以下は前回紹介したブログ記事への私のコメントへの応答です。
「永遠なる自由ー霊的哲学を求めて」の記事ですが、私はこれについて再コメントしました。その紹介です。なんとややこしい議論であることよ、と思われる方は読むのを中断されるでしょう。が、スピリチュアリズム霊学を学ぶには格好の記事であることは確かです。
稲垣勝巳さんへの応答2013-02-04 03:54:15
前回の記事(人格とは何か)に関して稲垣勝巳さんからコメントをいただきましたので、別エントリとして応答を書いてみたいと思います(コメ欄は不自由なので)。
《セッションで現れる意識現象の事実は、生まれ変わりの主体は「私」ではなく、「魂」と呼ばれる意識体全体であり、「現世の私」は、来世では「魂の表層の一つとしての前世人格」として死後存続するということです。》 「『魂』と呼ばれる意識体全体」というのは、「魂」とその「表層」も含めてということでしょうか。
つまり、タエやラタラジューを表層に持った魂全体が、里沙さんに生まれ変わっているという考え方でよろしいのでしょうか。
「表層」というのを独立人格で現在も生きて活動しているとするのか、というところがポイントですね。(私のこれまでの理解では、過去世の人格は、「遺像」(非常に濃密な記憶・記録)のようなものとして保持されるという感じです。)
《そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。》
これの根拠となるものは何でしょう。タエやラタラジューの記述には、彼らが「それぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けている」ような情報はなかったように記憶していますが、間違いでしょうか。
別主体であるタエやラタラジューは、普段はどこで何をしているのでしょう。その「人格」は、外界・他者を認識し、何らかの意志を持って行為をしているのでしょうか。また、タエやラタラジューは、お互いや「(本体の)魂」や現世人格である里沙さんに同一性感覚を持っているのでしょうか。本当にタエやラタラジューは生まれ変わっているのでしょうか。
《ただし、深い傷を負っている前世人格は孤立し、その苦悩やそうならないための警告を「現世の人格」に訴え続けるので、現世の人格は、その影響を受け、不都合な心理的症状やときには肉体の諸症状を自覚することになるといことです。こうした私の見解は、顕現化した前世人格への聴き取りの累積から形成されてきたことです。魂表層の前世人格が不活性な状態で存続していないからこそ、現世人格に良くも悪くも影響を与えていると考えざるを得ません。》 《なお、ラタラジュー人格を含めて前世人格の顕現化現象は、そうした魂表層の前世人格が、現世人格に憑依して自己表現しているというとらえ方をすることが妥当であると考えられます(里沙さんの守護霊も憑依ととらえなさいと告げています)から、今までにない概念として「自己内憑依」とも呼んでいます。》
こういう観点だと、前世人格と現世人格は「他者」だということにならないでしょうか。
「他者」が「前世人格」であるということは、どうやって証明されるのでしょうか。 「同じ魂の表層である」と説明されるのかもしれませんが、それは証明可能でしょうか。
もし、「現世の私」というものが、生まれ変わりにおいて、部分的解体を経ず、「次の生の人格」とは別の存在として、現世生活とは少し離れて存在・活動するのであれば、それは「類魂(同じグループの魂)」を見守ると言われてきた状態と、あまり違いはないことになるのかなと思います。(もっともその場合、私は類魂を見守りつつも、霊界で自分なりの活動をしていることになると思いますが。)
さらに懐疑論的に言えば、前世人格が「実在」であり、この世に「生まれ変わっている」という「証明」は可能でしょうか。(「守護霊」の証言は、科学的な証明の対象になるものでしょうか。)
《あなたの議論は、『私』(私の人格)の個性そのものだけの死後存続に傾斜が置かれすぎて、私のセッションで現れる意識現象の事実とは相容れません。》
私はスピリチュアリズムと心霊研究を探究してきて、もともとの立場としてはスピリチュアリストです。スピリチュアリズムの綱領と言われているもの(そんなものは正式にはありませんがw)は、「①人間の個性の死後存続、②霊との交信可能性」です。ですから、私は基本的には「私という人格が死後存続したり生まれ変わりしたりするか」という問題意識を持っています。で、長年の探究の蓄積によって、それは正しいだろうと思っています。ただし、それ以外の様態が並行的にあり得ないと言うつもりはありませんし、「私という人格ではない、別のものが死後存続する、生まれ変わる」という可能性(私や人格や魂という概念そのものの再編成?)も全否定するつもりはありません(カルマの伝搬というのもあるでしょうし)。しかし、それらはいわゆる「スピリチュアリズム」とは異なる立場だろうと思います。そしてもちろん、そちらが正しいと証明されれば、受け入れるつもりです。
《私には、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。》
それを否定するつもりもありませんし、否定する根拠もありません。ただ、従来のスピリチュアリズムその他で示された知見とは異なるなあ、と感じているだけです。
そしてその違いが何によるのか、単に解釈や表現の違いなのか、そもそも違う現実がいくつもあるのか(霊統の違い?)、それともどこかに間違いがあるのか、そのあたりにとまどっている次第です。
タエやラタラジューの発現現象が、「独立的人格の憑依」だとした場合、どうも気になるのは、彼らが「完全な人格性」を欠いているように見えることです。
彼らは、史実と符合する事実を語り、一定の感情を表わし、またラタラジューの場合は当時の言語も話しましたが、自分の置かれている状況への認識や、意志の表明や、他者への働きかけをしていません。前の記事で挙げた人格を構成する①から⑤の要素の、ごく一部分しか見られないのです。
霊の憑依において、霊媒が優秀であればという条件付きですが、出現した人格は、現に今生きている人格と同様、自己の状態への言及や、居合わせた人への働きかけや、意志や意見の表明をします。現存在としているわけです。(マイヤーズ霊の交差通信記録などはその典型です。)
けれども、記録をみる限り、タエやラタラジューは、どうもそういう「一人前の人格」には見えないのです。むしろ、通常の(現世内の)退行催眠で幼児に戻った人が、当時の自分を表現している時に近い印象を受けます。あるいは、こういう言い方はちょっと申し訳ないですが、死後にきちんと霊界での活動をしておらず生前の状態に固着する「未浄化霊」の語りに近い感じもします。
前にもどこかでちらりと言ったことがありますが、もし「私」が死後存続し、生まれ変わっても、こういう状態でしかないのだとしたら、とてもつらい感じがします。
これまでの「霊との交信」記録では、かなり多くの「死後の魂」にとって、「死は解放である」「霊界は肉体の束縛から逃れて、(その魂なりに)素晴らしい世界で活動する」ことが証言されています。未熟な魂といえども、自己省察や主体的活動をして生きています。古くは「ベールの彼方」から、最近はマイケル・ニュートンなどの報告まで、そうした証言はたくさんあります。
個人的な感想を言えば、それが真実であれば嬉しいと思いますし、真実であろうと思っていますし、スピリチュアリズムがもたらした希望はそこにこそあると思っています。
そういった観点から見ると、タエやラタラジューは、別人格主体ではなく、「人格記憶・記録の殻(統合的構造体)」であって、それが一時的に復元されたのではないか(霊界に行った魂が、新たに来た魂や、脱魂で訪れた魂に会う時、かつて現世で生きていた時の姿や人となりを纏うのと同様に)と推論せざるを得ないわけです。そうでないのなら、これは「特殊ケース」かなとも。
もちろん、稲垣さんには実践を通した知見というものがあるわけですから、それを無碍に否定したり、こちらの見解を押しつけたりするつもりはありません。
タエやラタラジューの事例は、唯物論に反駁するのに非常に強力な事例だと賞賛していますし、真摯な実践家としての稲垣さんの姿勢に敬意を抱いております。 ただ、私は、今のところスピリチュアリストの末裔として、あくまでも「私」の死後存続や霊界活動や生まれ変わりを問題にし続けたいですし、多くの事例から、その事実を主張したいと思っています。
ご質問への回答 (稲垣勝巳) 2013-02-04 23:58:28
①『魂』と呼ばれる意識体全体」というのは、魂とその表層も含めてということでしょうか。
つまり、タエやラタラジューを表層に持った魂全体が、里沙さんに生まれ変わっているという考え方でよろしいのでしょうか」というご質問については、私は、セッションで現れる意識現象の事実の累積から、そのように理解しています。
私あて霊信においても、魂は表層と中核(内層)の二重構造をしていると告げています。
ただし、魂の中核(内層)については不明です。
②《そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。
そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。》「これの根拠となるものは何でしょう。タエやラタラジューの記述には、彼らが「それぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けている」ような情報はなかったように記憶していますが、間違いでしょうか」というご質問について。
タエとラタラジューについての拙著の記述には、ご指摘のようにこのような内容はありません。
こうした情報は、それ以外のセッションで顕現化した諸前世人格への聴き取りの累積から確かめてきたことです。
その理由は、2007年1月の私あて霊信で通信霊がそのように告げてきたので、その真偽を確認するためです。
③ 《私には、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。》 という私の見解については、諸セッションで現れる意識現象の事実は、そのように現れてくるから、そう考えるしかない、というトートロジーでお答えするしかありません。
敢えていえば、「臨床から得られた知」というほかありません。
ちなみに、こうした知見のもとは私あて霊信が告げています。
従来のスピリチュアリズムその他で示された知見とは異なるなあ、というあなたの感想は私も全く同感でした。
そのことを通信霊に質したところ、
「尋ねるまでもない。あなたに与えられるべきものが与えられたのだ。そして、これまでのものたちに与えられるべきものが与えられただけだ。すべては神の計画のもとにおこなわれている。それはそうあるべきであっただけだ。そして、あなたにとってもそうである。あなたには、与えられるべきものが与えられたのだ」
という回答とは言えない回答でした。
魂の二層構造仮説などは、およそ生身の人間である私の独創であるはずがないのです。
④ 「彼ら(タエとラタラジュー)は、史実と符合する事実を語り、一定の感情を表わし、またラタラジューの場合は当時の言語も話しましたが、自分の置かれている状況への認識や、意志の表明や、他者への働きかけをしていません。前の記事で挙げた人格を構成する①から⑤の要素の、ごく一部分しか見られないのです・・・死後にきちんと霊界での活動をしておらず生前の状態に固着する『未浄化霊』の語りに近い感じもします」というご感想について。
そのように感じられるのはもっともでしょう。
両事例とも、2回のセッションしかしていませんから、さらにセッションを数回重ねれば、状況認識や他者への働きかけをすることが観察されるかもしれません。
しかし、セッションをおこなうことは、当の里沙さんの脊柱側湾症の悪化状態とタエとラタラジューの死に際の苦痛の再現にこれ以上耐えられないという訴えによって、控えるしかないのです。
ただ、彼らは意志の表明はしていると認められます。
里沙さんの肉体を借りて、そうした意志を表明しているときの里沙さんの苦しみや喜びの表情は、セッション映像を詳細に観察すれば納得できることです。
セッションをおこなった当事者の私からすれば、タエもラタラジューも、ただ今、ここに現れて、生き生きと対話している、という印象を持たざるをえませんでした。
里沙さんの前世記憶の想起ではない、と思わざるをえないのです。
⑤「こういう観点(自己内憑依現象という概念)だと、前世人格と現世人格は「他者」だということにならないでしょうか。他者が前世人格であるということは、どうやって証明されるのでしょうか。同じ魂の表層である、と説明されるのかもしれませんが、それは証明可能でしょうか」というご質問について。
自己内憑依している前世人格が、他者(異物としての憑依人格)ではないという証明は、少なくとも里沙さんにおいては、彼女の残しているセッション中の意識内容の内観記録を詳細に検討すれば、可能だと思っています。
一言で要約すれば「現世の自分と前世人格との同一性の感覚の有無」によって判断可能だということです。全くの他者(異物)に対して、自分とのつながりの感覚が持てるはずがないからです。
このことについての先行研究は皆無ですから、現時点ではこれしか回答のしようがありません。
もう一つは、同一の魂の表層に存在するタエとラタラジューの人格であるので、交替を要求すれば、交替が起こり、要求した人格が顕現化する現象の観察によって、同じ魂の表層に存在しているからこそ、連絡を取り合うことが可能だろうと推測できます。
ちなみに、私あて霊信でも、「それぞれの前世のものたちは友愛を結び、人生の知恵を分かち合っている」と告げています。
それ以外のご質問については、現時点では回答を持っていません。
分からないということが正直なところです。
私あて霊信の真偽を検証するために、SAM前世療法の実践を累積してたかだか5年、700事例を越えた時点の私の見解です。
今後も、私は諸文献の事例からではなく、まずは自らの手で確認した事例から、明らかになったことを主張したいと思っています。
わたしは臨床催眠実践者です。登録商標を取得した「SAM前世療法」の実践によって、魂状態の自覚とともに前世人格の顕現化などが「意識現象の事実」として確認できます。それらの意識現象について、生まれ変わりの先行研究と科学的方法論に基づく検証結果についての考察を公開していきます。「意識現象の事実」の真偽について、「観念より事実」、「理屈より実証」をコンセプトに検証と考察を深める実践を続けています。なお、このブログは、諸宗教との関わりは一切ありません。
2013年2月5日火曜日
2013年2月4日月曜日
生まれ変わりについてのやや難解な議論の紹介
私の知人の「永遠なる自由ー霊的哲学を求めて」というブログで、以下のような議論がありますので紹介します。
彼はスピリチュアリズム霊学の立場からの問題提起でしょうし、それに対する私のコメントは、心理臨床実践者の立場での見解だと言えます。
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死後存続や生まれ変わりにおける「人格」についてのやや専門的な議論
前のブログの【「私」という超難題】(1) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(上)【「私」という超難題】(2) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(下)において、真性異言を伴う「前世想起」とおぼしき事例――イアン・スティーヴンソンの「シャラーダの事例」と稲垣勝巳氏の「ラタラジューの事例」――を取り上げて、「憑霊か前世記憶か」という問題を論じ、さらに、「死後存続」や「生まれ変わり」において「何が主体か」という問いを出しました。
そして、「死後存続」や「生まれ変わり」の「主体」が科学的・実証的に定義できない以上、「死後存続」や「生まれ変わり」の科学的・実証的証明も不可能になるのではないかという、いささか極論的で驚愕的な提議もしてみました。
《死後存続(survival after death)とか生まれ変わり(reincarnation)ということは、何らかの「主語」を伴っています。ごく当たり前に考えれば、「私」が死後も存続する、「私」が死した後再びこの世に生まれてくる、ということを意味するはずです。
ところが、この「主語」が確定できない。何が死後存続し、生まれ変わるのかを、言うことができない。となると、「死後存続」や「生まれ変わり」の証明は、“不可能”ということになります。》
また、稲垣氏が、「ラタラジュー(やタエ)は現世人格とは別人格であり、それが憑依している」というような解釈をされていることに関して、いささかの疑問も提示しました。
そのあたりのところがすっきりしなかったので、少し続編を綴ってみることにします。
死後存続とか生まれ変わりは、当然、その主体があることを前提にしています。
それは一般的には「私」、もう少し詳しく言えば「私の人格」です。
もし「私」が「神という大きな火の小さな火花」であるとか、「大いなる宇宙エネルギーの一顕現化」であって、「私」の死後、その「火」とか「エネルギー」とかだけが脱け出して、存続や再生(再顕現化)を続けるのであるなら、それは「私」の存続や再生とは言えません。
同様に、稲垣氏の解釈にあるように、個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は「魂の表層のもの」であって、不滅の存続をするのは「魂」そのものだとするならば、個々の現世人格の「私」は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に「凍結」して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。)
で、改めて、「死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならない」ということになると思います。そして、問題は、その「私の人格」とは何かということになります。
これは前のブログでちょっと書いた「私というものは、私の人格をも超えた存在だ」という提議と、矛盾するものではありません。私は必然的に、常に私の人格を帯びるものであるけれども、私の主体(真の核)はそれを超えたところにあるということになるかと思います。
主体としての「私」の人格とは何かということを、ごく一般的な見方から考えてみたいと思います。 それは、次のようなものになるかと思います。①固有の性格特性(複数)が持続的に保持されていること②「私」を主人公とした記憶(多数)を保有していること③②に伴う知識・技能を保有していること④外界を受容し、判断し、それに対して意志をもって行為すること⑤自己同一性感覚(主体感覚)があること(当然、責任主体も想定されていること)
①の性格特性というのは、たぶん非常に多様・多数のものです。優しい・厳しいといった漠然としたものから、特定のもの(権力、愛、真実などなど)への強い志向といったものまで、レベルも、大小も、方向性も、様々あるでしょう。そして、一般的に人は、自己の中に複数の性格特性を持っていて、それを発揮したり引っ込めたりもします。また、一部の特性が途中で消滅したり、新たな特性が加わったりすることも、ないとは言えないでしょう。
②は自己同一性の基礎となる記憶です。新生児はともかくとして、人間はこれをたくさん獲得していきます。もちろん、中には表面(意識)から消え去ってしまうものもありますし、あまりに細かくて心には意味のない情報は、内奥(無意識)からも消え去ってしまうかもしれません。
③は、経験によって蓄えられた客観的な知識(教養・常識・世界観)とか、言語能力や楽器演奏能力といった「特殊技能」(暗黙知)などです。
④は、生きている主体であるということです。内的な空想・妄想によってではなく、外界(他者)を客観的に認識・判断し、一定の「自由意志」「選択」によってさらに経験を増していくということです。また、主体であるということは、「自らの行為による結果は自らが引き受ける」という責任の所在も意味します。
⑤は、時間や累積的経験の全般にわたって「私」が主体として体験してきたという感覚、私は私であり、私に責任があるという感覚です。 これらの要素は、時たま、病気や事故などによって毀損されることがあります。神経症によって性格特性の一部だけが突出していびつになったり、記憶喪失になったり、認識や判断や意志が働かなくなったり、自己同一性感覚が部分的に破壊されたり(解離性自己同一性障害=多重人格)、と。 けれども、通常では、これらが人格の中心部分を形成していることは間違いないでしょう。
さて、こうした要素が、死後どうなるか。 唯物論の「帰無仮説」では、すべてなくなります。当然ですね。いや、原理主義的唯物論だと、こうした要素すら「ない」と言うかもしれません。自己同一性なんて、どうやって計測できるの? みたいな感じですね。まれに見られる「折衷的死後存続説」というのがあります。
これは、たとえば、②の「私の記憶」のみが、どこかに、何らかの形で保持される、という考え方です。「アカシック・レコード」なんていう概念がありますね(実際にあるらしいですが)。仏教でいうと「虚空蔵」ですか。 偉大な業績や作品を遺せば、そこに「私」が残り続ける、といった考え方は、けっこう広く見られます。西欧文明のエリートたちは、案外そういうことを目指しているかもしれません。個人名にやたらこだわりますし。 一部の宗教には、「悉皆成仏説」とでも言うべき死後説があります。それは、(極悪人を除いて?)すべての人は、死後に菩薩や天使のような存在になるというものです。
これにおいては、①②③に関係なく(むしろそれはさらっと捨て去られて)、「私」は「理想的人格」に変身します。④の行為主体性が継続されるだけで、⑤生前人格との自己同一性感覚も不明です。
まあ、ありがたい説ではありますが、「私(という人格」の死後存続とは言えないものです。 とある霊からのメッセージは、「死後、どんな低劣な人間も極悪人も一瞬のうちに変身して天使のようになるというのなら、それは死後存続とは言えないだろうに」と言っています。 そしてこういう考え方は、「生きるということの意味」も倫理も奪ってしまう、宗教にあらざるべき考え方と言えるでしょう。 結局、「死後存続説」とは、①の性格諸特性はほぼそのまま保持される②の体験記憶はほぼそのまま保持される(次第に細かい部分は失われることがあるにしても)③の知識・技能も同様④の行為主体性も保持される⑤生前人格との自己同一性感覚はある ということでなくてはならないと考えられます。 そして、スピリチュアリズムや心霊研究において蓄積されてきた「霊(肉体を去った個性)との交信」記録においては、おおむねこのことが立証されてきたわけです。(多くの人は認めないにしても。)
さて、こうして「存続」した「私という人格」が、再び現世に生まれ変わる時に、どうなるか。
これはとても難しい問題です。
①の性格特性はその主要な部分が保持されると思われます。ここがまったく変わってしまったら、「自己同一性」は保持されなくなるでしょう。
②の体験記憶は、ごく稀な例外を除いて、表面的には“全消去”されます。ただし、無意識?には保持されて、変性意識状態で想起されることもあります。
③の知識・技能については、稀に一部を保持・発揮することがあるようです(由来不明の恐怖症や持って生まれた特異才能など)。なお、ごく稀に、身体的特徴(先天性・後天性を問わず)を引き継ぐことがあるようです(スティーヴンソンによる“先天性刻印”の研究参照)。
④の行為主体性は当然保持されています。また、時に「カルマ」などと表現される「責任」主体性(課題や償いを引き受けること)もあるとされています。
⑤自己同一性感覚は、前世人格や中間世人格との間には存在しません(そもそも通常は知らない)。
つまり、体験記憶や知識・技能記憶は消去されているものの、性格特性(のかなりの部分)と責任主体性は持続している、ということになるかと思います。
ところで、こうして生まれ変わった「私」が、また死んだ後、どうなるか。複数回再生と死を経験した「私」は、どういう状態にあるか。ここに微妙な点があります。
可能性は二つでしょう。 Ⅰ 直前の生とのみ連続性がある Ⅱ 複数回の生との連続性がある
Ⅰはあまりに奇矯な考え方ですが、まだ未熟で現世の諸欲にとらわれているような魂ではあるのかもしれません。
Ⅱは、「生まれ変わりによって魂が成長していく」とする考え方と合致するものです。
複数回の生との連続性を持った場合、
①複数回の生において持った性格特性をすべて保持する
②細部は除いて、複数回の生の主要記憶を保持する
③②と同様
④長い時間・経験を越えて持続する主体性を獲得し、責任も受容する
⑤複数回の生の自己と同一性感覚を持つ こうなっていくのであれば、「私」は、輪廻転生を繰り返すことによって、より豊かに、大きく成長していくものだ(現世ではそれを自覚しないが)ということになるでしょう。
さて、ここで、前世想起(催眠下、ないしは偶発的変性意識状態による)とおぼしき事例での、きわめて「人格そのものに近い」出現について考えてみます。
特に「シャラーダの事例」や「ラタラジューの事例」のように真性異言を伴ったものに顕著ですが、前世人格とおぼしき人格が、今そこにいる人格のように、発言したりする場合です。これは、よくある前世退行催眠での、「こういうことがあった」という「記憶想起」とはかなり位相が異なるものです。 シャラーダやラタラジューを文字記録や映像記録で見た感じでは、
①の性格特性はある程度認められる(特にシャラーダの場合は非常に顕著)
②は部分的にかなり詳細に発現する
③は部分的に発現している(在世時の言語=真性異言)
④は?
⑤現世人格との同一性感覚は持っていない
④ですが、シャラーダは、その時点での外界や状況を客観的に認識し(自分がなぜここにいるのかはわからなかったようですが)、さらに自分の郷里に帰り、親戚たち(実はもういない)に会いたいといった要求をしたようです。ラタラジューは、「~したい」というような発言はないようです。
⑤に関して、現世人格が「出現人格」に対して同一性感覚を持っているかということですが、シャラーダの事例では、出現時に現世人格は不在(消失)となっており、事後に報告されても「それは私の前世だ」という感覚はなかったようです。ラタラジューの事例では、里沙は出現と同時かその直後に、同一性感覚を持ったような感じで報告されています。
つまり、シャラーダの事例では、この「人格」は、「死後存続」した人格が、そのままで、つまり「憑霊」して出現したと捉えることが自然だと思えます。
ラタラジューの場合は、どうでしょうか。現状認識や主体意志に乏しいということは、完全な人格ではないということ、つまり憑霊ではないということでしょうか。
一般的に「前世退行催眠」で前世記憶を想起した場合、一般人が普通に過去の記憶を甦らせているように語る場合もありますが、時に、非常に臨場感を伴って、あたかもその前世人格が、今そこでその体験をしているかのように――つまりかなり人格的な姿をして――、再現される場合もあります。 このような場合、そこに「人格」が出現していると見るべきなのでしょうか。それとも、それは諸記憶が総合されて、そこに霊的エネルギーが注入されることによって、「あたかも人格のように」出現していると見るべきなのでしょうか。
稲垣氏の提示しているように、「前世人格は別人格であり、それが憑霊している」という捉え方をすると、「私の人格」の「死後存続」や「生まれ変わり」という考え方とは衝突することになります。 ラタラジュー、タエ、里沙がそれぞれ「別人格」であるとすると、その間にある「生まれ変わり」とは何だということになるのでしょうか(どういう連続性があるのかということでもあるでしょう)。
また、ラタラジューやタエは、「死後に人格性を持って活動している」のでしょうか。彼らが死後、かなり不活性な状態で留まり続けるとしたら、里沙、あるいは私たちという現世人格も、死後、不活性な状態になるのでしょうか。
どうも私には、「ラタラジューやタエが、統体的記憶(ただし想念が実在であるように“実在”)に霊的エネルギーが注入されることで賦活した『準人格的発現』であるなら、生まれ変わり説は成立するが、『別人格』であるのなら憑霊説になるのではないか」と思われてなりません。
それとも、「私という人格の死後存続や生まれ変わり」という概念が不適切だということになるのでしょうか。
そうすると、一体“何が”死後存続し、生まれ変わるのでしょうか。
言うまでもありませんが、こうした議論は、シャラーダの事例やラタラジューの事例の信憑性を否定しているものではありません。
それは明らかに「唯物論では説明できないもの、それに反駁するもの」であり、「人間の人格(少なくともその主要部分)が肉体の消滅後も、現行の物質的な手段に依らない何らかの形で保持される」(狭い意味での「死後存続」)ということを証明するものであることは疑いありません。
しかし、「死後存続」や「生まれ変わり」は、厳密に考えれば考えるほど、定義・立証が困難になってくるものであり、おそらく科学的・実証主義的な方法や語彙では、扱ったり論じたりすることがほぼ不可能なものではないかと思えるわけです。
こうした突っ込みすぎた議論は別にして、「死後の個人との交信」や「前世記憶の想起」などによって、死後存続や生まれ変わりが十分に信憑性を持ったものであることは、どれだけ強調してもし過ぎることはないでしょう。
しかし同時にその奥には、人間の知性ではなかなか理解し尽くすことのできないような謎があることも、また銘記しておくべきなのかもしれません。
またまたすっきりした議論になりませんでしたが、とりあえずはこのあたりで。
【コメント】
臨床家としての立場から (稲垣勝巳) 2013-02-03 23:13:29
心理臨床のひとつであるSAM前世療法士としての私の立場は、観念より事実、理屈より実証へ向かわざるをえません。
主訴を抱えて生きづらくなっているクライアントを前にして、とりあえずの作業仮説を構築し、それにもとづくセッションを展開していかねば終結の道筋も立ちませんし終結へ至ることもできないわけです。
そうしたセッションで現れる意識現象の事実の累積によれば、「個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は魂の表層のものであって、不滅の存続をするのは魂そのものだとするならば、個々の現世人格の私は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に凍結して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。)で、改めて、死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならないということになると思います」というあなたの見解には同意しかねます。
私の理解力が不足かもしれませんが。
セッションで現れる意識現象の事実は、生まれ変わりの主体は「私」ではなく、「魂」と呼ばれる意識体全体であり、「現世の私」は、来世では「魂の表層の一つとしての前世人格」として死後存続するということです。
そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。
そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。
ただし、深い傷を負っている前世人格は孤立し、その苦悩やそうならないための警告を「現世の人格」に訴え続けるので、現世の人格は、その影響を受け、不都合な心理的症状やときには肉体の諸症状を自覚することになるといことです。
こうした私の見解は、顕現化した前世人格への聴き取りの累積から形成されてきたことです。
魂表層の前世人格が、不活性な状態で存続していないからこそ、現世人格に良くも悪くも影響を与えていると考えざるを得ません。実際、顕現化した前世人格は、そのように答えます。
なお、ラタラジュー人格を含めて前世人格の顕現化現象は、そうした魂表層の前世人格が、現世人格に憑依して自己表現しているというとらえ方をすることが妥当であると考えられます(里沙さんの守護霊も憑依ととらえなさいと告げています)から、今までにない概念として「自己内憑依」とも呼んでいます。
あなたの議論は、『私』(私の人格)の個性そのものだけの死後存続に傾斜が置かれすぎて、私のセッションで現れる意識現象の事実とは相容れません。
私は、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。
ただし、私の見解は、霊学的知識を棚上げして、セッションの累積から手探りで仕入れたものですから、現時点の「とりあえずの見解」であることをお断りしておきます。
彼はスピリチュアリズム霊学の立場からの問題提起でしょうし、それに対する私のコメントは、心理臨床実践者の立場での見解だと言えます。
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死後存続や生まれ変わりにおける「人格」についてのやや専門的な議論
前のブログの【「私」という超難題】(1) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(上)【「私」という超難題】(2) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(下)において、真性異言を伴う「前世想起」とおぼしき事例――イアン・スティーヴンソンの「シャラーダの事例」と稲垣勝巳氏の「ラタラジューの事例」――を取り上げて、「憑霊か前世記憶か」という問題を論じ、さらに、「死後存続」や「生まれ変わり」において「何が主体か」という問いを出しました。
そして、「死後存続」や「生まれ変わり」の「主体」が科学的・実証的に定義できない以上、「死後存続」や「生まれ変わり」の科学的・実証的証明も不可能になるのではないかという、いささか極論的で驚愕的な提議もしてみました。
《死後存続(survival after death)とか生まれ変わり(reincarnation)ということは、何らかの「主語」を伴っています。ごく当たり前に考えれば、「私」が死後も存続する、「私」が死した後再びこの世に生まれてくる、ということを意味するはずです。
ところが、この「主語」が確定できない。何が死後存続し、生まれ変わるのかを、言うことができない。となると、「死後存続」や「生まれ変わり」の証明は、“不可能”ということになります。》
また、稲垣氏が、「ラタラジュー(やタエ)は現世人格とは別人格であり、それが憑依している」というような解釈をされていることに関して、いささかの疑問も提示しました。
そのあたりのところがすっきりしなかったので、少し続編を綴ってみることにします。
死後存続とか生まれ変わりは、当然、その主体があることを前提にしています。
それは一般的には「私」、もう少し詳しく言えば「私の人格」です。
もし「私」が「神という大きな火の小さな火花」であるとか、「大いなる宇宙エネルギーの一顕現化」であって、「私」の死後、その「火」とか「エネルギー」とかだけが脱け出して、存続や再生(再顕現化)を続けるのであるなら、それは「私」の存続や再生とは言えません。
同様に、稲垣氏の解釈にあるように、個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は「魂の表層のもの」であって、不滅の存続をするのは「魂」そのものだとするならば、個々の現世人格の「私」は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に「凍結」して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。)
で、改めて、「死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならない」ということになると思います。そして、問題は、その「私の人格」とは何かということになります。
これは前のブログでちょっと書いた「私というものは、私の人格をも超えた存在だ」という提議と、矛盾するものではありません。私は必然的に、常に私の人格を帯びるものであるけれども、私の主体(真の核)はそれを超えたところにあるということになるかと思います。
主体としての「私」の人格とは何かということを、ごく一般的な見方から考えてみたいと思います。 それは、次のようなものになるかと思います。①固有の性格特性(複数)が持続的に保持されていること②「私」を主人公とした記憶(多数)を保有していること③②に伴う知識・技能を保有していること④外界を受容し、判断し、それに対して意志をもって行為すること⑤自己同一性感覚(主体感覚)があること(当然、責任主体も想定されていること)
①の性格特性というのは、たぶん非常に多様・多数のものです。優しい・厳しいといった漠然としたものから、特定のもの(権力、愛、真実などなど)への強い志向といったものまで、レベルも、大小も、方向性も、様々あるでしょう。そして、一般的に人は、自己の中に複数の性格特性を持っていて、それを発揮したり引っ込めたりもします。また、一部の特性が途中で消滅したり、新たな特性が加わったりすることも、ないとは言えないでしょう。
②は自己同一性の基礎となる記憶です。新生児はともかくとして、人間はこれをたくさん獲得していきます。もちろん、中には表面(意識)から消え去ってしまうものもありますし、あまりに細かくて心には意味のない情報は、内奥(無意識)からも消え去ってしまうかもしれません。
③は、経験によって蓄えられた客観的な知識(教養・常識・世界観)とか、言語能力や楽器演奏能力といった「特殊技能」(暗黙知)などです。
④は、生きている主体であるということです。内的な空想・妄想によってではなく、外界(他者)を客観的に認識・判断し、一定の「自由意志」「選択」によってさらに経験を増していくということです。また、主体であるということは、「自らの行為による結果は自らが引き受ける」という責任の所在も意味します。
⑤は、時間や累積的経験の全般にわたって「私」が主体として体験してきたという感覚、私は私であり、私に責任があるという感覚です。 これらの要素は、時たま、病気や事故などによって毀損されることがあります。神経症によって性格特性の一部だけが突出していびつになったり、記憶喪失になったり、認識や判断や意志が働かなくなったり、自己同一性感覚が部分的に破壊されたり(解離性自己同一性障害=多重人格)、と。 けれども、通常では、これらが人格の中心部分を形成していることは間違いないでしょう。
さて、こうした要素が、死後どうなるか。 唯物論の「帰無仮説」では、すべてなくなります。当然ですね。いや、原理主義的唯物論だと、こうした要素すら「ない」と言うかもしれません。自己同一性なんて、どうやって計測できるの? みたいな感じですね。まれに見られる「折衷的死後存続説」というのがあります。
これは、たとえば、②の「私の記憶」のみが、どこかに、何らかの形で保持される、という考え方です。「アカシック・レコード」なんていう概念がありますね(実際にあるらしいですが)。仏教でいうと「虚空蔵」ですか。 偉大な業績や作品を遺せば、そこに「私」が残り続ける、といった考え方は、けっこう広く見られます。西欧文明のエリートたちは、案外そういうことを目指しているかもしれません。個人名にやたらこだわりますし。 一部の宗教には、「悉皆成仏説」とでも言うべき死後説があります。それは、(極悪人を除いて?)すべての人は、死後に菩薩や天使のような存在になるというものです。
これにおいては、①②③に関係なく(むしろそれはさらっと捨て去られて)、「私」は「理想的人格」に変身します。④の行為主体性が継続されるだけで、⑤生前人格との自己同一性感覚も不明です。
まあ、ありがたい説ではありますが、「私(という人格」の死後存続とは言えないものです。 とある霊からのメッセージは、「死後、どんな低劣な人間も極悪人も一瞬のうちに変身して天使のようになるというのなら、それは死後存続とは言えないだろうに」と言っています。 そしてこういう考え方は、「生きるということの意味」も倫理も奪ってしまう、宗教にあらざるべき考え方と言えるでしょう。 結局、「死後存続説」とは、①の性格諸特性はほぼそのまま保持される②の体験記憶はほぼそのまま保持される(次第に細かい部分は失われることがあるにしても)③の知識・技能も同様④の行為主体性も保持される⑤生前人格との自己同一性感覚はある ということでなくてはならないと考えられます。 そして、スピリチュアリズムや心霊研究において蓄積されてきた「霊(肉体を去った個性)との交信」記録においては、おおむねこのことが立証されてきたわけです。(多くの人は認めないにしても。)
さて、こうして「存続」した「私という人格」が、再び現世に生まれ変わる時に、どうなるか。
これはとても難しい問題です。
①の性格特性はその主要な部分が保持されると思われます。ここがまったく変わってしまったら、「自己同一性」は保持されなくなるでしょう。
②の体験記憶は、ごく稀な例外を除いて、表面的には“全消去”されます。ただし、無意識?には保持されて、変性意識状態で想起されることもあります。
③の知識・技能については、稀に一部を保持・発揮することがあるようです(由来不明の恐怖症や持って生まれた特異才能など)。なお、ごく稀に、身体的特徴(先天性・後天性を問わず)を引き継ぐことがあるようです(スティーヴンソンによる“先天性刻印”の研究参照)。
④の行為主体性は当然保持されています。また、時に「カルマ」などと表現される「責任」主体性(課題や償いを引き受けること)もあるとされています。
⑤自己同一性感覚は、前世人格や中間世人格との間には存在しません(そもそも通常は知らない)。
つまり、体験記憶や知識・技能記憶は消去されているものの、性格特性(のかなりの部分)と責任主体性は持続している、ということになるかと思います。
ところで、こうして生まれ変わった「私」が、また死んだ後、どうなるか。複数回再生と死を経験した「私」は、どういう状態にあるか。ここに微妙な点があります。
可能性は二つでしょう。 Ⅰ 直前の生とのみ連続性がある Ⅱ 複数回の生との連続性がある
Ⅰはあまりに奇矯な考え方ですが、まだ未熟で現世の諸欲にとらわれているような魂ではあるのかもしれません。
Ⅱは、「生まれ変わりによって魂が成長していく」とする考え方と合致するものです。
複数回の生との連続性を持った場合、
①複数回の生において持った性格特性をすべて保持する
②細部は除いて、複数回の生の主要記憶を保持する
③②と同様
④長い時間・経験を越えて持続する主体性を獲得し、責任も受容する
⑤複数回の生の自己と同一性感覚を持つ こうなっていくのであれば、「私」は、輪廻転生を繰り返すことによって、より豊かに、大きく成長していくものだ(現世ではそれを自覚しないが)ということになるでしょう。
さて、ここで、前世想起(催眠下、ないしは偶発的変性意識状態による)とおぼしき事例での、きわめて「人格そのものに近い」出現について考えてみます。
特に「シャラーダの事例」や「ラタラジューの事例」のように真性異言を伴ったものに顕著ですが、前世人格とおぼしき人格が、今そこにいる人格のように、発言したりする場合です。これは、よくある前世退行催眠での、「こういうことがあった」という「記憶想起」とはかなり位相が異なるものです。 シャラーダやラタラジューを文字記録や映像記録で見た感じでは、
①の性格特性はある程度認められる(特にシャラーダの場合は非常に顕著)
②は部分的にかなり詳細に発現する
③は部分的に発現している(在世時の言語=真性異言)
④は?
⑤現世人格との同一性感覚は持っていない
④ですが、シャラーダは、その時点での外界や状況を客観的に認識し(自分がなぜここにいるのかはわからなかったようですが)、さらに自分の郷里に帰り、親戚たち(実はもういない)に会いたいといった要求をしたようです。ラタラジューは、「~したい」というような発言はないようです。
⑤に関して、現世人格が「出現人格」に対して同一性感覚を持っているかということですが、シャラーダの事例では、出現時に現世人格は不在(消失)となっており、事後に報告されても「それは私の前世だ」という感覚はなかったようです。ラタラジューの事例では、里沙は出現と同時かその直後に、同一性感覚を持ったような感じで報告されています。
つまり、シャラーダの事例では、この「人格」は、「死後存続」した人格が、そのままで、つまり「憑霊」して出現したと捉えることが自然だと思えます。
ラタラジューの場合は、どうでしょうか。現状認識や主体意志に乏しいということは、完全な人格ではないということ、つまり憑霊ではないということでしょうか。
一般的に「前世退行催眠」で前世記憶を想起した場合、一般人が普通に過去の記憶を甦らせているように語る場合もありますが、時に、非常に臨場感を伴って、あたかもその前世人格が、今そこでその体験をしているかのように――つまりかなり人格的な姿をして――、再現される場合もあります。 このような場合、そこに「人格」が出現していると見るべきなのでしょうか。それとも、それは諸記憶が総合されて、そこに霊的エネルギーが注入されることによって、「あたかも人格のように」出現していると見るべきなのでしょうか。
稲垣氏の提示しているように、「前世人格は別人格であり、それが憑霊している」という捉え方をすると、「私の人格」の「死後存続」や「生まれ変わり」という考え方とは衝突することになります。 ラタラジュー、タエ、里沙がそれぞれ「別人格」であるとすると、その間にある「生まれ変わり」とは何だということになるのでしょうか(どういう連続性があるのかということでもあるでしょう)。
また、ラタラジューやタエは、「死後に人格性を持って活動している」のでしょうか。彼らが死後、かなり不活性な状態で留まり続けるとしたら、里沙、あるいは私たちという現世人格も、死後、不活性な状態になるのでしょうか。
どうも私には、「ラタラジューやタエが、統体的記憶(ただし想念が実在であるように“実在”)に霊的エネルギーが注入されることで賦活した『準人格的発現』であるなら、生まれ変わり説は成立するが、『別人格』であるのなら憑霊説になるのではないか」と思われてなりません。
それとも、「私という人格の死後存続や生まれ変わり」という概念が不適切だということになるのでしょうか。
そうすると、一体“何が”死後存続し、生まれ変わるのでしょうか。
言うまでもありませんが、こうした議論は、シャラーダの事例やラタラジューの事例の信憑性を否定しているものではありません。
それは明らかに「唯物論では説明できないもの、それに反駁するもの」であり、「人間の人格(少なくともその主要部分)が肉体の消滅後も、現行の物質的な手段に依らない何らかの形で保持される」(狭い意味での「死後存続」)ということを証明するものであることは疑いありません。
しかし、「死後存続」や「生まれ変わり」は、厳密に考えれば考えるほど、定義・立証が困難になってくるものであり、おそらく科学的・実証主義的な方法や語彙では、扱ったり論じたりすることがほぼ不可能なものではないかと思えるわけです。
こうした突っ込みすぎた議論は別にして、「死後の個人との交信」や「前世記憶の想起」などによって、死後存続や生まれ変わりが十分に信憑性を持ったものであることは、どれだけ強調してもし過ぎることはないでしょう。
しかし同時にその奥には、人間の知性ではなかなか理解し尽くすことのできないような謎があることも、また銘記しておくべきなのかもしれません。
またまたすっきりした議論になりませんでしたが、とりあえずはこのあたりで。
【コメント】
臨床家としての立場から (稲垣勝巳) 2013-02-03 23:13:29
心理臨床のひとつであるSAM前世療法士としての私の立場は、観念より事実、理屈より実証へ向かわざるをえません。
主訴を抱えて生きづらくなっているクライアントを前にして、とりあえずの作業仮説を構築し、それにもとづくセッションを展開していかねば終結の道筋も立ちませんし終結へ至ることもできないわけです。
そうしたセッションで現れる意識現象の事実の累積によれば、「個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は魂の表層のものであって、不滅の存続をするのは魂そのものだとするならば、個々の現世人格の私は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に凍結して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。)で、改めて、死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならないということになると思います」というあなたの見解には同意しかねます。
私の理解力が不足かもしれませんが。
セッションで現れる意識現象の事実は、生まれ変わりの主体は「私」ではなく、「魂」と呼ばれる意識体全体であり、「現世の私」は、来世では「魂の表層の一つとしての前世人格」として死後存続するということです。
そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。
そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。
ただし、深い傷を負っている前世人格は孤立し、その苦悩やそうならないための警告を「現世の人格」に訴え続けるので、現世の人格は、その影響を受け、不都合な心理的症状やときには肉体の諸症状を自覚することになるといことです。
こうした私の見解は、顕現化した前世人格への聴き取りの累積から形成されてきたことです。
魂表層の前世人格が、不活性な状態で存続していないからこそ、現世人格に良くも悪くも影響を与えていると考えざるを得ません。実際、顕現化した前世人格は、そのように答えます。
なお、ラタラジュー人格を含めて前世人格の顕現化現象は、そうした魂表層の前世人格が、現世人格に憑依して自己表現しているというとらえ方をすることが妥当であると考えられます(里沙さんの守護霊も憑依ととらえなさいと告げています)から、今までにない概念として「自己内憑依」とも呼んでいます。
あなたの議論は、『私』(私の人格)の個性そのものだけの死後存続に傾斜が置かれすぎて、私のセッションで現れる意識現象の事実とは相容れません。
私は、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。
ただし、私の見解は、霊学的知識を棚上げして、セッションの累積から手探りで仕入れたものですから、現時点の「とりあえずの見解」であることをお断りしておきます。
2013年2月1日金曜日
上映に関して起きているちょっと面白い現象
ごく最近、ある霊能者、キリスト教系宗派のある信者の二人から、立て続けに、私のやっている生まれ変わりの実証研究は、神の定めたタブーを犯しているので、罰としておそろしい災いを被ることになるであろう、といったおどろおどろしい警告をいただいています。
そして、ドキュメンタリー『催眠・魂・生まれ変わりの真実』DVDを里沙さんから借りて、深夜に視聴中の彼女の二人の友人が、半端ではないラップ音が聞こえて恐怖に駆られたという報告や、20日の上映会で上映中にホット缶コーヒーの飲み口部分が膨張し次に凹むという超常現象の報告など、映画視聴中に気味の悪い超常現象が起こったという報告を立て続けに受けています。これは、何らかのメッセージかもしれない。
そして、一昨日のセッションで、神と私の守護霊団のメッセージを告げるために憑依したというクライアントの守護霊を名乗る存在の憑依現象が起きました。憑依霊が告げるには、今回上映会開催にあたり、霊的真理を急ぎ広めるようたびたび告げてきたが、それを実行に移してくれたことに神と我々は喜んでいる、ラップ音など超常現象はその祝福のしるしとして起こしている、という信じ難いメッセージを告げました。
視聴中のラップ音などは、私が神のタブーを犯しているという怒りの警告であり、今回映画の持つ霊障のメッセージかもしれないと内心案じていましたが、この憑依霊とおぼしき存在の告げたことは逆で、祝福のメッセージだと言うのです。
ちなみに、この40代女性クライアントは、今回映画については作られたことも、上映会のことも全く知らない、ということでした。不思議と言えば不思議な催眠中に起きた意識現象です。
そもそも、今回の映画上映の元をたどれば、2007年1月~2月に届いた私あて霊信(本ブログに公開)なのです。その中で、神の命を受けていると通信してきた守護霊団を名乗る存在が、私に教えた魂と生まれ変わりの仕組みを作業仮説にして創始したSAM前世療法によって発現した「タエの事例」と「ラタラジューの事例」のセッション映像を中心とした映画です。
この2007年の私あて霊信が、高級霊からの通信であるなら、そして低級霊によるまやかしでないのなら、今回映画の制作と上映は、これまでの経緯からして、霊的真理を急ぎ広めよ、という神と守護霊団側の意に沿ったもので、そのことに霊障などがあろうはずがない、と思っています。
この記事を読んでいる方の中には、映画を見ようと思っている方がおいででしょうから、上映に関して立て続けに報告されている気味悪い超常現象を知って知らんぷりはできないと思い、こうして記事にしたわけです。
映画視聴中の超常現象は、どうやら霊感の強い人が体験するようですが、超常現象なんぞ勘弁してよ、と思う人は見ないほうがよろしいかと。
もっとも、タブー破りの霊障があるとすれば、映画監修者の私が第一に被るべきですし、第二は映像編集者の伊藤泰史氏が被るはずでしょうが、今のところ、両人ともいたって元気にしています。
もし、霊障らしき災いが起こったときには、包み隠さず公開しますし善後策を講じます。
映画視聴に伴うラップ音などの超常現象が、霊的存在からの「警告」のメッセージなのか、「祝福」のメッセージなのか、今後のなりゆきを見守りたいと思います。
【追記】
私の教え子で、名古屋さかえクリニック末武信宏院長が上記記事を読んでfacebookに転載し、コメントを書いている最中(2月1日午前1時ころ)、突然天井のファンが回り始めたということです。そのことを、facebookに即座に書き込むと同時にファンは止まったという超常現象の報告がありました。「ラタラジューの事例」のセッション場所は、彼の院長室でしたし、応答型真性異言の共同研究者として、彼もこの映画には深く関与しています。医学博士として科学者を任じている彼が嘘をつくとは思えません。超常現象の起きたコメントとは、「では、私もおそろしい災いを被るのでしょうか」というものでした。
(2月1日午前1時30分記)
そして、ドキュメンタリー『催眠・魂・生まれ変わりの真実』DVDを里沙さんから借りて、深夜に視聴中の彼女の二人の友人が、半端ではないラップ音が聞こえて恐怖に駆られたという報告や、20日の上映会で上映中にホット缶コーヒーの飲み口部分が膨張し次に凹むという超常現象の報告など、映画視聴中に気味の悪い超常現象が起こったという報告を立て続けに受けています。これは、何らかのメッセージかもしれない。
そして、一昨日のセッションで、神と私の守護霊団のメッセージを告げるために憑依したというクライアントの守護霊を名乗る存在の憑依現象が起きました。憑依霊が告げるには、今回上映会開催にあたり、霊的真理を急ぎ広めるようたびたび告げてきたが、それを実行に移してくれたことに神と我々は喜んでいる、ラップ音など超常現象はその祝福のしるしとして起こしている、という信じ難いメッセージを告げました。
視聴中のラップ音などは、私が神のタブーを犯しているという怒りの警告であり、今回映画の持つ霊障のメッセージかもしれないと内心案じていましたが、この憑依霊とおぼしき存在の告げたことは逆で、祝福のメッセージだと言うのです。
ちなみに、この40代女性クライアントは、今回映画については作られたことも、上映会のことも全く知らない、ということでした。不思議と言えば不思議な催眠中に起きた意識現象です。
そもそも、今回の映画上映の元をたどれば、2007年1月~2月に届いた私あて霊信(本ブログに公開)なのです。その中で、神の命を受けていると通信してきた守護霊団を名乗る存在が、私に教えた魂と生まれ変わりの仕組みを作業仮説にして創始したSAM前世療法によって発現した「タエの事例」と「ラタラジューの事例」のセッション映像を中心とした映画です。
この2007年の私あて霊信が、高級霊からの通信であるなら、そして低級霊によるまやかしでないのなら、今回映画の制作と上映は、これまでの経緯からして、霊的真理を急ぎ広めよ、という神と守護霊団側の意に沿ったもので、そのことに霊障などがあろうはずがない、と思っています。
この記事を読んでいる方の中には、映画を見ようと思っている方がおいででしょうから、上映に関して立て続けに報告されている気味悪い超常現象を知って知らんぷりはできないと思い、こうして記事にしたわけです。
映画視聴中の超常現象は、どうやら霊感の強い人が体験するようですが、超常現象なんぞ勘弁してよ、と思う人は見ないほうがよろしいかと。
もっとも、タブー破りの霊障があるとすれば、映画監修者の私が第一に被るべきですし、第二は映像編集者の伊藤泰史氏が被るはずでしょうが、今のところ、両人ともいたって元気にしています。
もし、霊障らしき災いが起こったときには、包み隠さず公開しますし善後策を講じます。
映画視聴に伴うラップ音などの超常現象が、霊的存在からの「警告」のメッセージなのか、「祝福」のメッセージなのか、今後のなりゆきを見守りたいと思います。
【追記】
私の教え子で、名古屋さかえクリニック末武信宏院長が上記記事を読んでfacebookに転載し、コメントを書いている最中(2月1日午前1時ころ)、突然天井のファンが回り始めたということです。そのことを、facebookに即座に書き込むと同時にファンは止まったという超常現象の報告がありました。「ラタラジューの事例」のセッション場所は、彼の院長室でしたし、応答型真性異言の共同研究者として、彼もこの映画には深く関与しています。医学博士として科学者を任じている彼が嘘をつくとは思えません。超常現象の起きたコメントとは、「では、私もおそろしい災いを被るのでしょうか」というものでした。
(2月1日午前1時30分記)
2013年1月30日水曜日
スティーヴンソンの前世療法批判
このブログで度々出てくる故イアン・スティーヴンソンから、私は生まれ変わり研究の方法論を学びました。
彼こそ、生まれ変わりを信仰レベルから科学的研究レベルへ引き寄せた先駆者であることに疑いの余地はありません。
残念なことに、彼は「ラタラジューの事例」が出る2年前に世を去りました。
スティーヴンソンの生まれ変わりの科学的研究の業績は、日本でも春秋社から2冊、日本教文社から2冊翻訳出版されています。
しかし、4冊どれも学術本なので、読みづらく、スピリチュアル系を称する人たちからは敬遠されているようで、読んでいる人は少数派のようです。
通俗本として研究者から評価を受けているブライアン・ワイスの『前世療法』PHP、の圧倒的人気の陰に隠れて、陰がうすいという印象です。
もっとも、スピリチュアル系の人たちは、生まれ変わりは科学的証明など不要な当然の真実だと断言する人が多く、スティーヴンソンの生まれ変わりの科学的研究などは無駄な悪あがきだと評価されている気がしないでもありません。おそらく、私のやっていることも同様に評価されているだろうと推測します。
さて、厳密な科学的方法論によって、生まれ変わり研究に打ち込んだスティーヴンソンは、前世療法による生まれ変わり研究について、どのような見解を持っていたかを紹介します。
スティーヴンソンは、前世の記憶を催眠によって意図的に探り出すことには基本的に反対の立場をとっています。
それは、彼が、前世の記憶をある程度持っていると思われる者を催眠に入れ、前世想起の実験を13件実施し、地名・人名を探り出し特定しようとした試みがすべて失敗した(『前世を記憶する子どもたち』教文社、P80)ということにあるようです。
こうして、催眠中に前世の記憶らしきものが語られたにしても、催眠によって誘発された催眠者に対する従順な状態の中では、何らかの前世の記憶らしきものを語らずにいられない衝動に駆られ、通常の方法で入手した様々な情報をつなぎ合わせて架空の人格を作り上げてしまう可能性が高いと主張します。
そして、催眠中に語られたリアルな前世の記憶が、実は架空の作話であったと検証された実例を数例あげて、催眠が過去の記憶を甦らせる有効な手段だと考えるのは誤った思いこみであって、実際には事実からほど遠いことを証明しようとしています。
こうしてスティーヴンソンは、次のように痛烈な前世療法批判を展開しています。
「遺憾ながら催眠の専門家の中には、催眠を使えば誰でも前世の記憶を蘇らせることができるし、それによる大きな治療効果が挙がるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。
私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいは、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている現状を、何とか終息させたいと考えている」(前掲書P7)
こうしたスティーヴンソンの批判の矛先が、ワイスやホイットンの前世療法に向けられているとは必ずしも言えないでしょうが、この批判がなされる同時期に、相次いで彼らの著作が公刊されていることも事実です。
スティーヴンソンの批判を私の立場で推測してみれば次のようなことになるでしょうか。
ワイスが『前世療法』PHP、で取り上げているキャサリンの事例でみる限り、前世記憶の信憑性の裏付けは、彼女が絶対知るはずのない三つの情報を語ったことにあるようです。
一つはワイスの父親のヘブライ名であるアブロムを言い当てたこと、もう一つはワイスの娘の名が彼女の祖父にちなんで命名されたこと、さらに一つは、生後間もなく死んだワイスの息子の死因である心臓の先天的異常を言い当てたことでした(同書P56)。
このことをもってワイスはキャサリンの語った前世の存在について、「私は事実を掌握したのだ。証拠を得たのだった」(同書P61)と結んで確信しています。
しかし、この三つの事実をもって前世の存在を確信したとすれば、軽信に過ぎると思われます。
ワイスは、スティーヴンソンの著作や、デューク大学のESP(超感覚的知覚。テレパシーや透視など)研究に関する資料にも目を通したと語っています(同書P39)。
であるならば、キャサリンが超常能力(ESP)を発揮して、ワイスの脳内から三つの情報を引き出したかもしれないという仮説でも説明できることをなぜ検討しなかったのでしょうか。
そのことに触れていないことに疑問を持たざるをえません。
それ以外のキャサリンの語った前世の記憶は検証不可能なものばかりですし、マスター(「進化を遂げた精霊たち」)と呼ばれる存在を主語として語られたことについては科学的検証の俎上(そじょう)に乗せられるものではありません。
結局、ワイスの著作『前世療法』は、学問的に信頼の得られるきちんとした裏付けという観点からすれば、前世や死後存続の科学的検証に耐えられることはほとんど何も語っていないというのが私の出した結論です。
さらに同じく前世療法を扱ったホイットンの『輪廻転生』人文書院、はどうでしょうか。
ハロルドというクライアントがバイキングの前世に戻ったときに、ホイットンの求めに応じて書き記した22の語句を検証した結果、10語が事実バイキングの言語であったという記述(前掲書P211)については、前世や死後存続の状況証拠として採用できるように思われます。朗唱型真性異言であろうからです。
しかし、この事例についても、クライアントが超常能力(ESP)を発揮して書物等から情報を入手した可能性を疑うことができるわけで、そうした厳密な検討がされないままで、「状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理屈のうえで輪廻を認めるのに特に問題はない」(前掲書P7)と述べていることには、抵抗を感じざるをえません。
結局、ワイスの著作にしてもホイットンの著作にしても、彼らの実施した前世療法の中で語られたクライアントの前世記憶の信憑性については、科学的実証性という観点からは懐疑的にならざるをえないというのが私の結論でした。
厳密な科学者であったスティーヴンソンも、おそらく私と同様の結論に至っていたから、超ESP仮説を無視した生まれ変わり実証の言説に苦々しい思いを抱いていたと推測できます。
スティーヴンソンは、生まれ変わりの科学的実証の前に立ちはだかっていた最後の壁、超ESP仮説打破に立ち向かって苦闘を続けた研究者であるからです。
前世記憶の真偽を追究するために、膨大な労力と綿密な検証作業を長年積み上げてきたスティーヴンソンにとって、催眠中に語られた前世の記憶を厳密な科学的検証にかけないまま、クライアントの症状改善を理由に、安易に認めてしまう前世療法が、苦々しく思えることは当然であろうと私には素直に共感できました。
ただし、彼は、催眠中に語られる前世の記憶をすべて無意味だとしているわけではありません。事例の中には、彼自身の検証の結果、通常の方法では入手できない情報が少数ながら存在することも認めています。彼のこうした見解に、科学者スティーヴンソンの柔軟な態度を感じ、共感できるものを感じました。
スティーヴンソンは、『前世を記憶する子どもたち2』で、「私は、自らの手で調べた応答型真性異言の2例が催眠中に起こったという事実を忘れることができない。このことから私は、催眠を使った研究を決して非難することができなくなった」と、『前世を記憶する子どもたち』の中で展開した前世療法への批判をいくぶん修正しています。
この2例の催眠中に起きた応答型真性異言こそ、スウェーデン人の男性前世人格「イェンセンの事例」とドイツ人少女の前世人格「グレートヒェンの事例」です。両事例ともアメリカ人女性が被験者で、それぞれ学んでいないことが検証されたスウェーデン語、ドイツ語で応答的会話をしたという事例です。
私の発表している「ラタラジューの事例」は、このスティーヴンソンの研究の延長線上に位置づいています。
おそらくこのブログを読んでくださっている方は、「生まれ変わりの凡百の言説より、たった一つの確実な証拠」を重んじる立場の人が多いだろうと推察します。
でなければ、超ESP仮説がどうのこうの、技能は暗黙知であるなど、厳密さを求めるわずらわしい議論にこだわる私の記事などにアクセスされるはずがないと思っています。
彼こそ、生まれ変わりを信仰レベルから科学的研究レベルへ引き寄せた先駆者であることに疑いの余地はありません。
残念なことに、彼は「ラタラジューの事例」が出る2年前に世を去りました。
スティーヴンソンの生まれ変わりの科学的研究の業績は、日本でも春秋社から2冊、日本教文社から2冊翻訳出版されています。
しかし、4冊どれも学術本なので、読みづらく、スピリチュアル系を称する人たちからは敬遠されているようで、読んでいる人は少数派のようです。
通俗本として研究者から評価を受けているブライアン・ワイスの『前世療法』PHP、の圧倒的人気の陰に隠れて、陰がうすいという印象です。
もっとも、スピリチュアル系の人たちは、生まれ変わりは科学的証明など不要な当然の真実だと断言する人が多く、スティーヴンソンの生まれ変わりの科学的研究などは無駄な悪あがきだと評価されている気がしないでもありません。おそらく、私のやっていることも同様に評価されているだろうと推測します。
さて、厳密な科学的方法論によって、生まれ変わり研究に打ち込んだスティーヴンソンは、前世療法による生まれ変わり研究について、どのような見解を持っていたかを紹介します。
スティーヴンソンは、前世の記憶を催眠によって意図的に探り出すことには基本的に反対の立場をとっています。
それは、彼が、前世の記憶をある程度持っていると思われる者を催眠に入れ、前世想起の実験を13件実施し、地名・人名を探り出し特定しようとした試みがすべて失敗した(『前世を記憶する子どもたち』教文社、P80)ということにあるようです。
こうして、催眠中に前世の記憶らしきものが語られたにしても、催眠によって誘発された催眠者に対する従順な状態の中では、何らかの前世の記憶らしきものを語らずにいられない衝動に駆られ、通常の方法で入手した様々な情報をつなぎ合わせて架空の人格を作り上げてしまう可能性が高いと主張します。
そして、催眠中に語られたリアルな前世の記憶が、実は架空の作話であったと検証された実例を数例あげて、催眠が過去の記憶を甦らせる有効な手段だと考えるのは誤った思いこみであって、実際には事実からほど遠いことを証明しようとしています。
こうしてスティーヴンソンは、次のように痛烈な前世療法批判を展開しています。
「遺憾ながら催眠の専門家の中には、催眠を使えば誰でも前世の記憶を蘇らせることができるし、それによる大きな治療効果が挙がるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。
私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいは、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている現状を、何とか終息させたいと考えている」(前掲書P7)
こうしたスティーヴンソンの批判の矛先が、ワイスやホイットンの前世療法に向けられているとは必ずしも言えないでしょうが、この批判がなされる同時期に、相次いで彼らの著作が公刊されていることも事実です。
スティーヴンソンの批判を私の立場で推測してみれば次のようなことになるでしょうか。
ワイスが『前世療法』PHP、で取り上げているキャサリンの事例でみる限り、前世記憶の信憑性の裏付けは、彼女が絶対知るはずのない三つの情報を語ったことにあるようです。
一つはワイスの父親のヘブライ名であるアブロムを言い当てたこと、もう一つはワイスの娘の名が彼女の祖父にちなんで命名されたこと、さらに一つは、生後間もなく死んだワイスの息子の死因である心臓の先天的異常を言い当てたことでした(同書P56)。
このことをもってワイスはキャサリンの語った前世の存在について、「私は事実を掌握したのだ。証拠を得たのだった」(同書P61)と結んで確信しています。
しかし、この三つの事実をもって前世の存在を確信したとすれば、軽信に過ぎると思われます。
ワイスは、スティーヴンソンの著作や、デューク大学のESP(超感覚的知覚。テレパシーや透視など)研究に関する資料にも目を通したと語っています(同書P39)。
であるならば、キャサリンが超常能力(ESP)を発揮して、ワイスの脳内から三つの情報を引き出したかもしれないという仮説でも説明できることをなぜ検討しなかったのでしょうか。
そのことに触れていないことに疑問を持たざるをえません。
それ以外のキャサリンの語った前世の記憶は検証不可能なものばかりですし、マスター(「進化を遂げた精霊たち」)と呼ばれる存在を主語として語られたことについては科学的検証の俎上(そじょう)に乗せられるものではありません。
結局、ワイスの著作『前世療法』は、学問的に信頼の得られるきちんとした裏付けという観点からすれば、前世や死後存続の科学的検証に耐えられることはほとんど何も語っていないというのが私の出した結論です。
さらに同じく前世療法を扱ったホイットンの『輪廻転生』人文書院、はどうでしょうか。
ハロルドというクライアントがバイキングの前世に戻ったときに、ホイットンの求めに応じて書き記した22の語句を検証した結果、10語が事実バイキングの言語であったという記述(前掲書P211)については、前世や死後存続の状況証拠として採用できるように思われます。朗唱型真性異言であろうからです。
しかし、この事例についても、クライアントが超常能力(ESP)を発揮して書物等から情報を入手した可能性を疑うことができるわけで、そうした厳密な検討がされないままで、「状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理屈のうえで輪廻を認めるのに特に問題はない」(前掲書P7)と述べていることには、抵抗を感じざるをえません。
結局、ワイスの著作にしてもホイットンの著作にしても、彼らの実施した前世療法の中で語られたクライアントの前世記憶の信憑性については、科学的実証性という観点からは懐疑的にならざるをえないというのが私の結論でした。
厳密な科学者であったスティーヴンソンも、おそらく私と同様の結論に至っていたから、超ESP仮説を無視した生まれ変わり実証の言説に苦々しい思いを抱いていたと推測できます。
スティーヴンソンは、生まれ変わりの科学的実証の前に立ちはだかっていた最後の壁、超ESP仮説打破に立ち向かって苦闘を続けた研究者であるからです。
前世記憶の真偽を追究するために、膨大な労力と綿密な検証作業を長年積み上げてきたスティーヴンソンにとって、催眠中に語られた前世の記憶を厳密な科学的検証にかけないまま、クライアントの症状改善を理由に、安易に認めてしまう前世療法が、苦々しく思えることは当然であろうと私には素直に共感できました。
ただし、彼は、催眠中に語られる前世の記憶をすべて無意味だとしているわけではありません。事例の中には、彼自身の検証の結果、通常の方法では入手できない情報が少数ながら存在することも認めています。彼のこうした見解に、科学者スティーヴンソンの柔軟な態度を感じ、共感できるものを感じました。
スティーヴンソンは、『前世を記憶する子どもたち2』で、「私は、自らの手で調べた応答型真性異言の2例が催眠中に起こったという事実を忘れることができない。このことから私は、催眠を使った研究を決して非難することができなくなった」と、『前世を記憶する子どもたち』の中で展開した前世療法への批判をいくぶん修正しています。
この2例の催眠中に起きた応答型真性異言こそ、スウェーデン人の男性前世人格「イェンセンの事例」とドイツ人少女の前世人格「グレートヒェンの事例」です。両事例ともアメリカ人女性が被験者で、それぞれ学んでいないことが検証されたスウェーデン語、ドイツ語で応答的会話をしたという事例です。
私の発表している「ラタラジューの事例」は、このスティーヴンソンの研究の延長線上に位置づいています。
おそらくこのブログを読んでくださっている方は、「生まれ変わりの凡百の言説より、たった一つの確実な証拠」を重んじる立場の人が多いだろうと推察します。
でなければ、超ESP仮説がどうのこうの、技能は暗黙知であるなど、厳密さを求めるわずらわしい議論にこだわる私の記事などにアクセスされるはずがないと思っています。
2013年1月29日火曜日
真性異言の検証と公にするむつかしさ
私のもとへ、覚醒中に異言らしきことばを話せるので検証してほしい、という依頼がたまに舞い込みます。
私は、原則としてこうした依頼をお断りしています。
その理由は、仮にその言語が真性異言だと証明できても、応答型真性異言でなく、単に異言を発音するだけであれば超ESP仮説が適用されるので、厳密な意味で生まれ変わりの科学的証拠とは判断できないからです。
また、そうした現象は、本人以外の霊の憑依現象が疑われ、その語りの主体が前世人格なのか憑依霊なのか判別が困難であるからです。
そのうえ、学んでいない外国の単語や文章の一節を繰り返し発音できたとしても、それは「技能」とは言えず「情報」として扱われますから、万能の透視能力やテレバシー(超ESP)を用いて入手した、という疑いを払拭できません。
こうした真性異言を単に発音するだけの場合を「朗唱型真性異言」と呼びます。
また、私の検証体験でも、催眠中に起こった朗唱型真性異言だと思われる事例では、流暢にそれらしく話される異言が、検証の結果、まったくのでたらめであったということが3例ありました。
この事例は、催眠学で呼ばれる「役割演技」、つまり、無意識のうちに外国人の役割演技をおこない、自分のイメージにある外国のそれらしき発音を真似た言語を創造的に発音したということでしょう。
催眠中には創造活動が活性化することが分かっていますから当然起こりうる現象です。
こうした体験がありますから、学んでいない外国語らしき言語で話せるという異言現象が起きたとしても、真性異言現象だと判断できることは稀だと思っています。
宇宙語であるとかムー大陸のことばであるとかを話せると言ってくる方もいますが、そうした地球上にない言語は、そもそも真偽の検証が不可能で、生まれ変わりの科学としての検証対象になりません。
さて、超ESPによっても絶対入手できないのは「技能」です。
いかに優れた超能力を用いても技能は入手できません。
練習を必須条件とする技能は、練習抜きに獲得できないからです。
ヴァイオリンに触ったこともない超能力者が、超能力によって、練習を必要とするヴァイオリンの名曲を演奏できることはありえません。
同様に、応答的な会話も練習抜きに話せることはありません。
技能は暗黙知と考えられ、本来、ことばで伝達することは不可能とされています。
ことばで伝達可能なことなら、ESPによって入手可能です。
したがって、学んだことのない外国語で、練習の不可欠な応答的な会話ができる現象が、「応答型真性異言」と呼ばれ、それは超ESP仮説による説明を不可能にしますから、最終的説明仮説、つまり、生まれ変わり仮説を実証する最有力の科学的証拠だと認められているわけです。
しかし、応答型真性異言は容易に発現するものではありません。とりわけ、催眠中に起こった応答型真性異言で、公になっている事例はイアン・スティーヴンソンの発表している3例とSPR(心霊研究協会)の検証した1例にすぎません。それも1980年代で途切れています。
私の知る限り、21世紀になって最初に「応答型真性異言」として公になったのは2009年の「ラタラジューの事例」です。
しかも、スティーヴンソンの発表している三つの事例は、応答型真性異言で対話中の録音は残されていても、映像は残されていません。
証拠映像が残されたという点でも、「ラタラジューの事例」は、世界初の画期的な応答型真性異言事例だと思っています。
しかし、「ラタラジューの事例」の検証と公表には、いくつかのクリアすべき以下のような多くの困難がありました。
①被験者里沙さんにセッション証拠撮影の許可をもらうこと。
②セッションにヤラセや欺瞞の疑いを持たれぬために、社会的地位があり信用度の高い複数の同席者を確保すること。
③ネパール語を母語とする知的に優れたネパール人対話者を確保すること。
④ネパール語会話をローマ字表記にし、それを日本語に翻訳できる学識あるネパール人協力者を複数確保すること。
⑤里沙さんがネパール語を学んでいない証明のために、小・中・高・大学時代の友人、結婚前、後の友人、家族等彼女のプライバシーの徹底的身辺調査の同意を得ること。
⑥ラタラジューの語りのナル村の状況の真偽を検証するために、学識あるネパール人、できれば博士号を持ち、日本語でメールのやりとり可能なネパール人にナル村現地調査を依頼すること。
⑦里沙さんとご主人にポリグラフ(嘘発見器)検査の同意を得ること。
⑧権威あるポリグラフ検査者を探し、事情を納得してもらったうえで検査の協力を得ること。
⑨学会発表、出版、それにともなうTV出演の同意などを、本人、ご主人から得ること。
⑩TV出演によるいわれのない中傷、陰口も予測し、それに耐えてもらうことの家族の同意を得ること。
ざっと列挙しただけで、以上のような困難を乗り越えなければなりませんでした。
とりわけ、⑥⑧の調査・検査を含めて50万円ほどの総費用がかかりました。
真性異言の科学的検証を厳密におこなうためには、当然のことながら数十万円の費用を覚悟しなければなりません。科学的検証のために先立つものはお金なのです。
また、予測した⑩は予測どおりに起きています。
アンビリスタッフがワゴン車を里沙さん宅の前に乗り付け、撮影機材を持ち込むのを見た近所の人が、里沙さん宅で新聞沙汰になる事件が起きたと勘違いし、ついには自治会長まで事情を探りに訪問する騒ぎになりました。
また、アンビリを視聴したご近所の口から、よくもまあネパール語を練習して上手に演技したものだ、そんなことしてまで有名になりたいのか、などのヤラセだという陰口が聞こえてきたということです。
また、アンビリ視聴した霊能者を自称する人物は、自身のブログで、あることないことを立証ぬきで書き込んで、里沙さんが不幸にさらされるようなことを予言しています。
これまでにない新しい何かを思い切ってすると、必ず心ない誹謗中傷を免れられない、ということです。
「ラタラジューの事例」の科学的検証とその公開は、里沙さんおよび、ご家族の使命感と犠牲なしにはけっして公になることはなかったのです。
私は、原則としてこうした依頼をお断りしています。
その理由は、仮にその言語が真性異言だと証明できても、応答型真性異言でなく、単に異言を発音するだけであれば超ESP仮説が適用されるので、厳密な意味で生まれ変わりの科学的証拠とは判断できないからです。
また、そうした現象は、本人以外の霊の憑依現象が疑われ、その語りの主体が前世人格なのか憑依霊なのか判別が困難であるからです。
そのうえ、学んでいない外国の単語や文章の一節を繰り返し発音できたとしても、それは「技能」とは言えず「情報」として扱われますから、万能の透視能力やテレバシー(超ESP)を用いて入手した、という疑いを払拭できません。
こうした真性異言を単に発音するだけの場合を「朗唱型真性異言」と呼びます。
また、私の検証体験でも、催眠中に起こった朗唱型真性異言だと思われる事例では、流暢にそれらしく話される異言が、検証の結果、まったくのでたらめであったということが3例ありました。
この事例は、催眠学で呼ばれる「役割演技」、つまり、無意識のうちに外国人の役割演技をおこない、自分のイメージにある外国のそれらしき発音を真似た言語を創造的に発音したということでしょう。
催眠中には創造活動が活性化することが分かっていますから当然起こりうる現象です。
こうした体験がありますから、学んでいない外国語らしき言語で話せるという異言現象が起きたとしても、真性異言現象だと判断できることは稀だと思っています。
宇宙語であるとかムー大陸のことばであるとかを話せると言ってくる方もいますが、そうした地球上にない言語は、そもそも真偽の検証が不可能で、生まれ変わりの科学としての検証対象になりません。
さて、超ESPによっても絶対入手できないのは「技能」です。
いかに優れた超能力を用いても技能は入手できません。
練習を必須条件とする技能は、練習抜きに獲得できないからです。
ヴァイオリンに触ったこともない超能力者が、超能力によって、練習を必要とするヴァイオリンの名曲を演奏できることはありえません。
同様に、応答的な会話も練習抜きに話せることはありません。
技能は暗黙知と考えられ、本来、ことばで伝達することは不可能とされています。
ことばで伝達可能なことなら、ESPによって入手可能です。
したがって、学んだことのない外国語で、練習の不可欠な応答的な会話ができる現象が、「応答型真性異言」と呼ばれ、それは超ESP仮説による説明を不可能にしますから、最終的説明仮説、つまり、生まれ変わり仮説を実証する最有力の科学的証拠だと認められているわけです。
しかし、応答型真性異言は容易に発現するものではありません。とりわけ、催眠中に起こった応答型真性異言で、公になっている事例はイアン・スティーヴンソンの発表している3例とSPR(心霊研究協会)の検証した1例にすぎません。それも1980年代で途切れています。
私の知る限り、21世紀になって最初に「応答型真性異言」として公になったのは2009年の「ラタラジューの事例」です。
しかも、スティーヴンソンの発表している三つの事例は、応答型真性異言で対話中の録音は残されていても、映像は残されていません。
証拠映像が残されたという点でも、「ラタラジューの事例」は、世界初の画期的な応答型真性異言事例だと思っています。
しかし、「ラタラジューの事例」の検証と公表には、いくつかのクリアすべき以下のような多くの困難がありました。
①被験者里沙さんにセッション証拠撮影の許可をもらうこと。
②セッションにヤラセや欺瞞の疑いを持たれぬために、社会的地位があり信用度の高い複数の同席者を確保すること。
③ネパール語を母語とする知的に優れたネパール人対話者を確保すること。
④ネパール語会話をローマ字表記にし、それを日本語に翻訳できる学識あるネパール人協力者を複数確保すること。
⑤里沙さんがネパール語を学んでいない証明のために、小・中・高・大学時代の友人、結婚前、後の友人、家族等彼女のプライバシーの徹底的身辺調査の同意を得ること。
⑥ラタラジューの語りのナル村の状況の真偽を検証するために、学識あるネパール人、できれば博士号を持ち、日本語でメールのやりとり可能なネパール人にナル村現地調査を依頼すること。
⑦里沙さんとご主人にポリグラフ(嘘発見器)検査の同意を得ること。
⑧権威あるポリグラフ検査者を探し、事情を納得してもらったうえで検査の協力を得ること。
⑨学会発表、出版、それにともなうTV出演の同意などを、本人、ご主人から得ること。
⑩TV出演によるいわれのない中傷、陰口も予測し、それに耐えてもらうことの家族の同意を得ること。
ざっと列挙しただけで、以上のような困難を乗り越えなければなりませんでした。
とりわけ、⑥⑧の調査・検査を含めて50万円ほどの総費用がかかりました。
真性異言の科学的検証を厳密におこなうためには、当然のことながら数十万円の費用を覚悟しなければなりません。科学的検証のために先立つものはお金なのです。
また、予測した⑩は予測どおりに起きています。
アンビリスタッフがワゴン車を里沙さん宅の前に乗り付け、撮影機材を持ち込むのを見た近所の人が、里沙さん宅で新聞沙汰になる事件が起きたと勘違いし、ついには自治会長まで事情を探りに訪問する騒ぎになりました。
また、アンビリを視聴したご近所の口から、よくもまあネパール語を練習して上手に演技したものだ、そんなことしてまで有名になりたいのか、などのヤラセだという陰口が聞こえてきたということです。
また、アンビリ視聴した霊能者を自称する人物は、自身のブログで、あることないことを立証ぬきで書き込んで、里沙さんが不幸にさらされるようなことを予言しています。
これまでにない新しい何かを思い切ってすると、必ず心ない誹謗中傷を免れられない、ということです。
「ラタラジューの事例」の科学的検証とその公開は、里沙さんおよび、ご家族の使命感と犠牲なしにはけっして公になることはなかったのです。
2013年1月25日金曜日
閑話休題その2
一つ目の話題は、里沙さんが前回話題にしたラップ音を聞いた友人とは別の友人が、貸し出した今回ドキュメンタリー映画『催眠・魂・生まれ変わりの真実』を自宅で夜中に視聴中、その友人の家の階段で明確に確認できるミシッ、ミシッというかなりの音量のラップ音が続いたという報告です。この別の友人も、怖くなって電話をしてきたということです。二人の友人に、立て続けてラップ音が聞こえたということは、この映画に対する霊界からの何らかのメッセージかもしれません。
映画視聴中にラップ音を聞いた二人の友人に共通するのは、二人ともにかなり霊感の高いことだそうです。
私は、霊感にはまったくの不感症ですから、真夜中の視聴中せいぜい微かな風鈴の音らしいものを聞いたぐらいです。かわいらしいものです(笑)。
二つ目の話題は、映画に対する私の地元岐阜県可児市教委担当者の反応です。
本日、監督の伊藤泰史さんと可児市教委の映画後援をお願いするため、13時から90分間、二人の教委担当者と話し合いを持ちました。
私の本音は、市教委の後援など特に不要、ネットでPRすれば十分だと思っていましたが、市教委の後援を取り付けないと映画ポスターを公民館など公共施設での掲示を許可されないということで、伊藤氏の要請で私も市教委との後援取り付け交渉に出かけたということです。伊藤氏は今日で3回目の陳情でした。
後援を渋る市教委担当者の理由の概要は次のような内容でした。
映画の内容について、生まれ変わりの科学的証明をしようとしている映像で担当者個人としては驚くとともに納得できた。
しかし、世間一般の過半数が、生まれ変わりを信じていない現状で、市教委がこの映画に後援を認めることは、市教委として生まれ変わりを公式に認めたのだという誤解が生ずる。
生まれ変わりの事実を認めることは、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる。したがって、市教委として後援を許可することは時期尚早であり許可できない。八割くらいの人々が生まれ変わりを認めるときまで後援を待ったらどうか。
(ちなみに90分間のやりとりはICレコーダーに証拠として録音してあります)
八割の人々が生まれ変わりを認めている状況なら、この映画を制作し公開する意味も、私の生まれ変わり研究の意味もほとんどないわけで、まったくおはなしになりません。
こうした回答に透けて見えるのは、生まれ変わりを認めざるえない映画でも、少しでも後援許可への責任を問われる畏れがあるなら、後援はなんとしても避けたい、という姿勢です。
後援を出したあとの思わぬ災難はどうか勘弁してほしい、という本音です。
私は、20年前に可児市教委教育研究所の主任指導主事として2年間勤務している恩義もあり、行政官としての担当者の苦しい胸の内に十分共感できましたから、後援許可の再検討の約束を取りつけたところで交渉を打ち切りました。
再検討されても、後援はまず却下されるでしょう。
研究とは、素朴に言って、今まで誰も言わなかった新しいことを主張することだと思います。ライフワークとしてやるからには、今までの理論体系をゆるがすような新しいことを主張していきたいものだと思ってやってきました。
SAM前世療法による生まれ変わりの科学的証明の研究は、上に書いたことのささやかな実践です。
そして、現時点での集大成が今回制作した映画というわけです。
新しい主張は、必然的にそれまでの主張への批判とならざるをえません。
それまでの主張への疑問・問題意識が研究の原動力であるからです。
したがって、研究によって新しい主張ができるレベルまで至ったと判断し、主張を公にすることは、それまで主張されたことを公然と批判し反論することにほかなりません。
今回の映画は、魂・生まれ変わり・霊的存在を濃厚に示す映像証拠を提示し、証拠の事実をして語らしめる、という立場で制作してあります。
それは、唯物論に真っ向から対立する立場の明確な表明です。
そして、いかに唯物論に反する事実でも、事実の示すことは認めるしかありません。
また、生まれ変わりや霊的存在についての実証を示すことなく、それらについてのひたすら信仰を説く言説を業務独占してきた宗教者、霊能者と呼ばれる職業の業務独占領域への侵害になるかもしれません。
生まれ変わりは、信仰や信じるというレベルのことではなく、証拠をもって科学的事実レベルに引き寄せることができた、と宣言しているからです。
実際、ある宗教団体の信者の方、霊能者を称する方から、私の証明しようとやっていることは神の禁じているタブーに対する反逆であり、神への冒涜であるから、必ずおそろしい報いを受けることになるぞ、と警告を受けています。
生まれ変わりを信仰レベルにとどめておくことが、業務独占には何かと都合がいいからでしょう。
神の怒りをかって神に罰せられるのであれば甘んじて受けるのがこの研究の宿命だと観念しますが、神の名を騙る狂信者に殺されるのはご免こうむりたいと思います。
私は本来死ぬことが何よりこわいと思い続けてきた軟弱者ですから、狂信者から黙らんと殺すぞと脅迫されれば、きっと変節して主張を沈黙することになるでしょう。
プラグマティズムの教育哲学者、J.デューイは、革命家に対する次のような批判をしています。
習慣の安定性と力とを知っている人は、急激な全面的な社会変化を企図したり、あるいは予言したりすることをためらうであろう。社会革命は、外的な諸習慣や、法律上、政治上の諸制度については突如たる深い変更を生ぜしめるかもしれない。しかし、これらの制度の背後にある諸習慣、また客観的諸条件によって否応なしに形作られてきた諸習慣、すなわち思想と感情の諸習慣は、必ずしも容易に変化されないものである。
人間生活のうちにある遅れ(lag)の力は巨大である。
デューイの言う社会革命とはマルクス主義による暴力的社会革命を指しているのですが、私の今回の映画も、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる、と言った市教委担当者から見れば革命的な映画ということかもしれません。
そういう評価を受けたことは素直にうれしく思いますが、この映画によって、唯物論思想とそれによる感情の諸習慣は、デューイの指摘にあるように容易に変化するものとは思われません。
焦らず、倦まず、弛まず、怯まず、生まれ変わりの事実を提示していきたいと思います。
映画視聴中にラップ音を聞いた二人の友人に共通するのは、二人ともにかなり霊感の高いことだそうです。
私は、霊感にはまったくの不感症ですから、真夜中の視聴中せいぜい微かな風鈴の音らしいものを聞いたぐらいです。かわいらしいものです(笑)。
二つ目の話題は、映画に対する私の地元岐阜県可児市教委担当者の反応です。
本日、監督の伊藤泰史さんと可児市教委の映画後援をお願いするため、13時から90分間、二人の教委担当者と話し合いを持ちました。
私の本音は、市教委の後援など特に不要、ネットでPRすれば十分だと思っていましたが、市教委の後援を取り付けないと映画ポスターを公民館など公共施設での掲示を許可されないということで、伊藤氏の要請で私も市教委との後援取り付け交渉に出かけたということです。伊藤氏は今日で3回目の陳情でした。
後援を渋る市教委担当者の理由の概要は次のような内容でした。
映画の内容について、生まれ変わりの科学的証明をしようとしている映像で担当者個人としては驚くとともに納得できた。
しかし、世間一般の過半数が、生まれ変わりを信じていない現状で、市教委がこの映画に後援を認めることは、市教委として生まれ変わりを公式に認めたのだという誤解が生ずる。
生まれ変わりの事実を認めることは、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる。したがって、市教委として後援を許可することは時期尚早であり許可できない。八割くらいの人々が生まれ変わりを認めるときまで後援を待ったらどうか。
(ちなみに90分間のやりとりはICレコーダーに証拠として録音してあります)
八割の人々が生まれ変わりを認めている状況なら、この映画を制作し公開する意味も、私の生まれ変わり研究の意味もほとんどないわけで、まったくおはなしになりません。
こうした回答に透けて見えるのは、生まれ変わりを認めざるえない映画でも、少しでも後援許可への責任を問われる畏れがあるなら、後援はなんとしても避けたい、という姿勢です。
後援を出したあとの思わぬ災難はどうか勘弁してほしい、という本音です。
私は、20年前に可児市教委教育研究所の主任指導主事として2年間勤務している恩義もあり、行政官としての担当者の苦しい胸の内に十分共感できましたから、後援許可の再検討の約束を取りつけたところで交渉を打ち切りました。
再検討されても、後援はまず却下されるでしょう。
研究とは、素朴に言って、今まで誰も言わなかった新しいことを主張することだと思います。ライフワークとしてやるからには、今までの理論体系をゆるがすような新しいことを主張していきたいものだと思ってやってきました。
SAM前世療法による生まれ変わりの科学的証明の研究は、上に書いたことのささやかな実践です。
そして、現時点での集大成が今回制作した映画というわけです。
新しい主張は、必然的にそれまでの主張への批判とならざるをえません。
それまでの主張への疑問・問題意識が研究の原動力であるからです。
したがって、研究によって新しい主張ができるレベルまで至ったと判断し、主張を公にすることは、それまで主張されたことを公然と批判し反論することにほかなりません。
今回の映画は、魂・生まれ変わり・霊的存在を濃厚に示す映像証拠を提示し、証拠の事実をして語らしめる、という立場で制作してあります。
それは、唯物論に真っ向から対立する立場の明確な表明です。
そして、いかに唯物論に反する事実でも、事実の示すことは認めるしかありません。
また、生まれ変わりや霊的存在についての実証を示すことなく、それらについてのひたすら信仰を説く言説を業務独占してきた宗教者、霊能者と呼ばれる職業の業務独占領域への侵害になるかもしれません。
生まれ変わりは、信仰や信じるというレベルのことではなく、証拠をもって科学的事実レベルに引き寄せることができた、と宣言しているからです。
実際、ある宗教団体の信者の方、霊能者を称する方から、私の証明しようとやっていることは神の禁じているタブーに対する反逆であり、神への冒涜であるから、必ずおそろしい報いを受けることになるぞ、と警告を受けています。
生まれ変わりを信仰レベルにとどめておくことが、業務独占には何かと都合がいいからでしょう。
神の怒りをかって神に罰せられるのであれば甘んじて受けるのがこの研究の宿命だと観念しますが、神の名を騙る狂信者に殺されるのはご免こうむりたいと思います。
私は本来死ぬことが何よりこわいと思い続けてきた軟弱者ですから、狂信者から黙らんと殺すぞと脅迫されれば、きっと変節して主張を沈黙することになるでしょう。
プラグマティズムの教育哲学者、J.デューイは、革命家に対する次のような批判をしています。
習慣の安定性と力とを知っている人は、急激な全面的な社会変化を企図したり、あるいは予言したりすることをためらうであろう。社会革命は、外的な諸習慣や、法律上、政治上の諸制度については突如たる深い変更を生ぜしめるかもしれない。しかし、これらの制度の背後にある諸習慣、また客観的諸条件によって否応なしに形作られてきた諸習慣、すなわち思想と感情の諸習慣は、必ずしも容易に変化されないものである。
人間生活のうちにある遅れ(lag)の力は巨大である。
デューイの言う社会革命とはマルクス主義による暴力的社会革命を指しているのですが、私の今回の映画も、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる、と言った市教委担当者から見れば革命的な映画ということかもしれません。
そういう評価を受けたことは素直にうれしく思いますが、この映画によって、唯物論思想とそれによる感情の諸習慣は、デューイの指摘にあるように容易に変化するものとは思われません。
焦らず、倦まず、弛まず、怯まず、生まれ変わりの事実を提示していきたいと思います。
2013年1月16日水曜日
閑話休題
今年に入ってから映画上映のお知らせを記事にしただけで、このブログの本題に触れる記事を載せていません。
といっても、生まれ変わりの探究において、そうそう目新しい話題提供ができるわけでもありません。
そして、昨日このサイトの訪問者数を確認して驚きました。
1月12日に6,070回のアクセス数がカウントされていたからです。
その後も1,000を越えるアクセスが今日まで3日間続いています。
普段は200~400アクセスで推移してきました。
この異変は、きっと多くの読者を獲得しておいでになる複数のブロガーが、私の記事を拡散してくださったからだと推測しています。それらブロガーの皆様には、この場を借りてあつくお礼申しあげます。
そしてこのお礼は、セッション中に憑依した私の守護霊を名乗る存在、降臨したと思われる神を名乗る存在からのお礼でもあります。それら存在が、昨年末より、「霊的真理を広める仕事を急げ」というメッセージを告げており、そのための手段として今回の映画制作を急ぎ、上映会に漕ぎつけたという事情があるからです。
メッセージを告げた神や霊的存在が実在しているとすれば、その実在を映像で示そうと企画した上映会案内記事を拡散していただいたことに、神および高級霊がお喜びにならないはずがないと思います。合掌。
さて、おもしろい話をひとつ。
昨日、今回のドキュメンタリー映画の主人公ともいえる里沙さんより奇妙な電話がありました。
「『催眠・魂・生まれ変わりの真実』の上映会で、会場の照明が点らなかったりする超常現象が起きませんでしたか」という電話です。
なぜ、このような問い合わせ電話があったかの理由がおもしろい。
里沙さんには、検閲用映画DVDを渡してありましたが、彼女の友人夫婦にせがまれてそれを貸し出したそうです。
友人夫婦は、新築まもない自宅で、深夜におよぶ映画視聴をしました。ところが、前編「タエの事例」のセッション映像が始まったころから、窓ガラスがカタカタ鳴り始め、後編「ラタラジューの事例」に至って、カタカタ鳴る現象に加えて柱がギシギシ鳴り始め、友人夫婦は怖くなって、里沙さんに電話で報告してきたということです。新築の家で、このような奇妙な現象が起こるとは考えられない、この映画には霊的な何かがあるのではないか、という問い合わせだったそうです。
この話が本当であれば、おそらくポルターガイストと呼ばれている超常現象だと思われます。
そこで里沙さんは、上映会場でなにか異変があったかを尋ねて電話をしてきたというわけです。
幸か不幸か、1月6日の封切り会場では、そのような超常現象の報告は聞いていません。
もっとも私の知らないところで、会場トイレの照明が消えたり、トイレの水が流れなかったりする不思議現象があったかもしれません(笑)。
私は、この映画の字幕校正のために、深夜何度も視聴してきましたが、超常現象らしきことは何も起きていません。それらしいことといえば、真夜中に視聴中、風鈴の音のような涼やかな微かな音が断続的に聞こえたことはあります。真冬・真夜中の風鈴とは風流じゃのう、と思ったことを覚えています。そういえば、我が家の軒下には風鈴などがぶら下げてありません。空耳であったのかもしれません。
1月20日の上映会では、注意をはらって超常現象の有無を観察してみます。
といっても、生まれ変わりの探究において、そうそう目新しい話題提供ができるわけでもありません。
そして、昨日このサイトの訪問者数を確認して驚きました。
1月12日に6,070回のアクセス数がカウントされていたからです。
その後も1,000を越えるアクセスが今日まで3日間続いています。
普段は200~400アクセスで推移してきました。
この異変は、きっと多くの読者を獲得しておいでになる複数のブロガーが、私の記事を拡散してくださったからだと推測しています。それらブロガーの皆様には、この場を借りてあつくお礼申しあげます。
そしてこのお礼は、セッション中に憑依した私の守護霊を名乗る存在、降臨したと思われる神を名乗る存在からのお礼でもあります。それら存在が、昨年末より、「霊的真理を広める仕事を急げ」というメッセージを告げており、そのための手段として今回の映画制作を急ぎ、上映会に漕ぎつけたという事情があるからです。
メッセージを告げた神や霊的存在が実在しているとすれば、その実在を映像で示そうと企画した上映会案内記事を拡散していただいたことに、神および高級霊がお喜びにならないはずがないと思います。合掌。
さて、おもしろい話をひとつ。
昨日、今回のドキュメンタリー映画の主人公ともいえる里沙さんより奇妙な電話がありました。
「『催眠・魂・生まれ変わりの真実』の上映会で、会場の照明が点らなかったりする超常現象が起きませんでしたか」という電話です。
なぜ、このような問い合わせ電話があったかの理由がおもしろい。
里沙さんには、検閲用映画DVDを渡してありましたが、彼女の友人夫婦にせがまれてそれを貸し出したそうです。
友人夫婦は、新築まもない自宅で、深夜におよぶ映画視聴をしました。ところが、前編「タエの事例」のセッション映像が始まったころから、窓ガラスがカタカタ鳴り始め、後編「ラタラジューの事例」に至って、カタカタ鳴る現象に加えて柱がギシギシ鳴り始め、友人夫婦は怖くなって、里沙さんに電話で報告してきたということです。新築の家で、このような奇妙な現象が起こるとは考えられない、この映画には霊的な何かがあるのではないか、という問い合わせだったそうです。
この話が本当であれば、おそらくポルターガイストと呼ばれている超常現象だと思われます。
そこで里沙さんは、上映会場でなにか異変があったかを尋ねて電話をしてきたというわけです。
幸か不幸か、1月6日の封切り会場では、そのような超常現象の報告は聞いていません。
もっとも私の知らないところで、会場トイレの照明が消えたり、トイレの水が流れなかったりする不思議現象があったかもしれません(笑)。
私は、この映画の字幕校正のために、深夜何度も視聴してきましたが、超常現象らしきことは何も起きていません。それらしいことといえば、真夜中に視聴中、風鈴の音のような涼やかな微かな音が断続的に聞こえたことはあります。真冬・真夜中の風鈴とは風流じゃのう、と思ったことを覚えています。そういえば、我が家の軒下には風鈴などがぶら下げてありません。空耳であったのかもしれません。
1月20日の上映会では、注意をはらって超常現象の有無を観察してみます。
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