2013年2月4日月曜日

生まれ変わりについてのやや難解な議論の紹介

私の知人の「永遠なる自由ー霊的哲学を求めて」というブログで、以下のような議論がありますので紹介します。
彼はスピリチュアリズム霊学の立場からの問題提起でしょうし、それに対する私のコメントは、心理臨床実践者の立場での見解だと言えます。
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死後存続や生まれ変わりにおける「人格」についてのやや専門的な議論
 
 前のブログの【「私」という超難題】(1) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(上)【「私」という超難題】(2) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(下)において、真性異言を伴う「前世想起」とおぼしき事例――イアン・スティーヴンソンの「シャラーダの事例」と稲垣勝巳氏の「ラタラジューの事例」――を取り上げて、「憑霊か前世記憶か」という問題を論じ、さらに、「死後存続」や「生まれ変わり」において「何が主体か」という問いを出しました。 
 そして、「死後存続」や「生まれ変わり」の「主体」が科学的・実証的に定義できない以上、「死後存続」や「生まれ変わり」の科学的・実証的証明も不可能になるのではないかという、いささか極論的で驚愕的な提議もしてみました。
  《死後存続(survival after death)とか生まれ変わり(reincarnation)ということは、何らかの「主語」を伴っています。ごく当たり前に考えれば、「私」が死後も存続する、「私」が死した後再びこの世に生まれてくる、ということを意味するはずです。
 ところが、この「主語」が確定できない。何が死後存続し、生まれ変わるのかを、言うことができない。となると、「死後存続」や「生まれ変わり」の証明は、“不可能”ということになります。》
 また、稲垣氏が、「ラタラジュー(やタエ)は現世人格とは別人格であり、それが憑依している」というような解釈をされていることに関して、いささかの疑問も提示しました。
 そのあたりのところがすっきりしなかったので、少し続編を綴ってみることにします。          
 死後存続とか生まれ変わりは、当然、その主体があることを前提にしています。
 それは一般的には「私」、もう少し詳しく言えば「私の人格」です。
 もし「私」が「神という大きな火の小さな火花」であるとか、「大いなる宇宙エネルギーの一顕現化」であって、「私」の死後、その「火」とか「エネルギー」とかだけが脱け出して、存続や再生(再顕現化)を続けるのであるなら、それは「私」の存続や再生とは言えません。
 同様に、稲垣氏の解釈にあるように、個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は「魂の表層のもの」であって、不滅の存続をするのは「魂」そのものだとするならば、個々の現世人格の「私」は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に「凍結」して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。) 
 で、改めて、「死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならない」ということになると思います。そして、問題は、その「私の人格」とは何かということになります。
 これは前のブログでちょっと書いた「私というものは、私の人格をも超えた存在だ」という提議と、矛盾するものではありません。私は必然的に、常に私の人格を帯びるものであるけれども、私の主体(真の核)はそれを超えたところにあるということになるかと思います。       
         
 主体としての「私」の人格とは何かということを、ごく一般的な見方から考えてみたいと思います。 それは、次のようなものになるかと思います。①固有の性格特性(複数)が持続的に保持されていること②「私」を主人公とした記憶(多数)を保有していること③②に伴う知識・技能を保有していること④外界を受容し、判断し、それに対して意志をもって行為すること⑤自己同一性感覚(主体感覚)があること(当然、責任主体も想定されていること)
 ①の性格特性というのは、たぶん非常に多様・多数のものです。優しい・厳しいといった漠然としたものから、特定のもの(権力、愛、真実などなど)への強い志向といったものまで、レベルも、大小も、方向性も、様々あるでしょう。そして、一般的に人は、自己の中に複数の性格特性を持っていて、それを発揮したり引っ込めたりもします。また、一部の特性が途中で消滅したり、新たな特性が加わったりすることも、ないとは言えないでしょう。
 ②は自己同一性の基礎となる記憶です。新生児はともかくとして、人間はこれをたくさん獲得していきます。もちろん、中には表面(意識)から消え去ってしまうものもありますし、あまりに細かくて心には意味のない情報は、内奥(無意識)からも消え去ってしまうかもしれません。
 ③は、経験によって蓄えられた客観的な知識(教養・常識・世界観)とか、言語能力や楽器演奏能力といった「特殊技能」(暗黙知)などです。
 ④は、生きている主体であるということです。内的な空想・妄想によってではなく、外界(他者)を客観的に認識・判断し、一定の「自由意志」「選択」によってさらに経験を増していくということです。また、主体であるということは、「自らの行為による結果は自らが引き受ける」という責任の所在も意味します。
 ⑤は、時間や累積的経験の全般にわたって「私」が主体として体験してきたという感覚、私は私であり、私に責任があるという感覚です。 これらの要素は、時たま、病気や事故などによって毀損されることがあります。神経症によって性格特性の一部だけが突出していびつになったり、記憶喪失になったり、認識や判断や意志が働かなくなったり、自己同一性感覚が部分的に破壊されたり(解離性自己同一性障害=多重人格)、と。 けれども、通常では、これらが人格の中心部分を形成していることは間違いないでしょう。      
 
 さて、こうした要素が、死後どうなるか。 唯物論の「帰無仮説」では、すべてなくなります。当然ですね。いや、原理主義的唯物論だと、こうした要素すら「ない」と言うかもしれません。自己同一性なんて、どうやって計測できるの? みたいな感じですね。まれに見られる「折衷的死後存続説」というのがあります。
 これは、たとえば、②の「私の記憶」のみが、どこかに、何らかの形で保持される、という考え方です。「アカシック・レコード」なんていう概念がありますね(実際にあるらしいですが)。仏教でいうと「虚空蔵」ですか。 偉大な業績や作品を遺せば、そこに「私」が残り続ける、といった考え方は、けっこう広く見られます。西欧文明のエリートたちは、案外そういうことを目指しているかもしれません。個人名にやたらこだわりますし。 一部の宗教には、「悉皆成仏説」とでも言うべき死後説があります。それは、(極悪人を除いて?)すべての人は、死後に菩薩や天使のような存在になるというものです。 
 これにおいては、①②③に関係なく(むしろそれはさらっと捨て去られて)、「私」は「理想的人格」に変身します。④の行為主体性が継続されるだけで、⑤生前人格との自己同一性感覚も不明です。 
 まあ、ありがたい説ではありますが、「私(という人格」の死後存続とは言えないものです。 とある霊からのメッセージは、「死後、どんな低劣な人間も極悪人も一瞬のうちに変身して天使のようになるというのなら、それは死後存続とは言えないだろうに」と言っています。 そしてこういう考え方は、「生きるということの意味」も倫理も奪ってしまう、宗教にあらざるべき考え方と言えるでしょう。 結局、「死後存続説」とは、①の性格諸特性はほぼそのまま保持される②の体験記憶はほぼそのまま保持される(次第に細かい部分は失われることがあるにしても)③の知識・技能も同様④の行為主体性も保持される⑤生前人格との自己同一性感覚はある ということでなくてはならないと考えられます。 そして、スピリチュアリズムや心霊研究において蓄積されてきた「霊(肉体を去った個性)との交信」記録においては、おおむねこのことが立証されてきたわけです。(多くの人は認めないにしても。)     
                
さて、こうして「存続」した「私という人格」が、再び現世に生まれ変わる時に、どうなるか。
 これはとても難しい問題です。
 ①の性格特性はその主要な部分が保持されると思われます。ここがまったく変わってしまったら、「自己同一性」は保持されなくなるでしょう。
 ②の体験記憶は、ごく稀な例外を除いて、表面的には“全消去”されます。ただし、無意識?には保持されて、変性意識状態で想起されることもあります。
 ③の知識・技能については、稀に一部を保持・発揮することがあるようです(由来不明の恐怖症や持って生まれた特異才能など)。なお、ごく稀に、身体的特徴(先天性・後天性を問わず)を引き継ぐことがあるようです(スティーヴンソンによる“先天性刻印”の研究参照)。
 ④の行為主体性は当然保持されています。また、時に「カルマ」などと表現される「責任」主体性(課題や償いを引き受けること)もあるとされています。
 ⑤自己同一性感覚は、前世人格や中間世人格との間には存在しません(そもそも通常は知らない)。
 つまり、体験記憶や知識・技能記憶は消去されているものの、性格特性(のかなりの部分)と責任主体性は持続している、ということになるかと思います。
 ところで、こうして生まれ変わった「私」が、また死んだ後、どうなるか。複数回再生と死を経験した「私」は、どういう状態にあるか。ここに微妙な点があります。
 可能性は二つでしょう。 Ⅰ 直前の生とのみ連続性がある Ⅱ 複数回の生との連続性がある
はあまりに奇矯な考え方ですが、まだ未熟で現世の諸欲にとらわれているような魂ではあるのかもしれません。 
 Ⅱは、「生まれ変わりによって魂が成長していく」とする考え方と合致するものです。 
 複数回の生との連続性を持った場合、
 ①複数回の生において持った性格特性をすべて保持する
 ②細部は除いて、複数回の生の主要記憶を保持する
 ③②と同様
 ④長い時間・経験を越えて持続する主体性を獲得し、責任も受容する
 ⑤複数回の生の自己と同一性感覚を持つ こうなっていくのであれば、「私」は、輪廻転生を繰り返すことによって、より豊かに、大きく成長していくものだ(現世ではそれを自覚しないが)ということになるでしょう。    
さて、ここで、前世想起(催眠下、ないしは偶発的変性意識状態による)とおぼしき事例での、きわめて「人格そのものに近い」出現について考えてみます。
特に「シャラーダの事例」や「ラタラジューの事例」のように真性異言を伴ったものに顕著ですが、前世人格とおぼしき人格が、今そこにいる人格のように、発言したりする場合です。これは、よくある前世退行催眠での、「こういうことがあった」という「記憶想起」とはかなり位相が異なるものです。 シャラーダやラタラジューを文字記録や映像記録で見た感じでは、
 ①の性格特性はある程度認められる(特にシャラーダの場合は非常に顕著)
 ②は部分的にかなり詳細に発現する
 ③は部分的に発現している(在世時の言語=真性異言)
 ④は?
 ⑤現世人格との同一性感覚は持っていない
 ④ですが、シャラーダは、その時点での外界や状況を客観的に認識し(自分がなぜここにいるのかはわからなかったようですが)、さらに自分の郷里に帰り、親戚たち(実はもういない)に会いたいといった要求をしたようです。ラタラジューは、「~したい」というような発言はないようです。
 ⑤に関して、現世人格が「出現人格」に対して同一性感覚を持っているかということですが、シャラーダの事例では、出現時に現世人格は不在(消失)となっており、事後に報告されても「それは私の前世だ」という感覚はなかったようです。ラタラジューの事例では、里沙は出現と同時かその直後に、同一性感覚を持ったような感じで報告されています。
 つまり、シャラーダの事例では、この「人格」は、「死後存続」した人格が、そのままで、つまり「憑霊」して出現したと捉えることが自然だと思えます。
 ラタラジューの場合は、どうでしょうか。現状認識や主体意志に乏しいということは、完全な人格ではないということ、つまり憑霊ではないということでしょうか。    

 
一般的に「前世退行催眠」で前世記憶を想起した場合、一般人が普通に過去の記憶を甦らせているように語る場合もありますが、時に、非常に臨場感を伴って、あたかもその前世人格が、今そこでその体験をしているかのように――つまりかなり人格的な姿をして――、再現される場合もあります。 このような場合、そこに「人格」が出現していると見るべきなのでしょうか。それとも、それは諸記憶が総合されて、そこに霊的エネルギーが注入されることによって、「あたかも人格のように」出現していると見るべきなのでしょうか。
 稲垣氏の提示しているように、「前世人格は別人格であり、それが憑霊している」という捉え方をすると、「私の人格」の「死後存続」や「生まれ変わり」という考え方とは衝突することになります。 ラタラジュー、タエ、里沙がそれぞれ「別人格」であるとすると、その間にある「生まれ変わり」とは何だということになるのでしょうか(どういう連続性があるのかということでもあるでしょう)。
 また、ラタラジューやタエは、「死後に人格性を持って活動している」のでしょうか。彼らが死後、かなり不活性な状態で留まり続けるとしたら、里沙、あるいは私たちという現世人格も、死後、不活性な状態になるのでしょうか。
 どうも私には、「ラタラジューやタエが、統体的記憶(ただし想念が実在であるように“実在”)に霊的エネルギーが注入されることで賦活した『準人格的発現』であるなら、生まれ変わり説は成立するが、『別人格』であるのなら憑霊説になるのではないか」と思われてなりません。
 それとも、「私という人格の死後存続や生まれ変わり」という概念が不適切だということになるのでしょうか。
 そうすると、一体“何が”死後存続し、生まれ変わるのでしょうか。   

 
言うまでもありませんが、こうした議論は、シャラーダの事例やラタラジューの事例の信憑性を否定しているものではありません。
それは明らかに「唯物論では説明できないもの、それに反駁するもの」であり、「人間の人格(少なくともその主要部分)が肉体の消滅後も、現行の物質的な手段に依らない何らかの形で保持される」(狭い意味での「死後存続」)ということを証明するものであることは疑いありません。
しかし、「死後存続」や「生まれ変わり」は、厳密に考えれば考えるほど、定義・立証が困難になってくるものであり、おそらく科学的・実証主義的な方法や語彙では、扱ったり論じたりすることがほぼ不可能なものではないかと思えるわけです。  
こうした突っ込みすぎた議論は別にして、「死後の個人との交信」や「前世記憶の想起」などによって、死後存続や生まれ変わりが十分に信憑性を持ったものであることは、どれだけ強調してもし過ぎることはないでしょう。
 しかし同時にその奥には、人間の知性ではなかなか理解し尽くすことのできないような謎があることも、また銘記しておくべきなのかもしれません。
 またまたすっきりした議論になりませんでしたが、とりあえずはこのあたりで。
【コメント】

臨床家としての立場から
(稲垣勝巳) 2013-02-03 23:13:29
心理臨床のひとつであるSAM前世療法士としての私の立場は、観念より事実、理屈より実証へ向かわざるをえません。
主訴を抱えて生きづらくなっているクライアントを前にして、とりあえずの作業仮説を構築し、それにもとづくセッションを展開していかねば終結の道筋も立ちませんし終結へ至ることもできないわけです。
そうしたセッションで現れる意識現象の事実の累積によれば、「個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は魂の表層のものであって、不滅の存続をするのは魂そのものだとするならば、個々の現世人格の私は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に凍結して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。)で、改めて、死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならないということになると思います」というあなたの見解には同意しかねます。
私の理解力が不足かもしれませんが。
セッションで現れる意識現象の事実は、生まれ変わりの主体は「私」ではなく、「魂」と呼ばれる意識体全体であり、「現世の私」は、来世では「魂の表層の一つとしての前世人格」として死後存続するということです。
そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。
そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。
ただし、深い傷を負っている前世人格は孤立し、その苦悩やそうならないための警告を「現世の人格」に訴え続けるので、現世の人格は、その影響を受け、不都合な心理的症状やときには肉体の諸症状を自覚することになるといことです。
こうした私の見解は、顕現化した前世人格への聴き取りの累積から形成されてきたことです。
魂表層の前世人格が、不活性な状態で存続していないからこそ、現世人格に良くも悪くも影響を与えていると考えざるを得ません。実際、顕現化した前世人格は、そのように答えます。
なお、ラタラジュー人格を含めて前世人格の顕現化現象は、そうした魂表層の前世人格が、現世人格に憑依して自己表現しているというとらえ方をすることが妥当であると考えられます(里沙さんの守護霊も憑依ととらえなさいと告げています)から、今までにない概念として「自己内憑依」とも呼んでいます。
あなたの議論は、『私』(私の人格)の個性そのものだけの死後存続に傾斜が置かれすぎて、私のセッションで現れる意識現象の事実とは相容れません。
私は、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。
ただし、私の見解は、霊学的知識を棚上げして、セッションの累積から手探りで仕入れたものですから、現時点の「とりあえずの見解」であることをお断りしておきます。

2 件のコメント:

ソウルメイト さんのコメント...

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実は、わたしも高森光貴さんと同じような疑問を稲垣先生の「魂の表層に存在する前世人格」という仮説、モデルにたいして抱いたことがあり、高森さんの見解をお聞きしたことがあります。
高森さんのわたしへの答えは、稲垣先生がこのブログで引用しておられるものと大意、同じようなものでした。
わたしは、高森さんのお考えも、間違ってはいないと思いますし、それと同様に稲垣先生の実証的研究の成果の価値をも高く評価するものであります。
愚考いたしますに、霊のレベル、次元がこの物質世界を超越した、より高いレベル、次元にあるとするなら、物質世界における論理や具体的現象を超越し、相矛盾するもののように思われたとしてもなんら差し支えないのではないでしょうか。
高い次元のありようを、それより低いレベルの知見でもって規定しえないからです。
わたしたち人間は、霊について、霊のありようや、性質について、すべてを完全にかつ、正確に余すところなく知ることはできないのだろうと思います。
したがって、霊については、観察された事実に基づく限りは、多様な見方が許されるのではないだろうかと考える次第であります。
しかし、もとより、実証的研究の価値を軽んじるものでも否定するものでもないことは言うまでもありません。
いかなる思考であれ、信念であれ、確たる事実に基づくことは、ぬきがたい前提条件であると考えるからであります。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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ソウルメイトさん
高森氏のブログに、ここで紹介した私のコメントに対する詳細な質問が投稿されています。
私はその質問についての回答をコメントしました。
そのコピイを次のブログで紹介しておきました。
それは、あなたの今回のコメントに対する私の見解でもあります。