2023年12月25日月曜日

脳・魂・意識・霊体の相互関係

SAM催眠学序説 その169  


「心・脳二元論」とは、心(意識)と脳とは別物で、脳が心を生み出してはいない、ということでした。
この「心・脳二元論」の最大の弱点は、それでは意識はどこで生まれ、どこに存在しているのかが説明できないことです。

この説明は、心(意識)のような目にみえない対象を探究するには、実験・観察を手段とする現行 の科学的手法ではなんともならないものです。
そこで、探究を進めるために、わたしあて霊信が教示した魂・意識・霊体などの知識を「作業仮説」として手がかりにするほかないというのがわたしのとった探究の立場です。

作業仮説とは、その仮説の科学的実証はいまだできないけれども、探究を進める作業ために設ける暫定的な仮説です。
フロイトにおける「イド」とか「超自我」などの無意識論、ユングの「老賢人」、「太母」などの元型論は、意識の研究を進めるための作業仮説です。

そして、わたしはSAM前世療法の最終過程である「魂遡行催眠」という技法を成立させるために、意識は脳にあるのではなく霊体にある、という守護霊団の告げた「霊体仮説」を採用しています。

通信霊は、「あなたがこれまで探究してきた道のなかで、あなたが処理できないでいるもの、そして人の理解を超えているものについて、私たちでなければ答えられないものについて、まとめなさい。M子(:霊信の受信者)を通し、あなたは私たちに尋ねなさい」とわたしに教示すると告げてきたのです。
 
  ここで、わたしが探究の手がかりにした、霊信(:SAM催眠学序説その47~72で公開)が、告げている魂の仕組みと霊体の関係について、要点を抜き出してみます。
「霊体仮説」をはじめ、「心・脳の二元論仮説」「魂の二層構造仮説」の原点は、これら諸霊信の真偽の検証にあるからです。

わたしあての第11霊信は次のように告げてきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたが長年探究してきたものは、これまでの視点からでは成長は望めない。
なぜなら、もうすでにその観点での最終地まで達しているものが存在しているからである。
あなたが探究するべきものは、これまでよりさらに深奥にあるものである。
魂の療法のみにあらず、あらゆる霊的存在に対する奉仕となるものである
それは、命あるものすべてにつながり、私たち(:稲垣の守護霊団)へも強いつながりを持つ。
そのために、あなたは自らの内にある疑問をまとめておく必要がある
あなたがこれまで探究してきた道のなかで、あなたが処理できないでいるもの、そして人の理解を超えているものについて、私たちでなければ答えられないものについて、まとめなさい。
M子(:自動書記による霊信の受信者)を通し、あなたは私たちに尋ねなさい。(中略) 

そして、前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。
あなたは、今度その療法(:SAM前世療法の創始を予言している)に関わるが、それだけに限定するのではなく、別のものも同時進行する(:ヒーリング能力と浄霊能力の覚醒を予言している)のだと理解しなさい。(中略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうして、わたしの通信霊への16の質問をM子さんに送信したところ、その回答として、第12霊信で次のように告げています。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前世療法で顕現化されるのは魂ではなく、魂の側面である。
傷を持つのは魂の側面であり、魂自体が傷を持つのではない。
その表層部分が傷を持つのである。
その表層部分は、これまで転生してきた者たちにより構成されている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、わたしの通信霊への疑問の回答として、第13霊信で次のように告げています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
顕在意識・潜在意識は、脳が生み出しているものではない。
すべては、魂の側面(:第12霊信で「側面」を「表層」とも表現している)である者たち(これまでに転生してきた前世の者たち)が作り出しているものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さらに第14霊信では、わたしの通信霊への疑問の回答として次のように告げています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
霊体はあなたがたという魂の側面に属するものであり、心も同様である。
その違いは、霊体は魂にその存在をゆだねているが、心はゆだねていないものである。
心は、心という存在なのだ。
だが、魂に属するものである。
魂にとって、心は道具なのだと考えなさい。
霊体とは魂ではない。
それは、あるときは、オーラ と呼ばれもする
そのものを体を包むものである。
私(エドガー・ケイシーを指す。第7霊信で通信霊の一員として「私はエドガー・ケイシーである」と名乗っている)が過去にリーディングした中で、アストラル体という表現を用いて説明したものである。
それは魂ではなく、それに属するものであり、肉体を保護する役割を担うものでもある。
霊体自体は、単体で動くことはできない。
それは魂とともに存在するものである。
魂を取り囲み、それはあなたという存在を構成するための一材料となる。

死後、霊体は魂から離れる。
だが、それらの意識は魂に取り込まれる。
そして、魂のものとなるのだ。
霊体は、ある意味においてはあなたがたが「あなたという人間であるため」の意識を独立して持つための役割を担うものでもある。
心が個人的意識をつくるのではない。
霊体が持つのだ。(後略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、第15霊信では次のように告げています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生と死の過程は日々おこなわれるものである。
今日という日がはじまり、あなたがたはその先へと進んでいく。
その先に、あなたの魂が、そしてあなたとともににあなたの魂から生まれた多くの者が存在し、同じものを見つめていくのだと理解しなさい。
それらの者の協力を求めるのだ。
友愛、それは自身の魂によるものこそ真の友愛である。
あなたがたは、自らの魂の側面である者たちと友情を築くのだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして、第10・17霊信では次のように告げています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
魂という存在を理解しなさい。
あなたも、一つの魂をもとに形成された側面なのだ。
あなたという存在も、側面の者であり、すべての側面の者は友であると理解しなさい。
魂は、すべての側面の者がつながりを持ち、友愛を築き、与え合うことを望んでいるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

抜き書きしたわたしあて霊信告げている「魂の仕組み」と「意識」と「霊体」の関係を要約すれば次のようになります。

①脳は意識を生み出してはいない。

②魂の表層(側面)を構成している前世の者たちが意識を生み出している。 

③魂表層の前世の者たちが生み出している意識は霊体に宿っている。

④「現世のわたし」も、魂表層を構成している一つである。

⑤霊体は、現世のわたしが、わたしという意識を持つための役割を担っている。

⑥霊体はオーラとも呼ばれ、肉体を保護する役割を担っている。

⑦死後霊体は魂から分離し、霊体に宿っていた意識は魂に取り込まれる。

⑧魂表層を構成してる前世人格たちはつながりを持ち、友愛を築き、それぞれの過去の人生の知恵を与え合う関係にある。

以上8点が、SAM前世療法の採用した作業仮説の骨格となっています。

そして、意識は霊体(オーラ)に宿っている、とした場合に次のような現象の説明が成功するのではないかと思っています。

①SAM前世療法の特殊技法である「魂遡行催眠」は、霊体に宿っている潜在意識を指に担わせ、指の繰り返しの動作によって魂状態まで遡行させるという技法が成功している(指に限らず首・手首など肉体の任意の部分に担わせることが可能)。                               意識・潜在意識が脳に存在しているとしたら、このような技法が成功するとは考えにくいのではないか。 
何よりも、この技法により、被験者里沙さんを「魂状態の意識」にまで遡行させ、魂表層を構成している前世人格のタエと前世人格であるラタラジューの顕現化に成功している。                               そして、ラタラジュー人格は、ネパール語で会話し応答型真性異言を示したが、同様の手続きを踏めば被験者の90%以上の確率で前世人格の顕現化に成功している。                                    こうした前世人格の顕現化する意識現象の事実は、霊体仮説を支持している。


②心臓移植をした場合、移植を受けた人にドナーの意識(記憶・癖・好みなど)が現れるという現象は、移植する心臓を取り囲んでいる霊体も同時に移植されることであり、移植先の人の霊体にドナーの霊体が混入すると解すれば、ドナーの意識や記憶の一部が移植を受けた人に現れることは説明可能ではないか。

③体外離脱した人が、離脱中に見聞した記憶を報告することが説明できるのではないか。                                  つまり、魂とともに霊体も離脱するので、魂が見聞し記憶している意識を霊体が持つからだと説明できるのではないか。
臨死体験研究者キュブラー・ロスの報告によれば、全盲の人が対外離脱中に部屋にいる人の服の色・形を正しく報告した。                   ということは、魂は、肉体の全盲という障害とは関係なく五感を感知する能力を持っていることになるのではないか。

④統合失調症の典型的症状に幻聴(自分ではない者の声が聞こえるという訴え)は、患者の霊体に宿る意識に未浄化霊が侵入した(憑依した)と考えれば、侵入した未浄化霊の意識が幻聴を起こしていると解することができるのではないか。
実際に浄霊作業によって統合失調症を治療した記録(米精神科医ウィックランド『迷える霊との対話』)がある。                      また、わたしも未浄化霊の浄霊作業によって統合失調症の19歳男子大学生の症状改善に成功している。

⑤幻肢という意識現象がある。
手足を切断しているにもかかわらず、無いはずの手足の痛みなどを有るごとく感じる現象である。
これは手足を取り囲んでいた霊体が何かの理由で切断後もそのまま残存して、切断時の痛みの意識を訴えているという説明が可能ではないか。

⑥SAM前世療法のセッション中に顕現化する未浄化霊に、何を目安に憑依するのかを尋ねると、被憑依者のオーラに宿る意識を感知して憑依すると答える。   つまり、被憑依者が、未浄化霊に対して共感や受容する意識を持っているかを、そうした意識が宿るオーラによって感知するということらしい。         そして、オーラ(霊体)に憑依すると答える。


これらの諸現象の科学的実証はできませんが、「意識は霊体に宿っている」、という仮説を採用すれば、「意識現象の事実」として現れている未解明な事実を説明することに成功するのではないかと思います。
それにしても、これまで誰も唱えた者がない奇抜な仮説ではあります。
しかし、SAM前世療法の実践によって検証・確認されてきた「意識現象の事実」は、霊体仮説および、その他の仮説の成立をすべて支持しています。

このことは、わたしあて霊信の教示した内容が、受信者M子さんの妄想による作文ではないことを証明していると結論できます。

そしてまた、前述第11霊信で、「前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。あなたは、今度その療法に関わる」と予言した前世療法こそ、この予言の1年後2008年に創始した「SAM前世療法」であり、その成果として、「タエの事例」および、応答型真性異言「ラタラジューの事例」があらわれたのです。

紹介した霊信現象をはじめ、アンビリバボーでTV放映された「タエの事例」、応答型真性異言「ラタラジューの事例」などは、現行唯物論とは真っ向から対立しています。

しかし、2005年以前は唯物論側に与していたわたしは、いかに唯物論と対立しようとも、自ら体験してきたこうした催眠下で起こる
不思議な諸現象の検証結果を前に、それらを事実だと認めることに躊躇しなくなっています。
これまで唯物論側からの様々な反論を受けてきましたが、これら「意識現象の事実」を唯物論ではいまだに具体論として論破することができないでいるからです。

もし、わたし以外にこのような仮説を述べているという医師・療法家や霊能者を知っている読者がおいでになれば、その出所を教えてくださるとうれしく思います。
わたしの知るかぎりでは、米国の催眠療法家L・M ・ルクロンが、潜在意識から情報を探る技法として、催眠下の観念運動による「指による方法」(『催眠のすべて』講談社現代新書、P.62)という技法を紹介しています。
ただし、ルクロンはこの技法の理論的裏付けについては何も語っていません。
質問の回答を、潜在意識による観念運動として指が立ち上がって答える、という考え方をしているようです。

終わりに、読者のみなさんに英国の哲学者フランシス・ベーコンの残している次の二つの箴言を紹介して、2023年の締めくくりとします。

「反駁や論駁を目的としたり、逆に、頭から信じて無批判に受け入れる態度、あるいは話のタネになるものを探そうといった態度で読むのではなく、その内容をよく吟味し、思考の糧とするために読むべきである」             

「知は力である」

 

今年2024年が、読者のみなさんにとって、実り多き、充実した年になりますように。

 

2023年11月26日日曜日

強烈な思念の集合体は霊的存在となるのか

SAM催眠学序説 その168

 

SAM催眠学では、SAM前世療法セッションであらわれる意識現象の事実として、霊的存在を認める立場をとっています。

霊的存在とは、「守護霊」をはじめ「未浄化霊」や「生き霊」と呼ばれている肉体を持たない諸意識体の総体を指しています。
 

そもそも、わたしあて諸霊信の告げてきた内容がSAM催眠学の諸仮説の基盤ですから、霊信を送信してきた「守護霊団」という高級霊と呼ばれる意識体を認めることは当然の大前提となっています。

SAM催眠学では、「霊とは肉体を持たない意識体」、「魂とは肉体という器に宿った霊を呼び変えたもの」という「霊」と「魂」の概念の明確な区別をしています。
したがって、「霊」も「魂」も、本質はまったく同じ意識体です。

したがって、魂は、宿っている肉体の死後、肉体から離れて霊にもどるわけで、香典袋の表書きに「ご霊前」と表記することは理に適っています。

さて、わたし宛て第12霊信(SAM催眠学序説その59で公開) で、わたしの守護霊団の一員を名乗る通信霊は「未浄化霊」について次のように告げています。(注:「未成仏霊」と「未浄化霊」は同義語)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世に残る「未成仏霊」のような存在は、残留思念の集合体である。 

だが、それらは意志を持つようにとらえられる。 

よって、魂と判断されがちだがそれらは魂とは異なるものである。

それらの持つ意志は意志ではない。

なぜ、それらが意志を持つものだととらえられるのか、そして、魂が別の道をたどりながらそのような意志を残すのか。

それを残すのは、その魂ではない。

それらを管理するのは神である。

それらは計画の一部である。

転生し旅を続けるものに対する課題として必要なものである。

その詳細への説明は与えるものではない。

あなた方は、なぜそのような仕組みになっているのか答えを待つのではなく、自らが探究して得るべきなのだ。                                                  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「未浄化霊」とは、いわゆる「守護霊」などの霊ではなく、「残留思念の集合体」である、というとらえ方は初耳でしたし、このことについてはしばらくの間、判断留保としてきました。
                                     なぜなら、SAM前世療法のセッションで顕現化する未浄化霊は、1個の人格を持つ霊的存在として対話が可能だからです。
したがって、「残留思念の集合体」というとらえ方は不自然だと思われたからです。

その一つの例として、SAM前世療法の「魂遡行催眠」の遂行中に顕現化した未浄化霊との対話事例を提示してみます。

クライアントは40代の女性であり、「魂遡行催眠」の過程で、憑依していたとおぼしき未浄化霊らしき意識体が顕現化し、唐突に「セノーテ、セノーテ」と訴えはじめました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
: セノーテってなんですか? 

: 泉、泉。

: セノーテとはどこの言葉ですか。

: マヤ、マヤ。

: あなたはマヤの時代の人なんですね。それで、あなたは迷っている霊ですね。

: うん。そう、そう。

: マヤは日本から遠く離れています。あなたは、苦しくて、それを分かってほしいから、この者に憑依したのですか? そのために、マヤから日本までやってきたのですか?

: ちがう。この人が来た。

: この者が、あなたのいたマヤのセノーテにやってきた。それであなたが憑依して、そのまま日本について来てしまった、そういうことですか。

: うん。そう、そう。

: あなたは何歳で命を落としたの? 命を落とした場所がセノーテなの?

: 3歳の女の子。セノーテへお母さんが投げ込んだので死んでしまったの。

: お母さんがあなたを殺したわけですね。なぜそんな惨いことをお母さんがしたの?

: 神様への生け贄だって。

注: ここでまたクライアントは激しくイヤイヤをしながら、大声で泣き出しました。それがすすり泣きに変わるまで待って、対話を続けました。 

: そうやって生け贄にされて殺されたから迷っているのですね。でもね、この者にくっついていても、あなたはいくべき世界にいつまでたってもいけませんよ。あなたのいくべきところは光の世界です。そこへいけば、お母さんと会えますよ。あなたを守っておいでになる神様とも会えますよ。

: いやだ。光の世界はいやだ。お母さんは大嫌い、私をセノーテに投げ込んだ。会いたくなんかない。神様はもっと嫌い。私を生け贄にした。

:  お母さんがね、喜んであなたを生け贄にするはずがないでしょう。ほんとうは悲しくてたまらなかったのに、マヤの掟で泣く泣くあなたを生け贄にしたのですよ。そうして、幼子のあなたを生け贄に求めたというマヤの神様はまやかしです。そんなことを求める神様なんているはずがありません。悲しいことですが、マ ヤの時代の迷信です。

: でも、お母さんは、神様の求めで私をセノーテに投げこんだ。お母さんには絶対会いたくない。いやだ、いやだ。お母さんのいるところへなんか行きたくない。この人のところがいい。

:  じゃあね。私の言っていることがほんとうかどうか、ためしてみませんか。きっと、あなたが来るのを待っているお母さんが心配をして、お迎えに来てくれるはずですよ。お母さんがやさしく迎えに来ないことが分かったら、光の世界に行かなくていいのです。ためしてみましょうか。いいですね。浄霊っていう儀式 をしましょう。きっとお母さんがお迎えにきてくれますよ。

: でも、いやだ。お母さんは嫌い。私を殺した。光の世界には行きたくない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このような対話を繰り返し、マヤの女の子が、浄霊に応じることを納得してくれるまで待ちました。
30分近く説得し、浄霊してよいという了解を得たので、浄霊をはじめました。
浄霊の儀式が終わったところで、お母さんが迎えに来ていますか、と尋ねると、うん、とうれしそうな返事が返ってきました。こうして、浄霊作業は終了しました。

ちなみに、このクライアントが、いったいどこで、この子どもの未浄化霊に憑依されたのかセッション後に確認したところ、3ヶ月ほど前の旅行でマヤ遺跡のチツェンイツァのセノーテを訪問していたことが確認できました。

ここのセノーテでは、実際に生け贄を投げ込んで神への供物とすることがおこなわれていたという歴史的事実があります。

このクライアントは、旅行先のここで憑依されたものと推測できます。

さて、ここでわたしと対話した未浄化霊である3歳の女の子は「残留思念の集合体」なのでしょうか。

だとすれば、「残留思念の集合体」は、あたかも一個の人格として振る舞っているとしか思えません。

通信霊の告げている、「未成仏霊は残留思念の集合体である」という霊信を採用すると、インナーチャイルド、多重人格にあらわれる副人格、生き霊といった 現象も、強烈な思念の集合体であり、それらは意志を持つ人格のように振る舞うという仮説が成り立つのではないか、という推測ができると思われます。

なぜなら、SAM前世療法のセッション中に、未浄化霊を名乗る霊的存在が顕現化する意識現象があらわれることがまれではなく、「残留思念の集合体」であるにもかかわらず、あたかも意志を持った一個の人格として振る舞うからです。

こうして、「憎悪・悲哀・嫉妬などの強烈な思念」、つまり「強烈な負の意識」が凝縮された集合体になると、それが一個の人格的属性もつ存在になる、という仮説が成り立つと思われるのです。

つまり、「インナーチャイルド」・「多重人格」・「生き霊」と呼ばれる存在は、強い思念が凝縮して、一個の人格的存在として振る舞っているわけですから、死者の残した強い「残留思念」も、一個の人格的存在として振る舞っても不思議ではないということです。

そして、顕現化した未浄化霊が、本当に「残留思念の集合体」であるのかどうか、は当の未浄化霊に尋ねてみるしかない、というのがわたしのとった確認方法です。

その結果、尋ねた十数事例のすべての未浄化霊が、自分はいわゆる霊ではなく「残留思念の集合体である」と答えています。
それでは、本体である霊はどこに存在しているかを尋ねると、「残留思念の集合体」が浄化されて霊界に上がってくるのを霊界で待機しているとの回答でした。

本体の霊と分離したまま未浄化霊として地上に残ってしまった「残留思念」が浄化され、霊界で待機している本体の霊と統合され、霊として十全な状態になることが求められているようです。
どうやら、そのような十全な霊となるように統合がなされるまでは、次の生まれ変わり(転生)が許可されないのではないかと推測されます。

 そうした消息を霊信では次のように告げていると思われます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なぜ、それら(注:残留思念の集合体)が意志を持つものだととらえられるのか、そして、魂が別の道をたどりながらそのような意志を残すのか。・・・(中略)

転生し旅を続けるものに対する課題として必要なものである。(第12霊信)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

残留思念の集合体が人格的属性をもつ存在だととらえられる理由は、これまで紹介してきた未浄化霊、インナーチャイルド、生き霊などの顕現化事例からすでに明らかだと言ってよいでしょう。

「魂(霊)が別の道をたどる」ということは、残留思念を地上に残し、十全ではない霊(魂)は転生が足止めされ、そうした転生を許可されない霊
(魂)たちの待機する居場所が、霊界と呼ばれる次元のどこかに用意されていることを意味しているのかもしれません。

また、残留思念を地上に残したばかりに、願っても転生が許可されず、霊として成長進化する機会を奪われていることへの後悔や悲しみなどの苦悩や反省が、「転生し旅を続けるものに対する課題」ということかもしれません。

こうして、われわれが「未浄化霊」と呼んできた霊的存在は、「霊」そのものではなく「残留思念の集合体」であると判断してよいように思われます。

以後は、「残留思念の集合体」であるという前提で、それを従来どおり 「未浄化霊」と呼んで記述していきます。

しかし、わたしは残念なことに、未浄化霊の生前の身元の検証を試みて成功したことがありません。
未浄化霊の語った生前の身元の検証をあと一歩まで肉薄した事例は2例ほどあります。

こうして、未浄化霊の存在の真偽は判断留保という前提において、未浄化霊とおぼしき存在に憑依されている複数のクライアントの「意識現象の事実」を累積した結果としての見解をこれまで述べてきました。

そして、クライアントに憑依している未浄化霊の語りが、客観的事実であるのか虚構であるのかは、検証して確認するほかありません。

ただし、検証の結果、生前の身元が客観的事実であると確認できたとしても、厳密な研究者からは、クライアントが超ESPによって未浄化霊の身元の情報を入手して語ったのだ、という解釈が提出されるかもしれません。

未浄化霊と対話したわたしの実感としては、例示したマヤの女の子のような霊的存在の生前の身元が確認できないからといって、その存在を妄想だと否定できないと思われます。

もちろん、クライアントの妄想の産物であるとか、要求特性による役割演技とかの唯脳論(唯物論)による説明は可能でしょうが、なぜそのような妄想を語ったり役割演技をクライアントがする必要があるのか、必然性も利得もないからです。
ちなみに、統合失調症などの精神疾患は、このクライアントには認められませんでした。

さて、さらに、未浄化霊に憑依されていたとおぼしき諸クライアントの語った「意識現象の事実」を、それを語った未浄化霊の存在は判断留保という前提において、未浄化霊との対話で確認してきたことを取り上げてみたいと思います。


未浄化霊は、何を求めて憑依するのか、どういう人を選んで憑依するのか、どこに憑依するのか、という問題です。
また、未浄化霊に憑依されやすい人は、どのようにしてそれを防ぐことができるのか、という問題です。

未浄化霊の求めていることは、に苦しんでさまよっている霊への理解と共感だということです。
要するに、さまよっている霊の心情を分かってくれそうな人を選ぶといいます。
つまり、未浄化霊に対して、意識的にも、無意識的にも、受容的態度を持つ人を選ぶということです。
憑依が確認できたクライアントの多くは、霊的感性の豊かな人であり、そうした霊への受容的態度を持っていると言えるようです。

それでは未浄化霊は何をもって、その人が霊への受容的態度を持っていることを知るのでしょうか。

未浄化霊の語るところによれば 、その選択の指標はオーラだと言います。

SAM催眠学では、霊体(オーラ)に意識・潜在意識が宿っている、という「霊体仮説」を設けています。
霊体はオーラとも呼ばれます。

したがって、未浄化霊に、被憑依者の霊体に宿っている意識内容を察知する能力があるとすれば、霊への受容的態度があるのかないのかが判断できるということになり、実際にそのようにして受容してくれそうな人に憑依すると言います。

逆に言えば、未浄化霊に対して強い拒否的意志を固めていれば、その拒否の意識は霊体に宿っているわけであり、それを察知した未浄化霊は、憑依したところで理解も共感も得られないので憑依をあきらめることになるようです。
または、霊的存在をまったく認めていない人に対しても憑依は無駄であり、あきらめることになります。

したがって、憑依されやすい人が憑依を防ぐには、ふだんから未浄化霊への強い拒否的意志(思念)を固めておくことが、もっとも有効な手段であると言えるでしょう。
ちなみに、どこで憑依をしたかをいくつかの未浄化霊に尋ねたところ、最も多かった回答は病院でした。
次に多かったのは、複数の自殺者の出ている場所や交通事故死の多い場所でした。

こうして霊体への憑依によって、被憑依者の霊体に宿っている本来の意識に、憑依した未浄化霊の意識(残留思念)が併存、ないし混入することになる、という理解が「霊体仮説」から導き出されます。

したがって、憑依によって、未浄化霊の残留思念(悲しみ、怒り、憎しみなどマイナスの思念)の影響を多かれ少なかれ受けざるを得ない被憑依者の意識は、鬱状態や悲哀感、怒りなどの意識に彩られることになります。

強力な未浄化霊の憑依によっては、その強力な残留思念に支配され、一時的に本来の人格が変わってしまうような意識現象があらわれる事例を体験しています。
 

わたしの体験した事例においては、統合失調症の病態がある青年で、精神科に入院するために病院に入ると同時に寛解状態に戻り、入院の必要なしと診断されて病院から出ると同時に異常行動に戻ることを繰り返すという不可解な病態を示しました。

私見を述べれば、この事例は、被憑依者の病院内での治療を嫌う未浄化霊が、憑依したり、離れたりする現象だという解釈をすれば理解できないわけではありません。


さて、「心と脳の二元論」に立脚し、しかしながら意識(心)がどこで生まれ、どこに存在にしているのかがいまだに解明不能で行き詰まりの現状では、その探究は結局観念論にならざるを得ないでしょう。

観念より事実、理屈より実証を重んじるわたしに今後もできることは、SAM前世療法の実践を地道に累積し、深い催眠状態で顕現化する意識諸現象の事実を考察し、意識の本質に少しでも迫ることだと思っています。


2023年10月25日水曜日

心は脳の随伴現象なのか その2

 SAM催眠学序説 その167

 

SAM催眠学序説 その166」に続いて、大脳生理学者以外に「心と脳の二元論」を唱えている他分野の研究者のいくつかの見解を紹介します。

下記に紹介するこれらの記事は、心と脳について述べている関連サイトから抽出したものを張り付けたものです。 

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【その1】 

 

米「タイム」誌の「世界で最も影響力がある100人(2014年度)」にも選ばれた、再生医療の専門家ロバート・ランザ博士が、死後の世界を肯定する発言をしていたことが判明した。


■量子論と意識の奇妙な関係

 米ニュースサイト「Collective Evolution」(1月14日付)によると、ランザ博士は著書「Biocentrism: How Life and Consciousness Are the Keys to Understanding the True Nature of the Universe(生命中心主義:いかに生命と意識が宇宙の本質を理解するための鍵であるか)」において、物質ではなく生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であると断言、意識は肉体的な死とは別物である上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張しているというのだ!

随分と大胆な説であるが、ランザ博士によると、量子力学の「二重スリット実験」を例にとれば、簡単に理解できるという。

 量子論の世界では、最も基本的な思考原理である矛盾律(AがB、かつ非Bであることはない)が通用しない状態である「量子の重ね合わせ」が長らく世界中の科学者を悩ませてきた。

「二重スリット実験」では、2つのスリット(細長い穴)を通った電子が壁に衝突して作る痕跡をもとに電子が波なのか粒子なのか確定されるはずだったが、観察者がいない場合、電子は“波”の性質に見られる干渉縞を作り、観察者がいる場合、“粒子”に見られる痕跡を残すという “非科学的な”事態が生じたことで大問題となる。

つまり、電子は「波であり、波じゃない」、「粒子であり、粒子じゃない」という矛盾する性質を抱えていることが判明したのだ。

ここで問題となるのは何より「観察者」の存在だ。物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない「観察」という“意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっているのである。                             

このことを量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

もし全宇宙から人間を含めた意識を持つ者が全て絶滅しても、宇宙は存在するだろうか? 常識的に考えれば、一切の生命がいなくなっても物質世界は存在していると思われるが、ランザ博士はそう考えない。                             なぜなら、二重スリット実験で示されたように、意識が物質世界よりも根源的だと考えるからだ。

この論理に従うと、肉体(物質)と意識の因果関係が逆転する。            つまり、意識が現実を生み出しているならば、発生の順番が脳(物質)→意識ではなく、意識→脳(物質)でなければならないため、肉体(物質)が死んでも、意識まで消滅する必要はない。こうして死後の(意識)世界が認められるというわけだ。

しかし、そうはいっても意識はやはり肉体に宿っている。               この揺るがない事実をどう説明したら良いだろうか?                 ランザ博士によると、肉体と意識が別個のものだとしたら、肉体がアンテナのように意識を受信していると考えることもできるという。

(『知的好奇心の扉トカナ』の記事より抜粋)

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 【その2】

 

 脳とは、肉体の外にある意識(魂)と肉体をつなぐ装置である

「臨死体験? そんなもの、脳内の化学反応に決まっているさ」-
このように言う多くの懐疑論者は、英国の心理学者スーザン・ブラックモア(Susan Blackmore)の1993年の本-「Dying to Live」を参考文献として、よく利用しています。

「Dying to Live」は、臨死体験(NDE=Near Death Experience)は死につつある脳に関連した化学変化である、と結論付けている本です。

カナダのモントリオール大学教授マリオ・ボーレガードのような非唯物論者の神経学者(脳内の化学反応で説明できないことがあると認めている学者たち)、長い間、ブラックモアを批判しており、ブラックモアが主張していた20年前は、脳の研究の初期段階であったことを指摘しています。

ブラックモアは、人間が死ぬプロセスの間に起きる酸素(あるいは酸素欠乏症)の不足が、暗いトンネルの端で明るい光を見る幻覚に結びついており、これがビジョンをコントロールする脳の部分中のニューロン(神経細胞)の異常な発火を引き起こすかもしれないと主張しました。それに対して、ボーレガード教授は、もし酸素欠乏症(酸素の不足)がNDEの中心になっているとするなら、はるかにより多くの心停止患者がそのような体験を報告するはずだ、というオランダの心臓外科医ピム・ファン・ロンメルによる反対意見を引用しています。

オランダの心臓外科医ピム・ファン・ロンメルの主張
「人間の意識は肉体の中にあるのではない。 脳とは、肉体の外にある意識と肉体をつなぐ装置である。
脳は単なる意識を受け取る受信装置に過ぎず、その意識は時空を超えた特別な場所に存在している」。

その上、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校付属病院の医師であるサム・パーニアが指摘しているように、何人かの臨死体験を経験した患者の酸素レベルは正常で、臨死体験をしている間中、臨終状態ではなかったのです。
(彼の蘇生技術は素晴らしく、ニューヨーク病院の心停止蘇生率を2倍にしたほどです)。

パーニアは、「患者の酸素レベルを落とすことは、急性錯乱状態を引き起こすことにつながっており、臨死体験をした患者が明瞭な意識を持った状態で証言した内容と矛盾する」と述べています。

心臓蘇生の世界的権威・サム・パーニアの主張
「生と死の狭間には、それを遮断する壁のようなものがあるわけではなく、死とはプロセスである」。

「現在はっきりしているのは、人間の意識が消滅するわけではないということだ

「意識は”死”のあとも、数時間は存続する。外側からは見ることができない冬眠的状態であるとしても」。

( 「脳波停止の後」に残る意識:蘇生医療の最前線から WIRED 2013年5月2日)


この20年、研究が進み、医学が進歩するとともに、臨死体験は稀なこととされてきたのが、今では、ごく普通に起こることとして扱われるようになったのです。

彼の著書「Erasing Death(死を消す)」では、死亡が確認された後、蘇生して生還した人たちの記録保持者(長く死の状態にあった、という意味での記録保持者)の一人として30歳の日本人女性の例を取り上げています。

パーニア医師は、「彼女は10時間の間、臨床的に死んだ状態にあった」と言っていますが、正確には6時間の手当ての後、彼女の心臓は再び鼓動を打ちはじめ、健康な状態に戻された、ということです。

「彼女は、去年、赤ちゃんを授かりました」とパーニア医師。

「数時間の間、臨床的に死んだ状態にあった患者たちが生還した」とパーニアは言っています。
人間の意識が継続するという問題は、本格的に取り組むべき科学的な問題です。

臨死体験が研究者の間で大いなる議論を呼ぶようになったのは、臨死体験を経験した患者が生と死のはざまで彷徨っている時間が長くなったということではなく、臨死体験を経験する患者の数が圧倒的に増えているということからです。

臨死体験者のうち、体外離脱の体験を有している人々は、さらに深い問題を提起しています。

懐疑的な唯物論者たちは、臨死体験を経験した患者が見たという「まばゆい光」や「天使の存在」、「光のトンネル」を説明しようとしません。
死に際にある脳の仮説では、そうしたことを説明することはできないからです。

しかし、他の可能性があります。

これは、ケンタッキー大学からの最近の研究が仮定していることですが、おそらく血中に過剰な二酸化炭素が入り込むと、睡眠障害や眼球急速運動(REM)によって臨死体験に似たような状態を引き起こすことがあるかもしれない、という実例です。

そうした混乱の中では、人の心が肉体から起き上がると感じられる場合があります。
つまり、肉体から物理的に離脱するという幻覚が生じるのです。

心停止状態では、肉体のもっとも基本的な機能をコントロールし、高次脳から独立して作動している脳幹領域へのREM侵入の引き金になる可能性があるのです。

その結果として生じる臨死体験とは、実際に夢のようなものになるでしょう。
しかし、その仮説では、臨死体験中に、今まで見たことがないものを見たという報告をする人々を説明することはできません。

パーニア医師の報告には、こうしたものもあります。
ある患者が心停止状態になったとき、いったん総入れ歯を外されたのですが、意識を取り戻してから看護婦が取り外した彼の入れ歯を探そうとしても見つからなかったのです。
しかし、その患者は自分の入れ歯がどこにあるのか知っていたのです。

おそらく確証のとれたケースの中で、もっとも有名な事例は、ボーレガードも引用していますが、マリアという名前の出稼ぎ労働者のした体験でしょう。
その物語は、彼女の救命救急診療を担当したソーシャル・ワーカー、キンバリー・クラークによって記録を取られています。

マリアが心停止状態から蘇生したその日、自分が天井から部屋を見下ろしていた体験をクラークに語ったのです。
彼女は、(臨死体験の中で)気がつくと病院の外にいて、建物の3階の北側の窓から突き出た棚の上にテニスシューズが置いてあるのを見つけました。

彼女はそれについてクラークに詳細に記述しました。
マリアは、特段、驚いた様子もなく、3階の北側の窓の棚の上に本当にテニスシューズが置いているのかどうか、確かめに行ってくれるようクラークに頼みました。
そして、クラークは、マリアが言ったとおり、その場所にテニスシューズが置いてあることを確認したのです。

こうした臨死体験をした患者の報告は、ますます増えており、医療の現場でも看過できない状況が生まれています。

東大病院の集中治療部長、矢作直樹氏は、多くの救命医療に携わった経験から、このように言っています。

「いわゆる臨死体験を患者の口から聞くこともあります。光を見た体験などを語るのです。脳内ホルモンの作用で説明されることがありますが、それだけで説明し切れない場合もあります。
肉体は滅んでも霊魂は永遠である。亡くなった人の霊に、いつも自分は見守られている。そのように考えれば、生きている限りは感謝の気持ちを持って生きられ、死に直面してもあわてずに済むのではないでしょうか」。

また、明治大学情報コミュニケーション学部教授、石川幹人氏は、臨死体験を体験しそうな状態であったのに体験しなかった患者と、実際に臨死体験をした患者とで、気持ちの変化を比較したケネス・リングの調査結果を引用しています。

「前者の人々は総じて、命の大切さを再認識し、目的意識が芽生え、物へのこだわりが減り、他者への思いやりが高まった。
後者の人々は総じて、信仰心が高まり、死への恐怖が減り、死後存続の信念が芽生え、生まれ変わりを許容するようになった」。

英国のDaily Mailでも、
Tunnels of light. Meeting with dead loved ones... the truth about near-death experiences
「光のトンネル-亡くなった愛する人との再会…臨死体験の真実」と題して、いわゆる「あの世」、「来世」について、脳の最高権威の理論を紹介しています。

脳と意識の関係を解き明かすことができれば、おそらく戦争はその大義を失うでしょう。                                                                                             他国を侵略して領土を拡張しても、いずれすべての人が行く死後の世界では、何の意味もないからです。

差別や不平等が幻影であることが分かるだろうし、権力や権威さえ虚しく遠吠えするだけでしょう。
宗教的対立が、実はそこから利益を得ようとしている一握りの人々の姦計であることもはっきりするでしょうし、何より、まがいものの神仏は駆逐されるでしょう。

しかし、なぜ私たちは、こうした不可知の世界から遠ざけられているのでしょう。
封印が解かれるのは、いつのことなのか。

《参考記事》
Why so many people including scientists suddenly believe in an afterlife
Tunnels of light. Meeting with dead loved ones... the truth about near-death experiences
 (『カレイドスコープ 』の記事より抜粋)
 

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【その3】 

■意識は前世の記憶を引き継いでいる

輪廻転生が実在することが量子論で判明! 専門医「死後、あなたの意識は次の人の脳に張り付く」の画像1タッカー博士「Wikipedia」より引用

 今回のニュースを報じた英紙「Express」(2月4日付)によると、米ヴァージニア大学医学部精神科のジム・タッカー博士の研究により、前世の記憶を持つ子どもの存在が決定的になったという。

タッカー博士は、前世の記憶を持つ子どもたちに15年にわたりインタビューを続けてきた、少々変わり者の研究者として知られる。                                                                               その成果は、経験したはずもない出来事の記憶や、前世の傷や痣などを持つ、輪廻転生したと思しき2500人もの子どもたちの記録を収録した著書『Life Before Life: A Scientific Investigation of Children’s Memories of Previous Lives』にまとめられている。

タッカー博士によると、意識は量子レベルのエネルギーであるため、輪廻転生の説明は科学的に可能であるという。                                                                                             これまでトカナでも報じてきた通り、現代の多くの科学者が、意識の謎を解く鍵は量子力学が握っていると信じている。                                                                               

例えば、米「タイム」誌の「世界で最も影響力がある100人(2014年度)」にも選ばれた、再生医療の専門家ロバート・ランザ博士は、「生命中心主義(biocentrism)」を標榜し、物質ではなく生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であると断言、意識は肉体的な死とは別物である上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張している。

 博士も「生命中心主義」のテーゼを受け入れ、意識は肉体の死後も生き残り、次の宿主の意識として活動すると語っている。

「量子論の創始者であるマックス・プランクなど、一流の科学者は物質よりも意識が基本的であると語りました。     

つまり、意識は脳が生み出したのではないのです。脳や肉体の死後も意識は生き残り続けます」(タッカー博士)
「ですから、意識は前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に張り付くのです」(同)

(『知的好奇心の扉トカナ』の記事より抜粋)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・紹介記事おわり 
 
 さて、ペンフィールド、スペリー、エックルズなどのノーベル賞を受賞した大脳生理学者以外に「心と脳の二元論」を唱えている他分野の幾人かの研究者を紹介してきました。
問題は、彼らは「心と脳の二元論」を仮説として唱えているにもかかわらず、意識が脳以外のどこで生まれ、どこに存在してるのかについて明確なことは一切言及していないことです。
脳は単なる意識を受け取る受信装置に過ぎず、その意識は時空を超えた特別な場所に存在している」と言われても「時空を超えた特別な場所」とはどこなのか、についての言及はありません。
わたしが知りたいと願っていることは、意識がどこで生まれ、どこに宿っているかなのです。
このことについて、仮説として唯一言及している生まれ変わりの研究者は、ヴァージニア大学医学部精神科のジム・タッカーの前任者であるイアン・スティーヴンソンしかいないようです。                          
彼は次のように述べています。    
「 こうした肉体のない世界はどこにあるのか、と問われれば私は、私たちが肉体と結びつけている現世で、誰もが持っているいる心理的空間の中に存在すると答える。ここでまとめると、宇宙には物理的世界と心理的(ないし心霊的)世界の少なくとも二つがあるのではないか、と私は言おうとしているのである。         私たちが現世にいる間は、肉体と結びついているため、肉体なしには不可能な経験はさせてくれるであろうが、心の働きは誓約を受ける。死んだ後には肉体の制約から解き放たれるので心理的世界のみで暮らすことになろう。               そして、その世界でしばらく生活した後、その人たちの一部、あるいはもしかするとその全員が新しい肉体と結びつくのかもしれない。それを指して私たちは、生まれ変わったと称するのである。」          
 (イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄 『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、P.353)
 
わたしたち人間は、「意識」を持っていることを言うまでもない自明のことだと容認していますが、その自明である「意識」がどこで生み出され、どこに宿っているのかがいまだに分からないでいるというきわめて奇妙な状態なのです。
脳が意識を生み出し、意識は脳に宿っているというもっともらしい常識は、科学的にけっして立証されているわけではない憶測にすぎません。
2007年1月20日1:01着信のわたしあて第8霊信は、わたしの守護霊(ガイド) を名乗る存在からのものですが、
あなたがこれまで今世を通し、より強い興味や探究心をひきつけられるものを、あなたはそこで理解していた。                                あなたはそれを科学的な見解から理解していた。                   すべては「意識」であると理解していた。                      言葉としての「意識」をあなたは理解している。                   だが、それの本質はまだ理解に及んでいない。                    あなたがより覚醒するにしたがって、それは想い出されるものとなる。
と予言めいたことを告げています。 
「意識の本質」とはなにかについて、SAM前世療法の実践から現時点でおぼろげに理解できてきたことは、「意識は時空を超越したものであり、物質には還元できないもの」ではないか、ということでしょうか。
 このことは、SAM前世療法によって、前世を生きたラタラジューというネパール人の人格の意識が、いま、ここに、現在進行形として顕現化したこと、また遠隔ヒーリングという意識の集中による症状の改善現象が確認できたことなど、わたし自身の実体験によって検証してきました。                  
そして、被験者里沙さんの魂表層には、ラタラジューという前世人格の意識が、死後も彼女の魂表層に存在していることを立証し、ひいてはSAM前世療法の仮説が立証されたものと考えています。
それ以外の「意識」の本質の理解は、霊信によれば、わたしの魂の覚醒に待つしかないのでしょう。 
 
 注:わたしあて第8霊信は本ブログ「SAM催眠学序説その55」、「ラタラジューの事例」は本ブログ「SAM催眠学序説その161」をご覧ください。

2023年9月21日木曜日

心は脳の随伴現象なのか

 SAM催眠学序説 その166

 

「心は脳の付随現象なのか」、ことばを換えるなら、「心と脳の一元論は本当なのか」という問いについて、わたしは拙著『前世療法の探究』で次のように述べておきました。

「 一般に信じられている言説、つまり、心は脳の随伴現象であり、脳の消滅とともに心も消滅してしまえば、生前に経験されたものはすべて棄却されることになる、という言説は、唯物論科学の立場から、その立場上構成されている『信念』や『主張』をそのまま表現したものであって、その言説自体は、科学的に確定された手続きによって、検証・証明されたものではないのです」(稲垣勝巳『前世療法の探究』春秋社、2006、P.245)

上記の考え方はその後17年経過後の2023年現在でも通用するかどうか、興味深い記事がありますので次に紹介したいと思います。

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2023年4月                             「『サイエンスZERO』20周年スペシャル」NHK取材班のインタビュー記事より

                                          20年の科学を振り返るうえで、「脳科学ブーム」は記憶に新しい。だがなぜ、人々は「脳」に魅了されるのか? 理由は多々あれども、その一つは「心とは何か?」を知りたいからではないでしょうか。                                                帝京大学の岡ノ谷一夫教授はそう語ります。

「心」の正体を探るべく、理化学研究所・脳科学総合研究センターや、東京大学・認知行動科学研究室などを渡り歩いてきた岡ノ谷さん。                                 研究テーマも、言葉、情動、メタ認知など、多岐に渡ります。                        そんな彼に、「脳と心」の20年について聞いてみました。                             すると、そのお話は衝撃の一言から始まったのです。

「この20年、『脳』からは膨大なデータを記録できるようになった。しかし、 『心』にはたどり着けなかった」――。

「 心とは何か?」という疑問を追い続けて20年。帝京大学の岡ノ谷一夫教授は「この20年、『脳』からは膨大なデータを記録できるようになった。                しかし、 『心』にはたどり着けなかった』と言いますが、それはどういうことなのでしょうか?                                       そして「心」の正体とは。

 

そもそも、「大量のデータがとれた」とは?

もう少し具体的にいうと、人の脳の活動を記録する技術としては、「機能的MRI」(※1)というものがありますが、その解像度がどんどん向上していったんです。

測定に用いる磁場が強くなってきて、僕が始めた頃は1.5テスラくらいでしたが、今は7テスラになっています。                                                            昔は、電極を一本ずつ刺して、その電極の近くのニューロン(神経細胞)をいくつか計測するだけでしたが、                               これによって、より高解像度で脳の活動を記録できるようになったんです。       昔は、電極を一本ずつ刺して、その電極の近くのニューロン(神経細胞)をいくつか計測するだけでしたが、時間的な解像度も、昔は秒単位と言われていましたが、いまは何十ミリ秒単位にまで向上していますしね。                                  人だけでなく、動物を使った実験でもそうです。                   岡ノ谷一夫教授が、「カルシウムイメージング」(※2)のような技術が出てきて、数百個ものニューロンの活動を、一気に計測できるようになりました。

 

―では、「脳」を研究しても、「心」は分からないということでしょうか?

例えば、脳に磁気刺激を与えると、視界に穴が開いて見えるとか、そういうことはできるんですけど、そうした知覚を越えて“現象学的な心”とつながるかというと、まだつながっていない気がしますね。                                つまり、知覚や記憶、情動などは計測できるのですが、それらを感じている「心」をどうやったら計測できるのか?                                                              あるいはそれってもしかして計測できないのか? それが分からないのですよ。                                 現時点でも、どうしたらいいかも分かりません。

脳に関する技術はものすごく進んだのですが、だからといって“現象学的な心”とはまだつながっていないんですよ。

“現象学的な心”とは、自分自身が自分自身として感じている“心”です。            とにかく、物質的な脳から測れるものを徹底的に測っても、“心”にはつながらなかったんです。

 

ーそれは、心の定義にもよるのではないでしょうか? 仮に、記憶や認知をすべて計測したら、実はそれが「心」を計測したと言えたりはしないでしょうか?

たしかに、そのように定義すれば、心を計測したと言えるのかもしれません。      でも、こう考えるとどうでしょう?                         仮に自分の心が、記憶や認知だけの集合体だと思えば、それはコンピューターにアップロードできるかもしれませんけど、それって“自分”なんですか?              それって、自分じゃなくないですか?                                                        自分じゃないって思う、その“何者か”なんですよ。私が知りたいのは。

言い方を変えると――「釈然としない」ということですね。              仮に、脳から計測できるものすべてを計測して、コンピューターにアップロードした上で、あなたの肉体を消滅させますよ、いいですか?って言われたとき、なぜか「釈然としない」じゃないですか。                                 その「釈然としない」ところが大事、心の大事なところだと思うんですよね。

 

―とれるデータが増えたからこそ、どんな結果が出るかよりも、そのデータ自体に価値があるということ?

そういう考え方ですね。                              ただね、このやり方が行き過ぎてしまうと、研究がつまらなくなると思います。     挑戦的な研究が少なくなってくるのではないかと思うんです。

挑戦的な研究というのは、いわば「仮説自体を探索する研究」のことです。       どういう仮説を研究すべきかを考える、探索型の研究のことですね。          例えば、動物を観察していて、面白そうなことをしているけど、なぜそんなことをしているのか? どういう仕組みでそういうことをしているのか? そうしたことを調べる研究のことです。

一方、プレレジストレーション型の場合は、動物にこういう刺激を与えたときに、こういう脳活動が出るであろうと仮説を作って研究することになりますから、「次元」がひとつ違ってくるわけです。

つまり、面白い現象自体を発見していく研究と、発見した現象の仕組みを突き詰めていく研究。                                       研究には二種類あると言ってしまっていい時代になったのではないかと思いますよね。

 

このままデータ主義が進むと、そうした探索型の研究が少なくなるということですか?

プレレジストレーション型の研究に傾いていってしまうので、探索型の研究が評価されにくくなっていくかもしれませんね。                          だからこそ、特に日本は、探索型の研究ができる人材を増やしていく仕組みが必要だと思います。

というのも、次の20年こそが、私たちが「心」を理解できるかの 「分岐点」 だと思うからです。                                       次の20年で、分かるかどうかなんですよ、本当に。                  技術自体は、ものすごくそろっているわけで、それらをどう組み合わせて「心」にアプローチするか次第なんですよね。                            本当にね、たぶん次の20年で分からなかったら、分からないんですね。

だからこそ次の20年は、ただ脳のデータをとるだけで終わらず、“脳科学者”はみんな“心理学者”になるべきなんじゃないかなとさえ思うんですね。

 

 ―改めて、岡ノ谷先生個人にとっての20年は、どんな20年でしたか?

自分としては最初から、「心」を知りたかったのですが、鳥のさえずり研究から、ラットや人を使った研究まで、いろいろ広がった20年でしたね。                  テーマとしても、聴覚だけでなく、共感、情動、報酬系など、「心」の本質に近づくために、自分の興味がどんどん広がっていった20年でした。

そして、20年前といえば、ちょうど千葉大学から、理化学研究所の脳科学総合研究センターに移った頃ですね。                                                                 実は当時は、もう“心理学者”をやめようと思っていた時期なんです。              “心理学者”をやめて“脳科学者”をやろうと思っていたんですよね。

それでしばらく脳研究っぽいところにいたんですけど、研究するうちに、やっぱり自分は“心理学者”なのかなと思って。                                                         脳の活動は記録するけど、だからといって“脳科学者”なわけじゃなくて、やっぱり心が知りたいんだよなっていうことが分かってきましたね。                           なのでその後、東京大学の認知行動科学研究室で、そうした研究を続けることになりました。

 

―最後に、次の20年は、岡ノ谷先生にとってどんな20年になるでしょう?

死んじゃうよね。                                 そして、死ぬときはきっと、「釈然としない」 んだろうなって思います。        ですが、次の20年で自分の研究をまとめあげて、どのように“心”ができているのかを、自分なりに理解したいと思っています。                         そうすれば、一応 「釈然」 とした気になれるかなと。                 そのためにも、私はいま63歳ですが、これからも新たにいろんな技術を身に着ける必要があるなと思っています。                               そしてそれは、可能なのではないかと思っているんですよね。

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さて、最先端の現役脳科学研究者である岡ノ谷一夫教授の結論は

「知覚や記憶、情動などは計測できる。しかし、それらを感じている『心』をどうやったら計測できるのか? あるいはそれってもしかして計測できないのか? それが分からない。                                                                           現時点では、どうしたらいいかも分からない。                    結局、現行の唯物論科学では 『心』にたどり着くことはできなかった」

とまとめていいでしょう。

そして、岡ノ谷一夫教授と同様の唯物論科学の立場から、「昔は、電極を一本ずつ刺して、その電極の近くのニューロン(神経細胞)をいくつか計測するだけ」の過去の時代の大脳生理学者で、ノーベル賞を受賞している、W・ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなどが、脳は心を生み出してはいない、と晩年になって「脳と心の二元論」に至ったことを表明しています。

わたしの畏敬する成瀬悟作医学博士も、2004年の講演の中で「脳の病変によって動かないとされている脳性麻痺の動作訓練を催眠暗示でやってみると、動かないとされていた腕が動くようになりました。                                しかし、脳の病変はそのままです。                         こうしたことから、身体を動かすのは脳ではなく「オレ」であることにやっと気付きました。                                                                                                私のこの考え方を正統医学は賛成しないでしょうが、21世紀の終わりには、私の言っていることが明らかになるでしょう」と「脳と心の二元論」を表明しています。  

SAM前世療法を提唱しているわたしの立場は、言うまでもなく「脳と心の二元論」仮説に基づいていますが、今世紀の終わりまでにそれが実証できるのか、SAM前世療法の地道な実践を継続するなかで検証していきたいと思っています。

結局、わたしの探究は、SAM前世療法によって発見した意識現象の仕組みを、唯物論にとらわれず、仮説を立てて突き詰めていく探究だと思っています。

 

2023年8月4日金曜日

霊的現象の探究におけるスピリチュアリズムとプラグマティズム

SAM催眠学序説 その165 

 

わたしが特定の諸宗教とは無縁の、催眠臨床の実践者、生まれ変わりの実証的探究者であることを明確にするために、現在の考え方の立ち位置を述べておきたいと思います。

わたしの立ち位置は、あえて言えば「実証的スピリチュアリスト」と言えるようです。
しかし、この立ち位置は、「確信的スピリチュアリスト」の人からすれば、何だ!?という批判を受けそうです。
 

真性の「確信的スピリチュアリスト」とは、科学的実証はできないであろう信憑性の高い諸霊信(『シルバーバーチの霊言』、『モーゼスの霊訓』、カルディックの『霊の書』など)の高級霊の告げている内容を霊的真理として「確信している人」のことを指して呼ぶわけですから。
 

ちなみに、わたしは新興宗教を含めて既存の宗教組織には矛盾と不信感を抱いています。
 「宗教」の「宗」とは「元になっている」の意ですから、「救いの元になる教え」が「宗教」の原義であるはずでしょう。
 

にもかかわらず、宗教どうしの差別や反目、迫害、政治的利用、はては信仰による戦争が歴史上繰り返されてきました。
こうした「救いの元になる教え」であるはずの諸宗教によって、今もなお信仰の違いによる不毛で悲惨な争いの現実はなぜ起こり続けるのでしょうか?

さて、「近代スピリチュアリズム」の霊的真理とは、

①地上の人間と霊界の高級霊との交信を認める、
②そうした霊の存在を認める、
③ 生まれ変わりの存在を認める、
④全知全能であり唯一絶対の創造主である神の存在を認める、

 ことを内容としています。

この内容を「霊的真理」であると確信し、霊的真理を人生の指針として、現世をよりよく生きようとする人こそ、「確信的スピリチュアリスト」と呼びます。

心霊写真・占い・霊的予言・チャネリングなど霊的現象に強い興味関心を抱き、実証や検証抜きでそれらを鵜呑みに受容する人や、あるいは霊能があると自称し、予言したり霊障を知ることが出来ると自称する人たちを、霊的感性・能力を備えている人という意味で、ひとくくりにスピリチュアリストと呼ぶことは正しくありません。                                    

オカルティストと呼ぶべきでしょう。

スピリチュアリストとオカルティストは、似て非なるものです。

わたしが「実証的スピリチュアリスト」だと自称するのは、わたしあて霊信内容をわたしの実践しているSAM前世療法よって確認(実証)できた意識現象の事実に限定して、それを認めるという表明をしているので、その立場を強いて呼ぶなら「実証的スピリチュアリスト」と位置づけてよいだろうというだけのことです。                    このことは、これまで述べてきた本ブログを読んでいただければ了解していただけると思います。

また、観念より事実、理屈より実証を重んじる立場からは、「リアリスト」でもあります。

さらに、わたしが自覚し納得しているのは、自分は哲学的観点からは「プラグマティスト」であるということです。

プラグマティストとはいかなる思考・態度をとる人間であるのか、以下に述べてみます。

日本語で「道具主義」と訳されるプラグマティズムが、卑近な実用と功利を重んじる安手の常識哲学だと考えることは正しい理解ではありません。
そもそも「プラグマ」とはギリシア語で「行為」を意味します。
 

「プラグマティスト」は次の①~④ような「生活態度」を反省的に身につけようとします。
 
 仏教、イスラム教、キリスト教、諸新興宗教、あるい政府・官僚などの言説に代表されるような美しく荘重な文言を、聞いたり口にしたりすれば、それで万事理解したように思う「言語主義(バーバリズム)」を捨てて、文言や文章の意味する内容からどういう実際的帰結が生ずるかを絶えず見届けようとする「実際主義」を身につけようとする。
 

 プラグマティストである米国哲学者パースの有名な「プラグマティズム格言」が、上記①のことを的確に言い得ています。
 

「How to make our ideas clear(私たちの観念を明晰にする方法)」と題された内容である「プラグマティズム格言」とは、われわれが何を知っているのか、また何に気づいていないかを、自ら意識し確かめる方法を述べたものです。

プラグマティストである米国哲学者パースによって、次のように述べられていることです。

「その概念の対象が、どんな具体的影響を私たち人間の行動に対して持ち得るかを考えてみよ。そういうふうにして考えつかれ、想像される影響の総体が、もとの概念の意味の全部である。その具体的影響を考えつかないとすれば、そういう概念は、もともと空虚で意味がないのである」

この「プラグマティズム格言」こそ、「実際主義」を的確に言い得ています。

対極の「言語主義(バーバリズム)」とは、実質的、具体的内容のない空虚な文言を、あたかも実質的内容があるように思い込む思考態度や、単なる言い換えをあたかも新しい内容があるように思い込んで、ありがたがる思考態度です。

言語主義による詭弁や欺瞞は、プラグマティズム格言に照らして確認すれば、化けの皮が剥がれます。                                    

たとえば、国会における首相・大臣など政治家、官僚の答弁が、いかに言語主義による詭弁と欺瞞に満ち満ちていることか!

 生活体験を十分にくぐらない観念や信念だけでものごとを解決しようとする態度を捨て、事実の蓄積とそこに見出された法則性に裏付けられた観念や思考を形成し、またその真偽を行動・体験によって絶えず検証し修正する態度を身につけようとする。 

このブログの「コメント投稿の留意点」に掲げている、「観念より事実、理屈より実証」のスローガンはこの②の態度の表明です。

 自分の正当な利害や幸福を追求することをうしろめたい悪いことのように感ずる卑屈感を捨て、自己を正当に主張するよい意味の個人主義的な自主的態度を身につけようとする。
こうした態度があってこそ、他人の人格や権利を正当に尊重し、他人と民主的に交わることができるようになると考える。
またこうした考えにもとづいて行動しようとする。
 

 プラグマティズムは、一つ間違うと功利主義、実利主義へとかたより、個人の直接体験を偏重する主観主義に傾き、また悪い意味での自然主義におもむいて、安易なオプティミズム(楽観主義)に走りやすくなる。
そうならならないよう絶えず「反省的思考」によって、バランスある言動・思考態度をとろうとする。
 

わたしのいう「反省的思考」とは、たとえば「ラタラジューの事例」における「生まれ変わり仮説」の真偽の検証において

A 自分に都合のよい事象のみを「選択的に抽出」してはいないか?

B 「選択的に抽出」した事象をことさら「拡大視」し、不都合な事象を不当に「縮小視」し、あるいは無視してはいないか?

C 選択的な抽出」によって「拡大視」したごくわずかな都合のよい事象を短絡的に「極端な一般化」した結論へと導いていないか?

D 「極端な一般化」した結論をもって、手前勝手な「恣意的推論」を展開していないか?
 
つまり、以上の4点を絶えず点検し、独りよがりの「認知の誤り」に陥ることへの警戒を怠らない思考態度を「反省的思考」と言います。                    

その結果、応答型真型異言「ラタラジューの事例」は現時点で、生まれ変わり以外に説明ができないと考えています。


こうして、プラグマティズムは、専門的哲学の体系というよりは、より充実した納得できる人生を送るための「生活態度のとり方」だと言えると思います。
 

 プラグマティズムの真理観は、「説明の成功」ですから、わたしのこれまで述べてきたブログ上の言説も、現時点でとりあえず説明が成功している「とりあえずの真理」だと理解していただきたいと思います。

したがって、たとえば「タエの事例」や「ラタラジューの事例」、とりわけ、学んだはずのないネパール語による「応答型真性異言」という現象について、今後「生まれ変わり仮説」よりも、簡潔で整合性のある別の仮説によって「説明の成功」がなされれば、そちらを受け入れることに躊躇することはありません。
こうした立場から言えば、わたしはリアリストでもあります。

さて、プラグマティズムの系譜に連なる教育哲学者J・デューイは、「哲学とは生活態度である」と述べ、彼はそれを次のように定義しています。
 

「哲学とは全体的、普遍的、究極的な生活態度である。世界の素材と取り組んで、統一ある、一貫した完全な人生を自覚的に努力するとき、人は哲学する(philosophize)。人は、哲学することによって、生活の進め方を規定する知恵を得ようとする」
 

その「哲学する(philosophize)生活態度」とは次の三つの態度に集約されます。
 

 「全体性」:起こってくるさまざまな事象に対する反応のしかたの一貫性を保とうとする態度。
 

 「普遍性」:個々の事象をバラバラに受け取らず、それぞれの事象をそれに意味を与える広い文脈の中に位置づけようとする態度。
 

 「究極性」:すべての事象や対象の裏面にまで進んでいって、それらの連関を発見しようと絶えず努める態度。  
                                         
わたしがプラグマティストであるがゆえに、生活体験による実証を十分にくぐらない観念である諸霊信を受け入れる「確信的スピリチュアリスト」になりきれず、実証的態度を手放さないでいる意味において、「実証的スピリチュアリスト」にとどまっていることがお分かりいただけると思います。
 

そして、この科学的実証を大切にする立場は、SAM前世療法の臨床によってあらわれた「タエの事例」や「ラタラジューの事例」をはじめとする前世人格の顕現化、未浄化霊の顕現化、生き霊の顕現化など「霊的な意識現象の事実」への検証と考察によって形成されてきたものです。

その結果として、

●その「霊的意識現象の事実」が、著しく臨床的直観に反することはなく、
                                     ●そうした「霊的意識現象の事実」を認めることが、不合理な結論に帰着することはなく、
                                     ●そうした「霊的意識現象の事実」が、検証の結果、「心・脳の一元論」から考えるとどうしても説明できない超常現象として存在していること、を認めざるをえない。

という立場が形成されてきました。  
 

こうして、生まれ変わりや霊魂の存在に関わる、「いかなる霊的意識現象も先験的に否定せず、いかなる霊的意識現象も検証なくして容認せず」という思考態度が形成され「実証的スピチュアリスト」であり、プラグマティストである、とわたしが自覚することの理由になっています。

こうした、わたしの考え方の立ち位置に決定的な影響を与えてくださったのは教育哲学者であり、上越教育大学院教授杵淵俊夫教育学博士でした。

35歳のとき、岐阜県教委から現職教員の身分で2年間の大学院研修が許可され、上越教育大学院修士課程の2年間の勉学の中で、杵淵先生との出会いと薫陶がなければ、今のわたしの考え方の基盤はけっして形成されなかったことは確かです。
 

杵淵先生の口癖であった「あなたのおっしゃるその考え方は、ほんとうにそうですか ?それはなぜそう言えるのですか? その理由を3点あげてください」という認知の誤りを点検するための厳しい問いかけが、そのまま今のわたしの思考態度として生き続けています。

 

その結果として、懐疑主義に傾き過ぎて、人生を生きづらく感じるようになってしまったとも思っています。

 

こうしたわたしの考え方の立ち位置には、人生を生きづらくする「毒」があるのかもしれません。。

 

しかし、「適度な毒」が、すぐれた薬効のある「良薬」に転化するように、適度に刺激があり、納得の得られる生き方を送るための指針としてはたらいていることも、確かな事実です。

 

「生まれ変わりの実証的探究」において、哲学的思考とその実際については杵淵俊夫教育学博士、催眠学の諸研究については成瀬悟作医学博士、両先生の「学恩」なしで、今のわたしの探究はなかったと感謝しています。


2023年7月5日水曜日

わたしあて霊信の真偽の検証 その2

SAM催眠学序説 その164

 

霊信による教示の信憑性の検証

 

 2007年1月23日0:06着信の第11霊信で通信霊は、
「あなたが長年探究してきたものは、これまでの視点 からでは成長は望めない。
・・・あなたが探究すべきものは、これまでよりもさらに深奥にあるものである。
魂の療法のみあらず、あらゆる霊的存在に対する奉仕となるものである。
それは命あるものすべてにつながり、私たちへも強いつながりをもつ。
そのために、あなたは自らの内にある疑問をまとめておく必要がある。
あなたがこれまで探究してきた道の中であなたが処理できないでいるもの、そして人の理解を超えるものについて、私たちでなければ答えられないものについてまとめなさい」と告げてきました。


「人の理解を超えるもの」について、霊界の住人であり、人の理解を超えるものについて知っているであろう高級霊が、わたしの質問について答えると言うのです。
わたしは「人の理解を超えるもの」 について、早速16の質問をつくり、M子さんに返信しました。
すると、なんとその90分後に、A4用紙9枚にわたる通信霊からの回答が届きました。
回答を考えながら A4用紙1枚を10分で打つことは、ほぼ不可能です。
通信霊を装った
M子さんの作文による回答ではなく、したがって、霊的存在からの自動書記による回答である蓋然性が高いと判断してよいだろうと思われました。
 
 

1「意識 ・脳二元論」「魂の二層構造」の教示

 
わたしの理解を超えること、高級霊(通信霊)でなければ答えられないこと、についてわたしの疑問の第一は、魂・脳・心・意識(潜在意識を含む)の相互の関係でした。

第11霊信で、「あなたが探究すべきものは、これまでよりもさらに深奥にあるものである」と通信霊は告げていますから、第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信の回答は、「これまでよりもさらに深奥にあるもの」を示唆しているのであり、わたしが「探究すべきもの」であると思われました。


第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信における通信霊の、魂・脳・意識・心、の関係性についての難解な諸回答をまとめると次のA~Hようになります。

A 「脳」「意識」を生み出していない。

B 「意識」を 生み出しているものは、「魂の表層」を構成している前世の者たちである。つまり、前世の者たちは「魂の表層」に存在している。したがって、「魂」は、中心(核)となる意識体とその表層を構成する前世の者たちとの「二層構造」となっている。

C 「魂表層」の前世の者たちによって生み出された「意識」は、肉体を包み込んでいる「霊体」に宿っている。霊体はオーラとも呼ばれる。

D 「魂表層」の前世の者たちは、互いにつながりを持ち、友愛を築き、与え合うことを望んでいる。つまり、前世の者たちは、意識体として「魂の表層」に存在し相互に交流を営んでいる。 

現世の「わたし」という人格も「魂の表層」に位置づいており、生まれ変わりであるすべての前世の者たちとつながりをもち、友愛を築き与え合うことを望んでいる。

F  死後、「霊体」は肉体から離れ、霊体に宿っていた「意識」「魂」に取り込まれる。取り込まれる先は、生きている間は「魂の表層」「現世の者」であり、死後は「魂の表層」の、現世の直前を生きた前世の者として位置づくであろうと推測される。

G 「心」「意識」を管理している。「心」は「魂」が外部の情報を入手するための道具である。したがって「心」が傷つくことはない。したがって、心と意識は同義ではないが、便宜上、「心=意識」として扱うことに支障はない。

H 「脳」「心」を管理している。脳は心(意識)を管理しているため、見かけ上、脳と心(意識)が一体化しているように受け取られる。このことによって、心は 脳の付随現象であり、脳が心(意識)を生み出しているという「心と脳の一元論」が唱えられているが、脳と心(意識)は本来、別のものである 
「脳」「心」を管理はしているが、「心」を生み出しているわけではない。
「脳」は外部の情報をまとめる役目をつかさどる。 
「脳」はデータを管理している。

これら上記A~Hの回答は、まさしく「人の理解を超えるもの」であり、26才の霊信受信者M子さんが、作文して回答できるとは思われません。
人間を超えた存在である高級霊であってこそ、はじめて回答できる内容であると評価せざるを得ません。

しかも興味深いことに、第12霊信でA4用紙9枚にわたる回答を告げてきた送信霊は、わたしの16の質問の回答をした後の霊信の末尾で、

「M子という人間が答えられる問題は、ここには存在しない。・・・これは私からの霊信であり、M子の言葉ではない。 M子の妄想ではない。妄想では答えられないものである」と念押しをするかのように告げています。
 
ちなみに、第12霊信の送信霊は、「私は稲垣の祖父の守護霊とつながりを持つ者であり、あなた方の世界で表現すると、遠い昔、転生を終えた者である」と告げています。

さて、回答Aの「心・脳二元論」の立場は、大脳生理学者でノーベル賞の受賞者であるペンフィールド、エックルズ、スペリーなどが晩年になって唱えており、世界的催眠研究者である成瀬悟策医学博士も、晩年になってからこの立場をとっています。                                   成瀬悟策先生は、2004年明治学院大学で開催された日本教育催眠学会の講演のなかで「脳は心の家来です」という言い方で
「心・脳二元論」を提唱されています。
 
これら「心・脳二元論」の提唱者たちは、脳の研究の結果、脳が心(意識)を生み出してはいないのだと主張はしても、では心(意識)を生み出しているものは、どこに存在するかについては一切語っていません。
それは人知を超えることであり、想像もできないということでしょう。
通信霊は、心(意識)を生み出す存在は、「魂表層の前世の者たちである」と明確に告げています。

わたしは霊信にしたがい、「心・脳二元論仮説」と「魂の二層構造仮説」に基づき、A~Hの霊信内容の信憑性の真偽を、催眠を道具に用いてできるかぎりの徹底的な検証と探究をしようと決心しました。
この検証の過程で、徐々に定式化していった前世療法こそ、2008年6月に創始した「SAM前世療法」です。

特筆すべきことは、第11霊信で私の疑問に回答すると告げた通信霊が同じ第11霊信の中で、

「そして、前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。あなたの療法は、あなたにしかできないものになる」と、この霊信1年半後の2008年6月に創始したSoul Approach Method の略「SAM前世療法」について、すでに予言していることです。

通信霊は、前掲A~Hの回答を得たわたしが、回答を仮説としてそれに基づいた独自の前世療法(SAM前世療法)を、新たに創始することをすでに見通していたのではないかと思われます。
おそらく、SAM前世療法の創始をさせるための目的で第11霊信が送られたと思われます。
 
第7霊信で通信霊は、「わが霊団はあなた方を中心としある計画を進めている」と告げていますから、わたしにSAM前世療法の創始を担わせたことは「計画」のうちに入っていたのではないでしょうか。

そして、「SAM前世療法」によってA~Hの作業仮説が検証され、生まれ変わりが科学の方法によって実証された事例が「タエの事例」と「ラタラジューの事例」です。
タエもラタラジューも、SAM前世療法によって、被験者里沙さんを「魂状態の自覚」まで誘導し、魂表層から呼び出され、顕現化した前世人格(前世の者)なのです。

フジTVアンビリ放映の、編集された「タエの事例」「ラタラジューの事例」の元になっている全セッション記録動画は、you-tubeで公開してあります。
 
この動画をご覧になれば、タエとラタラジュー両人格の顕現化現象を、「前世の記憶」である、という解釈では説明が成り立たないことは明白です。
とりわけラタラジュー人格は、明らかに現在進行形の会話である証拠を残しているからです。
ちなみに、タエ・ラタラジュー両事例の科学的真偽について、わたしの主張と証拠動画に基づいて具体的な反証を挙げて批判した論者は、皆無です。

また、「タエの事例」の逐語録は「SAM催眠学序説 その35~40」において、
「ラタラジューの事例」の逐語録は「SAM催眠学序説 その23~32」において、詳細に検討しています。

また、「魂の転生」のしくみと「生まれ変わり」の関係については「SAM催眠学序説 その123」で「魂の二層構成仮説」を模式図によって説明してあります。

 

2「憑依仮説」の教示


SAM前世療法の「魂遡行催眠」と名付けている特殊な技法を用いて、被験者を「魂状態の自覚」に誘導する過程で、被験者に未浄化霊と呼ばれている霊的存在が憑依していると、そうした存在が救いを求めて顕現化することが観察されます。
 SAM催眠学では、そうした霊的存在の憑依を認める立場をとっています。
ここで言う「霊的存在」とは、「肉体を持たない人格的意識体」を意味しています。

霊的存在には肉体がありませんから、肉体を持つ被験者の肉体を借りて一個の人格として自己表現をします。こうした現象を憑依と呼んでいます。        こうした憑依する人格的意識体を憑依霊と呼んでいます。

憑依霊は未浄化霊だけに限りません。守護霊を名乗る高級霊や神の使いと称する高級霊も、「魂状態の自覚」に至ると、必要に応じて何らかのメッセージを携えて憑依します。
こうして「魂状態の自覚」に至ると霊的存在の憑依現象が起こることを認める立場を「憑依仮説」と呼びSAM催眠学の骨格をなす仮説の一つとして位置づけています。

さらに、「魂状態の自覚」に至り、魂表層から顕現化した前世人格は、生まれ変わりである現世の者(被験者)の肉体を借りて自己表現します。
この現象は、未浄化霊や高級霊など第三者としての霊的意識体の憑依と同様な現象であり、前世人格の憑依現象を「自己内憑依」と名付けています。

つまり、現世の者の内部(魂)に存在している肉体のない前世人格が、生まれ変わりである現世の者に憑依し自己表現する、という意味です。          したがって、「前世人格の顕現化」「自己内憑依」現象だと言い換えることができます。
自分の魂表層に存在している前世人格が、自分に憑依すること、これが「自己内憑依」です。

「 魂状態の自覚」を体験した被験者のほとんどが、その意識状態の自覚に至ると体重の感覚がなくなると報告します。
おそらく、普段の状態では肉体という器に内在する魂は、なんらかの形で肉体と緊密な結びつきを保っていたのが、「魂状態の自覚」に至るとその結びつきが解かれ、肉体と魂が分離した状態になる、したがって、体重感覚の喪失感が生じるのではないかと推測されます。
被験者の中には、魂と呼ぶ意識体が、肉体の外に分離している感覚(体外離脱)を報告することもあります。


つまり、「魂状態」とは、肉体を持たない霊的存在と同様な状態になっていると考えられ、したがって、霊的存在と同じく肉体を持たない意識体の次元に至っているので、守護霊などの霊的存在との接触や、霊的存在の憑依が起こりやすいのではないかと推測しています。
ちなみに、SAM催眠学では、肉体を持たない意識体を「霊」、霊が肉体に入り肉体という器を持てば「魂」と定義しています。                 こうした意味において、顕現化している前世人格は「霊」と言えるでしょう。

 

3「霊体仮説」の教示


2007年1月25日22:47着信の第14霊信で通信霊は、
「霊体とは魂ではない。それは、ある時はオーラと呼ばれもする。
それは、・・・肉体を保護する役割を担うものでもある。
魂を取り囲み、それはあなたという存在を構成するための一材料となる。
霊体は、ある意味においてはあなた方が『あなたという人間であるため』の意識を独立して持つための役割を担うものでもある」
と告げています。

霊体の色をオーラとして感知できる能力者には、肉体の傷んでいる部分のオーラの周囲の色が黒ずんで見えること、オーラの色が澄んでいる場合には、肉体の健康状態が良好であることを言い当てることができるという検証結果が得られています。
 
こうして、霊体と肉体の両者には互いに影響を与え合う密接な相互影響関係があると推測できます。
したがって、霊体は、エクトプラズムのように何らかの半物質的な要素・性質を帯びている可能性が考えられます。

また、互いに面識のない、オーラを感知できる10名を越える能力者が、それぞれに、わたしのオーラ(霊体)の色として同一の色を報告しています。

こうして、霊体と肉体には、双方に共通の何らかの要素・性質が存在し、そのため相互に影響を与え合う関係がある、とする仮説も「霊体仮説」には含まれています。

また、Cで述べたように、われわれ生きている人間は、肉体を包み込んでいる霊体を持っている、霊体には意識・潜在意識が宿っている、と考えるのが「霊体仮説」です。

そして、霊体には意識・潜在意識が宿っている、という仮説と、霊体と肉体には、双方に共通の何らかの要素・性質が存在する、という両仮説の検証実験の累積によって、「魂遡行催眠」というSAM前世療法以外に類のない固有・独創の誘導技法が生み出されました。
「SAM前世療法」が、すでに「前世療法]という用語があるにもかかわらず登録商標として認められたのは、その固有性、独創性が認められたからです。

 

残留思念仮説」の教示


2007年1月20日1:01着信の第8霊信で通信霊は、
「あなたは、すべては『意識』であると理解していた。
ことばとしての『意識』をあなたは理解している。
だが、その本質はまだ理解には及んではいない。
あなたが覚醒するにしたがって、それは思い出されるものとなる」
と告げています。

また2007年1月23日22:58着信の第12霊信で通信霊は、
「この世に残る未成仏霊(未浄化霊)のような存在は、残留思念の集合体である。
だが、それらは意志を持つようにとらえられる。
よって、魂と判断されがちだが、それらは魂とは異なるものである」
と告げています

以上のような2007年の霊信を受け取ってから、16年間にわたるSAM前世療法の仮説と検証の実践の繰り返しを経て、わたしは「意識の本質」の一つとして、「強力な思念(意識)の集合体は、一個の人格としての属性を帯びた意識体になる」と考えるようになっています。
この仮説をSAM催眠学では、「残留思念仮説」と名付けています。

「残留思念仮説」によって定義すれば、

「未浄化霊」とは、「この世に何らかの強い未練があるために、救いを求めてさまよっている残留思念の集合体であり、意志を持つ人格としての属性を備えたもの」です。

「生き霊」とは、「強力な嫉妬や憎悪によって、魂表層の『現世の者』から分離した思念の集合体であり、意志を持つ人格としての属性を備えたもの」です。
その実証として、SAM前世療法による生き霊との対話を、「SAM催眠学序説 その115」で述べています。

「インナーチャイルド」とは、「耐えがたい悲哀の体験をしたために傷つき、その苦痛から逃れるため、大人の人格へと成長していく本来の人格から分離(解離)され、 取り残された子どものままの残留思念の集合体であり、大人の人格に内在しつつ意志を持つ別人格としての属性を備えたもの」です。
その実証として、SAM前世療法によるインナーチャイルドとの対話を「SAM催眠学序説 その119」で述べています。

こうして、SAM前世療法によって顕現化する「未浄化霊」も、「生き霊」も、「インナーチャイルド」も、実際のセッションにおいては、意志を持つ人格として扱うことができる「見做し人格」だとして、対話をおこないます。
 
また、それらは強力な思念の集合体であり人格としての属性を持つ意識体という意味では、肉体のない「霊的意識体」だととらえています。
そして、未浄化霊も生き霊も、それらはマイナスの思念を抱え、理解を求めている人格的存在だととらえるべきであろうと思われます。

このことについて第9霊信は、
「そして、あなたがもっとも理解すべきなのは、『霊祓い』を選択するのではなく『浄化』を選択することである。・・・霊がいつも求めるものは『理解』であることを忘れないようにしなさい。そしてその本質は『愛』なのだ」
と告げています。

「生まれ変わり仮説」そのものへの諸反論とわたしの見解(反論)については「SAM催眠学序説 その117」をご覧ください。

 

まとめ


わたしの探究の原点は問題意識です。
 
それは、われわれの意識はどこから生じ、どこへ行くのか、死後はあるのかないのか、あるとして生まれ変わりがあるのかないのか、生まれ変わりがあるとしてそれはどのような仕組みになっているのか、意識の本質とは何であるのか、などこれまでの唯物論科学の枠組みでは答えが出せそうもない領域への探究です。
これらの探究を科学の方法をもって、つまり、仮説を設け、仮説に基づいて実践(実験)し、結果を検証し、仮説を検討していくという営みを地道に繰り返しながら、誰もが納得できる科学的な事実の発見を試みる探究の道を持続することです。

しかしながら、意識現象は、計測したり、数量化したり、映像化したりすることは、「意識」が本来的に物質に還元できないものである以上不可能です。
したがって、意識現象を体験した者の体験報告を手がかりとするしか方法論がありません。
それら意識体験の体験報告を累積し、共通項を導き出し、それを客観的事実であろうと見做して仮説の真偽を検証していくこと以外に、現時点では方法論を見出すことができません。
こうした、前提と限界のある霊的意識現象の探究ですが、これまでのSAM前世療法の実践によって明らかにしてきた発見を大きく7点列挙してみます。


ふだん「脳」に管理されている「心(意識・潜在意識)」は、脳の管理下にあるがゆえに、脳の束縛を受け、脳と一体化しているように受け取られる。
したがって「心(意識・潜在意識)」は、脳の生み出している付随現象として理解されているが、それは錯覚である。
潜在意識の優勢化が進むにつれて、心(潜在意識)は、脳の管理下から離脱し、潜在意識は脳への働きかけの自由を得る。
この、心(潜在意識)が脳の束縛から離れ自由を得た状態が「催眠状態」である。
催眠下では、心(潜在意識)の働きかけのままに脳が反応するようになる。
これを催眠学では「言語暗示による運動・知覚・思考などの意識の変性状態」と定義している。


良好な催眠状態を徹底的に深めていくと、潜在意識の深奥には、誰もが「魂状態の自覚」を持っていることが明らかになった。
直近100事例で91%の被験者が「魂状態の自覚」に至っている。    「魂」と呼んでいる意識体が、肉体に内在している間接的実証である。
これまでに、最年少は小学6年生男子、最年長は82才女性、京都大教授2名、名古屋大学准教授1名、東北大学准教授1名、その他私立大学教授を含めて十数名、医師十数名など、知的訓練を十分に受けている被験者たちも「魂状態の自覚」に至っている。 
「魂状態の自覚」に至れば、魂表層に存在している前世人格が、呼び出しに応じて顕現化する。

 
魂表層には前世の諸人格が意識体として生きており、現世の人格を担っている「現世の者」も位置付いている。
それらの魂表層の者たちは互いの人生の智恵を与えあっており、「現世の者」は、良かれ悪しかれ前世の者たちの影響を受けている。
よろしくない影響を受けていると心理的、肉体的諸症状となって現象化する。
そうした症状は、前世の者の訴えであったり、現世の者を守るための警告としての意味を持っている。
その実証として、「SAM催眠学序説 その118」でその実例を挙げてあります。


魂表層に「現世の者」しか存在していない事例がある。つまり、前世がなく、現世が魂として最初の人生である被験者が存在する。生まれ変わりを体験していない魂の持ち主である被験者の共通の性格特性が「無知、無垢」である。
したがって、無知であるがゆえに好奇心が旺盛であり、無垢であるがゆえにナイーブで悪意がなく傷つきやすい。周囲からは悪意のない、いい人だという評価を受けている。


強烈な思念(意識)が凝縮し集合体を形成すると、一個の人格を持つ意識体としての属性を帯びる。
思念(意識)にはそうした本質があり、そのため「未浄化霊」、「生き霊」などと呼ばれてはいるが、それは「霊」ではなく強烈な思念の集合体である。


生まれ変わりの科学的証拠だと自信を持って主張できる事例は、「タエの事例]と「ラタラジューの事例」を語った被験者里沙さん一人でしかない。
しかし、特筆できることは、タエからラタラジューへの生まれ変わりは33年、ラタラジューから里沙さんへの生まれ変わりは64年という生まれ変わりの間隔年数が、タエ、ラタラジュー両前世人格の語りから特定できたことである。
このことについて、20数年かけ2300事例に及ぶ膨大な生まれ変わりの科学的研究をおこなったこの分野の第一人者であるイアン・スティ-ブンソンでさえ、次のように述べている。
「二つ以上の前世を記憶しているという子どもが少数ながら存在するという事実を述べておく必要がある。・・・これまで私は、両方とも事実と確認できるほど二つの前世を詳細に記憶していた子どもをひとりしか見つけ出していない
(『前世を記憶する子どもたち』笠原敏雄訳、日本教文社、P.333)

ただし、スティーヴンソンは、この子どもの二つの前世記憶によって、生まれ変わりの間隔年数が特定できたのかどうかについては一切述べていない。
こうした生まれ変わりの先行研究から見ても、「タエの事例」と「ラタラジューの事例」は、世界的にきわめて希少価値の高い生まれ変わりの実証事例として評価できる。


生まれ変わり(転生)は惰性で繰り返されていないようである。
どういう形をとるかは様々であるが、負荷(試練)を背負い、魂の成長進化を図る目的を持って生まれ変わるらしい。
現世をどう生きるかの青写真は、魂と守護霊との相談によって決められるらしい。
しかし、生前に相談された現世での使命や目的は、魂が肉体に宿ると同時に忘却される。
したがって、生まれてきた使命や目的を、直接知る方法は一切ない。
守護霊との接触によっても、守護霊は教えてはくれない。
現世の肉体に宿った魂が、与えられた負荷をどう乗り越え、現世をどう生きるかは、ひとえに魂の主体性に任されているらしい。


さて、日本の古代史に大胆な仮説を展開し、「日本学」を創始した哲学者梅原猛は、インスピレーションによらない学説などは、たいしたものにはならない、というようなことを述べています。
そして、まさしく、わたしあての霊信はインスピレーションの集積といってよいでしょう。

これまでの催眠研究が取り上げてこなかった「霊的意識諸現象の事実」を、新たな対象領域として位置づけ体系化を試みようとする「SAM催眠学」の提唱には、梅原猛のこうした考え方に触発され、勇気を与えられてきました。

おそらく、催眠研究のアカデミズムに属する大学の研究者が同様の霊信を受け取っても、妄想だと切り捨て、一笑に付すなどして、真摯に向き合うことはまずないだろうと思われます。
そうなれば、「SAM前世療法」も「SAM催眠学」も誕生するはずがありません。
2008年に教職から離れ、多くの公的束縛から解放されて自由なわたしであるからこそ、浮き世のしがらみの希薄になったわたしを選んで、霊信を送ってきたのだと考えるのは、あながち的外れではなかろうと思います。

上越教育大学大学院でのわたしの恩師、教育学博士杵淵俊夫先生が、「哲学を本当にやれるのは浮き世の地位・名誉・欲得から縁のない乞食になることだよ」と語られたことを思い出します。


さて、第1霊信で通信霊は、

 「あなたの探究心の方向性について語ろう。
今後あなたは自分の思うままに前進するべきであり、そのためのこれまでの道のりであった。
あなたは自分の直感を通し得るべき知識を模索していく」と告げています。

第7霊信で通信霊は、

「わが霊団はあなた方を中心としある計画を進めている」と告げ、

第8霊信で通信霊は、

「今回伝えるべきことは、あなた方を含め、多くの者が計画に参加しているということである。
・・・そして、あなた方の参加する計画というゲームはあなた方の考えるよりも大規模なのだと理解しなさい。
楽しむ姿勢を忘れないようにしなさい」と告げています。

さらに、第15霊信では通信霊は、

「これは神とあなた方の交わした約束であり、計画である。
すべてに祈りを、感謝をささげなさい」と告げています。

また、第5霊信で通信霊は、

「今日は、あなたはM子の霊信でどの高級霊が語りかけてくるのだろうかと考えた。
だが、私は高級霊ではない。
あなたの期待を裏切るわけではない。
あなたの感覚をあるがままに感じながら霊信を読みなさい。
かしこまらずに、もっと肩のちからを抜きなさい。
 
私はあなたの上にいる者であり、下にいる者であり、隣にいる者であり、そばにいる者である。
そして、あなたの目の前にいる者である。
そして、あなただけではなく、すべての者に対してもそうである。
だが、人々は私が自然の者だと分からないあまりに、あらゆる手段を通し私を知ろうとする。
そして感じようとする。
私を恐れる者、そして救いを求める者、欲する者、すべての者は同じ平行線の上に立っている。
だが人々はそのことに気づかない」

と、自分は高級霊ではないと否定する存在(神?)が、

「あなたは肩の力を抜きはじめている。
それでいいのだ。
あなた方は、構えていては何も見出せなくなる。
もっと楽しみなさい。
これは『遊び』なのだ。
すべての計画は、そうである」と告げてきました。

第16霊信では、守護霊団の一員で、生前はエドガー・ケイシーだとを名乗る霊が、

「私たちは必要に応じてあなたに語りかけるであろう。
そして、あなたが求める時も、必要に応じて与えるであろう」

と告げ、2007年2月14日以後、M子さんを霊媒に用い自動書記による霊信が途絶えたのち、魂状態の自覚に至ったクライアントに、わたしのガイドや霊団の一員を名乗る霊が憑依しては、クライアントによる口頭での霊信を告げてくることが、数ヶ月ごとに起こるようになり、それが2023年現在に至っても続いています。

こうした口頭による語りかけの霊信内容の概要は、

「自分たちのような霊的存在を知らしめるために降りてきた。
稲垣は自分の進んでいる方向に自信を持ちなさい。
霊的真理を地上に広めなさい。
稲垣の現世最後の仕事がこの先に待っている。
健康に留意してその仕事に備えなさい。
その仕事の内容は今は教えることができない」
ということに集約できます。

また、M子さん経由の霊信が途絶えた2007年の夏に、里沙さんの守護霊の憑依実験をおこない、降りてきた守護霊と40分間にわたる対話をしました。
彼女の守護霊は、わたしの要請でいつでも憑依し、メッセージを伝えてくれるからです。
「私は霊界では異例の存在であり、それは稲垣に霊界の消息を伝える役目を与えられているからだ」と告げているからです。
彼女の場合、守護霊が憑依中の記憶がまったくありません。
フルトランス状態になり、憑依状態による甚だしい疲労が翌日まで残ると言います。
憑依実験で彼女の守護霊がわたしに語った内容は、以下のような5点に要約できます。


タエの事例は偶然ではありません。
計画され、あなたに贈られたものです。
計画を立てた方は、わたくしではありません。
計画を立てた方は、わたくしよりさらに上におられる神です。
タエの事例が出版されることも、新聞に掲載されることも、テレビに取り上げられることもはじめから計画に入っていました。
あなたは、人を救うという計画のために神に選ばれた人です。



あなたのヒーリングエネルギーは、霊界におられる治療霊から送られてくるものです。
治療霊は一人ではありません。
治療霊はたくさんおられます。
その治療霊が、自分の治療分野の治療をするために、あなたを通して地上の人間に治療エネルギーを送ってくるのです。


あなたの今までの時間は、あなたの魂と神とが、あなたが生まれてくる前に交わした約束を果たすときのためにありました。
今、あなたの魂は成長し、神との約束を果たす時期が来ました。            神との約束とは、人を救う道を進むという約束です。
その時期が来たので、ヒーリング能力も前世療法も、あなたが約束を果たすための手段として神が与えた力です。
しかし、このヒーリングの力は万能ではありません。
善人にのみ効果があらわれます。
悪人とはあなたの進む道を邪魔する者です。
今あなたを助ける人がそろいました。どうぞたくさんの人をお救いください。


神はあなたには霊能力を与えませんでした。
あなたには必要がないからです。
霊能力を与えなかった神に感謝をすることです。


守護霊に名前はありません。 
わたくしにも名はありません。
あなたの守護霊は、わたくしよりさらに霊格が高く、わたくしより上におられます。
そういう高い霊格の方に守られている分、あなたにはそれなりの試練と困難が与えられています。
これまでの、あなたに生じた困難な出来事のすべてがはじめからの計画ではありませんが、あなたの魂の成長のためのその時々の試練として与えられたものです。
魂の試練は、ほとんどが魂の力で乗り越えねばなりません。
わたくしたちは、ただ見守るだけです。
導くことはありません。
わたくしたちは魂の望みを叶えるために、魂の成長を育てる者です。
霊能力がなくても、あなたに閃くインスピレーションが守護霊からのメッセージです。                                   それがあなたが迷ったときの判断の元になります。
あなたに神の力が注がれています。
与えられた力を人を救う手段に使って人を救う道に進み、どうぞ神との約束を果たしてください。

さて、読者のみなさん自身に、これまで紹介したような霊信を受け取るという霊的現象が起こったとしたらどのような反応を示されるでしょうか。
世界の三大霊信と呼ばれている、モーゼスの『霊訓』、アラン・カルディックの『霊の書』はともに19世紀末、シルバーバーチの『霊言』は20世紀末の話です。
わたしあて霊信は、これら過去の三大霊信では触れられていない霊的真理として、魂と生まれ変わりの仕組みをわたしに教えることに目的をしぼり、送信されてきた霊信であるという解釈が成り立つかもしれません。
そして、わたしによって(わたしを道具に使って)、霊的真理である魂と生まれ変わりについて、多くの人々に知らしめようという守護霊団の計画なのかもしれません。

ですが私の態度は明確です。
このブログの「コメント投稿の留意点」として掲げてある「いかなる意識現象も先験的に否定せず、いかなる意識現象も検証なくして容認せず」です。


霊媒としての貴重な役割を担ってくれた霊信受信者M子さん、里沙さん両者の誠実な人間性を疑うことはありませんが、受信中において、無意識的に彼女ら自身の期待や願望が反映し、混入している可能性は排除できないでしょう。
とりわけ、「神」という言葉が用いられ、語られることには要注意です。
「神との約束」、「神の計画」などの霊信をわたしが軽々に信じ、メサイア・コンプレックス(救世主コンプレックス)や、誇大な選民思想などの過ちに陥ることを十分に警戒しなければなりません。
わたしは、できるだけ簡素で、できるだけ自給的で、喜びを中心とした日常生活を理想としている一介の催眠療法実践者です。

したがって、両者の霊信受信という意識現象も、「検証なくして容認せず」です。
検証できないからには否定もできないが、容認することも判断留保としておく、ことが偏りのない柔軟で公正な態度であろうと思います。
そして、これまでの検証できたことに限れば、わたしあて霊信内容に矛盾がないことが明らかになっています。

そして、第5霊信で「神」とおぼしき存在が、「構えていては何も見出せなくなる。もっと楽しみなさい。これは『遊び』なのだ。すべての計画は、そうである」と告げたように、これから先々起こることに、来るべきときに来るものは来ると、肩の力を抜いて楽しんでいこう、というのがわたしの心境の現時点のありようです。

さて、「催眠学序説 その164」 を閉じるにあたって、わたしの脳裏に思い起こされるのは、わたしの心境の現時点の到達点にかかわっているもうひとつのもの、『モーゼスの霊訓』(霊信)にある、インぺレーターと名乗る高級霊の告げている霊信の次の一節です。

「霊界より指導に当たる大軍の中には、ありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。(中略)
筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。

さらに、そうした霊的真理の初歩段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命について啓示を垂れさせる。
かくのごとく人間には、その程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。
これまでも神は、その目的に応じて手段を用意されてきたのである。
今一度繰り返しておく。

スピリチュアリズムは、曾ての福音の如き見せかけのみの啓示とは異なる。
地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。
それを総合するものが、スピリチュアリズムにほかならぬ。(中略)
常に分別を働かせねばならぬ。

その渦中に置かれた者にとっては、冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。
が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には、容易に得心がいくことであろう」
(近藤千雄訳『霊訓』「世界心霊宝典」第1巻、国書刊行会)

インペレーターと名乗る高級霊から牧師スティトン・モーゼスに送信された上記霊信の、この引用部分は、わたしに向かって発信された啓示であるかのような錯覚すら覚えます。
高級霊インペレーターが説いているように、SAM前世療法にとりかかる前のわたしは、「筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者」のレベルにありました。

だから、「秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく」ために、「動かぬ証拠」として、わたしあての霊信現象、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」をはじめとして、ヒーリング能力の出現などの超常現象が、霊的存在から次々に提供されているような気がしていました。

そうした直感の真偽を確かめるために、里沙さんの守護霊に尋ねてみるという憑霊実験を試みたわけです。
 

「常に分別を働かせねばならぬ」と言うインペレーターの忠告に従っていることにもなるのでしょう。
そして、分別を働かせた結果の帰着点は、霊的存在を排除しては説明できないのではないかということでした。

かつてのわたしであれば、例えばヒーラーと称する者のヒーリング効果の解釈として、プラシーボ効果であるとか、暗示効果であるとか、信念の心身相関による効果であるとか、現行唯物論科学による合理的説明に躍起となって、それを公正な科学的態度だと信じて疑わなかったと思います。
 

今、自分自身に突如ヒーリング能力があらわれ、その説明は霊的存在抜きには(霊的真理抜きには)考えられない事態に追い込まれている言えます。
そして、「動かぬ証拠」を次々に提供され、ようやく「霊的真理の初歩段階を卒業」しかけている自分を感じています。

やはりわたしは、自分自身の直接の霊的体験にこそ、唯物論科学がそれをどう否定しょうと、その体験を認めざるをえない真実の力があると言わざるをえません。

交霊能力のあった著名なスピリットヒーラーであるハリー・エドワーズは、ヒーリングによる治療を手段に、地上の人々を霊的覚醒に導く計画であることを知っていたと言います。(ハリー・エドワーズ著、梅原隆雅訳『霊的治療の解明』国書刊行会)

里沙さんの守護霊が伝えてくれた「人を救うという計画」という語りがそれを指しているとすれば、わたしは、SAM前世療法とヒーリングを道具に、霊的真理を広める道に進むような流れに乗っているのかも知れません。

そして、これからもわたしが、SAM前世療法とヒーリングを、霊的真理を広めるために与えられた道具として役立たせる道を愚直に実践していく志を持続することができれば、ヒーリング能力・浄霊能力の覚醒の謎も、わたしあて霊信の意味も、おのずと開示されていくのではないかと思います。