一つ目の話題は、里沙さんが前回話題にしたラップ音を聞いた友人とは別の友人が、貸し出した今回ドキュメンタリー映画『催眠・魂・生まれ変わりの真実』を自宅で夜中に視聴中、その友人の家の階段で明確に確認できるミシッ、ミシッというかなりの音量のラップ音が続いたという報告です。この別の友人も、怖くなって電話をしてきたということです。二人の友人に、立て続けてラップ音が聞こえたということは、この映画に対する霊界からの何らかのメッセージかもしれません。
映画視聴中にラップ音を聞いた二人の友人に共通するのは、二人ともにかなり霊感の高いことだそうです。
私は、霊感にはまったくの不感症ですから、真夜中の視聴中せいぜい微かな風鈴の音らしいものを聞いたぐらいです。かわいらしいものです(笑)。
二つ目の話題は、映画に対する私の地元岐阜県可児市教委担当者の反応です。
本日、監督の伊藤泰史さんと可児市教委の映画後援をお願いするため、13時から90分間、二人の教委担当者と話し合いを持ちました。
私の本音は、市教委の後援など特に不要、ネットでPRすれば十分だと思っていましたが、市教委の後援を取り付けないと映画ポスターを公民館など公共施設での掲示を許可されないということで、伊藤氏の要請で私も市教委との後援取り付け交渉に出かけたということです。伊藤氏は今日で3回目の陳情でした。
後援を渋る市教委担当者の理由の概要は次のような内容でした。
映画の内容について、生まれ変わりの科学的証明をしようとしている映像で担当者個人としては驚くとともに納得できた。
しかし、世間一般の過半数が、生まれ変わりを信じていない現状で、市教委がこの映画に後援を認めることは、市教委として生まれ変わりを公式に認めたのだという誤解が生ずる。
生まれ変わりの事実を認めることは、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる。したがって、市教委として後援を許可することは時期尚早であり許可できない。八割くらいの人々が生まれ変わりを認めるときまで後援を待ったらどうか。
(ちなみに90分間のやりとりはICレコーダーに証拠として録音してあります)
八割の人々が生まれ変わりを認めている状況なら、この映画を制作し公開する意味も、私の生まれ変わり研究の意味もほとんどないわけで、まったくおはなしになりません。
こうした回答に透けて見えるのは、生まれ変わりを認めざるえない映画でも、少しでも後援許可への責任を問われる畏れがあるなら、後援はなんとしても避けたい、という姿勢です。
後援を出したあとの思わぬ災難はどうか勘弁してほしい、という本音です。
私は、20年前に可児市教委教育研究所の主任指導主事として2年間勤務している恩義もあり、行政官としての担当者の苦しい胸の内に十分共感できましたから、後援許可の再検討の約束を取りつけたところで交渉を打ち切りました。
再検討されても、後援はまず却下されるでしょう。
研究とは、素朴に言って、今まで誰も言わなかった新しいことを主張することだと思います。ライフワークとしてやるからには、今までの理論体系をゆるがすような新しいことを主張していきたいものだと思ってやってきました。
SAM前世療法による生まれ変わりの科学的証明の研究は、上に書いたことのささやかな実践です。
そして、現時点での集大成が今回制作した映画というわけです。
新しい主張は、必然的にそれまでの主張への批判とならざるをえません。
それまでの主張への疑問・問題意識が研究の原動力であるからです。
したがって、研究によって新しい主張ができるレベルまで至ったと判断し、主張を公にすることは、それまで主張されたことを公然と批判し反論することにほかなりません。
今回の映画は、魂・生まれ変わり・霊的存在を濃厚に示す映像証拠を提示し、証拠の事実をして語らしめる、という立場で制作してあります。
それは、唯物論に真っ向から対立する立場の明確な表明です。
そして、いかに唯物論に反する事実でも、事実の示すことは認めるしかありません。
また、生まれ変わりや霊的存在についての実証を示すことなく、それらについてのひたすら信仰を説く言説を業務独占してきた宗教者、霊能者と呼ばれる職業の業務独占領域への侵害になるかもしれません。
生まれ変わりは、信仰や信じるというレベルのことではなく、証拠をもって科学的事実レベルに引き寄せることができた、と宣言しているからです。
実際、ある宗教団体の信者の方、霊能者を称する方から、私の証明しようとやっていることは神の禁じているタブーに対する反逆であり、神への冒涜であるから、必ずおそろしい報いを受けることになるぞ、と警告を受けています。
生まれ変わりを信仰レベルにとどめておくことが、業務独占には何かと都合がいいからでしょう。
神の怒りをかって神に罰せられるのであれば甘んじて受けるのがこの研究の宿命だと観念しますが、神の名を騙る狂信者に殺されるのはご免こうむりたいと思います。
私は本来死ぬことが何よりこわいと思い続けてきた軟弱者ですから、狂信者から黙らんと殺すぞと脅迫されれば、きっと変節して主張を沈黙することになるでしょう。
プラグマティズムの教育哲学者、J.デューイは、革命家に対する次のような批判をしています。
習慣の安定性と力とを知っている人は、急激な全面的な社会変化を企図したり、あるいは予言したりすることをためらうであろう。社会革命は、外的な諸習慣や、法律上、政治上の諸制度については突如たる深い変更を生ぜしめるかもしれない。しかし、これらの制度の背後にある諸習慣、また客観的諸条件によって否応なしに形作られてきた諸習慣、すなわち思想と感情の諸習慣は、必ずしも容易に変化されないものである。
人間生活のうちにある遅れ(lag)の力は巨大である。
デューイの言う社会革命とはマルクス主義による暴力的社会革命を指しているのですが、私の今回の映画も、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる、と言った市教委担当者から見れば革命的な映画ということかもしれません。
そういう評価を受けたことは素直にうれしく思いますが、この映画によって、唯物論思想とそれによる感情の諸習慣は、デューイの指摘にあるように容易に変化するものとは思われません。
焦らず、倦まず、弛まず、怯まず、生まれ変わりの事実を提示していきたいと思います。
2 件のコメント:
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スピリチュアルな観点に立つとこの世の出来事には、いわゆる天災なども含む自然現象であれ、人間が行うことであれ、ちゃんと意味があるとわたくしなどは思います。
近代において成立した唯物論的科学論は、それまでの伝統的な宗教による精神支配から人々を解放しました。それによって、人類は、自他についての客観的な事実を宗教的なドグマの歪みなしに認識できるようになりました。現代科学の成功に唯物論は一定の寄与を果たしたことは疑いえないと言ってよいと思います。
しかし、過ぎたるは及ばざるが如しで、唯物論は行き過ぎてしまったようです。現代人の精神風土を蝕む要因の一つに、唯物論の論理的帰結である虚無感=ニヒリズムがあることもまた、事実であると思います。
唯物論的科学の手法を霊的現象に用いてなされた稲垣先生の研究が、唯物論的パラダイムに打撃を与えたということは、見事な返し技であり、快哉を叫びたくなるほどのものです。
わたしが願うのは、稲垣先生の研究のさらなる展開であり、深化であります。
また、稲垣先生は、mixiのブログ上で先生に宛てられた霊信を公開しておられますが、あらためて、一冊の本にして下さるとうれしいです。
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霊信をやっと全て読みました!かなり読解するのに時間がかかりました(^_^;)
私は昔から普通に考えても生まれ変わりは当たり前だと思っていましたが、そんなに多くの人が信じていないのですね…。
広島なので遠いですがいつか稲垣先生の催眠を体験してみたいです!前世退行催眠は受けたことがないので今からとっても楽しみです。
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