(その3の3からのつづき)
(4)モーゼスの霊訓との照合
こうした催眠による里沙さんへの憑依実験の前後から、筆者の関心は、宗教思想であり霊の科学でもあるスピリチュアリズムへと必然的に向かわざるをえないようになっていきました。
「タエの事例」に出会う前の筆者は、「霊信」という用語さえ知らない霊的現象に対して全く無関心な人間であり、死後存続や霊の実在については、一切関わりを持たないで人生を過ごしてきました。
当然のことながら、霊現象との接触体験や、霊を感知したりする能力などは一切ありません。
こうして、筆者の脳裏に思い起こされたのは、霊信現象についての情報収集として読み始めたスピリチュアリズムの聖典『モーゼスの霊訓』にある次の一節でした。
「霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。(中略)
筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。
さらに、そうした霊的真理の初歩段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命について啓示を垂れさせる。
かくのごとく人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。
これまでも神はその目的に応じて手段を用意されてきたのである。
今一度繰り返しておく。
スピリチュアリズムは曾ての福音の如き見せかけのみの啓示とは異なる。
地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。
それを総合するものがスピリチュアリズムにほかならぬ。(中略)
常に分別を働かせねばならぬ。
その渦中に置かれた者にとっては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。
が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう」
(近藤千雄訳『霊訓』「世界心霊宝典」第一巻、国書刊行会)
インペレーターと名乗る高級霊からモーゼスあてに通信されたこの霊信に、紹介した超常的現象を引き当てて考えてみますと、この引用部分は筆者に向かって発信された啓示であるかのような錯覚すら覚えます。
インペレーターが説いているように、前世療法にとりかかる前の筆者は、「筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者」のレベルにありました。
だから、「秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく」ために、「動かぬ証拠」として「タエの事例」をはじめとして、ヒーリング能力の出現などの超常現象が、霊界から私に次々に提供されているような気がしていました。
そうした直感の真偽を確かめるために、里沙さんの守護霊に尋ねてみるという憑依実験を試みたわけです。
その結果と検討・考察は、これまで述べたとおりです。
この検討・考察は「常に分別を働かせねばならぬ」と言う高級霊インペレーターの忠告に従っていることにもなるのでしょう。
そして、分別を働かせた結果の帰着点は、霊と霊界の存在を排除しては説明できないのではないかということでした。
かつての筆者の立場では、例えばヒーラーと称する人々のヒーリング効果の解釈として、プラシーボ効果であるとか、暗示効果であるとか、信念の心身相関による効果であるとかの知的・科学的説明に躍起となって、それを公正な態度だと信じて疑わなかったと言えます。
(つづく)
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