2011年11月22日火曜日

生まれ変わり反論仮説その6

(その5からのつづき)
(6)憑依仮説
2010・8・5のアンビリ視聴者の方で、ラタラジューが応答型真性異言を話したことを認める人の何人かから、あれはラタラジューを名乗る霊の憑依現象ではないか? という質問が届いています。
同様の質問は「タエの事例」にも当てはまります。
つまり、タエを名乗る霊が憑依したのではないかということです。
死後存続仮説を認める立場に立てば、生まれ変わりを含めて霊の実在を認めるわけで、もっっともな質問です。
 
その質問の回答を以下に述べてみます。
最初に里沙さんのラタラジューの顕現化したセッションの内観記録を紹介します。セッションの2週間後の記録です。
その後に、筆者の見解を述べていきます。
ちなみに、応答型真性異言発話中の意識状態の内観記録は、管見する限り一切ありません。非常に貴重な記録だと言ってよいと思います。
セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。
思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。
ラタラジューの前に、守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの78年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。
はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。
なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。
カルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。
セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 
ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。
セッション後、覚醒した途端に、セッション中のことをどんどん忘れていき、家に帰るまで思い出すことはありませんでした。
家に帰っての夜、ひどい頭痛がして、頭の中でパシッ、パシッとフラッシュがたかれたかのように、ラタラジューの記憶が、再び私の中によみがえってきました。
セッション中に感じた、私がラタラジューと一体となって、一瞬にして彼の意識や経験を体感したという感覚です。ただ全部というのではなく、部分部分に切り取られた記憶のようでした。
カルパナさんの質問を理解し、答えた部分の意識と経験だと思います。
とりわけ、ラタラジューが、カルパナさんに「あなたはネパール人か?」と尋ねたらしく、それが確かめられると、彼の喜びと懐かしさがどっとあふれてきたときの感覚はストレートによみがえってきました。 
一つは、優しく美しい母に甘えている感覚、そのときにネパール語で「アマ」「ラムロ」の言葉を理解しました。母という意味と、ラタラジューの母の名でした。
二つ目は、戦いで人を殺している感覚です。ラタラジューは殺されるというすさまじい恐怖と、生き延びたいと願う気持ちで敵に斬りつけ殺しています。肉を斬る感覚、血のにおいがするような感覚、そして目の前の敵が死ぬと、殺されることから解放された安堵で何とも言えない喜びを感じます。何人とまでは分かりませんが、敵を殺すたびに恐怖と喜びが繰り返されたように感じました。
現世の私は、それを受け入れることができず、しばらくの間は包丁を持てず、肉料理をすることが出来ないほどの衝撃を受けました。前世と現世は別のことと、セッション中にも充分過ぎるほどに分かっていても、切り離すのに辛く苦しい思いをしました。
三つ目は、ネパール語が、ある程度わかったような感覚です。
時間が経つにつれて(正確には夜、しっかり思い出してから三日間ほどですが)忘れていってしまうので、覚えているうちにネパール語を書き留めてみました。
アマ・ラムロもそうですが、他にコド・ラナー・ダルマ・タパイン・ネパリ・シャハ・ナル・ガウン・カトマンズ・ブジナ・メロ・ナムなどです。
四つ目は、カルパナさんにもう一度会いたいという気持ちが強く残り、一つ目のことと合わせてみると、カルパナさんの声はラタラジューの母親の声と似ていたのか、またはセッション中に額の汗をぬぐってくれた感覚が母親と重なったのか(現世の私の額をカルパナさんが触ったのに、ラタラジューが直接反応したのか、現世の私がラタラジューに伝えたのか分かりませんが、一体化とはこのことでしょうか?)母を慕う気持ちが、カルパナさんに会いたいという感情になって残ったのだろうと思います。
セッション一週間後に、カルパナさんに来てもらい、ネパール語が覚醒状態で理解できるかどうか実験してみましたが、もう全然覚えてはいませんでした。また、カルパナさんに再会できたことで、それ以後会いたいという気持ちは落ち着きました。
以上が今回のセッションの感想です。このことから、私が言えることは、①生まれる前から前世のことは知っていたこと、それを何かのきっかけで(私の場合は前世療法で)思い出したこと、②生まれ変わりは確かにあること、③前世にとらわれることなく現世を生きなければならないこと、です。
以上の手記で分かるように、里沙さんはセッション中のラタラジューとの一体感、同一性の自覚があったことを明確に述べています。
また、セッション後に、諸場面のフラッシュバックがあったことや、いくつかのネパール単語を思い出したことも述べています。
さらに、ラタラジュー人格の意識内容を里沙さんの意識がモニターし、二つの意識が併存していたことも述べています。
ちなみに、この前世人格の意識とそれをモニターしてい意識が分離され、しかも併存状態にあったことは、SAM前世療法一般に報告される意識状態であり、ワイス式(ブライアン・ワイスの広めた技法)の前世療法でおこなった事例のセッション後感想では触れられることのない意識状態のようです。 
 
こうしたことから、ラタラジューが里沙さんの前世人格ではなく、まったく別人格の憑依現象とするのでは、説明がつきにくいと考えられます。
私は、「同一性の自覚の有無」「憑依様状態(人格変容状態)中の記憶の有無」が、前世人格と憑依人格を区別する一応の指標になると考えています。したがって、ラタラジュー霊の「憑依仮説」は、棄却してよいと判断できると思っています。
タエの事例においても同様です。タエが憑依霊である可能性は、すくなくとも里沙さんにおいてはない、と判断しています。
憑依した人格は、憑依された人格から見れば、明らかに「異物」であり、異物に対して「同一性の自覚」を持つことはまずありえないと思われます。「同一性の自覚の有無」を指標の仮説にした理由です。
また、宗教学のシャーマニズム研究でも、憑依とおぼしき間の記憶は欠落することが多いことが報告されています。
憑依人格が、憑依した人格を占有するわけですから、記憶が欠落するのは納得できるところです。
また、里沙さんにおいては、彼女の守護霊とおぼしき存在が憑依中の記憶が欠落することが3回に渡る実験によって確認されています。
ただし、憑依中の記憶のある被験者も存在することが確認できていますので、誰もが憑依中の記憶が欠落するわけではありません。
「里沙さんに限定して考察する限り」、ラタラジューとの「同一性の自覚が明確にあり」、ラタラジューの「語りの記憶もある」ことが内観記録から明らかです。
したがって、憑依仮説は棄却できると判断しています。
(つづく)

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