「生まれ変わり」否定の諸反論のまとめ
「SAM催眠学序説」も、2017年末をもって、今回の「その108」まで公開することができました。
ネット上に表明される文章は、ツイッターやフェイスブック、2チャンネルを見ても分かるとおり、「軽薄短小」が圧倒的な流れです。
こうした意味で本ブログは反時代的であると言えるでしょう。
本ブログのテーマ「生まれ変わりの実証的探究」は、実証性を重んじる、真面目な内容の性格上、おのずと「重厚長大」になりがちです。
また、そうでないと「実証的探究」の実証の中身が十分伝わらず、充実しません。
いずれにせよ、本ブログは反時代的な代物であることは管理人として重々承知しているところです。
そもそも、政治も企業社会も、「いまだけ、かねだけ、じぶんだけ」の風潮が主流の現代日本で、まだまだ自分の人生の先が長いと思っている人は、今、いかに必要なお金を稼ぐかが一番の関心事であるのは当然ですし、まずは明日を生きることに必死で、この先の日本や世界の行方、ましてや死後の行方などに
真剣に目を向けるゆとりなどとんでもない、と思われるのが大方の実情だろうと思います。
だから、「生まれ変わりや死後の有無」を真面目に科学的に考えるなどは 、酔狂なヒマ人が勝手にやっとればよい、ということになるのはもっともなことだと思っています。
そして、私は、酒も賭け事もやらず「簡素で、自給的で、喜びを軸とする生活」を理想としているヒマ人であります。
したがって、本ブログ内容の需要はけっして高くはないということは開始当初から承知しています。
それでも、ブログ更新時には1日200近いアクセスがあり、そうでないときでも毎日100前後のアクセスがありますから、真面目な継続的読者のおいでになることは、ほんとうにうれしく思います。
この2017年1年間のご愛読にこころより深謝いたします。
ちなみに海外からのアクセスも1日30前後あり、2014年8月からの総アクセス数は11万を超えました。
人はいつか必ず死を迎える、この厳然たる事実を直視して、死への不安を抱いて今を生きることは重苦しいでしょうから、多くの人々は死の不安から目を背け、スポーツに熱狂したり、芸能界のスキャンダルやらを面白がったりしながら気晴らしに興じ、自分の死について正対し、真面目に考える重苦しさを先延ばしにして、あいまいにすることで、この生きにくい時代をやりくりしながら、なんとか日々を送っているのではなかろうか、というのが年末にも関わらずシコシコ書く時間のあるヒマ人、私の感想です。
しかし、死に直面化せざるを得ないときが、遅かれ早かれ人生のどこかで必ずやってきます。
死は無に帰することなのか、自分は死ともに完全に消滅するのか、それとも死後はあるのか・・・。
これは、すでに生きる時間の折り返し点を間違いなく通過している私自身のきわめて切実な問いであります。
本ブログは、この重大かつ根本的な問いに、科学的な実証をもって答えの一端を見出そうとしている試みです。
そして、実証のともなわない、観念的な、宗教的言説、霊能者的言説とは一線を画し、「観念より事実、理屈より実証」の旗印のもとに、私みずから手がけた生まれ変わり示す具体的事例の科学的検証という私の身の丈に見合った守備範囲を限定して述べてきました。
その生まれ変わりを示す「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を掲げて、生まれ変わりの実在可能性を主張してきましたが、当然それへの反論をいくつかコメントしていただきました。
今回、2018年を迎えるに当たって、そうした諸反論の経過を振り返ってみたいと思います。
Ⅰ 史実を踏まえた学問的反論
まず、特筆すべきは、2015年1月1日付「SAM催眠学序説その34」から開始され、3月22日の「その42」まで3ヶ月近く続いた、「タエの事例」について読者VITAさんから提示された下記2つの疑義に関しての論争です。
疑義 その1
タエは泥流の水によって溺死をしているように見受け
られましたが、その様子はこの分野における学問の知見と一致しないとする専門家の意見を以前拝見したことがあります。この方の見解は、
泥流は大量の岩石を
含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、とのようなものであったように記憶しております。私は以上のようなことから、タエの事例に限定して言えば、
歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っているのではないかという感想をこの度持ちました。
疑義 その2
浅間焼泥押に関する
最新の研究の知見では、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった、とのようにも伺っております
(もち
ろんセッションにおいてタエの人格も「急ぐの、急ぐ、時間がない」とのように語ってはおりますが)。もし研究の知見とタエの語った内容に差異がある場合、
タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要となるようにも感じられました。
浅間焼泥押についての最新の研究の知見を述べ、拙著の批判をしているのは地質学者の群馬大教授早川由紀夫氏のブログhttp://togetter.com/li/608596 です。
早川教授のブログで示された二つの疑義についてきちんと解明したいということでした。
私としては、専門家である大学教授の権威ある批判(学問的見解)に対して、真っ向勝負することであり、タエの語りで不明であったことの解明につながる緊張感に満ちた仕事でした。
この議論の経過と決着は、「SAM催眠学序説その34」~「その42」のブログ記事およびコメント記事をお読みください。
記事内容の質、量ともに専門学会でおこなわれる討論をしのぐハイレベルの内容であったと自負しています。
この討論の仕掛け人であるVITAさんにはあらためてお礼申し上げます。
また、泥流の流れ方についての専門的知見を展開し、討論に参加してくださったUROノートさんにもあつくお礼申し上げます。
Ⅱ自称霊能者からの無根拠な妄想による反論
さて、「ラタラジューの事例」
については、霊能者を自称している人物のブログで、ラタラジューは未浄化霊の憑依であり、里沙さんはその憑依霊の霊障によって転写された腰痛などに襲われるであろう、という根も葉もない霊視?結果が、2010年の「ラタラジューの事例」のアンビリ放映後に次のように述べられていました。
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私の感応によりますと、数十年前に亡くなったネパール人男性が、日本へ行く旅行者に憑依して、日本霊域に来ています。
昭和までの幽界が強い時代は、日本の結界が強力に存在していて、外国人のさ迷う霊が日本に入ることは非常に難しかったのです。しかし近年は、この結界が崩壊している様です。私は番組を見て、この事を再認識させられました。
日本霊域でさ迷っていたネパール人男性は、ある時、退行催眠で無防備に成っていた女性の所へと引き寄せられたと言います。そして簡単に入り込む事(憑依)が出来たので、自分の言いたい事を話したのです。
女性(注:被験者里沙さん)は、長年の腰痛治療の緩和に成れば良いと思い、安易に退行催眠による腰痛治療を始めました。
ところが術者先生(注:稲垣)による「問い掛け」とは、物を言いたい霊に対して、場所を提供することに成るのです。この結果、彼女は異国の男性の憑依を受けたのです。
問題は、そのネパール人の霊は、この女性に執着していました。
今後、彼女には腰痛に加えて、憑依する霊がいまだに持つ腹痛も、現実的な病気として彼女に転写するでしょう。それ以外にも、彼女の人生に影響を与えて変えてしまいます。
現に番組では、ネパール人男性が戦争に行き、人間を刃物で刺した記憶が、彼女が料理で肉を切る時にフラッシュバックして苦しいと、彼女は話していました。
人の意識に干渉する治療は、予想外の二次被害を生み出しますの注意してください。お金を払ってまでして、違う危険性を新たにはらみます。
これもやはり、先生も相談者も「無知ゆえの事」です。
彼女は過去生において、東北の弁財天信仰をする滝のそばで、口寄せ(くちよせ:霊を憑依させてお告げをすること)をさせる行者の元にいました。
そこで、寄り代(よりしろ)に彼女自身がされていたのです。その時の因縁の白蛇が、彼女の腰のチャクラに巣食っています。これは腰痛として現れています。
このような過去生の行為が、再度また男性の元に引かれて、口寄せをする行為につながっています。
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すでに7年以上前の記事ですが、この霊能者のもっともらしい上記予言は完全に的外れでした。
セッション後の里沙さんに霊障(ラタラジューの腹痛の転写)らしき身体の痛み現象などが、これまでにまったく起こっていないことが実証されているからです。
この自称霊能者は、感応できたと称する意識現象が客観的事実であるのか、主観的な妄想であるのかを自己点検する謙虚さを欠いたまま、臆面もなく断定できる厚顔無恥そのものの人物のようです。
Ⅲ 唯物論者からの応答型真性異言事例そのものが錯誤であるという反論
的外れな反論としては他にも、それぞれ別人からの2つの反論がネット上に掲載されていました。
①ラタラジュー程度のネパール語会話であれば、ネパール語を知らない誰でも会話できる。
②ラタラジューのネパール語会話は、それらしく聞こえる空耳の羅列にすぎない。
上記①②の反論は、言いがかり以上のものではなく、検証実験すればその主張が成り立たないことが歴然としています。
臆面もなく、よくもこのようなめちゃくちゃの反論ができるものだと呆れるばかりでした。
両反論者ともに、生まれ変わりなどあってたまるか、という完全な唯物論者です。
「応答型真性異言」という、唯物論者にとってきわめて目障りな超常現象そのものをなかったことにしようとする目論見です。
「生まれ変わり」、「霊魂」という単語に過剰な拒絶反応を示し、非科学的迷信、社会の害悪だと決めつけ、きちんとした検証抜きで、問答無用のありえない戯言だと切って捨てる傲慢な態度です。
そのため、顕著な認知の歪みに陥るのではないかと思われます。
そうした傲慢な態度に陥らないためには、本ブログ「投稿の留意点」に掲げてある
「いかなる意識現象も先験的に否定せず、いかなる意識現象も検証なくして容認せず」という思考態度を持ち続ける必要があるのです。
Ⅳ 潜在記憶仮説で説明可能であるという反論
無意識のうちに入手している「潜在記憶」で生まれ変わりとおぼしき記憶は説明可能である、という反論はもっとも妥当性がある反論です。
この反論には、たとえば次に紹介するような実証的根拠がありますから説得力があります。
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「催眠によって誘発される特殊な服従状態の中で被術者は、何らかの、過去にあった出来事らしきものを物語らずにはいられない衝動に駆られるため、現世の生活の中からそれらしきものが捜し出せない場合には、前世らしき時代の記憶がそれまで全くなかった場合でも、それらしき話を作り上げるかもしれないのである。(中略)
記憶の中に潜んでいるいろいろな情報をつなぎ合わせ、それをもとに前世の人格を作り上げてしまうのである。このようにして作られた前世の人格は、長年月にわたって繰り返し呼び出されても、それなりの感情や一貫した性格を示して見せることであろう。(中略)
前世の記憶らしきものをはじめからある程度もっている者に催眠をかければ、細かい事実を他にも想い出すのではないか、とお考えになる方がおられるかもしれない。私自身もそのように考えたため、自然に浮かび上がった前世の記憶らしきものを持つ数名の者に催眠をかけたことがある。
この人たちの持つ記憶らしきものは前世に由来しているのかもしれないが、特に地名と人名については、事実かどうか確認できるほど明確な形では語っていなかった。催眠状態なら、人物や場所の名前を一部にせよ正しく想い起こしてくれるかもしれないし、そうすれば、この人々の記憶に残っているという前世の人格の存在が確認できるのではないかと考えたのである。
私はこのような実験を13件自らおこなったり指導したりしている。一部では私自身が施術をおこなったが、それ以外の実験では他の施術者に実験を依頼した。その結果ただの1件も成功しなかった」
イアン・スティーヴンソン『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP79-80
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「タエの事例」、「ラタラジューの事例」は、潜在記憶仮説で説明できるのではないか、という点については、当然のことながら私も疑いをもちましたから、潜在記憶の入手可能性を徹底的に調査しました。
調査結果では、潜在記憶となる情報を入手できそうな入手先の痕跡は一切発見できませんでした。
最終的にポリグラフ検査をおこないましたが、検査結果の鑑定は「意図的に情報を入手した記憶は一切認められない」ということでした。
反論者の常套句は、「どこかで」無意識的に情報を入手したに違いない、という論理で主張してくるのですが、肝心の「どこか」については具体的に触れようとしません。
その「どこか」をさんざん調査しても発見できなかったのですから、無理難題、ないものねだりと言うほかありません。
タエにしてもラタラジューの語った情報にしても、通常の手段による意図的情報収集でも、あれだけの内容は入手できるとは考えられません。
まして、偶然の経緯で、しかもインターネット(注:里沙さんはネット検索の技能を持っていません)などの手段を使わず、あれだけの情報を入手することはあり得ないでしょう。
両事例を潜在記憶仮説によって説明することは、記憶の入手先がない以上、成り立ちようがありません。
ただし、「タエの事例」については、被験者里沙さんの心の力、つまり彼女は催眠中に万能の透視・テレパシーの能力を発揮してあらゆる情報を入手できたはずだ、とする「超ESP仮説」が適用できないわけではありません。
応答型真性異言である「ラタラジューの事例」については、応答的会話技能はESPでも取得できないとされていますから、超ESP仮説によっても説明できません。
Ⅴ ポリグラフ検査の被験者に不正(催眠による細工)があったのではないかという反論
ところが、私が催眠を用いて里沙さんの受けたポリグラフ検査をスルーさせたのではないか、という疑いを持つ人がついに出てきました。
つまり、被験者里沙さんは意図的に情報入手しているが、その事実がポリグラフ検査にひっかからないように、つまり嘘をついても心理的動揺が生じないように、催眠が用いられていたのではないか、という疑いです。
徹底した懐疑主義に立てばこうした疑いも出るでしょうが、これは私と里沙さんの人間性を否定されかねない疑いです。
したがって、次のような反論をしてあります。
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「催眠暗示により、嘘を嘘として認知しないようにポリグラフ検査前に細工するということは、嘘をつくことが道徳に反する、という価値観の持ち主には原則的に不可能です。
私の数度の催眠実験でも、嘘をつくことを強要する催眠暗示した場合、被験者は拒否するか覚醒してしまいました。
したがって、里沙さんに虚言癖のような傾向が無い限り、嘘をついても心理的動揺を起こさず平然としていられるような催眠暗示が有効であるとは思われません。
催眠は、良心に反することを強要できるほど強力ではない、というのが催眠学上の定説です。
また、ここで紹介したポリグラフ検査は被験者里沙さんが嘘をついても平然としているかどうか、つまり動揺せず、したがって生理的諸反応が起きないかどうかを確認する本検査前の予備検査がされています。
内容は、彼女の年齢を問う予備検査です。
30代か、40代か、50代か、60代かそれぞれにすべてに『いいえ』と答えさせるものでした。
その結果、50代で明白な特異反応が認められました。
彼女は、検査当時51歳でしたから、50代か? で『いいえ』と嘘をつき、それが特異反応として検知されたというわけです。
この事前検査結果からも、彼女が嘘をついても心理的動揺を起こさず平然としている、などの催眠暗示がおこなわれていないことは、すでに明らかです。
仮に、そうした事前暗示がなされていても無効であったことが証明されています。
また、つづく本検査結果においても、以下の鑑定が出ています。
『鑑定事項1『タエの事例』に関する情報入手経緯については『本・雑誌類で』で明確な特異反応(顕著な皮膚電気反応)を認めたが、内観には考慮すべき妥当性があり、前世療法を受ける以前の認識(記憶)に基づくものか否かの判断はできない。
考慮すべき妥当性ある内観とは『先生(稲垣)からこんな本読んだことはないかと尋ねられる度に本屋に走り本を読んだりした。こうした経緯があり、前世療法を受けて以後のことながら、一回目の質問時から引っかかりを感じた』という内観報告である。したがって、特異反応はこうした内観に矛盾しないものである』
この鑑定は、つまり里沙さんは、完全な嘘をついていなくても、少しでも心理的なひっかかりがあれば動揺が生じること、正直で素直な性格であることを示しています。
こうした諸事実によって、少なくとも、ここで実施されたポリグラフ検査を、催眠により問題なく通過させたなどの不正が起こり得たはずがありません。
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上記私の反論について、疑義を提出した人からの再反論はありません。
Ⅵ 量子脳理論を説明仮説へと援用し拡大解釈した反論
この反論を持ち出した人は、Wikipediaに掲載されている量子脳理論についての次の引用記事をヒントにしていると思われます。
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ペンローズ・ハメロフ アプローチ
理論物理学者の
ロジャー・ペンローズと麻酔科医の
スチュワート・ハメロフに
よって提唱されているアプローチ。二人によって提唱されている意識に関する理論は Orchestrated Objective Reduction
Theory(統合された客観収縮理論)、または略して Orch-OR Theory(オーチ・オア・セオリー)と呼ばれる。
意識は何らかの
量子過程から生じてくると推測している。ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識は
ニューロンを単位として生じてくるのではなく、
微小管と
呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説
明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している。
[1]。
臨死体験の関連性について以下のように推測している。
「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、
体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」と述べている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記ゴチック部分のハメロフの主張の問題点を挙げると
①「脳で生まれる意識は・・・」と、脳が意識を生み出すことが確定されているかのような前提を述べていますが、脳が意識を生み出しているという科学的立証はいまだにありません。
②量子脳理論提唱者のハメロフの主張は、「臨死体験」の説明仮説としては論理が通っているでしょうが、「心臓が止まると意識は脳から出て拡散する。体験者が蘇生した場合は意識が脳に戻る」などの主張の科学的立証は一切ありません。
立証しようにも検証方法がないのです。
そして、臨死体験が
、「脳内現象」であるのか、「体外離脱現象」であるのかの決着さえも、いまだについていません。
したがって、ハメロフの主張は、臨死体験論争に、目新しい量子脳理論を持ち出して説明しようとする「私論」、ないし「試論」でしかないと言えるでしょう。
③ハメロフの言う「体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」、あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」という主張に、「ラタラジューの事例」の反論者は、待ってましたとばかり飛びついて、「量子脳理論で生まれ変わりは説明できる」と断定しているのですが、ハメロフは、宇宙にあり続ける死者の意識情報は「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」ときわめてあいまいな表現しかしていません。
理論とは言えないレベルの、科学的実証の見込みのない恣意的推論に過ぎないからでしょう。
④私は、ハメロフの量子脳理論による「生まれ変わり」の説明については、次のような決定的な欠陥のあることを反論しています。
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「かつて、ラタラジューが生きており、死後ラタラジューの意識(人格)が量子として宇宙に偏在したとします。
そのラタラジューの意識(人格)がなぜわざわざ日本人の里沙さんの意識を選んで宿るのか、その理由がまったく説明ができないではありませんか?
宇宙に偏在していたラタラジューの意識(人格)が、たまたま気まぐれで偶然に里沙さんの意識に宿ったわけですか?
また、そのような偶然が普遍的に起こるとしたら、応答型真性異言現象がもっと多くの人々の間に起きてもいいのではありませんか?
つまり、学んではいない異国語で応答的会話のできる人々が、これまで世界に5例にとどまらず、もっと相当数現れてもいいはずです。
この点についての整合性のある合理的説明ができない限り、量子脳仮説で生まれ変わりを説明できるとは到底考えることはできません」
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上記の私の反論についての再反論はありません。
量子として宇宙にあり続ける膨大な死者たちのうちの誰かの意識情報が、偶然に現世の誰かの生命体と結び付いて生まれ変わる、とすればこうした現象は、すでに「生まれ変わり」という辞書的定義を逸脱しています。
生まれ変わることに目的性は一切なく、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的かつ偶然に、生まれてきた誰でもよい誰かの肉体に宿る、こうしたまったく無縁である死者の意識が、生を受けたまったく無縁の現世の者の意識に偶然に宿ること、これを「生まれ変わり」と呼べるのでしょうか。
おそらく、量子脳理論について生かじりの知識しかなく、量子論という最新科学を背景にした目新しい主張に、軽率に飛びついてみただけだからでしょう。
Ⅶ 形態形成場仮説を借用し飛躍した推論による反論
形態形成場仮説は、Wikipediaの説明記事の引用によれば、次のようになっています。
この仮説は、生物学者シェルドレイクの提案だとされています。
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この仮説は以下のような内容からなる。
- あらゆるシステムの形態は、過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する(時間的相関関係)。
- 離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する(空間的相関関係)。
- 形態のみならず、行動パターンも共鳴する。
- これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。
簡単に言えば、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」とする仮説である。
この仮説を肯定する人々もいる。だが、「事実上、
超常現象や
超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、
疑似科学の1つ」と否定的な見解を示す人もいる
[2]。
また、シェルドレイクは
記憶や
経験は、
脳ではなく、
種ごと
サーバーのような場所に保存されており(
記憶の外部保存仮説)、脳は単なる
受信機に過ぎず、
記憶喪失の回復が起こるのもこれで説明が付く、という仮説も提唱している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
反論者は、上記の、生物学者シェルドレイクの提案している形態形成場仮説の説明のうち、「記憶の外部保存仮説」を借用し、拡大解釈をして、生まれ変わりについて次のように反論しています。
「わたしは否定派ですが、理由は『死後の世界』を想定しなくても『この世』だけてすべて説明可能だからです。(中略)
わたしにはむしろシェルドレイクなどが主張する『形態形成場仮説』のほうが説得力を感じます。
つまり、そもそも『記憶』というものは『脳内』存在せず、重力場や電磁場と同じように種ごとに世代を越えて(つまり故人も含めて)共通の『場』に蓄積さ
れていくものだ、ということです。従って、『脳』」は中継器のようなものであり、生物は『脳』」を通じて遺伝子というキーを使って自分の『記憶』にアクセスし
ていると見るのです。
実際、脳科学が進歩した現在においてさえ、『記憶』が『脳内』に存在している、という確証はないのです。
ここで、
ある条件下において他者の『記憶』にアクセスできるとすれば鳥類の『渡り』や魚類の『回遊』など世代を越えた情報交換が必要な現象や『本能』の謎も説明できることになります。
そして、
この仮説により前世記憶や臨死体験などは勿論のこと、テレパシーなどの『記憶』に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります」
私は、反論者の上記のゴチック部分について次のような再反論をしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「形態形成場仮説(記憶の外部保存仮説)によって、ある条件下において、他者(死者)の「記憶」にアクセスできる、という主張は、「ある条件下」の具体内容が示されないかぎり、検証実験はできません。
そ
の検証実験によって、他者(死者)の記憶にアクセスが成功したという検証がいくらかでもできて初めて、『「形態形成場仮説によって前世記憶や臨死体験などをは勿論
のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります』という科学としての言説が成り立つのではありませんか?
こうした、検証のされていないところで、『前世記憶や臨死体験などをは勿論のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります』という主張は、形態形成場仮説の極端な一般化という認知の誤りに陥った短絡的な恣意的推論と言うべきでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そ
もそも、形態形成場仮説によって他者(死者)の記憶にアクセスできる、などの、あたかも最新量子物理学の成果を装った主張は、形態形成場仮説を『ラタラ
ジューの事例』に都合よく援用した安易な拡大解釈、ないし実証のない恣意的推論だと受け取るしかないではありませんか。
だからこそ、『ある条件下において』などという、安直で曖昧模糊とした、反証可能性に閉じた言い回しをして、逃げを打っているのではありませんか?
『ある条件下』の内容が不明では、その条件を満たすにはどうすればよいのか、その検証が不可能ですから、科学的仮説の体裁になっているとは言えません。
仮説の検証方法が示され、仮説の再現方法が保障されていてこそ、仮説→検証→検証結果の分析と考察→仮説の実証、という科学的方法の適用が可能です。
したがって、反証可能性に閉じられており、検証のできない仮説は、科学的な仮説ではなく、恣意的推論の表明に過ぎないという誹りを免れません。
検証のできない、反証可能性に閉じられた仮説を持ち出すのは、前世などあるはずがない、という決めつけの前提から、『死後の世界を想定しなくてもこの世だけてすべて説明可能だ』という唯物論絶対の砦に立て籠もって、自分の唯物論世界観の安定を図ろうとする硬直した態度のように私には思えます。
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上記の私の再反論についての反論はありません。
さらに加えて言えば、「ある条件下において」の文言を、「超ESPなどの能力が発揮できる条件下において」と置き換えれば、「超ESP仮説」と同様のことを述べていることになりませんか?
「超ESPという能力を発揮できる条件においては、死後存続のあらゆる証拠は、生者による超能力で完全に説明できる」と考える理論が、「超ESP仮説」と呼ばれているものです。
つまり、「死後の世界を想定しなくても、この世だけですべて説明可能だ」とする理論です。
こう考えれば、「形態形成場仮説」のうち「記憶の外部保存仮説」は、「超ESP仮説」のような仮説に「事実上、
超常現象や
超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、
疑似科学の1つ」という否定的見解を示す人が出るのは当然でしょう。
そして、「超ESP」という万能の超能力者が、発見されているわけではありません。
また、超ESPを用いて、情報である記憶は入手できても、情報に還元できない「暗黙知」である技能は取得できず、会話技能を示す応答型真性異言「ラタラジューの事例」を、「記憶の外部保存仮説」で説明することはできません。
「記憶」は情報であり、その取得は、最近の「量子もつれ」現象で説明可能かもしれませ
ん。
しかし、応答的会話は「技能」であり、暗黙知である「技能」の取得は、超能力であろうと形態形成場仮説であろうと「量子もつれ」であろうと説明できるはずがないのです。
したがって、応答型真性異言現象は、生まれ変わり以外の説明は成り立たないのです。
「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を生まれ変わりの証拠とする私の主張への反論を、7点にわたって網羅しました。
このうち、両事例について、具体的反証を挙げて反論しているのは、Ⅰぐらいでしょうか。
「実証的探究」を掲げている本ブログ管理人としては、Ⅰ以外は、実証性に乏しく少々物足りない観念的反論だと評価するしかありません。
「理屈より実証、観念より事実」の旗印からすれば、実証なき理屈、事実なき観念による反論では十分な説得力を認めることはできません。
現時点において、これら諸反論では、両事例が示す生まれ変わりの実証性を揺らがせることがいささかもできなかった、と評価するしかなかったからです。
とりわけ、最新の量子論を背景にした量子脳理論、形態形成場仮説(記憶の外部保存仮説)でタエ・ラタラジューの両事例を説明できると主張されていますが、その主張の杜撰さから、どうやら生まれ変わりの科学的研究(SPRおよび超心理学)における先行研究の造詣があるとは思われませんでした。
生まれ変わり仮説の「否定が先にありき」であり、したがって、私の主張根拠である両事例の反証可能な点についての具体的な検討をすることなく投稿されているように思われます。
このことは、「前世を語る子どもたち」の膨大な実証的研究、3つの「応答型真性異言」の実証的研究を残した、生まれ変わりの科学的探究の先駆者バージニア大学の故イアン・スティーヴンソン博士の業績と、それを模範とする私のささやかな探究が、少なくとも現時点では、否定することはできない、と自負してよいと思われます。
しかしながら、私の主張している「生まれ変わり仮説」は、生まれ変わりの濃厚な事実を示す状況証拠に基づいていますが、完璧な証拠だと断定できるまでに至っているものではありません。
だから、常に批判(反論)にさらされているあり方、常に反証可能性に開かれているあり方こそが、真理を求めるための、公正で科学的な探究態度だと思っています。
こうした公正で慎重な探究態度を逸脱しないために、私自身も、生まれ変わりがあってほしいという願望による、事実認識の歪みの有無についての自己点検を、常に怠ってはならぬと自戒しています。
諸反論の幾つもの波を被り、揉まれ、洗われ、再反論を慎重に検討し、粘り強く思考していくプロセスの繰り返しがあってこそ、生まれ変わり仮説はより強靱なものに仕上げられていくに違いないからです。
そして、反論は、反証可能性に開かれた形で証拠として提示されている具体的諸事実に基づいて実証的になされるべきでしょう。
法廷のルールに則れば、私が具体的諸証拠を提示して生まれ変わりがある、と主張しているのですから、生まれ変わりなど絶対にない、と主張する人は、私の掲げている諸証拠に対して具体的反証を挙げて生まれ変わりがないがないことを実証する「立証責任」があるということです。
こうして生まれ変わりを否定する諸仮説をすべて公正に検討し、最後に残ったもっとも妥当性の高い仮説が「生まれ仮説」でなければ、宗教的信仰ではなく、科学的な事実としての生まれ変わりを、多く人々が納得することはできないでしょう。
生まれ変わりのように、きわめて重大で、広範囲に深甚な社会的影響力をおよぼすことを、科学的事実だと主張することであればなおさらです。
なお、私は、もし生まれ変わりのないことが、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の具体的反証をあげて「科学的に実証」されるなら、怪しげな宗教的言説、怪しげな自称霊能者のお告げ、胡散臭い霊感商法などが、きれいさっぱり完全に一掃できる画期的なことだと評価しますし、私の主張は、潔く誤りを認めて撤回します。
このことは、ひいてはスティーヴンソンの生まれ変わり研究の業績もすべて否定することになるでしょう。
最後に、you-tubeに公開している「ラタラジューの事例の英語版」に寄せられた海外からの2つの好意的評価コメントを紹介して締めくくりとします。
文面から、それぞれ生まれ変わりの科学的研究への造詣があると思われるお二人です。
また、コメント文面から「ラタラジューの事例」の公開動画にある説明コメントを丁寧に読んだうえでのコメントであると推測できます。
ちなみに、量子脳理論、および形態形成場仮説を持ち出して否定論を述べているお二人は、おそらく「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の動画にある説明コメントをきちんと読んでおいでになるとは思われません。
さて、お一人からはCongrats. Well done! 、 もうお一人からは Great job!という「!」付きの身に余るうれしい評価でした。
日本の濃尾平野の片隅の田舎町から、机に座ったままで世界に向けて発信出来る幸運な現世に生まれ合わせた喜びを噛みしめています。
最後まで辛抱強くお読みくださった読者の方には、あつくお礼申し上げます。
2018年が、あなたにとって、意義深く稔り多い成長進化の年になりますように、お祈りいたします。
そして、世界中のすべての人々にとってもそうであるように。
どうぞ、よき新年をお迎えください。
2018年も、どうぞよろしく。