時間はなく、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった。(注:語りでは、タエは水が止まった橋脚に縛られて人柱になった)

という疑義になります。ちなみに、①②の最新の研究の知見を述べている出典は
http://togetter.com/li/608596 早川由紀夫氏です。
早川氏の最新の知見とされる早川論文http://t.co/clK6yNByJ6を読んでも、天明浅間山噴火に関する溶岩流や火砕流の詳細な分析はあっても、それが吾妻川に流れ込んだ後、川の流れにどう作用したのかについて言及した記述はありません。論文を読む限り、①②のような早川説がどこから出てくるのか、どのような根拠があるのか全く不明です。

それでも、VITAさんは、この「最新の研究の知見」とされる早川説を支持される立場だろうと拝察します。

そこで、VITAさんは早川説を支持する立場から、「歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っている」、「タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要」だと、繰り返し「タエの語り」の再検証を主張されていると思われます。

それでは、「最新の研究の知見」である①②の早川説への反論を、科学的実験および史実の検討をとおした諸反証を挙げて述べてみます。


反証1 科学的実験による検証

 「つくばの国総研」土石流メカニズム実験映像から(UROノートさん提供)

https://www.youtube.com/watch?v=eprBGInlo-E の実験映像をごらんになれば、タエの人柱になった地点は実験の扇状地地形であって、この地形になると泥流が先頭で流れ下り、岩石は遅れて流れ下ることが一目瞭然です。
タエが泥流に呑まれて溺死した状況と、泥流が先に到達する実験結果とに齟齬はありません。
つまり、この実験結果は、タエが土石流状の流れの直撃を受けて即死したわけでなく、泥流に呑まれて溺死した可能性の高いことを実証しています。

これについてVITAさんが反証として挙げられた浅閒焼泥押について、示された参考動画https://www.youtube.com/watch?v=PrDnYF6vN4U
https://www.youtube.com/watch?v=c2uc3PTZ9OE は、狭隘で斜度のかなりある沢筋を押し寄せる事態を撮影したものです。
しかし、タエの人柱となった吾妻川地点は沢筋ではなく、平坦部に近い緩い斜度といってよい扇状地地帯です。
これは2006年のアンビリ放映映像で、タエが人柱となったとされる吾妻川現場を確認できます。
私も、渋川市の吾妻川の橋が架かっていた現地を調査し、確認しています。
ほぼ平坦地を流れている斜度の緩い地点で、土石流状の流れが一気に押し寄せ、その岩石の直撃を受けて即死状態になったとはまず考えられない地形でした。
下の写真が、タエが人柱になったとされるまで橋の架かっていた「杢の渡し」跡の 吾妻川です。

「その33」でUROノートさんのコメントは、このことについて次のように述べています。

「ビータさんがリンクを貼ってくださった砂防堰堤があるような急勾配の地点を切り取れば、巨礫(きょれき)は位置エネルギーも運動エネルギーとして有効に使える為、水との速度差は大きくありません。し かし、利根川との合流地点付近(杢の渡し)のように、なだらかな扇状地の場合は、巨礫の位置エネルギーは地表との摩擦として消費され、その速度を著しく低 下させます。水の運動エネルギーが100%有効に使えるような管状の閉塞空間以外の条件では水が先に到達するのは自明です」

同様の見解を次の「反証2」で取り上げた、証拠文献の執筆者関俊明氏(財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団)も、

川嶋村(後出の中村村でも同様)の村人が助かったという記事が多くあるのは、村の大半が埋まってしまう程被害が大きく遭遇者が多かったことだけが理由だけでなく、河床勾配や河道が急に広がっているので、流速の変化により、助かる確率が高かったとも考えられる」

と述べています。

したがって、VITAさんの参考動画は、川の斜度の前提が大きく異なるので反証とはなりえません。

「川嶋村 」は、現渋川市川島地区であり、当時は、タエの人柱地点である「渋川村」よりすぐ上流に位置する村になります。
タエの人柱地点より上流部の川嶋村の村人が、泥流に流されても、19人以上助かっているという史実が残っているのです。
村人の新八という者は、3里(約12キロ)流され半田(現渋川市)で助けられて戻ってきた、という記録があるのです。ちなみに、被害報告書である『浅閒焼泥押流失人馬家屋被害書上帳によれば、川嶋村で流死した村人は76人となっています。

大量の岩石を含んだ土石流状の流れが押し寄せて、巻き込まれた人が即死状態になるとすれば、19人以上が助かるような史実が残っていることはまず考えられないでしょう。
たとえば、助かった一人である新八のように、3里(約12キロ)も 流されて生きていることはまず考えられません。
こうした史実に照らせば、泥流は大量の岩石を含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、という早川説は、川の斜度から推測できる流れ方の物理法則と、記録に残っている史実を完全否定しない限り、その根拠をほとんど失います。


こうして、「①タエを巻き込んだのは泥流ではなく、大量の岩石を含んだ土石流状の流れであるから、溺死ではなく即死である」とする早川説は棄却できるでしょう
おそらく、早川氏もVITA さんも、タエの人柱地点の実際の地理的状況をご存じないのではないかと思われます。


反証2 歴史的事実の検証 

「内閣府防災情報」災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年3月 から

http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/index.html
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/pdf/1783-tenmei-asamayamaFUNKA_06_chap2.pdf

第2章「よみがえった天明3年」第7節「資料による天明泥流流下とその確認」79~80ページには次のような記述があります。この第2章の執筆者は、関 俊明氏(財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団)となっています。
また、「この報告書は、災害教訓の継承に関する専門調査会の下に設けた小委員会において検討され、平成18年3月22日に開催された同調査会で承認されたものである」と奥付の説明があります。
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更に下り、中之条町では、九ッ時(「11時49分」)に高さ五丈(約15m)、あるいは十丈(約30m)の浪が押し寄せ、「一ノ浪二番ノ浪三番ノ浪三度押出シ通り候なり。」(『集成』II157) とあり、3つの段波が記述されている。これは注目される記述で、既に見てきたように、吾妻川に入り込んだ岩屑なだれの土砂が大きく3つの筋であったこと、八ッ場の発掘調査で見つかっている畑面の泥流流下の傷の方向性にいくつかのグループがあり方向が異なること、天明泥流堆積物の様相が異なる場合があること、吾妻渓谷の上流の上湯原での時間的な経過の記述が残されていること、原町での明確な継続時間の記述があることなどから類推すれば泥流は一押しに流れ下ったものではなく、吾妻渓谷の上流からここまで、少なくとも複数の段波として流れ下っていった可能性がある

「(川嶋村)喜平次ハ川原嶋村へ流助カリ帰ル。」(『集成』II159)、「川島の者弐人行徳迄流助命して罷帰り候よし。」(『集成』II317)、あるいは「木に乗候哉命を保、那波郡柴宿(現玉村町)迄流て此所ニ上ケられ命無事にて古郷江帰る事有、珍敷事ニ御座候。」(『集成』 II322)、また、川嶋村新八というものは、3里流され半田(現渋川市)で助けられて戻ってきた(『集成』II124)というように、下流で引き上げられ命拾いをしたここの村人は少なくとも19人(『集成』II336)以上が確認できる。 川嶋村(後出の中村村でも同様)の村人が助かったという記事が多くあるのは、村の大半が埋まってしまう程被害が大きく遭遇者が多かったことだけが理由だけでなく、河床勾配や河道が急に広がっているので、流速の変化により、助かる確率が高かったとも考えられる。関根にあった広瀬堰の取水口までは15kmほどの距離がある。「トウカフチ」は、合流点から1.5km上流の「塔ケ渕」で、ここまで泥流が逆流し、更に流下距離で四十丁(約4.4km)以上となれば赤城村敷島付近まで増水したという想定になる。 さらに、地点を特定できないが、「利根川の上一時ばかり水少しニ相成、しばらく過て泥水山の如く押かけ、何方より流れ出候共相知ず。」(『集成』V191)という注目される記述がある。 これらのことからすれば、2時間程度の流水の滞留があり、一気に泥水の流れが押し寄せるという状況を記録したものと考えられ、その地点で何らかの出来事があったと考えられる。そして、これらの記述は下流で記録された流水の一時的な枯渇現象と関わってくる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記にある川嶋村とはタエの人柱地点の渋川村の上流の隣村です。渋川上流の川嶋村の村人で流され、助かった者が19人以上確認できるということは、大量の岩石を含んだ土石流状の流れでなかった(泥流であった)からこそ助かったと推測できます。資料では「(川嶋村あたりから)河床勾配や河道が急に広がっているので、流速の変化により、助かる確率が高かったとも考えられる」と述べています。

こうした史実に忠実であろうとすれば、タエは土石流状の流れに巻き込まれて即死したのではなく、泥流に呑まれて、もがき苦しみ溺死した、と推測することが妥当であろうと思われます。
また、当時の記録から「2時間程度の流水の滞留があり、一気に泥水の流れが押し寄せるという状況を記録したものと考えられ」と、関俊明氏は推測されています。

また、UROノートさんのコメントも、次のように反証を挙げ反論しています。
「『突如泥流が押し寄せた』とはどんな状況なのでしょうか? http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/pdf/1783-tenmei-asamayamaFUNKA_06_chap2.pdf 上の74ページ以降の記述によれば、噴火による堆積物で吾妻川はかなり大規模に堰上げされ、大規模な逆流すら観測されたとしています。 この説の通り、吾妻渓谷の狭隘地に生じた自然堤防が決壊するまで、吾妻川下流域の水位が低下し、泥押の前兆が観測された後、大泥流が殺到したのが自然でしょう」

「吾妻川の流れが止まった時間はなく、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった」と主張する早川説は、以上検討してきた複数の史実と、それに基づく関俊明氏の考証を否定していることになり、しかも、史実を否定するに足る「最新の研究の知見」とされる科学的根拠が不明です。
したがって、史実をたどる限り、少なくとも1時間前後の泥流の滞留時間があったことがほほ確実であり、(泥流の止まった時間がなく)突如泥流が押し寄せたので、人柱にする余裕はとてもなかった」とする早川説は、根拠不明な憶説として棄却して差し支えないでしょう
早川説は、ツィッター上でつぶやかれた「無根拠な印象論」であり、そのような「印象論ツイートはツィッターというメディアでは起りがち」だ、というUROノートさんの「その33」での指摘は、的を射ているように思われます。


以上の、早川氏の言説①②への反論により、「水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」というタエの語りは、史実に忠実な語りの可能性の高いことが立証できたと考えます。

こうして、VITAさんの、「タエの事例」に対する真摯な検討から生じた疑義提示がなされたおかげで、生まれ変わり「タエの事例」の信憑性が、より強化できたことに感謝いたします。
また、UROノートさんには、科学的知見に基づいた的確なコメントをいただき、あつくお礼申し上げます。


以前から私は、タエの「水が止まって危ないので」という語りを採用するにあたり、次のような研究家の見解に与していました。  そして「、「その33」で下記のように述べました。

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 天明3年(1783)7月8日(新暦8月5日)朝10時ころに発生した浅間焼けに伴う大火砕流(土石なだれ)は鎌原村を飲み込み吾妻川に流れ込んだ。 その火石(熱溶岩)を含んだ土石は1億立方メートル、2億トンにも達すると見積もられている。 土石は吾妻川の狭窄部分を堰きとめては土石、川の水を逆流させ多くの家々、畑を飲み込んでいった。 堰が壊れては泥水が段波として下流へと下った。 昼の12時ころには吾妻川と利根川の合流点(注:タエの流されたのはほぼこの地点)に達し、ここでも利根の流れを堰き止めた。 夕方ころにはこの堰も壊れて土砂は利根川を下り関東平野北部に泥流被害をもたらした。 「八日の昼八ツ時分利根川ノ水音夥敷致候.……早速水引却て川水も無キ様ニ成候所,暮前に至り泥山の如クニ押来リ此時材木屋道具死人夥敷流来候.此時ハ泥湯ノ如クニ涌キ大石ノ火ノ燃ヘ出ルヲ押来候由.」 『天明三年七月砂降候以後之記録』
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つまり、大泥流の「土石は吾妻川の狭窄部分を堰き止めては土石、川の水を逆流させ多くの家々、畑を飲み込んでいった。
堰が壊れては泥水が段波として下流へと下った」のであり、押し流された土石が、吾妻川上流の狭窄部分を、数回にわたって堰き止めた時には、一時的に川の水が止まるという現象が起きたと思われます。
それを「水が止まって、危ないので」とタエは語ったというわけです。
こうした、数回にわたって水が止まるという前兆のあとに突如大泥流が押し寄せたと考えれば、川の水が止まっている間に、タエを、急ぎ人柱仕立てる時間はあったと思われます。
その時間的余裕は、少なくとも1~2時間はあったのではないかと推測します。

そして、天明3年(1783)7月8日(新暦8月5日)の大噴火に至るまでに断続的な大きな噴火が度々起きており、降灰による農産物被害を恐れるキチエモンや村人は、タエを人柱に立てることを、7月8日の最大規模の噴火以前から準備していた、という推測が可能です。
とりわけ名主キチエモンは、舟を用いて上流の村々から生糸や野菜を買い付け交易していた(動画タエの事例第2セッション)といいますから、龍神を鎮め、噴火を終息させる必要に迫られていたと思われます。
 こうした事情から、おそらく旧暦6月末になって、噴火が一層激しさを増してきた時点で、いつでもタエを人柱に立てる準備ができていたと思われます。

また、 VITAさんは、泥流は大量の岩石を含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、という専門家の意見を述べていますが、要するに泥流中の岩石と衝突し、即死状態であったはずだという見解だろうと思われます。
しかし、タエは橋杭に縛られていたわけですから、泥流に押し流され浮いている橋とともに流されたと考えることが自然で、流された直後にも、束の間、苦しみもがくだけの息があったと考えることができると思われます。
そして、当たって即死に至るような岩石には相当な重さがあり、泥流の中・底層部に沈んで流されているはずで、泥流表層の水面近くには流れていないだろうと思われます。


こうして、「その33」で述べた、私の以前から持論としていた上記の推測の妥当性が高いことが再確認できました。
私にとって今回のVITA ÆTERNA さんの2つ疑義は、現地調査と史実との照合の結果執筆したタエの語りについて、何でいまさら根拠不明な早川説なのか、という感が強く、意外だったのが正直なところです。

ともあれ、VITAさんの、「歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っている」、「タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要」 という要請に、きちんと証拠を提示して応えることができ、その結果タエの語りの信憑性が再確認できたことをうれしく思っています。

現在の日本に、生まれ変わり事例の科学的専門研究者と呼べる研究者は皆無です。
反証可能性にひらかれた、科学的検証に耐えられる、生まれ変わり事例が、きわめて出現しにくいという現実があるからです。
また、そのような事例は、実験的に得られるわけではなく、偶発的に出現することを待つしかないという性格の研究にならざるを得ないからです。
こうした意味で、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」は、生まれ変わりの科学的研究史上世界でもきわめて貴重な事例です。
催眠中に語られた前世を科学的に検証した事例は、「タエの事例」が日本では初の事例ですし、「ラタラジューの事例」ともにその証拠映像が公開されていることは、世界に例がないと思います。


検証可能な前世を語る具体的な事例に遭遇すれば、ネット検索によって、専門研究者でなくとも、誰でも、UROノートさんのごとく、検証に参加できます。

そして、前世存在の真偽の判断を検討することができます。

「タエの事例」のような検証事例が累積されることによって、前世の存在が多くの人々に認知されるようになる可能性がひらかれていると思われます。
それが可能になっている、ネット社会に生まれ合わせた恩恵を感じた今回の検証でした。