SAM催眠学序説 その122
ここに掲載する短編小説『渡し守』の作者、渡邊マサ先生は、わたしの小学校5・6年生の学級担任でした。わたしが恩師と認める中のお一人です。今はすでに故人となっておいでです。
1993年初夏、32年ぶりでお会いしました。その再会の印象がこの小説の執筆動機だとうかがっています。その年の可児市文芸祭短編小説部門市長賞を受賞され、作品の収録されている冊子を送っていただきました。
一読してまず驚いたのは、執筆当時72才であったマサ先生の記憶力の確かさでした。叙述されている細部の事実関係に間違いが一切なく 、わたしがマサ先生に再会して語った対話内容が、録音でも取っておいでだったのかと思うほど一言一句がほぼ正確に再現されていたことでした。おそらく再会から日を置くことなく、鮮明な記憶をたどって執筆されたと思われます。今から25年前のマサ先生との再会は、よき思い出となって生きています。そして、小説『渡し守』は、 まさしくわたしがモデルの実話小説そのものです。
読者の中には、ブログ管理人のわたしが、どのような少年時代を過ごしていたのか興味を抱いている方もおいででしょうから、2019年年頭でもあり、ここに小学校学級担任マサ先生の目に映ったわたしの少年時代の姿を、文学的香り高い実話小説の形で自己紹介することにしました。読まれると、教師となったわたしの人間性の一部も垣間見ることができると思います。
そして、この小説に登場する「N君」が、わたしです。
注:文章を読みやすくするため小説の1行空きの段落構成はわたしがおこないました。
渡邊マサ 作 短編小説 『渡し守』
アトリエには今おとなが男女あわせて、十二、三人いるのだけれど一人も居ないかと思われる位静かである。
この市民講座水彩画教室ではそれはいつもの事で、みんなが対象物を囲んで好みの角度で席を占めイーゼルを立てて描き始めると、大体正味一時間半ほどは殆ど誰も喋らない。先生がおられてもおられなくてもそれは同じでみんなとても熱心である。成人ばかりの、というよりは平均年齢五十余才くらいの同人であるが一人ひとりが絵が好きで集まっているということもあるし、無心になれる三時間が持てる、集中を楽しむことが嬉しくて通って居るのだ。私も勿論その一人である。
でも、今日の私は何か集中できない。今日描くのは静物で、壺が二つとワイングラスに液体の入ったのや果物が並べてある。壺は緑黒色の艶消しガラスの瓶で質感を出すのに手応えがありそうな洋酒瓶である。馬蹄形のワイングラスの入った液体は澄んだピンク色でどうせ当番の誰かが水に絵の具を一滴たらしただけのものだろうけれど、妙にさまになった色でそれが全体のひきしめ役を果たして調和のとれた構図になっている。描くつもりでとりかかってはいるが私はまだ気がのってこなかった。
その訳は、今日この教室が終わってから人と会うことになっているからであった。電話は昼少し前にかかって来た。その電話は思いがけぬN君からであった。私は
「まあー。」
と言ったきり暫くおしだまっていたが
「僕は今日、暇ができたから一度会いに行きます。えっ? さくらホールのアトリエ? ああそうですか。そこで水彩画を、へえー。じゃあ四時に終わるならそのままそこで待っていてください。僕行きます。じゃあまた。」
話は速いが、多分に押し付けられ気味で私の都合も十分にたずねられる事もなく決まって、彼はここに来ることになったのだ。
N君-三十二年前の教え子である。三十年余り会っていない。市内の小学校に私が勤めていた時、五年、六年と続けて担任したクラスに居た男の子であった。体格もクラスで一、二を争うほどよいので体力もあり、何をやっても積極的なので結構なガキ大将であった。
その頃は今と違って下校後は家業(多くは農家)を手伝うか、戸外遊びをするかであったので非農家の彼は夏は川遊び、冬は山や森へ遠征する遊びのリーダーであった。彼が友だちを誘っての遊びを作文にするとそれはとても面白く、生き生きと活写されているので私は教師である事も忘れてドキドキしたり血が湧く思いをしたくらいであった。
田圃のザリガニをうんと獲って、木曽川の磧で流れついた車のホイールキャップを拾ってきて焚き火をし、それを鍋がわりにザリガニの塩ゆでを遊び仲間と食べた話など出色で
「そんなことをしてはいかんよ。ジストマに罹ったらどうするの。」
ということも忘れて
「そんなにうまいかね。よかったねー。」
と話にのってしまうくらいに作文を書く力がある子だった。勿論頭もよかった。
私は教師であったから、当然子どもと暮らすことは好きであった。でも根は淡泊なというか、いわゆる水臭いところがある人間で、教え子と居るうちは目の前のことに一所懸命になったが、そこから向こうは深入りしない主義であった。ほんの子どもの時、年齢が違った長兄が、「君子の交わりは流水のごとく淡泊なるがよし」とか何とか読むのを聞いて「ふーん。」と思った事があるが、そのせいかどうか、何でもあまり詮索は好きではない人間に育ってしまった。
教え子も卒業させるまでが勝負で、全員中学へ送ってしまえば、高校への進路をどう決めようとも、それだけのものだと思っていた。決して無責任とか、誠意を尽くさぬとかいうことではなく、担任するうちはベストを尽くしてきたつもりだ。
ようするに私は「渡し守」だと思いさだめていたのだ。それが芯そこの本音であった。船は転覆させぬよう、どんな流れにも、力の限り棹さした。でも、対岸に着けば、子どもが岸へ足をおろしたのを境に、私はうしろ姿を見送るだけしかない。「元気でいなさいね。身体に気をつけて頑張るのよ!」と心の底からのエールを小さい背中に送る。涙をこらえて。でもそこまでだ。私はもとの岸に戻るだけだ。そしてまた新しいクラスを受け持ってクラスづくりに精を傾けるのだった。そうやって何十年も教師を勤めてきた。
Nに対してもそれだけだった。どんな青年になっていくのかな、というような事は 勿論おりにふれて思い出すのだけれど、それさえ一クラス四十一人のどの子に対しても思うことで特にNに対してどうしたとか、たずねてやったことはひとつもなかった。
数年経って教え子たちの大学進学の事が耳に入ってくる事があって、その時Nが大学の教育学部に入ったという消息を聞いた。それを聞いて、知能もすぐれた子であり、(こういう子が活気のある教師になってくれたらいい)とは思ったが、反面ウーンと絶句して考え込んでしまった。(あの子が、あの覇気でもって教育界という海へ入って行けるのかな、入ったにしても泳げるのかな、泳いだにしてもいやいや泳ぎしかできないのじゃないかな、おそらく力泳する気にはならないのじゃないかな)と思った。教育界に棲んでいる私には危惧が大きかったのだ。
時代は昭和四十年代当初。思想も多様化を極め、大学紛争も花盛り、決して学究の府ではなく、むしろ嵐の吹きすさむ庭だった。どういう葦になっていくのかしらと思ったものであった。同一市内に住んでいるのに訊ねる事は一度もせず、勿論Nからの音信もなかった。
いつしか三十年余年の月日が経過し、今年の四月、一枚の挨拶状が私を驚かした。Nからであった。ここから十五Kmほど離れた、といっても勿論通勤可能な中都市の中学校、かなり大きなベッドタウン化した町の歴史の新しい学校へ教頭になって赴任するというあいさつであった。四十五才。今の教育行政事情の人事としてはかなり早い任用で、やっぱりなと思った次第であった。
「N君おめでとう、よかったね。」私は幻の彼に呼びかけお祝いを言った。ところがどんなにも現在の彼が浮かんでこない。私の目の前に立つのは丸刈りのくりくり坊やで、私の目を盗んでやったいたずらを見つけられて、照れながらあやまりに来る時の顔、そしてキラキラした眼で笑いかけてくる叱るに叱れない表情であった。どう考えても浮かんでこない壮年教師Nー想像しようとすればするほど、彼の父親の顔がダブって見えてくるのであった。
その父親も割に早く、六十才を少し出た頃逝去されて、それも聞いたばかりでお悔やみさえしてしていないけれど、PTAでよく学校に来られた時の姿は鮮明に印象がある。PTAも試行錯誤の時代で親たちも金は出さぬが口は出すというわけで役員さんたちはよく会議に出て来られ彼の父親も熱心に発言されていた。夏の海浜学校にも参加して元気に旗振りをしておられた。長男であるNかわいさ故の献身であったろうが所属している労働組合では勿論リーダーで組織づくりにはなくてはならぬ熱と力を持った人だいうことは聞いていた。
晩年は糖尿病を患い、床についておられたとも聞いた。Nが教師になったことを喜んでおられたか、又Nが親を安心させるような教師になっていたのか、それも三十二年の中のことで一切が分からなかった。
そういうNがあと二時間近くで私の目の前に出現するというのだ。私は絵筆を持ってはいたが集中はちっともできなかった。描けた作品への指導、批評もうわの空で道具をしまい、教室の友達にも別れて玄関ホールに出て行った。
ホールは市の少年少女合唱団のコーラス練習が終わったところでハーモニーの余韻がまだ残っていたし、子どもたちを車で迎えに来た親たちで温かいひとときが醸され、生活や家庭があるということのしあわせ部分を演奏していた。陽は西にまわってステンドグラスではないけれど、高窓からは美しい光が振り込んでいた。
このさくらホールはまだ新しいのに、土地柄まわりの木々はよく育って、窓から見るそれらの木は土曜日の楽しさをうたうかのように葉裏を見せ、特別めだちたがりやの葉々は特に輝いて生き生きしていて、初夏のさわやかな風に甘えていた。
私も妙な甘さを感じ、四時のこの光の中にこの風景をいつまでも見ていたいと思っていた。そして背もたれの無いクッションの良い腰掛けにすわって、すこしうっとりとしていた。ふと気が付くとほんの暫くのうちにホールはすっかり静かになっていて人影はなく、動くものとしては管理人室に細身の男が一人いるのが見えるだけであった。
彼は来るのかすこし不安になった。四時二十分である。玄関近くに二人の人影が見えた。私は立って出て行ったが、年格好はそうでもいずれもNとは違うと思えた。いくら三十年余り見ぬといっても見れば分かるという自信があった。
私は又ホールへ戻って文庫本を取り出して頭に入らぬ活字を追っていた。知らないうちにどこから入ってきたのかピアノを弾き出した女の人があり、それが合唱団の夕方からの伴奏者らしかったので安心して喫茶店のBGMのようないい感じ・・・と思ってなおも本に目を落としていた。
「お待たせしました。」
と声がした。さわやかな男らしい声であった。
私はとてもうれしかった。こんな男性から(今日会いたい)と言ってもらえて本当にしあわせと思える男であった。
「すぐわかった?」
愚問である。一人しかいないのだからわからぬ筈はない。
「ああ、分かりました。やっぱり僕の思っていた通りの先生でした。」
と言ってひとりでうなづいた。
昔もそういう癖があった。背筋がよく伸びて剣道と水泳が達者だそうだが、この上背で道場着を着、防具を付けたら相手はそれだけで威圧を感ずるだろうし、プールで抜き手をきればどんないかれた男子生徒でも尊敬の気持ちを起こすだろうなと思われるような颯爽とした雰囲気をもっていた。若さっていいなあー久しぶりにそれを感じた。
木曽川の太田橋下を遊び場にし、まんなかのピーヤで一服し、向こう岸まで泳いで行き戻りした往年の横着坊主は、こういう男になったのかと感無量であった。
十二才の少年が四十五才の年盛りの男になって出現するーなんと凄いことであろうか。どうしても描けなかった風貌、雰囲気、すべて今、解決した。しかも殆ど理想的な男性として、男性教師として。
こういう変化がまさしく味わえるということは何とすばらしい事であろうか。羽化といおうか、変態といおうか、人間の成人化はとにかくすばらしい。平凡だけどやはり教師冥利に尽きるという感じであった。
三十二年会わなかったという事がまたすばらしい事だったに違いない。しかし反対に彼の方からいえばどうだったのだろうか。(会いに行きます)と言ってくれた時には、僕の先生、という気持ちがよくも悪くもあったであろう。しかし三十九才の女教師が七十二才の老婆になっているという現実をなんと受け取ってくれたであろうか。
人間の老いるという実態を何と見たであろうか、皺の意味とそこに内蔵された年月の重み、どんな現実も俗世間の生態として受け止め得る人間としての私を認めてくれたのであろうか。
金華山のゴンドラは二台が山の中ですれ違ってほんの一瞬の出会いをし、一台はどんどん眺望の展開する山頂へ行き広い下界を見下ろす。一台は驚くような早さで下降し、地上駅に着く。ちょうどその通りの出会いと再開を今私たちは体験した訳なのだ。
再会の感動でうわの空のことばでしか対応し得ない自分だったが、その中でこんな事を感じていた。会ってとても嬉しかったとは裏腹に、会わない方がよかったと思ったかも知れなかった。
喫茶店などに行くよりはこのさわやかなホールで二人だけで話す方がこの得がたい今にはふさわしいと思って隅の安楽椅子に腰掛けたが彼の脚は長さが私の倍もあった。
吹き抜けの高窓から降り降りていた緑色の光はいつしか柔らかな無色になって私たちの足下近くまで射し込んでいた。軽やかに弾かれていたピアノは気がつかぬうちに止んで居て、代わって二階のどこかに設置されたステレオから静かな低いしらべがかすかに流れていた。
「親父ですか。親父の気持ちがすこし分かるようになった時は親父はもう床にいました。子どもの時の印象としては勤めと組合運動にばかり熱心で全然家におらなんだです。どこかへ連れてって貰ったと言う事は六年生の海浜学校の時と岐阜へ行った時くらいです。アッ! 岐阜駅前の果物屋で皿に盛ってある傷みバナナを買ってもらったんです。初めて食べたそのバナナがとてつもなくうまかったことを覚えています。
労働組合運動が盛んな時でしたから自分たちの職場から職域代表の代議士を出そうとしてがんばっていたんですね。それで家族の事なんか眼中になかったのです。病床でかなりボケてからもその話をする時だけはことばも眼光もシャキッとして輝いていました。それ以外は若いのに本当に生ける屍と思えました。まだまだ、年齢は若かったですのにね。
僕が結婚して金の工面もして二人の住む家を建て増しし、そこに住んで親とつかず離れずの生活をしようと思った時、親父は動けなくなったのです。そんで自分らが建てた部分を車椅子で動けるつくりにして親に譲りました。
親父はしかし間もなく急逝しました。ええ、心不全という事でした。いつものように往診の先生が来られ、注射をうって帰られたのですが家へ着かれたか、着かれないくらいの時に様子が変わりました。ちょうど土曜の午後で僕はうちに居ました。医者を呼び戻す手配をして一所懸命蘇生をやりました。ええ、日赤の人命救助員の資格を持っていますから救命術は馴れています。
でも、一所懸命やりながら脳の組織がいかれちまって長生きするよりも、このまま往生させてやった方が幸福かもしれないという気持ちがしきりにかすめ、人工呼吸をやり乍ら何とか助けたいという気持ちと、否このまま・・・という気持ちのせめぎ合いをすごく感じていました。医者が戻ってきて慌てて手当をしてくれましが結局だめで、あっけなく父は逝きました。
死のために残された方法の中で母も僕も弟も居た日に、もっとも短い苦痛の裡に死ねたということは父のために一番よい道だったかも知れないけれど、僕は今話した気持ちで最期の父に対応していた事だけが後悔です。その時の僕を今も憎んでいます。」
沈黙がすこし流れ、彼は煙草を一本吸った。
「僕、妹も亡くしたのです。先生もご存じでしょう、S子です。しあわせ一杯の若妻でしたのに生後八ヶ月の乳飲み子を残してです。これも心不全でした。医者は何でも心不全で片付けるのですね。もっとも最期は誰でも心停止でしょうけど。
この時ばかりは僕も大きなショックで、こんな事があっていいものか、神も仏もあるものかと思って自分を見失いました。初めて般若心経を読誦し、読経に没入することでやっと落ち着きを取り戻しました。お経は自己暗示、一種の催眠療法ですね。それから般若心経の研究もしました。でも分かったことは一切は空という事でした。先生、そうですね。どう思われますか?」
彼はかすかに笑った。陰影の深い顔は鬱屈した思いを吐きだしたせいか柔らかだったし、しゃべってからはほんのすこし顔を右に傾ける癖は少年の時のままだと思え、いとしいと思う気持ちが高まってきた。そして曖昧な相づちを打って心では自分が愛した肉親たちの死を反芻していた。
宗教という麻薬に浸からなくてはとても耐えていけなかった時代、そして諦観ということばの中で、生きる事への執念さえ捨てて逝った者たちの暗かった時代を思った。
ふと気づくと玄関で小さい女の子が二人遊んでいるらしく黄色いワンピースが見え隠れしていて蝶蝶のように思えた。それに触発されたかのように彼は自分の研究の歩みを話し出した。
五、六年生の時に作文を書き乍ら少年の眼を研ぎ澄ましていった影響で国語教師となり、作文教育を研究したこと、教育現場で行き詰まって又大学院へ戻り心理学と催眠学の勉強に没頭したこと、文部省の道徳指導書に見る矛盾点と自己の対応について論文を書いた事など次から次へと堰が切れたように彼は話した。
最終的には大学院研究室ですばらしいM教授との出会いを得て自分を見つめ直した事で心の安定を得て、今の教育現場へ戻った事などを聞いた。
いつしか二時間近く経っていた、私はまだ聞きたいことがあったが、もういいと思った。そよぎ乍らも揉み苦茶になってしまわずに、傷つき乍らちゃんと葦は立っている。そして教師をしている。これ以上何を聞くことがあろうか・・・。
彼は
「帰りましょうか? 送ります。」
と言ってくれた。助手席に座った私に
「僕、煙草はのむけど酒はやりませんでね、車については安心してください。でも酒をやらないことで自分を保ってきました。一緒に飲んでしまったら、きっと行き着くところへ行ったでしょうね。男仲間ですから。」
これはおもにNの処世について思想的な不安を持っている私への安心をさせる一言であったろう。大胆に前を自転車で横切る少女のスカートが風で巻き上がった。
彼は
「中学校でねえ、先生、(彼はとても素直な声で先生と言った)僕、娘たちに、大きくなっておしゃれするのもいいけど品のええ女性になれよ、と言っとるんです。子どもたちが、品がええ女性ってどうするとなれる? って聞きます。僕は、あんなあ公民館へ行って立ってくる時に椅子をちょっと直したり、トイレへ行って済んだらスリッパを次の人のために揃えてくる、そういう事やっとると段々品のいい顔になるんじゃ、と言ってやります。子どもたちは、分からーん、と言って変な顔をしています。」
と言って明るく笑った。
この事一つだけでもNに会えた事が本当に嬉しかった。
いつか家の前の団地の入り口に着いていた。私の家は国道を隔てて向こう側に見える庭の奥である。車を止めた彼は先に降りてドアを開けてくれた。そして
「先生、もう一つ忘れとったけど、五年六年の時、県の作文コンクールで貰った優秀賞のトロフィー二つはまだ大事にしています。賞品のシャープペンシルは妹に貸してやって結局とられてしまいましたけれど。今この事を思い出しました。」
と言った。
私は
「そう。」
とだけ言った。
国道を横切らせようと車の往来を見澄まし乍ら彼は
「これ、持っていってください。」
とカラジュームの大鉢を持たせてくれた。淡いピンクのレース模様の紙と同色のリボンでラッピングがしてあった。
「どうもありがとう。ほんとうにいい日でした。」
「僕もです。先生、元気でね。」
私は軽く肩を叩かれて彼に背を向け国道を横切って庭の奥へ歩き乍ら背中にいつまでも彼の視線を感じていた。
それはまさに渡し守の視線であった。
(完)