2016年10月7日金曜日

「要求特性」と前世人格の顕現化について

       SAM催眠学序説 その98


催眠における「要求特性」とは、催眠中のクライアントが、セラピストの要求していることを察知して、無意識的にその要求に応えようとする心理傾向を意味する用語です。

「要求特性」が、前世療法の「前世記憶」の想起の批判に用いられた場合、語られた前世記憶の真偽の検証がない事例については、批判を甘んじて受けるほかありません。 


私が、まだSAM前世療法の開発前、「タエの事例」にも遭遇していない2004年時点で、日本催眠医学心理学会で前世療法セッションの検証不可能な前世の語りについて実践発表をしたときの「要求特性」にかかわる部分の討議記録を紹介します。


アカデミズムに所属する代表的催眠研究者が、「前世療法」および、「前世の記憶」についてどのように批判的に評価しているかがよく分かります。


下記逐語録の頭のC・D・Eの記号各氏はそれぞれ大学の著名な催眠研究者です。
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: 年齢退行催眠中に「生まれ変わり」などを先生(稲垣)が言ったので、クライアントがそれに応える形で「生まれ変わり」などの言葉を出してきたのではないか。

稲垣:そういうことは言っていない。子宮に宿る前の世界があるかどうかを確かめるために「あなたは時間や空間に関係のない世界に入っていく」という言い方の誘導はした。

:あなたが、そういう世界に入るだろうと誘いをかけている。ということは、そういう世界にセラピストが誘導した結果、クライアントがセラピストの期待に応えるために「生まれ変わり」や「魂」を作話していく可能性がある。

稲垣:それは違う。クライアントが「時間や空間を超越した肉体のない状態でいる」と言ったので、「あなたは魂の状態か」と聞くと「そうだ」と答えたということだ。魂や前世が出てくるように、こちらからクライアントに誘導的に押しつけた事実はない。

:私には前世療法を実施した経験はないが、クライアントが魂を語ったのはフィクションだと思う。大事なことはフィクションがどういうふうに作られていったかであって、それはこのクライアントの精神状態のありかたによると思う。たとえば、絵を描くことによって、絵に託した自分自身を作り替えていくことができる。それと同様の状況が、催眠中のクライアントに起きているのではないか。つまり、自分の状況をフィクションに置き換えて自分を作り替えていくという催眠技法の一つとして前世療法には意味があるし、改善効果もある。そういう解釈ができると思う。

:前世がフィクションであるという前提に立てば、前世療法による改善メカニズムは、イメージ療法による改善と同様のメカニズムで説明できる。つまり、クライアントの心理には、現実問題を直視しないでフィクションに置き換えて語るという安全装置があり、自分を置き換えた前世という架空のイメージを語ることで自分の安全を守り、問題を解きほぐして改善していくという治癒の力がはたらいていると考えられる。
 したがって、自分の前世の物語というフィクションを語ることによって治癒の力がはたらき、顕著な改善効果があがるという前世療法は、イメージ療法と同様の治癒メカニズムがはたらいていると考えても十分説明できると思う。

:前世療法には効果があるといって、何でもかんでもセラピストのほうから前世にひきずり込んでいくことには危惧を感じる。前世があくまでクライアントが出してきたものであれば、それに乗って面接を進めていくのはいい。そうした過程をたどって、クライアントの前世の物語の決着がつくならば改善効果は大きいと思う。だから、前世療法はナラティブセラピー(物語療法)の観点からみることもできる。つまり、自分のそれまでの古い物語を作り替え、新しい自分へと脱皮していき、治癒していくという観点からの考え方もできる。
また、一般の人たちはの中には、催眠と言うと前世に行くのかと思っている人が多い。だから、そうした催眠に対する期待や思い込みによって、自分の想像した前世に行ってしまうということもありえる。

稲垣:私はこのクライエントに前世療法を実施することを事前に一切告げていない。その点が、普通は了解のもとで実施される前世療法とは異なっている。また、私のほうから意図的に前世にもっていこうとしたわけでもない。にもかかわらず、魂や前世が出てきたことが不思議だ。事例発表した動機もこの点にある。事前の予告なしに実施した前世療法という特異な事例だと思っている。

『前世療法の探究』春秋社、PP.138-140
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上記討議でわかるように、C・D・Eの大学在籍催眠研究者は、前世の存在などはじめからフィクションだと決めつけています。
そして、そのフィクションだと解釈できる根拠として「要求特性」を持ち出しています。
C氏の発言の「セラピストが誘導した結果、クライアントがセラピストの期待に応えるために『生まれ変わり』や『魂』を作話していく可能性がある」という批判がそれに当たります。
前世療法は、既存の催眠療法であるイメージ療法やナラティブセラピイ(物語療法)の範疇で説明可能であって、フィクションである「前世」など持ち出すことは不要である、ということなのでしょう。
しかし、こうした前世療法における「前世記憶」の批判は、想起された「前世記憶」の検証がなく真偽が不明な場合には、甘んじて受けるほかありません。
ちなみに、この学会発表の1年後2005年に「タエの事例」に遭遇し、これを2006年に『前世療法の探究』に収載し、これら批判者に献本しましたが、梨の礫でした。

さて、こうした「要求特性」を根拠した、前世療法における「前世記憶」への批判を、イアン・スティーヴンソンは、さらに辛辣に下記のようにおこなっています。
私には、この批判が、ブライアン・ワイスの前世療法を念頭において記述されていると思われます。
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こうした集中力をさらに高めていくなかで、被術者は、思考の主導権を施術者に委ねてしまうため、施術者の催眠暗示に抵抗できにくく(あるいは少なくとも抵抗する気が弱く) なってくる。催眠暗示により施術者になにか想い出すように命じられた被術者は、それほど正確に想起できない場合、施術者を喜ばせる目的で不正確な発言をおこなうことも少なくない。それでいながら大半の被術者は、自分が語っている内容に事実と虚偽が入り交じっていることに気づかないのである。

(中略)「あなたはこれから、生まれる前の別の時代の別の場所まで戻ります」と施術者に言われると、被術者はその指示に従おうとする。施術者が、たとえば、「あなたはこの頭痛の原因が過去のどこかにあることを想い出します」など、それほど明確でない催眠暗示を与えた場合ですら、同じように従順にその指示に従うのである。催眠によって誘発される特殊な服従状態のなかで被術者は、何らかの、過去にあった出来事らしきものを物語らずにはいられない衝動に駆られる(あるいは、そう仕向けられる)ため、現世の生活のなかからそれらしきものが捜し出せない場合には、前世らしき時代の記憶がそれまでにまったくなかった場合でも、それらしき話を作り上げるかもしれないのである。

(中略)催眠術を見世物にしている者をはじめ、催眠に関係したきわもの的な主張をする者たちは、催眠こそ記憶を蘇らせるための絶対確実な手段であるとする思い込みを助長してきたけれども、実際にはそれは、事実からほど遠いのである。

(中略)前世の記憶らしきものをある程度持っている者に催眠をかければ、細かい事実を他にも想出すのではないか、とお考えになるかもしれない。私自身もそのように考えたため、自然に浮かび上がった前世の記憶らしきものを持つ数名の者に催眠をかけたことがある。
私はこのような実験を13件自らおこなったり指導したことがある。一部では私が施術をおこなったが、それ以外の実験では他の施術者に実験を依頼した。その結果、ただの1件も成功しなかった。

 『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP.72-80
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イアン・スティ-ヴンソンは、同書P7において、「遺憾ながら催眠の専門家のなかには、催眠を使えば誰でも前世の記憶を蘇らせることができるし、それにより大きな治療効果が挙がるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいはそれに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている状況を、何とか終息させたいと考えている」と、これまた痛烈な前世療法で想起された「前世の記憶」批判を展開しています。
そして、スティーヴンソンの批判の対象となっている催眠の専門家ブライアン・ワイスは、こうした批判に対して口を噤んで噤んで一切触れようとはしていません。
もっともワイスには、彼のセッションで語られた「前世記憶」の事例を科学的検証にかけた業績がまったくないので当然かもしれません。したがって、彼の著作は、生まれ変わり研究者からは「専門書」ではなく、「通俗書」の扱いを受けています。


これまで紹介してきた、日本の催眠アカデミズムや、イアン・スティ-ヴンソンの前世療法批判に対抗するための唯一の手段は、語られた「前世の記憶」を科学的検証にかけ、それが限りなく真実に近いことを実証する以外にないでしょう。

しかし、私の公開している「タエの事例」と「ラタラジューの事例」以外に、前世療法による「前世記憶」の真偽の科学的検証事例を、本にしろ論文にしろ公開されたものを私は知りません。


さて、それでは、私の主張するSAM前世療法における「前世人格の顕現化」現象は、「要求特性」によって説明できるフィクションでしょうか。

次に、セッション逐語録の一節を取り上げて検討してみたいと思います。(SAM催眠学序説その64参照)
このセッションは、2007年1月27日に、私あて霊信の受信者M子さんにおこなったものです。
逐語録の記号CLはM子さん、THは私です。

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CL:「そのもの」ではなく、あなたが今日、癒すべきものはM子という存在であり、アトランティスでの過去世について深く触れることは今日はできない。
だが、あなたは先ほど癒した傷ともう一つ、あなたが知らなければならない傷がある。
だが、その傷は癒され始めている。
それは、直接あなたと過去世で関わり合う者であり、「その意識」は、先ほどからあなたを見詰めている。


注:上記CLの語りの主体は、クライアントM子さんではなく、私の守護霊だと思われる。


TH:そうですか。


CL:その幼子は、あなたへと伝えたい言葉をずっと胸のうちに秘めていた。

TH:残念ですが、わたしにはそうした存在と交信する能力がありません。
M子さんに代弁してもらえますか?その幼子の言葉を。
M子さんが霊媒となって、訴えてる幼子とわたしとの仲立ちになってくだされば、その幼子を癒すことができるかもしれませんが。

:このあとのCL:の語りは、M子さんの前世である少年の口調に変わって話す。


CL:先生!・・・先生、ありがとう。(泣き声で)ぼく、先生を悲しませて、ごめんなさい。

TH:分かりました。で、あなたは何をしたんですか?


CL:(泣き声で)ぼくだけじゃなくて、みんな、みんな死んで、先生泣いたでしょ。
ぼく、先生が、ずっとずっといっぱい大切なことを教えてくれて、先生、ぼくのお父さんみたいにいっぱいで遊んでくれて、ぼくは先生のほんとの子どもだったらよかったと思ったけど、でも、死んだ後に、ぼくのお父さんとお母さんがいてね、先生は先生でよかったんだって・・・。
でも、ぼく、先生に、先生が喜ぶこととか何もできずに死んだから、ぼく、ずっとね、先生に恩返ししたいってずっと思ってて・・・このお姉ちゃんは、ぼくじゃ ないけど、でも、先生とお話したりできるのは、このお姉ちゃんだけだよ。でも、ぼくも、ずっとこのお姉ちゃんと一緒だから、だから、ぼくのこと忘れないでね。


:この少年人格は、M子さんの魂表層を構成している前世人格の1つとして存在し、魂表層から顕現化し、現世のM子さんの肉体を借りて自己表現していることを示している。つまり、このセッション1年後に定式化されるSAM前世療法の前駆的セッションであると言えよう。


TH分かりました。きっと忘れませんよ。
それからあなたがね、こうやって現れて、直接あなたの声を聞く能力は、わたしにはありません。
でも、そのうちにそういう能力が現れるかもしれないと霊信では告げられています。
ですから、そのときが来たら存分に話しましょう。
先生は忘れることはないだろうし、あなたからひどい仕打ちを受けたとも思っていません。
だから、あなたはそんなに悲しまないでください。


CL:ぼくは、先生に「ありがと」って言いたかった。


TH:はい。あなたの気持ちをしっかり受け止めましたからね。
そんなに悲しむことはやめてください。先生も悲しくなるからね。

CL:うん。


TH:あなたは片腕をなくしていますか?


CL:生まれつき右腕がないんです。でも、先生は、手が一本だけでも大丈夫だっていつも言ってくれた。


TH:そうですか。今、あなたが生きている時代はいつ頃でしょう。
わたしには、それも見当がつかない。西暦で何年くらいのことか分かりますか?


CL:紀元前600年。(この語りの主体の声音は少年ではない。私の守護霊だと思われる。)


注:これに続く語りで、紀元前600年のマヤ文明の町パレンケで、私は、5名の孤児を世話をする教師であったことが明らかになる。この顕現化した片腕のない少年は、その孤児たちの一人であった。この私のマヤ時代の教師であった前世の検証はできない。

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さて、上記に紹介した逐語録をお読みになれば、私と、顕現化したM子さんの前世の少年人格とのやりとりが、「前世記憶」ではなく、現在進行形の対話であることに気づかれると思います。
また、前世の少年人格の次の語りは注目に値します。

このお姉ちゃんは、ぼくじゃ ないけど、でも、先生とお話したりできるのは、このお姉ちゃんだけだよ。でも、ぼくも、ずっとこのお姉ちゃんと一緒だから、だから、ぼくのこと忘れないでね。 

「このお姉ちゃん」とは、クライアントM子さんです。
この前世人格の「少年」は、その生まれ変わりである現世のM子さんに憑依して(自己内憑依して)、私と対話していると告げているわけです。
さらに、この前世人格の「少年」は、彼の生まれ変わりである現世のM子さんとずっと一緒だ、と告げています。
つまり、M子さんとともにM子さんの魂の中に今も生き続けている、と告げているわけです。

このこと、つまり、ここで起きていること、魂の表層に存在している前世人格が顕現化し、現在進行形で対話するということは、まさにSAM前世療法そのものです。

しかし、SAM前世療法が完成するのは、この2007年のM子さんとのセッションの1年後です。
したがって、私の中には、魂の表層に存在している前世人格を顕現化させる、などの作業仮説(魂の二層構造仮説)があるはずがなく、当然のことながら、M子さんが、そうした作業仮説を知った結果、「要求特性」によって、前世人格の少年を顕現化させたはずがありません。
このセッションにおいては、M子さんに、SAM前世療法の作業仮説による「要求特性」の生じる余地は、まったくないのです。
にもかかわらず、自発的に、M子さんの魂の中に生き続けている前世人格の少年の顕現化が起きたという現象は、これが「要求特性」などと無関係な、おそらく普遍的に起こるであろう催眠現象だと考えてよいように思われます。

こうして、M子さんや里沙さんのように、きわめて高い催眠感受性とすぐれた霊媒体質に恵まれている者にしか現象しない、自発的な魂状態への遡行と前世人格の顕現化現象を、一般の人々にも90%以上の確率で、意図的に現象させる催眠法こそ、SAM前世療法だと言えます。

そして、SAM前世療法で顕現化する前世人格が、「要求特性」によって現象したフィクションの人格だと断言できないことを、「ラタラジューの事例」が、明白に示しています。
ネパール人村長ラタラジューを名乗る前世人格が顕現化し、クライアントの学んでいないネパール語対話(応答型真性異言)ができることは絶対ありえないからです。


ただし、SAM前世療法で顕現化する前世人格の真偽は、検証によって確認するほかありません。
しかし、「ラタラジューの事例」という前世人格の存在の確かな検証事例を、SAM前世療法は持っています。

したがって、検証不能な前世人格の顕現化については、「要求特性」によるフィクションだと切り捨てるのではなく、判断留保とすることが妥当であろうと思っています。

今後、SAM前世療法を私から学んだセラピストによる、前世人格の真偽の検証が、地道に累積されることを期待しています。 

2016年9月16日金曜日

SAM前世療法の特異性と固有性

           SAM催眠学序説 その97 


SAM前世療法の創始は2008年です。
そして、このSAM前世療法の作業仮説は、2007年1月から2月の1ヶ月余に私あてに毎夜送信されてきた、自動書記による42通の霊信現象の内容をそのまま用いています。
この信じがたい霊信内容を、催眠を用いて検証していく過程で構築されていった前世療法こそ、SAM前世療法です。
私あて全霊信は、「SAM催眠学序説その47~72」で公開しています。

地上の人間が知り得ることのない、魂の仕組みと意識の所在など、私の守護霊団を名乗る諸高級霊からの恩恵による、きわめて特異、かつスピリチュアルな、世界中で類をみない前世療法です。 

SAM前世療法で起こる特異・固有の現象には、一般のワイス式前世療法(前世の記憶にアクセスする技法)と比較して、いくつかの解明できていない謎があります。

ワイス式前世療法でうまくいかなかったクライアントで、SAM前世療法で成功しなかった事例は今のところありません。
両方の前世療法を経験したクライアントは50名を超えています。

この両方の前世療法を経験したクライアントが報告される大きな共通項は2つあります。

①催眠中の意識状態が明らかに違う。SAM前世療法の場合、ワイス式前世療法と比べてさらに深い意識状態に入ったという自覚がある。

②ワイス式ではセラピストの質問に対して口頭で答えられるのが普通なのに、SAMの場合には前世人格の10人のうち9人程度は口頭で答えることがどうしてもできない。

この①と②について、それぞれ現時点で分かっている限りの考察をしてみます。


①について、ワイス式前世療法では、催眠学の先行研究に則った「標準催眠尺度」(米国催眠学者ヒルガード作成)によって確認することなく誘導が進められるので、どの程度の催眠深度に至ってセッションがおこなわれているかが不明です。

SAM前世療法が創始される2008年以前、私がワイス式でおこなっていた前世療法では、「運動催眠」→「知覚催眠」→「記憶催眠」の順に、催眠深度を成瀬悟策博士の「標準催眠尺度」を用いて確 認し、「記憶催眠」レベルの深度到達後、年齢退行によって子宮内まで退行し、その先の「子宮に宿る前の記憶(前世記憶)」がもしあるのなら、そこに戻ります、という暗示をしてい ました。
しかし、私の知る限り、ワイス式体験者は、「記憶催眠」より浅い催眠体験である印象を受けます。
それは、記憶催眠以上の深度で多くの被験者に共通して観察される、深いリラックス状態における「企図機能の低下」と、 筋肉の深い弛緩による緩慢で小声でつぶやくような発語状態が観察されないからです。


催眠学の明らかにしているところでは、「知覚催眠」レベルでは、五感が暗示通り知覚されます。
したがって、さまざまな幻覚を暗示によってつくり出すことが可能です。
また、創造活動が活性化され、自発的にイメージが次々に現れるようになります。
しかも、被験者は、そうした自発的に出てくるイメージに対して、自分が無意図的にイメージをつくり出しているという自覚を持つことはありません。

つまり自発的イメージは架空のものとは感じられず、自分の中に潜んでいた真実の記憶が自発的にイメージ化して現れてきたという錯覚をもつ可能性が大きいということです。

こ うした催眠中のイメージ体験の特性を根拠にして、大学のアカデミックな催眠研究者は、前世療法における前世の記憶とは、セラピストの期待に応えようとする無意識的心理傾向である「要求特性」がはたらき、想起された「フィクション」であると口をそろえて主張します。

私の敬愛してやまない成瀬悟策先生も、こうした立場を明確にとっておられます。
拙著『前世療法の探究』を献本したコメントで「あなたの扱っている前世の記憶はフィクションとしてとらえなさい。さもないと危ういですよ」という警告を受けています。
私の立場から反論すれば、「タエの事例」は綿密な検証の結果、これをフィクションとするには超ESP仮説を適用しない限り説明は不可能です、成瀬先生は超ESP仮説を認めておいでになりますか? そうでないとすれば、被験者里沙さんの知り得ないはずの、タエの語りと史実との一致をどのように説明されますか? ということになります。

SAM前世療法では、「知覚催眠」レベルの深度に至っていることを日本語版標準催眠尺度を用いて必ず確認します。
知覚催眠のうち、難度の高い「痛覚麻痺」までもっていってこれを確認します。
痛覚麻痺は、標準催眠尺度にはありませんが、これを用いるのは、クライアントが確実に知覚催眠に入っていることを確認するためです。
痛覚麻痺は、我慢して痛みのないふりをしても表情の歪みなどが観察され、ごまがしができないからです。

そして、知覚催眠レベルに至ることがない深度で、「魂状態の自覚」まで遡行 できないことが明らかになっているからです。
そして、知覚催眠に至れば、ほぼ誰でも記憶催眠に至ることも明らかになっています。
したがって、SAM前世療法では記憶催眠レベルの確認はおこないません。
記憶催眠を突き抜けて、さらに深度を深めていきます。

標準催眠尺度には無い「魂遡行催眠」と呼ぶ、私が独自に名付けている最深度レベルにまで深めます。
企図機能の低下により身体の自発的運動は完全停止し、筋肉・関節の深い弛緩状態にもっていきます。
SAM前世療法ではこうした催眠状態にまで誘導するので、ワイス式前世療法より深い意識状態に至ったという報告が共通してされるのではないかと推測しています。


②については、その解明は容易ではありません。
 
SAM前世療法の魂遡行状態では、顕現化した前世人格が口頭で答えられる割合は10人に1人、約10%以下しか口頭で話せません。
10人のうち9人までが、どうしても口頭で答えることができないと答えます。

ワイス式前世療法では、前世の記憶内容を音声化できないことを聞いたことがありません。
ワイス式体験者は、誰でも前世記憶のビジョンを口頭で報告することが可能です。

SAM前世療法における顕現化した前世人格が口頭で話せないという現象は、SAMの催眠深度がワイス式よりも深く、筋肉の弛緩状態がきわめて深く、声帯も弛緩し切っているので発声できないのではないか、という推測は的外れのようです。

どうも、SAM前世療法の作業仮説に理由が求めることができるのではないかと考えています。
ワイス式前世療法では、「前世の記憶として現れるビジョンをクライアントが報告する」という前提になっています。
あくまでクライアントが、「前世記憶を想起し報告する」のです。

SAM前世療法では、「顕現化した前世人格が、彼の生まれ変わりであるクライアントの身体を借りて対話する(自己内憑依)」という作業仮説でおこないます。

したがって、クライアントは普通、まず、前世人格の喜怒哀楽の感情を共体験します。
ビジョンは、それにともなって体験することになります。
感情のみの共体験で終わる場合も多くあります。
心理療法としての治癒効果は、ビジョンより感情のほうが有益ですから、前世人格の語り内容の真偽を科学的検証にかける目的でなければ、それで大きな問題はないと思っています。

セラピストの対話相手はクライアントではなく、魂表層を構成している、意識体として当時のままの感情で生きている、身体をもたない、前世人格という死者なのです。
死者である前世人格は、身体を失ってすでに長い時間を経ている存在です。
そこで、何人かの顕現化している前世人格に、なぜ話すことができないのかその理由を指で回答してもらうことを試みたところ、「肉体を失ってから長い時間が経過し、声帯と舌の操作の仕方を忘れているからどうしても声に出すことができない」という回答でした。

指や、うなづくという単純な動作なら、現世の身体を借りてその動作で回答することが可能であるということでした。
一理あるとは思いますが、さらに探究する必要があると思っています。

ここで注目すべきは、SAM前世療法においては、クライアントは前世人格の霊媒的な役割を担うということです。
私の創始したSAM前世療法は、クライアントの意識の中に憑依として顕現化した死者である前世人格と、発声器官にしろ指にしろ、クライアントの身体を借用して自己表現をする前世人格と対話するという世界の前世療法にまったく類のない作業仮説に立って展開しているのです。

つまり、クライアントは、自分の身体を自分の魂の表層に存在する前世人格に貸している霊媒的役割を担うことになっているということです。
つまり、前世人格は、自分の生まれ変わりである現世の肉体に憑依している、と考えられます。
この現象はこれまで発見されたことはなく、私はSAM前世療法独自の固有概念として「自己内憑依」と名付けています。

クライアントの魂表層から顕現化した前世人格は、現世クライアントの身体を媒介にして、現在進行形でセラピストと対話をしている、これがSAM前世療法のセッションの構図になっているということです。

「セラピスト」対「自己内憑依した前世人格」との対話、それをじっと「傾聴しているクライアントの意識」という構図をSAM前世療法の固有概念としてセッションの「三者的構図」と名付けています。
そしてまた、三者的構図が、SAM前世療法における治癒仮説でもあります。

クライアントの不都合な症状の原因を、その原因を語る前世人格の語りを傾聴することによって、「ああそうだったのか」と感情をともなった納得すること、つまり洞察が起こることによって、症状の改善が起こると考えられるのです。
この治癒仮説実証の典型が、「SAM催眠学序説その118」の先天性皮膚疾患の治癒事例として、治癒前、治癒経過の4枚の証拠写真とともに公開してあります。

そしてまた、魂の自覚状態にまで誘導し、魂表層に存在する前世人格を呼び出し対話するという固有の作業仮説に基づく前世療法は、SAM前世療法以外に世界中に絶対ありません。
そして、このような信じがたいセッション構図は、「ラタラジューの事例」によって実証されたと思っています。

SAM前世療法のこれまで述べてきた固有の仮説と技法の独自性が認められた結果、すでに流通している「前世療法」の用語があるにもかかわらず、「SAM前世療法」が、第44類(心理療法・医療分野)の登録商法として認可されています。

登録商標「SAM前世療法」は、世界に誇れる純国産の固有の前世療法だと自負しています。

一般に流通しているほとんどすべての「前世療法」は、私がワイス式と呼んでいる、あるいはそのバリエーションの、「前世記憶」にアクセスするという方法論によっておこなわれる舶来の前世療法です。
しかも、語られた前世記憶の信憑性を、科学的に検証した事例報告は皆無です。

さて、里沙さんの前世人格ラタラジューは、セッション中にネパール語話者カルパナさんと次のような現在進行形でのやりとりをしています。

里沙  Tapai Nepali huncha?
   (あなたはネパール人ですか?)
カルパナ  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)
里沙  O. ma Nepali.
   (おお、私もネパール人です)

つまり、前世人格ラタラジューは、ただ今、ここにいる、ネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、ただ今、ここで、問いか け、その回答を確かめているわけで、「里沙さんが潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈がすでに成り立たないことを示しています。

ラタラジュー は、現世の里沙さんの身体(発声器官)を借りて、自己内憑依して、自己表現している身体を持たない意識的存在です。
里沙さんは、カルパナさんとラタラジューのネパール語会話の媒介役として、つまり霊媒的役割としてラタラジューに身体を貸している、とそういうことにほかなりません。

このことは、このラタラジューのセッション後に、研究資料としてお願いして書いていただいた以下の体験記録からも垣間見ることができるでしょう。
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セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。
こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。
思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。

ラタラジューの前に、守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラ タラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの七八年間の生涯を現世 の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。

はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。
なぜネパール人が日本語で 話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のよ うな存在でした。
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言 葉を伝えていました。

カルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできまし た。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。

セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。セッション中の前世人格の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験して いるかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでに ラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格 が違っていることも自覚していました。 

ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。
こういう現世の私の意識がはっきりあり、片 方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。
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「ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした」
という里沙さんの述懐は、彼女がラタラジューに「体を貸している」霊媒的役割を果たしたことを如実に語っていると思われます。

そして、「稲垣」対「前世人格ラタラジュー」との対話、それを傾聴している「里沙さんの意識」という関係が、前述した「三者的構図」です。

イアン・スティーヴンソンは、退行催眠中に現れた信頼できる応答型真性異言を2例あげています。
ともにアメリカ人の女性2名に現れた「イェンセンの事例(スウェーデン語会話)」と「グレートヒェンの事例(ドイツ語会話)」です。

「ラタラジューの事例」を含めると、催眠下で偶発的に起き、科学的に検証された事例で、公刊されたものとしては、世界でこれまでわずか3例の応答型真性異言しか発見されていません。

ちなみに、スティーヴンソンも「グレートヒェンの事例(ドイツ語会話)」において、私と同様、顕現化した前世人格を「トランス人格」と呼んで、応答型真性異言の話者を、クライアントとは別人格が現れて会話している(『前世の言葉を話す人々』P.9)、ととらえています。
つまり、クライアントが前世の記憶として真性異言を語ったとは考えていません。

生まれ変わりが普遍的事実であるならば、なぜもっと多くのクライアントが応答型真性異言を話さないのか、これは、ほんとうに大きな前世療法の謎です。
多くのクライアントは、日本人以外の前世人格が顕現化する事例を示すからです。

この謎について、里沙さんの守護霊に尋ねたところ、「非常にすぐれた霊媒体質を備えている者だけが、異言を話すことができる」という回答でした。

同様に、霊媒資質を備えたクライアントに顕現化した(自己内憑依した)前世人格だけが、口頭で答えることができる、と類推してよいように思われます。

2016年9月1日木曜日

前世人格と憑依人格の識別の問題


         SAM催眠学序説 その96


この問題は、未知への探究の魅力に富んでいます。

なぜなら、生まれ変わり研究の泰斗イアン・スティーヴンソンすら、催眠中に意識現象として顕現化した人格が、被験者の前世人格なのか、第三者の憑依人格なのか、その識別の考察をしていない、まったく未開拓の研究分野であるからです。

ただし、スティーヴンソンは、被験者のアメリカ人女性が、ドイツ語の応答型真性異言を語った「グレートヒェンの事例」の中で、顕現化したドイツ人少女グレートヒェンに対して「トランス人格」という呼び方をしており、前世人格の顕現化だと認めているらしいと判断できます。

私は、セッション中の「意識現象の事実」として確認してきた諸事実から、他者の憑依人格と前世人格の識別は、「里沙さんに限定」して判断する限り、他者の憑依人格だとは判断できません。
ラタラジューもタエも、里沙さんの前世人格であると判断しています。
その理由を述べてみたいと思います。

なお、この試論は、霊能者と呼ばれる人たちが、自らの「霊感」やら「直感」を根拠に、ラタラジュー人格を里沙さんの前世人格ではなく、他者の憑依人格だと主張されることに対する、私のセッションから得た諸事実に基づく反論でもあります。

憑依人格か前世人格かを見分ける最後のよりどころは、結局、自我を形成する魂は、おのれであるか他者であるかは、魂自身が根源であるがゆえに、見誤ることはあり得ないだろう、という一種の信念に立ち返ることになってきます。

私が里沙さんにセッションから間を置かないで、セッション中の意識状態を内観して記録するようにお願いしたのは、最後は里沙さん自身の「魂」を信頼するほかないと思っていたからです。

①SAM催眠学の作業仮説に基づき、ラタラジューは「魂の表層」から呼び出している。魂がおのれの一部である前世人格と「異物」である憑依人格と見誤ることはありえない。
ゆえに、魂の表層のものたちが作り出しているはずの「意識」の内観記録を信頼することは道理に適っている。

②SAM前世療法の経験的事実として、ラタラジューが最初から憑依しているとしたら、魂状態の自覚に至ることを妨害する。
したがって、里沙さんは魂状態の自覚に至ることができない。
しかし、事実はすんなり魂状態の自覚に至っている。
つまり、憑依霊はいないということになり、ラタラジューが最初から憑依していた可能性はまず考えられない。

③魂の自覚状態に至ると、霊的存在の憑依が起こりやすくなる。低級霊も高級霊も憑依することはセッションに現れる意識現象の事実である。
したがって、魂状態をねらってラタラジュー霊が憑依した可能性を完全に排除できない。
しかし、4年前のセッションで、タエの次の前世としてすでにラタラジューは顕現化している。
今回も、ラタラジューという前世人格を「呼び出して」顕現化させた。
憑依が、呼び出しによって起こった可能性は考え難い。
もし、魂表層への呼び出しによって低級霊の憑依が起こるとすれば、SAM前世療法で現れた人格はすべて他者の憑依霊ということになりかねない。

④SAM前世療法は、呼び出した前世人格との対話によって、その人格が癒され、連動してモニターしている現世の意識も癒しを得るという治療仮説を持っている。
前世人格ではなく、異物である憑依人格を癒して、これと関係の全くない現世の意識が連動して癒されるとは考えにくい。
里沙さんはラタラジューについて同一性の自覚を持っている。
そして、第一にモニター意識が、憑依人格を異物として感知しないはずがない。
第二に憑依が起きたとすれば、人格を占有されるわけで、その間の記憶(モニター意識)は欠落する。
これはシャーマニズム研究の報告とも一致する。
シャーマンは憑依状態の記憶が欠落することが多いとされている。
里沙さんも守護霊憑依中の記憶は完全に欠落することが、過去3回の守護霊の憑依実験から明らかになっている。
しかし、ラタラジュー顕現化中の記憶は明瞭にあると報告している。
それは、ラタラジューが憑依霊ではない状況証拠である。
憑依ならば、里沙さんの場合、その間の記憶は完全に欠落しているはずである。
しかも、ラタラジューには、真性異言会話実験後、魂の表層に戻るように指示し、戻ったことを確認して催眠から覚醒してもらった。
憑依霊が、私の指示に素直にしたがって憑依を解くとは考えられない。
ラタラジューが憑依霊であれば、高級霊とは考えにくく、低級霊であろう。
とすれば、憑依を解くための浄霊の作業なしに憑依が解消するとは考えられない。

⑤被験者の潜在意識は原則嘘をつかない。
魂状態に戻ったときに憑依した霊は、セラピストの問いかけに未浄化霊であれば、救いを求める憑依であることを告げる。
沈黙をしているときは、「悪いようにはしないから正体を現しなさい」と諭すとたいていは未浄化霊であることを認める。
手強い沈黙に対しては脳天に手をかざし霊体に向かって不動明王の真言を唱えると正体を現す。
クライアントは痙攣、咳き込み、のけぞりなどの身体反応を示す。

⑥そして、里沙さんは、四年前の「タエの事例」後、他者に憑いた霊や自分に憑こうとしている霊を感知し、それは悪寒という身体反応によって分かると言っている。
ある種の霊能らしきものが覚醒したらしい。
その霊能は、彼女の知人の二名の評価の高い霊能者から認められている。
ちなみに、この二名の霊能者は、ラタラジューが憑依であることをきっぱり否定している。
このような里沙さんが、ラタラジュー霊の憑依を感知できないとは考えにくい。
憑依であるなら、彼女が自ら感知し、違和感を訴えるはずである。  

以上はSAM前世療法によって、これまでに現れている「意識現象の事実」に基づく考察です。
こうした諸事実からも、「里沙さんに限定すれば」、ラタラジューが憑依霊であるとは考えられないというのが私の判断です。
まとめてみると、憑依人格と前世人格を識別する一応の指標として
① 被験者に現れた人格の会話中の記憶の有無
② 被験者に現れた人格とおのれとの同一性の自覚の有無
を区別するための仮説として設定しています。

私の判断の根拠になっている、里沙さんのセッション中の内観記録を下記に再掲します。
あくまでラタラジュー霊の憑依を主張される人は、この内観記録が憑依をされている人物の書くことのできるものと考えられるでしょうか。

ちなみに、応答型真性異言発話中の意識内容の内観記録は世界的にも一切公開された例がなく、里沙さんの手記はきわめて貴重なものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。

こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。

思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。

ラタラジューの前に、守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの78年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。

はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。
なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。

対話相手のカルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただ、このときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。

セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。
セッ ション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してとい うのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 

ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。

こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。

セッション後、覚醒した途端に、セッション中のことをどんどん忘れていき、家に帰るまで思い出すことはありませんでした。
家に帰っての夜、ひどい頭痛がして、頭の中でパシッ、パシッとフラッシュがたかれたかのように、ラタラジューの記憶が、再び私の中によみがえってきました。

セッション中に感じた、私がラタラジューと一体となって、一瞬にして彼の意識や経験を体感したという感覚です。
ただ全部というのではなく、部分部分に切り取られた記憶のようでした。
カルパナさんの質問を理解し、答えた部分の意識と経験だと思います。
とりわけ、ラタラジューが、カルパナさんに「あなたはネパール人か?」と尋ねたらしく、それが確かめられると、彼の喜びと懐かしさがどっとあふれてきたときの感覚はストレートによみがえってきました。 

一つは、優しく美しい母に甘えている感覚、そのときにネパール語で「アマ」「ラムロ」の言葉を理解しました。
母という意味と、ラタラジューの母の名でした。

二つ目は、戦いで人を殺している感覚です。
ラタラジューは殺されるというすさまじい恐怖と、生き延びたいと願う気持ちで敵に斬りつけ殺しています。肉を斬る感覚、血のにおいがするような感覚、そして目の前の敵が死ぬと、殺されることから解放された安堵で何とも言えない喜びを感じます。
何人とまでは分かりませんが、敵を殺すたびに恐怖と喜びが繰り返されたように感じました。

現世の私は、それを受け入れることができず、しばらくの間は包丁を持てず、肉料理をすることが出来ないほどの衝撃を受けました。
前世と現世は別のことと、セッション中にも充分過ぎるほどに分かっていても、切り離すのに辛く苦しい思いをしました。

三つ目は、ネパール語が、ある程度わかったような感覚です。
時間が経つにつれて(正確には夜、しっかり思い出してから三日間ほどですが)忘れていってしまうので、覚えているうちにネパール語を書き留めてみました。
アマ・ラムロもそうですが、他にコド・ラナー・ダルマ・タパイン・ネパリ・シャハ・ナル・ガウン・カトマンズ・ブジナ・メロ・ナムなどです。
 
四 つ目は、カルパナさんにもう一度会いたいという気持ちが強く残り、一つ目のことと合わせてみると、カルパナさんの声はラタラジューの母親の声と似ていたの か、またはセッション中に額の汗をぬぐってくれた感覚が母親と重なったのか(現世の私の額をカルパナさんが触ったのに、ラタラジューが直接反応したのか、 現世の私がラタラジューに伝えたのか分かりませんが、一体化とはこのことでしょうか)。
母を慕う気持ちが、カルパナさんに会いたいという感情になって残ったのだろうと思います。

セッション一週間後に、カルパナさんに来てもらい、ネパール語が覚醒状態で理解できるかどうか実験してみましたが、もう全然覚えてはいませんでした。

また、カルパナさんに再会できたことで、それ以後会いたいという気持ちは落ち着きました。

以上が今回のセッションの感想です。

このことから、私が言えることは、

①生まれる前から前世のことは知っていたこと、それを何かのきっかけで(私の場合はSAM前世療法で)思い出したこと。

②生まれ変わりは、信じる信じないの問題ではなく、事実として間違いなく確かにあること。

③前世にとらわれることなく現世を生きなければならないこと、です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

里沙さんの以上のようなセッション中の意識状態を内観した記録を検討すれば、ラタラジューを他者の憑依人格だと考える判断の根拠は、ほとんど考えられないと思います。

催眠下で顕現化した人格が、前世人格であるのか憑依人格であるのかという疑問は、「前世の記憶の想起」を前提にしたワイス式前世療法にはまったく問われることのない問題です。

「前世記憶の想起」ではなく、「前世人格の顕現化」を作業仮説とするSAM前世療法であるからこそ、必然的につきまとう特有の根本的かつ重大な問題です。

そして、この問題は、SAM催眠学とSAM前世療法の存立にかかわって、今後も継続して探究を必要とする問題であると認識しています。

2016年7月29日金曜日

「未浄化霊」についての考察

   SAM催眠学序説 その95

SAM催眠学では、「霊魂仮説」を認める立場を明確に表明しています。

そもそも、私あて霊信の告げた内容が、SAM催眠学の諸仮説の根本基盤ですから、その霊信を送信してきた高級霊を名乗る「通信霊」を認めざるをえないことは論理的必然です。

SAM催眠学では、「霊とは、肉体を持たない死後存続する意識体」、「魂とは、肉体という器に宿った霊を呼び変えたもの」、という「霊」と「魂」の概念の明確な区別をしています。

したがって、魂は肉体という器を無くした時には霊にもどるわけで、香典袋の表書きに「御霊前」と 

書くことは理に適っています。

さて、私あて第12霊信(SAM催眠学序説 その59で公開) で、私の守護霊団の一員を名乗る霊は「未浄化霊」について次のように告げています。(注:「未成仏霊」と「未浄化霊」は同義語)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世に残る「未成仏霊」のような存在は、残留思念の集合体である。 

だが、それらは意志を持つようにとらえられる。 

よって、魂と判断されがちだがそれらは魂とは異なるものである。

それらの持つ意志は意志ではない。

なぜ、それらが意志を持つものだととらえられるのか、そして、魂が別の道をたどりながらそのような意志を残すのか。

それを残すのは、その魂ではない。

それらを管理するのは神である。

それらは計画の一部である。

転生し旅を続けるものに対する課題として必要なものである。

その詳細への説明は与えるものではない。

あなた方は、なぜそのような仕組みになっているのか答えを待つのではなく、自らが探究して得るべきなのだ。                                                  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「未浄化霊」とは、いわゆる魂(霊)ではなく、「残留思念の集合体」である、というとらえ方は初耳でしたし、このことについてはしばらくの間、探究することを怠ってきました。なぜなら、SAM前世療法のセッションでたまたま顕現化する未浄化霊は、1個の人格を持つ意識体として人間的対話が可能だからです。
「残留思念の集合体」というとらえ方のほうが不自然だと思われたからです。

その一つの例示として、SAM催眠学前世療法の最終過程「魂遡行催眠」のセッション中に顕現化した未浄化霊との対話事例を提示してみます。


クライアントは30代の女性であり、「魂遡行催眠」の過程で、憑依していたとおぼしき未浄化霊が、唐突に「セノーテ、セノーテ」と発話しはじめました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
: セノーテってなんですか? 

: 泉、泉。

: セノーテとはどこの言葉ですか。

: マヤ、マヤ。

: あなたはマヤの時代の人なんですね。それで、あなたは迷っている霊ですね。

: うん。そう、そう。

: マヤは日本から遠く離れています。あなたは、苦しくて、それを分かってほしいから、この者に憑依したのですか? そのために、マヤから日本までやってきたのですか?

: ちがう。この人が来た。

: この者が、あなたのいたマヤのセノーテにやってきた。それであなたが憑依して、そのまま日本に来てしまった、そういうことですか。

: うん。そう、そう。

: あなたは何歳で命を落としたの? 命を落とした場所がセノーテなの?

: 3歳の女の子。セノーテへお母さんが投げ込んだので死んでしまったの。

: お母さんがあなたを殺したわけですね。なぜそんな惨いことをお母さんがしたの?

: 神様への生け贄だって。

注: ここでまたクライアントは激しくイヤイヤをしながら、激しく泣き出しました。それがすすり泣きに変わるまで待って、対話を続けました。 

: そうやって生け贄にされて殺されたから迷っているのですね。でもね、この者にくっついていても、あなたはいくべき世界にいつまでたってもいけませんよ。あなたのいくべきところは光の世界です。そこへいけば、お母さんと会えますよ。あなたを守っておいでになる神様とも会えますよ。

: いやだ。光の世界はいやだ。お母さんは大嫌い、私をセノーテに投げ込んだ。会いたくなんかない。神様はもっと嫌い。私を生け贄にした。

:  お母さんがね、喜んであなたを生け贄にするはずがないでしょう。ほんとうは悲しくてたまらなかったのに、マヤの掟で泣く泣くあなたを生け贄にしたのですよ。そうして、幼子のあなたを生け贄に求めたというマヤの神様はまやかしです。そんなことを求める神様なんているはずがありません。悲しいことですが、マ ヤの時代の迷信です。

: でも、お母さんは、神様の求めで私をセノーテに投げこんだ。お母さんには絶対会いたくない。いやだ、いやだ。お母さんのいるところへなんか行きたくない。この人のところがいい。

:  じゃあね。私の言っていることがほんとうかどうか、ためしてみませんか。きっと、あなたが来るのを待っているお母さんが心配をして、お迎えに来てくれるはずですよ。お母さんがやさしく迎えに来ないことが分かったら、光の世界に行かなくていいのです。ためしてみましょうか。いいです ね。浄霊っていう儀式 をしましょう。きっとお母さんがお迎えにきてくれますよ。

霊: でも、いやだ。お母さんは嫌い。私を殺した。光の世界には行きたくない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このような対話を繰り返し、マヤの女の子が、浄霊に応じることを納得してくれるまで待ちました。
30分近く説得し、浄霊してよいという了解を得たので、浄霊をはじめました。
浄霊の儀式が終わったところで、お母さんが迎えに来ていますか、と尋ねると、うん、とうれしそうに返事が返ってきました。こうして、浄霊作業は終了しました。


ちなみに、このクライアントが、いったいどこで、この子どもの未浄化霊に憑依されたのか覚醒後に確認したところ、3ヶ月ほど前の旅行でマヤ遺跡のチツェンイツァのセノーテを訪問していたことが確認できました。

ここのセノーテでは、実際に生け贄を投げ込んで神への供物とすることがおこなわれていたとされています。

このクライアントは、おそらく旅行先のここで憑依されたものと推測できます。

さて、ここで私と対話した未浄化霊である3歳の女の子は「残留思念の集合体」なのでしょうか?

だとすれば、「残留思念の集合体」は、あたかも一個の人格として振る舞っていることが明らかです。

このことについては、「SAM催眠学序説その82」において次のような見解を示しておきました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
通信霊の告げている、未成仏霊は残留思念の集合体である、という説を採用すると、インナーチャイルド、多重人格にあらわれる副人格、生き霊といった 現象も、「強烈な思念の集合体であり、それらは意志を持つ人格のように振る舞う」という仮説が成り立つのではないか、というのがここでのテーマです。

なぜなら、SAM前世療法のセッションにおいて、たしかに未浄化霊を名乗る霊的存在が顕現化する意識現象があらわれ、「残留思念の集合体」であるにもかかわらず、あたかも意志を持った一個の人格として振る舞うからです。

このことをさらに考察しますと、「憎悪・悲哀・嫉妬などの強烈な思念」、つまり「強烈な負の意識」が凝縮された集合体になると、それが一個の人格的存在を創出することがある、という仮説が成り立つと思われるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、「インナーチャイルド」・「多重人格」・「生き霊」と呼ばれる存在は、生者の強い思念が凝縮して、一個の人格的存在として振る舞っているわけですから、死者のこの世に残した強い「残留思念」も、一個の独立的な人格的存在として振る舞っても不思議ではないということです。

そして、顕現化した未浄化霊が、本当に「残留思念の集合体」であるのかどうか、は当の未浄化霊に尋ねてみるしかない、というのが私のとった確認方法です。

その結果、尋ねた十数事例のすべての未浄化霊が、自分はいわゆる霊ではなく「残留思念の集合体である」と答えています。
それでは、本体である霊(死者の魂)はどこに存在しているかを尋ねると、どうやら「残留思念の集合体」が浄化されて上がってくるのを霊界で待っているとの回答でした。

本体の霊には、本体の霊と分離したまま地上に残してしまった「残留思念」が浄化され、本体の霊と統合され、霊として十全な状態になることが求められているようです。
どうやら、そのような十全な霊となるように統合がなされるまでは、霊界からの次の生まれ変わり(転生)が許可されないのではないかと思われます。

 そうした消息を霊信では次のように告げていると思われます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なぜ、それら(注:残留思念の集合体)が意志を持つものだととらえられるのか、そして、魂が別の道をたどりながらそのような意志を残すのか。・・・(中略)

転生し旅を続けるものに対する課題として必要なものである。(第12霊信)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「残留思念の集合体が意志を持つものだととらえられる」理由は、インナーチャイルド、多重人格、生き霊などの事例からすでに明らかと言ってよいでしょう。

「魂(霊)が別の道をたどる」ということは、残留思念を地上に残し、本体から分離したままの十全ではない霊は転生が足止めされ、そうした転生を許可されない霊たちの居場所が、霊界のどこかに用意されていることを意味しているのかもしれません。

また、残留思念を地上に残したばかりに、願っても転生が許可されず、霊として成長進化する機会を奪われていることへの後悔や悲しみなどの苦悩や反省が、「転生し旅を続けるものに対する課題」ということかもしれません。

こうして、われわれが未浄化霊と呼んできた霊的存在は、どうやら「霊」ではなく「残留思念の集合体」であると判断してもよいようです。

以下は、「残留思念の集合体」であることを認めたうえで、それを従来どおり 「未浄化霊」と呼んで記述していきます。

しかし、私は残念なことに、未浄化霊の生前の身元の検証に完全に成功したことがありません。
未浄化霊の語った生前の身元が実証できるあと一歩まで肉薄した事例は2例ほどあります。

したがって、未浄化霊の存在の有無は判断留保という前提において、未浄化霊とおぼしき存在に憑依されている複数のクライアントの「意識現象の事実」を累積した結果としての見解をこれまで述べてきました。

そして、クライアントに憑依している未浄化霊の語りが、客観的事実であるのか虚構であるのかは、検証して確認するほかありません。

ただし、検証の結果、生前の身元が客観的事実であると確認できたとしても、厳密な研究者からは、クライアントが超ESPによってそうした身元の情報を入手して語ったのだ、という疑惑が提出されるかもしれません。

未浄化霊と対話した私の実感としては、例示したマヤの女の子のような霊的存在の生前の身元が確認できないからといって、その実在を完全否定できないと思われます。

もちろん、クライアントの妄想の産物であるとか、役割演技とかの説明は可能でしょうが、なぜそのような妄想を語ったり役割演技をクライアントがする必要があるのか、必然性も利得もないからです。
ちなみに、統合失調症などの精神疾患は、このクライアントにはまったく認められませんでした。


さて、さらに、未浄化霊に憑依されていたとおぼしき諸クライアントの告げた「意識現象の事実」を、それを告げた未浄化霊の実在は判断留保という前提において、未浄化霊との対話で確認してきたことを取り上げてみたいと思います。


未浄化霊は、何を求めて憑依するのか、どういう人を選んで憑依するのか、どこに憑依するのか、という問題です。
また、未浄化霊に憑依されやすい人は、どのようにしてそれを防ぐことができるのか、という問題です。

未浄化霊の求めていることは、自分のように苦しんでさまよっている霊への理解と共感だということです。
要するに、さまよっている霊の心情を分かってくれそうな人を選ぶといいます。
つまり、未浄化霊に対して、意識的にも、無意識的にも、受容的態度を持つ人を選ぶということです。
多くは霊的感性の豊かな人が、そうした霊への受容的態度を持っているようです。

それでは未浄化霊は何をもって、その人が霊への受容的態度を持っていることを知るのでしょうか。

未浄化霊の語るところによれば 、その選択の指標はオーラだと言います。

SAM催眠学では、霊体に意識・潜在意識が宿っている、という「霊体仮説」を設けています。
その霊体の色がオーラです。

したがって、未浄化霊に、霊体に宿っている意識内容を読み解く能力があるとすれば、その霊体に宿っているその人の意識・潜在意識に、霊への受容的態度があるのかないのかが判断できるということになり、実際にそのようにして受容してくれそうな人に憑依すると言います。

逆に言えば、未浄化霊に対して強い拒否的意志を固めていれば、その拒否の意識は霊体に反映し宿っているわけであり、それを察知した未浄化霊は、憑依したところで理解も共感も得られないので憑依をあきらめることになるようです。
または、霊感に無理解、あるいは無い人に対しても憑依は無駄であり、あきらめることになります。

したがって、憑依されやすい人が憑依を防ぐには、ふだんから未浄化霊への強い拒否的意志(思念)を固めておくことが、もっとも有効な手段であると言えるでしょう。

この憑依を防ぐ方法は、マヤの幼子に憑依されていたクライアントの守護霊によって確認しています。

それでは、未浄化霊はどこに憑依するのでしょうか。

霊体に憑依すると言います。

この霊体への憑依によって、被憑依者の霊体に宿っている本来の意識・潜在意識に、憑依した未浄化霊の意識(残留思念)が併存、ないし混入することになる、という理解が「霊体仮説」から導き出されます。

こうして、憑依によって、未浄化霊の残留思念(悲しみ、怒り、憎しみなどマイナスの思念)の影響を多かれ少なかれ受けざるを得ない被憑依者の意識は、理由の思い当たらない憂鬱感や悲哀感、怒りなどの意識に彩られることになります。

強力な未浄化霊の憑依によっては、その優勢な残留思念に支配され、一時的に本来の人格が変わってしまうような意識現象があらわれるかもしれません。
このことは、生き霊に憑依されたクライアントが示した事例からも類推できそうだと思われます。

私の体験した唯一の事例においては、統合失調症の診断の下りている青年で、精神科に入院するために病院に入ると同時に寛解状態に戻り、入院の必要なしと診断されて病院から出ると同時に異常行動に戻ることを繰り返すという不思議な病態を示しました。

大胆な私見を述べれば、この事例は、被憑依者の病院内での治療を嫌う未浄化霊が、憑依したり、離れたりするという解釈をすれば理解できそうです。
私の信頼している唯一の霊能者も、この青年の事例は私見のとおりだろうとコメントしています。

とすれば、統合失調症の患者さんの中には、強力な未浄化霊の憑依による病態だと推測できる患者さんがおいでになるかもしれません。


2016年7月21日木曜日

スティーヴンソンの生まれ変わりについての見解

   SAM催眠学序説 その94


私の研究の方法論は、イアン・スティーヴンソンの諸著作から学んだことを手本としています。
彼は、自らの手で集めている生まれ変わりを示す証拠が、自ら事実を物語るはずだ、と次のように繰り返し述べています。

私の見解は重要ではない。私は自分の役割は、できる限り明確に証拠を提示することにあると考えている。読者諸賢は、そうした証拠をー厳密に検討されたうえで自分なりの結論に到達する必要があるのである。
(イアン・スティーヴンソン『「生まれ変わりの刻印』春秋社、1998、P198)


また、生まれ変わりという考え方は、最後に受け入れるべき解釈なので、これに替わりうる説明がすべて棄却できた後に、初めて採用すべきである、という慎重な研究方法を一貫して採用しています。

拙著、『前世療法の探究』、『生まれ変わりが科学的に証明された!』のタエ・ラタラジューの両事例の諸検証は、スティーヴンソンの検証方法を忠実に守っておこなったつもりです。

私が死の恐怖について、きわめて臆病な人間であったことはこのブログに書きました。
そして、死の恐怖から免れるために、宗教に救いを求めることは、生来の気質からできなかったことも正直に述べました。

こうした私だからこそ、イアン・スティーヴンソンの生まれ変わりの科学としての研究に強く惹かれるものを感じてきました。
彼こそ、生まれ変わりという宗教的概念を、宗教的なものから科学的探究の対象へと位置づけることに成功した先駆的科学者であると評価できると思うからです。

そこで、ここでは、彼の生まれ変わりについての見解がもっとも濃厚に述べられている『前世を記憶する子どもたち』日本共文社、1989から、その見解を紹介し、SAM催眠学の魂二層構造仮説と比較してみたいと思います。
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生まれ変わったと推定される者では、先述のイメージ記憶、行動的記憶、身体的痕跡という三通りの要素が不思議にも結びついており、前世と現世の間でもそれが一体になっていなかったとは、私には想像すらできない。
このことからすると、この要素(ないしその表象)は、ある中間的媒体に従属しているらしいことがわかる。この中間的媒体が持っている他の要素については、おそらくまだ何もわかっていない。

前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォア)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う。(中略)

私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。
実 際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。人格は、一人の人間がい ずれの時点でも持っている、外部から観察される心理的特性をすべて包含しているのに対して、個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去 世の残渣が加わる。したがって、私たちの個性には、人格としては決して表出することのないものや、異常な状況以外では人間の意識に昇らないものが数多く含 まれているのである。
(前掲書PP.359-360)
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上記のスティーヴンソンの見解とSAM催眠学の「魂の二層構造仮説」の見解とを比較してみると、ほぼ整合するところが指摘できます。

彼の言う「中間的媒体」、「心搬体(サイコフォア)」は、SAM催眠学の「魂」と同義です。
おそらくスティーヴンソンはSoulという語にまとわりつく宗教臭を回避したのだと思われます。
このことについて彼は次のように述べています。

私は、この中間媒体を表す用語として(心を運ぶと言う意味を持つ)「心搬体(サイコフォア)」という
言 葉を提案した。(私は、生まれ変わり信仰を持つ多くの宗教に、こうした中間媒体を意味する言葉があることを承知している。しかしながら、生まれ変わりに関 する私たちの、依然として初歩的な科学的研究を宗教と結びつけるのを避けるため、新しい言葉を作った方がよいと考えたわけである。)
(イアン・スティーヴンソン『「生まれ変わりの刻印』春秋社、1998、P198)


私は、前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を、そのまま従来の「魂」の概念でも不都合はないと思いますし、取り立てて新しい概念でもないのに「心搬体」などの造語を用いることは不要だと思っています。

また、彼の、「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う」という見解は、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化(変化)する仕組みになっている」という仮説を支持するものと言えそうです。

ただし、「心搬体」=「魂」を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない、と述べています。
私は、私あて霊信によって、「魂を構成する要素がどのような配列になっているのか」を教えられ、催眠を道具にその真偽の検証によって、魂表層を構成する前世の人格たちを呼び出すことに成功したと思っています。

しかも、「ラタラジューの事例」によって、前世人格ラタラジューは、魂表層で、肉体はなくとも生きて活動していることを実証できたと思っています。

つまり、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世諸人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化する仕組みになっている」というのが、SAM催眠学の見解です。

つまり、「心搬体」=「魂」の表層全体は、変化していくものだということを、顕現化した前世諸人格の語りから確かめています。

さらに、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しない、というスティーヴンソンの見解は、そっくりSAM催眠学の見解と同様です。

現世の私という人格が、来世にそのままそっくり生まれ変わるわけではなく、魂表層の一つとして生き続けるのであって、魂が生まれ変わるとは、「表層を含めた一つの魂全体」だというのが、SAM催眠学の示す生まれ変わりの実相だと言えます。

また、「実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる」というスティーヴンソンの考え方も、SAM催眠学の見解にほぼ一致します。

現世の個性は、魂表層の前世人格たちから人生の知恵を分かち与えられており、このようにして繰り返された前世の諸人格に由来する「個性」と、現世での諸経験とによって、形成されているに違いないのです。

さて、私が、故スティーヴンソンに求めたのは、前世の記憶を語る子どもたちの「記憶」の所在についての考究でした。

彼が、「前世の記憶」が脳にだけあるとは考えていないことは、「心搬体」という死後存続する「媒体」を想定していたことに照らせば、間違いありません。

私の期待したのは、その「心搬体」と「脳」との関係についてのスティーヴンソンの考究です。

前世の記憶を語る子どもたちは、その前世記憶の情報を、心搬体から得て話したのか、脳から得て話したのか、いずれなのでしょうか。

私の大胆な仮説を述べてみますと、すべての事例がそうではないにしても、子どもの魂表層に存在する前世人格が、顕現化(自己内憑依)し、子どもの口を通して、前世人格みずからが自分の人生を語った可能性があるのではなかろうか、ということになります。

それは、その前世を語った子どもの12事例のうち、8つの事例で、次のように話し始めた(ふるまった)とスティーヴンソンが紹介しているからです。

①ゴールパールは、「そんなものは持たない。ぼくはシャルマだ」と答え、周囲を仰天させた。(前掲書94)

②コーリスが1歳1ヶ月になったばかりの頃、母親が名前を復唱させようとしたところ、コーリスは腹立たしげに、「ぼくが誰か知ってるよね。カーコディだよ」と言った。(前掲書P98)

③日本に帰りたいという願望をよく口にし、ホームシックから膝を抱いてめそめそ泣くこともあった。また、自分の前で英米人の話が出ると、英米人に対する怒りの気持ちを露わにした。(前掲書P101)

④シャムリニーは、その町に住んでいた時代の両親の名前を挙げ、ガルトウダワのお母さんのことをよく話した。また、姉妹のことやふたりの同級生のことも語っている。(前掲書P104)

⑤ボンクチはチャムラットを殺害した犯人は許せないという態度を示し、機会があると復讐してやる、と何年か言い続けた。(前掲書P116)

⑥おまえの名前は「サムエル」だと教えようとしても、サムエルはほとんど従おうとしなかった。「ぼくはペルティだ」と言ってきかなかったのである。(前掲書P121)

⑦前世の話をもっとも頻繁にしていた頃のロバータは、時折前世の両親や自宅の記憶を全面的に残している子どもが養女にきているみたいにふるまった。(前掲書P126)

⑧3歳の頃マイクルは、全く知らないはずの人たちや出来事を知っているらしい兆候を見せ始めた。そしてある日、「キャロル・ミラー」という名前を口にして、母親を驚かせたのである。(前掲書P141)

以上のような事例の事実は、「子どもが前世の記憶を話した」というよりは、「前世人格が現れて人生の出来事を話した」と、現象学的にありのままに受け取ることのほうが、自然だと私には思われるのです。

スティーヴンソンは、応答型真性異言の「グレートフェン」の事例において、グレートフェンを顕現化した「トランス人格(前世人格)」として解釈しています。

前世を語った子どもにおいても、前世人格の顕現化の可能性をなぜ検討しなかったのか、私には不満が残ります。
子どもが語ったのは「前世の記憶」だという思い込みがあるように思われてなりません。
仮に、子どもが語ったのは「前世の記憶」だとして、その記憶の所在はいったいどこにあるのでしょうか?


とりわけ、上記③⑤⑦などのような、「態度」や「ふるまい」があらわれる事例は、前世の記憶ではなく、魂表層に存在する「前世人格の顕現化」として受け取るのが自然だろうと思います。

スティーヴンソンが存命しているなら、是非尋ねてみたいものです。

2016年6月24日金曜日

SAM催眠学における前世人格との対話現象

   SAM催眠学序説 その93


SAM催眠学のもっとも大胆、奇怪な作業仮説は、「前世の記憶」にアクセスするのでなく、魂の表層に存在する「前世人格」にアクセスするという方法論をとっていることでしょう。

私の知る限り、「魂表層に存在する前世人格にアクセスする」という明確な作業仮説のもとにおこなっている前世療法士は海外を含めて皆無です。

それほど認めがたい作業仮説だろうと思われます。
そもそも、私あて霊信が教示した魂の構造から生み出された作業仮説であり、人間が考えた仮説ではありません。

魂表層に存在している前世人格とは、つまりは死者であり、その死者である前世人格を顕現化させ対話することは、死者との対話をすることになります。

しかし、この作業仮説を裏づけ、顕現化した前世人格の実在が検証できた事例が確かに存在し、その映像と音声の証拠記録が残っています。

それが「ラタラジューの事例」と「タエの事例」にほかなりません。

前世人格ラタラジューは次のような、現在進行形でのきわめて象徴的な対話をしています。
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注:CLは被験者里沙さん、KAはネパール語対話者ネパール人カルパナさん

CL  Tapai Nepali huncha?         
   (あなたはネパール人ですか?)

KA  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)

CL  O. ma Nepali.
   (ああ、私もネパール人です)
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この短いやりとりの重要性は、ついうっかり見落とすところですが、現れた前世人格のありようについて、きわめて興味深く示唆に富むものだと言えます。

それは、前世人格の顕現化というSAM催眠学の作業仮説が成り立つことを裏づけるものだからです。

つ まり、前世人格ラタラジューのありようは、ただ今、ここにいる、ネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、ただ今、 ここで、問いかけ、その回答を求めているわけで、「里沙さんの潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示していま す。

ラタラジューは、前世記憶の想起として里沙さんによって語られている人格ではないのです。
里沙さんとは別人格として現れている、としか考えられない存在です。

その「別人格である前世のラタラジューが、里沙さんの肉体(声帯と舌)を用いて自己表現している」と解釈することがもっとも自然な解釈ではないでしょうか。

前世を生きたラタラジュー人格は、肉体こそ持たないものの、ただ今、ここに、存在している人格(意識)として現れており、現在進行形で会話しているのです。

この現在進行形でおこなわれている会話の事実は、潜在意識の深淵には魂の自覚が潜んでおり、そこには前世のものたちが、今も、生きて、意識体として存在している、というSAM催眠学独自の作業仮説が正しい可能性を示している検証の証拠であると考えています。

ところで、生まれ変わり研究の先駆者、とりわけ生まれ変わりの最有力な証拠である応答型真性異言の研究者であるイアン・スティーヴンソンも、応答型真性異言の実験セッションにおいて次のように述べ、私と同様の見解を示しています。

ちなみにこの被験者女性は、アメリカ人女性で、退行催眠下で学んだことのないドイツ語で応答的会話した応答型真性異言「グレートヒェンの事例」の被験者です。
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私自身は、この被験者を対象にした実験セッションに4回参加しており、いずれのセッションでも、トランス人格たるグレートヒェンとドイツ語で意味のある会話をおこなっている。(『前世の言葉を話す人々』春秋社、P9)

ドイツ人格とおぼしき人格をもう一度呼び出そうと試みた。そして、それに成功し、この新しいトランス人格は、自分を「Ich bin Gretchen(私はグレートヒェンです)」と名乗ったのである。
(前掲書P11)
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スティーヴンソンも、この事例において、被験者が記憶を想起して会話しているのではなく、顕現化した「トランス人格」自身が会話をした、という解釈をするしかなかったのです。

ただし、彼の用いた「トランス人格」という語は両義性を含んでおり微妙です。

なぜなら、トランス人格とは、退行催眠下のトランス状態で顕現化した人格一般を指すのであり、それが被験者の前世人格であるのか第三者の憑依人格(憑依霊)であるのかは不明であるからです。

慎重・厳密な科学者であるスティーヴンソンは、その判断を留保し、トランス人格という語を用いたと思われます。

穿った推測をすれば、グレートヒェン人格を前世人格だと判断した場合、その前世人格はどこに存在しているのかが問題となることを回避したかったのかもしれません。

いずれにせよ、応答型真性異言現象を目の当たりにした者は、その応答的会話をする主体を、被験者が記憶を想起して語っているのではなく、被験者とは別個に顕現化している人格自身であると認識せざるをえない、ということを私は主張しているのです。

SAM催眠学に基づくSAM前世療法では、魂の表層は生まれ変わりをした前世諸人格によって構成されており、その前世人格を呼び出し、対話するという作業仮説に基づいてセッションを展開します。

ラタラジューもタエも、そのようにして、魂表層から呼び出し、顕現化させた前世人格です。

SAM前世療法の他のセッションにおいても、同様の手続きをして呼び出した前世人格が、応答型真性異言現象を示さないにしても、その前世人格を、すべて被験者の願望や潜在記憶が投影された架空人格(偽造人格)だと切り捨てることはできない、と考えています。

2016年6月12日日曜日

生まれ変わり仮説を阻む最強の否定仮説

   SAM催眠学序説 その92

生まれ変わり仮説を否定する最強の仮説ー「超ESP仮説」


「タエの事例」の検証の考察で取り上げた「透視などの超常能力(超ESP)仮説」は、生まれ変わり(死後存続)を否定するための十分な裏付けのないまま強引に作り上げられた空論だ、と私は考えています。

徹底的な裏付け調査によって、私の心証として里沙さんの証言には嘘はあり得ないという確信があり、タエの実在証明ができなかったにせよ、生まれ変わりの科学的証明に迫り得たという強い思いがありました。

ポリグラフ検査によっても、タエに関する諸情報を里沙さんが事前に入手していた記憶の痕跡は全くない、という鑑定結果が得られているからです。

しかし、ここに「超ESP仮説」を登場させると、生まれ変わりの証明はきわめて困難になってきます。
人間の透視能力が、かなり離れた場所や時間の事実を、認知できるということは、テレビの「超能力捜査官」などをご覧になって、ご存じの方も多いと思います。

この透視能力(ESP)の限界が現在も明らかではないので、万能の透視能力を持つ人間が存在する可能性があるはずだ、と主張する仮説が「超ESP仮説」と呼ばれているものです。
超ESP仮説を初めて唱えたのはホーネル・ハートとされていますが、その趣旨は、ESPの限界が分かっていないので、霊との交信とされるような複雑な現象も、生者のESPによって起こりうると考えるべきで、霊魂仮説は不要であり、思考節減の原理に反するというものでした。


超ESPを発揮すれば、情報である限り、ありとあらゆる情報を、透視やテレパシーによって入手できるわけで、そうした諸情報を編集し、組み合わせて、もっともらしい前世の物語を作話することが可能になるわけです。

これを里沙さんに適用すれば、彼女は、普段は透視能力がないのに、突然無意識的に、「万能の透視能力」を発揮し、しかるべきところにあるタエに関する「記 録」や、人々の心の中にある「記憶」をことごく読み取って、それらの情報を瞬時に組み合わせて物語にまとめ上げ、タエの「前世記憶」として語ったのだ、と いう途方もない仮説が、少なくとも理論的には可能になるのです。

もちろん、普段の里沙さんに透視能力がないことは確認してありますが、催眠中に里沙さんが絶対に超ESPを発揮してはいない、という証明は事実上不可能です。

そのうえ、海外の事例には、催眠中に突如透視能力が発現したという現象が確かに存在するので、ますますやっかいです。

また、万能に近いと思われる透視能力者が過去に実在していることも事実です。

たとえば、グラディス・オズボーン・レナード婦人は、一度も行ったことのない家の中にある閉じた本に書かれた文章を何らかの方法で読み、その文章が何ページに出てい るか(場合によっては、そのページのどのあたりにあるか) や、その書物が本棚のどのあたりに置かれているかを正確に言い当てる能力を持っていました。
この透視実験について、ケンブリッジ大学トリニティの道徳哲学教授ヘンリー・シジウィックは、レナード婦人の書籍実験に関する厳密な分析をおこなった論文を発表しています。(イアン・スティーヴンソン、笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』P500)


こうなると、前世記憶とは、透視によって獲得した情報を前世記憶のように装ったフィクションに過ぎず、したがって、生まれ変わりなどを考えることは不要であり、生きている人間の超能力(心の力)によってすべてが説明可能だというわけです。

ところで、この超ESP仮説自体を証明することは、現在のところESPの限界が分かっていない以上不可能なことなのです。

しかし、この仮説を完全に反証しなければ、生まれ変わりの証明ができないとすれば、生まれ変わりは完全な反証もされない代わりに、永久に証明もできないという袋小路に追い詰められることになってしまいます。

一方、前述の「超能力捜査官」などの例でテレパシーや透視の存在は知られていますが、人間の死後存続の証拠は直接には知られていません。

したがって、生まれ変わりという考え方自体のほうが奇怪で空想的であるとして、これを認めるくらいなら他の仮説を認めるほうがまだましだ、とする立場を採る研究者たちによって超ESP仮説は支持されてきたという事情があるのです。

こうして、心霊研究と超心理学の百数十年に及ぶ「生まれ変わり」の証明努力の前に、最後に立ちはだかった最強の壁が、この超ESP仮説でした。

多くの心霊研究者や超心理学者は、超ESP仮説さえなければ、死後存続はとっくに証明されていたはずだと考えています。

それを何としても阻むがために、この「超ESP仮説」は、考え出され支持されてきた仮説だと言ってよいでしょう。
そして、超ESP仮説を持ち出せば、どのよ うに裏付けが十分な前世記憶であろうと、すべて超能力で入手した情報によるフィクションだとしてなぎ倒すことが少なくとも理論的には成り立ち、生まれ変わりの完全な証明など永久にできるはずがないということになります。

とすれば、仮に、苦労を重ねて「タエ」の実在を文書等の「記録」によって発見できたとしても、万能の超ESP仮説がある限り、里沙さんがその情報を超ESPによって収集したのだという説明が可能であり、「タエの事 例」は前世存在の完全な証明とは認められず、検証のための努力は徒労であったということになってしまいます。

やはり、生まれ変わりの証明などということは、宗教者や霊能者と呼ばれる人々の観念的言説に留めておくべきことで、誰もが納得できるレベルでの生まれ変わりの科学的実証などは、ないものねだりとして断念すべきことなのでしょうか。

この難題に真っ向から挑んだ研究者が、『前世を記憶する子どもたち』などの一連の著作で知られる、バージニア大学のイアン・スティーヴンソン教授でした。


超ESP仮説では説明できない「応答型真性異言」

スティーヴンソンが着目したのは、もし、ESPによって取得不可能なものであれば、それは超ESPであろうとも取得が不可能である、という事実でした。
少し長くなりますが、彼の着目点以下にを引用してみます。
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デュカス(注 カート・ジョン・デュカス、哲学者)は、本来、霊媒は他人の持つあらゆる認知的情報をESPを介して入手する力を持っているかもしれないことを原則として認めているが、その情報を本来の所有者と同じように使うことはできないと考える。

デュカスによれば、霊媒は、テレパシーを用いてラテン語学者からラテン語の知識をすべて引き出すこともあるかもしれないが、その知識をその学者の好みとか癖に合わせて使うことはできないのではないかという。

以上のことからデュカスは次のように考える。

もし霊媒が、本来持っているとされる以外の変わった技能を示したとすれば、それは何者かが死後生存を続けている証拠になるであろう。
もしその技能が、ある特定の人物以外持つ者がない特殊なものであれば、その人物が死後も生存を続けている証拠となろう。
技能は訓練を通じて初めて身につくものである。

たとえば、ダンスの踊り方とか外国語の話し方とか自転車の乗り方とかについて教えられても、そういう技能を素早く身につける役には立つかもしれないが、技能を身につけるうえで不可欠な練習は、依然として必要不可欠である。

ポランニー(注 マイケル・ポランニー、科学哲学者)によれば、技能は本来、言葉によっては伝えられないものであり、そのため知ってはいるが言語化できない、言わば暗黙知の範疇(はんちゅう)に入るという。

もし技能が、普通には言葉で伝えられないものであるとすれば、なおさらと言えないまでも、すくなくとも同程度には、ESPによっても伝えられないことになる。
(スティーヴンソン「人間の死後生存の証拠に関する研究ー最近の研究を踏まえた歴史的展望」笠原敏雄編『死後生存の科学』PP41-43)
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ESPである透視・テレパシーなどによって、取得可能なのは、あくまで「情報」です。
そしていくら情報を集めても、実際にかなりの訓練をしない限り、「技能」の取得はできません。

自転車の乗り方をいくら本や映像で知っても、自転車に乗ることはできないように、たとえば言語も情報による伝達だけでは「応答的会話」まではできないはずです。

つまり、「超ESP」によっても、「外国語の会話技能」までは獲得することができないわけです。
実際、超能力によって、本人の学んでいない外国語で会話した事例は発見されていません。

したがって、ある人物が、前世の記憶を、その前世での言語で語り、かつ現世の当人がその言語を学んだことがないと証明された場合には、超ESP仮説は適用できず、「生まれ変わり」が最も有力な説明仮説となる、とスティーヴンソンは考えたのです。

そして、前世記憶を語る中には、ESPによる「情報取得」では説明できない、学んだはずのない外国語での応答的会話を実際に示す事例が、きわめて稀ですが、これまで世界で4例報告されています。
これを「応答型真性異言」responsive xenoglossyと呼びます。

4例のうち、2例は覚醒中に起き、2例は催眠中に起きています。

応答型真性異言は超ESP仮説を打破した

 「真性異言」(xenoglossy ゼノグロッシー)とは、フランスの生理学者で心霊研究協会の会長も務めたシャルル・リシェの造語で、本人が学んだことのない外国語を話す現象のことを言います。

『新約聖書』などにも「異言」(glossolaria グロッソラリア)という現象が記述されていますが、「真性異言」は、その言語が特定の言語であり、学んでいないことが確認されたものです。

このうち、特定の文章や語句だけをオウムのように繰り返すものを「朗唱型真性異言」、その言語の話者と意味のある会話ができるものを「応答型真性異言」と呼びます。

さて、真性異言のうち、「朗唱型真性異言」は、「情報」ですから超ESPによって取得が可能と言えます。
しかし、意味の通った会話ができる「応答型真性異言」は、そうではありません。

言語を自由に話せるというのは、「技能」であり、いくら単語や文型の情報を集めても、実際にかなりの訓練をしない限り、応答的会話は可能にはなりません。

自転車の乗り方をいくら本や映像で知っても、自転車に乗ることはできないように、言語も情報による伝達だけでは技能である「会話」まではできないのです。

つまり、「超ESP」によっても、「学んでいない外国語の応答的会話技能」は取得できないことが明白です。
こうして、ある人物が、前世の記憶を、その前世での外国語で語り、かつ現世の当人がその言語を学んだことがないと証明された場合には、超ESP仮説は適用できず、生まれ変わりを最も有力な説明仮説として採用せざるをえないということになります。

生まれ変わりの証拠である応答型真性異言は、スティーヴンソンが20年にわたって世界中から収集し精査した2000余りの生まれ変わり事例の中で、わずか3例にすぎません。

「イェンセンの事例」と、「グレートヒェンの事例」、および「シャラーダの事例」です。

イェンセンとグレートヒェンの事例は、催眠中に偶発的に前世人格が出現したもので、前者はスウェーデン語、後者はドイツ語で、短い会話によるやりとりが記録されています。

シャラーダの事例は、覚醒時に前世人格が出現し、きわめて長い会話で流暢に受け答えし、歌まで歌っています(『前世の言葉を話す人々』春秋社)。

スティーヴンソンの報告以外に信頼できる事例として、数名の科学者によって調査され、覚醒時にスペイン語で流暢な長い会話をした「ルシアの事例」の調査報告があります(心霊現象研究協会 (The Society for Psychical Research)。

つまり、世界中で信頼にあたいする検証を経た応答型真性異言の事例は4例発見されており、そのうち2例が催眠下で起こった事例ということになります。

さて、こうしたスティーヴンソンの応答型真性異言研究(生まれ変わりの実証研究)は、きわめて綿密な調査と、公正で慎重な検証によって、他の領域の一流科学者たちにも説得力をもって認められつつあるようです。

た とえば、著名な天文学者カール・セーガンは、「時として、小さな子どもたちは、調べてみると正確であることが判明し、生まれ変わり以外には知りえなかった はずの前世の詳細を物語る」という主張は、「真剣に検討する価値がある」(『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』P302)と述べています。

また、行動療法の創始者ハンス・アイゼンクは、「スティーヴンソンの著作を何百ページも読み、スティーヴンソンとは別個に研究が始められているのをみると、 真にきわめて重要なことがわれわれの前に明らかにされつつあるという見解からむりやり目を逸らせることは、誠実であろうとする限りできない」 (Eysenck & Sargent, Explaining the Unexplained, Prion, 1993. いずれも、『生まれ変わりの刻印』笠原敏雄・訳者後記)と述べています。

そして、応答型真性異言こそが生まれ変わりの最有力な証拠だ、とするスティーヴンソンの主張を、科学的・実証的に反証し、論破した研究はいまだに提出されてはいないのです。

このこと、すなわち、応答型真性異言こそは、超ESP仮説を打破できたことが認められたということを意味します。
ひいては、現時点で、応答型真性異言は、生まれ変わりを証明する科学的証拠としてついに認められたことになります。

2016年5月23日月曜日

前世療法と前世記憶の検証放棄という現状

   SAM催眠学序説 その91

今回は、前世療法の歴史と問題点について考えてみます。

(1) 前世療法の発見

一般に呼ばれる前世療法は、催眠療法の一種であり、年齢退行催眠によりクライアントの記憶を本人出産以前まで誘導し、前世の記憶にある心的外傷等を取り除くことによって、現在の症状を改善できると主張されている療法です。

具体的には、退行催眠によって出生以前にさかのぼり、さに「あなたの現在の症状に関係した過去の人生があるなら、そこに行ってみましょう」などの誘導によって、前世とおぼしき記憶のイメージが出てくるというものです。

そして、その前世記憶の想起によってクライアントの抱えていた心身症状が改善するといった効果があるとされています。

さて、退行催眠によって前世記憶の想起が可能になるという「発見」は、1956年アメリカで起きた「ブライディ・マーフィー事件」にまでさかのぼります。

モーリー・バーンステインという催眠術師が、ヴァージニア・タイという女性に退行催眠をほどこしところ、彼女は、アイルランドに暮らし、1864年に66歳で死んだブライディ・マーフィーという女性の前世を想起し、建造物や自然地形を始め様々な記憶を語りました。
ヴァージニアはアイルランドを訪れたことがないのに、そこで語られた情報は、調査をしてみると驚くべき一致を見せました。

そして、この実験は『ニューヨーク・タイムズ』を始めとするメディアで大きく取り上げられ、全米およびヨーロッパで話題となったのです。 

彼女は「ブライディ・マーフィー」としての膨大な記憶を語っており、その記録が『第二の記憶・前世を語る女ブライディ・マーフィー』(邦訳)として出版されました。 

この本はベストセラーになり、アメリカに輪廻転生ブームを巻き起こしました。
マスコミによる「ブライディ・マーフィー」探しがおこなわれ、前世記憶の真偽を調査するために、多くの記者がアイルランドに派遣されるという騒ぎに発展しました。

その結果は、前世記憶の真偽は確認された点もあれば、そうでない点もあるという中途半端なものでした。

より重要な調査結果は、「ブライディ・マーフィー」の実在が確認できなかった点と、ヴァージニアが幼少の頃の家の近くに、ブライディ・マーフィー・コーケルというアイルランド移民が存在していたという二点です。

こうした事実が明らかにされたことによって、多くの論者は、ヴァージニアの前世記憶とは実は幼少の頃、ブライディ・マーフィー・コーケルから得た情報であり、それが催眠中に引き出されたに過ぎない、と結論づけたようです。

し かし、ヴァージニアはブライディ・マーフィー・コーケルとの会話の記憶はなく、また会話したことを忘れているとしても、催眠中に語られた内容は非常に詳細 であって、とてもこれだけの内容をブライディ・マーフィー・コーケルから聞き出したと結論づけるには無理があると思われます。

いずれにせよ、こうして前世記憶の真偽をめぐる「ブライディ・マーフィー事件」は幕を閉じたようです。

(2) 前世療法の発展

「ブライディ・マーフィー事件」以降、1970年代になって様々な医師や催眠療法士が、「前世退行」の研究を開始したものと思われます。

そ して、1983年にグレン・ウィリストンの『生きる意味の探究』(邦訳)、1986年にジョエル・L・ホイットンの『輪廻転生――驚くべき現代の神話』 (邦訳)、1988年にブライアン・L・ワイスの『前世療法』(邦訳)が相次いで刊行され、特にワイスの本がベストセラーとなって、前世療法は一般に広く 普及していったと思われます。

イギリスでも1979年に、ピーター・モスという催眠療法家によって『Encounters with the Past』という前世記憶に関する本が刊行されています。
ちなみに、これらの療法家は、それぞれ独自に前世療法を「発見」していったようです。

こうしてアメリカでは前世療法(退行催眠法)専門の学会が発足し、会報誌も刊行されるようになりました。

日本でもワイスの本は、1991年に邦訳・出版され、前世療法の一大ブームを巻き起こしました。
ワイスは普通の医師・催眠療法家で、死後存続や生まれ変わりに関する知識は全くなく、1980年、偶然の指示から患者の「前世記憶」の想起に出会いました。

「偶然の指示」とは、「あなたの症状の原因となった幼い頃の出来事に戻りなさい」と指示するところを、ただ「原因となった時まで戻りなさい」と指示したことでした。
すると、クライアントは驚くべきことに紀元前19世紀に生きた女性の人生を語り出した、というものです。

一人の患者への退行催眠による治療をめぐって、偶然に想起された前世記憶という未知の領域の探究を描いたミステリアスな内容と、物語風の読みやすい文体とが相まって、多くの読者を引きつけました。

退行催眠を深化していくことで、「前世記憶」とおぼしきものが想起されるという説は、アメリカでは1956年の「ブライディ・マーフィー事件」以来、比較的知られていたのでしょうが、日本ではそういった情報はなく、ワイスの本は驚きと感動をもって迎えられたようです。

これ以後、前世療法は催眠療法における大きな潮流となり、かなりの大衆的人気を博すことになりました。
アメリカはもちろん、日本でも人気があり、現在、100を越える機関が前世療法を掲げて実施していると見られます。

(3) 前世療法への批判


一方、前世療法に関する批判も多く出されています。 
もちろん、死後存続や生まれ変わりなどを頭から否定する唯物論者が、前世療法を批判するのは当然のことです。

ところが、生まれ変わり研究の第一人者イアン・スティーヴンソンも、前世療法や催眠による前世想
起に対して、厳しい批判をしています。

それは、彼が、前世の記憶をある程度持っていると思われる者を催眠に入れ、前世想起の実験を13例実施し、地名・人名を探り出し特定しようとした試みがすべて失敗した(『前世を記憶する子どもたち』P80)ということにあるようです。

こ うして、催眠中に前世の記憶らしきものが語られたにしても、催眠によって誘発された催眠者に対する従順な状態の中では、何らかの前世の記憶らしきものを語 らずにいられない衝動に駆られ、通常の方法で入手した様々な情報をつなぎ合わせて架空の人格を作り上げてしまう可能性が高いと主張します。

そして、催眠中に語られたリアルな前世の記憶が、実は架空の作話であったと検証された実例を数例あげて、催眠が過去の記憶を甦らせる有効な手段だと考えるのは誤った思いこみであって、実際には事実からほど遠いことを証明しようとしています。

こうしてスティーヴンソンは、次のように痛烈な前世療法批判を展開しています。
「遺憾ながら催眠の専門家の中には、催眠を使えば誰でも前世の記憶を甦らせることができるし、それによる大きな治療効果が挙がるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいは、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている現状を、何とか終息させたいと考えている。(『前世を記憶する子どもたち』P7)

こうしたスティーヴンソンの批判の矛先が、ワイスやホイットンの前世療法に向けられているとは必ずしも言えないでしょうが、この批判がなされる同時期に、相次いで彼らの著作が公刊されていることも事実です。

前世記憶の真偽を研究するために、膨大な労力と綿密な検証作業を長年積み上げてきたスティーヴンソンにとって、催眠中に語られた前世の記憶を確かな科学的検証にかけないまま、症状改善を理由に、前世の存在を安易に認めてしまう前世療法家が、苦々しく思えることは当然でしょう。
ただし、彼は、催眠中に語られる前世の記憶をすべて無意味だとしているわけではありません。

催眠による事例の中には、彼自身の検証の結果、通常の方法では入手できない情報が少数ながら存在することも認めています。
スティーヴンソンはその後の著書『前世を記憶する子どもたち2』P106で、「私は、自らの手で調べた応答性真性異言の2例が催眠中に起こったという事実忘れることができない。このことから私は、催眠を使った研究をけっして非難することができなくなった」といくぶん持論を修正しています。

ところで、スティーヴンソン以外にも、催眠中に語られる前世の記憶は、脳の作り出したフィクションに過ぎない、とする唯物論的否定論者は少なくありません。

例えば、超常現象の否定論者として知られるロバート・A・ベイカーは、1982年のアメリカ臨床催眠学会機関誌に、自らおこなった前世療法実験の結果を発表しています。

それによれば、前世療法を褒め称(たた)えたうえで実施した被験者は、高い割合で前世記憶の想起をしたのに対し、逆に前世療法を否定し貶(けな)したうえで実施した被験者が、前世記憶を想起した割合は、非常に低かったと報告しています。

この結果から、ベイカーは前世療法による前世の記憶は事実などではなく、催眠者の誘導暗示によって作り出されたフィクションである可能性が高いと結論づけています。


(4) 日本のアカデミズムと前世療法

日本のアカデミックな催眠研究者にとっても、前世療法は目障りな存在のようです。

そもそも催眠というものは、世間では根強い偏見と誤解を持たれ続けてきたものです。
現在の科学体系に加わろうと科学としての催眠を必死に目指してきた催眠研究者にとって、前世療法は世間の偏見・誤解をいっそう助長する、けしからぬ存在と映るのも当然です。

こうした動向を示す一つのエピソードを紹介してみます。
私は、2004年、京都立命館大学で開かれた、日本催眠医学心理学会・日本教育催眠学会合同学会で、前世療法の特殊事例を研究発表しました。

なお、両学会を通じて、前世療法について発表したのは私が二人目で、過去に元田克己氏(元田教育・心理相談研究所長)が発表しているのみということでした。

私の発表分科会には、日本の心理学系催眠を代表する大学の研究者、医師、現場の教師など60名ほどが参加しています。

前世療法に対する大学研究者の象徴的意見が次の討議のやりとりに示されています。
A氏は国立大学所属の若手の催眠研究者です。

A氏 : 年齢退行催眠中に「生まれ変わり」などを先生(筆者)が言ったので、クライアントがそれに応える形で「生まれ変わり」などの言葉を出してきたのではないか。

稲垣 : そういうことは言っていない。子宮に宿る前の世界があるかどうかを確かめるために「あなたは時間や空間に関係のない世界に入っていく」という言い方の誘導 はした。

A氏 : あなたが、そういう世界に入るだろうと誘いをかけている。ということは、そういう世界にセラピストが誘導した結果、クライアントがセラピストの期待に応えるために「生まれ変わり」や「魂」を作話していく可能性がある。
前世療法には効果があるといって、何でもかんでもセラピストのほうから前世に引きずり込んでいくことには危惧を感じる。前世があくまでクライアントが出してきたものであれば、それに乗って面接を進めていくのはいい。
そうした過程をたどって、クライアントの前世の物語の決着がつくならば改善効果は大きいと思う。
だから、前世療法はナラティブセラピー(物語療法)の観点からみることもできる。
つまり、自分のそれまでの古い物語を作り替え、新しい自分へと脱皮していき、治癒していくという観点からの考え方もできる。
また、一般の人たちはの中には、催眠と言うと前世に行くのかと思っている人が多い。
だから、そうした催眠に対する期待や思い込みによって、自分の想像した前世に行ってしまうということも十分ありえる。

このA氏の意見は、語られる前世記憶の想起がセラピストの誘導とその期待に応えようとするクライアントの「作話」「前世の物語」「想像した前世」である可能性が濃厚であるという点で、前述したベイカーの出した結論と共通しています。

そして、この分科会討議は、前世記憶は論じるまでのないフィクションだという共通認識で終始しました。
私の事例発表以後、両学会で前世療法研究が発表されたことをいまだ耳にすることはありません。

前世療法は、科学としての催眠研究の対象には加わる資格のない催眠療法として日本のアカデミズムから白眼視ないし、無視されていると思われます。


(5) 前世記憶の実証放棄という現状

前世療法は、いまだ実証されていない「前世」を前提としているように見えるために、日本のアカデミズムからは正統的催眠療法とは認められていないように思われます。
一方で、日本の100を越える民間機関では現在も最も人気の高い催眠療法です。

そして、前世療法を白眼視していると思われるアカデミズムは当然としても、盛んに前世療法を実施している民間の前世療法士も、どういうわけか「前世記憶」の実証研究をまったく放棄しているという現状が続いています。

それでは海外においてはどうでしょうか。

ワイスの『前世療法』で述べられているキャサリンの事例で示された前世記憶の信憑性の裏付けは、キャサリンが絶対知るはずのない三つの情報を語ったことにあるようです。

一つはワイスの父親のヘブライ名であるアブロムを言い当てたこと、もう一つはワイスの娘の名が彼女の祖父にちなんで命名されたこと、さらに一つは、生後間もなく死んだワイスの息子の死因である心臓の先天的異常を言い当てたことでした(前掲書P56)。

このことをもってワイスはキャサリンの語った前世について、「私は事実を掌握したのだ。証拠を得たのだった」(前掲書P61)と結んで確信しています。

しかし、この三つの事実をもって前世の証拠を「確信」したとすれば、軽信の誹(そし)りを受けるのではないでしょうか。

ワイスは、イアン・スティーヴンソンの著作や、デューク大学のESP(超感覚的知覚。テレパシーや透視など)研究に関する資料にも目を通したと語っています(前掲書P39)。

であるならば、キャサリンが強力な超常能力(透視・テレパシーなど)を発揮して、ワイスの意識下から三つの情報を引き出したかもしれないというESP仮説によって説明できることをなぜ検討しなかったのでしょうか。

結局、ワイスの著作『前世療法』は、読み物としては興味深くても、学問的に信頼のおけるきちんとした検証の裏付けという観点からすれば、前世記憶の科学的実証への努力はほとんど何もおこなわれていないと言えるでしょう。

さらに同じく前世療法を扱ったホイットンの『輪廻転生』ではどうでしょうか。
ハロルドというクライアントがバイキングの前世に戻ったときに、ホイットンの求めに応じて書き記した22の語句を専門家が検証した結果、10語がバイキングの言語であったという記述(前掲書P211)については、前世存在の状況証拠として採用できるように思われます。

例えば、古ノルド語の、氷山・嵐・心臓・静かな天候、湾・容器などの単語、セルビア語の、おいしくない、堅い氷・流氷などの単語を書き綴ったとされていま す。

古ノルド語は、現在完全に死語となっている言語です。
しかも、同様の死語である古典ラテン語や古典ギリシア語のように現在も学ばれる機会のある言語ではなく、北欧の言語専門家のような特殊な研究者にしか理解不能な死語だそうです。

では、こうしたバイキングの用いた特殊な単語を書き綴ったというハロルドの事例は、前世記憶の存在を支持する強力な証拠として手放しで採用できるのでしょうか。

しかし、この事例についても、ハロルドというクライアントが強力なESP能力を発揮して、書物等から死語である単語の情報を入手した可能性を疑うことができるわけで、そうした検討がされないままで、「状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理屈のうえで輪廻を認めるのに特に問題はな い」(前掲書P7)と断定できるものではないと思われます。

ほかに催眠療法家の検証した前世記憶の検証としては、ブルース・ゴールドバーグ 『前世探検』(邦訳)による、アイビーというクライアントの語った「グレース・ドーズの事例」が挙げられます。
詳細な殺害状況を語った前世人格グレース・ ドーズの語り内容が、ことごとく60年前の新聞記事と警察の記録に一致したというものです。
ただし、このセッションは筆記録しかないものであり、しかも、 邦訳を見る限りグレースと殺人者であるジェイクという男の対話は創作とも受け取ることができる点で、科学的信憑性に疑問が残ります。

結局、ワイスの著作、ホイットンの著作、ブルースの著作にしても彼らの実施した前世療法の中で語られたクライアントの前世記憶の厳密な科学的検証という点において、検証が不十分なままに終わっていると言わざるをえないと思います。


(6) 再び前世記憶の実証放棄という現状

(5)で述べてきたように、海外においても前世療法家自身による「前世記憶」の厳密な科学的検証は、ほとんど放棄されているという現状は、日本とあまり大差がないように思われます。

こうした前世記憶の実証放棄の現状について、超心理学者である笠原敏雄氏は、ホームぺージ「心の研究室」で次のような前世療法批判を展開しています。
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ほとんどの前世療法家は、驚くべきことに、患者の発言を歴史的事実に照らし合わせる作業をまったくしていないようです。
仮に、患者の口から、歴史的に正しい事実が語られたとしても、それが「前世の記憶」なのか、それまで本などの情報から得たものなのかはもちろんわかりません。
ですから、そうした情報に基づいたものではないことを証明できない限り、「前世の記憶」とは言えないわけです。
しかし、ほとんどの前世療法家は、それ以前に、歴史的事実との照合すらしていないし、にもかかわらず前世の記憶だと断定してしまうのです。
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一方で、前世療法について私の知る唯一の学術論文の著者である相模女子大学石川勇一氏は、その論文『前世療法の臨床心理学的検証』(「トランスパーソナル心理学/ 精神医学Vol.5 No.1)の中で次のように主張しています。
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臨床家的視点に立つならば、果てなき真贋(しんがん)論争に全精力を注ぎ込むよりも、心や魂の現実としてのイメージについて精通し、その扱い方を洗練させる 方が、ずっと有益であるように思われる。・・・前世体験が客観であるか想像であるかは括弧にくくり、どちらの可能性も残しながら、イメージその ものを現象学的に扱っていくのである。
したがって、「前世療法」は正式には「前世イメージ療法」というべきなのである。
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前世を実証することは、個人はもちろん、社会すべてにとってきわめて重大な影響を及ぼす問題です。

そうしたやっかいな真偽の検証は「括弧にくくり」、「前世イメージ療法」として扱っておくことが有益で生産的だという石川氏のような主張が、あれこれ真偽の詮索をすることより、治ればOK、とする大方の前世療法臨床家の立場を代弁し、前世記憶の科学的検証を放棄する論拠になっているのではないでしょうか。

こうして、前世記憶の科学的な検証放棄という現状が現在もなお続いていると考えられます。

前世療法の否定・批判を受けて立つ最善の策は、語られた前世記憶の科学的検証しかないと考えるのは私だけでしょうか。

 検証のされない凡百の前世記憶の羅列より、前世の実在に肉薄するたった一つの検証事例こそが、前世療法の存在意義を主張できる、と私は思います。

2016年5月12日木曜日

スティーヴンソンの生まれ変わりの見解とSAM催眠学

   SAM催眠学序説 その90

私の研究の方法論は、イアン・スティーヴンソンの諸著作から学んだことをモデルとしています。
彼は、自らの手で集めている生まれ変わりを示す証拠が、自ら事実を物語るはずだ、と繰り返し述べています。

また、生まれ変わりという考え方は、最後に受け入れるべき解釈なので、これに替わりうる説明がすべて棄却できた後に、初めて採用すべきである、という研究方法を一貫して採用しています。

拙著、『前世療法の探究』、『生まれ変わりが科学的に証明された!』のタエ・ラタラジューの両事例の諸検証は、スティーヴンソンの科学的検証方法を忠実にたどっておこなったつもりです。

私が死の恐怖について、きわめて臆病な人間であったことは、このブログでも述べてきました。
しかし、死の恐怖から免れるために、宗教(信仰)に救いを求めることは、生来の気質からできなかったことも正直に述べました。
こうした私だからこそ、イアン・スティーヴンソンの「生まれ変わりの科学的研究」に強く惹かれるものを感じてきました。

彼こそ、生まれ変わりという宗教的信仰を、科学的探究の対象へととらえ直し、変貌させることに成功した先駆的科学者であると評価できると思うからです。

そこで、ここでは、彼の生まれ変わりについての見解がもっとも濃厚に述べられている『前世を記憶する子どもたち』日本共文社,1989から、その見解を紹介し、私のSAM催眠学の立場と比較してみたいと思います。
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生まれ変わったと推定される者では、先述のイメージ記憶、行動的記憶、身体的痕跡という三通りの要素が不思議にも結びついており、前世と現世の間でもそれが一体になっていなかったとは、私には想像すらできない。
このことからすると、この要素(ないしその表象)は、ある中間的媒体に従属しているらしいことがわかる。
この中間的媒体が持っている他の要素については、おそらくまだ何もわかっていない。

前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォア)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。
 私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う。(中略)
私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。
そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。
実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。
人格は、一人の人間がいずれの時点でも持っている、外部から観察される心理的特性をすべて包含しているのに対して、個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去 世の残渣が加わる。
したがって、私たちの個性には、人格としては決して表出することのないものや、異常な状況以外では人間の意識に昇らないものが数多く含 まれているのである。

前掲書PP.359-360
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上記のスティーヴンソンの見解とSAM催眠学の「魂の二層構造仮説」の見解とを比較してみると、ほぼ整合するところが指摘できます。

彼の言う「中間的媒体」、「心搬体(サイコフォア)」は、私の「魂」概念と同義です。
おそらくスティーヴンソンはSoulという語にまとわりつく宗教臭を嫌ったのだと思われます。

私は、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体」を、そのまま従来の「魂」の概念でも不都合はないと思いますし、新しい概念でもないのに「心搬体」などの新しい用語を用いることは不要だと思っています。

また、彼の、「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う」という見解は、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化(変化)する仕組みになっている」という仮説を支持するものと言えそうです。
ただし、彼は、「心搬体(魂)」を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない、と述べています。

私は、私あて霊信によって、「魂(の表層)を構成する要素がどのような配列になっているのか」を教えられ、催眠を道具にその真偽の検証によって、魂表層を構成する一つの要 素である、前世の人格たちを呼び出すことに成功したと思っています。
そして、ラタラジューの事例によって、前世人格ラタラジューは、魂表層で、肉体はなく とも生きて活動していることを実証できたと思っています。

つまり、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人 格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化する仕組みになっている」というのが、私の見解です。
つまり、「心搬体」= 「魂」の表層全体は、生まれ変わりをするたびに、表層の前世人格が増え、その人生で得た智恵が加わり、表層全体が変化していくものだということを、顕現化した前世人格の語りから確認しています。

さらに、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しない」、というスティーヴンソンの見解は、そっくり私の見解と同様です。

現世の私という一つの人格が、来世にそのままそっくり生まれ変わるわけではなく、魂表層を構成する諸人格の一つとして生き続けるのであって、生まれ変わるのは「表層の前世諸人格を含めた一つの魂全体」だというのが、SAM催眠学の明らかにしてきた生まれ変わりの実相だと言えます。

また、「実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる」というスティーヴンソンの考え方も、私の見解にほぼ一致します。

現世の個性は、魂表層の前世諸人格たちから人生の知恵を分かち与えられることによっており、このようにして繰り返された前世の諸人格に由来する「個性」と、両親からの遺伝的資質と、現世での諸体験とによって、形成されているに違いないのです。

さて、私が、故スティーヴンソンに求めたのは、前世の記憶を語る子どもたちの「記憶」の所在についての考究でした。
彼が、「前世の記憶」が脳にだけあるとは考えていないことは、「心搬体」という死後存続する「媒体」を想定していたことに照らせば、間違いありません。

私の期待したのは、その心搬体と脳との関係についてのスティーヴンソンの考究です。
前世の記憶を語ったとされる子どもたちは、その前世記憶を、心搬体からの情報として話したのか、脳から得て話したのか、いずれなのでしょうか。

私の大胆な仮説を述べてみますと、すべての事例がそうではないにしても、子どもの魂表層に存在する前世人格が、顕現化(自己内憑依)し、子どもの口を通して、前世人格みずからが自分の人生を語った可能性があるのではなかろうか、ということになります。

それは、その前世を語った子どもの12事例のうち、8つの事例で、次のように話し始めた(ふるまった)とスティーヴンソンが紹介しているからです。

①ゴールパールは、「そんなものは持たない。ぼくはシャルマだ」と答え、周囲を仰天させた。(前掲書P94)

②コーリスが1歳1ヶ月になったばかりの頃、母親が名前を復唱させようとしたところ、コーリスは腹立たしげに、「ぼくが誰か知ってるよね。カーコディだよ」と言った。(前掲書P98)

③日本に帰りたいという願望をよく口にし、ホームシックから膝を抱いてめそめそ泣くこともあった。また、自分の前で英米人の話が出ると、英米人に対する怒りの気持ちを露わにした。(前掲書P101)

④シャムリニーは、その町に住んでいた時代の両親の名前を挙げ、ガルトウダワのお母さんのことをよく話した。また、姉妹のことやふたりの同級生のことも語っている。(前掲書P104)

⑤ボンクチはチャムラットを殺害した犯人は許せないという態度を示し、機会があると復讐してやる、と何年か言い続けた。(前掲書P116)

⑥おまえの名前は「サムエル」だと教えようとしても、サムエルはほとんど従おうとしなかった。「ぼくはペルティだ」と言ってきかなかったのである。(前掲書P121)

⑦前世の話をもっとも頻繁にしていた頃のロバータは、時折前世の両親や自宅の記憶を全面的に残している子どもが養女にきているみたいにふるまった。(前掲書P126)

⑧3歳の頃マイクルは、全く知らないはずの人たちや出来事を知っているらしい兆候を見せ始めた。そしてある日、「キャロル・ミラー」という名前を口にして、母親を驚かせたのである。(前掲書P141)

以上のような事例の事実は、「子どもが前世の記憶を話した」というよりは、「前世人格が現れて人生の出来事を話した」と、現象学的にありのままに受け取ることのほうが、より自然だと私には思われるのです。

ス ティーヴンソンは、応答型真性異言の「グレートフェンの事例」において、ドイツ人少女グレートフェンを顕現化した「トランス人格(前世人格)」として解釈しています。

前世を語った子どもにおいても、前世人格の顕現化の可能性をなぜ検討しなかったのか、私には不満が残ります。
「前世の記憶」だという思い込みがあるよう に思われてなりません。

とりわけ、上記③⑤⑦などの事例は、「前世人格の顕現化」として解釈するのが自然だろうと思います。

現世の生活歴がわずかしかなく、現世の諸体験による夾雑物の少ない3歳から5歳の子どもでは、魂表層の前世諸人格のうち、より現世に近い新しい前世人格が、条件や状況に応じて自動的に顕現化することが起こりやすくなっているのではないか、と私は考えます。

成長するにしたがって現世の諸体験によるさまざまな夾雑物の増加が、子どもに起こるような自動的な前世人格の顕現化を妨げるようになると考えられます。

成人においては、そうした現世の諸体験による夾雑物からのとらわれから開放される深い催眠状態(魂状態の自覚)に至ると、前世人格の顕現化が可能になるのだ、という理解のしかたは一理あるだろうと思われます。

スティーヴンソンが存命していれば、こうした私の見解についてどう評価するか問うてみたいものです。

2016年4月30日土曜日

ウィリストンの前世療法五つのレベルとSAM前世療法

    SAM催眠学序説 その89

ウィリストンは、『生きる意味の探究』徳間書店、1999の中で、退行催眠(前世場面への遡行)のレベルを5つに設定して示しています。

そのことを「クライアントがどの程度場面に入り込んでいるか、退行体験の現実味をどの程度主観的に評価しているかによって決定した」(同書P293)」と述べています。

以下にそのレベルの概要と、それへ達する割合を紹介します。(前掲書PP294ー302)
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レベル1
 退行のもっとも浅いレベル。通常イメージはぼんやりしている。特定の何かを実際に見た、と感じる人はあまりいない。約25%の人がこのレベルに留まる。

レベル2 誰か過去生の特定人物の肉体に気持ちが入り込むことはなく、実体のないとらえどころのない存在として「その場面を漂っているような感じ」がするのが普通である。約75%の人がこのレベルに到達する。

レベル3 このレベルの経験は「映画を見ているような感じ」だと言える。しかし、登場人物になりきるのではなく、その場面で繰り広げられるアクションを、客観的に眺めているだけである。約50%がこのレベルに到達する。

レベル4 目前の状況に関与しており、傍観者というよりも、場面に参加している当人になりきっている。約30%の人がこのレベルに到達する。

レベル5 完全に場面に引き込まれ、現実味あふれる体験をする。方言、アクセント、珍しい言い回しなどがはっきり現れる。外国語を話し始めることもある。過去生での自分の感情が完全によみがえり、過去の自分の心で、すべてのことを考えるようになる。約10%がこのレベルに到達する。 
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ウィ リストンもブライアン・ワイスも、「前世記憶の場面」へアクセスすることを前提としており、その催眠誘導の技法は、「トンネルの向こうには、過去生の場面が開けてい ます」と暗示する(前掲書P314)としているので、「階段を下りるとドアがあり、ドアの向こうの時間も空間も超越した次元に入ります」といったブライア ン・ワイスの退行誘導の技法との本質的な差異はない、と判断しても差し支えないと思われます。

トンネルにしろ、ドアにしろ、そうした現世と前世を隔てる「イメージとしての関門」を通過させ、前世記憶の特定場面にアクセスさせようとする誘導技法であるからです。
こうした誘導技法によって、前世記憶にアクセスする前世療法(退行催眠法)を、私は「ワイス式」と呼んでいます。

さて、ワイスはウィリストンのように、退行催眠のレベルやその到達度を述べていないようですが、1990年のあるインタビューでは、過去生まで行けるケースは被験者の3~5%(ブライアン・ワイス/山川夫妻『前世療法』PHP、P268)だと語ったとされています。
この3~5%の数字は、ウィリストンのいうレベル5に到達できた数字に該当するであろうと思われます。

こうした数字は、私の「SAM前世療法」臨床体験からすると、低すぎる、あるいは低く見積もっているのではないかと感じられます。
ただし、ワイス式とは、前提仮説も誘導技法も、まったく異なる「SAM前世療法」とを比較することは、そもそも無理があるかもしれません。

さ て、私のおこなうSAM前世療法では、誘導の最終プロセスである「魂遡行催眠」によって魂状態の自覚に至るまで催眠深度を深めます。
「魂状態遡行催眠」の誘導に入る前段階で、催眠学の先行研究である「標準催眠尺度」を用いて「運動催眠レベル(浅い深度)」、「知覚催眠レベル(中程度の深度)」のそれぞれの催眠現象が認められるかどうかの客観的測定をおこない、クライアントが確実にそれぞれの催眠深度に到達していることを確認し、さらに次の深い催眠レベルに誘導するという手続きを踏んでいます。


なぜなら、クライアントが今、どの程度の催眠深度レベルに到達しているか、の客観的判断は、標準的な何らかの尺度(物差し)によって確認しないかぎり、クライアントはもちろんのこと、セラピストにも判断できないからです。
催眠状態中と推測できる場合の脳波を調べても、瞑想状態やまどろみ状態と同様のアルファ波優勢の脳波が確認できますが、催眠状態特有の脳波は確認できないことが分かっています。
現時点で、催眠状態の深度レベルを科学機器で測定することはできません。

ちなみに「標準催眠尺度」とは、もっとも現れやすい催眠現象から、もっとも現れにくい催眠現象までを、22段階の難易度として設定し、催眠暗示によってそれぞれの尺度の催眠現象実現の有無を観察し、催眠の深度を客観的に測定するための尺度(物差し)のことです。
スタンフォード大学で研究開発され、日本では成瀬悟策医博が標準化しています。
標準催眠尺度によって測定される催眠現象について、浅い深度から順に「運動催眠」→「知覚催眠」→「記憶催眠」→「夢遊催眠」のように呼ばれています。

理由は不明ですが、ワイス式前世療法では、誘導プロセスに催眠の深度を客観的に確認する手続きがありません。
前世療法実践者として、私がもっとも知りたく思うことは、前掲ウィリストンの示すレベル1~5のクライアントのそれぞれが、「標準催眠尺度」のどのレベルであるのか、の測定結果です。
クライアント自身の「主観的評価」の5段階レベルが、前世療法の成否を判断するもっとも重要な尺度であることはもちろんですが、クライアントの各主観的レベルと、セラピスト側の「標準催眠尺度」による客観的催眠深度測定との照合があれば、臨床的にさらに有効な参考データとなるに違いないのです。

さて、もっとも深い深度であると推測できる「魂状態遡行」によって魂状態の自覚に至れば、「前世人格」を顕現化させることが可能になり ます。
ただし、「魂状態の自覚」という尺度は、標準催眠尺度にはありません。
第2段階深度の「知覚催眠」以上の催眠深度に至っていることは確実です。
「知覚催眠」をクリアできない場合には、「魂状態の自覚」に至ることができないことが確認できているからです。

こうして顕現化した前世人格は、自分の生まれ変わりである現世のクライアントの肉体を借りて(自己内憑依して)激しく泣いたり、怯えの感情をあらわにしたり、まさに、ただ今、ここに、意識体として顕現化している、としか思えない意識現象をあらわします。
ウィリストンの退行レベル5のような様相を示します。

しかし、「前世場面に引き込まれる」のでなく、「前世人格そのものが顕現化している」という前提ですから、レベル5の様相を示すことは当然と言えば当然でしょう。

そして、前世人格の顕現化する割合は、直近100事例で91%です。
9%は魂状態まで遡行できても、前世人格の顕現化が起こりません。
SAM前世療法における催眠状態深化レベルは、魂状態の自覚まで遡行できるか、できないか、の二者択一であり、顕現化した前世人格の様相は、ウィリストンの退行レベル5に相当していると言っても過言ではありません。

ただし、前世人格のうち口頭で答えられる割合は約20%未満であり、5人のうち4人までの前世人格は、私の質問に対して指を立てたり頷いたりすることでしか回答できないと言います。

こうした前世人格に、口頭で答えることがなぜできないかを尋ねると、肉体を離れて時間が経っているので、現世のクライアントの脳に命じても発声器官を操作することが難しくなっている、指や頷くといった簡単な操作ならできる、と回答します。
そして、現時点でほぼ間違いなく判断できていることは、クライアントに霊媒資質がある場合には、前世人格の口頭での対話が可能であるということです。
さらに、里沙さんの守護霊の告げるところによれば、そうした霊媒資質のきわめてすぐれている場合にかぎり、「応答型真性異言」現象をあらわすことが可能であるらしい、ということです。

顕現化した「タエ人格」も「ラタラジュー人格」も、すぐれた霊媒資質を有する被験者里沙さんであったので、彼女の発声器官を用いることができたということです。

ワイス式前世療法では、前世の記憶を口頭で答えることができない、といった事例はないようです。
クライアント自身が前世の記憶を語る、という前提ですから、これは当然のことなのでしょう。

SAM前世療法は2008年に私が創始した療法であり、先行研究がまったくありません。

さらに事例の累積を積んで検証をしていく必要があります。
前世人格の口頭回答率が20%未満でしかない理由も、さらに検証を重ねていくなかで明らかになっていくものと思っています。

2016年4月17日日曜日

グレン・ウィリストンの「前世記憶」の概念

   SAM催眠学序説 その88

前世療法と生まれ変わりに興味のある方は、グレン・ウィリストン/飯田史彦編集『生きる意味の探究』徳間書店、1999を読んでおいでだろうと思います。

最近この『生きる意味の探究』を読み直し、ウィリストンほどの前世療法家がなぜ?と思うことがしきりです。
その「なぜ?」の部分を前掲書から4点取り出してみます。
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①ある人物が、催眠状態で、過去に生きていた人物になりきり、異なる抑揚や調子で話し始め(前掲書P23)

②彼女は過去生へと戻っていたのだ。彼女の名前は、もはやジャネットではなくメアリーだった・・・私の耳に聞こえる声は、東部訛りの成人女性の声から、ソフトな響きの英国少女の声に変わっていた。(前掲書P26)

③ 退行催眠中に、まったく別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながら、その話の中に割り込むことができなかった。
このような「意識の分割」は、 過去生の退行中に必ずと言っていいほど見られる非常に面白い現象である。
私はのちに、多くの人々からこの現象を何度も観察するようになった(前掲書P61)

④過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて、催眠中にけげんなそうな表情を浮かべる(前掲書P121)
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上記i引用部分の①と②を読む限り、ウィリストンは、セッション中のクライアントの語りをあくまで「前世記憶の想起」であるととらえていると思われます。
それは「過去に生きていた人物になりきり」や、「過去生へと戻っていたのだ」というウィリストンの記述から明らかなように思われるからです。

どこまでもクライアント自身の想起する「前世の記憶」だととらえているのです。
しかし、③では、「別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながら、その話の中に割り込むことができなかった」というクライアントの「意識の分割」状態を述べています。

また、④ではウィリストンが「過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて、催眠中にけげんなそうな表情を浮かべる」という奇妙な現象を述べています。

私が疑問に思うのは、③④の意識現象をきちんととらえているにもかかわらず、なぜ相変わらず「前世記憶の想起」という解釈にこだわり続けるのか、という点です。

③のように、「別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じ」るのであれば、前世の記憶の想起ではなく、前世の人格が顕現化してクライアントの身体を通して自己表現しているのだ、と現象学的にありのままに解釈するべきでしょう。

②「東部訛りの成人女性の声から、ソフトな響きの英国少女の声に変わっていた」というクライアントの声の変質状態を観察しながら、英国少女の前世人格が、ただいま、ここに、顕現化して語っているのだと、なぜ考えないのでしょうか。

ま た、④のように、「過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて・・・けげんそうな表情を浮かべる」ことを、ありのままに 解釈すれば、「けげんそうな表情」を浮かべる主体は、クライアントではなく、それとは別個の顕現化している「過去生の人格」が、驚いてけげんそうな表情を浮かべるのだ、と考えるべきでしょう。

これまで、「何千人もの人々と」(前掲書P23)前世療法をおこなってきたウィルストン が、ついに、「前世人格の顕現化現象」という仮説に立つことをできなかったのか、私には不思議でなりません。

お そらく、「あなたは、トンネルを抜け、過去の場面に到達するでしょう」、「目の前に展開している過去の場面を見ていきます」(前掲書P316)などの誘導法に、 最初から含意されている「前世の記憶場面を想起する」という常識的、唯物論的先入観の大前提から、ワイスと同様、ついに脱することができなかったからだ、と私には思われます。

そして、不可解なことは、「生まれ変わりの真実性は証明不要なほど確かな事実だ」(前掲書P96)と断言しているにもかかわらず、管見するかぎり、ウィルストンが前世記憶の科学的検証をし、生まれ変わりの確かな事実を証明したようには思われません。
また、「前世の記憶」がどこに存在しているのかについて、一切言及していないことです。

このことは、ブライアン・ワイスも同様です。
まさか前世の記憶が、死後無に帰する脳内に存在しているとは考えられないでしょうに。
仮に「前世の記憶」が事実だとして、彼らはその記憶はどこに保存されていると考えているのでしょうか?

私 の知る限り、前世療法中のクライアントの語りを検証し、「クライアントとは別の前世人格が顕現化してクライアントの身体(脳)を通して自己表現しているのだ」と いう解釈をしているのは、応答型真性異言を発見したイアン・スティーヴンソンだけです。

彼は、「トランス人格(催眠性トランス状態で現れる前世の人格)」 が顕現化して、応答型真性現現象を起こしていると表現しています。
応答型真性異言を語るセッションを見学して、さすがに脳内の「前世の記憶」として語っている、という解釈の不自然さ、不合理さに気づかずにはいられなかったのでしょう。
しかし、スティーヴンソンも、「トランス人格」の存在する場については言及していません。

そして私は、顕現化する前世人格の存在の場は、「魂の表層」であり、しかも、今も当時のままの感情や記憶を保つ意識体として死後存続している、という作業仮説を立てています。

したがって、セッション中に私が対話する相手は、クライアント自身ではなく、クライアントの魂の表層から顕現化した前世人格であり、しかも現在進行形で対話している、と理解しています。
こうした現象は、現世のクライアントの魂表層に存在する前世人格が、クライアントに憑依して私と対話している、ということになります。
このような憑依現象は、これまで報告されたことがなく、したがって用語もありません。
SAM催眠学では、この憑依現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしています。
つまり、前世人格の顕現化現象は、自己内憑依現象である、という解釈をしているということです。

こうした作業仮説と観察される意識現象の解釈に、たしかな自信を与えたのが、応答型真性異言「ラタラジューの事例」と「タエの事例」の検証と考察によって、生まれ変わりの実証に肉薄できたことでした。
ただし、SAM前世療法の諸仮説を私に教示したのは、私の守護霊団を名乗る霊的存在であるという、これまた唯物論者が目を剥いて否定するであろう霊信という超常現象です。

このように、唯物論に真っ向から対立する途方もない前提と仮説に立っておこなうSAM前世療法は、世界唯一の前世療法であり、純国産唯一の前世療法だと自負しています。
そしてまた、「前世人格の実在」、つまり「生まれ変わりの実在」の実証性に、かぎりなく肉薄できるように定式化された世界唯一の前世療法である、という誇りがあります。

特許庁は、SAM前世療法の名称とそれの意味する内容、つまり仮説の独自性とそれに基づく技法の独自性を審査し、今までまで流通してきた普通名詞の「前世療法」とは明らかに別個の、固有の仮説とそれに基づく固有の誘導技法を有する前世療法として、「SAM前世療法」の名称を、第44類の商標登録としてを認めてくれたのです。
ちなみに、「SAM]とは、「Soul Approach Method」の略であり、「魂状態に遡行し前世人格を呼び出す方法」を意味しています。

2016年4月8日金曜日

ワイスの「前世の記憶」という概念

   SAM催眠学序説 その87

ワイスが前世療法を始めたのはまったくの偶然だったようです。
彼の『前世療法』山川夫妻訳、PHP、1991によれば次のようにその消息が語られています。

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「あなたの症状の原因となった時まで戻りなさい」
そのあと起こったことに対して、私はまったく心の用意ができていなかった。
「アロンダ・・・・私は18歳です。建物の前に市場が見えます。
かごがあります。
かごを肩に乗せて運んでいます。・・・・(後略)時代は紀元前1863年です。・・・・」
彼女はさらに、地形について話した。
私は彼女に何年か先に進むように指示し、見えるものについて話すように、と言った。      (前掲書PP25-26)
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上記セッション記録のクライアントは、コントロール不能の不安に悩む28歳の女性キャサリン。
そして、突如、キャサリンは紀元前19世紀のアロンダと名乗る18歳の娘であったときの前世記憶を語りはじめたというわけです。

注意すべきは、上記の「私は彼女に何年か先に進むように指示し」とは文脈からして「彼女」とは「前世人格アロンダ」ではなく、クライアントのキャサリンに対して指示していることです。
ワイスは、明らかにクライアントのキャサリンが前世記憶として、紀元前19世紀に生きたアロンダのことを語っている、ととらえています。
しかし、アロンダの語りをありのままに受け取れば、「前世人格アロンダ」が顕現化したとらえるべきではないでしょうか。

ワイスの思考は、この現象を次のようにとらえています。
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そして、キャサリンは紀元前1863年にいた若い女性、アロンダになった。
それとも、アロンダがキャサリンになったというべきなのだろうか?(前掲書P36)
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上記の「キャサリンが・・・アロンダになった」、「アロンダがキャサリンになった」というワイスの思考法は私には理解不能な奇妙な考え方に写ります。

キャサリンが前世のアロンダになれるはずがないでしょうし、逆にアロンダが現世のキャサリンになれるはずもないからです。
「キャサリンがアロンダであったときの前世記憶を語った」のか、「前世のアロンダがキャサリンの口を介して自分の人生を語った」のか、と考えることが通常の思考だろうと思われます。

結局、ワイスは、「前世人格のアロンダが自分の生まれ変わりである現世のキャサリンの口を介して自分の人生を語っているのだ」という素直な解釈をとらず、「現世のキャサリンが前世でアロンダであったときの前世の記憶を語ったのだ」という解釈を、以後の他のクライアントにおこなった前世療法の語りにおいても一貫して適用しています。

そのことはこの本の末尾で次のように述べていることか ら明らかです。

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こうした人々は、それ以外の前世についても思い出した
そして過去生を思い出すごとに、症状が消えていった。
全員が今では、自分は過去にも生きていて、これからもまた生まれてくると固く信じている。
(前掲書P264)
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「前世についても思い出した」、「過去生を思い出すごとに」の文言で明らかなように、ワイスにとっては、前世療法におけるクライアントの語りは、「クライアントが前世の記憶を語るのだ」という解釈が一貫してとられているということです。

「前世人格が顕現化し現世のクライアントの口を通して語る」とはどうしても考えることがなかったのです。
著名な前世療法家グレン・ウィリストンと同じく、ワイスもついに「前世人格の顕現化」というとらえ方ができずにいることは、私よりはるかに数多い前世療法セッションをこなしているはずなのになぜでしょうか?

私がワイス式と呼んでいる、ワイスの前世療法の誘導文言が、『前世療法2』の巻末に次のように書かれています。
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階段の下の方には、向こうにまばゆい光が輝いている出口があります。
あなたは完全にリラックスして、とても平和に感じています。
出口の方に歩いてゆきましょう。
もう、あなたの心は時間と空間から完全に自由です。
そして、今まで自分に起こったすべてのことを思い出すことができます」
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やはり、ワイス式においては、クライアントは前世の記憶を「思い出す」のです。

ちなみに、前世療法家グレン・ウィリストンは以下のように誘導するようです。
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 暗いトンネルをふわふわと心地よい気分で通り抜けていく状態をイメージしてもらうと効果的である。
「トンネルの向こうには、過去生の場面が開けています」と声をかける。
そうすれば、クライアントは、その場面に入り込んで登場人物のひとりとなる前に、その場面に意識を集中する余裕をもつことができるからだ。
(グレン・ウィリストン/飯田史彦『生きる意味の探究』徳間書店,1999,P314)
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ウィリストンも、記憶の中にある過去生の場面に戻り、登場人物になりきる(登場人物になったつもりで役割演技する)、ととらえているわけで、やはり、「前世の記憶を想起する」という前提に立っていると考えて差し支えないでしょう。

誤解を恐れず言えば、ワイスもウィリストンも「生まれ変わり」と「魂」の存在を信じているらしいにもかかわらず、「脳内にあるであろう前世の記憶を想起させる」という唯物論思考へのとらわれから完全に抜け出すことができなかったのだ、と私には思われます。
無条件で、「前世の記憶」と言った場合、その記憶の所在は脳内である、と考えていることになります。
脳内の記憶は、死とともに無に帰することは言うまでもないことです。
したがって、現世の記憶が来世に持ち越されることはありえません。
当然の論理的帰結として、前世の記憶として語られた内容は、すべてフィクションであることになります。
私が2004年に日本催眠医学心理学会おいて、ワイス式前世療法の事例発表した際に、参会者の医師・大学の研究者から批判されたのは、まさにこの前世の記憶の真偽についてでした。
催眠中のクライアントが、無意識のうちにセラピストの要求に協力しようとする「要求特性」によるフィクションの語りこそ「前世の記憶」の正体なのだという批判でした。
 あとで述べるイアン・スティーヴンソンの前世療法に対する厳しい批判も同様です。

脳内の前世の記憶が、フィクションではなく確かに存在する、ことを証明するためには、語られた前世の記憶の真偽を、徹底的に検証する必要があります。
しかし、ワイス式前世療法実践者で、科学的手法で真偽の検証をおこなった事例は、私の管見するかぎり公刊されてはいないようです。

生まれ変わりの科学的研究者イアン・スティーヴンソンは、こうした状況について下記のように前世療法批判を展開しています。
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こうした(催眠によって起こる) 集中力をさらに高めていく中で被術者は、思考の主導権を施術者に委ねてしまうため、施術者の催眠暗示に抵抗できにくくなってくる。催眠暗示により施術者に何か想い出すように命じられた被術者は、それほど正確に想起できない場合、施術者を喜ばせる目的で、不正確な発言をおこなうことも少なくない。それでいながら大半の被術者は、自分が語っている 内容に事実と虚偽が入り混っていることに気づかないのである。(中略)

前世の記憶らしきものをはじめからある程度持っている者に催眠をかければ、細かい事実を他にも想い出すのではないか、とお考えになる方もおられるかもしれない。私自身もそのように考えたため、自然に浮かび上がった前世の記憶らしきものを持つ者に催眠をかけたことがある。(中略)
私はこのような実験を13件自らおこなったり指導したりしている。一部では私自身が施術をおこなったが、それ以外の実験で他の施術者に実験を依頼した。その結果、ただの一件も成功しなかった。 (『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP72-80)
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スティーヴンソンは催眠への造詣が深いようですし、彼自身も催眠技能があると言っています。
その彼の前世療法批判の結論は次のように痛烈です。

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 催眠を使えば誰でも前世の記憶を蘇らせることができるし、それにより大きな治療効果があがるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいはそれに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者がいるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている現状を、なんとか終息させたいと考えている。(前掲書P7)
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こうした手厳しい批判に対抗するための唯一の方法は、ワイス式によって語られた前世記憶の真偽を検証し、それが真であることを実証すること以外にありません。
そうした真偽の検証がないままに、「前世の記憶」だと主張することを批判されても当然だと思われます。


結局は、唯物論的固定観念である「前世記憶」という思い込みによって、「前世人格が顕現化して対話しているのだ」という発想の転換ができなかったのでしょう。

また、ワイス、ウィリストン両者とも、「ラタラジューの事例」のような応答型真性異言に出会っていなかったことも、発想の転換を妨げたと思われます。
なぜなら、応答型真性異言「グレートヒェンの事例」に立ち会った、生まれ変わりの科学的研究者イアン・スティーヴンソンは、真性異言で応答的会話をしているのは被験者自身ではなく、顕現化している「トランス人格」であると解釈しているからです。(『前世の言葉を話す人々』春秋社、P11)

日本で公刊されている生まれ変わり関係、前世療法関係の著作を調べた限りでは、催眠中に「トランス人格」が顕現化して会話した、という解釈を示しているのはスティーヴンソンだけです。
しかし、スティーヴンソンは「トランス人格」が、どこに存在しているかについては何も語ってはいません。
ただし、彼は、「前世から来世へと人格の心的要素を運搬する媒体を『心搬体(サイコフォア)』 と呼ぶことにしたらどうかと思う」(『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、P359)と述べていますから、「心搬体」、つまり「魂」と呼ぶ意識体にトランス人格が宿っていると考えていたと推測できそうです。


いずれにせよ、催眠下のトランス状態で「前世人格」が顕現化して会話しているという主張をしたのは、私以前には世界中でスティーヴンソンだけでしょう。
同様の主張をしているのは21世紀になってからは私だけのはずです。

ワイスが「キャサリンの事例」に出会ったのは1980年代の半ばころだと思われます。
私が、「ラタラジューの事例」に出会ったのは2009年です。

前世療法が流布し市民権を得て、30年程度の間、催眠中に語られる内容は「脳内に存在する前世の記憶」だとして扱われ続けてきた概念を、私は、魂の表層に存在している前世人格の顕現化」だと主張するに至りました。


この主張は、私あて霊信が告げた作業仮説に基づくSAM前世療法によってあらわれた応答型真性異言「ラタラジューの事例」という実証があってこそのことです。

きわめて深い催眠下では魂の表層に存在している前世人格の顕現化」が可能になる、という唯物論に真っ向から対立する途轍もなく奇怪な主張は、素直に受け入れがたいでしょうが、この主張を裏付ける応答型真性異言「ラタラジューの事例」の証拠映像が実証している以上、事実として認めるほかありません。
超ESP仮説を考慮しなければ、前世存在の証拠に「タエの事例」も含めることができるでしょう。
そして、両事例について、唯物論による反証を挙げることが不可能です。

深い催眠下では魂の表層に存在している前世人格の顕現化が可能になる」という意識現象の事実は、SAM催眠学の発見してきた成果の一つです。

2016年3月24日木曜日

霊界の計画とSAM催眠学

  SAM催眠学序説 その86

この奇妙なタイトルは、スピリチュアリズムで話題にのぼるテーマ、および信頼に足るスピリチュアリストの私へのコメント、この10年間にわたるセッション中にたびたび憑依したとおぼしき高級霊からのメッセージ、私あて霊信などを重ね合わせて、一つの仮説かもしれないと思っていることです。

私が2006年以後、スピリチュアリズムの文献に親しむようになって、そこから感じている大きなポイントは、霊魂の実在、つまり「生まれ変わり」の問題でした。
「生まれ変わり」を認めるか、認めないかという問題は、霊魂の存在を認めるかどうかという問題に直結しているわけで、様々な現代思想との関連において、個人の人生観、世界観において決定的な意味を持つと言わざるをえません。
生まれ変わりということが客観的に存在すると証明できるかどうか、これはそのまま霊魂の存在を証明することに直結しています。

霊魂の世界というものは、現代の科学的認識のうえで徹底的に否定され排除されてきました。
私自身も、成長の過程で、学校教育をはじめとして様々な教育の機会で、霊魂観の排除をおこなってきました。
それが知的であり合理的であって、正しいのだと思い込んできました。
したがって、世界というものは唯物論で全部説明できる、解明できるはずだと確信してきました。

そうした確信を根底から揺さぶる事例が「タエの事例」であり、唯物論世界をひっくり返した事例が「ラタラジューの事例」との遭遇でした。
 唯物論で全部説明できたつもりであっても、それが一つのフィクションであり、自分はごまかしの理論体系をつくって自己満足しているのではないか。
もし、そういう誤った人生観、世界観で一生を終えるとしたら、大変なことになる、これは唯物論について根本的に考え直すべきだろうと思ったわけです。
そして、私の能力の守備範囲でできることは、催眠を用いた「生まれ変わりと霊魂存在の証明」であろうと考え至ったというわけです。


さて、2005年の「タエの事例」以後10年間の私が体験してきた経緯が、霊界側による計画によって、ある流れが仕組まれていたとしたら、どのような解釈ができるでしょうか。

近代スピリチュアリズムのはじまりは、1848年にアメリカで起きたハイズビル事件だとされる。
同年にマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』が出され、近代世界はいよいよ唯物論の大きなうねりに染められていく。
こうした唯物論の思潮に対抗して、霊の実在、霊界との通信、生まれ変わりの実在、ひいては神の実在など霊的真理、霊の復権を地上に知らしめるための霊界側の計画のはじまりが、霊の実在、霊との交信を証明しようとさせたハイズビル事件だと言われている。

ハイズビル事件をはじまりに、19世紀後半から20世紀初頭に全米で霊能者を囲んで死者の霊を呼び出す「交霊会」が大流行し、それはヨーロッパにも波及し、霊界や霊との交信が信憑性のある事実であることを多くの人が信じるようになる。
ノーベル賞級の科学者たちによる心霊現象の科学的研究組織SPR(サイキカル・リサーチ)が発足するのもこうした流れの一つである。
超心理学はSPRを母体として発展してきた。
一方交霊会の流行と同時に、すぐれた霊能力者たちが数多く出現し、エクトプラズム現象などの驚異的霊現象を起こしてしてみせた。
あるいは空中歩行、霊の憑依による外科手術など。
また、高級霊との交信記録であるモーゼスの『霊訓』、カルディックの『霊の書』、シルバーバーチの『霊言』も、霊界との交信を証明してみせるための一環だとされている。
これら霊との交信を事実として認める霊的真理の思想運動、高級霊の告げた内容を体系化した霊学がスピリチュアリズムである。
これらが霊界側の一次的計画とされる。

20世紀半ばあたりから②のような、霊能者と呼ばれる特殊な能力をもつ人だけが可能であった霊界との交信や死後の霊界の消息の一端を知ることが、一般の人々にも体験できるようになる。
一つは臨死体験の多発とその研究である。
少し遅れてもう一つが前世療法の発見・流行である。
これは、霊的真理を一般の多くの人々に知らしめるための一般化・広汎化の計画ととらえられる。
これが霊界側の二次的計画とされる。

信頼に足るスピリュアリストの私へのコメントによれば、私のSAM前世療法やヒーリング能力の覚醒は、③の霊界側の二次的計画の一端を担わされているという。
つまり、一般の多くの人々に霊的真理を広めるという霊界側の計画の流れに寄り添って、SAM前世療法という霊的療法が私に贈られているということらしい。

以上のスピリチュアリズムの説くことを前提にして、私に向けて霊界側の計画的な意図がはたらいていていると仮定した場合、私の体験してきた2005年から2015年までの10年間の霊的諸現象の事実の経緯は、以下のように解釈できるかもしれない。

 霊や生まれ変わりの懐疑論者であり、催眠を扱う私に、里沙さんという格好の被験者と出会わせ、「タエの事例」を2005年6月にまず贈る。
懐疑的な私が、執拗にタエの語る事実の真偽を検証することを見込んでの計画である。
私は計画されたように行動し、2006年5月に『前世療法の探究』を出版した。
この本の編集者春秋社のW氏は、一介の小・中教員であった私の出版のために編集者生命をかけて出版に尽力していただいた。
同時に、執筆に必要な生まれ変わり研究の諸文献を紹介し、この方面にまったく無知であった私を導いていただいた。
こうして『前世療法の探究』は、新聞に取り上げられ、アンビリに取り上げられ、一定の注目を浴びた。
こうして2006年に霊的真理(生まれ変わり)を広める役目の一つを果たした。
ただし、霊界側は、「タエの事例」の後半部分で里沙さんの次の生まれ変わりの「ラタラジュー」を登場させており、二言のネパール語らしき異言を発話させ、それにこだわり続ける私を見越して、やがて応答型真性異言実験セッションに取り組ませる伏線を用意した。
「タエの事例」から4年後の2009年にそれは現実化する。

 霊界側は、『前世療法の探究』の出版直後、私自身にヒーリング能力を贈った。
気功やレイキなど一切エネルギー療法の訓練を受けていない私に突如そうした超常現象を贈ることによって、私がその検証の結果、治療霊団の存在を認めざるをえないように導いた。
そもそも私は、治療エネルギーが手の平から放射されるなどということはプラシーボ効果であって眉唾ものだと思っていた。

ウ 霊界側(私の守護霊団)はヒーリング能力を贈った後、『前世療法の探究』の読者M子さんを経由して、2007年1月から1ヶ月にわたって22通の「霊信」を私に贈った。
その霊信の中で「魂の仕組み」について情報を贈った。
懐疑的な私は、霊信の内容の真偽を検証することを当然始めた。
催眠を扱うことのできる私が、催眠を道具に潜在意識の深奥にある「魂状態の自覚」を探り当てることを見込んでの計画である。

 こうして私あて霊信の告げた内容を作業仮説にして、「SAM前世療法」が生まれた。
催眠によって魂状態の自覚まで遡行させ、魂の表層に存在する「前世人格=死者」を呼び出し対話する、という唯物論と真っ向から対立するSAM前世療法の誕生である。

 しかし、懐疑的な私は、顕現化した前世人格が、クライアントのフィクションのなせる業である可能性を疑わざるをえなかった。
その懐疑を私が棄却するためには、顕現化した前世人格が、疑いなく前世を生きたという科学的証拠を提示しないことには収まることはなかった。

 霊界側は、2009年5月、またしても被験者里沙さんを通して、生まれ変わりの科学的証拠として最有力な応答型真性異言現象を贈った。
それがまず2010年3月に雑誌『ムー』に特集として掲載され、それが再びアンビリに取り上げられる契機となった。
2010年8月にアンビリは「ラタラジューの事例」を60分余にわたって放映した。
次いで、アンビリのネタをリサーチする会社の方の紹介と後押しによって『生まれ変わりが科学的に証明された!』を2010年10月に出版できるように計らった。
以上が、2005年の「タエの事例」との遭遇から今日までの経緯を「霊界の計画があるのだとしたら・・・」という仮定のもとに解釈した結果です。

さらに付記するとすれば、

ワイスによって広められた前世療法の暗黙の仮説である「前世の記憶を想起させる」という方法論ではなく、まったく別のアプローチによる「魂表層に今も意識体として生き続けている前世人格を呼び出す」という方法論を私に明確に提示させたこと。
他の前世療法家がしようとしなかった前世存在の真偽の科学的検証に取り組ませたこと。

スティーヴンソンの応答型真性異言研究でわずかに言及されている、「催眠中のトランス人格の顕現化」という解釈を一歩進めて、「魂の表層に意識体として生きている前世人格の顕現化」という考え方を明確に打ち出させたこと。
そのためにラタラジューの語りが、里沙さんの前世記憶などではなく、現在進行形の話者として、今、ここに、顕現化している明らかな証拠として、対話相手に「あなたはネパール人ですか?」、「ああ、私もネパール人です」とラタラジューに言わせていること。
スティーヴンソンの紹介している「グレートヒェンの事例」では、「「おめかしですか?」、「どこに行くんですか?」、「私の友だちはどこですか?」、「どうして 質問を?」などをトランス人格グレートヒェンが対話相手に話しかけている(『前世の言葉を話す人々』春秋社、PP298-308)。
これだけの会話では現在進行形の会話であるか否かの判断は微妙である。

応答型真性異言の証拠として、スティーヴンソンも成しえなかった応答型真性異言現象の証拠映像撮影に世界で初めて成功させたこと。
超常現象の決定的瞬間の証拠映像 は、何らかの存在によると思われる妨害現象が生じ不成功に終わる、というのが超心理学上の「挫折の法則」として知られている。
ところが、撮影に成功した「ラタラジューの事例」は、マスメディアによって日本のみならずハワイでも放映されている。


さて、スティーヴンソンは『前世の言葉を話す人々』春秋社、の日本語序文で次のようなきわめて示唆的なことを述べています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こうした事例(注:応答型真性異言)の研究を私が始めて20年以上が経過したわけですがーまた、新しい事例も何度も私のもとにもたらされたわけですがーこ れまで発表した3例の他には、信頼に足る事例はこれまでのところ1例もなかったように思います。明らかに、信憑性のある応答型真性異言の事例はきわめて稀 なのです。ですが、もしかすると、本書の日本語版の出版を通じて、新しい事例に関する情報がもたらされるかもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記のようにスティーヴンソンは、日本でも応答型真性異言が発見されることを期待しています。
そして、期待どおりに、彼の他界(2007年)の2年後の2009年に「ラタラジューの事例」が出現しました。
それも、「タエの事例」という生まれ変わりを濃厚に示す事例を話した同じ被験者里沙さんによってでした。

最初にもどって、霊界側の計画によってそのような流れが仕組まれているとしたら、ワイスは前世療法の先駆者として、スティーヴンソンは応答型真性異言研究の先駆者として、私が彼らより一歩進めるために、私の前に彼らが現れるような流れが仕組まれていたのかもしれません。

そして、今、私は、SAM前世療法による深い催眠中に現れる諸意識現象を探究し、これまでの催眠学が排除してきた霊的諸現象の解明を試みる「SAM催眠学」の構築に取り組もうとしています。

以上は、近代スピリチュアリズムの歴史的視点に立つと、見えてこないでもない仮説です。

ただし、私はこのような霊界側の計画遂行の担い手になりたいと望んだことは一切ありません。
私の生家は、臨済宗の一般的な檀家の域を超えることのない程度の宗教的環境でしたから、特に仏教への信仰心が篤かったわけでもありません。

強いて言えば、「タエの事例」に出会うまでの私は、完璧な無神論者というのではなく、something great の存在を漠然と認める程度のあいまいな態度でした。

2016年2月28日日曜日

SAM催眠学とスピリチュアリズム

   SAM催眠学序説 その85


スピリチュアリストとは、スピリチュアリズムを受容している人を言います。
スピリチュアリズムとは霊的真理を説く思想であり、科学でもあり、信仰でもあります。


霊的真理とは、霊界と霊的存在の実在を認めること、霊界と地上世界とは交信できることを認めること、霊魂と生まれ変わりを認めること、などを指しています。
そしてこれら霊的真理を完全に受け入れている人を「確信的スピリチュアリスト」と言います。

私は、2006年5月に『前世療法の探究』出版以後、様々な霊的現象が津波のごとく押し寄せ、その検証過程で、霊的真理を受け入れざるを得ないようになっています。
スピリチュアリズムの聖典であるシルバーバーチやスティトン・モーゼスやアラン・カルディックなどの霊信記録の本を読み、共鳴したわけではありません。
霊能者と呼ばれる特殊能力者の言説に影響されているわけでもありません。
私は、そうしたもっともらしいことに興味は持っても、鵜呑みにできない左脳的人間で、懐疑的思考のほうが勝っています。
自ら実証できたことが第一義という立場を崩すことができない霊的に無能者と言ってよい人間です。
したがって、私は、霊的な世界というものを、徹底的に疑って知的に否定した後に、それでも認めざるを得なくなった立場がスピリチュアリズムということになります。


「SAM前世療法」の作業仮説は、私あて霊信の恩恵抜きには生まれなかったことは確かですし、その作業仮説によって、応答型真性異言現象をこの手で確認し実証してからは、霊信の事実や、霊魂の存在と生まれ変わりを事実として認めないわけにはいかなくなっています。
おまけに、ヒーリングや浄霊らしき能力が備わってきたという事実も確認しています。

そうした意味で、敢えて言うなら、私は「実証的スピリチュアリスト」なのだろうと思います。

なぜ、私が実証的スピリチュアリストになっていったのか、それへと否応なしに引き寄せたエピソードを紹介していきます。

前世遡行に成功し「タエの事例」を語った2005年6月4日から一週間ほど経って、里沙さんの左腕が赤黒く変色するという異変が起こ りました。
赤黒い変色とともに重くだるいという自覚症状を心配した彼女は、医師の診察を受けましたが特に医学的所見はなく、経過を見ましょうという ことでした。
そうした中、蛍見物に出かけ、舞っている蛍に向かって左手のひらを広げたところ、5~6匹ほどの蛍が左手のひらにとまったそうです。
蛍は羽根を 休めて後、数分して飛び去りました。
この事実は同行した信頼に足る目撃者からの証言を得ています。
また、左腕の変色と重くだるいという症状はこの後消失した そうです。

この不思議な現象に遭遇した里沙さんは、タエとしての前世で、左腕を切り落とされたことが咄嗟に脳裏に閃(ひらめ)いたそうです。
そして、左手 のひらから何らかのヒーリングエネルギーが放射されているので、衰弱した蛍がエネルギー補給のために飛んできたのではないかと直感しました。
そこで、ご主 人や知人の腰痛・肩凝り・関節痛等にヒーリングを試したところ顕著な改善効果が確認されたとのことです。

こうしたヒーリング能力の出現と同時に、直接でも遠隔透視によってもオーラが見えるようになったと言います(ただし、強い輝きを放っている人の 場合に限るとのこと)。
さらに、生き霊や死霊(未浄化霊)が取り憑いていると、その人の名前・住所など本人が特定できる情報を聞いただけで、悪寒・吐き気・頭痛など体調が悪化するという反応が起こるようにもなったそうです。
厳密な検証実験をしたわけではありませんが、何らかの霊的能力が発現 したように思われます。

過去の文献にも、非常に深い催眠体験後、稀に透視など超常能力が出現したという報告があるのですが、どうやら里沙さんにも、「タエの事例」を体験したことを境に、そうした超常的能力ないし霊的能力が出現したことは、かなり可能性が高いと判断しています。

『前世療法の探究』出版二ヶ月後の2006年8月31日、私にヒーリング能力があることが偶然発見されました。
以来、母親の股関節痛へのヒーリングに始まり、その数は数百名近くになると思います。肩凝りをはじめ腰痛・背中痛・五十肩・股関節痛・ アトピ-性皮膚炎・椎間板ヘルニア・子宮筋腫の痛み、子宮腫瘍・心筋梗塞発作・ふくらはぎ筋肉痛、大腸 癌等に実施して改善効果の検証をしてきましたが、成績は良好です。
特に痛みの解消と血行改善には効果がみられます。

私のやり方は、両手の平(左手のほうがエネルギーが強いようです)を五分間患部に軽く当てるだけです。
当てると同時に、どこかから送ってくる であろう存在に対して、「この者に必要な最良の治療をお願いします」と念じますが、その後は精神集中などは全く不要で、テレビを見ようが会話をしようが一 向に構わないのです。
ただし、このエネルギーは、意志によるコントロールは不能です。向こう側からやってくるのにお任せというわけです。
クライアントは、懐炉を当てているような明らかに私の体温以上の熱感を感じることが多いようです。
なかには、ヒリヒリした感じとか、もわもわした圧力やひんやりした感じ、あるいは頭頂部や指先までエネルギーが走る感じや、汗が出るのを報告する クライアントもいます。
また、エネルギーの放射能力を伏せて、相手の手のひらに私の手のひらを三センチ程度近づけても、熱感やヒリヒリ感、モワモワした圧力感などを感 知すると報告しますから、これが暗示効果によるものでないことは明らかです。
計測不能の何らかのエネルギーが手のひらの中心辺りから放射されている事実は 間違いないと思われます。
手のひらにも、微細な振動をしている薄い膜が張った感じがあり、その膜に熱を帯びた感覚があらわれます。
私は、気功やレイキなどのエネルギー療法を見たことも、訓練したことも一切ありませんし、そもそもエネルギー療法については極めて懐疑的な立場 でした。せいぜい暗示効果ないし、プラシーボ効果によるものであろうと思っていました。
そういう懐疑的な自分にヒーリング能力が突如現れたことが何とも不 可解で奇異な感じがしています。
容易には認めがたいのですが、これはひょっとすると、霊による治療、すなわちスピリットヒーリングが起こっているのではな いかと思います。
それは、いわゆる「気」などの、見えない身体エネルギーによるヒーリングとは違って、自分が極度に集中する必要もなく、まったく疲れることもな いということ、そして、遠隔治療においても効果があるからです。
さらに、霊が見えると主張する三名の人からは、私の背後に複数のよい霊が見える、あるい は感じると指摘されました。
デモンストレーションを見学したやはり霊的な感受性があると主張する三名からは、手のひらから白い霧状の粒子が盛んに放射さ れているのが見えたと報告を受けています。
こういったことに実証性があるわけではありませんが、ありうることではないかと思っています。

2006年12月22日、里沙さんにお願いして彼女の守護霊との直接対話実験をさせてもらいました。
深い催眠中に中間世へと導き、そこで偉大な存在者 を呼び出して憑依してもらい、私が直接対話するという実験は、前掲書の「タエの事例」で紹介してあるとおりです。
それを再度試みようというわけです。
その理 由は次のような四つの質問の回答を得るためであり、憑依の真偽の検証を試みるためでもありました。

①タエの事例は、偶然語られたものか、何かわけがあって語られたものか?
②稲垣に突如あらわれたヒーリングのエネルギーは、どこから送られてくるものか?その治療エネルギーが稲垣にあらわれた理由が何かあるのか?
③スピリットヒーリング能力のある者は、たいていは霊視などの霊能力を持っているが、稲垣のエネルギーがそうであるなら、なぜ稲垣に霊能力がないのか?
④稲垣の守護霊の素性が分かるならその名を教えてもらえないか?

実験前に彼女に伝えておいた質問内容は、前述②(筆者のヒーリングエネルギーの出所)のみで した。①③④の質問について彼女には知らせることを意図的に伏せて実施しています。
伏せた意図は、彼女に前もって回答を準備できる時間を与えないためで す。

里沙さんに憑依したと思われる、彼女の守護霊と思しき存在との40分にわたる対話の録音を起こし、できるだけ生のままの語りの言葉を用いて、上記四つの 質問に対する回答を要約してみると以下のようになります。ただし、質問はこれ以外にもいくつかしていますから、それらの回答を含めて次の5項に整理し要約 してあります。

①タエの事例は偶然ではありません。計画されあなたに贈られたものです。計画を立てた方はわたくしではありません。計画を立てた方はわたくしよりさらに上におられる神です。
タエの事例が出版されることも、新聞に掲載されることも、テレビに取り上げられることもはじめから計画に入っていました。あなたは人を救うという計画のために神に選ばれた人です。

②あなたのヒーリングエネルギーは、霊界におられる治療霊から送られてくるものです。治療霊は一人ではありません。治療霊はたくさんおられます。その治療霊が、自分の分野の治療をするために、あなたを通して地上の人に治療エネルギーを送ってくるのです。

③あなたの今までの時間は、あなたの魂と神とが、あなたが生まれてくる前に交わした約束を果たすときのためにありました。今、あなたの魂は大きく 成長し、神との約束を果たす時期が来ました。神との約束とは、人を救う道を進むという約束です。その時期が来たので、ヒーリング能力も前世療法も、あなた が約束を果たすための手段として神が与えた力です。しかし、このヒーリングの力は万能ではありません。善人にのみ効果があらわれます。悪とはあなたの進む 道を邪魔する者です。今あなたを助ける人がそろいました。どうぞたくさんの人をお救いください。

④神はあなたには霊能力を与えませんでした。あなたには必要がないからです。霊能力を与えなかった神に感謝をすることです。

⑤守護霊に名前はありません。わたくしにも名はありません。あなたの守護霊はわたくしよりさらに霊格が高く、わたくしより上におられます。そうい う高い霊格の方に守られている分、あなたには、成長のためにそれなりの試練と困難が与えられています。これまでの、あなたに生じた困難な出来事のすべてが はじめからの計画ではありませんが、あなたの魂の成長のためのその時々の試練として与えられたものです。魂の試練はほとんどが魂の力で乗り越えねばなりま せん。わたくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません。わたくしたちは魂の望みを叶えるために、魂の成長を育てる者です。霊能力がなくても、あ なたに閃くインスピレーションが守護霊からのメッセージです。それがあなたが迷ったときの判断の元になります。あなたに神の力が注がれています。与えられ た力を人を救う手段に使って人を救う道に進み、どうぞ神との約束を果たしてください。

里沙さんに憑依したと思われる、彼女の守護霊とおぼしき存在は、以上のようなメッセージを回答として伝えてきました。
そのときの語りの様子は、「タ エの事例」で憑依実験したときと同じく、彼女の表情は能面様の全くの無表情に変化し、声は低音で、囁くような、抑揚のない、ゆったりと厳かな調子の、別人同様の声音に変化していました。
観察される限りでは、ふだんの里沙さんとは別人格の第三者が語ったように思われます。
憑依を解き、催眠から覚醒直後の里沙さんは、数分間話そうにも声が出ない状態になり、膝から下が冷え切って麻痺し、立ち上がれないという疲労の 極みに陥っていました。
立てるようになるまで20分ほど休んでから帰宅しましたが、翌日になっても疲労は回復せず動けない状態が続き、三日目にやっと回復 したという報告を受けています。

さて、これまで2005年6月4日の「タエの事例」セッション以後、里沙さんと稲垣 にあらわれた三つの超常的能力・現象について紹介してきました。
このうち、ヒーリング等の超常的能力出現については検討するまでのない事実として認めざるをえません。
では里沙さんの守護霊を主語とする存在者 の語りはどうでしょうか。
語られた内容について、できるだけ公正な立場に立って検討・考察をしてみたいと思います。
ただし、この検討・考察は、自分にはス ピリチュアリズムに関する知識・情報がない、という里沙さんの証言を前提としていることをお断りしておきます。
また、超ESP仮説(里沙さんが稲垣の心も 含め、地上のどのような情報にも自由にアクセスできる無制限なESP能力を持っているとする仮説)も、ここでは考慮外としています。

ここで検討してみることは、守護霊を守護とする語りの内容は里沙さんの既有の知識を元に彼女自身が語ったのだ、と解釈できるかどうかということです。
そうであるならば、守護霊とおぼしき存在者は、里沙さんの無意識的な役割演技で説明されうることになり、語りの事実が超常的現象である可能性は排除されるからです。
以下にまず全体の考察を、次いで守護霊の語り①~⑤の語りの内容について、それぞれに検討と考察を加えてみます。

まず、全体としての考察をしてみますと

①「存在者」は、里沙さんとは異なる位相の視点・情報から発話している。
②催眠を解く前に「催眠中に語ったことはすべてはっきり思い出せる」という暗示を強 調したにもかかわらず、「存在者」が憑依したと思しき間の里沙さんの記憶は完全に 欠落している。
③録音された自分の語りを試聴した里沙さんの実感として、声からも語りの内容からも、自分と「存在者」とは全く同一性の感じられない他者であると認識されている。
④憑依を体験し、催眠から覚醒後の里沙さんの疲労状態は、通常の催眠後とは明らかに異質な極度の疲労状態に陥っている。

以上の4点は、「存在者」の憑依を支持できる状況証拠だと考えることが可能でしょう。
ただし、①については本人に内在している「心の力」つま り、「高位自我=ハイヤーセルフ」説で説明可能かも知れません。
深い催眠中には、通常の里沙さんの持つ能力をはるかに超えた超常的叡智が現れるというわけ です。
しかし、②・③については「高位自我」説では説明が収まり切れません。
もともと里沙さんの心に内在している「高位自我」の語りであれば、解催眠 前に強調した記憶再生暗示で、催眠後にその語りの内容が記憶として出てくるはずだと考えられるからです。
また、彼女に解離性同一性障害などの精神障害がな いことは明白ですから、「存在者」の語りに対して全く同一性を感じられないということも説明が困難です。
単に催眠性健忘として片付けられる問題ではないと 考えられます。
④の極度の疲労感について確かなことは言えませんが、憑依した「存在者」が里沙さんに長時間(約40分間)の対話をさせるために、彼女の脳髄が酷使された結果ではないかという解釈ができるかも知れません。

次に守護霊 の①~⑤の語りについて一つずつ検討してみましょう。
 
まず守護霊の①の次語りの内容について検討してみます。

①タエの事例は偶然ではありません。計画されあなたに贈られたものです。計画を立てた方はわたくしではありません。計画を立てた方はわたくしよりさらに上におられる神です。
タエの事例が出版されることも、新聞に掲載されることも、テレビに取り上げられることもはじめから計画に入っていました。あなたは人を救うという計画のために神に選ばれた人です。

里沙さんのスピリチュアリズムについての知識は、治療霊が存在すること以外にはありません。したがって、スピリチュアリズムでいう「神の計画」つ まり、地上の人間に霊的真理(魂と生まれ変わりの存在、霊界の存在、霊との交信可能など)を啓発し、霊的覚醒を促す計画があることは知識として持っている はずのないものです。
彼女の無意識の役割演技などでは淀みなく発話される内容ではないと思われます。
この計画についての語りは、スピリチュアリズムの高級霊からの霊信内容に一致していると考えることができるでしょう。

②あなたのヒーリングエネルギーは、霊界におられる治療霊から送られてくるものです。治療霊は一人ではありません。治療霊はたくさんおられます。その治療霊が、自分の分野の治療をするために、あなたを通して地上の人に治療エネルギーを送ってくるのです。

上記 ②の治療霊の存在については、里沙さんの知識としてある程度あるはずです。
彼女の脊柱側湾症による痛み改善のためにヒーリングをした機会に、ヒーリングエ ネルギーと治療霊について話題にしているからです。
また、彼女は霊感によって、稲垣の背後に憑いている複数の治療霊らしき霊の存在を感知できると語ってい るからです。
しかも、稲垣のヒーリング能力についての質問をすることについては、催眠に入る前に彼女に知らせてありました。
したがって、治療霊とその治療 エネルギーについての守護霊の回答は、彼女の既有の知識を語った可能性を排除できません。

③あなたの今までの時間は、あなたの魂と神とが、あなたが生まれてくる前に交わした約束を果たすときのためにありました。今、あなたの魂は大きく成長し、 神との約束を果たす時期が来ました。神との約束とは、人を救う道を進むという約束です。その時期が来たので、ヒーリング能力も前世療法も、あなたが約束を 果たすための手段として神が与えた力です。しかし、このヒーリングの力は万能ではありません。善人にのみ効果があらわれます。悪とはあなたの進む道を邪魔 する者です。今あなたを助ける人がそろいました。どうぞたくさんの人をお救いください。

守護霊の語り上記③の、稲垣が生を受ける前の「魂」と「神との約束」についての語りは、里沙さんの想像力が駆使され、稲垣への願望が投影された彼女の役割演技だと解釈できるかもしれません。
しかし、稲垣にヒーリング能力があらわれた理由がそれなりに矛盾なく説明され、瞬時に淀みなく語られた事実を考えると、守護霊と呼ぶ「存在者」 の憑依可能性を否定できるものではないと思われます。
ちなみに、「稲垣の魂が大きく成長した」という語りは、「タエの事例」に遭遇以来、世界観・価値観が 魂と生まれ変わりの存在を視野に入れたものへと転換し、現世的欲望へのとらわれから自由度を増した精神状態を指している気がしないわけでもありません。


④神はあなたには霊能力を与えませんでした。あなたには必要がないからです。霊能力を与えなかった神に感謝をすることです。

上記の④の守護霊の語りについては、理解に苦しむところです。
稲垣に霊的能力がなくそれらに懐疑的な普通の人間の側にいるからこそ、懐疑的な普通の人間への霊的真理の啓発には却って説得力を持ち得るので、神の道具としての啓発者には適っている、という意味かも知れません。
こう考えてみると「霊能力を与えなかった神に感謝をすることです」という意味深い語りは、里沙さん自身の通常の意識からは到底出てくるはずのないもののように思われます。まして、その場の咄嗟の思いつきで回答できる類の語りだとは考えられないと思われます。

⑤守護霊に名前はありません。わたくしにも名はありません。あなたの守護霊はわたくしよりさらに霊格が高く、わたくしより上におられます。そういう高い霊 格の方に守られている分、あなたには、成長のためにそれなりの試練と困難が与えられています。これまでの、あなたに生じた困難な出来事のすべてがはじめか らの計画ではありませんが、あなたの魂の成長のためのその時々の試練として与えられたものです。魂の試練はほとんどが魂の力で乗り越えねばなりません。わ たくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません。わたくしたちは魂の望みを叶えるために、魂の成長を育てる者です。霊能力がなくても、あなたに閃 くインスピレーションが守護霊からのメッセージです。それがあなたが迷ったときの判断の元になります。あなたに神の力が注がれています。与えられた力を人 を救う手段に使って人を救う道に進み、どうぞ神との約束を果たしてください。 


上記⑤の語りは、まさにスピリチュアリズムの霊信そのものだと言っていいでしょう。そして、「守護霊に名前はありません」「魂の試練はほとんど が魂の力で乗り越えねばなりません。わたくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません」「あなたに閃くインスピレーションが守護霊からのメッセー ジです」などの具体的な語りは、スピリチュアリズムの高級霊たちの霊信と一致し、正当な守護霊の語りとしてその信憑性が保障されているように思われます。
ここで浮上してくるのが、里沙さんはシルバーバーチなどスピリチュアリズムに関する書籍を読んでおり、それを元に語ったのではないかという疑い です。しかし、これについて彼女はきっぱり否定しています。また、それを信ずるに足る録音試聴後の感想があります。彼女は感想として次のように語っていま す。

私の守護霊は阿弥陀如来だ、と高名な信頼できる霊能者から霊視してもらって、そう信じていました。だから、私自身が守護霊の役割演技をして語る としたら、守護霊に名前はありませんとは絶対言わないと思います。阿弥陀如来です、と言ったはずです。私の守護霊に名前がないと言われてちょっとショック です。阿弥陀如来以上の守護霊はいないと思っていたから、稲垣先生の守護霊より霊格が上だと思って、密かに優越感があったのに、稲垣先生の守護霊のほうが 霊格が高いと言われたのもショックです。

つまり、彼女にスピリチュアリズムの知識があったとすれば、自分の守護霊を阿弥陀如来だなどと信じることはまず考えられません。
高級霊は原則素 性を明かさない、というのがスピリチュアリズムの常識ですから、彼女の守護霊についての知識は、仏教の説く「守護仏」と混同している程度の知識でしかな かったと判断できるわけです。
このように検討してみると、⑤の語りの主体は、里沙さん以外の憑依した「存在者」である可能性が高いと判断できるように思われます。

こうして検討を重ねてきますと、憑依したと思しき守護霊の回答は、里沙さんの意識が投影された役割演技だと解釈するよりも、彼女が霊媒の役割を果たし守護霊からの霊信を伝えたものと素直に受け取るほうが妥当性が高いのではないかと思われます。 
ただし、そのように受け取るにしても、ここで述べられている内容が、絶対的に真実であると主張しているわけではありません。
SAM前世療法を始めとする稲垣の活動を、こうした言葉によって権威づけようとする意図も全くありません。
あくまで何らかの霊的存在者の一意見として、どこまでも冷静に受け 止めるべきだと考えています。
こうした言葉で自己を権威づけたり絶対化することはあってはならないことで、徹底して厳しく自戒すべきだと思っています。
特に「神の計画」「神との約束」「善と悪」といった事柄を、軽々に云々することは、極めて大きな問題をはらむものです。
こうした表現の取り扱いについては、十分過ぎるほど慎重であるべきだと考えています。
こうした催眠による里沙さんへの憑依実験の前後から、稲垣の関心は、宗教思想であり霊の科学でもあるスピリチュアリズムへと必然的に向かわざるをえないようになっていきました。
そして、私の脳裏に思い起こされたのはモーゼスの『霊訓』にある次の一節でした。

 霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。(中略)
 筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提 供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲す る者には、神の深き真理に通暁(つうぎよう)せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命について啓示を垂れさせる。かくのごとく人間にはその程度に応じ た霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されてきたのである。
 今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムにほかならぬ。(中略)
 常に分別を働かせねばならぬ。その渦中に置かれた者にとっては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。
                  (近藤千雄訳『霊訓』「世界心霊宝典」第1巻、国書刊行会)

インペレーターと名乗る高級霊からのこの霊信に、報告した三つの超常的現象を引き当てて考えてみますと、この引用部分は稲垣に向かって発信された啓示であるかのような錯覚すら覚えます。
SAM前世療法にとりかかる前の私は、「筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者」のレベルにありました。
だから、「秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく」ために、「動かぬ証拠」としてタエの事例をはじめとして、ヒーリング能力の出現などの超常的現象が、霊界から私に次々に提供されているような気がしていました。
そうした直感の真偽を確かめるために、里沙さんの守護霊に尋ねてみるという憑依実験を試みたわけです。
その結果と検討・考察は、これまでに報告 したとおりです。この検討・考察は「常に分別を働かせねばならぬ」と言うインペレーターの忠告に従っていることにもなるのでしょう。
そして、分別を働かせ た結果の帰着点は、霊魂と霊界の存在を排除しては説明できないのではないかということでした。
かつての私であれば、ヒーリング効果の解釈として、プラシーボ効果であるとか、暗示効果であるとか、信念の心身相関による効果であるとかの知的・科学的説明に躍起となって、それを公正な態度だと信じて疑わなかったと思います。

しかし今、自分自身に突如ヒーリング能力があらわれ、その説明は霊界と霊魂の存在抜きでは考えられない事態になってきたように思われました。
そして、「動かぬ証拠」を次々に提供され、ようやく「霊的真理の初歩段階」を卒業しかけていることを感じています。
やはり人間は、最後は 自分自身の直接体験にこそ、自明の真実性・説得力があると言わざるをえません。
交霊能力のあったスピリットヒーラーであるハリー・エドワーズは、高級霊界が霊的治療によって地上の人々を霊的覚醒に導く計画であることを知っ ていたと言います(ハリー・エドワーズ著、梅原隆雅訳『霊的治療の解明』国書刊行会)。

里沙さんの守護霊が伝えてくれた、「人を救うという計画」という語 りがそれを指しているとすれば、「人を救う道に進むという神との約束を果たす時期が来た」私は、催眠とヒーリングを道具に、人のお役に立つ道に進むよう な流れに乗っているのかも知れないと思い始めたのです。
そして、これからの自分が、催眠とヒーリングを与えられた道具として役立たせる道を実践していくことができれば、ヒーリングの謎も守護霊の語り の真実性も、おのずと開示されていくのではないかと思います。
また、そうした開示がされないにしても、うまれかわり探究の道を愚直に進む過程で、懐疑的な態 度を離れて霊的な現象をありのままに認めていくようになっていくのではないかと思われます。

さらに、この憑依実験の直後2007年1月11日~2月14日に受信者M子さんの自動書記による霊信を受け取るという超常現象が起こりました。
この霊信については本ブログに公開してあります。
そして、この霊信の真偽を検証するための作業仮説によるSAM前世療法を試みることになっていきました。


こうして、SAM前世療法によって、2009年5月9日、生まれ変わりの動かぬ証拠である応答型真性異言現象「ラタラジューの事例」と遭遇することに至り、私はスピリチュアリズムの説く「霊的真理」をいよいよ認めざるをえないことになっていったのです。

SAM催眠学は、これまでの科学としての催眠学が、科学を標榜するがゆえに排除してきた深い催眠下における霊的意識現象を取り上げ、実証的に霊的真理を探究しようという試みです。