SAM催眠学序説 その166
「心は脳の付随現象なのか」、ことばを換えるなら、「心と脳の一元論は本当なのか」という問いについて、わたしは拙著『前世療法の探究』で次のように述べておきました。
「 一般に信じられている言説、つまり、心は脳の随伴現象であり、脳の消滅とともに心も消滅してしまえば、生前に経験されたものはすべて棄却されることになる、という言説は、唯物論科学の立場から、その立場上構成されている『信念』や『主張』をそのまま表現したものであって、その言説自体は、科学的に確定された手続きによって、検証・証明されたものではないのです」(稲垣勝巳『前世療法の探究』春秋社、2006、P.245)
上記の考え方はその後17年経過後の2023年現在でも通用するかどうか、興味深い記事がありますので次に紹介したいと思います。
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2023年4月 「『サイエンスZERO』20周年スペシャル」NHK取材班のインタビュー記事より
20年の科学を振り返るうえで、「脳科学ブーム」は記憶に新しい。だがなぜ、人々は「脳」に魅了されるのか? 理由は多々あれども、その一つは「心とは何か?」を知りたいからではないでしょうか。 帝京大学の岡ノ谷一夫教授はそう語ります。
「心」の正体を探るべく、理化学研究所・脳科学総合研究センターや、東京大学・認知行動科学研究室などを渡り歩いてきた岡ノ谷さん。 研究テーマも、言葉、情動、メタ認知など、多岐に渡ります。 そんな彼に、「脳と心」の20年について聞いてみました。 すると、そのお話は衝撃の一言から始まったのです。
「この20年、『脳』からは膨大なデータを記録できるようになった。しかし、 『心』にはたどり着けなかった」――。
「 心とは何か?」という疑問を追い続けて20年。帝京大学の岡ノ谷一夫教授は「この20年、『脳』からは膨大なデータを記録できるようになった。 しかし、 『心』にはたどり着けなかった』と言いますが、それはどういうことなのでしょうか? そして「心」の正体とは。
そもそも、「大量のデータがとれた」とは?
もう少し具体的にいうと、人の脳の活動を記録する技術としては、「機能的MRI」(※1)というものがありますが、その解像度がどんどん向上していったんです。
測定に用いる磁場が強くなってきて、僕が始めた頃は1.5テスラくらいでしたが、今は7テスラになっています。 昔は、電極を一本ずつ刺して、その電極の近くのニューロン(神経細胞)をいくつか計測するだけでしたが、 これによって、より高解像度で脳の活動を記録できるようになったんです。 昔は、電極を一本ずつ刺して、その電極の近くのニューロン(神経細胞)をいくつか計測するだけでしたが、時間的な解像度も、昔は秒単位と言われていましたが、いまは何十ミリ秒単位にまで向上していますしね。 人だけでなく、動物を使った実験でもそうです。 岡ノ谷一夫教授が、「カルシウムイメージング」(※2)のような技術が出てきて、数百個ものニューロンの活動を、一気に計測できるようになりました。
―では、「脳」を研究しても、「心」は分からないということでしょうか?
例えば、脳に磁気刺激を与えると、視界に穴が開いて見えるとか、そういうことはできるんですけど、そうした知覚を越えて“現象学的な心”とつながるかというと、まだつながっていない気がしますね。 つまり、知覚や記憶、情動などは計測できるのですが、それらを感じている「心」をどうやったら計測できるのか? あるいはそれってもしかして計測できないのか? それが分からないのですよ。 現時点でも、どうしたらいいかも分かりません。
脳に関する技術はものすごく進んだのですが、だからといって“現象学的な心”とはまだつながっていないんですよ。
“現象学的な心”とは、自分自身が自分自身として感じている“心”です。 とにかく、物質的な脳から測れるものを徹底的に測っても、“心”にはつながらなかったんです。
ーそれは、心の定義にもよるのではないでしょうか? 仮に、記憶や認知をすべて計測したら、実はそれが「心」を計測したと言えたりはしないでしょうか?
たしかに、そのように定義すれば、心を計測したと言えるのかもしれません。 でも、こう考えるとどうでしょう? 仮に自分の心が、記憶や認知だけの集合体だと思えば、それはコンピューターにアップロードできるかもしれませんけど、それって“自分”なんですか? それって、自分じゃなくないですか? 自分じゃないって思う、その“何者か”なんですよ。私が知りたいのは。
言い方を変えると――「釈然としない」ということですね。 仮に、脳から計測できるものすべてを計測して、コンピューターにアップロードした上で、あなたの肉体を消滅させますよ、いいですか?って言われたとき、なぜか「釈然としない」じゃないですか。 その「釈然としない」ところが大事、心の大事なところだと思うんですよね。
―とれるデータが増えたからこそ、どんな結果が出るかよりも、そのデータ自体に価値があるということ?
そういう考え方ですね。 ただね、このやり方が行き過ぎてしまうと、研究がつまらなくなると思います。 挑戦的な研究が少なくなってくるのではないかと思うんです。
挑戦的な研究というのは、いわば「仮説自体を探索する研究」のことです。 どういう仮説を研究すべきかを考える、探索型の研究のことですね。 例えば、動物を観察していて、面白そうなことをしているけど、なぜそんなことをしているのか? どういう仕組みでそういうことをしているのか? そうしたことを調べる研究のことです。
一方、プレレジストレーション型の場合は、動物にこういう刺激を与えたときに、こういう脳活動が出るであろうと仮説を作って研究することになりますから、「次元」がひとつ違ってくるわけです。
つまり、面白い現象自体を発見していく研究と、発見した現象の仕組みを突き詰めていく研究。 研究には二種類あると言ってしまっていい時代になったのではないかと思いますよね。
―このままデータ主義が進むと、そうした探索型の研究が少なくなるということですか?
プレレジストレーション型の研究に傾いていってしまうので、探索型の研究が評価されにくくなっていくかもしれませんね。 だからこそ、特に日本は、探索型の研究ができる人材を増やしていく仕組みが必要だと思います。
というのも、次の20年こそが、私たちが「心」を理解できるかの 「分岐点」 だと思うからです。 次の20年で、分かるかどうかなんですよ、本当に。 技術自体は、ものすごくそろっているわけで、それらをどう組み合わせて「心」にアプローチするか次第なんですよね。 本当にね、たぶん次の20年で分からなかったら、分からないんですね。
だからこそ次の20年は、ただ脳のデータをとるだけで終わらず、“脳科学者”はみんな“心理学者”になるべきなんじゃないかなとさえ思うんですね。
―改めて、岡ノ谷先生個人にとっての20年は、どんな20年でしたか?
自分としては最初から、「心」を知りたかったのですが、鳥のさえずり研究から、ラットや人を使った研究まで、いろいろ広がった20年でしたね。 テーマとしても、聴覚だけでなく、共感、情動、報酬系など、「心」の本質に近づくために、自分の興味がどんどん広がっていった20年でした。
そして、20年前といえば、ちょうど千葉大学から、理化学研究所の脳科学総合研究センターに移った頃ですね。 実は当時は、もう“心理学者”をやめようと思っていた時期なんです。 “心理学者”をやめて“脳科学者”をやろうと思っていたんですよね。
それでしばらく脳研究っぽいところにいたんですけど、研究するうちに、やっぱり自分は“心理学者”なのかなと思って。 脳の活動は記録するけど、だからといって“脳科学者”なわけじゃなくて、やっぱり心が知りたいんだよなっていうことが分かってきましたね。 なのでその後、東京大学の認知行動科学研究室で、そうした研究を続けることになりました。
―最後に、次の20年は、岡ノ谷先生にとってどんな20年になるでしょう?
死んじゃうよね。 そして、死ぬときはきっと、「釈然としない」 んだろうなって思います。 ですが、次の20年で自分の研究をまとめあげて、どのように“心”ができているのかを、自分なりに理解したいと思っています。 そうすれば、一応 「釈然」 とした気になれるかなと。 そのためにも、私はいま63歳ですが、これからも新たにいろんな技術を身に着ける必要があるなと思っています。 そしてそれは、可能なのではないかと思っているんですよね。
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さて、最先端の現役脳科学研究者である岡ノ谷一夫教授の結論は
「知覚や記憶、情動などは計測できる。しかし、それらを感じている『心』をどうやったら計測できるのか? あるいはそれってもしかして計測できないのか? それが分からない。 現時点では、どうしたらいいかも分からない。 結局、現行の唯物論科学では 『心』にたどり着くことはできなかった」
とまとめていいでしょう。
そして、岡ノ谷一夫教授と同様の唯物論科学の立場から、「昔は、電極を一本ずつ刺して、その電極の近くのニューロン(神経細胞)をいくつか計測するだけ」の過去の時代の大脳生理学者で、ノーベル賞を受賞している、W・ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなどが、脳は心を生み出してはいない、と晩年になって「脳と心の二元論」に至ったことを表明しています。
わたしの畏敬する成瀬悟作医学博士も、2004年の講演の中で「脳の病変によって動かないとされている脳性麻痺の動作訓練を催眠暗示でやってみると、動かないとされていた腕が動くようになりました。 しかし、脳の病変はそのままです。 こうしたことから、身体を動かすのは脳ではなく「オレ」であることにやっと気付きました。 私のこの考え方を正統医学は賛成しないでしょうが、21世紀の終わりには、私の言っていることが明らかになるでしょう」と「脳と心の二元論」を表明しています。
SAM前世療法を提唱しているわたしの立場は、言うまでもなく「脳と心の二元論」仮説に基づいていますが、今世紀の終わりまでにそれが実証できるのか、SAM前世療法の地道な実践を継続するなかで検証していきたいと思っています。
結局、わたしの探究は、SAM前世療法によって発見した意識現象の仕組みを、唯物論にとらわれず、仮説を立てて突き詰めていく探究だと思っています。
1 件のコメント:
先生、ブログ拝読させていただきました。
ありがとうございました。
脳科学者たちが「唯物論だけでは説明できない領域」があることに気づき始めていることが放送されたことが驚きでした。そして岡ノ谷一夫教授が迷いを素直に表現している部分に、その方の「脳と心について誠実に向き合った20年」のご苦労が想像できました。
SAM前世療法®の仮説「脳と心の二元論」は、科学が進歩し17年経っても覆らないことを知り、「SAM前世療法®はすごいな。」と思いました。
また、大学教授や医者が、稲垣先生のセッションを受けることからも、多くの人が「脳と心」や「自分」について「知りたい」と考えておられるのだと知ることができました。
話は変わりますが、
私は、理論的な人間ではありません。
SAM前世療法®を受けた時、問題を抱えどうしたらいいかわからず稲垣先生を頼りました。
セッション後、「小さな小さな変化」に気づいたことがきっかけで、何度も先生にセッションをお願いしました。
そして今の私がいます。
・人生の選択
・人との出会い
・思い癖
・どうしても治らない癖
など、ただの偶然や環境のせいにしていました。
けれども、私にとって「いいことも悪いことも」含め、前世人格が大きく影響していること、前世人格を癒していくことで、少しずつ「人生が方向転換していく」ことを実感しています。
そして、セッションを繰り返していく度に、私は「私一人ではないのだ」と気づきました。
大袈裟かもしれませんが、多くの前世人格の「人生の積み重ね」の上に「私」があると実感しています。
長年、稲垣先生のセッションを受けることで、「自分の人生がどうしてこうだったのか?」が、自然と腑に落ちたように思います。
「自分を知る」って、簡単なように考えてしまいますが、奥が深いと今さらながらに感じる日々です。
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