2023年8月4日金曜日

霊的現象の探究におけるスピリチュアリズムとプラグマティズム

SAM催眠学序説 その165 

 

わたしが特定の諸宗教とは無縁の、催眠臨床の実践者、生まれ変わりの実証的探究者であることを明確にするために、現在の考え方の立ち位置を述べておきたいと思います。

わたしの立ち位置は、あえて言えば「実証的スピリチュアリスト」と言えるようです。
しかし、この立ち位置は、「確信的スピリチュアリスト」の人からすれば、何だ!?という批判を受けそうです。
 

真性の「確信的スピリチュアリスト」とは、科学的実証はできないであろう信憑性の高い諸霊信(『シルバーバーチの霊言』、『モーゼスの霊訓』、カルディックの『霊の書』など)の高級霊の告げている内容を霊的真理として「確信している人」のことを指して呼ぶわけですから。
 

ちなみに、わたしは新興宗教を含めて既存の宗教組織には矛盾と不信感を抱いています。
 「宗教」の「宗」とは「元になっている」の意ですから、「救いの元になる教え」が「宗教」の原義であるはずでしょう。
 

にもかかわらず、宗教どうしの差別や反目、迫害、政治的利用、はては信仰による戦争が歴史上繰り返されてきました。
こうした「救いの元になる教え」であるはずの諸宗教によって、今もなお信仰の違いによる不毛で悲惨な争いの現実はなぜ起こり続けるのでしょうか?

さて、「近代スピリチュアリズム」の霊的真理とは、

①地上の人間と霊界の高級霊との交信を認める、
②そうした霊の存在を認める、
③ 生まれ変わりの存在を認める、
④全知全能であり唯一絶対の創造主である神の存在を認める、

 ことを内容としています。

この内容を「霊的真理」であると確信し、霊的真理を人生の指針として、現世をよりよく生きようとする人こそ、「確信的スピリチュアリスト」と呼びます。

心霊写真・占い・霊的予言・チャネリングなど霊的現象に強い興味関心を抱き、実証や検証抜きでそれらを鵜呑みに受容する人や、あるいは霊能があると自称し、予言したり霊障を知ることが出来ると自称する人たちを、霊的感性・能力を備えている人という意味で、ひとくくりにスピリチュアリストと呼ぶことは正しくありません。                                    

オカルティストと呼ぶべきでしょう。

スピリチュアリストとオカルティストは、似て非なるものです。

わたしが「実証的スピリチュアリスト」だと自称するのは、わたしあて霊信内容をわたしの実践しているSAM前世療法よって確認(実証)できた意識現象の事実に限定して、それを認めるという表明をしているので、その立場を強いて呼ぶなら「実証的スピリチュアリスト」と位置づけてよいだろうというだけのことです。                    このことは、これまで述べてきた本ブログを読んでいただければ了解していただけると思います。

また、観念より事実、理屈より実証を重んじる立場からは、「リアリスト」でもあります。

さらに、わたしが自覚し納得しているのは、自分は哲学的観点からは「プラグマティスト」であるということです。

プラグマティストとはいかなる思考・態度をとる人間であるのか、以下に述べてみます。

日本語で「道具主義」と訳されるプラグマティズムが、卑近な実用と功利を重んじる安手の常識哲学だと考えることは正しい理解ではありません。
そもそも「プラグマ」とはギリシア語で「行為」を意味します。
 

「プラグマティスト」は次の①~④ような「生活態度」を反省的に身につけようとします。
 
 仏教、イスラム教、キリスト教、諸新興宗教、あるい政府・官僚などの言説に代表されるような美しく荘重な文言を、聞いたり口にしたりすれば、それで万事理解したように思う「言語主義(バーバリズム)」を捨てて、文言や文章の意味する内容からどういう実際的帰結が生ずるかを絶えず見届けようとする「実際主義」を身につけようとする。
 

 プラグマティストである米国哲学者パースの有名な「プラグマティズム格言」が、上記①のことを的確に言い得ています。
 

「How to make our ideas clear(私たちの観念を明晰にする方法)」と題された内容である「プラグマティズム格言」とは、われわれが何を知っているのか、また何に気づいていないかを、自ら意識し確かめる方法を述べたものです。

プラグマティストである米国哲学者パースによって、次のように述べられていることです。

「その概念の対象が、どんな具体的影響を私たち人間の行動に対して持ち得るかを考えてみよ。そういうふうにして考えつかれ、想像される影響の総体が、もとの概念の意味の全部である。その具体的影響を考えつかないとすれば、そういう概念は、もともと空虚で意味がないのである」

この「プラグマティズム格言」こそ、「実際主義」を的確に言い得ています。

対極の「言語主義(バーバリズム)」とは、実質的、具体的内容のない空虚な文言を、あたかも実質的内容があるように思い込む思考態度や、単なる言い換えをあたかも新しい内容があるように思い込んで、ありがたがる思考態度です。

言語主義による詭弁や欺瞞は、プラグマティズム格言に照らして確認すれば、化けの皮が剥がれます。                                    

たとえば、国会における首相・大臣など政治家、官僚の答弁が、いかに言語主義による詭弁と欺瞞に満ち満ちていることか!

 生活体験を十分にくぐらない観念や信念だけでものごとを解決しようとする態度を捨て、事実の蓄積とそこに見出された法則性に裏付けられた観念や思考を形成し、またその真偽を行動・体験によって絶えず検証し修正する態度を身につけようとする。 

このブログの「コメント投稿の留意点」に掲げている、「観念より事実、理屈より実証」のスローガンはこの②の態度の表明です。

 自分の正当な利害や幸福を追求することをうしろめたい悪いことのように感ずる卑屈感を捨て、自己を正当に主張するよい意味の個人主義的な自主的態度を身につけようとする。
こうした態度があってこそ、他人の人格や権利を正当に尊重し、他人と民主的に交わることができるようになると考える。
またこうした考えにもとづいて行動しようとする。
 

 プラグマティズムは、一つ間違うと功利主義、実利主義へとかたより、個人の直接体験を偏重する主観主義に傾き、また悪い意味での自然主義におもむいて、安易なオプティミズム(楽観主義)に走りやすくなる。
そうならならないよう絶えず「反省的思考」によって、バランスある言動・思考態度をとろうとする。
 

わたしのいう「反省的思考」とは、たとえば「ラタラジューの事例」における「生まれ変わり仮説」の真偽の検証において

A 自分に都合のよい事象のみを「選択的に抽出」してはいないか?

B 「選択的に抽出」した事象をことさら「拡大視」し、不都合な事象を不当に「縮小視」し、あるいは無視してはいないか?

C 選択的な抽出」によって「拡大視」したごくわずかな都合のよい事象を短絡的に「極端な一般化」した結論へと導いていないか?

D 「極端な一般化」した結論をもって、手前勝手な「恣意的推論」を展開していないか?
 
つまり、以上の4点を絶えず点検し、独りよがりの「認知の誤り」に陥ることへの警戒を怠らない思考態度を「反省的思考」と言います。                    

その結果、応答型真型異言「ラタラジューの事例」は現時点で、生まれ変わり以外に説明ができないと考えています。


こうして、プラグマティズムは、専門的哲学の体系というよりは、より充実した納得できる人生を送るための「生活態度のとり方」だと言えると思います。
 

 プラグマティズムの真理観は、「説明の成功」ですから、わたしのこれまで述べてきたブログ上の言説も、現時点でとりあえず説明が成功している「とりあえずの真理」だと理解していただきたいと思います。

したがって、たとえば「タエの事例」や「ラタラジューの事例」、とりわけ、学んだはずのないネパール語による「応答型真性異言」という現象について、今後「生まれ変わり仮説」よりも、簡潔で整合性のある別の仮説によって「説明の成功」がなされれば、そちらを受け入れることに躊躇することはありません。
こうした立場から言えば、わたしはリアリストでもあります。

さて、プラグマティズムの系譜に連なる教育哲学者J・デューイは、「哲学とは生活態度である」と述べ、彼はそれを次のように定義しています。
 

「哲学とは全体的、普遍的、究極的な生活態度である。世界の素材と取り組んで、統一ある、一貫した完全な人生を自覚的に努力するとき、人は哲学する(philosophize)。人は、哲学することによって、生活の進め方を規定する知恵を得ようとする」
 

その「哲学する(philosophize)生活態度」とは次の三つの態度に集約されます。
 

 「全体性」:起こってくるさまざまな事象に対する反応のしかたの一貫性を保とうとする態度。
 

 「普遍性」:個々の事象をバラバラに受け取らず、それぞれの事象をそれに意味を与える広い文脈の中に位置づけようとする態度。
 

 「究極性」:すべての事象や対象の裏面にまで進んでいって、それらの連関を発見しようと絶えず努める態度。  
                                         
わたしがプラグマティストであるがゆえに、生活体験による実証を十分にくぐらない観念である諸霊信を受け入れる「確信的スピリチュアリスト」になりきれず、実証的態度を手放さないでいる意味において、「実証的スピリチュアリスト」にとどまっていることがお分かりいただけると思います。
 

そして、この科学的実証を大切にする立場は、SAM前世療法の臨床によってあらわれた「タエの事例」や「ラタラジューの事例」をはじめとする前世人格の顕現化、未浄化霊の顕現化、生き霊の顕現化など「霊的な意識現象の事実」への検証と考察によって形成されてきたものです。

その結果として、

●その「霊的意識現象の事実」が、著しく臨床的直観に反することはなく、
                                     ●そうした「霊的意識現象の事実」を認めることが、不合理な結論に帰着することはなく、
                                     ●そうした「霊的意識現象の事実」が、検証の結果、「心・脳の一元論」から考えるとどうしても説明できない超常現象として存在していること、を認めざるをえない。

という立場が形成されてきました。  
 

こうして、生まれ変わりや霊魂の存在に関わる、「いかなる霊的意識現象も先験的に否定せず、いかなる霊的意識現象も検証なくして容認せず」という思考態度が形成され「実証的スピチュアリスト」であり、プラグマティストである、とわたしが自覚することの理由になっています。

こうした、わたしの考え方の立ち位置に決定的な影響を与えてくださったのは教育哲学者であり、上越教育大学院教授杵淵俊夫教育学博士でした。

35歳のとき、岐阜県教委から現職教員の身分で2年間の大学院研修が許可され、上越教育大学院修士課程の2年間の勉学の中で、杵淵先生との出会いと薫陶がなければ、今のわたしの考え方の基盤はけっして形成されなかったことは確かです。
 

杵淵先生の口癖であった「あなたのおっしゃるその考え方は、ほんとうにそうですか ?それはなぜそう言えるのですか? その理由を3点あげてください」という認知の誤りを点検するための厳しい問いかけが、そのまま今のわたしの思考態度として生き続けています。

 

その結果として、懐疑主義に傾き過ぎて、人生を生きづらく感じるようになってしまったとも思っています。

 

こうしたわたしの考え方の立ち位置には、人生を生きづらくする「毒」があるのかもしれません。。

 

しかし、「適度な毒」が、すぐれた薬効のある「良薬」に転化するように、適度に刺激があり、納得の得られる生き方を送るための指針としてはたらいていることも、確かな事実です。

 

「生まれ変わりの実証的探究」において、哲学的思考とその実際については杵淵俊夫教育学博士、催眠学の諸研究については成瀬悟作医学博士、両先生の「学恩」なしで、今のわたしの探究はなかったと感謝しています。


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