2012年11月30日金曜日

「タエの事例」全セッション記録その2

その1からの続き
CO:あなたが人のために犠牲になることをなんて言うんですか?
CL:お供えに。・・・馬も。馬。ばと様。ばと様。・・・馬頭観音様。
※馬頭観音を「ばと様」と呼ぶことを里沙さんは知らない。里沙さんの周辺地域には馬頭観音を祀ってあることが稀である。なお、渋川市上郷良珊寺の僧侶より、現在でも「ばと様」という呼び方が現地に残っていることが確認出来ている。ちなみに、このときの私には、「ばと様」という意味がまったく理解できなかった。
CO:馬頭観音様と一緒に? ふーん。
CL:雷神様は馬に乗ります。龍神様はわたしを乗せて行きます。
CO:龍神様というのは吾妻川のことですか?
※2006年アンビリ放映では渋川市教委小林氏が、吾妻川を龍神に見立てたのであろう、という推測を述べているが、そうではなく、タエの言うように、浅間山に龍神が住まうと当時の村人は考えていた。吾妻川そのものを龍神と考えていたわけではない。浅間山に龍神信仰のあったことは、浅間山麓嬬恋村住人から確認している。
CL:浅間のお山に住む龍神様です。熱くて、住めないので、川を下ります。
CO:お山が熱くて住めないので、浅間山から川を下る龍神様に、あなたが乗るということですか。じゃ、今あなたはどこにいるのですか? 川の中ですか?
CL:はい。
CO:川の中でどんなふうにされているんですか?
CL:白い着物を着て、橋の柱に縛られています。
※この橋は現存していない。当時の街道を結ぶ橋のあったことは事実で、その場所は現地調査で確認している。再セッションでは、雷神を乗せる馬も、タエとともに橋の柱に繋がれていたと語っている。当然、馬も流されているはずであるが、渋川村の流失人馬の被害の中に、馬の記述はない。流されることが自明のことなので被害として計上されなかったと思われる。タエも同様に流死することが自明であったはずであるが、さすがに人の流死は伏せることができなかったのであろう。「人壱人流(ヒトイチニンナガル)」の記録がされている。
CO:それは自分から縛ってもらったのですか?
CL:はい。
CO:じゃ、川岸では誰かあなたを見守ってるでしょ?
CL:行者様。導師様。みんないます。
CO:あなたの村では他にも犠牲になった人はいますか? 人々のために。
CL:いません。
CO:他の村でも、そういう話を聞きましたか? 人柱って言うんですよ。
CL:知らない・・・。・急ぐの・・・急ぐ。
CO:急ぐ?
CL:急ぐ! 時間がない。
※天明三年七月八日(旧暦)午前10時頃の浅間山大噴火の火砕流(鎌原火砕流)で堰き止められた吾妻川上流部のダムによって下流の流れが一時的に止まった。やがてダムは決壊し、未曾有の大泥流が一気に流れ下った。200km下流の伊勢崎市には午後3時に押し寄せた記録が残っている。この事実から計算すれば、渋川村辺りに大泥流が押し寄せたのは決壊後約2時間程度のことになる。この史実から推定すると、タエの死亡は七月八日正午前後になる。
CO:それで、そうやって人のために犠牲になると、みんなが供養してくれませんか?
お地蔵さんかなにかに祀られませんか?
※一般に人柱の犠牲者を供養するために、地蔵尊などを祀ることが多い。こうした供養の事実を地元郷土史家に調査していただいたが、タエの人柱供養のための地蔵尊、供養塔などの言い伝えは渋川市には残っていないとの回答を得ている。上流の村々の多数の流死者被害に紛れて、タエの供養どころではなかったかもしれない。ただし、渋川村の流死者は「人壱人流(ヒトイチニンナガル)」となっている。他の村々の流死の記述は「人、○○人」となっており、渋川村に限って流死者の数の後に「流」が付け加えられている。意味深な記述に思われる。
CL:分からない。
CO:あなたは自ら望んで、みんなのために、人柱になったのですね。
CL:(頷く)・・・うれしい。(微笑む)ごちそう食べて、白い着物着て。
CO:その着物って絹ですか?
CL:花嫁衣装。
※タエは、やがて起こる大洪水から上流の村々を救うために、吾妻川を下る龍神の背に乗る花嫁として人柱になるということ。そのタエを送り出すための酒宴がおこなわれたと再セッションでタエは語っている。そこで、タエはキチエモンに勧められるまま、意識朦朧となるまで飲酒させられたとも語っている。
CO:花嫁衣装で。あなたは、今、何歳?
CL:一六。
CO:一六歳ですか。川岸にキチエモンさんの姿見えますか? それで川の水は増えているんですか?
CL:昼間だけど真っ暗で提灯が・・・ 分からない。
※浅間山から東南東に50km離れている渋川村で、大噴火の噴煙で「昼間でも真っ暗で提灯が必要」というタエの語りは誇張のように思われる。しかし、当時の日記に東に60km離れている伊勢崎市でも「七月七日(旧暦)昼になっても暗夜のようだ」と記述されている。また東南東62km本庄でも「七日、14時頃にわかに暗くなり闇となった。往来の人は提灯を使う」と当時の記録(『天明度沙降記』)にある。こうした史実に照らせば、タエの「昼間だけど真っ暗で提灯が」という語りが、真実を語っていることに間違いない。ちなみに、七月七日深夜に大爆発があり、吾妻火砕流が起きている。翌八日午前には鎌原火砕流を起こした大爆発が続いて起きている。
CO:なぜ昼間なのに暗いんでしょう? 分かりますか、そのわけが。
CL:お山が火を噴いてるから。
CO:煙で暗いわけですか。太陽が遮られて。(CL頷く)そういうことですか。それで昼間に提灯がいるくらい暗い。あなたのいる川の水は今どんどん増えていますか?
CL:は、は、はい。増えてます。ウウーククー。苦しいー。ハア、ハア。ググッウー ウウー・・・ハア、ハア・・・。                      
CO:どんどん増えてますか? 大丈夫ですよ。苦しいですか?
※ここでタエは泥流に呑まれて溺死する。このタエの溺死の苦悶が里沙さんに再現され、その苦しさ筆舌に尽くしがたいと言う。したがって、タエの再セッションを7年後の2012年5月まで許可していただけなかった。そして、この再セッションにおいても、突然溺死場面に戻ることが起き、その苦悶はすさまじかった。このことは証拠映像に撮ってあるので、今回制作の映画の中で公開される。
その3へ続く

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