2013年2月5日火曜日

生まれ変わりについてやや難解な議論その2

以下は前回紹介したブログ記事への私のコメントへの応答です。
「永遠なる自由ー霊的哲学を求めて」の記事ですが、私はこれについて再コメントしました。その紹介です。なんとややこしい議論であることよ、と思われる方は読むのを中断されるでしょう。が、スピリチュアリズム霊学を学ぶには格好の記事であることは確かです。


垣勝巳さんへの応答
2013-02-04 03:54:15
 前回の記事(人格とは何か)に関して稲垣勝巳さんからコメントをいただきましたので、別エントリとして応答を書いてみたいと思います(コメ欄は不自由なので)。 
《セッションで現れる意識現象の事実は、生まれ変わりの主体は「私」ではなく、「魂」と呼ばれる意識体全体であり、「現世の私」は、来世では「魂の表層の一つとしての前世人格」として死後存続するということです。》 「『魂』と呼ばれる意識体全体」というのは、「魂」とその「表層」も含めてということでしょうか。
つまり、タエやラタラジューを表層に持った魂全体が、里沙さんに生まれ変わっているという考え方でよろしいのでしょうか。
 「表層」というのを独立人格で現在も生きて活動しているとするのか、というところがポイントですね。(私のこれまでの理解では、過去世の人格は、「遺像」(非常に濃密な記憶・記録)のようなものとして保持されるという感じです。)
 《そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。》
 これの根拠となるものは何でしょう。タエやラタラジューの記述には、彼らが「それぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けている」ような情報はなかったように記憶していますが、間違いでしょうか。
 別主体であるタエやラタラジューは、普段はどこで何をしているのでしょう。その「人格」は、外界・他者を認識し、何らかの意志を持って行為をしているのでしょうか。また、タエやラタラジューは、お互いや「(本体の)魂」や現世人格である里沙さんに同一性感覚を持っているのでしょうか。本当にタエやラタラジューは生まれ変わっているのでしょうか。
 《ただし、深い傷を負っている前世人格は孤立し、その苦悩やそうならないための警告を「現世の人格」に訴え続けるので、現世の人格は、その影響を受け、不都合な心理的症状やときには肉体の諸症状を自覚することになるといことです。こうした私の見解は、顕現化した前世人格への聴き取りの累積から形成されてきたことです。魂表層の前世人格が不活性な状態で存続していないからこそ、現世人格に良くも悪くも影響を与えていると考えざるを得ません。》 《なお、ラタラジュー人格を含めて前世人格の顕現化現象は、そうした魂表層の前世人格が、現世人格に憑依して自己表現しているというとらえ方をすることが妥当であると考えられます(里沙さんの守護霊も憑依ととらえなさいと告げています)から、今までにない概念として「自己内憑依」とも呼んでいます。》
 こういう観点だと、前世人格と現世人格は「他者」だということにならないでしょうか。
 「他者」が「前世人格」であるということは、どうやって証明されるのでしょうか。 「同じ魂の表層である」と説明されるのかもしれませんが、それは証明可能でしょうか。
 もし、「現世の私」というものが、生まれ変わりにおいて、部分的解体を経ず、「次の生の人格」とは別の存在として、現世生活とは少し離れて存在・活動するのであれば、それは「類魂(同じグループの魂)」を見守ると言われてきた状態と、あまり違いはないことになるのかなと思います。(もっともその場合、私は類魂を見守りつつも、霊界で自分なりの活動をしていることになると思いますが。)
 さらに懐疑論的に言えば、前世人格が「実在」であり、この世に「生まれ変わっている」という「証明」は可能でしょうか。(「守護霊」の証言は、科学的な証明の対象になるものでしょうか。)
 《あなたの議論は、『私』(私の人格)の個性そのものだけの死後存続に傾斜が置かれすぎて、私のセッションで現れる意識現象の事実とは相容れません。》
 私はスピリチュアリズムと心霊研究を探究してきて、もともとの立場としてはスピリチュアリストです。スピリチュアリズムの綱領と言われているもの(そんなものは正式にはありませんがw)は、「①人間の個性の死後存続、②霊との交信可能性」です。ですから、私は基本的には「私という人格が死後存続したり生まれ変わりしたりするか」という問題意識を持っています。で、長年の探究の蓄積によって、それは正しいだろうと思っています。ただし、それ以外の様態が並行的にあり得ないと言うつもりはありませんし、「私という人格ではない、別のものが死後存続する、生まれ変わる」という可能性(私や人格や魂という概念そのものの再編成?)も全否定するつもりはありません(カルマの伝搬というのもあるでしょうし)。しかし、それらはいわゆる「スピリチュアリズム」とは異なる立場だろうと思います。そしてもちろん、そちらが正しいと証明されれば、受け入れるつもりです。
 《私には、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。》
 それを否定するつもりもありませんし、否定する根拠もありません。ただ、従来のスピリチュアリズムその他で示された知見とは異なるなあ、と感じているだけです。
 そしてその違いが何によるのか、単に解釈や表現の違いなのか、そもそも違う現実がいくつもあるのか(霊統の違い?)、それともどこかに間違いがあるのか、そのあたりにとまどっている次第です。      
 タエやラタラジューの発現現象が、「独立的人格の憑依」だとした場合、どうも気になるのは、彼らが「完全な人格性」を欠いているように見えることです。
 彼らは、史実と符合する事実を語り、一定の感情を表わし、またラタラジューの場合は当時の言語も話しましたが、自分の置かれている状況への認識や、意志の表明や、他者への働きかけをしていません。前の記事で挙げた人格を構成する①から⑤の要素の、ごく一部分しか見られないのです。
 霊の憑依において、霊媒が優秀であればという条件付きですが、出現した人格は、現に今生きている人格と同様、自己の状態への言及や、居合わせた人への働きかけや、意志や意見の表明をします。現存在としているわけです。(マイヤーズ霊の交差通信記録などはその典型です。)
 けれども、記録をみる限り、タエやラタラジューは、どうもそういう「一人前の人格」には見えないのです。むしろ、通常の(現世内の)退行催眠で幼児に戻った人が、当時の自分を表現している時に近い印象を受けます。あるいは、こういう言い方はちょっと申し訳ないですが、死後にきちんと霊界での活動をしておらず生前の状態に固着する「未浄化霊」の語りに近い感じもします。
 前にもどこかでちらりと言ったことがありますが、もし「私」が死後存続し、生まれ変わっても、こういう状態でしかないのだとしたら、とてもつらい感じがします。
 これまでの「霊との交信」記録では、かなり多くの「死後の魂」にとって、「死は解放である」「霊界は肉体の束縛から逃れて、(その魂なりに)素晴らしい世界で活動する」ことが証言されています。未熟な魂といえども、自己省察や主体的活動をして生きています。古くは「ベールの彼方」から、最近はマイケル・ニュートンなどの報告まで、そうした証言はたくさんあります。
 個人的な感想を言えば、それが真実であれば嬉しいと思いますし、真実であろうと思っていますし、スピリチュアリズムがもたらした希望はそこにこそあると思っています。
 そういった観点から見ると、タエやラタラジューは、別人格主体ではなく、「人格記憶・記録の殻(統合的構造体)」であって、それが一時的に復元されたのではないか(霊界に行った魂が、新たに来た魂や、脱魂で訪れた魂に会う時、かつて現世で生きていた時の姿や人となりを纏うのと同様に)と推論せざるを得ないわけです。そうでないのなら、これは「特殊ケース」かなとも。
 もちろん、稲垣さんには実践を通した知見というものがあるわけですから、それを無碍に否定したり、こちらの見解を押しつけたりするつもりはありません。
 タエやラタラジューの事例は、唯物論に反駁するのに非常に強力な事例だと賞賛していますし、真摯な実践家としての稲垣さんの姿勢に敬意を抱いております。 ただ、私は、今のところスピリチュアリストの末裔として、あくまでも「私」の死後存続や霊界活動や生まれ変わりを問題にし続けたいですし、多くの事例から、その事実を主張したいと思っています。
ご質問への回答 (稲垣勝巳) 2013-02-04 23:58:28
①『魂』と呼ばれる意識体全体」というのは、魂とその表層も含めてということでしょうか。
つまり、タエやラタラジューを表層に持った魂全体が、里沙さんに生まれ変わっているという考え方でよろしいのでしょうか」というご質問については、私は、セッションで現れる意識現象の事実の累積から、そのように理解しています。
私あて霊信においても、魂は表層と中核(内層)の二重構造をしていると告げています。
ただし、魂の中核(内層)については不明です。
②《そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。
そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。》「これの根拠となるものは何でしょう。タエやラタラジューの記述には、彼らが「それぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けている」ような情報はなかったように記憶していますが、間違いでしょうか」というご質問について。
タエとラタラジューについての拙著の記述には、ご指摘のようにこのような内容はありません。
こうした情報は、それ以外のセッションで顕現化した諸前世人格への聴き取りの累積から確かめてきたことです。
その理由は、2007年1月の私あて霊信で通信霊がそのように告げてきたので、その真偽を確認するためです。
③ 《私には、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。》 という私の見解については、諸セッションで現れる意識現象の事実は、そのように現れてくるから、そう考えるしかない、というトートロジーでお答えするしかありません。
敢えていえば、「臨床から得られた知」というほかありません。
ちなみに、こうした知見のもとは私あて霊信が告げています。
従来のスピリチュアリズムその他で示された知見とは異なるなあ、というあなたの感想は私も全く同感でした。
そのことを通信霊に質したところ、
「尋ねるまでもない。あなたに与えられるべきものが与えられたのだ。そして、これまでのものたちに与えられるべきものが与えられただけだ。すべては神の計画のもとにおこなわれている。それはそうあるべきであっただけだ。そして、あなたにとってもそうである。あなたには、与えられるべきものが与えられたのだ」
という回答とは言えない回答でした。
魂の二層構造仮説などは、およそ生身の人間である私の独創であるはずがないのです。
④ 「彼ら(タエとラタラジュー)は、史実と符合する事実を語り、一定の感情を表わし、またラタラジューの場合は当時の言語も話しましたが、自分の置かれている状況への認識や、意志の表明や、他者への働きかけをしていません。前の記事で挙げた人格を構成する①から⑤の要素の、ごく一部分しか見られないのです・・・死後にきちんと霊界での活動をしておらず生前の状態に固着する『未浄化霊』の語りに近い感じもします」というご感想について。
そのように感じられるのはもっともでしょう。
両事例とも、2回のセッションしかしていませんから、さらにセッションを数回重ねれば、状況認識や他者への働きかけをすることが観察されるかもしれません。
しかし、セッションをおこなうことは、当の里沙さんの脊柱側湾症の悪化状態とタエとラタラジューの死に際の苦痛の再現にこれ以上耐えられないという訴えによって、控えるしかないのです。
ただ、彼らは意志の表明はしていると認められます。
里沙さんの肉体を借りて、そうした意志を表明しているときの里沙さんの苦しみや喜びの表情は、セッション映像を詳細に観察すれば納得できることです。
セッションをおこなった当事者の私からすれば、タエもラタラジューも、ただ今、ここに現れて、生き生きと対話している、という印象を持たざるをえませんでした。
里沙さんの前世記憶の想起ではない、と思わざるをえないのです。
⑤「こういう観点(自己内憑依現象という概念)だと、前世人格と現世人格は「他者」だということにならないでしょうか。他者が前世人格であるということは、どうやって証明されるのでしょうか。同じ魂の表層である、と説明されるのかもしれませんが、それは証明可能でしょうか」というご質問について。
自己内憑依している前世人格が、他者(異物としての憑依人格)ではないという証明は、少なくとも里沙さんにおいては、彼女の残しているセッション中の意識内容の内観記録を詳細に検討すれば、可能だと思っています。
一言で要約すれば「現世の自分と前世人格との同一性の感覚の有無」によって判断可能だということです。全くの他者(異物)に対して、自分とのつながりの感覚が持てるはずがないからです。
このことについての先行研究は皆無ですから、現時点ではこれしか回答のしようがありません。
もう一つは、同一の魂の表層に存在するタエとラタラジューの人格であるので、交替を要求すれば、交替が起こり、要求した人格が顕現化する現象の観察によって、同じ魂の表層に存在しているからこそ、連絡を取り合うことが可能だろうと推測できます。
ちなみに、私あて霊信でも、「それぞれの前世のものたちは友愛を結び、人生の知恵を分かち合っている」と告げています。
それ以外のご質問については、現時点では回答を持っていません。
分からないということが正直なところです。
私あて霊信の真偽を検証するために、SAM前世療法の実践を累積してたかだか5年、700事例を越えた時点の私の見解です。
今後も、私は諸文献の事例からではなく、まずは自らの手で確認した事例から、明らかになったことを主張したいと思っています。

10 件のコメント:

ソウルメイト さんのコメント...

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高森さんは、スピリチュアリズムの真摯な研究者であられますが、死後生存説の積極的な擁護者として、スピリチュアリズムの範疇を越えて、スティーヴンソンの実証的研究の成果などにも精通しておられ、また、稲垣先生は言うまでもなく、ご自身のきわめて実証性の高い研究成果としての確たる事実から、ご両者ともに死後生存の信憑性については、考えを同じくされるのではないでしょうか?
そして、高森さんの議論は、厳密な論理としては、間違っていないとわたしは思います。高森さんは、現時点で得られた事実をもとに考察する限り、一意に確定されたことを述べるのは、尚早に過ぎるのではないかと言っておられるようにわたしには思えます。つまり、高森さんは、稲垣先生の立論に対して、いたずらな反論を弄しているのではなく、今後のさらなる研究とそれがあきらかにする事実によって、仮説の当否は判断されるべきだ、とご主張されているようにわたしには思われ、それは、正当なことではないだろうかと思う次第であります。(字数の関係上,次に続きます)

ソウルメイト さんのコメント...

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高森さんは、稲垣先生が提唱される「魂の表層に存在する前世人格」というモデルに違和感を覚えておられるようで、「魂の表層」モデルに依拠する限り、死後生存は実証できないということになってしまうのではないか、という結論に達しておられるように思われます。
ですが、高森さんが呈しておられる議論に精神医学や深層心理学の知見を加え、融通性をもたせ、論旨を損なわない程度にいくらかの補足をくわえれば、かならずしも、「魂の表層モデル」に依拠しつつも、死後生存の実証は不可能という結論には至らないのではないかとわたしは思います。
わたし自身は、高森さんが呈しておられる違和感をよく理解できるのですが、何度も申し上げますように結論を出すのが早すぎると思うのであります。
また、稲垣先生が提唱される「魂の表層」モデル・仮説が、一切の部分的補足や修正を許さない、絶対的に確定したものでない限り、有利な仮説として、それ以外の理解との併存は可能であると考えます。
どちらが正しいか、間違いかという問題ではなく、多様な理解や解釈を許すことによって、より豊饒な地平に立つことができるのではないかと思う次第であります。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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高森氏の見解は、私にとっては、観念的に過ぎ、セッションで現れる意識現象の事実に反したものに思われるのです。そもそも、「霊的エネルギーが注入されることで賦活した『準人格的発現』」という考え方は、これまでのスピリチュアル霊学からの援用でしょうが、私はそういった先入見なしに、セッションで現れた現象をありのまま観察し、ありのままに受け取る、という立場を崩すことはありません。この立場からすれば、魂の二層構造仮説は、表層から顕現化した前世人格によって、それを支持する諸現象が確かに観察できると主張せざるをえません。そして、「「統体的記憶(ただし想念が実在であるように“実在”)に霊的エネルギーが注入されることで賦活したもの」という考え方は、真偽の実証不可能な説です。
魂の二層構造仮説に対する見解のズレは、結局、確信的スピリチュアリストとSAM前世療法実践者の依って立つ立場の違いからくるものでしょう。
もう少し言えば、私も霊との交信を認める立場ですが、私が実感と検証をもって依って立つ霊信は、従来のスピりチュアリズムの霊信より、私あて霊信であり、それに重きを置くということです。
高森氏が、魂の二層構造仮説に違和感を「感じる」のは従来のスピリチュアリズム霊学にはない新たな仮説であるからでしょう。
その魂の二層構造仮説に対して、私の通信霊は、「あなたに与えられるべきものが与えられたのだ。そして、これまでのものたちに与えられるべきものが与えられただけだ。すべては神の計画のもとにおこなわれている」と告げています。
高森氏が、従来のスピりチュアリズムの霊信による知見にこだわるように、当面私は私あて霊信の告げた魂の二層構造仮説を、私に与えられたものとして、催眠を道具に用いて忠実に慎重に検証しようと思います。検証の結果、意識現象の事実が、この仮説を支持しない(この仮説では説明が完結しない)ということになれば、あっさり撤回すればよいのです。
私の真理観は、「説明の成功をもって、とりあえず真理とみなそう」と考えるプラグマティズムの真理観です。

誉 さんのコメント...

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この2週間くらい胸の真ん中が痛み、6人の前世が代わる代わる出て来ます。自分は狂っているのかと思いました。ネットを検索してここにたどり着きました。稲垣先生のおっしゃる通りです。私は本当にほっとしました。自分の中で裏付けが出来ました。本当に別人格なんですよ。別なんです。でも自分の性格にも繋がっている。前世の人達六人で一塊だそうです。未成仏な者達の塊だそうです。私は自分供養と言っています。先祖供養が落ち着いてくると、最終的に自分供養という順番なのだと言っています。本当かどうか分かりませんが。あととても未熟な感じもします。私に憑依して食べたい物を選び満たされようとしています。その時の私は別にその選んだ物を食べたいとも思わないし好物でもないです。重なる所がないです。ただ体をレンタルしているだけです。そうしているうちに一体成仏して今は五体になりました。会話をして理解してあげたり、説得したりのやり取りも大切みたいです。でも体をレンタルするのは疲れます。が、自分の前世なので仕方がないです。最後まで頑張ります。 本当に救われました。ありがとうございました。

ソウルメイト さんのコメント...

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高森さんはgooのスピリチュアル・ブログ【「私」という超難題】http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/459ff967f2c8f6595b9bd02686d05f2f?guid=ONの中で、シルバーバーチの霊言を引用し、それをシルバーバーチの「人格の多面体」論とよんでおられます。
シルバーバーチの「多面体」論は、稲垣先生が提唱される「魂の表層に存在する前世人格」モデルと矛盾しないとわたしは考えます。そして、高森さんが受け入れ難く感じているのは、まさにその点のようです。
それは、要するに「わたし」というものをどのように捕らえるかの問題だと思います。わたしというものを通常の日常的な意識のみであると考えるか、より大きくて、広くて、深いものと捕らえるかの違いではないでしょうか?
わたしは、ユングの深層心理学や解離性同一性障害についての精神医学の知見に照らして、シルバーバーチの「多面体」論も、稲垣先生が提唱される「魂の表層に存在する前世人格」モデルも十分、受け入れることができます。もし、どうしても違和感が残るというのであれば、「わたしとは何か」について、より広い文脈や知的ソースから考え直してみるとよいのではないかと思います。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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>誉さん
コメントありがとうございました。
どういう形であれ、私の公開している記事がお役に立ったとしたら大変うれしく思います。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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>ソウルメイトさん
「私」とは何かという難題は、SAM前世療法につきまとう宿題です。あっさり、「前世の記憶の想起」という前提に立てば、「魂表層の前世人格の顕現化」などの概念はまったく不要ですから。これらの概念は、魂の二層構造仮説とそれを支持する意識現象から必然的に導き出される概念です。魂の二層構造仮説に立てば、「私」とは、自分の魂の表層の一つの「現世に生まれて以後の体験によって生まれた意識・潜在意識を担っている存在」ということになるでしょうか。その魂表層の一つである「私」は、それまでの前世のものたちと友愛を結び、それらのものたちの人生の知恵を分かち与えられている、と霊信は告げています。この「現世の私」は、死後、魂の表層の前世のものの一つとして、表層を含めた魂全体が次の肉体に宿る、というのが私あて霊信の告げている「生まれ変わり」の概念です。高森氏は、こうした私の仮説に違和感を感じておいでになると理解しています。
しかし、タエにしてもラタラジューにしても、「遺像」のようなものだとしても、明らかに1個の人格としての振る舞いを示すことは誰もがセッション映像を見て納得されます。したがって、私は「前世人格」と呼ぶことにしています。スティーヴンソンも「グレートヒェンの事例」で応答型真性異言で会話したグレートヒェンを「トランス人格」と表現しています。セッションを間近で観察したスティーヴンソンも、現れた意識現象の事実に対して、1個の前世人格として観察できたので「トランス人格」という解釈をしたのだろうと思います。いずれにせよ、ラタラジューという人格(遺像だとすると違ってきますが)は、里沙さんの魂の表層に死後存続して存在しているからこそ、呼び出しに応じて顕現化し、応答型真性異言でネパール語会話をした事実は確認できましたから、その厳密な定義の問題はさておき、生まれ変わり(転生)、死後存続していると考えてよいのではないでしょうか。私には、遺像』(非常に濃密な記憶・記録)に霊的エネルギーが注入され賦活化し、現在進行形の会話も可能になる、というとらえ方こそ違和感を感じさせるのです。結局、人智を越えた問題ですから、決着がつくことはないでしょう。

20歳で六本木ヒルズに通う異端児$高橋 陸 さんのコメント...

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突然ですが、失礼します!検索してたら辿り着きました!せっかくなのでコメントしていきますね*僕は自分の起業活動の記事を書いていますが、ブログ記事で思いを伝えるのは難しく毎日試行錯誤しながら記事を書く努力をしています^^;お互い更新頑張りましょう!楽しみにしています!

稲垣勝巳 さんのコメント...

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>20歳で六本木ヒルズに通う異端児$高橋 陸さん
思いのたけをことばで紡ぎ出すのはほんとうに至難のわざです。自らの経験との連続性を保つことばをさがしながら私は書いています。がんばりましょう。

ソウルメイト さんのコメント...

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>稲垣勝巳さん
稲垣性先生がSAM仮説によって顕現させたものについて、厳密にそれが何であるかを決定的に断定することについては、わたしの知力がおよばないということで、判断は留保させていただきたいと思います。
しかし、里沙さんの前世として顕現したタエやラタラジューが、厳密になんであるかを結論しなくても、少なくとも、人は肉体が消滅した後も、意識の核心は存在し続け、いくつもの異なる人生を送るのだということは、確言できると思います。(タエやラタラジューを人格様の記憶として魂の構成要素であると考えたとしても、稲垣先生がおっしゃるように、自立的に実体として存在するものと考えたとしても、死後生存や生まれ変わりの事実性についての結論は変わらないと思います)
人間の心や意識は広大で複雑で、しかも、多次元的ですらあるにちがいないというのがわたしの理解なので、二次元あるいは、三次元的な図式化や構造モデルとして確定させるのにはなじまないのかもしれないと思うわけです。したがって、最大限、シルバーバーチの霊言が言う「魂の多面体」のような説明で満足するしかないのではないかと思う次第です。
でも、それは、稲垣先生が作業仮説として用いられる「魂の二層構造」モデルを否定するものではありません。おそらく、先生の提唱されるモデルは、深層心理学の領域で使われる心のモデルと同様、多くの局面で有効かつ効果的なのだろうと思います。稲垣先生の実践の結果、良好な反応が得られたということからして、魂には、おそらく、そのよう性質があることは間違いないだろうと思うからです。