2021年4月2日金曜日

グレン・ウィリストンの前世療法再考

SAM催眠学序説 その139

ウィリストンはなぜ前世人格の顕現化という発想ができなかったのか   

グレン・ウィリストン/飯田史彦編集『生きる意味の探究』徳間書店、1999は、20年以上前の出版ですが、前世人格の顕現化を前提とするSAM前世療法にとって、きわめて興味深い記述が随所に見受けられます。

グレン・ウィリストンは臨床心理学において博士号を取得し、数千人の人々に前世療法(過去生療法)を施し、1999年当時アメリカ代替療法協会の会長を務めていた著名な人物です。

この『生きる意味の探究』を読み直し、ウィリストンの前世療法の見解について再考してみたいと思います。

ちなみに、わたしが知人からこの本を譲渡をしていただき、初めて目を通したのは、2010年のことであり、2009年にあらわれた応答型真性異言「ラタラジューの事例」以後のことです。                                                                                                                  したがって、「前世人格の顕現化」という仮説に立つSAM前世療法の創始に、この本からの影響を受けていることはありません。

さて、SAM前世療法の観点から読み直し、わたしが注目した記述箇所を、前掲書からいくつか取り挙げてみます。
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ある人物が、催眠状態で、過去に生きていた人物になりきり異なる抑揚や調子で話し始め、一般には知られていない表現や、今はすっかり廃れてしまった流行語を使ったり、現在の人生では使ったことのない外国語すら話し始めたりする・・・(前掲書P.23)

彼女は過去生へと戻っていたのだ。彼女の名前は、もはやジャネットではなくメアリーだった・・・私の耳に聞こえる声は、東部訛りの成人女性の声から、ソフトな響きの英国少女の声に変わっていた。・・・ジャネットは、当時の人生ではメアリー・ブルーリーという名前の女性として生きていた。(前掲書PP.26-28)

退行催眠中に、まったく別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながら、その話の中に割り込むことができなかった。このような「意識の分割」は、 過去生の退行中に必ずと言っていいほど見られる非常に面白い現象である。私はのちに、多くの人々からこの現象を何度も観察するようになった(前掲書P.61)

わたしは しばしば、その時代をどの程度認識しているかを調べるために、現在の道具などについて質問する。過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて、催眠中にけげんなそうな表情を浮かべる(前掲書P.121)
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上記引用部分のを読む限り、ウィリストンは、セッション中のクライアントの語りをあくまで「前世記憶の想起」としてとらえていると判断できます。
それは「過去に生きていた人物になりきり」や、「過去生へと戻っていたのだ」というウィリストンの記述から明らかだと思われます。
他にも、「トラウマの 根本原因となった出来事を思い出して再体験する」(前掲書P.63)、「退行した人生の記憶が、本物である・・・」(前掲書P.73)などの記述から、彼の過去生退行セッションの考え方の前提は、あくまで 「前世記憶の想起」であることに異論はないでしょう。

しかし、では、「別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながらその話の中に割り込むことができなかった」というクライアントの「意識の分割」状態を述べています。

また、ではウィリストンが「過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて、催眠中にけげんなそうな表情を浮かべる」という不思議かつ奇妙な現象を述べています。

わたしが疑問に思うのは、上記③④の意識現象をきちんととらえているにもかかわらず、なぜ相変わらず「前世記憶の想起」という立場にこだわり続けるのか、という点です。

のように、「別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じ」るのであれば、前世の記憶の想起ではなく、前世の人格そのものが顕現化し、クライアントの身体を通して自己表現しているのだ、と現象学的にありのままになぜ解釈することができないのでしょうか。

東部訛りの成人女性の声から、ソフトな響きの英国少女の声に変わっていた」というクライアントの声の変質状態を観察しながら、これは記憶の想起ではなく、英国少女の前世人格が、ただいま、ここに、顕現化して語っているのだ、となぜとらえることができないのでしょうか。

ま た、のように、「過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて・・・けげんそうな表情を浮かべる」ことを、ありのままに 受け取れば、「けげんそうな表情」を浮かべる主体は、クライアントではなく、それとは別個の、つまり、クライアントに、「けげんそうな表情」を浮かべさせた主体は、クアライアント自身ではなく、「過去生の人格」そのものだと解釈しないのでしょうか。

これまで、「何千人もの人々と」(前掲書P.23)前世療法をおこなってきたウィルストン が、なぜ、「前世人格の顕現化現象」ではないだろうか、という柔軟な解釈、ないし仮説に至ることができなかったのか、それは彼の思考が、霊的現象に対して否定的で、既存の心理学の枠組みにとらわれ、硬直していることが理由のように思われます。         さらに、応答型真性異言現象に遭遇していないことが大きな要因だと思われます。 

ちなみに、別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながらその話の中に割り込むことができなかった。このような『意識の分割』は、 過去生の退行中に必ずと言っていいほど見られる(前掲書P.61)というウィリストンの記述は、きわめて興味深く思われます。
この記述は、SAM前世療法のセッションにおける、前世人格顕現化中の意識状態の仮説である「三者的構図」そのものだと言えるからです。

三者的構図」とはSAM前世療法セッションにおける、「セラピスト」、「クライアント」、「顕現化した前世人格」の三者関係を意味するSAM催眠学の用語です。

「前世の記憶を想起する」という仮説によっておこなわれる一般の前世療法のセッションにおいては、「セラピスト」対「クライアント」の二者関係(二者的構図)によって終始展開されます。
SAM前世療法セッションでは、この「二者的構図」が、前世人格が顕現化した時点から、SAM前世療法の「前世人格と直接対話する」という独自の仮説に基づき、特異な「三者的構図」に移行します。                
セッションの前半では、セラピストのわたしは、クライアントの催眠深度を深めるためにクライアントに対して、つまり、二者関係で、「魂状態の自覚」に至るまで徹底して催眠誘導をおこないます。                                 

「魂状態の自覚」が確認でき、魂表層に存在する前世人格の顕現化に成功した時点で、わたしの意識は、それまでのクライアントを相手にすることから、顕現化した前世人格を相手に対話をすることへと移行します。
 
この移行によって、セラピストの「わたし」対「前世人格」の対話、それをひたすら傾聴している「クライアントの意識」という三者的構図に移行したセッションが展開します。
この間、「クライアントの意識」はひたすら傾聴するのみで、わたしと前世人格との対話に干渉することはできません。

肉体のない前世人格は、クライアントの肉体を借りて自己表現しているのであって(自己内憑依しているのであって)、対話している主体は前世人格であり、クライアントではない、と考えているということです。

こうした消息をありのままに報告し実証してくれた、「ラタラジューの事例」の被験者里沙さんの体験報告の抜粋を以下に掲載してみます。
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なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタラジューの言葉を伝えていました。
カルパナさん(ネパール人対話者)がネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。
セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。
セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 
ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。
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こうして、ウィリストンの述べている別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながらその話の中に割り込むことができなかった。このような『意識の分割』は・・・必ずと言っていいほど見られる」という記述の『意識の分割』とは、セラピストの「ウィリストン」対「顕現化した前世人格」との対話、その対話に介入が許されず傾聴しているのみの「クライアントの意識」という三者的構図そのものを示していると解釈しても異論はないと思われます。

つまり、ウィリストンの言う「クライアントの意識の分割状態」とは、「現世のクライアントの意識」と「顕現化した前世人格の意識」の二つの意識に分割されて併存している状態を指していることにほかなりません。
しかし、そこには、現世のクライアントの意識とは別個に「顕現化した前世人格の意識」というとらえ方はされていません。
どこまでも、「セラピスト対クライアント」という二者的構図における、クライアントの「意識の分割」状態なのだというとらえ方しかできないのです。

ウィリストンが、どこまでも「現世のクライアントの意識の分割」としかとらえることができなかったのは、「あなたは、トンネルを抜け、過去の場面に到達するでしょう」、「目の前に展開している過去の場面を見ていきます」(前掲書P.316)などの誘導法に、 最初から含意されている「前世の記憶場面を想起する」という前提と、既存の心理学の枠組みの固定観念の束縛から、ついに脱することができなかったからだ、とわたしには思われます。
もし、彼にも、わたしが受け取ったような霊信現象が起きていたら、わたしの主張する仮説を持つに至ったかもしれません。

そして、ウィリストンは、「私は、生まれ変わりの存在にこれぽっちの疑いも抱いていない。過去生退行を何千回も経験すれば、それだけで、十分な説得力があるからだ」(前掲書P.24)と断言し、したがって、生まれ変わりの科学的実証をする必要はないと主張しています。

さらに、その理由を次のように重ねて述べています。

ウィリストンは、「私が過去生記憶の検証をする理由は、『生まれ変わり』の真実性を証明するためではない。なぜなら、世の中にいくらでも転がっている生きた証拠を見れば、そんな証明など不必要だからである(前掲書P.96)」と。

 わたしの知る限り、前世療法中のクライアントの語りを綿密な科学的検証にかけて、「クライアントとは別個の前世人格が顕現化し、クライアントの身体を借りて自己表現しているのだ」と いう解釈を表明しているのは、3例の応答型真性異言を発見したイアン・スティーヴンソンだけです。

こうして、ウィルストンとは違い、厳密な科学的方法論によって、生まれ変わりの実証研究に打ち込んだスティーヴンソンは、前世療法によって語られる前世の記憶について、どのような見解を持っていたかを紹介します。

スティーヴンソンは、前世の記憶を催眠によって探り出すことには基本的に反対の立場をとっています。
それは、彼が、前世の記憶をある程度持っていると思われる者を催眠に入れ、前世想起の実験を13件実施し、地名・人名を探り出し特定しようとした試みがすべて失敗した(『前世を記憶する子どもたち』教文社、P.80)ということにあるようです。
こうして、催眠中に前世の記憶らしきものが語られたにしても、催眠によって誘発された催眠者に対する従順な状態の中では、何らかの前世の記憶らしきものを語らずにいられない衝動に駆られ、通常の方法で入手した様々な情報をつなぎ合わせて架空の人格を作り上げてしまう可能性が高いと主張します。
そして、催眠中に語られたリアルな前世の記憶が、実は架空の作話であったと検証された実例を数例あげて、催眠が過去の記憶を甦らせる有効な手段だと考えるのは誤った思いこみであって、実際には事実からほど遠いことを証明しようとしています。
こうした事実からスティーヴンソンは、次のように痛烈な前世療法批判を展開しています。

「遺憾ながら催眠の専門家の中には、催眠を使えば誰でも前世の記憶を蘇らせることができるし、それによる大きな治療効果が挙がるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいは、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている現状を、何とか終息させたいと考えている」(前掲書P.7)   

このスティーヴンソンの批判に対して、生まれ変わりは疑う余地がなく前世記憶の科学的検証は不要だと主張するウィルストンは、どう反論するのでしょうか。

スティーヴンソンは、「トランス人格(催眠性トランス状態で現れる前世の人格)」 が顕現化して、応答型真性現現象を起こしていると表明しています(『前世の言葉を話す人々』(PP.9-11)。
彼は、「グレートヒェンの事例」で、グレートヒェンが応答型真性異言を語るセッションを目前で見学し、クライアントが「前世の記憶」として、応答型真性異言を語っている、という固定観念の不自然さ、不合理さに気づき、「前世の記憶」ではなく、「トランス人格そのものが顕現化して語っている」、という解釈の転換をせずにはいられなかったのでしょう。
しかし、スティーヴンソンは、「トランス人格」の存在する場についてはついに言及していません。

そして、わたしは、SAM前世療法において、顕現化する前世人格の存在の場は、「魂の表層」であり、しかも、今も当時のままの感情や記憶を保つ意識体として死後存続している、という作業仮説を立てています。

したがって、セッション中にわたしが対話する相手(主体)は、クライアント自身ではなく、クライアントの魂の表層から顕現化した前世人格そのものであり、しかも現在進行形で対話している、と了解しています。

こうした現象は、現世のクライアントの魂表層に存在する前世人格が、クライアント自身に憑依して、わたしと対話している、ということになります。
このような憑依現象は、これまで報告されたことがなく、したがってこの現象を表現する用語もありません。
そこで、SAM催眠学では、この憑依現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしています。
つまり、前世人格の顕現化現象は、自己内憑依現象である、というとらえ方をしているということです。

こうした作業仮説とそれによって観察される意識現象の解釈に、たしかな自信を与えたのが、応答型真性異言「ラタラジューの事例」と「タエの事例」の検証によって、生まれ変わりの実証に肉薄できたことでした。
ただし、SAM前世療法の霊的諸仮説をわたしに教示したのは、わたしの守護霊団を名乗る霊的存在からの、これまた唯物論者が目を剥いて否定するであろう「霊信」という超常現象です。

このように、唯物論に真っ向から対立する仮説に立っておこなうSAM前世療法は、世界唯一の前世療法であり、純国産の前世療法だと自負しています。
そしてまた、「前世人格の実在」、つまり「生まれ変わりの実在」の科学的実証性に、かぎりなく肉薄できる可能性をはらんで定式化された世界唯一の前世療法である、という自負があります。

特許庁は、SAM前世療法の仮説の独自性とそれに基づく技法の固有性を審査し、それまで流通してきた普通名詞の「前世療法」とは明らかに別個の仮説と、それに基づく誘導技法による特異な前世療法として、「SAM前世療法」の名称を、第44類の登録商標として認めてくれたのです。

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