「タエの事例」と「ラタラジューの事例」の被験者里沙さんの手記
以下の手記は、二つの生まれ変わりを事実として実感し、認めているという里沙さんが、ありのままの心境を正直に書いて欲しい、という筆者の要請に応えて書いてくれたものです。
この手記から何をどう汲み取るかは、読者のみなさんに委ねたいと思います。
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図らずも、二つの前世を思い出し、現世の私は少々混乱しています。
今も時々フラッシュバックしたかのように、どちらかの出来事や言葉をふと思い出し、タエのことだろうか、ラタラジューのことだろうか、現世の私の幼少のことだったのかと考え込んでしまうことがあります。
前世療法により、学んでもいないネパール語を話したことで、私の中では人は生まれ変わりの事実が確認できましたし、その経験を語ることが、もしかしたら人を救う一助になるかも知れないという思いもありますが、前世を思い出すことは、必ずしもよいことばかりだとは言えないとも思っています。
なぜなら、どちらの人生でも、生きるということは過酷なものだと思い知らされるものでしたし、とりわけ戦争とは言えラタラジューの敵を殺すときの生々しい快感を受け入れるには大変苦しい思いをしたからです。
勝手なもので、タエの前世が出てきたときは何となく誇らしいような気持ちでいたのに、ラタラジューの前世は出来れば隠したいと思ってしまうのです。
このような形でみなさんに公開してしまって、何と言われるだろうかと怖い思いでいっぱいです。
頭では前世と現世の自分は違うものだと理解していても、決して気持ちのよいものではありません。
また、いくら生まれ変わることを知ったといっても、やはり現世での親しい人、身内との別れは身を切るように辛く悲しいことに変わりはありません。
来世では、また全く違う人生が始まりますから、現世との別離の思いは簡単に断ち切れるものではないのです。
だからこそ、死後があると分かったとしても、みんな死を怖れるのではないでしょうか。
さて、私は前世で死を迎える間際、そして死後の世界を体験しましたので、これからそのことを通して感じたままに、気づいたこと、あるいは揺れ動く気持ちを述べてみたいと思います。
前述しましたように、死を怖れるのは現世が終わってしまう恐怖と、もう一つ未知の死後の世界への恐怖とがあると思います。
死にゆく人は、死にたくない、誰か助けてと藁をもつかむほどの恐怖を感じることは確かです。
それは、泥流に呑まれて死んだタエの死の直前に私が味わった感覚です。
村を救うために自分の命を捧げることが出来てうれしい、と言ったタエが泥流で息絶えるその瞬間に「助けて、死にたくない」と叫んだ死への恐怖を現世の私は忘れることができません。
でも、タエやラタラジューの死後の魂が、魂のふるさとの世界に導かれて行くと、現世では気づかなかったことが分かりました。
現世に残してきた子どもや肉親、友だちが、実は同じ魂の世界の子どもであり同じ兄弟だったと何となく分かります。
もちろん、母性愛や父性愛、慈愛を現世で学んだのですから、その感情を残したまま、もう一つの同志よ、兄弟よ、現世で頑張れとエールを送る気持ちが芽生えてきます。
そして、今までに感じたことのない大きな安堵感に包まれ癒されます。
先ほどラタラジューが、人を殺すことの快感を現世の私に味わわせたと述べましたが、このおぞましい快感の感情を乗り越えるのに、魂の世界の安堵感は大きな力をくれました。
私の記憶に残っている、魂の世界の心地よさ安堵感は、人殺しの快感などとは比べようもなく、遙かに高貴で慈愛にあふれたものでした。
そして、思い出した瞬間に、ラタラジューからの呪縛から解き放たれることができたのでした。
このように前世の生き死にを体験しますと、死自体はそんなに怖れなくてもよいと思えるのです。
タエの死の間際の恐怖心も薄らいでいくのです。
とは言え、実際に死を迎えるときは、このような覚悟も思いも忘れ果て、死にたくないと切に願うかも知れません。そうであっても、死を目前にした方には、大丈夫、怖がることはないですよ、と慰めではなく心からの真実として、私は声を掛けることができると思っています。
この二つの前世を思い出したことによって、考えさせられたことがあります。
それは、人は何のために生まれ変わるのだろうかということでした。
生まれ変わるということは、魂を高めるために、現世で学び切れなかったものを来世で学び直すために、自ら願って生まれて来るのだと聞いています。
人のために犠牲になることを喜んだタエ、人を殺すことの快感を喜んだラタラジュー、そして現世の私は、脊柱側湾症が悪化して、今は体幹障害という身体障害者の身となりました。
一体私の魂は、三度の生まれ変わりで、何が学び足らず、気づくことが出来なかったというのでしょうか。
どの人生も過酷だった、生きることは決して楽ではなかったことを体験しました。
では、私は前世を含めてほんとうに不幸だったのかと言うと、辛くはあっても不幸ではなかったと、むしろそ辛い中で幸せを見つけながら生かされてきたと思えるのです。
だとしたら、生きる幸せとは一体どういうことなのでしょうか。
私は、「自分が生かされていること」への感謝の気持ちが持てることのように思うのです。
それは、そのように計らってくださっているにちがいない偉大な存在と、現世を生きていけるように支えてくださっている周囲の人々への心からの感謝の気持ちを持てることだと思うようになりました。
タエは捨て子だったけれども、16歳まで周りのみんなの助けで生きて来られました。
だからこそ、その助けてくれた人々への恩返しのために人柱になることを「うれしい」と思えたことは幸せな人生だったと思います。
ラタラジューも、人の犠牲のうえに生き長らえ、家族を持ち、78歳で、「生きて人と平和な村を守る喜び」を学んだと言って静かに死にました。
二人とも、与えられた運命を一生懸命生きた、生かされた、人生だったと思えます。現世の私も、家族に恵まれ、障害はあっても一生懸命生きています。そして生かされているのだと思います。
憑依した私の守護霊は、私の魂が急速な進化・成長を願って、自分で過酷な人生を選んだと告げているそうです。
その間の記憶のない私には実感が湧きませんが、前世と生まれ変わりを確認できた以上は、守護霊の告げたことも真実だろうと思えます。
だからといって、人生の悟りなどに容易にはたどりつけるものではありません。
この先にも、背中の痛みに苦しみ、自分の人生を呪うことや、健康な人をうらやむことが必ずあるにちがいないのです。
悟りなどとはとても言えそうにない、そういう振り子のように揺れ動く自分の心をありのままに認め 、与えられた人生をもがきながら、その中にあっても生かされていることの幸せを忘れないで、一生懸命生きていくことでしか、私の魂の成長はないのだろうと思います。
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