2021年12月2日木曜日

生まれ変わり証拠映像公開の困難性

SAM催眠学序説 その145

 

わたしのもとへ、覚醒中に異言らしきことばを話せるので検証してほしい、という依頼がたまに舞い込みます。
わたしは、原則としてこうした依頼をお断りしています。
その理由は、仮にその言語が真性異言だと証明できても、応答型真性異言でなく、単に異言を発音するだけであれば超ESP仮説が適用されるので、厳密な意味で生まれ変わりの科学的証拠とは判断できないからです。

また、そうした現象は、本人以外の霊の憑依現象が疑われ、その語りの主体が前世人格なのか憑依霊なのか判別が困難であるからです。
そのうえ、学んでいない外国の単語や文章の一節を繰り返し発音できたとしても、それは「技能」とは言えず「情報」として扱われますから、万能の透視能力やテレバシー(超ESP)を用いて入手した、という疑いを払拭できません。
こうした真性異言で応答的に会話するのでなく、単に発音するだけの場合を「朗唱型真性異言」と呼びます。

また、実際の検証体験でも、催眠中に起こった朗唱型真性異言だと思われる事例で、流暢にそれらしく話される異言が、検証の結果、まったくのでたらめであったということが3例ありました。
こうした事例は、催眠学で呼ばれる「役割演技」、つまり、無意識のうちに外国人の役割演技をおこない、自分のイメージにある外国語のそれらしき発音を真似た言語を創造的に発音したということでしょう。
催眠中には創造活動が活性化することが分かっていますから当然起こりうる現象です。

こうした体験がありますから、学んでいない外国語らしき言語で話せるという異言現象が起きたとしても、真性異言現象だと判断できることは稀だと思っています。
宇宙語であるとかムー大陸のことばであるとかを話せると言ってくる方もいますが、そうした地球上にない言語は、そもそも真偽の検証が不可能で、生まれ変わりの科学的検証対象になりません。

さて、超ESPによっても絶対入手できないのは「技能」です。
いかに優れた超能力を用いても技能は入手できません。
練習を必須条件とする技能は、練習抜きに獲得できないからです。
ヴァイオリンに触ったこともない超能力者が、超能力によって、練習を必要とするヴァイオリンの名曲を演奏できることはありえませんし、そうした事例は発見されていません。
同様に、応答的な会話も練習抜きに話せることはありません。
技能は「暗黙知」と考えられ、本来、ことばで伝達することは不可能とされています。
ことばで伝達可能なことなら、ESPによって入手可能です。
したがって、学んだことのない外国語で、練習の不可欠な応答的な会話ができる現象が、「応答型真性異言」と呼ばれ、それは超ESP仮説による説明を不可能にしますから、最終的説明仮説、つまり、生まれ変わり仮説を実証する最有力の科学的証拠だと認められているわけです。

しかし、応答型真性異言は容易に発現するものではありません。とりわけ、催眠中に起こった応答型真性異言で、公になっている事例はイアン・スティーヴンソンの発表している3例とSPR(心霊研究協会)の検証した1例にすぎません。それも1980年代で途切れています。
わたしの知る限り、21世紀になって最初に「応答型真性異言」として公になったのは2009年の「ラタラジューの事例」のみです。
しかも、スティーヴンソンの発表している三つの事例は、応答型真性異言で対話中の録音は残されていても、映像は残されていません。
証拠映像が残されたという点でも、「ラタラジューの事例」は、世界初の画期的な応答型真性異言事例だと認めてよいと思っています。

しかし、「ラタラジューの事例」の検証とセッション映像の公表には、いくつかのクリアすべき以下のような多くの困難がありました。

①被験者里沙さんにセッション証拠撮影の許可をもらうこと。

②セッションにヤラセや欺瞞の疑いを持たれぬために、社会的地位があり信用度の高い複数の同席者を確保すること。

③ネパール語を母語とする知的に優れたネパール人対話者を確保すること。

④ネパール語会話をローマ字表記にし、それを日本語に翻訳できる学識あるネパール人協力者を複数確保すること。

⑤里沙さんがネパール語を学んでいない証明のために、小・中・高・大学時代の友人、結婚前、後の友人、家族等彼女のプライバシーの徹底的身辺調査の同意を得ること。

⑥ラタラジューの語りのナル村の状況の真偽を検証するために、学識あるネパール人、できれば博士号を持ち、日本語でメールのやりとり可能なネパール人にナル村現地調査を依頼すること。

⑦里沙さんとご主人にポリグラフ(嘘発見器)検査の同意を得ること。

⑧権威あるポリグラフ検査者を探し、事情を納得してもらったうえで検査の協力を得ること。

⑨学会発表、出版、TV出演および、you-tube公開などを、本人・ご主人・子どもたちから許可を得ること。

⑩TV出演に対する心ない中傷、陰口も予測し、それに耐えてもらうことの家族の同意を得ること。

ざっと列挙しただけで、以上のような困難を乗り越えなければなりませんでした。
とりわけ、⑥⑧の調査・検査を含めて50万円ほどの費用がかかりました。
応答型真性異言の科学的検証を厳密におこなうためには、当然のことながら数十万円の費用を覚悟しなければなりません。                           科学的検証のために先立つものはまずはお金なのです。

また、予測した⑩は予測どおりに起きています。
アンビリスタッフがワゴン車を里沙さん宅の前に乗り付け、撮影機材を持ち込むのを見た近所の人が、里沙さん宅で新聞沙汰になる事件が起きたと勘違いし、ついには自治会長まで事情を探りに訪問する騒ぎになりました。

また、アンビリを視聴したご近所の人たちから、よくもまあネパール語を練習して上手に演技したものだ、そんなことしてまで有名になりたいのか、などのヤラセや売名行為だという陰口が聞こえてきたということです。

また、アンビリを視聴した霊能者を自称する人物は、自身のブログで、あることないことを立証ぬきで書き込んで、里沙さんが今後不幸にさらされるようなことを予言しています。

これまでにない新しい何かを思い切ってすると、必ず心ない誹謗中傷を免れられない、ということです。

「ラタラジューの事例」の科学的検証とその公開は、里沙さんおよび、ご家族の使命感と犠牲なしにはけっして公開されることはなかったのです。

さて、「SAM催眠学」とは、SAM前世療法の作業仮説とそれに基づく検証作業によって、明らかになってきた「諸意識現象の事実」を、SAM前世療法という固有・独自の観点によって体系化を試みようとするものです。つまり、SAM前世療法によって確認されてきた個々の「意識現象の事実」を、一定の原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとする試みです。

ここで述べている「意識現象の事実」とは、「生まれ変わりを示している意識現象の事実」を指していますが、その実証的根拠こそ、「タエの事例」と「ラタラジューの事例」の両事例です。

もし、この両事例に出会うことがなかったなら、わたしは、生まれ変わりは科学的事実だ、などという大胆な主張は到底できなかったでしょう。

当然のことながら、「生まれ変わりの事実」を、「一定の原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとする試み」である「SAM催眠学」、つまり、唯物論に真っ向から対立する主張もできなかったでしょう。

したがって、とりわけ超ESP仮説を打破する応答型真性異言「ラタラジューの事例」は、生まれ変わりの事実を探究する「SAM催眠学」の構築とその展開にとってまさに生命線です。

「ラタラジューの事例」について、唯物論側からの数々の反論・批判に対して、「SAM催眠学」からの再反論の応酬をしてきました。
そのまとめが『SAM催眠学序説その117』に掲載してあります。

ただし、諸反論のほとんどは、わたしの提示している一次証拠(具体的事例で示した証拠)に一切触れない、実証なき観念論(「仮説」でもなく単なる「憶説」)です。      したがって、独断的に反論できたつもりでも、説得力はまったくありません。

ぜなら、否定されていない一次証拠は、肯定されていると見做され、生まれ変わりの科学的証拠として、相変わらず存在し続けているからです。               。

 ところが、「ラタラジューの事例」の、事例そのものの客観的事実を認めない、つまり、なんらかの作為によるでっち上げではないか、という疑いをもつ人が少なからずいるようです。

たとえば、「SAM催眠学序説その99」の前の記事である「おことわり」の記事のコメント「習っていない別国の語学が話せるというような現象も、ネス湖の怪獣問題のように何かの少しの嘘脳機能の評価不足などの間違いなどではないでしょうか!!人は利害などでよく偽りがそのつもりがなくとも出てもきます」などに類する主張です。

こうした批判者はネット上の匿名性をいいことに、無責任で、言いたい放題をやっている輩ですからまともに相手にするのも大人気ないと思うのですが、両事例の当事者である里沙さんの名誉のためにヤラセ疑惑を払拭する確認をしておきます。

両事例を、生まれ変わり仮説を支持する科学的諸検証の結果から導かれた結論である、と主張していること、つまり、反証可能性にひらかれた形で、セッション記録映像のyou-tubeでの提示と、2冊の拙著『前世療法の探究』、『生まれ変わりが科学的に証明された!』の文字記録によって具体的に提示しているので、それらの提示された具体的諸証拠によって他者に対して、「反証可能性」にひらかれているのです。
 

反証可能性(はんしょうかのうせい、: Falsifiability)とは、

「科学哲学で使われる用語で、検証されようとしている仮説実験観察によって反証される可能性があることを意味する。
ある仮説が反証可能性を持つとは、その仮説が何らかの実験や観測によって反証される可能性があることを意味する。
例えば、「明日、太陽から昇る」という仮説は、「明日、太陽が東から昇らない」という観測によって反証されるかもしれない。
これに対して、いかなる実験や観測によっても反証されない構造を持つ仮説を反証不可能な仮説と呼ぶ」
 

というわけですから、「タエ」、「ラタラジュー」の具体的両事例にもとずく「生まれ変わり」の実証的主張は、生まれ変わりを示す映像記録と文字記録の具体的諸証拠の提示によって反証可能性にひらかれています

したがって、わたしの主張に対して、ヤラセや欺瞞であるという反論をするからには、わたしの提示した具体的諸証拠に正対し、ヤラセや欺瞞があることを立証しなければ、正しく反論たりえないのです。
正当な反論とは、そのような立証責任がともなうというのが反論のルールだということです。

にもかかわらず、反証抜きでヤラセや欺瞞を主張することは、単なる言いがかりに過ぎません。
おそらく、生まれ変わりの科学的事実を認めることに、強い恐怖、あるいは不安に駆られているのか、唯物論信仰にヒビや動揺が生じ、いわゆる「認知的不協和」による強迫的観念に怯えるからだと思われます。

あるいは、アンビリは娯楽番組であるから、おもしろおかしくヤラセを演出しているに決まっている、という偏見による先入観からの短絡的感想・主張かも知れません。
しかし、ヤラセの主体が、フジTVのアンビリ制作スタッフであるとするなら、見当違いも甚だしいと言わねばなりません。

「タエの事例」が放映されたのは2006年10月ですが、研究のために、この実験セッションの映像が撮影されたのは2005年6月です。
翌2006年5月に、「タエの事例」を収載した『前世療法の探究』が出版され、それを読んだアンビリ制作スタッフから、セッション記録映像提供の依頼が来たのが、2006年7月です。
つまり、「タエの事例」の映像撮影時点で、アンビリがヤラセなどに関与できるはずがなく、アンビリ制作スタッフによるヤラセの可能性は100%ありません。

ただし、わたしの提供したセッション記録映像の音声に1個所、わたしの了解なしにタエの音声を削除した部分があります。
タエは人柱になった理由を、「水が止まってあぶないので、上の村が水にやられるので・・・私がお供えになります」と語っていますが、「上の村が水にやられるので」の音声が削除されています。


おそらく、タエの人柱がタエの住む渋川村を洪水から守るためのものという筋書きのほうが視聴者が分かりやすいという判断があってのことでしょう。

「ラタラジューの事例」も同様の経緯があり、アンビリ制作スタッフによるセッション記録撮影時点のヤラセなど関与の余地は100%ありません。
なぜなら、「ラタラジューの事例」の実験セッションの撮影がされたのは2009年5月であり、その後にセッション映像提供のオファがあり、アンビリ放映は翌2010年8月です。

この事例がアンビリ放映に至ったのは、真性異言研究チームの末武信宏医師が知り合いの学研編集者に「ラタラジューの事例」を紹介し、2010年3月、学研の雑誌『ムー』によって「ラタラジューの事例」が特集掲載され、それを読んだアンビリスタッフからセッション映像提供の依頼が同年7月にあり、2010年8月に放映に至ったという時系列の経緯があるからです。

したがって、「ラタラジューの事例」のセッション記録撮影時点で、アンビリ制作側が、ヤラセなどの関与ができる余地はまったくありえません。

ただし、「ラタラジューの事例」の映像編集されたナレーションの中に、アンビリスタッフの依頼によって、フラッシュバックするナル村風景を里沙さんにスケッチしてもらった、というくだりがありますが、これは事実と異なります。

フラッシュバックするナル村風景のスケッチを里沙さんに依頼し、それ保管していたのはわたしです。
アンビリ制作スタッフが、ナル村の現地取材に入るというので、それならこのスケッチ風景に該当するナル村風景の有無を検証してほしい、とわたしがスタッフに預けたというのが真相です。

というわけで、アンビリ制作側からヤラセを企てることは事実関係から、一切ありえません。

とすれば、残るヤラセの可能性は、わたしと里沙さんが共謀して、タエの人柱物語を作話した、また、ラタラジューのネパール語会話の特訓をし、台本をもとにネパール語対話者カルパナさんとのネパール語のヤラセ会話セッションを捏造したという疑いになります。

しかし、こうした疑惑、つまり、被験者里沙さんは、実験セッション以前にタエに関する諸情報やネパール語についての諸情報を入手していたのではないか、という疑惑については、詳細な生育歴調査と、ポリグラフ検査鑑定によって明確に否定されています。

また、「タエの事例」では、岐阜県多治見県病院消化器外科部長医学博士酒向猛医師、市川千秋皇學館大学教授、小野口裕子可児市教育委員長、「ラタラジューの事例」では、大門正幸中部大教授、同大学岡本聡准教授、医学博士末武信宏医師などが、見学者として同席しています。

社会的地位のある複数の人たち全員が、ヤラセを納得し加担する可能性は、常識的にありえるはずがないでしょう。

そのように受け取ってもらえるように、後々このセッション証拠映像にヤラセや欺瞞の疑惑をかけられないように、社会的地位のある複数の見学者の同席を許可したという意図があるのです。

ここまで説明しても、ヤラセ疑惑を払拭していただけないとすれば、いったいどのような説明や証明をすれば疑惑が晴れ、生まれ変わりの可能性を認めるのですか、とお尋ねしたいと思います。

もはや「縁なき衆生」と言うべきでしょう。

わたしが、生まれ変わりの実在を認める主張をしている理由は、

①これまでのクライアントにあらわれる霊魂に関する「意識現象の事実」を、魂の実在や生まれ変わりの証拠として認めても、直感に著しく反していないからであり、            

②霊魂の実在と生まれ変わりを事実として認めることが、不合理な結論に帰着しないからであり、                                     

③前世人格の顕現化という霊的現象(とりわけ応答型真性異言現象)が、唯物論的枠組みからはどうしても説明できない、

からです。

 

【追記】                                    you-tube公開の「タエの事例」「ラタラジューの事例」の映像編集はSAM催眠塾生Y氏、「ラタラジューの事例」の英語版編集はY氏の妹さんに全面的なご協力をいただきました。 ご両人のご協力がなければ、you-tube公開はできなかったでしょう。           

この場を借りてあつくお礼申し上げます。

2021年10月18日月曜日

わたしの生まれ変わり探究の原点

 SAM催眠学序説 その144


2005年の「タエの事例」から16年、2009年「ラタラジューの事例」から12年を経て、セッション当初は謎であったことを少しずつ解いてきました。

わたしは、この両事例の徹底的検証の結果をもって、現時点で少なくとも被験者里沙さんには、生まれ変わりが科学的事実として認められる、と宣言してよいと思っています。
生まれ変わりは、「信仰」などではなく「科学的事実」である可能性が高いのです。
そして、被験者里沙さん一人に起きている生まれ変わりが、他の人たちにも起きている蓋然性も高いと考えていいと思っています。

なぜなら、他の人たちのSAM前世療法セッションにおいて、ラタラジューを呼び出したと同様の手続きによって、ラタラジューと同様の前世人格が顕現化するからです。
つまり、魂状態の自覚に至れば、魂の表層に存在する前世人格の顕現化が間違いなく起こるからからです。

これまで20名を越える医師・大学教員など知的レベルが高く、容易にSAM前世療法の作業仮説を認めることはなさそうなクライアントであっても、作業仮説どおりの意識現象の事実、つまり「魂状態の自覚」と「前世人格の顕現化」、および「守護的存在との出会い」などが起こっています。
こうして、SAM前世療法セッションを体験された国立大1名、私立大2名の大学教授がわたしの主宰している催眠塾に入塾しSAM前世療法の作業仮説と技能を学ばれました。

この意味で、SAM前世療法には、その作業仮説と技能を学び、同様の手続きによれば、同様の結果がだれにでも得られる、という「再現性」があります。

しかしながら、検証可能な具体的内容を語る前世人格は、きわめて稀であることも事実です。
とりわけ、催眠中に起きた応答型真性異言は、イアン・スティーヴンソンの公表している2事例を加えても、世界で3事例しか在りません。
しかし、検証できないからといって、顕現化した前世人格がフィクションであるという断定は、「ラタラジューの事例」を前にしては、できるとは思われません。

こうした、幾多のセッションに現れた意識現象の累積から、わたしが、魂と生まれ変わりの実在を認める立場をとる理由は、

それが直感に著しく反していないからであり、

それを認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、

その霊的現象が唯物論的枠組みからは説明できないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、わたしの守護霊団を称する通信霊の告げた、魂と意識の所在の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。
この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。

ラ タラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが、ネパール語の真性異言で会話した証拠映像を前にして、魂や生まれ変わりの実在を 回避するために、心理学的概念を駆使してクライアントの霊的な意識現象に対して唯物論的解釈をすることは、現行唯物論科学の知の枠組みに固執し束縛された不自然な営み だ、とわたしには思われるのです。 

そして、クライアントの示す意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
魂や生まれ変わりの実在を認めることを回避する立場で、あるいはすべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって顕現化した前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得できる説明ができるのでしょうか。

ち なみに、生まれ変わりの科学的研究者イアン・スティーヴンソンも、「グレートヒェンの事例」において、真性異言で会話したグレートヒェンを名乗るドイツ人少女を「ドイツ人とおぼしき人格をも う一度呼び出そうと試みた」(『前世の言葉を話す人々』P11)と解釈し、呼び出された前世人格を「トランス人格」(前掲書P9)と呼んでいます。
つまり、催眠下で前世人格を呼び出し顕現化させる、というSAM前世療法におけるわたしと同様のとらえ方をしています。

おそらく、この被験者も里沙さんのような高い催眠感受性を持ち、タエやラタラジューの人格同様、催眠下で一気に魂状態になり、その表層に存在している前世人格グレートヒェンが顕現化したと推測してよいように思われます。

「タ エの事例」と「ラタラジューの事例」は、わたしにとって、まさに掌中の珠であり、わたしのセラピスト人生で遭遇した僥倖でした。
イアン・スティーヴンソンが世界中を二十数年かけて探し求め、わずか3事例しか発見できなかった応答型真性異言を、わたし自身のセッションで直接自分の手で確認できるなどということは想像すらできなかっ たことでした。
しかも、「ラタラジューの事例」は、応答型真性異言発話中の世界初の映像証拠を残しています。
ただし、「タエの事例」にしても「ラタラジューの事例」にしても、当の前世人格の実在が文書等の記録ではどうしても確認できませんでした。

生 まれ変わりを裏づける科学的証拠のような重大な問題においては、完璧なもの以外は証拠として受け入れられないと批判されるのであれば、この問題がきわめて重要であ るからこそ、不完全なものであろうが可能性を示す証拠については、科学として検討するべきだと考えます。
細部が不明、不完全であるという欠陥があろうと、 重要なことについて確実なことを示す事実にこそ意味があると考えます。
そして、不完全であっても、重要なことについて確実なことを示す生まれ変わりの証拠は、これまでの海外の事例の諸研究によって、その証拠を根拠に生まれ変わりを認めることが自然ではないかと考えられるだけのものが蓄積されています。

さて、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」は、それぞれ2006年、2010年にアンビリバボーに取り上げられ、証拠映像が部分的に放映されています。
セッションの全容でなく部分的放映であったがゆえに誤解が生じ、様々なご意見をいただきました。
そこで、両事例の全セッション映像を、ほぼ1年かけてyou-tube公開用に制作してきた仕事が完成しました。
 
わたしは、自分では、けっして「生まれ変わり研究」オタクではないと自認しています。
わたしをとりまく政治・経済の問題、原発問題、国家の安全保障問題等の諸問題について人並み以上の関心を寄せています。
そして、現状の日本と世界の先行きに不安と危機感を抱いています。

生まれ変わりが事実であること、霊的存在が実在することを証明し、発信することは、こうした現実の諸問題と無縁な、一見浮き世離れした暇人の仕事に思われるでしょ うが、生まれ変わりを事実だと認めるならば、人間の生き方に対する見方、考え方は言うに及ばず、自然界のあらゆるものに対する見方、考え方も根本的な変更を迫られ るはずだと思っています。
 

生まれ変わりを事実だと認める人々が、必ずや当事者性をもって、自分が生まれ変わるはずの地球、世界、日本の未来を真剣に考え、「生まれ変わる自分のために」、必要な政治的諸行動や経済的諸活動、諸学問研究活動をおこなうだろうと期待をしています。

そして、何よりも、死後は無に帰するわけではなく、魂と呼ぶ意識体は死後も存続し、時を経て新しい肉体を得て再び生まれ変わることを、科学的事実として認めることは、わたし自身の救いでもあります。
 

わたしは小学校6年生の冬に、可愛がってくれた祖父の遺体が焼かれていく有様を遺体焼却炉の覗き穴から目前で見てしまって以後、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」に出会うまで、死ぬことに対して極端な恐怖を抱いて生きてきた情けないほどの臆病者でした。
わたしは、「死ぬことなんか怖くない」と公言出来る人をどうしても信じられない臆病な人間です。
「帰無仮説」によっては、人間は、少なくともわたしは、けっして救われることはないと思い続けていました。
死があるからこそ生を充実する、などの言辞は、現実の死を目前に突きつけられたことのない、死を観念的にしかとらえていない人間の戯言に思えたのです。

死んだら最後、愛する者たちと永遠に別離しなければならないと考えることは、まさに寂寥と悲痛の極みであり、ニヒリズムに落ち込むこと、鬱状態に落ち込むことを繰り返してきました。
その悲痛を忘れるために、大型バイクをすっ飛ばしたり、疲労の極まで泳いだり、足腰が立たないほど山に登ったりしたのだろうと思います。薬物が手軽に手に入れば、やっただろうと思います。

だからと言って、わたしは宗教に救いを求めるという心性を持てない人間です。
「生まれ変わり仮説」の科学的・実証的探究を続けているのは、自分の手で確認し、何よりもわたし自身が納得でき、悲しみから救われたいからです。
だからこそ、生まれ変わりという重要な問題を科学の方法を用いて執拗に真剣に探究することが続けられるのだと思っています。

生まれ変わりなど絶対に認めたくない人は、生まれ変わりを否定する証拠をもって反論する以外に方法はありません。
「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を、生まれ変わりの証拠として絶対に認めたくない人のために、具体的反証可能性にひらかれているという意味をこめて、セッション全容の証拠映像の公開が必要であると思ってきたところです。その思いがやっと叶いました。

生まれ変わりについて真面目に考えている、できるだけ多くの人に見ていただきたいと思っています。

公開動画は http://samzense.blogspot.jp/p/blog-page_21.html です。

2021年9月23日木曜日

比較:SAM前世療法と一般の前世療法

SAM催眠学序説 その143


前世人格と対話する「SAM前世療法」には、前世記憶を想起する一般の前世療法と比較して、いくつかの特徴が指摘されています。

前世の記憶を想起させる一般の前世療法でうまくいかなかったクライアントで、SAM前世療法で成功しなかった事例は今のところありません。
両方の前世療法を経験したクライアントは数十名にのぼります。

この両方を経験したクライアントによって報告される共通項は次のように二つあります。

①催眠中の意識状態が明らかに違う。SAMの場合、一般の前世療法と比べて、明らかに深いレベルの意識状態に入ったという自覚がある。

②前世の記憶を想起する前世療法では、セラピストの質問に対して口頭で答えられるのに、SAMの場合に魂状態の自覚に至ると口頭で答えることができなくなる。


さて、①について、一般の前世療法では、心理学系催眠法の「標準催眠尺度」によって確認されることなく誘導が進められるので、どの程度の催眠深度に至って前世記憶の想起がおこなわれているのかが不明です。

かつて、わたしが前世の記憶想起をねらう一般の前世療法でおこなっていたときでも、「運動催眠」→「知覚催眠」→「記憶催眠」の順に、催眠深度を成瀬悟策医博の「標準催眠尺度」を用いて確認し、「記憶催眠」レベルの深度到達後、年齢退行によって子宮内まで退行してもらい、「子宮に宿る前の記憶がもしあれば、そこへに戻ります」という暗示をしていました。

しかし、わたしの知る限りにおいて、催眠深度の確認がされない一般の前世療法体験者の意識の体験内容からは、「記憶催眠」より浅い催眠深度でセッションがされている印象を受けます。

一般の前世療法の体験者報告では、SAM前世療法のほうが明らかに深い意識状態だという報告が相次いでいるからです。

ちなみに、かなり著名な、一般の前世療法女性セラピストが、SAM前世療法を初体験して、こんなに深い催眠状態は初めて体験したと自身のブログで語っています。

催眠学の明らかにしているところでは、「知覚催眠」レベルでは、五感が暗示通り知覚されるようになります。
つまり、五感のさまざまな知覚(幻覚)を、暗示によってつくり出すことが可能です。

また、創造活動が活性化され、自発的にイメージが次々に現れるようになります。
それで、被験者は、そうした自発的に出てくるイメージに対して、自分が意図的にイメージをつくり出しているという自覚をもつことはありません。
つまり自発的なイメージが架空のものとは感じられず、自分の中に潜んでいた前世の真実の記憶がイメージ化して見えてきたという錯覚をもつ可能性を排除できません。

こうした事情はSAM前世療法でも同様でしょう。

クライアントに顕現化した前世人格とは、クライアントの願望が投影された架空の人格であり、そうした架空人格の役割演技としての語りである可能性を排除できません。

ただし、SAM前世療法では被験者リサさんに顕現化した「タエ・ラタラジュー」の両前世人格の語りを検証して、語り内容の事実の信憑性が極めて高いという検証結果を確認しています。

こうした催眠中に現れる自発的イメージ体験の性格を根拠にして、大学のアカデミックな催眠研究者は、前世療法における前世の記憶はセラピストの暗示と、その期待に応えようとするクライアントの無意識的努力によって引き起こされた「フィクション」である、と口をそろえて主張します。
催眠中のクライアントが、セラピストの期待を察知し、その期待に無意識的に応えようとする心理的傾向を催眠学では「要求特性」と呼んでいます。

わたしの敬愛してやまない故成瀬悟策先生もこうした立場をとっておられます。
わたしの遭遇した「タエの事例」は、要求特性によって語られた前世のフィクションだととらえなさい、さもないと危ういですよ、という戒めのコメントをいただいています。

SAM前世療法では、催眠深化の誘導プロセス中に必ず「知覚催眠」レベルの深度に至っていることを標準催眠尺度を用いて確認します。
知覚催眠レベルに至ることができない深度で、魂状態の自覚まで遡行できないことが明らかになっているからです。
そして、知覚催眠に至れば、次の深度レベルである「記憶催眠」に至ることがほぼ確実です。
したがって、SAM前世療法では記憶催眠レベルの深度確認はおこないません。
記憶催眠の確認を省いて、さらに深度を深めていきます。
これまでの標準催眠尺度にはない「魂遡行催眠」とわたしが名付けている深奥の催眠レベルにまでひたすら深めます。
身体の自発的運動と自発的発話は完全に停止し、リラックスによる筋肉・関節の完全な弛緩状態へと誘導してしていきます。

SAM前世療法ではこうした最深度の催眠状態にまで誘導するので、したがって、当然ながら一般の前世療法より深い意識状態に至ったという報告が共通してされるのではないかと推測しています。

②については、その解明は容易ではありません。
 
SAM前世療法の魂の自覚状態では、顕現化した前世人格が口頭で答えられる割合は、およそ20人に1人、5%程度しか口頭で話せません。20人のうち19人までが、どうしても口頭で答えることができないと指の応答によって答えます。
一般の前世療法ではこうした声が出ない、音声化できないことは起こりません。
一般の前世療法体験者は、誰でも前世記憶のビジョンを口頭で報告することが可能です。

この口頭で話せないという現象は、SAM前世療法の催眠深度が一般の前世療法よりも深く、したがって、筋肉の弛緩状態がきわめて深く、声帯も舌も弛緩し切っているので発音できないのではないか、という推測できそうですが、これはどうも的外れのようです。
SAMの作業仮説に理由を求めることができるのではないかと考えています。

一般の前世療法では、「前世の記憶として現れるビジョンをクライアントが報告する」という前提になっています。
あくまでクライアントが「前世の記憶」を想起し報告するのです。

SAM前世療法では、「顕現化した前世人格が、クライアントの身体を借りて対話する(自己内憑依する)」という作業仮説でおこないます。
前世人格は、当時のままの感情を持ち続けて、肉体のない意識体として魂の表層に現在も死後存続している、霊的存在だと想定しているのです。
こうして、多くのクライアントは、顕現化した前世人格の喜怒哀楽の感情を共体験します。
ビジョンが現れず、感情のみの共体験で終わる場合もあります。
療法としての改善効果は、ビジョンより感情のほうが有益ですから、それでいいと思っています。

わたしの対話相手は現世を生きているクライアントではなく、肉体をもたない前世人格という死者なのです。
死者である前世人格のほとんどが、肉体を失ってすでに長い時間を経ている存在です。
そこで、何人かの前世人格に、なぜ話すことができないのかその理由を指で回答してもらうことを試みたところ、「長い時間を経ているので、生まれ変わりである現世の者の発声器官の操作を忘れているから、どうしても声に出すことが難しくてできない」という回答でした。
指を起こす、うなづくという単純な操作なら、現世の肉体を借りてその動作で回答することが可能である、ということでした。
一理あるとは思いますが、さらに探究する必要があると思っています。

ここで注目すべきは、SAM前世療法においては、クライアントは前世人格の霊媒的な役割を担うということです。

わたしは、クライアントの意識の中に顕現化した(自己内憑依した)死者である前世人格と、声帯にしろ指にしろ、現世のクライアントの肉体を借用して自己表現をする前世人格と対話するという形をとっているのです。
つまり、クライアントは、自分の身体を自分の魂の表層に存在する前世人格に貸している霊媒的役割を担うことになっているということです。
前世人格は、現世の肉体を媒介にして、現在進行形でわたしと会話をしている、これがSAM前世療法のセッション構図になっているということです。

そして、このような信じがたいセッションの構図は、「ラタラジューの事例」によって証明されたと思っています。

そしてまた、わたしあて霊信の恩恵によるSAM前世療法は、わたし以外に誰も発想できるはずのない療法でしょう。
正しくは、わたし独自の発想によるものではなく、霊信からの教示によるものです。

里沙さんの前世人格ラタラジューは、セッション中にネパール語話者カルパナさんと次のような現在進行形でのやりとりをしています。

里沙: Tapai Nepali huncha?
   (あなたはネパール人ですか?)

カルパナ: ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)

里沙: O. ma Nepali.
   (ああ、私もネパール人です)

つまり、前世人格ラタラジューは、今、ここにいる、ネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、今、ここで、問いかけ、その回答を確かめているわけで、「里沙さんが潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示しています。
このラタラジュー は、現世の里沙さんの肉体(声帯)を借りて、現在進行形で会話をしている前世の人格です。

里沙さんは、カルパナさんとラタラジューのネパール語会話の媒介役として、つまり霊媒的役割としてラタラジューに身体を貸している、とそういうことにほかなりません。
それは、このラタラジューのセッション直後に書いてもらった次の点線内のセッション体験記録からも確認することができるでしょう。

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セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。
こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。
 
思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。

ラタラジューの前に、私の守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの78年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。

はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。

なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。

悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。

カルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。

セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。

ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 
ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。

こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。

(後略)
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でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした」、「ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした」という里沙さんの述懐は、彼女がラタラジューに「体を貸している」、霊媒的役割をまさに果たしていた、ことを如実に語っていると思います。

イアン・スティーブンソンは、退行催眠中に現れ、検証を経て信頼できる、応答型真性異言を2例あげています。ともにアメリカ人の女性2名に現れた「イェンセンの事例(スウェーデン語)」と「グレートヒェンの事例(ドイツ語)」です。

ちなみに、スティーヴンソンも、わたしと同様、顕現化した前世人格を「トランス人格」(催眠下のトランス状態で現れた前世の人格)と呼んで、真性異言の話者を、クライアントとは別人格の顕現化による応答的会話だ、ととらえています。(『前世の言葉を話す人々』春秋社、P.9)

つまり、クライアントが前世の記憶として応答型真性異言を語ったとは考えていません。
それでは、そうした死後存続しているトランス人格の所在しているところはいったいどこなのか、についての言及は一切ありません。

 「ラタラジューの事例」を含めても、催眠下で偶発し科学的な検証済みの応答型真性異言事例は、世界にこれまでたった3例の発見しかありません。
ほかに覚醒中に起きた偶発事例が2例あります。 

しかも、すべて20世紀中の発見であり、21世紀になってからは「ラタラジューの事例」(2009年)が最初の事例です。

付言すれば、この事例は、応答型真性異言の発話中の撮影に成功した世界初の事例です。

 生まれ変わりが普遍的事実であるならば、なぜもっと多くのクライアントが応答型真性異言を話せないのか、これは、ほんとうに大きな謎です。

スティーヴンソンが存命中なら、「ラタラジューの事例」を自ら調査にくるだろうと、スティーヴンソンの著作の訳者であり、彼と親交のあった超心理学者笠原敏雄氏は述べています。
わたしも、かなわぬ夢ですがスティーヴンソンに、この謎解きの見解を尋ねてみたいものだと思います。  

 

さて、最後にSAM前世療法のセッションに特徴的な「霊的意識現象の事実」を3点述べてみます。

その一つが、クライアントに憑依していると思われる、残留思念の集合体である「未浄化霊」と呼ばれている霊的存在が顕現化してくる意識現象が珍しくないことです。

この「未浄化霊」との対話がSAM前世療法では可能です。

「未浄化霊」は、理解と救いを求めてクライアントの霊体(オーラ)に憑依してくると語ります。

この「未浄化霊」を浄霊して取り除かないと、魂状態の自覚に到達できず、したがって、前世人格が顕現化できないのです。

直近の浄霊事例では、魂遡行を妨げていた「未浄化霊」は10歳に満たない少女でした。

東北大震災の津波に呑まれて命を失い、両親を求めて浮遊していたところ、自分を理解してくれそうなクライアントに出会い、救いを求めて憑依していた、と語りました。しかも、他にも複数の「未浄化霊」が憑依していると教えてくれました。

こうして、すべての 「未浄化霊」を浄霊したのち、首尾よく求める前世人格の顕現化に至りました。

二つ目は守護霊と呼ばれる霊的存在が、求めに応じてクライアントに憑依し、必要なメッセージを告げるという「意識現象の事実」が生じることです。

直近の事例では、魂状態の自覚まで到達できたにもかかわらず、魂表層に存在しているはずの前世人格が求めに応じて顕現化してこないので、そのわけを知るために守護霊に憑依を求めてみたところ、その守護霊と思われる存在の憑依が起こりました。

憑依し顕現化した守護霊のメッセージによれば、当該クライアントが前世を知る時期にまだ至っていない、今、前世を知ることは害が大きいので、クライアントを守るために禁じざるを得ないが、いずれ時期が至れば直感あるいは夢で許可する、ということでした。

三つ目は、「魂状態の自覚」に至ると、守護霊との出会いとテレパシーによる対話という「意識現象の事実」が必要に応じて起こり得ることです。

ただし、守護霊との出会いを果たす割合は70~80%程度で、望めば誰もが守護霊と出会え、メッセージを受け取れるわけではありません。

守護霊との出会いのイメージは、①白いガウン状のころもに身を包んだ人間的な姿で現れる、②白い光など光のイメージとして現れる、③姿や形は無く温かい気配を感じ、ラップ音が伴う、というように三通りに類別できるようです。

また、メッセージ内容はテレパシーによって伝わるようで、その内容は抽象的であり具体的な指示はない、という共通点が指摘できます。

 たとえば、質問すると、「このことについては、あなたが胸に手を当てて考えればおのずと解答が出てくるでしょう」、「あなとの直感にしたがって進めばよいでしょう」というように、簡潔かつ一種曖昧な言い回しで告げられることがほとんどのようです。

一般の前世療法においても、守護的存在との出会いや接触があることを耳にしたことがありますが、かなり具体的な内容のメッセージであるようです。

SAM前世療法において「魂状態の自覚」に至ると体重の感覚がなくなると報告されます。

これは肉体につながっている魂の、肉体とのつながりが消滅し、魂が肉体と分離した状態になった結果ではなかろうかと推測しています。

SAM前世療法の定義では、「霊」が肉体に入っている状態を「魂」と呼び替える、としていますから、魂が肉体から分離した状態とは、つまり肉体を持たない「霊」と同様の次元にあり、そのため守護霊という霊的存在との出会いが容易になっていると推測されます。

「魂状態の自覚」を体験したクライアントの中には、それをきっかけに、その後ある種の霊能力と呼ばれている能力が覚醒したと思われる事例がまれではなく起こるようです。

守護霊との対話を望めば覚醒状態でも可能になる、予知能力があらわれる、直感力が鋭くなり当たるようになる、ヒーリング能力があらわれる、霊媒能力があらわれる、などです。

海外の交霊会の体験者にも種々の霊能力、とりわけ霊媒能力などがあらわれた事例が少なからずあります。

 こうして「魂状態の自覚」に至り守護霊と対話する体験とは、言わば交霊体験ですから体験者に前述のような霊能力が覚醒しても不思議ではないと言えます。

 SAM前世療法は、先行研究皆無のまったく新しい前世療法で、これまで手探りで探究を進めるしかありませんでした。

そこにあらわれる「意識現象の事実」は、謎に満ち満ちています。

さらに実直に探究を深め、生まれ変わりを実証していく、持続する志を忘れないで進みたいと思います。

2021年8月25日水曜日

イアン・スティ-ヴンソンから学ぶ

SAM催眠学序説 その142

2005年の「タエの事例」、2009年「ラタラジューの事例」において、タエの人生とラタラジューの人生が、被験者里沙さんの「前世記憶の想起」ではなく、「タエの人格・ラタラジュー人格そのものの顕現化」したものだとすれば、そのような前世の人格は、いったいどこに存在しているのでしょうか。

これが「タエの事例」以後、「ラタラジューの事例」の遭遇まで、4年以上にわたってわたしを悩ませることになった大きな謎でした。

この謎について言及した先行研究は、生まれ変わりの科学的研究の先駆者イアン・スティーヴンソンに求めるほかないと思われました。

以下は、イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、1989、からの抜粋です。
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生まれ変わったと推定される者では、先述のイメージ記憶、行動的記憶、身体的痕跡という三通りの要素が不思議にも結びついており、前世と現世の間でもそれが一体になっていなかったとは、私には想像すらできない。
このことからすると、この要素(ないしその表象)は、ある中間的媒体に従属しているらしいことがわかる。

この中間的媒体が持っている他の要素については、おそらくまだ何もわかっていない。

前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォア)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。

私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う。(中略)

私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。

そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。
実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返さ れた過去世の人格に由来する「個性」なのである。

人格は、一人の人間がいずれの時点でも持っている、外部から観察される心理的特性をすべて包含しているの に対して、個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる。

したがって、私たちの個性には、人格としては決して表出するこ とのないものや、異常な状況以外では人間の意識に昇らないものが数多く含まれているのである。
(前掲書PP.359-360)
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イアン・スティーヴンソンの言う「中間的媒体」、あるいは「心搬体(サイコフォア)」は、いわゆるわたしの言うところの「魂」と同義です。
厳密な科学者スティーヴンソンは、「soul(魂)」という語にまとわりつく宗教臭を払拭し「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体」という科学的定義を明確にしたのだと思われます。
 

ただし、わたしは、前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を、そのまま従来の「魂」の概念でも不都合はないと思いますし、新しい概念でもないのに「心搬体」などの新しい造語を用いることは不要だと思っています。
 

さて、前世人格の所在についてのスティーヴンソンの結論は、「心搬体(サイコフォア)」=「魂」が、前世人格の所在であるということになるのでしょうか。

また、彼の、「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う」という見解は、SAM前世療法の作業仮説を設けるときの重要な参考となっています。
 

つまり、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化(変化)する仕組みになっている」という仮説を支持する見解だと言えそうです。

ただし、スティーヴンソンは、「心搬体」=「魂」を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない、と述べています。

「魂は二層構造になっており、その表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格たちは互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・ 進化する仕組みになっている」というのが、SAM催眠学における作業仮説です。

つまり、「心搬体」=「魂」の表層全体は、変化していくものだということを、その後の、SAM前世療法のセッションで顕現化した前世人 格の語りから確かめています。

さらに、「一つの『人格』がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しない」というスティーヴンソンの見解は、そのままSAM催眠学が主張する見解と同様です。

「現世の私」という一つの人格が、その死後、来世にそのままそっくり生まれ変わるわけではなく、魂表層を構成する一つの前世人格として生き続けるのであって、「表層を構成する前世諸人格を含めた一つの魂全体が新しい肉体に宿ることを生まれ変わりと言うのだ」というのが、SAM前世療法セッションで示される生まれ変わりの実相だと言えます。

また、「実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する『個性』なのである。個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる」というスティーヴンソンの見解も、わたしのSAM前世療法で得た知見にほぼ一致します。

現世の個性は、魂表層に位置付いている前世人格たちのそれぞれの人生の知恵を分かち与えられており、このようにして繰り返された前世の人格に由来する「個性」と、現世での諸経験とによって、形成されているに違いないのです。

さて、わたしが、スティーヴンソンに求めたのは、前世の記憶を語る子どもたちの「前世の記憶」の所在についての考究でした。

彼が、「前世の記憶」が脳にあるとは考えていないことは、「心搬体」という死後存続する「媒体」、つまり、魂を想定していたことに照らせば、間違いありません。

わたしの期待したのは、彼の言う「心搬体(魂)」と、「前世の記憶」および「脳」との関係についての考究です。

前世の記憶を語る子どもたちは、その前世記憶の情報を、心搬体から得て話したのか、脳から得て話したのか、それとも記憶ではなく、前世の人格の顕現化であるのか、いずれなのでしょうか。

しかし、スティヴンソンの著作は、この問いについてはなにも解答を与えてくれませんでした。

わたしが求めた解答を与えてくれたのは、人間ではなく、わたしの守護霊団を名乗る霊的存在でした。
 

わたしの守護霊団を名乗る存在の教示した内容の要約は次のようです。

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脳は意識を生み出してはいない、脳と意識は密接な相互関係、対応関係にあるが、本来別物である、とする立場を「意識と脳の二元論仮説」という。

脳が意識を生み出すという因果関係を否定する仮説である。                              大脳生理学者でノーベル賞学者の、ペンフィールド、スペリー、エックルズ、催眠学者の成瀬悟策などが実験研究の末に晩年になって唱えている。

しかし、彼らは、それでは意識どこで生まれるのか、という根本問題については一切述べていない。彼らにも分からないのである。
 

SAM催眠学では、わたしあて霊信の告げている「魂の二層構成仮説」を採用し、意識を生み出しているのは、魂表層を構成している前世の者たちである、と考えている。
魂の二層構成」を理解しやすいように、円を用いて二次元モデルの単純化した模式図にしたものが下図である。

 

  「魂の二層構成とその転生の模式図]


左から右への矢印は時間軸を意味している。
大円、魂の核Xの下に引いてある接線は、魂表層の死者である「前世の人格」と、肉体を持つ「現世の人格」の区別のための補助線である。
つまり、補助線より下の小円が肉体に宿る現世の人格になる。
補助線より上の小円が、死者であり肉体のない前世の諸人格である。
したがって、右端の3つ目の模式図を例にとると、魂表層の現世人格小円Cは、小円Aと小円B二つの前世人格とともに、3回目の現世の人生を送っている魂をあらわしている。

意識は魂表層の小円A、小円B、小円Cなどの前世人格たちと現世人格が生み出しているというわけである。

魂の転生の仕組みを模式図の時間軸にしたがって説明してみる。

魂の核大円(X)は、最初の肉体に宿ると、その表層に小円という現世人格(の意識体)を生み出す。(左端の図)

現世人格(の意識体)はその肉体の死後、魂の核大円(X)の表層を構成する前世人格(の意識体)小円Aとして位置づき、死後も魂表層に存在し続ける。(真ん中の図)

そして魂は、次の来世の肉体に宿ると、新たに小円という現世人格(の意識体)を魂表層に生み出す。(真ん中の図)

さらに小円Bという現世人格(の意識体)は、肉体の死後魂表層の前世人格(の意識体)小円Bとして位置づき、先に位置付いている前世人格小円A(の意識体)とともに魂表層を構成し死後存続する。(右端の図)

次の来世では小円Cという現世人格(の意識体)を魂表層に生み出し、先に表層に位置づいている前世人格小円A(の意識体)・B(の意識体)とともに魂表層を構成する。(右端の図)

このように、魂の核であるは、新しい肉体を得るたびに諸前世人格(の意識体)を魂表層に次々に位置づけ魂表層の構成単位として包含し、転生していく。
現世人格であった(の意識体)・B(の意識体)・・・は死後も、それぞれの生前の人格、個性、記憶を保ちながら、魂の核とともに魂の表層を構成するそれぞれの諸前世人格(の意識体)として死後も存続している。
これを「魂の二層構成仮説」と呼ぶ。
つまり、「核となる意識体」と、その「表層を構成している諸前世人格(の意識体)」の二層を合わせた全体を「魂」と呼ぶ。

こうして、生まれ変わりの回数分だけの前世の諸人格(の意識体)が、現世人格(の意識体)とともに魂の表層を構成しながら意識体として死後存続している、というのがSAM前世療法で確認できた意識現象の累積によってが明らかなってきた魂の構成とその転生の仕組みである。
なお、肉体を持たない魂を「霊」と呼び、肉体という器に宿る霊を「魂」と呼ぶ。

そして、魂は、表層を構成する前世の諸人格のすべてのものがつながり持ち、友愛を築き、与え合うことを望んでいると霊信は告げているので、当然現世の人格は、多かれ少なかれ、また良かれ悪しかれ、前世の諸人格の智恵(意識体)の影響を受けていることになる。

また、転生するたびに、魂表層に現世人格が 新たに位置付き、前世諸人格の智恵が分かち合われるので、魂表層を構成している現世人格と前世人格たち全体の集合的意識は、転生することによって変化していくことになる。
より完全な存在へと向かう方向性、志向性に支えられたこうした魂の変化を、「魂の成長・進化」と呼んでいいのではないかと思っている。

ちなみに、魂の核である意識体Xについて、わたしあて霊信では「ある意識体」とだけ告げており、その実体については謎のままである。
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SAM前世療法では、「魂遡行催眠」の誘導技法によって、「魂状態の自覚」まで誘導し、魂表層を構成している前世人格たち「小円A」や「小円B」を、現世の肉体を用いて顕現化させ(憑依させ自己表現させ)、この「自己内憑依」によって顕現化した前世人格と対話する、という仮説と方法論によってセッションを展開していきます。

2021年の現時点で、SAM前世療法のこれらの仮説に反する事例は出ておりません。

you-tubeに公開している動画「タエの事例」「ラタラジューの事例」がなによりの実証です。

タエもラタラジュー も被験者里沙さんを魂状態の自覚まで催眠誘導し、彼女の魂表層から呼び出した前世人格の語りなのです。

そして、両前世人格の語りの詳細はでたらめではなく、歴史的事実と照合したところ重要な点に誤りはなく、また、語り内容について里沙さんが事前に情報を入手していないことがポリグラフ検査によってよって証明されています。

唯一、両前世人格の実在していた文書上の証拠記録だけが、どうしても発見することができなかったということです。

このことについては、スティーヴンソンの次のような、生まれ変わり研究上の見解を妥当だと支持しています。

前世人格の実在していた文書上の証拠記録が発見できないことを、もし些細な点だと考えるならば、

些細な点に正確であるよりは、重要な事象について確実なことを知ることのほうが意味があると私は考ている」(イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、1989、P.26) 

2021年7月19日月曜日

SAM前世療法の理論と実践

SAM催眠学序説 その141

これまでの記事において、SAM前世療法の実践であらわれた様々な「意識現象の事実」と、わたしあて霊信内容との照合についての検証を紹介してきました。

ここでは、この10年間で実践してきたSAM前世療法であらわれた意識諸現象の理論化を試みてきた基本的考えかたについてまとめてみます。

まず、「理論化」とは何かについて、わたしが上越教育大学大学院で師事した敬愛する杵淵俊夫先生(教育学博士)の教育哲学講義ノートを読み返し、以下にまとめてみます。
 

「理論」とは、事態をある観点から見て述べたことばであり、事態そのものではありません。
したがって、観点が異なるにつれて、さまざまな論じ方が成り立ちます。
そして、それぞれの論じ方はいずれも、そのカテゴリー(範囲)においては正しいと言えます。

こうして、理論とは事態をことばで整理し、仮の秩序にあてはめたフィクションと言えます。
理論化の試みとは、そのカテゴリーにおいて、その事態の論じ方によって、簡潔・明快に説明が成功すれば、とりあえずその理論を真理とみなそうとする立場に立とうということです。                                            この真理観は、プラグマティズムの真理観です。

さて、諸科学の特殊専門的探究の過程ないし途上において構成される諸対象は、大別すると「事実」と「観念」とに分けられます。

それら諸対象は、そのままそれ自体として実在するもの、あるいは実在するものの全体としてあるがままの把握とその表現ではなく、探究途上の特殊・固有の観点に基づいて構成されたものです。

理論化するという作業は、一定・特殊な固有の観点・立場に立って、それと関係のある一定の事象の、さらにまた一定・特殊な側面(性質・機能・要素など)のみを、選択的に注目し、抽象・加工・精錬して、所定の定義された用語でもって記述・表現するということです。

理論化作業は、他方において、諸々の「事実」ないし「データ」を可能な限り合理的なしかたで関係づけ、説明し、解釈するような問題的状況の構図を想像上、構成してみることによって果たされていきます。

その結果として、当然のことながら諸科学の「対象」は「操作的」性格を帯びることになります。
諸科学の「対象」(事実・データ・観念・仮説)は、一定・特殊な探究の意図・目的を追求する作業の操作の過程の文脈の中で初めて、一定の明確かつ厳密に規定された位置を獲得し、特殊な、一面的、部分的な役割をになうものであり、諸「対象」のになう意味は、全く、探究の操作の文脈に依存しているということです。

わたしは、これまでの前世療法への疑問を抱いていたところへ、わたしあて霊信現象が起こり、それが告げた内容の真偽を検証する作業を進め、その過程で新たな催眠技法や方法を工夫・考案してきました。

そうした作業の過程で、その作業(仮説)の客観的裏づけとして「タエの事例」、および応答型真性異言「ラタラジューの事例」を得ることができました。

こうして、「SAM前世療法」と名付けた新しい前世療法の理論と仮説の一般的応用への保証を求めて、現時点でのSAM前世療法であらわれる「意識現象の事実」を対象に、理論化の作業を進めてきたということです。

この理論化作業は、SAM前世療法創始者として、この療法をもっとも知悉しているわたしに、この療法と、それが示してきた霊的意識現象の諸事実を、後世に残すために課せられた使命だと思っています。
また、おそらくこの作業を、霊信を告げた存在は支持し、喜んでくれるだろうと思っています。
 

追伸 

SAM前世療法によって顕現化した前世人格「ラタラジューの事例」の英語版セッション動画をyou-tubeにアップしてあります。
また、「タエ・ラタラジューの事例」の日本語版セッション動画も、アップしてあります。
ページ枠外右上の動画紹介をクリック、または下記の動画リンク をクリックするとyou-tubeにつながります。

「タエ・ラタラジューの事例」を公開してから10年以上経過しましたが、生まれ変わりの証拠として科学的検証を経たこの二つの事例を陵駕する事例は、管見するかぎり無いと自負しています。

どうぞご覧ください。

この二つのセッション動画をフジTVが放映用に編集したものが、2006年、2010年の2度にわたって、フジTVの番組「アンビリバボー」に紹介されています。           

ただし、アンビリバボーで放映された編集映像が、you-tubeにアップされると、著作権侵害の関係で削除されてしまうので視聴することができません。

動画リンク

2021年5月16日日曜日

SAM前世療法の意義と使命

   SAM催眠学序説 その140

「SAM催眠学」とは、SAM前世療法の実践によって得られた知見を、これまでの催眠研究が取り上げてこなかった「霊的意識諸現象」を、催眠研究の新たな対象領域として位置づけ体系化を試みようとするものです。
そして、SAM前世療法の作業仮説の根幹は、2007年1月~2月に起こったわたし宛て霊信現象の通信内容です。その霊信内容を仮説としたSAM前世療法で確認してきた、深い催眠中に顕現化した霊的諸現象の12年間の累積とその分析を試みたいと思います。

この試みは、SAM前世療法によって確認されてきた個々の「霊的諸意識現象の事実」を、一定の仮説と原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとすることです。
それは、これまでの催眠学の体系とはまったく異なる新たな様相を示すことになるはずであり、またこれまでの催眠学と大差のない説明体系であるなら、わざわざ新たに「SAM催眠学」を提唱する必要はありません。

SAM催眠学は、それまで人間の霊的側面について探究することを拒んできた「天井の低い催眠学」の「低い天井」に風穴を空け、人間の霊性について探究しようとするささやかな試みです。

さて、「SAM催眠学」として理論化ないし体系化することは、次のような諸作業をおこなうことを意味します。

「SAM催眠学」の諸対象(霊的意識現象の事実)は、そのままそれ自体として実在するもの、あるいは実在するものの全体としてあるがままの把握とその表現ではなく、SAM前世療法の諸仮説の検証途上の特殊・固有の観点に基づいて構成されたものです。

つまり、理論化するという作業は、一定・特殊な固有の観点・立場に立って、それと関係のある一定の事象の、さらにまた一定・特殊な側面(性質・機能・要素など)のみを、選択的に注目し、抽象・加工・精錬して、所定の定義された用語でもって記述・表現するということです。

理論化作業は、他方において、諸々の「意識現象の事実」ないし「データ」を、可能な限り合理的なしかたで関係づけ、説明し、解釈するような問題的状況の構図を想像上、構成してみることによって果たされていきます。

こうした諸作業によって、霊的現象解釈のための理論化の構築を企てる「SAM催眠学」は、壮大なフィクションであると自覚しています。

前置きはこのくらいにして、「生まれ変わりの実証的探究」という本ブログのテーマに恥じないように、これまで本ブログで紹介した実証記事を参照していただけるように現時点の到達点を5点にまとめて述べていきます。

 
① わたし宛て「霊信」の信憑性について

「SAM前世療法」の諸仮説は、わたしの守護霊団を名乗る複数の諸霊からの霊信の恩恵によって成り立っていることはすでに述べています。

2007年1月11日から2月14日まで1ヶ月余にわたって、毎夜送信されてきた高級霊と思われる諸霊からの霊信内容をそのまま作業仮説としています。
わたし宛て霊信の全内容は、「SAM催眠学序説 その48~72」で公開しています。
すべてで22通の霊信であり、A4用紙82枚にわたるかなりの量です。

わたし自身には霊信の受信能力は皆無であり、受信者は当時26才で東京在住の派遣社員をしていたM子さんのパソコンによる自動書記現象として送信されたものです。
M子さんとわたしとの面識は全くなく、拙著『前世療法の探究』の著者と読者の関係のみでしかありません。

2007年1月14日5:23着信の第2霊信で通信霊は、
 
「ここで私があなた(注:M子)と稲垣に伝えるべき事は、私があなた方をつなぐ理由である。私は、生前あなた(注:M子)としての素質をもち、稲垣の進むものと類似する方向性をもつ者であった。そのため、私はあなた方をつなぐ者として接触しているのだ」
 
と告げています。
M子さんの素質とは、霊信を自動書記によって受信するような素質であり、つまり霊媒としての素質だということでしょう。
稲垣の方向性とは、催眠を用いる催眠療法の実践者であるということだと思われます。
 
つまり、この送信霊は、生前、霊媒能力があり、しかも催眠との深い関わりを持つ人物であったと告げたことになります。

さらに、2007年1月18日22:28の第7霊信で通信霊は、
 
「私はエドガー・ケイシーである・・・なぜ今回の霊信で私が役割を担ったかを説明しよう。
それは私がよりあなた方の意識に近づける者であるからだ。
我が霊団は多くの者で成り立つものである。( 注:第12霊信で11の霊から成る守護霊団だと告げる)
その中でも、私はより『新しい意識』である。
それにより、あなた方に近づきやすい状況をつくり出すことができる。
そして、より明確に情報を伝えることができる」
 
と生前の身元を告げています。
エドガー・ケイシーは、催眠状態によって霊的存在とコンタクトをとり、様々な情報を入手し、それをリーディングと称していたようです。

そして、第2霊信で通信霊は、
 
「稲垣を守護する霊的存在は、生前の私を守護していた存在であり、それよりも以前に多くの偉大なる者たちを守護していた者である」
 
と告げています。
ちなみに、エドガー・ケイシーは1945年に死亡しています。わたしは1948年の生まれです。
こうしてエドガー・ケイシーとわたしを守護している存在は同一者と考えても矛盾しないことになります。 
 
わたしの性向として、こうした霊信がインスピレーションという形でわたしに直に伝えられたとしても、それは自分の妄想や願望の投影された産物ではないか、妄想ではないか、とわたしが必ず疑念を持つことを通信霊は予測しており、そのため第三者のM子さんを霊媒に用い、自動書記による文書の形として送信してきたのだと思われます。
 
そうすれば、霊信が少なくともわたしの妄想であることは完全に排除できます。
その結果、わたしの性向にしたがって、必ず霊信内容の真偽を検証しようと試みるであろうことを通信霊は期待していたと思われます。

2007年1月23日0:06着信の第11霊信で通信霊は、
 
「あなたが長年探究してきたものは、これまでの視点からでは成長は望めない。
・・・あなたが探究すべきものは、これまでよりもさらに深奥にあるものである。
魂の療法のみあらず、あらゆる霊的存在に対する奉仕となるものである。
それは命あるものすべてにつながり、私たちへも強いつながりをもつ。
そのために、あなたは自らの内にある疑問をまとめておく必要がある。
あなたがこれまで探究してきた道の中であなたが処理できないでいるもの、そして人の理解を超えるものについて、私たちでなければ答えられないものについてまとめなさい」
 
と告げてきました。

「人の理解を超えるもの」について、霊界の住人であり人の理解を超えるものについて知っているであろう高級霊が、わたしの疑問について答えると言うのです。
 
わたしは、早速16の質問事項をつくり、M子さんに返信しました。
すると、なんとその90分後に、A4用紙9枚にわたる通信霊からの回答が届きました。
回答を考えながら A4用紙1枚を10分で打つことは、まず不可能です。
A子さんの、通信霊を装ってあらかじめ用意しておいた作文ではなく、したがって、通信霊だと称する存在からの自動書記による回答である可能性が高いと判断しました。
 
② 「意識 ・脳二元論仮説」と「魂の二層構成仮説」について

わたしの理解を超えること、高級霊(通信霊)でなければ答えられないこと、についてわたしの疑問の第一は、魂・脳・心・意識(潜在意識を含む)の相互の関係でした。

第11霊信で、「あなたが探究すべきものは、これまでよりもさらに深奥にあるものである」と通信霊は告げていますから、第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信の回答は、「これまでよりもさらに深奥にあるもの」を示唆しているのであり、わたしが「探究すべきもの」であると思われました。

第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信における通信霊の、魂・脳・意識・心の関係性についての難解な諸回答をまとめると次のA~Hようになります。

A 「脳」は「意識」を生み出していない。

B 「意識」を 生み出しているものは、「魂の表層」を構成している前世の者たちである。つまり、前世の者たちは「魂の表層」に存在している。したがって、「魂」は、中心(核)となる意識体とその表層を構成する前世の者たちとの「二層構成」となっている。

C 「魂表層」の前世の者たちによって生み出された「意識」は、肉体を包み込んでいる「霊体」に宿っている。霊体はオーラとも呼ばれる。

D 「魂表層」の前世の者たちは、互いにつながりを持ち、友愛を築き、与え合うことを望んでいる。つまり、前世の者たちは、死後も「魂表層」で相互に交流を営んでいる。 

現世の「わたし」という人格も「魂表層」に位置づいており、生まれ変わりであるすべての前世の者たちとつながりをもち、友愛を築き与え合うことを望んでいる。

F  死後、「霊体」は「魂」から離れ、霊体に宿っていた「意識」は「魂」に取り込まれる。取り込まれる先は、生きている間は「魂表層」の「現世の者」であり、死後は「魂表層」の、現世の直前を生きた前世の者、として位置づくであろうと推測される。

G 「心」は「意識」を管理している。「心」は「魂」が外部の情報を入手するための道具である。したがって「心」が傷つくことはない。したがって、心と意識は同義ではないが、便宜上、「心=意識」として扱うことに支障はない。

H 「脳」は「心」を管理している。脳は心(意識)を管理しているため、見かけ上、脳と心(意識)が一体化しているように受け取られる。このことによって、心は 脳の付随現象であり、脳が心(意識)を生み出しているという「心と脳の一元論」が唱えられているが、脳と心(意識)は本来、別のものである。 
「脳」は「心」を管理はしているが、「心」を生み出しているわけではない。
「脳」は外部の情報をまとめる役目をつかさどる。 
「脳」はデータを管理している。

これら上記A~Hの回答は、まさしく「人の理解を超えるもの」であり、26才の霊信受信者M子さんが、作文して回答できる内容とは思われません。
人間を超えた存在である高級霊であってこそ、はじめて回答できる内容であると評価せざるをえません。

しかも興味深いことに、第12霊信でA4用紙9枚にわたる回答を告げてきた送信霊は、わたしの16の質問の回答後の霊信の末尾で、

M子という人間が答えられる問題は、ここには存在しない。・・・この霊信において告げた内容を読んだとしても、M子自身は理解に到達できない。・・・これは私からの霊信であり、M子の言葉ではない。M子の妄想ではない。妄想では答えられないものである」

と、受信者M子さんの作文や妄想ではなく、間違いなく通信霊という霊的存在からの回答であることを念押しし、強調していることです。

ちなみに、第12霊信の送信霊は、
 
「私は稲垣の祖父の守護霊とつながりを持つ者であり、あなた方の世界で表現すると、遠い昔、転生を終えた者である」
と告げています。

さて、回答Aの「心・脳二元論」の立場は、大脳生理学者でノーベル賞の受賞者であるペンフィールド、エックルズ、スペリーなどが晩年になって唱えており、世界的催眠研究者である故成瀬悟策医学博士も、晩年になってからこの立場をとっています。

これら「心・脳二元論」の提唱者たちは、脳が心(意識)を生み出してはいないのだと主張はしていますが、心(意識)を生み出しているものは、どこに存在するかについては一切語っていません。
それは人知を超えることであり、想像もできないということでしょう。
通信霊は、心(意識)を生み出す存在は、「魂表層の前世の者たちである」と明確に告げています。

わたしは霊信にしたがい、「心・脳二元論仮説」と「魂の二層構成仮説」に基づき、A~Hの霊信内容の真偽を、催眠を道具に用いてできるかぎりの検証をしようと決心しました。
この検証の過程で、徐々に定式化していった前世療法こそ、2008年6月に創始した「SAM前世療法」です。

特筆すべきことは、第11霊信で私の疑問に回答すると告げた通信霊が、同じ第11霊信の中で、 

「そして、前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。
あなたの療法は、あなたにしかできないものになる」

と、この霊信1年半後の2008年6月に成立したSoul Approach Method の略「SAM前世療法」について、すでに予言していることです。

通信霊は、前掲A~Hの回答を得たわたしが、当然のように、回答に基づいた独自の前世療法(SAM前世療法)を、新たに開発することをすでに見極めていたと考えるほかありません。
むしろ、SAM前世療法を創始させるための目的で第11霊信が送られたのかもしれません。
 
第7霊信で通信霊は、「わが霊団はあなた方を中心としある計画を進めている」と告げて
いますから、わたしにSAM前世療法の創始を担わせたことは「計画」のうちに入っていた
のだろうと思われます。

そして、「SAM前世療法」によってA~Hの作業仮説が検証され、生まれ変わりが科学の方法によって検証された事例が「タエの事例」と「ラタラジューの事例」です。
タエもラタラジューも、SAM前世療法によって、被験者里沙さんを「魂状態の自覚」まで誘導し、魂表層から呼び出され、顕現化した前世人格なのです。

「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の全セッション動画はyou-tubeで公開してあります。
この動画をご覧になれば、タエとラタラジュー両人格の顕現化現象を、「前世の記憶」である、という解釈では説明が成り立たないことは明白です。
とりわけラタラジュー人格は、明らかに現在進行形の会話である証拠を残しているからです。
ちなみに、タエ・ラタラジュー両事例の信憑性を、具体的事実を指摘して反証を挙げ、批判した論者はおりません。

また、「タエの事例」の逐語録は「SAM催眠学序説 その35~40」において、
「ラタラジューの事例」の逐語録は「SAM催眠学序説 その23~32」において、詳細に検討し、解説しています。

また、「魂の転生」のしくみと「生まれ変わり」の関係については「SAM催眠学序説 その123」で「魂の二層構成仮説」の模式図によって図示・説明しています。

 
③ 「憑依仮説」について

SAM前世療法の「魂遡行催眠」と名付けている特殊な技法を用いて、被験者を「魂状態の自覚」に誘導する過程で、被験者に未浄化霊と呼ばれている霊的存在が憑依していると、そうした存在が救いを求めて顕現化することが観察されます。
 SAM催眠学では、そうした霊的存在の憑依を認める立場をとっています。
ここで言う「霊的存在」とは、「肉体を持たない人格的意識体」を意味しています。

霊的存在には肉体がありませんから、肉体を持つ被験者の肉体を借りて一個の人格として自己表現をします。こうした現象を憑依と呼んでいます。
こうして憑依する人格的意識体を便宜上「憑依霊」と呼んでいます。

憑依霊は未浄化霊だけに限りません。
生き霊と呼ばれる人格的意識体も憑依霊として顕現化することがあります。
 
守護霊を名乗る高級霊や神の使いと称する高級霊も、「魂状態の自覚」に至ると、必要に応じて何らかのメッセージを携えて憑依します。
 
こうして「魂状態の自覚」に至ると霊的存在の憑依現象が起こることを認める立場を「憑依仮説」と呼びSAM前世療法の骨格をなす仮説の一つとして位置づけています。       
そして、「魂状態の自覚」に至り、魂表層から顕現化した前世人格は、生まれ変わりである現世の者(被験者)の肉体を借りて自己表現します。
この現象は、未浄化霊や生き霊や高級霊など第三者としての霊的意識体の憑依と同様な現象であり、自己の魂内部に存在する前世人格の憑依現象を「自己内憑依」と名付けています。

つまり、現世の者の内部(魂)に存在している肉体のない前世人格が、生まれ変わりである現世の者に憑依し自己表現する、という意味です。                  したがって、「前世人格の顕現化」「自己内憑依」現象だと言い換えることができます。
自分の魂表層に存在している前世人格が、自分に憑依すること、これが自己内憑依です。

「 魂状態の自覚」を体験した被験者のほとんどが、その意識状態の自覚に至ると体重の感覚がなくなると報告します。
おそらく、普段の状態では肉体という器に内在する魂は、なんらかの形で肉体と緊密な結びつきを保っていたのが、「魂状態の自覚」に至るとその結びつきが解かれ、肉体と魂が分離した状態になる、したがって、体重感覚の喪失感が生じるのではないかと推測されます。
被験者の中には、魂と呼ぶ意識体が、肉体の外に分離している感覚(体外離脱)、を報告することもあります。

つまり、「魂状態」とは、肉体を持たない霊的存在と同様な状態になっていると考えられ、したがって、霊的存在と同じく肉体を持たない意識体同様の次元に至っているので、霊的存在との接触(コンタクト)、つまり憑依が起こりやすいのではないかと推測されます。
ちなみに、SAM催眠学では、肉体を持たない意識体を「霊」、霊が肉体という器を持てば「魂」と呼ぶと定義しています。

 
④ 「霊体仮説」について

2007年1月25日22:47着信の第14霊信で通信霊は、
 
「霊体とは魂ではない。それは、ある時はオーラと呼ばれもする。
それは、・・・肉体を保護する役割を担うものでもある。
魂を取り囲み、それはあなたという存在を構成するための一材料となる。
霊体は、ある意味においてはあなた方が『あなたという人間であるため』の意識を独立して持つための役割を担うものでもある」
 
と告げています。

霊体の色をオーラとして感知できる能力者には、肉体の傷んでいる部分のオーラの周囲の色が黒ずんで見えること、オーラの色が澄んでいる場合には肉体の健康状態が良好であること、を言い当てるという検証結果が得られています。

また、互いに面識のない5人の、霊体の色をオーラとして感知できる能力者が、それぞれに、わたしのオーラ(霊体)の色として同一の色を報告しています。

したがって、霊体と肉体両者には互いに影響を与え合う密接な相互影響関係があると推測できます。
したがって、霊体は、エクトプラズムのように何らかの半物質的な要素・性質を帯びている可能性が考えられます。

こうして、霊体と肉体には、双方に共通の何らかの要素・性質が存在し、そのため相互に影響を与え合う関係がある、とする仮説も「霊体仮説」には含まれています。

また、Cで述べたように、われわれ生きている人間は、肉体を隈無く包み込んでいる霊体を持っている。
霊体には意識・潜在意識が宿っている、と考えるのが「霊体仮説」です。

そして、霊体には意識・潜在意識が宿っている、という仮説と、霊体と肉体には、双方に共通の何らかの要素・性質が存在する、という両仮説の検証実験の一年半の繰り返しによって、「魂遡行催眠」というSAM前世療法以外に類のない固有・独創の誘導技法が生み出されました。
「SAM前世療法」が、すでに「前世療法]という用語があるにもかかわらず登録商標として認められたのは、その固有性、独創性の証です。

 
⑤ 残留思念仮説」について

2007年1月20日1:01着信の第8霊信で通信霊は、
「あなたは、すべては『意識』であると理解していた。
ことばとしての『意識』をあなたは理解している。
だが、その本質はまだ理解には及んではいない。
あなたが覚醒するにしたがって、それは思い出されるものとなる」
 
と告げています。

また2007年1月23日22:58着信の第12霊信で通信霊は、
 
「この世に残る未成仏霊(未浄化霊)のような存在は、『留思念の集合体である。
だが、それらは意志を持つようにとらえられる。
よって、魂と判断されがちだが、それらは魂とは異なるものである」
 
と告げています

以上のような2007年の諸霊信を受け取ってから、12年間にわたるSAM前世療法の仮説と検証の実践の繰り返しを経て、わたしは「意識の本質」の一つとして、「強力な思念(意識)の集合体は、一個の人格としての属性を帯びた意識体になる」と考えるようになっています。
この仮説をSAM催眠学では、「残留思念仮説」と名付けています。

「残留思念仮説」によって定義すれば、

「未浄化霊」とは、「この世に強い未練があるために霊界へと上がることができず、救いを求めてさまよっている残留思念の集合体であり、意志を持つ人格としての属性を備えたもの」です。

「生き霊」とは、「強力な嫉妬によって、魂表層の『現世の者』から分離した嫉妬の思念の集合体であり、意志を持つ人格としての属性を備えたもの」です。
その実証として、SAM前世療法による生き霊との対話を、「SAM催眠学序説 その115」で述べています。

「インナーチャイルド」とは、「耐えがたい悲哀の体験をしたために傷つき、その苦痛から逃れるため、大人の人格へと成長していく本来の人格から分離(解離)され、 取り残された子どものままの残留思念の集合体であり、大人の人格に内在しつつ意志を持つ別人格としての属性を備えたもの」です。
その実証として、SAM前世療法によるインナーチャイルドとの対話を「SAM催眠学序説 その119」で述べています。

こうして、SAM前世療法によって顕現化する「未浄化霊」も、「生き霊」も、「インナーチャイルド」も、実際のセッションにおいては、意志を持つ人格として扱うことができる「見做し人格」として、対話をおこないます。
また、それらは強力な思念の集合体であり人格としての属性を持つ意識体という意味では、肉体のない「霊的意識体」だととらえています。
そして、未浄化霊も生き霊も、それらは苦しみを訴え、理解を求めている霊的存在だととらえるべきであろうと思われます。

このことについて第9霊信は、
 
「そして、あなたがもっとも理解すべきなのは、『霊祓い』を選択するのではなく『浄化』を選択することである。・・・霊がいつも求めるものは『理解』であることを忘れないようにしなさい。そしてその本質は『愛』なのだ」
 
と告げています。

「生まれ変わり仮説」そのものへの諸反論とわたしの見解(反論)については「SAM催眠学序説 その117」をご覧ください。

 
まとめ

わたしの探究の原点は問題意識です。
それは、われわれはどこから生じ、どこへ行くのか、死後はあるのかないのか、あるとして生まれ変わりがあるのかないのか、生まれ変わりがあるとしてそれはどのような仕組みになっているのか、さらに意識を生み出しているものは何であるのか、意識の本質とは何であるのか、などこれまでの唯物論科学の枠組みでは答えが出せそうもない領域への探究です。
 
これらの探究を科学の方法をもって、つまり、仮説を設け、仮説に基づいて実践(実験)し、結果を検証し、仮説を再検討し補充・変更していくという営みを地道に繰り返しながら、誰もが納得できる科学的な事実の発見を試みる探究の道を進めることです。

しかしながら、意識現象の探究は、計測したり、数量化したり、映像化したりすることは、「意識」が本来的に物質に還元できないものである以上不可能です。
したがって、意識現象を体験した者の体験の内観の報告を手がかりとするしか方法論がありません。
 
それら意識体験の内観報告を累積し、共通項を導き出し、それを客観的事実であろうと見做して仮説の真偽を検証していくこと以外に、現時点では方法論を見出すことができません。
こうした、前提と限界のある霊的意識現象の探究ですが、これまでのSAM前世療法の実践によって明らかにしてきた見解を大きく7点列挙してみます。


ふだん「脳」に管理されている「心(意識・潜在意識)」は、脳の管理下にあるがゆえに、脳の束縛を受け、脳と一体化しているように受け取られる。
したがって「心(意識・潜在意識)」は、脳の生み出している付随現象として理解されているが、それは錯覚である。
潜在意識の優勢化が進むにつれて、心(潜在意識)は、脳の管理下から分離し自由になり、潜在意識は脳への働きかけの自由を得る。
この、心(潜在意識)が脳の束縛から離れ自由を得た状態が「催眠状態」である。
催眠下では、心(潜在意識)の働きかけのままに脳が反応するようになる。
これを催眠学では「言語暗示による運動・知覚・思考などの意識の変性状態」と定義している。


良好な催眠状態を徹底的に深めていくと、潜在意識の深奥には、誰もが「魂状態の自覚」を持っていることが明らかになった。
直近100事例で91%の被験者が「魂状態の自覚」に至っている。「魂」と呼んでいる意識体が、肉体に内在している間接的実証である。
これまでに、最年少は小学6年生男子、最年長は82才女性、京都大教授2名、名古屋大学准教授1名、東北大学准教授1名、その他私立大学教授を含めて十数名、医師十数名など、知的訓練を十分に受けている被験者たちも「魂状態の自覚」に至っている。 
「魂状態の自覚」に至れば、魂表層に存在している前世人格が、呼び出しに応じて顕現化する。

 
魂表層には前世の諸人格が意識体として生きており、現世の人格を担っている「現世の者」も位置付いている。
それらの魂表層の者たちは互いの人生の智恵を与えあっており、「現世の者」は、良かれ悪しかれ前世の者たちの影響を受けている。
よろしくない影響を受けていると、心理的、肉体的諸症状となって現象化する。
そうした症状は、前世の者の訴えであったり、現世の者を守るための警告としての意味を持っている。
その実証として、「SAM催眠学序説 その118」でその実例を挙げています。


魂表層に「現世の者」しか存在していない事例がある。つまり、前世がなく、現世が魂として最初の人生である被験者が存在する。
生まれ変わりを体験していない魂の持ち主である被験者の共通の性格特性が「無知、無垢」である。
したがって、無知であるがゆえに好奇心が旺盛であり、無垢であるがゆえにナイーブで悪意がなく傷つきやすい。
周囲からは悪意のない、いい人だという評価を受けている。


強烈な思念(意識)が凝縮し集合体を形成すると、一個の人格を持つ意識体としての属性を帯びる。
思念(意識)にはそうした本質があり、そのため「未浄化霊」、「生き霊」などと呼ばれてはいるが、それは「霊」ではなく強烈な思念の集合体である。


生まれ変わりの科学的証拠だと自信を持って主張できる事例は、「タエの事例]と「ラタラジューの事例」を語った被験者里沙さん一人でしかない。
しかし、特筆できることは、タエからラタラジューへの生まれ変わりは33年、ラタラジューから里沙さんへの生まれ変わりは64年という生まれ変わりの間隔年数が、タエ、ラタラジュー両前世人格の語りから特定できたことである。
このことについて、20数年かけ2300事例に及ぶ膨大な生まれ変わりの科学的研究をおこなったこの分野の第一人者であるイアン・スティ-ブンソンでさえ、次のように述べている。
 
「二つ以上の前世を記憶しているという子どもが少数ながら存在するという事実を述べておく必要がある。・・・これまで私は、両方とも事実と確認できるほど二つの前世を詳細に記憶していた子どもをひとりしか見つけ出していない
(『前世を記憶する子どもたち』笠原敏雄訳、日本教文社、P.333)

ただし、スティーヴンソンは、この子どもの二つの前世記憶によって、生まれ変わりの間隔年数が特定できたのかどうかについては一切述べていない。
こうした生まれ変わりの先行研究から見ても、「タエの事例」と「ラタラジューの事例」は、きわめて希少価値の高い生まれ変わりの実証事例として評価できる。


生まれ変わり(転生)は惰性で繰り返されていない。
どういう形をとるかは様々であるが、負荷(試練)を背負い、魂の成長進化を図る目的を持って生まれ変わる。
来世をどう生きるかの青写真は、魂と守護霊との相談によって描かれるらしい。
しかし、現世に生まれてきた使命や目的は、魂が肉体に宿ると同時に忘却される。
したがって、忘却された、生まれてきた使命や目的を、直接知る方法は一切ない。
守護霊との接触によっても、守護霊は教えない。
肉体に宿った魂が、与えられた負荷をどう乗り越え、現世をどう生きるかは、ひとえにすべて魂の主体性に任されている。

さて、日本の古代史に大胆な仮説を展開し、「日本学」を創始した哲学者梅原猛は、インスピレーションによらない学説などは、たいしたものにはならない、というようなことを述べています。
そして、まさしく、わたし宛ての霊信はインスピレーションといってよいでしょう。

これまでの催眠研究が取り上げてこなかった「霊的意識諸現象の事実」を、催眠研究の新たな対象領域として位置づけ体系化を試みようとする「SAM催眠学」の提唱は、梅原猛のこうした考え方に触発され、勇気を与えられてきました。

おそらく、催眠研究のアカデミズムに属する大学の研究者が同様の霊信を受け取っても、一笑に付すか無視するかして、真摯に向き合うことはまずないだろうと思われます。
そうなれば、「SAM前世療法」も「SAM催眠学」も誕生するはずがありません。
2008年に教職から離れ、一切の公的束縛から解かれて自由なわたしであるからこそ、浮き世のしがらみの希薄になったわたしを選んで、霊信を送ってきたのだと考えるのは、あながち的外れの妄想ではなかろうと思います。

大学院でのわたしの恩師、教育学博士杵淵俊夫先生が、「哲学を本当にやれるのは浮き世の地位・名誉・欲得から縁のない乞食になることだよ」と語られたことを思い出します。

さて、第1霊信で通信霊は、

 「あなたの探究心の方向性について語ろう。
今後あなたは自分の思うままに前進するべきであり、そのためのこれまでの道のりであった。
あなたは自分の直感を通し得るべき知識を模索していく」 と告げています。

第7霊信で通信霊は、

「わが霊団はあなた方を中心としある計画を進めている」と告げ、

第8霊信で通信霊は、

「今回伝えるべきことは、あなた方を含め、多くの者が計画に参加しているということである。
・・・そして、あなた方の参加する計画というゲームはあなた方の考えるよりも大規模なのだと理解しなさい。
楽しむ姿勢を忘れないようにしなさい」と告げています。

さらに、第15霊信では通信霊は、

「これは神とあなた方の交わした約束であり、計画である。
すべてに祈りを、感謝をささげなさい」と告げています。

また、第5霊信で通信霊は、

「今日は、あなたはM子の霊信でどの高級霊が語りかけてくるのだろうかと考えた。
だが、私は高級霊ではない。
あなたの期待を裏切るわけではない。
あなたの感覚をあるがままに感じながら霊信を読みなさい。
かしこまらずに、もっと肩のちからを抜きなさい。
私はあなたの上にいる者であり、下にいる者であり、隣にいる者であり、そばにいる者である。
そして、あなたの目の前にいる者である。
そして、あなただけではなく、すべての者に対してもそうである。
だが、人々は私が自然の者だと分からないあまりに、あらゆる手段を通し私を知ろうとする。
そして感じようとする。
私を恐れる者、そして救いを求める者、欲する者、すべての者は同じ平行線の上に立っている。
だが人々はそのことに気づかない」

と、自分は高級霊ではないと否定する存在(神?)が、

「あなたは肩の力を抜きはじめている。
それでいいのだ。
あなた方は、構えていては何も見出せなくなる。
もっと楽しみなさい。
これは『遊び』なのだ。
すべての計画は、そうである」と告げてきました。

第16霊信では、守護霊団の一員で、生前はエドガー・ケイシーだとを名乗る霊が、

「私たちは必要に応じてあなたに語りかけるであろう。
そして、あなたが求める時も、必要に応じて与えるであろう」

と告げ、2007年2月14日以後、M子さんを霊媒に用い自動書記による霊信が途絶えたのち、魂状態の自覚に至ったクライアントに、わたしのガイドや霊団の一員を名乗る霊が憑依しては、クライアントによる口頭での霊信を語りかけてくることが、数ヶ月ごとに起こるようになり、それが2021年現在に至っても続いています。

こうした口頭による語りかけの霊信内容の概要は、

「自分たちのような霊的存在を知らしめるために降りてきた。
稲垣は自分の進んでいる方向に自信を持ちなさい。
霊的真理を地上に広めなさい。
稲垣の現世最後の仕事がこの先に待っている。
健康に留意してその仕事に備えなさい。
その仕事の内容は今は教えることができない」
 
ということに集約できます。

また、M子さん経由の霊信が途絶えた2007年の夏に、里沙さんの守護霊の憑依実験をおこない、降りてきた守護霊と40分間にわたる対話をしました。
 
彼女の守護霊は、わたしの要請でいつでも憑依し、メッセージを伝えてくれるからです。
その理由を「私は霊界では異例の存在であり、それは稲垣に霊界の消息を伝える役目を与えられているからだ」と告げているからです。
彼女の場合、守護霊が憑依中の記憶がまったくありません。
フルトランス状態になり、憑依状態による甚だしい疲労が翌日まで残ると言います。
憑依実験で彼女の守護霊がわたしに語った内容は、以下のような5点に要約できます。


タエの事例は偶然ではありません。
計画されあなたに贈られたものです。
計画を立てた方はわたくしではありません。
計画を立てた方はわたくしよりさらに上におられる神です。
タエの事例が出版されることも、新聞に掲載されることも、テレビに取り上げられることもはじめから計画に入っていました。
あなたは人を救うという計画のために神に選ばれた人です。


あなたのヒーリングエネルギーは、霊界におられる治療霊から送られてくるものです。
治療霊は一人ではありません。
治療霊はたくさんおられます。
その治療霊が、自分の治療分野の治療をするために、あなたを通して地上の人間に治療エネルギーを送ってくるのです。


あなたの今までの時間は、あなたの魂と神とが、あなたが生まれてくる前に交わした約束を果たすときのためにありました。
今、あなたの魂は大きく成長し、神との約束を果たす時期が来ました。神との約束とは、人を救う道を進むという約束です。
その時期が来たので、ヒーリング能力も前世療法も、あなたが約束を果たすための手段として神が与えた力です。
しかし、このヒーリングの力は万能ではありません。
善人にのみ効果があらわれます。
悪とはあなたの進む道を邪魔する者です。
今あなたを助ける人がそろいました。どうぞたくさんの人をお救いください。


神はあなたには霊能力を与えませんでした。
あなたには必要がないからです。
霊能力を与えなかった神に感謝をすることです。


守護霊に名前はありません。 
わたくしにも名はありません。
あなたの守護霊は、わたくしよりさらに霊格が高く、わたくしよりさらに上におられます。
そういう高い霊格の方に守られている分、あなたには、成長のために試練と困難が与えられています。
これまでの、あなたに生じた困難な出来事のすべてがはじめからの計画ではありませんが、あなたの魂の成長のためのその時々の試練として与えられたものです。
魂の試練は、ほとんどが魂の力で乗り越えねばなりません。
わたくしたちは、ただ見守るだけです。
導くことはありません。
わたくしたちは魂の望みを叶えるために、魂の成長を育てる者です。
霊能力がなくても、あなたに閃くインスピレーションがあなたの守護霊からのメッセージです。 
それがあなたが迷ったときの判断の元になります。
あなたに神の力が注がれています。
与えられた力を人を救う手段に使って人を救う道に進み、どうぞ神との約束を果たしてください。

さて、読者のみなさん自身に、これまで紹介したような霊信を受け取るという霊的現象が起こったとしたらどのような反応を示されるでしょうか。
 
世界の三大霊信と呼ばれている、スティトン・モーゼスの『霊訓』、アラン・カルディックの『霊の書』はともに19世紀末、シルバーバーチの『霊言』は20世紀末の話です。
 
わたし宛て霊信は、これら過去の三大霊信では触れられていない霊的真理として、魂と生まれ変わりの仕組みをわたしに教えることに目的をしぼり、送信されてきた霊信であるという解釈が成り立つかもしれません。
そして、わたしの手によって(わたしを道具に使って)、霊的真理である魂と生まれ変わりについて、多くの人々に知らしめようという守護霊団の計画なのかもしれません。

ですが私の態度は明確です。
このブログの「コメント投稿の留意点」として掲げてある「いかなる意識現象も先験的に否定せず、いかなる意識現象も検証なくして容認せず」です。

霊媒としての貴重な役割を担ってくれた霊信受信者M子さん、里沙さん両者の誠実な人間性を疑うことはありませんが、受信中において、無意識的に彼女ら自身の期待や願望が反映し、混入している可能性は排除できないでしょう。
 
とりわけ、「神」という言葉が用いられ、軽々に語られることには抵抗が生じます。
「神との約束」、「神の計画」などの霊信をわたしが軽々に信じ、メサイア・コンプレックス(救世主コンプレックス)や、誇大な選民思想などの過ちに陥ることを十分に警戒しなければなりません。

したがって、わたし宛て霊信という意識現象も、「検証なくして容認せず」です。
検証できないからには否定もしないが、容認することも判断留保としておくことが偏りのない柔軟で公正な態度であろうと思います。
そして、これまでの検証できたことに限れば、わたし宛て霊信内容に矛盾がないことが明らかになっています。

そして、第5霊信で「神」とおぼしき存在が、「構えていては何も見出せなくなる。もっと楽しみなさい。これは『遊び』なのだ。すべての計画は、そうである」と告げたように、これから先々起こることに、来るべきときにくるものは来ると「遊びごころ」でもって、肩の力を抜いて、楽しんでいこう、というのがわたしの心境の現時点の到達点です。

さて、「催眠学序説 その140」 を閉じるにあたって、わたしの脳裏に思い起こされるのは、わたしの心境の現時点の到達点にかかわっているもうひとつのもの、『モーゼスの霊訓』にある、インぺレーターと名乗る高級霊の告げている霊信の次の一節です。

「霊界より指導に当たる大軍の中には、ありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。(中略)
筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。

さらに、そうした霊的真理の初歩段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命について啓示を垂れさせる。
かくのごとく人間には、その程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。
これまでも神は、その目的に応じて手段を用意されてきたのである。
今一度繰り返しておく。

スピリチュアリズムは、曾ての福音の如き見せかけのみの啓示とは異なる。
地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。
それを総合するものが、スピリチュアリズムにほかならぬ。(中略)
常に分別を働かせねばならぬ。

その渦中に置かれた者にとっては、冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。
が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には、容易に得心がいくことであろう」
(近藤千雄訳『霊訓』「世界心霊宝典」第1巻、国書刊行会)

インペレーターと名乗る高級霊から牧師スティトン・モーゼスに送信された上記霊信の、この引用部分は、わたしに向かって発信された啓示であるかのような錯覚すら覚えます。
高級霊インペレーターが説いているように、SAM前世療法にとりかかる前のわたしは、「筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者」のレベルにありました。

だから、「秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく」ために、「動かぬ証拠」として、わたし宛の霊信現象、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」をはじめとして、ヒーリング能力の出現などの超常現象が、高級霊から次々に提供されているような気がしていました。

そうした直感の真偽を確かめるために、里沙さんの守護霊に尋ねてみるという憑霊実験を試みたわけです。
「常に分別を働かせねばならぬ」と言うインペレーターの忠告に従っていることにもなるのでしょう。
そして、分別を働かせた結果の帰着点は、霊的存在を排除しては説明できないのではないかということでした。

かつてのわたしであれば、例えばヒーラーと称する者のヒーリング効果の解釈として、プラシーボ効果であるとか、暗示効果であるとか、信念の心身相関による効果であるとか、現行科学による合理的説明に躍起となって、それを公正な科学的態度だと信じて疑わなかったと思います。
今、自分自身に突如ヒーリング能力があらわれ、その説明は霊的存在抜きには(霊的真理抜きには)考えられない事態に追い込まれたようです。
そして、「動かぬ証拠」を次々に提供され、ようやく「霊的真理の初歩段階を卒業」しかけている自分を感じています。
やはりわたしにとっては、自分自身の直接体験にこそ、唯物論科学がそれをどう否定しょうと、その直接体験を認めさせる真実性の実感があると言わざるをえません。

交霊能力のあった著名なスピリットヒーラーであるハリー・エドワーズは、高級霊界がヒーリングによる治療を手段に、地上の人々を霊的覚醒に導く計画であることを知っていたと言います。(ハリー・エドワーズ著、梅原隆雅訳『霊的治療の解明』国書刊行会)

里沙さんの守護霊が伝えてくれた「人を救うという計画」という語りがそれを指しているとすれば、わたしは、SAM前世療法とヒーリングを道具に、霊的真理を広める道に進むような流れに乗っているのかも知れません。

そして、これからのわたしが、SAM前世療法を、霊的真理を広めるために与えられた道具として役立たせる道を愚直に実践していく志を持続することができれば、ヒーリングの謎も、わたし宛て霊信の真実性も、おのずと開示されていくのではないかと思います。
また、そうした開示がされないにしても、霊的真理を広める道を淡々と愚直に進む過程で、わたしは霊的に成長できるのではなかろうかと思っています。

総括

縷々述べてきましたが、最後にSAM前世療法の意義と霊的使命について被験者の感想に基づいて3点にまとめてみます。

① 現在の人生のありようは前世の人生のありようと分かちがたくつながっているという気づきと、自分という存在が死後無になるのではなく、何らかの形で死後の存続がありうるという事実への気づきができること。

② 現世の人生は、前世・来世へと連綿とつながっている鎖の一つであるという人生観・世界観への気づきと、そうした視点によって自己の人生を再解釈し、相対化できる超越的視点の獲得ができること。

 ③ 守護霊をはじめとする霊的存在からの啓示ないしメッセージによる、自己の現在を生き抜く意味と自己の使命への気づきが獲得できること。

 これら3点は、いわば宗教的認識に類するものですが、あくまでSAM前世療法のセッションの過程で被験者がみずから獲得していったもので、セラピストのわたしが注入したり押しつけたものではないことを確認しておきたいと思います。

これらの3点を、被験者が少なくとも「主観的事実」として自ら深く洞察した結果、新たな人生観・世界観へと至り、そのことが自らの人生に新たな意味づけ、価値づけ、方向づけが促され、諸症状の改善と、ひいては人格的成長がなされること、このことこそSAM前世療法の存在意義であり使命だと考えています。

そして、最終的に、「超越的叡智の獲得」を可能にしていくのがSAM前世療法の霊的使命であると思っています。

大変迂遠な仕事ではありますが、こうした地道な営みを途切れなく続けていくことが、閉塞的で混迷に陥っている現代社会の状況を変革していく一助になることを願っています。


2021年4月2日金曜日

グレン・ウィリストンの前世療法再考

SAM催眠学序説 その139

ウィリストンはなぜ前世人格の顕現化という発想ができなかったのか   

グレン・ウィリストン/飯田史彦編集『生きる意味の探究』徳間書店、1999は、20年以上前の出版ですが、前世人格の顕現化を前提とするSAM前世療法にとって、きわめて興味深い記述が随所に見受けられます。

グレン・ウィリストンは臨床心理学において博士号を取得し、数千人の人々に前世療法(過去生療法)を施し、1999年当時アメリカ代替療法協会の会長を務めていた著名な人物です。

この『生きる意味の探究』を読み直し、ウィリストンの前世療法の見解について再考してみたいと思います。

ちなみに、わたしが知人からこの本を譲渡をしていただき、初めて目を通したのは、2010年のことであり、2009年にあらわれた応答型真性異言「ラタラジューの事例」以後のことです。                                                                                                                  したがって、「前世人格の顕現化」という仮説に立つSAM前世療法の創始に、この本からの影響を受けていることはありません。

さて、SAM前世療法の観点から読み直し、わたしが注目した記述箇所を、前掲書からいくつか取り挙げてみます。
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ある人物が、催眠状態で、過去に生きていた人物になりきり異なる抑揚や調子で話し始め、一般には知られていない表現や、今はすっかり廃れてしまった流行語を使ったり、現在の人生では使ったことのない外国語すら話し始めたりする・・・(前掲書P.23)

彼女は過去生へと戻っていたのだ。彼女の名前は、もはやジャネットではなくメアリーだった・・・私の耳に聞こえる声は、東部訛りの成人女性の声から、ソフトな響きの英国少女の声に変わっていた。・・・ジャネットは、当時の人生ではメアリー・ブルーリーという名前の女性として生きていた。(前掲書PP.26-28)

退行催眠中に、まったく別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながら、その話の中に割り込むことができなかった。このような「意識の分割」は、 過去生の退行中に必ずと言っていいほど見られる非常に面白い現象である。私はのちに、多くの人々からこの現象を何度も観察するようになった(前掲書P.61)

わたしは しばしば、その時代をどの程度認識しているかを調べるために、現在の道具などについて質問する。過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて、催眠中にけげんなそうな表情を浮かべる(前掲書P.121)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記引用部分のを読む限り、ウィリストンは、セッション中のクライアントの語りをあくまで「前世記憶の想起」としてとらえていると判断できます。
それは「過去に生きていた人物になりきり」や、「過去生へと戻っていたのだ」というウィリストンの記述から明らかだと思われます。
他にも、「トラウマの 根本原因となった出来事を思い出して再体験する」(前掲書P.63)、「退行した人生の記憶が、本物である・・・」(前掲書P.73)などの記述から、彼の過去生退行セッションの考え方の前提は、あくまで 「前世記憶の想起」であることに異論はないでしょう。

しかし、では、「別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながらその話の中に割り込むことができなかった」というクライアントの「意識の分割」状態を述べています。

また、ではウィリストンが「過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて、催眠中にけげんなそうな表情を浮かべる」という不思議かつ奇妙な現象を述べています。

わたしが疑問に思うのは、上記③④の意識現象をきちんととらえているにもかかわらず、なぜ相変わらず「前世記憶の想起」という立場にこだわり続けるのか、という点です。

のように、「別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じ」るのであれば、前世の記憶の想起ではなく、前世の人格そのものが顕現化し、クライアントの身体を通して自己表現しているのだ、と現象学的にありのままになぜ解釈することができないのでしょうか。

東部訛りの成人女性の声から、ソフトな響きの英国少女の声に変わっていた」というクライアントの声の変質状態を観察しながら、これは記憶の想起ではなく、英国少女の前世人格が、ただいま、ここに、顕現化して語っているのだ、となぜとらえることができないのでしょうか。

ま た、のように、「過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて・・・けげんそうな表情を浮かべる」ことを、ありのままに 受け取れば、「けげんそうな表情」を浮かべる主体は、クライアントではなく、それとは別個の、つまり、クライアントに、「けげんそうな表情」を浮かべさせた主体は、クアライアント自身ではなく、「過去生の人格」そのものだと解釈しないのでしょうか。

これまで、「何千人もの人々と」(前掲書P.23)前世療法をおこなってきたウィルストン が、なぜ、「前世人格の顕現化現象」ではないだろうか、という柔軟な解釈、ないし仮説に至ることができなかったのか、それは彼の思考が、霊的現象に対して否定的で、既存の心理学の枠組みにとらわれ、硬直していることが理由のように思われます。         さらに、応答型真性異言現象に遭遇していないことが大きな要因だと思われます。 

ちなみに、別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながらその話の中に割り込むことができなかった。このような『意識の分割』は、 過去生の退行中に必ずと言っていいほど見られる(前掲書P.61)というウィリストンの記述は、きわめて興味深く思われます。
この記述は、SAM前世療法のセッションにおける、前世人格顕現化中の意識状態の仮説である「三者的構図」そのものだと言えるからです。

三者的構図」とはSAM前世療法セッションにおける、「セラピスト」、「クライアント」、「顕現化した前世人格」の三者関係を意味するSAM催眠学の用語です。

「前世の記憶を想起する」という仮説によっておこなわれる一般の前世療法のセッションにおいては、「セラピスト」対「クライアント」の二者関係(二者的構図)によって終始展開されます。
SAM前世療法セッションでは、この「二者的構図」が、前世人格が顕現化した時点から、SAM前世療法の「前世人格と直接対話する」という独自の仮説に基づき、特異な「三者的構図」に移行します。                
セッションの前半では、セラピストのわたしは、クライアントの催眠深度を深めるためにクライアントに対して、つまり、二者関係で、「魂状態の自覚」に至るまで徹底して催眠誘導をおこないます。                                 

「魂状態の自覚」が確認でき、魂表層に存在する前世人格の顕現化に成功した時点で、わたしの意識は、それまでのクライアントを相手にすることから、顕現化した前世人格を相手に対話をすることへと移行します。
 
この移行によって、セラピストの「わたし」対「前世人格」の対話、それをひたすら傾聴している「クライアントの意識」という三者的構図に移行したセッションが展開します。
この間、「クライアントの意識」はひたすら傾聴するのみで、わたしと前世人格との対話に干渉することはできません。

肉体のない前世人格は、クライアントの肉体を借りて自己表現しているのであって(自己内憑依しているのであって)、対話している主体は前世人格であり、クライアントではない、と考えているということです。

こうした消息をありのままに報告し実証してくれた、「ラタラジューの事例」の被験者里沙さんの体験報告の抜粋を以下に掲載してみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタラジューの言葉を伝えていました。
カルパナさん(ネパール人対話者)がネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。
セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。
セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 
ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
こうして、ウィリストンの述べている別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながらその話の中に割り込むことができなかった。このような『意識の分割』は・・・必ずと言っていいほど見られる」という記述の『意識の分割』とは、セラピストの「ウィリストン」対「顕現化した前世人格」との対話、その対話に介入が許されず傾聴しているのみの「クライアントの意識」という三者的構図そのものを示していると解釈しても異論はないと思われます。

つまり、ウィリストンの言う「クライアントの意識の分割状態」とは、「現世のクライアントの意識」と「顕現化した前世人格の意識」の二つの意識に分割されて併存している状態を指していることにほかなりません。
しかし、そこには、現世のクライアントの意識とは別個に「顕現化した前世人格の意識」というとらえ方はされていません。
どこまでも、「セラピスト対クライアント」という二者的構図における、クライアントの「意識の分割」状態なのだというとらえ方しかできないのです。

ウィリストンが、どこまでも「現世のクライアントの意識の分割」としかとらえることができなかったのは、「あなたは、トンネルを抜け、過去の場面に到達するでしょう」、「目の前に展開している過去の場面を見ていきます」(前掲書P.316)などの誘導法に、 最初から含意されている「前世の記憶場面を想起する」という前提と、既存の心理学の枠組みの固定観念の束縛から、ついに脱することができなかったからだ、とわたしには思われます。
もし、彼にも、わたしが受け取ったような霊信現象が起きていたら、わたしの主張する仮説を持つに至ったかもしれません。

そして、ウィリストンは、「私は、生まれ変わりの存在にこれぽっちの疑いも抱いていない。過去生退行を何千回も経験すれば、それだけで、十分な説得力があるからだ」(前掲書P.24)と断言し、したがって、生まれ変わりの科学的実証をする必要はないと主張しています。

さらに、その理由を次のように重ねて述べています。

ウィリストンは、「私が過去生記憶の検証をする理由は、『生まれ変わり』の真実性を証明するためではない。なぜなら、世の中にいくらでも転がっている生きた証拠を見れば、そんな証明など不必要だからである(前掲書P.96)」と。

 わたしの知る限り、前世療法中のクライアントの語りを綿密な科学的検証にかけて、「クライアントとは別個の前世人格が顕現化し、クライアントの身体を借りて自己表現しているのだ」と いう解釈を表明しているのは、3例の応答型真性異言を発見したイアン・スティーヴンソンだけです。

こうして、ウィルストンとは違い、厳密な科学的方法論によって、生まれ変わりの実証研究に打ち込んだスティーヴンソンは、前世療法によって語られる前世の記憶について、どのような見解を持っていたかを紹介します。

スティーヴンソンは、前世の記憶を催眠によって探り出すことには基本的に反対の立場をとっています。
それは、彼が、前世の記憶をある程度持っていると思われる者を催眠に入れ、前世想起の実験を13件実施し、地名・人名を探り出し特定しようとした試みがすべて失敗した(『前世を記憶する子どもたち』教文社、P.80)ということにあるようです。
こうして、催眠中に前世の記憶らしきものが語られたにしても、催眠によって誘発された催眠者に対する従順な状態の中では、何らかの前世の記憶らしきものを語らずにいられない衝動に駆られ、通常の方法で入手した様々な情報をつなぎ合わせて架空の人格を作り上げてしまう可能性が高いと主張します。
そして、催眠中に語られたリアルな前世の記憶が、実は架空の作話であったと検証された実例を数例あげて、催眠が過去の記憶を甦らせる有効な手段だと考えるのは誤った思いこみであって、実際には事実からほど遠いことを証明しようとしています。
こうした事実からスティーヴンソンは、次のように痛烈な前世療法批判を展開しています。

「遺憾ながら催眠の専門家の中には、催眠を使えば誰でも前世の記憶を蘇らせることができるし、それによる大きな治療効果が挙がるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいは、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている現状を、何とか終息させたいと考えている」(前掲書P.7)   

このスティーヴンソンの批判に対して、生まれ変わりは疑う余地がなく前世記憶の科学的検証は不要だと主張するウィルストンは、どう反論するのでしょうか。

スティーヴンソンは、「トランス人格(催眠性トランス状態で現れる前世の人格)」 が顕現化して、応答型真性現現象を起こしていると表明しています(『前世の言葉を話す人々』(PP.9-11)。
彼は、「グレートヒェンの事例」で、グレートヒェンが応答型真性異言を語るセッションを目前で見学し、クライアントが「前世の記憶」として、応答型真性異言を語っている、という固定観念の不自然さ、不合理さに気づき、「前世の記憶」ではなく、「トランス人格そのものが顕現化して語っている」、という解釈の転換をせずにはいられなかったのでしょう。
しかし、スティーヴンソンは、「トランス人格」の存在する場についてはついに言及していません。

そして、わたしは、SAM前世療法において、顕現化する前世人格の存在の場は、「魂の表層」であり、しかも、今も当時のままの感情や記憶を保つ意識体として死後存続している、という作業仮説を立てています。

したがって、セッション中にわたしが対話する相手(主体)は、クライアント自身ではなく、クライアントの魂の表層から顕現化した前世人格そのものであり、しかも現在進行形で対話している、と了解しています。

こうした現象は、現世のクライアントの魂表層に存在する前世人格が、クライアント自身に憑依して、わたしと対話している、ということになります。
このような憑依現象は、これまで報告されたことがなく、したがってこの現象を表現する用語もありません。
そこで、SAM催眠学では、この憑依現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしています。
つまり、前世人格の顕現化現象は、自己内憑依現象である、というとらえ方をしているということです。

こうした作業仮説とそれによって観察される意識現象の解釈に、たしかな自信を与えたのが、応答型真性異言「ラタラジューの事例」と「タエの事例」の検証によって、生まれ変わりの実証に肉薄できたことでした。
ただし、SAM前世療法の霊的諸仮説をわたしに教示したのは、わたしの守護霊団を名乗る霊的存在からの、これまた唯物論者が目を剥いて否定するであろう「霊信」という超常現象です。

このように、唯物論に真っ向から対立する仮説に立っておこなうSAM前世療法は、世界唯一の前世療法であり、純国産の前世療法だと自負しています。
そしてまた、「前世人格の実在」、つまり「生まれ変わりの実在」の科学的実証性に、かぎりなく肉薄できる可能性をはらんで定式化された世界唯一の前世療法である、という自負があります。

特許庁は、SAM前世療法の仮説の独自性とそれに基づく技法の固有性を審査し、それまで流通してきた普通名詞の「前世療法」とは明らかに別個の仮説と、それに基づく誘導技法による特異な前世療法として、「SAM前世療法」の名称を、第44類の登録商標として認めてくれたのです。

2021年3月3日水曜日

前世人格顕現化の発見と仮説の成立

SAM催眠学序説 その138

 

『科学的探検雑誌』編集長バーンハード・M・ハイシュは、イアン・スティーヴンソンの生まれ変わり研究について次のように解説しています。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間の行動を考えると、生まれ変わりという考え方が、物事を説明するうえで、利点を持っていることは明らかである。恐怖症や変わった能力、強迫観念、性的方向といったものはすべて、精神分析の往々にして回りくどい論理よりも前世の具体的状況に照らしたほうが、おそらくはよく理解できるであろう。遺伝と環境に加え、過去世での経験という第三の要因も、人間の人格の形成にあずかっているのではないか、とする考え方は正当な提案といえる。(中略)

スティーヴンソンは、「生まれ変わりという考え方は最後に受け入れるべき解釈なので、これに代わりうる説明がすべて棄却できた後に初めて採用すべきある」。「どの事例にしても、一例だけでは生まれ変わりの存在を裏付ける決定的証拠になるとは思っていない」。「私の詳細な事例報告をお読みいただければ、私たちが説得力に欠けると考えている点が明らかになることは間違いなかろうが、それによって読者の方々が、生まれかわりを裏付ける証拠など存在しないと否定なさるとは思われない。

もし、そのようなご意見をお持ちの方があれば、その方に対しては『どういう証拠があれば、生まれ変わりが事実だと納得なさいますか』とお聞きしたいと思う」と述べている。
 (イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP.526-527)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしも、上記解説にまったく同感です。
you-tubeで公開している「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の証拠動画、および逐語録とその解説を、虚心坦懐に見聞きしたうえで、それでも生まれ変わりの証拠などではない、と否定される方がおいでになるならば、どういう証拠であれば、あなたは、生まれ変わりと魂の存在が事実である、と納得なさいますかと、わたしも、スティーヴンソン同様に尋ねたいと思います。

人間が死ねば無になるのではなく、どんな形にせよ死後も存続することが科学的に証明されれば、人生観・世界観はもちろんのこと、自然界のあらゆるものに対する見方など広汎な領域にわたって根底からの深甚な変革が迫られるに違いないでしょう。
そうであるからこそ、そして、わたし自身も死から逃れることが不可避であるからこそ、わたしは、誰もが「生まれ変わり」という大きな問題の真偽に対して、当事者性をもって真剣に取り組むことが必要なのだと考えています。

そして、唯物論者であったわたし宛に、霊信が来るという超常現象が起き、霊信によって、魂の転生と生まれ変わりの秘密について、開示を受けることになりました。
わたしは、催眠を道具に用いた科学の方法によって、その霊信内容の真偽の検証ができる立場にありました。

しかしながら、わたしの検証によって得られた魂の転生と生まれ変わりの事実は、検証の方法論が、被験者の「意識現象の事実」を対象にするしかない、という限界があるため、間接的な証明でしかありません。

そうであっても、そこでわたしの得た知見をわたしだけに留めず、この問題に真面目な関心を寄せる人々に伝えることが、わたし宛に霊信を送信してきたであろう霊的存在に対する、わたしの義務だろうと思っています。

要約すれば、わたしの肉体の死後も、わたしの霊体に宿っていた現世の人格(個性、記憶などの心的要素)は魂表層に吸収され、魂表層を構成する前世人格の一つとして位置付き、やがてわたしを魂表層に位置づけた魂(全体)は、その成長・進化に資するための多様な体験を求めて新たな肉体に宿る。このようにして、わたしは「生まれ変わっている」ということが、これまでの10年余のSAM前世療法による生まれ変わりの探究から得た現時点における知見です。
ちなみに、わたし宛霊信によれば、現世のわたしは369回目の魂の転生なんだそうです。

それでは、生まれ変わりを探究するSAM前世療法の独自・固有の立場である「前世の人格を呼び出す」という仮説が、どのような経緯によって発見され成立してきたかについて、時間軸にそって述べてみます。

 

1「タエの事例」との出会い(2005年5月)


2005年5月、被験者里沙さんへの前世療法実験セッションをおこないました。
この時点では「SAM前世療法」は、開発されていませんから、従来の「前世の記憶」を想起するという前提で、この「タエの事例」が遂行されています。

以下は、「タエの事例」の逐語録抜粋です。

(『前世療法の探究』春秋社、PP.156-160)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
稲垣:あなたは今13歳で、年号は何年ですか?

里沙:安永九年。(1780年)

注:安永は9年で終わっていることがセッション後判明。安永という年号があることは、私を含めてその場の実験セッション同席者7名全員が知らなかった。

稲垣: はあ、安永9年で13歳。で、今桑畑にいる。それがなぜ、楽しいのでしょう。

里沙:桑の実を摘んで食べる。

稲垣:桑の実を食べるんですか。口の周りどんなふうになってるか分かりますか?

里沙:真っ赤。(微笑む)①おカイコ様が食べる桑の木に実がなる。

稲垣:それならどれだけ食べても叱られることないんですか。ふだんはやっぱり遠慮がちなんですか? (里沙頷く)拾われてるから。あなたと同じように拾わ れた兄弟も一緒に葉を摘んでますか?(里沙頷く)楽しそうに。(里沙頷く)じゃ、ちょっと 夕飯の場面に行ってみましょうか。三つで夕飯の場面に行き ますよ。一・二・三。さあ今、夕飯の場面ですよ。どこで食べてますか?

里沙:馬小屋。みんなも。

稲垣:下は?

里沙:ワラ

稲垣:どんな物を食べてますか?

里沙:ヒエ。

稲垣:ヒエだけですか。おかずは?

里沙:ない。

稲垣:ヒエだけ食べてるの。白いお米は食べないんですか? (里沙頷く)だからあまり夕飯は楽しくない。で、みんなとどこで寝るのですか?

里沙:馬小屋。

稲垣:馬小屋で寝るの。お布団は?

里沙:ない。

稲垣:寒いときは何にくるまるのですか?

里沙:ワラ。

稲垣:ワラにくるまって寝るの。あなたの着てる物を見てごらんなさい。どんな物を着てますか?

里沙:着物。

稲垣:着物の生地は何でできていますか?

里沙:分っからない。

稲垣:粗末なものですか。(里沙頷く)手を見てごらんなさい。どんな手になってます か?

里沙:きれいな手じゃない。

注:キチエモンは捨て子を拾い育てているが、おそらくは農作業の労働力として使役するためであろう。したがって、牛馬同様の過酷な扱いをしていたと考えられる。

稲垣:じゃ、もう少し先へ行ってみましょう。三年先へ行ってみましょう。悲しいことがきっとあると思いますが、その事情を苦しいかもしれませんが見てください。どうですか? で、三年経つと何年になりますか?

里沙:天明3年。(注:1783年)

稲垣:天明3年にどんなことがありましたか? 何か大きな事件がありましたか?

里沙:あ、浅間の山が、お山が、だいぶ前から熱くなって、火が出るようになって・・・。

注:天明三年六月(旧暦)あたりから浅間山が断続的に大噴火を始めた。七月に入ってますます噴火が激しくなり、遂に七月七日(旧暦)夜にかけて歴史的大噴火を起こした。この 夜の大噴火によって、鎌原大火砕流が発生し、このため麓の鎌原村はほぼ全滅、火砕流は吾妻川に流れ込み、一時的に堰き止められた。その後に火砕流による自然のダムが決壊し、大泥流洪水となって吾妻川沿いの村々を襲った。この大泥流洪水の被害報告が、『天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳』として残って いる。この大泥流に流されてきた噴火による小山のような岩塊が、渋川市の吾妻川沿いの通常の水面から10メートル近く高い岸辺に流れ着いて、「浅間石」と名付けられて現存している。わたしは現地で浅間石の確認をしている。吾妻川沿岸55か村におよぶ被害は、流死1624名、流失家屋1511軒であった。ちなみに、渋川村の上流隣村の川島村は、流死76名、流失家屋113 軒、流死馬36頭であり全滅状態であった。ただし、渋川村の被害は「くるま流 田畑少々流水入 人壱人流」(くるまながれ、でんばた少々みずいる、ひと一人ながる)となっており、流死はたった一人であった。こうした事実は セッション後の検証で判明した。この流死者こそタエだと推測できる。また、「くるま流れ」の「くるま」は、渋川村上郷から吾妻川岸辺(川原)までタエを乗せて運んだ大八車だと推測できる。

稲垣:火が渋川村から見えますか?

里沙:うん。

稲垣:噴火の火がみえますか?

里沙:フンカ?

注:天明の頃には「噴火」という語は無く、浅間山の噴火を「浅間焼」と言った。

稲垣:噴火って分かりませんか? (里沙頷く)分からない。火が山から出てるんですか?

里沙:熱い!

稲垣:煙も見えますか?

里沙:は、はい。

稲垣:じゃ、灰みたいな物は降ってますか? そのせいで農作物に何か影響が出てますか?

里沙:白い灰が毎日積もります。

注:渋川市は浅間山の南東50Kmの風下に位置する。天明三年六月(旧暦)から断続的に噴火を続けた浅間山の火山灰が相当量積もったことは事実である。

稲垣:どのくらい積もるんでしょう?

里沙:軒下。

稲垣:軒下までというと相当な高さですね。単位でいうとどのくらの高さですか? 村の人はなんて言ってますか?

里沙:分からない。

稲垣:軒下まで積もると農作物は全滅じゃないですか。

里沙:む、村の人は、鉄砲撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いても、雷神様はおさまらない。

注:火山灰に苦しむ村々が、鉄砲を撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いて噴火を鎮めようとしたことは当時の旅日記などに残されている事実である。当時の村人たちは、噴火にともなう火山雷を、雷神の怒りと見なした。

稲垣:その結果なにが起きてますか?

里沙:龍神様は川を下ります。

注:浅間山は、当時龍神信仰の山であった。浅間山に住む龍神が、噴火で住めなくなって、浅間山麓の東を流れる吾妻川を下ると当時の村人は考えたのであろう。タエは吾妻川を下る龍神の花嫁として、川中の柱(橋脚)に縛られ供えられた。

稲垣:その結果どうなりました?

里沙:天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、あま、あま、あまつ、吾妻(あがつま)川を下るので ・・・水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります。

注:2006年10月放映のアンビリバボーでは上記「上の村が水にやられるので」の台詞が消去されてしまっている。この台詞があると、タエが人柱になる理由 が渋川村を救うためではなく上流の村々を救うためになり、視聴者には人柱の理由が分かりずらくなる。タエが自分の住む渋川村を救うために人柱になる、としたほうが分かりやすいとアンビリ側が考えたうえで事実の歪曲がおこなわれたものと思われる。ちなみに、「吾妻川」を知っていたのは7名の同席者のうち1名 だけであり、私も知らなかった。

稲垣:自分から志願したの?

里沙:そうです。きれいな着物を着て、(微笑む)②おいしいごちそう食べて・・。

稲垣:それをしたかったのですか? でも、命を失いますよ。それでもいい?

里沙:村のために・・・。

稲垣:誰か勧めた人がいますか?

里沙:おとっつあん。

稲垣:キチエモンさんが、そう言ってあなたに勧めた。

注:7年後の再セッションで、キチエモンは、吾妻川上流の村々から生糸や野菜を買い入れ、吾妻川を舟で運んで交易をしていたとタエは語っている。そのための船着場を持っていた。キチエモンは交易相手の上流の村々を救うために、人柱を必要としたと推測できる。タエは渋川村を救うための人柱ではなかったのである。

里沙:恩返し。みんなのために(微笑む)③うれしい。
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このセッション逐語録の話者「里沙」を「タエ」に置き換えて違和感があるでしょうか。
わたしには「タエ」であったときの前世の記憶を、「里沙」が想起し話している、として解釈することに大きな違和感を感じました。

ありのままに受け取れば、里沙さんが自分の前世であった「タエの記憶 」を想起して語っているのではなく、「タエという人格自身」が里沙さんの口を借りて、自分の人生を語っている、と受け取ることがごく自然であると思われました。

つまり、タエの人格そのものが、被験者里沙さんの肉体を借りて顕現化し、自分の人生を語っているのではないか、という直感が湧き起こったのです。
この思いは、下線を引いた(微笑む)という里沙さんの表情①~③の個所でより強い実感になっていったのです。(注:you-tube公開の「タエの事例」動画参照)

微笑んでいるのは里沙さん自身の表情ですが、微笑ませている主体は、里沙さんではなくタエの人格そのものではないかと思われました。
事実、セッション中のわたしの意識は、里沙さんではなく、里沙さんとは別人格のタエの人格を対象にして対話していたのです。

里沙さんの肉体は、前世人格タエが顕現化するための媒体ではなかろうか、という奇抜な発想と問題意識が生まれた瞬間でした。                

しかし、仮に前世人格の顕現化現象を認めるとして、2005年当時の前世療法では、前世人格の顕現化という発想を持った前世療法は皆無でした。(2021年現在も)     

そして、仮に前世人格の顕現化現象を認めるとして、ではその前世人格タエはいったいどこから顕現化してくるのか、脳内からなのか 、脳以外の場からなのか。

肉体の臓器である脳は、死後消滅します。

当然脳内に保存されていた現世の記憶も無に帰することになります。

にもかかわらず、脳内から前世の記憶があらわれることは論理的にありえないことになります。

そして、 記憶だけが死後も消滅せずどこかに存続している、という科学的実証はありません。

となれば、前世の記憶は、フィクションでしかないことになります。

SAM前世療法の成立前、2004年の立命館大学で開催された日本催眠医学心理学会/日本教育催眠学会の合同学会で、わたしが「前世の記憶を想起させた前世療法」の実践事例を発表した研究討議でも、大学の催眠研究者、医師など参会者の意見の大勢は、前世の記憶はフィクションでしかない、として批判を受けました。    (『前世療法の探究』春秋社、PP.137-148)

おそらく17年を経た現在でも、アカデミックな催眠関連学会のこうした見解は変化していないだろうと思われます。 

催眠中にあらわれる前世の記憶の真偽について、生まれ変わりの科学的研究の泰斗、イアンスティーヴンソンは、みずからの前世療法催眠実験の結果について次のように述べています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

前世の記憶 らしきものをはじめからある程度持っている者に催眠をかければ、細かい事実を他にも思い出すのではないか、とお考えになるかもしれない。私自身もそのように考えたため、自然に浮かび上がった前世の記憶らしきものを持つ者に催眠をかけたことがある。この人たちの持つ記憶らしきものは前世に由来しているかも知れないが、特に地名と人名については、事実かどうか確認できるほど明確に語ってはいなかった。催眠状態なら、人物や場所の名前を一部にせよ正しく思い起こしてくれるかもしれないし、そうすれば、この人々の記憶に残っているという前世人格の存在が確認できるのではないかと考えたのである。私はこのような実験を13件自らおこなったり指導したりしている。一部では私自身が施術をおこなったが、それ以外は他の術者に実験を依頼した。その結果、ただの1件も成功しなかった」(イアンスティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP.79-80)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも、意識が脳から生み出されるという科学的実証はいまだにないわけですから、この問題の判断は留保としておくしかありませんでした。

この3年後、SAM前世療法を開発した2008年に、SAM前世療法を用いて魂表層からタエの顕現化実験をおこない、タエの人格自身から前掲のセッションにおいても、魂表層から顕現化していたことを確認しています。このことは、前世人格タエは、たまたま憑依した第三者の憑依霊などではなく、里沙さんの魂表層を居場所にしている前世人格であることの実証であるととらえています。

同時にSAM前世療法の定式技法にしたがえば、前世人格の再顕現化が可能であることの実証であり、SAM前世療法は、「再現性の保障」という科学の条件の一つを満たしていると思います。

ちなみに、「前世の記憶」として扱った事例で、これは「前世の記憶」ではなく「前世人格そのものの語り」ではないかと思われた先駆的事例3例(亜由美の事例、佳奈の事例、佐恵子の事例)を拙著『前世療法の探究』PP.50-136で紹介しています。
こうして、前世人格顕現化の問題はひとまず棚上げし、「タエの記憶」として語られた前世の内容を徹底的に検証した結果を紹介した『前世療法の探究』を春秋社から2006年5月に出版しました。                      

管見するかぎり、少なくとも日本においては、前世の記憶を想起するという前提の前世療法によって、語られた前世の記憶を科学的検証にかけ、「前世の記憶」の存在がフィクションではないことを実証した書籍類は、現在においても拙著以外に知りません。

前世人格の顕現化現象を認めるとして、ではその前世人格はいったいどこから顕現化してくるのか、脳内からなのか 、脳以外の居場所からなのか、この問題意識への執拗なこだわりこそ、その後のわたしの探究の原動力でした。

 
2 わたしあて霊信現象との遭遇(2006年1月~2月)
 
006年12月末、『前世療法の探究』を読んだ、当時26歳の東京在住の派遣社員であったM子さんから、拙著についての感想メールが届きました。続いて、翌2007年1月11日~2月14日の1ヶ月間、このM子さんを霊媒にして、パソコンの自動書記によるわたしあての霊信が毎夜届くという超常現象が起こりました。わたしあて全霊信は、『SAM催眠学序説 その47~72で公開しています。

2007年1月23日の第11霊信で

「前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。 あなたの療法は、あなたにしかできないものになる」と語り

そして、同じく第11霊信で、「あなたが探究すべきものは、これまでよりもさらに深奥にあるものである」と通信霊は告げていますから、第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信の回答は、「これまでよりもさらに深奥にあるもの」を示唆しているのであり、わたしが「探究すべきもの」であると思われました。

第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信における通信霊の、魂・脳・意識・心、の関係性についての難解な諸回答をまとめると次のA~Hようになります。

A 「脳」「意識」を生み出していない。

B 「意識」を 生み出しているものは、「魂の表層」を構成している前世の者たちである。つまり、前世の者たちは「魂の表層」に存在している。したがって、「魂」は、中心(核)となる意識体と、その表層を構成する前世の者たちとの「二層構成」となっている。

C 「魂表層」の前世の者たちによって生み出された「意識」は、肉体を包み込んでいる「霊体」に宿っている。霊体はオーラとも呼ばれる。

D 「魂表層」の前世の者たちは、互いにつながりを持ち、友愛を築き、与え合うことを望んでいる。つまり、前世の者たちは、死後も「魂表層」で相互に交流を営んでいる。加えて、魂の表層には、「現世のわたし」の人格を担う者が位置付いている。

こうした霊信内容は、わたしの問題意識に対して大きな示唆を与えるものとなりました。
後にこれら霊信内容を作業仮説にしてSAM前世療法が開発されることになりました。  

 

3 M子セッションとの出会い(2007年1月27日


 こうした霊信を受け取っている最中の2007年1月27日、わたしは、霊信受信者M子さんの自動書記による霊信現象の真偽と、M子さんとわたしの前世での関係性を探るためのセッションをわたしのほうからお願いしました。

以下はM子さんとのセッションの逐語録の抜粋です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
M子:(毅然とした別人口調で)今はその必要はありません。

稲垣:どうしたらいいでしょう? 
わたしにできることは、仕事としては「そのもの」を癒すということが必要ではありませんか?

M子:「そのもの」ではなく、あなたが今日、癒すべきものはM子という存在であり、アトランティスでの過去世について深く触れることは今日はできない。
だが、あなたは先ほど癒した傷ともう一つ、あなたが知らなければならない傷がある。だが、その傷は癒され始めている。それは、直接あなたと過去世で関わり合う者であり、「その意識」は、先ほどからあなたを見詰めている。

稲垣:そうですか。

M子:その幼子は、あなたへと伝えたい言葉をずっと胸のうちに秘めていた。

稲垣:残念ですが、わたしにはそうした存在と交信する能力がありません。
M子さんに代弁してもらえますか? その幼子の言葉を。
M子さんが霊媒となって、訴えてる幼子とわたしとの仲立ちになってくだされば、その幼子を癒すことができるかもしれませんが。

注:このあとM子さんの過去世である幼子の口調に変わって話す。                 

M子:先生!・・・先生、ありがとう。(泣き声で)ぼく、先生を悲しませて、ごめんなさい。

稲垣:分かりました。で、あなたは何をしたんですか?

M子:(泣き声で)ぼくだけじゃなくて、みんな、みんな死んで、先生泣いたでしょ。
ぼく、先生が、ずっとずっといっぱい大切なことを教えてくれて、先生、ぼくのお父さんみたいにいっぱいで遊んでくれて、ぼくは先生のほんとの子どもだったらよかったと思ったけど、でも、死んだ後に、ぼくのお父さんとお母さんがいてね、先生は先生でよかったんだって・・・。
でも、ぼく、先生に、先生が喜ぶこととか何もできずに死んだから、ぼく、ずっとね、先生に恩返ししたいってずっと思ってて・・・このお姉ちゃんは、ぼくじゃ ないけど、でも、先生とお話したりできるのは、このお姉ちゃんだけだよ。でも、ぼくも、ずっとこのお姉ちゃんと一緒だから、だから、ぼくのこと忘れないでね。

注:この幼子「ぼく」は、M子さんの魂表層を構成している前世人格の1つとして存在し、魂表層から顕現化し、現世のM子さんの肉体を借りて自己表現していることを示している。つまり、このセッション1年後に定式化されるSAM前世療法の前駆的現象である。

稲垣:分かりました。きっと忘れませんよ。
それからあなたがね、こうやって現れて、直接あなたの声を聞く能力は、わたしにはありません。
でも、そのうちにそういう能力が現れるかもしれないと霊信では告げられています。ですから、そのときが来たら存分に話しましょう。
先生は忘れることはないだろうし、あなたからひどい仕打ちを受けたとも思っていません。だから、あなたはそんなに悲しまないでください。

M子:ぼくは、先生に「ありがと」って言いたかった。

稲垣:はい。あなたの気持ちをしっかり受け止めましたからね。
そんなに悲しむことはやめてください。先生も悲しくなるからね。

M子:うん。

稲垣:あなたは片腕をなくしていますか?

M子:生まれつき右腕がないんです。でも、先生は、手が一本だけでも大丈夫だっていつも言ってくれた。

稲垣:そうですか。今、あなたが生きている時代はいつ頃でしょう。
わたしには、それも見当がつかない。西暦で何年くらいのことか分かりますか?

注:この後、幼子が大人の男性的口調になり、霊的存在が憑依したと思われる。    

M子:紀元前600年。

稲垣:どこのお国でしょう?

M子:・・・プ、プティアドレス。

稲垣:それは地球上にあった国ですか? ほかの惑星ですか?

M子:それは地球にあり、前後の違いにより、今は別の地名として伝えられている。

稲垣:日本ではないようですね。中近東とかヨーロッパですか?

M子:違う。

稲垣:中南米とか南米でしょうか?

M子:南米に近いが・・・パレンケ・・・パレンケ・・・。

注:パレンケ (Palenque) は、メキシコに存在するマヤ文明の古代都市遺跡で、メキシコの世界遺産の一つである。ユカタン半島の付根にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた都市の遺構(ウィキペディア記事より)。わたしの前世の一つとして、古代都市パレンケの孤児院の教師をしていた、ということらしい。うがった見方をすれば、わたしあて霊信の受信者M子さんは、当然のことながら霊信の告げた魂の仕組みについて知っているので、それに合わせて、彼女の前世であるマヤのパレンケの片腕のない少年の話を、無意識的に創作して語ったという解釈も可能であろう。しかし、彼女が、パレンケ遺跡について知っていた可能性は、ほぼ棄却できる。したがって、わたしはM子さんの創作説を採らない立場であるが、残念ながらこのパレンケの片腕のない少年および、教師であったわたしの存在の真偽を検証することは不可能である。
ちなみに、当時26歳であったM子さんとは、2007年1月27日のセッションで会ったのが最初で最後で、その後メールのやりとりが断続的に続いたが、2008年以後2021年の現在まで、彼女のメール連絡先も携帯電話先も不通になり、完全に連絡手段は途絶えたままである。手を尽くしてみたが、彼女の居場所、状況などの消息も一切不明となっている。
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さて、このM子さんのセッションで注目すべきは、M子さんの前世として現れた少年の存在です。

「このお姉ちゃん(注:M子さんのこと)は、ぼくじゃ ないけど、でも、先生とお話したりできるのは、このお姉ちゃんだけだよ。でも、ぼくも、ずっとこのお姉ちゃんと一緒だから、だから、ぼくのこと忘れないでね」

と語っている片腕のない少年「ぼく」のことばです。
少年「ぼく」は、この「お姉ちゃん(M子さん)」じゃない別人格ではあるけれど、稲垣と会話できるのはM子さんだけだ、そして、少年「ぼく」はずっとM子さんとずっと一緒にいる、と語っています。
この語りだけに注目すると意味不明ですが、このセッションの直前の霊信が告げていること、すなわち前掲の第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信の告げた内容のうち

B 「意識」を 生み出しているものは、「魂の表層」を構成している前世の者たちである。つまり、前世の者たちは「魂の表層」に存在している。

と照合して意訳してみると、

少年「ぼく」は、死後もM子さんの魂の表層で、M子さんとともにずっと存在しており、お話している「ぼく」は、彼女の魂の表層から顕現化した前世の人格なのだ。だから、お話している「ぼく」は、現世のM子さんではない。彼女の魂表層に存在している前世の「ぼく」は、彼女の肉体を借りて顕現化でき、稲垣とお話できる、ということになります。

M子さんが、自分の前世である古代都市パレンケの片腕のない少年「ぼく」であった「記憶」を語っているのではなく、まさしく前世人格である「ぼく自身」が顕現化し、M子さんの口を借りて、自分の思いを語っていると受け取らざるをえないのです。

2005年当時「タエの事例」において、里沙さんが自分の前世であった「タエの記憶 」を想起してタエに代わって語っているのではなく、「タエという前世人格自身」が里沙さんの口を借りて、自分の思いを語っていると受け取ることがごく自然であるという直感は、霊信と少年「ぼく」の語りによって、はっきり裏付けられたと思われました。

このM子さんのセッションの4日前、2007年1月23日の第11霊信で告げられた

「前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。あなたの療法は、あなたにしかできないものになる」

という予言は、「クライアントが前世の記憶を想起する」という従来の前提とはまったく異なり、「クライアントの肉体を借りて顕現化した前世人格自身が対話する」、という前提でおこなう、わたしにしかできない独自・固有の前世療法開発を意味しているのだ、と思わざるえない事態が起きたのです。

こうして、これまでの前世療法とまったく前提を異にした、「魂の表層を構成している前世人格自身を呼び出し対話する」という作業仮説と、新たな方法論と技法による前世療法を構築する試行錯誤が、その後2007年春から1年間にわたって続きました。
やがて、2008年春には、クライアントを「魂状態の自覚」へと誘導する世界に類のない新たな催眠技法が確立でき、魂の表層に存在している前世人格を呼び出すことが、9割の確立で成功することが可能であることが明らかとなりました。

この前代未聞の作業仮説による前世療法を、従来の「前世の記憶を想起する」という前世療法とは明確に識別するために、また、この前世療法が霊的であるがための誤解・偏見によって歪められ誤った形で流布されることを防ぐためにも、2008年春に「SAM前世療法」と命名し、商法登録をすることにしました。
SAM」とは、Soul Approach Methodの略です。
つまり、魂の状態にアプローチする方法による前世療法という意味を込めた命名です。


4 「ラタラジューの事例」との出会い(2009年5月)


そして、前世人格を呼び出し対話するというSAM前世療法の仮説を、自信をもって掲げることができた事例こそが、翌2009年5月におこなった応答型真性異言の実験セッション「ラタラジュー の事例」でした。

「ラタラジューの事例」は、SAM前世療法独自の誘導技法にしたがって被験者里沙さんを魂状態の自覚まで誘導し、魂の表層から顕現化させた前世の人格です。

顕現化した前世人格のラタラジューは、ネパール人の対話相手のカルパナさんと応答的に真性異言であるネパール語で25分間対話しています。

被験者里沙さんが、ネパール語を学んでいないことは、ポリグラフ検査の鑑定によって明らかになっているので、ラタラジュー人格は明らかに里沙さんとは別人格の前世人格です。

しかも、ラタラジュー人格は、現代 ネパール語ではほぼ死語となっている「スワシニ(妻)」、「アト・サトリ=8と70(78)」といった古いネパール語単語を用いて対話をしています。
こうしたネパール語の古語を里沙さんが秘かに学ぼうとしても学びようがありません。

さらに、対話相手のネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と問いかけ、そうです、という返事に対して、「お、お、・・・」と喜びを表明し、明らかに現在進行形の対話をしています。
ラタラジュー人格は、ただいま、ここに、被験者里沙さんの肉体を借りて憑依し、自己表現している、としか解釈できない人格ではないでしょうか。

前世人格ラタラジューは、次のような、現在進行形のきわめて象徴的な対話をしています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

:KAはネパー人対話者カルパナさん

里沙:  Tapai Nepali huncha?         
   (あなたはネパール人ですか?)

KA:  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)

里沙:  O. ma Nepali.
   (おお、私もネパール人です)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
この短いやりとりの重要性は、ついうっかり見落とすところですが、現れた前世人格のありようについて、きわめて興味深く示唆に富むものだと言えます。

つまり、前世人格ラタラジューのありようは、ネパール語話者カルパナさんに対して、現在進行形で「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、ただ今、ここで、問いかけ、その回答を求めているわけで、「里沙さんの潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示しています。

ラタラジューは、前世記憶の想起として里沙さんによって語られている人格ではないのです。
里沙さんとは別人格として、ただ今、ここに、顕現化している、としか考えられない現象です。

この現象は「別人格である前世のラタラジューが、里沙さんの肉体(声帯と舌)を用いて自己表現している」と解釈することがもっとも自然な解釈ではないでしょうか。
つまり、ネパール語で応答型真性異言を話している主体は、里沙さんではなく、別人格であるラタラジュー人格そのものとしか解釈できないということです。

換言すれば、 前世人格ラタラジューが、里沙さんに憑依しているということです。
自分の魂の内部に存在している前世人格が、自分に憑依して語る、などという憑依現象はこれまで知られていません。
そこで、SAM前世療法では、前世人格の顕現化という憑依現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしています。

この現在進行形でおこなわれている会話の事実は、潜在意識の深淵には魂の自覚が潜んでおり、そこには前世のものたちが、今も、意識体として存在している、というSAM前世療法独自の作業仮説が正しい可能性を示している証拠であると考えています。

ちなみに、応答型真性異言の研究をおこなったイアン・スティーヴンソンも、「グレートヒェンの事例」について、顕現化したドイツ人少女グレートヒェンについて次のように述べています。

「私自身はこの被験者を対象にした実験セッションに4回参加しており、いずれのセッションでも、トランス人格たるグレートヒェンとドイツ語で意味のある会話をおこなっている」(イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳 『前世の言葉を話す人々』春秋社1995、P.9)

ドイツ語を話す人格(グレートヒェン)をどのように位置づけるか・・・」 (前掲書P.10)

 「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出だそうと試みた」(前掲書P.11)

応答型真性異言で対話したグレートヒェンを、被験者の「前世の記憶」として話したのではなく、「前世の人格」グレートヒェンとして顕現化したのだ、と判断しています。
ただし、イアン・スティーヴンソンは、そうした前世の人格が、どこから顕現化しているかについては一切言及していません。

「グレートヒェンの事例」の催眠臨床に立ち会ったスティーヴンソンが、グレートヒェンの語りを被験者の前世の記憶ではなく、トランス人格であるグレートヒェン自身の顕現化であるととらえていることに、わたしが勇気づけられたことは言うまでもありません。ちなみに「トランス人格」とは催眠中に現れた別人格のことです。

以上縷々述べてきた5年間の経緯によって、SAM前世療法おいては前世の人格と対話する、という明確な見解と仮説を掲げるに至ったというわけです。

「心搬体(サイコフォア)と「魂」について


SAM前世療法では、「前世の人格」そのものを呼び出し対話するという仮説に基づいてセッションを遂行します。

したがって、肉体の死後も消滅することなく存続し、生前の人格、個性、記憶など心的要素を来世へと運搬する媒体(意識体)の存在を前提としています。
生まれ変わりには、志向性がなく、無目的で偶発的に起こるものではないとすれば、なんらかの志向性を帯びて死後存続する媒体(意識体)の存在を想定しないと、生まれ変わりを繰り返すという現象の説明が完結できません。

そして、なんらかの目的性・志向性を帯びて、生前の心的要素を運搬し死後も存続し続ける媒体(意識体)を、SAM催眠学では「」と呼ぶことにしています。
同様に、イアン、スティーヴンソンも「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を『心搬体(サイコフォア)』と呼ぶことにしたらどうかと思う」と提案しています。(イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、P.359)

ただし、スティーヴンソンのいう心搬体(笠原敏雄氏の訳語)は、生まれ変わりを繰り返したすべての諸前世の、心的要素によって構成されている、とは述べていません。
また、心搬体になんらかの志向性や目的性のあることにも触れてはいません。

スティーヴンソンは、「私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているかはまったく知らないけれども、肉体ない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化していくのではないかと思う」(前掲書P.359)と述べているだけです。
そして、心搬体は変化していくのではないかと思うとその変化の可能性に言及していますが、心搬体の変化になんらかの志向性や目的性のあることには触れてはいません。

こうして、スティーヴンソンのいう心搬体は、なんらかの構成要素によって成り立ち、変化していく可能性のある媒体であることが含意されていると推測できるでしょう。

心搬体とは、いわゆる(肉体に宿って精神作用をつかさどるもの)の言い換えでしょうが、「魂」という用語につきまとう宗教臭を払拭するために、科学的な中立性の意味を強調した新しい造語の「心搬体」という用語をあえて提案していると思われます。
したがって、心搬体の変化に関わるなんらかの志向性や目的性に触れることは、宗教臭を与えるおそれがあり、彼はそれに触れることをあえて自制しているのだと推測しています。

これに対し、SAM催眠学の「魂」は、なんらかの目的性・志向性を持った中心(核)となる意識体と、その中心(核)となる意識体の表層を、生まれ変わりをしてきた諸人格によって構成された二層構成になっていると定義しています。

この魂の「二層構成仮説」を単純化した視覚モデルにたとえると、魂はミラーボールのようなものになります。
中心となる球体(中心(核)となる意識体)と、その表面に貼り付いている1枚1枚の鏡体の断片(生まれ変わりをしてきた前世の諸人格)から、魂は構成されているというわけです。

この「魂の二層構成仮説」は、わたしあて霊信の告げてきたそのままの内容を作業仮説に採用し、その仮説の検証をおこなってきたSAM前世療法によって確認された「意識現象の事実」の累積をもとに提唱しているものです。

なお、 SAM催眠学の定義している上記の「魂」にも、宗教的意味合いは一切ありません。

一般におこなわれている前世療法は、クライアントのどこか(脳内?)に保存されていると思われる「前世の記憶」をイメージとして想起するという前提でセッションをおこないます。

それでは、SAM前世療法で扱う対象が、「前世の人格」でなければならない合理的理由はどこにあるのでしょうか。
わたしの主張している、「前世人格」を顕現化させて対話する、という奇抜・奇怪な仮説は、けっして人目を引くために奇を衒っているわけではありません。
こうした仮説にたどりつく必然性の経緯があったということです。

なぜ、「前世の記憶」では不都合なのでしょうか。
このことは、SAM催眠学における本質的、かつ中核的で重要な問題です。

わたしが、SAM前世療法おいては前世の人格と対話する、という明確な見解と仮説を持つに至った2005年~2009年の5年間に起きた経緯については述べてきたとおりです。

6 生まれ変わりの志向性についての考察

こうして、セッションであらわれた「意識現象の事実」の12年間の累積から、わたしが、魂と生まれ変わりの実在を認める立場を主張している理由は、

それら「意識現象の事実」を、魂の実在や生まれ変わりの証拠として認めることが直感に著しく反していないからであり、

魂と生まれ変わりを事実として認めることが、不合理な結論に帰着しないからであり、

前世人格の顕現化という霊的現象(とりわけ応答型真性異言現象)が、唯物論的枠組みからはどうしても説明できないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、霊信の告げた魂の二層構成を前提として導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、「意識現象の事実」として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。
この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることが、クライアントの「意識現象の事実」として明らかになっています。

ラ タラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、魂や生まれ変わりの実在を 回避するために、深層心理学的概念を駆使してクライアントの霊的な「意識現象の事実」に対して、何としても唯物論的解釈でおさめようとこだわることは、現行科学の知の枠組みに固執した不毛な営み だ、とわたしには思われるのです。

魂状態の自覚、そこであらわれる前世人格の顕現化という「意識現象の事実」に対して、事実は事実としてありのままに認めるという現象学的態度をとってこそ、霊的意識現象の探究を実りあるものにしていくと思っています。
そして、クライアントの示す「意識現象の諸事実」は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
魂と生まれ変わりの実在を認めることを非科学的だと回避する立場で、あるいは魂や霊的現象はすべて妄想だと切り捨てて、どうやって顕現化した前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得できる説明ができるのでしょうか。

わたしの主張する「魂」の存在を想定せずに、「臨死体験」や「前世の記憶」を説明しようとする理論に量子論を援用した理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフに よって提唱されている「量子脳理論」があります。

 「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、 体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」
 
という主張(仮説)が「量子脳理論」による「臨死体験」と「生まれ変わり」の説明です。

イアン・スティーヴンソンの後を継いだバージニア大学のジム・タッカーも、量子脳理論に同調していると思われ、スティ-ヴンソンの提案している、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する『心搬体』という媒体を想定する」という生まれ変わりの説明概念を放棄しているようで、次のように述べているようです。

量子論の創始者であるマックス・プランクなど、一流の科学者は物質よりも意識が基本的であると語りました。つまり、意識は脳が生み出したのではないのです。脳や肉体の死後も意識は生き残り続けます」「意識は量子レベルのエネルギーです。ですから、意識は前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に貼り付くのです」

 ジム・タッカーが、イアン・スティーヴンソンの提唱している生まれ変わりの説明概念である、「心搬体」という媒体の存在をなぜ考慮せず、なぜこのような量子論による考え方に至ったのかの合理的根拠も、理由も不明です。
「心搬体」のような霊的媒体を想定した説明より、最新物理学の量子論による唯物論的説明のほうが、科学的で説得力があるのだと考えているのでしょうか。
あるいは、「心搬体」も意識体として、次の肉体に宿るまでの間、量子レベルのエネルギーの形でどこかに存在していると考えているのでしょうか。
そもそも、「意識」がどこで生まれるかが分かっていない現時点で、「意識は量子レベルのエネルギー」だとなぜ断定的に言えるのでしょうか。

ハメロフやタッカーの言う「意識」とは記憶であり「情報」です。
応答型真性異言の応答的会話は、「情報」には還元できない暗黙知である「技能」です。「意識・情報」の伝達は量子論で説明できても、「技能」の伝達は量子論では説明できません。
したがって、会話技能の発揮である「応答型真性異言」現象は「量子脳理論」では説明できません。
言語に置き替え可能な「記憶情報」と、言語に置き換え不可能な「技能」との決定的に重要な相違を無視した粗雑な「説」が、「量子脳理論」だと言うほかありません。

この事実を前にすれば、「量子脳理論」による生まれ変わりの説明が破綻していることはすでに明らかです。
わたしに言わせれば、現時点で「量子脳」の実在が実証されているわけではなく、量子脳という唯物論的観念論による検証不能な「説」の域を出るものではないと思っています。

量子として宇宙にあり続ける膨大な死者たちのうちの誰かの意識が、偶然に現世の誰かの肉体(脳)と結び付くことを「生まれ変わり」だと言うのであれば、霊信が告げ、これまでに模式図で提示した「死後も存続する魂が、ある目的・志向のもとに新しい肉体に宿る」ことを「魂の転生」と呼び、それにともなって、魂表層の、生前は現世人格であった者が前世人格となり、新たな現世人格が位置付くことを「生まれ変わり」と呼ぶとする、SAM前世療法の作業仮説においては、到底受け入れることはできません。

意識は量子レベルのエネルギーであり前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に貼り付くということが事実であれば、それは、「たまたま脳に貼り付いている誰かの前世記憶が蘇っただけの現象」というべきでしょう。
魂の存在を排除し、生まれ変わることに目的性や志向性は一切なく、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的に、たまたま、誰でもよかった誰かの脳に貼り付き宿ること、この偶然の繰り返しが「生まれ変わり」であるとすることを、SAM前世療法セッションで確認してきた「意識現象の事実」から、認めることはできません。

なぜなら、SAM前世療法のセッションにおける「意識現象の事実」として確認してきた、何らかの目的・志向帯びて死後存続する魂が、その器である肉体の死後、次の新しい肉体に宿り、転生を繰り返している、という事実に反するからです。
また、わたしあて霊信の告げた、転生する魂の仕組みに反しています。

魂表層から呼び出し、科学的検証を経ている「タエの事例」、「ラタラジューの事例」という「意識現象の事実」が、このことを如実に実証しています。

宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的に、たまたま、誰でもよかった誰かの脳に貼り付き宿ること、この偶然の繰り返しが「生まれ変わり」であるとするなら、「生まれ変わり」は、無意味な、単なる偶然の産物であり、その繰り返しには、もともと意味や志向性など全くないということになります。

魂、あるいは心搬体の存在を否定し、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的かつ偶然に、誰かの脳に貼り付き宿ることを生まれ変わりだとすれば、たとえば、現世の里沙さんにとって、もはや「ラタラジュー」も「タエ」も、何らかの目的・志向を帯びた魂が宿っていた人格とはいえず、現世の彼女とは一切のつながりのない、まったく無関係・無縁の死者である、タエやラタラジューの意識が、たまたま、偶然に、里沙さんの脳に貼り付いているだけだ、ということになります。

したがって、タエやラタラジューにも、何らかの目的・志向を帯びて死後存続する同じ魂が宿り、その同じ魂が現世では里沙さんに宿って転生していると、もはや言うことはできません。

「前世の記憶」と言う場合においても、「現世に生まれ変わっている私とは無縁ではなく、つながっているはずの前世であったときの記憶」という含意があるはずですが、タッカーによれば、脳に偶然貼り付いた前世の記憶とは、「何らかの目的・志向のもとに生まれ変わった現世の私が、前世の人生を生きていたときの記憶」とは、呼べないことになります。

ただし、付言しておきますと、生まれ変わりの研究者の間でも合意されている「生まれ変わり」の明確な定義があるわけではありません。

SAM催眠学の「転生」と「生まれ変わり」を区別する定義は、「魂の二層構成仮説」から必然的に導き出されてきた「創出的定義」creative definition であり、これまでになかった定義です。
辞書的定義によれば、「転生」と「生まれ変わり」の意味の区別がなく、両者は同義語となっています。

SAM催眠学では、魂全体が、その器であった生前の肉体の死後、何らかの目的・志向のもとに、新たな別の肉体(器)へと宿ることを「魂の転生」と定義しています。

そして、魂の転生にともなって、魂の表層を構成していた「生前の現世の人格Aは、肉体の死後「前世の人格Aとなって魂表層に位置付き、「現世を生きる肉体を持つ別人格Bが、魂表層の構成要素として新たに位置付くことを、「前世のAが現世のBへと生まれ変わる」と定義しています。

新しい理論(仮説)を構築すれば、それにともなって、これまでになかった新しい概念を意味する用語が必要になるのは当然のことです。
SAM催眠学の「自己内憑依」や「魂遡行催眠」という用語も、それらの一つです。

また、魂の転生と、それにともなって「前世の人格」が「現世の人格」へと生まれ変わるのは、惰性や偶然によるものではなく、なんらかの目的性・志向性を帯びておこなわれている、これがSAM前世療法でこれまで確認してきた「意識現象の事実」です。

このブログを開始してからの国内・国外の累積アクセス数は、24万回を超えています。
けっして読みやすい内容ではないにもかかわらず、これまでお読みくださった読者のみなさんに感謝いたします。

縷々述べてきましたが、「SAM前世療法」の誕生と、そのセッションの累積から構築してきた「SAM催眠学」は、里沙さん、M子さん、わたしあて霊信、そして故イアン・スティーヴンソン博士の先行研究、催眠学者故成瀬悟策医学博士の先行研究、また、論理的思考、哲学的思考の訓練を惜しみなく教示してくださった、上越教育大学大学院杵淵俊夫教育学博士などの諸恩恵なしには、展開できることはけっしてありえなかったことに深謝いたします。