(その10からのつづき)
⑦「シャハ」と「ラナ」との関係について
ネパール語で対話する前の筆者との日本語対話で「・・・戦いました・・・ラナ・・シャハ・・・ラナ、戦いをした」とラタラジューは語っています。また、カルパナさんのネパール語対話でも「ラナ」という単語を四度発語しています。
「シャハ」と「ラナ」、および戦いとの関係はいったいどのような事実関係が推測できるのでしょうか。
シャハとはシャハ王朝を意味すると考えて間違いないでしょう。
シャハ王朝は、1768年に始まり最近廃絶した王朝です。そのシャハ王朝で、1846年以後1951年まで、ネパールを実質支配する独裁権力を振るった宰相家が「ラナ家」です。
ラナ家が独裁権力を握るために、1846年に有力貴族を殺害するという流血の権力闘争がありました。
また、1885年にはラナ家内部で流血クーデターが起きています。
一方、タエが人柱になったのは1783年(天明三年)です。それ以後にラタラジューとして生まれ変わったとされているのですから、彼がシャハ王朝とラナ家を知っていることに矛盾はありません。
したがって、ラタラジューが発語した「ラナ」とはネパール宰相家の「ラナ家」だと推測して間違いないと思われます。
とすれば、彼が「戦いました」という語りは、ラナ家がシャハ王朝内の独裁権力を掌握するための1846年の権力闘争あるいは、ラナ家内部の1885年のクーデターに際して、ラタラジューが傭兵として闘争に参加していることを意味していると推測されます。
さらに穿(うが)った推測をすれば、カルパナさんとのネパール語対話の中で「30歳」という年齢を答えた直後に、それに触発された記憶であるかのように「ラナ、ラナ」と発語していますから、ラナ家に関わる闘争への参加はラタラジューが30歳の時だと特定できなくはありません。
加えて、彼は若い頃カトマンズに住んで戦ったとも言っています。
そのように仮定し、彼が78歳で死亡したとすると、彼の生年・没年は、1816年~1894年、または1855年~1933年となります。里沙さんは1958年生まれですから、いずれの生年・没年でもは矛盾しません。
さらに言えば、30歳で戦いに参加したとすれば、里沙さんの守護霊とおぼしき存在の「ラタラジューは・・・若い頃人を殺しています」という語りにも符合することになります。
ソバナ博士の調査によれば、シャハ王朝が傭兵としてタマン族の青年たちを用いていたことは間違いない事実であるが、どのクーデターのときにどれくらいのタマン族傭兵が参加していたかという数字については定かではないという報告でした。
こうして、ラタラジューが30歳の頃にラナ家に関わる流血の闘争に傭兵として参加し、敵兵を殺していたのではないかという推測が成り立つための裏付けが検証できたということです。
(つづく)
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