2024年9月11日水曜日

生まれ変わりの実証努力の現在の6

 SAM催眠学序説 その177

その176の続き 


6 里沙さんとネパール語との関わり調査

 

 まず最初に疑われるのは、里沙さんが生育歴のどこかでネパール人と接触し、そこでネパール語を無意識的、あるいは意図的に学んでいたのではないかということです。
そこで、まず里沙さんに、生育歴についての綿密な聴き取り調査をし、その裏付け調査を彼女の友人・家族等に可能な限りおこないました。
その結果は次のようでした。

 

 結婚するまでの生育歴調査

 

里沙さんは、昭和33年、岐阜市近郊田園の広がる本巣郡真正町(現本巣市) の造園業一家の二人姉弟の長女として生まれました。
幼稚園・小中学校ともに1学年2クラスの地元の町立小規模学校へ通学しています。高校も地元の公立高校、大学は岐阜市の4年制私立大学家政学部へ入学し、実家から通学、栄養士の資格を取得。

大学卒業後、初めて実家を離れ、公立僻地(へきち)中学校の学校給食栄養士として就職、勤務先教員住宅で自炊生活を経験します。
就職2年後、24歳で結婚のため退職。
岐阜市駅前に近い食品小売り業の長男の家に嫁ぎ、舅・姑と同居生活を送りました。

真正町の小中学校はそれぞれ1校しかなく、1学年2クラスの級友は9年間固定したまま義務教育を終えています。
この小中学校までの生育歴で、里沙さんは、ネパール人を含めて外国人との接触の記憶は一切ないと証言していますし、友人への聴き取り調査でもその裏付けはとれています。
ネパール語を学ぶ機会のありそうな高校・大学時代でも、学校事務局へ確認したところネパール国籍の学生の在籍した事実はなく、本人もネパール人との交遊関係は一切ないと証言しています。

また、昭和40年から50年代当時の在日ネパール人状況からしても、ネパール人が、地方都市である岐阜市近郊の真正町に在住することはまず考えられない状況で、仮に里沙さんの幼・小・中・高時代にネパール人の知人・友人があり、しかも、ネパール語会話が身に付く程に親しく交際していれば、その事実を友人・家族等に隠し通すことはまず不可能だと思われます。

 結婚後の生活歴調査


婚家は、岐阜市の商店街にある非常に多忙な食品小売り業であり、その切り盛りをしながら、早朝から夜遅くまで家業と家事と二人の息子を育てるという、個人的時間のほとんどない生活をしたということです。

二人の息子が成人した頃には姑が体調不良となり、その介護と、自身の脊柱側湾症の悪化による痛みの治療に苦しむ生活で、やはり時間的ゆとりは持てない生活が続きました。
2時間以上の外出は姑の手前遠慮し、それ以下の時間で友人との語らいや買い物でも、必ず行き先を告げるのが結婚以来の決まりだったそうです。

やがて、家業を続けることが困難になり店を閉めた後、私立大学事務の午後3時間のパートタイムの職を得、現在に至っているとのことでした。

この生活歴の中で、私立大学関係の3時間の仕事中に、ネパール人との接触の可能性があると見て、この大学事務局に問い合わせましたが、開学以来ネパール国籍の学生の在籍はないとの回答でした。

なお、里沙さんの在住している駅前商店街周辺にはアパートはなく、それ以外にも近辺に在住するネパール人がいないことを確認しました。
里沙さんには、夫が外国人嫌いという事情もあり、新婚旅行でパリに出掛けたこと以外、渡航歴は一切ありませんでした。
 

ちなみに、里沙さんの住む岐阜市は、人口42万人の地方都市です。
市役所に出向き、ラタラジュー人格の顕現化した初回セッションの2005年から、ラタラジューのネパール語応答型異言が確認できたセッションの2009年までの5年間に、在住していた毎年のネパール人人口を調査しました。

その結果、最多の年で33人、最少の年は25人であり、岐阜市総人口に占める平均割合は0.007%でした。
これまでの結婚以前の期間中に里沙さんが岐阜市内でネパール人と出会い、ラタラジュー程度のネパール語会話技能を習得する機会や時間はまずありえないと推測できます。

 ネパール人らしき者と接触した唯一の記憶


里沙さんの証言によれば、市内のインドカレー料理店に息子と三度食事に行った折りに、その店のコックとウェイターが外国語で会話しており、その人たちがインド人かネパール人かも知れない、というのが、唯一ネパール人らしき人と接触した記憶でした。

私はその料理店の住所を教えてもらい、平日の店の空いている時刻をねらって裏付け調査に出向きました。
店には二人のネパール人ウェイターと一人のインド人コックが働いていました。
ウェイターの一人であるライ・ルドラさんに調査の事情を説明し、協力をお願いしました。

ライさんは37歳、カトマンズ東方の東ダランの出身で、ネパールに妻子を残して出稼ぎに来ていると話してくれました。 

ライさんの証言によれば、客を前にしてウェイターどうしがネパール語で会話することは控えており、カウンター越しに厨房に向けてヒンズー語でインド人コックと話すことはあるということでした。
また、日本人にネパール語を教えたことはないとのことでした。
もちろん、里沙さんらしき女性が客として来た記憶はまったくありませんでした。

ライさんとの話の中で思わぬ収穫がありました。
彼はカトマンズ周辺の地理に詳しいというので、ナル村を知っているかと尋ねたところ、知らないと答えました。
そこで、カトマンズ周辺の村ではヒルが生息しているかを尋ねると、カトマンズ盆地は、もともと湖底であったことから沼地が多く、ヒルがたくさんいると教えてくれました。
この証言は、「タエの事例」のセッションで、ラタラジューが語った「沼地・・・虫、虫・・・ヒル」という言葉に符合すると思われました。


 現代ネパール語の単語が理解できないラタラジュー

 

さて、仮に里沙さんが、どこかで現代ネパール人と接触してネパール語を学んでいたとしても、次のような昔のネパール語の単語はまず知ることはできないでしょう。    その部分の逐語録を以下に示してみます。

カルパナ:Gharma shrimati hunuhuncha?
    (家に奥さんはいますか、いませんか?)

里沙: ha ... ha ... Ma ... Bujina(分かりません)                                     

 

カルパナ: Srimati, swasniko nam?
     (奥さん、奥さんの名前?)

注:一昔前のネパール人であるラタラジューには、shrimati(現代ネパール語の妻)の意味が理解できない。ラタラジューはshrimatiの意味が理解できず、Bujina (わかりません)と答えている。そこでカルパナさんは、shrimati, swasni(古いネパール語の妻)の新旧2つの妻という単語を並べて尋ねている。

里沙: Ah ... ah ... mero swasni Rameli....Rameli.
   (あー、あー、私の妻、名前、ラメリ、ラメリ)
 

ラタラジューは現代ネパール語の妻Srimatiは理解できず、一昔前の古いネパール語の妻 swasniは理解できたので、swasni に反応したのである。

 

現代ネパール語の数詞を使えないラタラジュー


カルパナ: Hajur. Bite ko umer.
   (はい。死んだ歳は?)

里沙:Ath satori ... ah ...
   (8と70、あー)

カルパナ:Hajur?
   (はい?)

里沙:Ath satori.
      (8と70
カルパナ:Sattari?
   (70ですか?

  里沙:Ath satori.
      (8と70

注:年齢表示の「78」歳を「8と70」と数える表示法は、現代ネパール語にはない。                                  現地調査によって、一昔前のネパールでは「8と70」という表示法を用いていたことが判明している。                           現代ネパール人の対話者カルパナさんには、「8と70」の意味が理解できないので、「70ですか?」と再度尋ねている。                  この事実は、里沙さんが現代ネパール人から「8と70」という年齢表示を学ぶことはまずできないことを示している。
 

⑥ 現代ネパール人のほとんど食べない「コド」食べていたラタラジュー

 

ラタラジューは、祭りでコドを食べると語っている。 

カルパナ: Kodo?
   (コドですか?)

里沙:  Kodo.
   (コドです)

カルパナ: He?
    (へ?)
 

注:「コド」はトウモロコシ・アワ・ヒエなど雑穀であり、これを粉にして水で練り、鍋などの内側に貼り付け、厚めの煎餅のように焼いて食べる。                                   現在では、カトマンズあたりではコドを食べる習慣はない。                したがって、カルパナさんは「コド」を知らないらしい。                       なお、インターネットで検索しても「コド」はヒットしない。         付言すると、里沙さんはインターネットが使えない。

 

以上、これまで述べてきた諸調査とセッション逐語録から、里沙さんが「ラタラジューの事例」以前に現代ネパール語を学んでおり、ネパール語文法に則って会話ができる技能を身につけていた可能性を否定できると判断してよいと思われます。

 

7  2009年8月 里沙さんのポリグラフ検査の鑑定結果

 

2009年8月6日着手、同年9月8日終了の、里沙さんへのポリグラフ検査とその鑑定を、「日本法科学鑑定センター」代表の荒砂正名氏に依頼しました。

荒砂氏は、元大阪府警科学捜査研究所長を歴任されており、ポリグラフ検査とその鑑定について日本有数の権威者とされている人物です。

「タエの事例 」「ラタラジューの事例」の両事例で語られた内容を、里沙さんがセッション前に入手していたか、していなかったの有無を確認するためです。

検査場所は、里沙さん自宅応接間、検査は午前10時から午後0時40分までの2時間40分に渡りました。

鑑定結果は、「日本法科学鑑定センター」名のポリグラフ鑑定書』で、34ぺージに渡る検査記録の分析資料提示後、次のような結論としてまとめられています。

「タエの事例」に関する入手経緯、入手時期 のいずれにも注目すべき特異反応を認めず、これらに対する認識(記憶)は、全くないものと考えられた。

「ラタラジュ-の事例」について、隣人・息子・ルピーなどのネパール語に注目すべき特異反応を認めず、これが該当事実であるとの認識(記憶)は、全くないものと考えられた。

要するに、里沙さんは、タエ・ラタラジュー両事例で語った内容について、覚醒時には全く認識していない内容であるにもかかわらず、魂の自覚状態の深い催眠状態に入ると語ることができたという事実が、ポリグラフ検査によって証明されたということです。

 

終わりに

 

このブログ「生まれ変わりの実証努力の現在の1」冒頭で、スティーヴンソンの述べている、「生まれ変わりという考え方は最後に受け入れるべき解釈なので、これに代わりうる説明がすべて棄却できた後に初めて採用すべきある」という言葉を引用しておきました。

この言葉に触発されて、タエ・ラタラジュー両事例の検証において、生まれ変わりを実証できる証拠の検討に、今考えられる限りの方法で取り組みました。

その検証過程を述べてきましたが、現行唯物論の手法では、少なくとも、被験者里沙さんにおいては、生まれ変わりを否定できないという結論に至りました。

心残りは、タエも、ラタラジューも、その前世中に生存していた文書の記録を確認できなかったことです。

タエについては、渋川村では当時の戸籍に当たる「人別帳」が戦災で焼失していました。                                  また、ラタラジューについては、ネパールでは1950年代以前の戸籍が作成されておらず、また故郷のナル村では当時墓を作る習慣がありませんでした。

 

どうやら、現時点においては、生まれ変わりを信じる人には、信じるに足る十分な状況証拠、生まれ変わりを否定する人には、疑いの余地をまだ残している証拠、というレベルでしか、生まれ変わりの事実の完璧な証拠は開示されないようです。

SPR(心霊研究協会)の有力会員であったW.ジェームズ(米国心理学者)は生まれ変わりの科学的研究のこうした閉塞状況を「挫折の法則」(ジェームズの法則と呼んでいます。

 

このことを守護霊団に質問したところ「挫折の法則ではない、あなた方の核となる意識体、そして神の計画が、あなた方が進むための原動力を与えているのだと理解しなさい。あなた方は、自らの持つ信仰を育てるのだ(第12霊信)」と回答しています。

                                     「 生まれ変わりの実証努力の現在」おわり


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