2013年7月1日月曜日

SAM前世療法の成立 その4

前ブログ「その3」で紹介した里沙さんの守護霊の語りについての検討と考察です。
守護霊とおぼしき存在との対話の検討と考察

ここで検討してみることは、語りの内容は里沙さんの既有の知識を元に彼女自身が語ったのだ、と解釈できるかどうかということです。
そうであるならば、守護霊とおぼしき存在は、里沙さんの無意識的な役割演技で説明されうることになり、語りの事実が超常現象である可能性は排除されるからです。
以下にまず全体の考察を、次いで守護霊とおぼしき存在の①~⑤の語りの内容について、それぞれに検討と考察を加えてみます。
まず、全体としての考察をしてみますと
ア、「守護霊」は、里沙さんとは異なる位相の視点・情報から発話している。
イ、催眠を解く前に「催眠中に語ったことはすべてはっきり思い出せる」という暗示を強調したにもかかわらず、「守護霊」が憑依したとおぼしき間の里沙さんの記憶は完全に欠落している。
ウ、録音された自分の語りを試聴した里沙さんの実感として、声からも語りの内容からも、自分と「守護霊」とは全く同一性の感じられない他者であると認識されている。
エ、憑依を体験し、催眠から覚醒後の里沙さんの疲労状態は、通常の催眠後とは明らかに異質な極度の疲労状態に陥っている。
以上の四点は、「守護霊」の憑依を支持できる状況証拠だと考えることが可能でしょう。
ただし、アについては本人に内在している「心の力」つまり、「高位自我=ハイヤーセルフ」説で説明可能かも知れません。
深い催眠中には、通常の里沙さんの持つ能力をはるかに超えた超常的叡智が現れるというわけです。
しかし、イ・ウについては「高位自我」説では説明がおさまり切れません。
もともと里沙さんの心に内在している「高位自我」の語りであれば、解催眠前に強調した記憶再生暗示で、催眠後にその語りの内容が記憶として出てくるはずだと考えられるからです。
また、彼女に解離性同一性障害などの精神障害がないことは明白ですから、「守護霊」の語りに対して全く同一性を感じられないということも説明が困難です。
単に催眠性健忘として片付けられる問題ではないと考えられます。
エの極度の疲労感について確かなことは言えませんが、憑依した守護霊が里沙さんに長時間(約四○分間)の対話をさせるために、彼女の脳が酷使された結果ではないかという解釈ができるかも知れません。
次に守護霊とおぼしき存在者の①~⑤の語りについて一つずつ検討してみましょう。
まず①の語りの内容について検討してみます。
里沙さんのスピリチュアリズムについての知識は、治療霊が存在すること以外にはありません。
したがって、スピリチュアリズムでいう「神の計画」つまり、地上の人間に霊的真理(魂と生まれ変わりの存在、霊界の存在、霊との交信可能など)を啓発し、霊的覚醒を促す計画があることは知識として持っているはずのないものです。
彼女の無意識の役割演技などでは淀みなく発話される内容ではないと思われます。
この計画についての語りは、スピリチュアリズムの高級諸霊からの霊信内容に一致していると考えることができるでしょう。
②の治療霊の存在については、里沙さんの知識としてある程度あるはずです。
彼女の脊柱側湾症による痛み緩和のために、私がヒーリングをした機会に、ヒーリングエネルギーと治療霊について話題にしているからです。
また、彼女は霊感によって、筆者の背後に憑いている複数の治療霊らしき霊の存在を感知できると語っているからです。
しかも、私のヒーリング能力についての質問をすることについては、催眠に入る前に彼女に知らせてありました。
したがって、治療霊とその治療エネルギーについての回答は、彼女の既有の知識を語った可能性を排除できません。
③の、私が生を受ける前の「魂」と「神との約束」についての語りは、里沙さんの想像力が駆使され、私への願望が投影された彼女の役割演技だと解釈できるかもしれません。
しかし、私にヒーリング能力があらわれた理由がそれなりに矛盾なく説明され、瞬時に淀みなく語られた事実を考えると、「守護霊」の憑依可能性を否定できるものではないと思われます。
ちなみに、私の魂が「大きく成長した」という語りは、「タエの事例」に出会って以後、私の世界観・価値観が魂と生まれ変わりの実在を視野に入れたものへと転換し、現世的欲望へのとらわれから自由度を増した精神状態を指している気がしないわけでもありません。
ただし、「善人にのみ効果が現れます」という語りは誤解されやすいかもしれません。
しかし、「悪とはあなたの進む道を邪魔する者です」という語りと照らし合わせると、その病が当人の霊的成長に必要な場合には、ヒーリングが効かないという意味に解するべきであろうと思われます。なぜなら、治療によって霊的覚醒が妨げられることになり、人を救う道に反することになるでしょうから。
したがって、この語り部分も諸高級霊からの霊信と矛盾するものではないと考えてよいと思われます。
④の語りについては、理解に苦しむところです。
ところで、前世療法のセッション中に中間世へ導く過程で、未浄化霊とおぼしきものが寄ってきて憑依しようとしていると訴えるクライアントがこれまでに2例ありました。
私に霊視などの霊的能力がなく、そうした霊が見えないために、こうした事態に遭遇しても惑わされることなく冷静に対処できたことを考えると、前世療法セラピストとしては、霊的能力は持たないほうがよいという含意の語りのようにも思われます。
あるいは、私に霊的能力がなく、それらに懐疑的な普通の人間の側にいるからこそ、懐疑的な普通の人間への霊的真理の啓発には却って説得力を持ちえるので、啓発者としては適っている、という意味かも知れません。
こう考えてみると「霊能力を与えなかった神に感謝をすることです」という意味深い語りは、里沙さん自身の通常の意識からは到底出てくるはずのないもののように思われます。
まして、その場の思いつきで回答できる類の語りだとは考えられないと思われます。
⑤の語りは、まさにスピリチュアリズムの霊信そのものだと言っていいでしょう。
そして、「守護霊に名前はありません」「魂の試練はほとんどが魂の力で乗り越えねばなりません。わたくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません」「あなたにひらめくインスピレーションが守護霊からのメッセージです」などの具体的な語りは、スピリチュアリズムの諸高級霊たちの霊信と一致し、正当な守護霊の語りとしてその信憑性が保障されているように思われます。
ここで浮上してくるのが、里沙さんはシルバーバーチなどスピリチュアリズムに関する書籍を読んでおり、それを元に語ったのではないかという疑いです。
しかし、これについて彼女はきっぱり否定しています。また、それを信ずるに足る録音試聴後の感想があります。
彼女は感想として次のように語っています。
私の守護霊は阿弥陀如来だ、と高名な信頼できる霊能者から霊視してもらって、そう信じていました。だから、私自身が守護霊の役割演技をして語るとしたら、守護霊に名前はありませんとは絶対言わないと思います。阿弥陀如来です、と言ったはずです。私の守護霊に名前がないと言われてちょっとショックです。阿弥陀如来以上の守護霊はいないと思っていたから、稲垣先生の守護霊より霊格が上だと思って、密かに優越感があったのに、稲垣先生の守護霊のほうが霊格が高いと言われたのもショックです。
つまり、彼女にスピリチュアリズムの知識があったとすれば、自分の守護霊を阿弥陀如来だなどと信じることはまず考えられません。
高級霊は原則、素性を明かさない、というのがスピリチュアリズムの常識ですから、彼女の守護霊についての知識は、仏教の説く「守護仏」と混同している程度の知識でしかなかったと判断できるわけです。
このように検討してみると、⑤の語りの主体は、里沙さん以外の第三者である「守護霊」である可能性が高いと判断できるように思われます。
こうして検討を重ねてきますと、憑依したとおぼしき守護霊の回答は、里沙さんの意識が投影された役割演技だと解釈するよりも、彼女が霊媒の役割を果たし、守護霊からの霊信を伝えたものと素直に受け取るほうが妥当性が高いのではないかと思われます。 
ただし、そのように受け取るにしても、ここで述べられている内容が、絶対的に真実であると主張しているわけではありません。
前世療法を始めとする私の活動を、こうした言葉によって権威づけようとする意図も全くありません。
あくまで何らかの霊的存在者の一意見として、どこまでも冷静に受け止めるべきだと考えています。
こうした言葉で自己を権威づけたり絶対化することはあってはならないことで、徹底して厳しく自戒すべきだと思っています。
特に「神の計画」「神との約束」「善と悪」といった事柄を、軽々に評することは、極めて大きな問題をはらむものです。
こうした表現の取り扱いについては、十分過ぎるほど慎重であるべきだと考えています。
こうした催眠による里沙さんへの憑依実験の前後から、私の関心は、宗教思想であり霊の科学でもあるスピリチュアリズムへと必然的に重なっていかざるをえないようになっていきました。
そして、私の脳裏に思い起こされたのは、モーゼスの『霊訓』にある次の一節でした。
霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。(中略)
筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命について啓示を垂れさせる。かくのごとく人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されてきたのである。
今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムにほかならぬ。(中略)
常に分別を働かせねばならぬ。その渦中に置かれた者にとっては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。(近藤千雄訳『霊訓』「世界心霊宝典」第一巻、国書刊行会)
インペレーターと名乗る高級霊からのこの霊信に、紹介した超常現象を引き当てて考えてみますと、この引用部分は私に向かって発信された啓示であるかのような錯覚すら覚えます。
高級霊インペレーターが説いているように、前世療法にとりかかる前の私は、「筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者」のレベルにありました。
だから、「秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく」ために、「動かぬ証拠」として「タエの事例」をはじめとして、ヒーリング能力の出現などの超常現象が、霊界から私に次々に提供されているような気がしていました。
そうした直感の真偽を確かめるために、里沙さんの守護霊に尋ねてみるという憑依実験を試みたわけです。
その結果の検討・考察は、これまで述べたとおりです。
この検討・考察は「常に分別を働かせねばならぬ」と言うインペレーターの忠告に従っていることにもなるのでしょう。
そして、分別を働かせた結果の帰着点は、霊と霊界の存在を排除しては説明できないのではないかということでした。
2005年以前の私の立場ば、例えばヒーラーと称する人々のヒーリング効果の解釈として、プラシーボ効果であるとか、暗示効果であるとか、信念の心身相関による効果であるとかの唯物論的・科学的説明に躍起となって、それを公正な態度だと信じて疑わなかったと言えます。
しかし今、自分自身に突如ヒーリング能力があらわれ、その説明は霊界と霊の存在抜きには(霊的真理抜きには)考えられない事態になってきたように思われました。
そして、「動かぬ証拠」を次々に提供され、ようやく「霊的真理の初歩段階」を卒業しかけているいるのではないかと感じています。
やはり人間は、最後は自分自身の直接体験にこそ、それが非科学的であろうとそれを越えて確信させる、自明の真実性を持つと言わざるをえません。
交霊能力のあった英国のスピリットヒーラーであるハリー・エドワーズは、高級霊界が霊的治療によって地上の人々を霊的覚醒に導く計画であることを知っていたと言います(ハリー・エドワーズ著、梅原隆雅訳『霊的治療の解明』国書刊行会)。
里沙さんの守護霊が伝えてくれた、「人を救うという計画」という語りがそれを指しているとすれば、「人を救う道に進むという神との約束を果たす時期が来た」私は、前世療法とヒーリングを道具に、人のお役に立つ道に進むような流れに沿って動いているのかも知れないと思い始めたのです。
そして、これからの自分が、前世療法とヒーリングを与えられた道具として役立たせる道を実践していくことができれば、ヒーリングの謎も守護霊の語りの真実性も、おのずと開示されていくのではないかと思いました。
また、そうした開示がされないにしても、生まれ変わり探究の道を愚直に進む過程で、懐疑的な態度を転換して霊的現象をありのままに認めていくようになっていくのではないかと思われました。
(その5へつづく)

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