2014年6月1日日曜日

「憑依仮説」を認める理由

   SAM催眠学序説 その7


「憑依」という用語には、不気味さ、胡散くささなど非科学的なマイナスイメージが濃厚につきまとっているようです。
SAM催眠学では、憑依という用語にまつわるそうしたマイナスイメージ を承知のうえで「憑依仮説」をとらざるを得ないと考えています。

それはなぜか。その理由を述べてみます。

2006年12月22日夜、里沙さんにお願いして彼女の守護霊との直接対話実験をさせてもらいました。

きわめて深い催眠中(魂の自覚状態)に中間世へと導き、そこで偉大な 存在者を呼び出して憑依してもらい、私が直接対話するという実験は、拙著『前世療法の探究』の「タエの事例」PP167-176 で紹介してあるとおりです。
それを再度試みようと いうわけです。

その理由は次のような四つの質問の回答を得るためであり、憑依の真偽の検証を試みるためでもありました。

1 タエの事例は、偶然語られたものか、何かわけがあって語られたものか?

2 私に突如あらわれたヒーリングのエネルギーは、どこから送られてくるものか? その治療エネルギーが私にあらわれた理由が何かあるのか?

3 スピリットヒーリング能力のある者は、たいていは霊視などの霊能力を持っているが、私のエネルギーがそうであるなら、なぜ私に霊能力がないのか?

4 私の守護霊の素性が分かるならその名を教えてもらえないか?


実験前に彼女に伝えておいた質問内容は、上記2(私のヒーリングエネルギーの 出所)のみでした。
1・3・4の質問について彼女には知らせることを意図的に伏せて実施しています。
伏せた意図は、彼女に前もって回答を準備できる時間を 与えないためです。

里沙さんに憑依したと思われる、彼女の守護霊を主語とする存在者との40分にわたる対話の録音を起こし、できるだけ生のままの語りの言葉を用いて、上記 四つの質問に対する回答を要約してみると以下のようになります。
ただし、質問はこれ以外にもいくつかしていますから、それらの回答を含めて下記5項に整理 し要約してあります。

①タエの事例は偶然ではありません。計画されあなたに贈られたものです。計画を立てた方はわたくしではありません。計画を立てた方はわたくしよりさらに上におられる神です。
 タエの事例が出版されることも、新聞に掲載されることも、テレビに取り上げられることもはじめから計画に入っていました。
 あなたは人を救うという計画のために神に選ばれた人です。

②あなたのヒーリングエネルギーは、霊界におられる治療霊から送られてくるものです。治療霊は一人ではありません。治療霊はたくさんおられます。その治療霊が、自分の分野の治療をするために、あなたを通して地上の人に治療エネルギーを送ってくるのです。

③あなたの今までの時間は、あなたの魂と神とが、あなたが生まれてくる前に交わした約束を果たすときのためにありました。今、あなたの魂は大きく成長し、神との約束を果たす時期が来ました。神との約束とは、人を救う道を進むという約束です。
 その時期が来たので、ヒーリング能力も前世療法も、あなたが約束を果たすための手段として神が与えた力です。しかし、このヒーリングの力は万能ではありません。善人にのみ効果があらわれます。悪とはあなたの進む道を邪魔する者です。
 今あなたを助ける人がそろいました。どうぞたくさんの人をお救いください。

④神はあなたには霊能力を与えませんでした。あなたには必要がないからです。霊能力を与えなかった神に感謝をすることです。

⑤守護霊に名前はありません。わたくしにも名はありません。あなたの守護霊はわたくしよりさらに霊格が高く、わたくしより上におられます。そういう高い霊 格の方に守られている分、あなたには、成長のためにそれなりの試練と困難が与えられています。これまでの、あなたに生じた困難な出来事のすべてがはじめか らの計画ではありませんが、あなたの魂の成長のためのその時々の試練として与えられたものです。
 魂の試練はほとんどが魂の力で乗り越えねばなりません。わたくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません。わたくしたちは魂の望みを叶えるために、魂の成長を育てる者です。
 霊能力がなくても、あなたに閃くインスピレーションが守護霊からのメッセージです。それがあなたが迷ったときの判断の元になります。あなたに神の力が注がれています。与えられた力を人を救う手段に使って人を救う道に進み、どうぞ神との約束を果たしてください。


里沙さんに憑依したと思われる、彼女の守護霊を主語として語る存在者は、以上のようなメッセージを回答として伝えてきました。

そのときの語りの様子は、 タエの事例で憑依実験したときと同じく、彼女の表情は能面様の全くの無表情に変化し、声は低音で、囁くような、抑揚のない、ゆったりと厳かな調子の、別人 同様の声音に変化していました。
観察される限りでは、ふだんの里沙さんとは別人格の第三者が語ったように思われます。
憑依を解き、催眠から覚醒直後の里沙さんは、数分間話そうにも声が出ない状態になり、膝から下が冷え切って麻痺し、立ち上がれないという疲労の極みに 陥っていました。
立てるようになるまで20分ほど休んでから帰宅しましたが、翌日になっても疲労は回復せず動けない状態が続き、3日目にやっと回復したと いう報告を受けています。


では、この守護霊を主語とする存在者の語りの真偽はど う考えたらよいでしょうか。
語られた内容について、できるだけ公正な立場に立って検討・考察をしてみたいと思います。

ただし、この検討・考察は、自分にはスピリチュア リズムに関する知識・情報がない、という里沙さんの証言を前提としていることをお断りしておきます。

また、超ESP仮説(里沙さんが私の心も含め、地上の どのような情報にも自由にアクセスできる法外なESP能力を持っているとする仮説)も、ここでは考慮外としています。


これから検討してみることは、「守護霊」の語りの内容が、里沙さんの既有の知識を元に彼女自身が語ったのだ、と解釈できるかどうかということです。

そうであるならば、守 護霊を主語とする存在者は、里沙さんの無意識的な役割演技で説明されうることになり、語りの事実が超常現象である可能性は排除されるからです。

以下にまず 全体の考察を、次いで①~⑤の語りの内容について、それぞれに検討と考察を加えてみます。

まず、全体としての考察をしてみますと

(1)「守護霊」は、里沙さんとは異なる位相の視点・情報から発話している。

(2)催眠を解く前に「催眠中に語ったことはすべてはっきり思い出せる」という暗示を強調したにもかかわらず、「守護霊」が憑依したとおぼしき間の里沙さんの記憶は完全に欠落している。

(3)録音された自分の語りを試聴した里沙さんの実感として、声からも語りの内容からも、自分と「守護霊」とは全く同一性の感じられない他者であると認識されている。

(4)憑依を体験し、催眠から覚醒後の里沙さんの疲労状態は、通常の催眠後とは明らかに異質な極度の疲労状態に陥っている。

以上の4点は、「守護霊」の憑依を支持できる状況証拠だと考えることが可能でしょう。
ただし、(1)については本人に内在している「心の力」つまり、 「高位自我=ハイヤーセルフ」説で説明可能かも知れません。
深い催眠中には、通常の里沙さんの持つ能力をはるかに超えた超常的叡智が現れるというわけで す。

しかし、(2)・(3)については「高位自我」説では説明がおさまり切れません。
もともと里沙さんの心に内在している「高位自我」の語りであれば、解催 眠前に強調した記憶再生暗示で、催眠後にその語りの内容が記憶として出てくるはずだと考えられるからです。
また、彼女に解離性同一性障害(多重人格)など の精神障害がないことは明白ですから、「守護霊」の語りに対して全く同一性を感じられないということも説明が困難です。
単に催眠性健忘として片付けられる 問題ではないと考えられます。

(4)の極度の疲労感について確かなことは言えませんが、憑依した「守護霊」が里沙さんに長時間(約40分間)の対話をさせるために、彼女の脳髄が酷使された結果ではないかという解釈ができるかも知れません。

次に①~⑤の「守護霊」の語りについて一つずつ検討してみましょう。

まず①の語りの内容について検討してみます。

里沙さんのスピリチュアリズムについての知識は、治療霊が存在すること以外にはありません。
したがって、スピリチュアリズムでいう「神の計画」つまり、地上の人間に霊的真理(霊界の存在、霊の存在、霊との交信可能など)を啓発し、霊的覚醒を促す計画 があることは知識として持っているはずのないものです。
彼女の無意識の役割演技などでは淀みなく発話される内容ではないと思われます。
この計画についての 語りは、スピリチュアリズムの高級霊からの霊信内容に一致していると考えることができるでしょう。

②の治療霊の存在については、里沙さんの知識としてある程度あるはずです。

彼女の脊柱側湾症による痛み改善と、湾曲した背骨の矯正のためにヒー リングをした機会に、ヒーリングエネルギーと治療霊について私が話題にしているからです。
また、彼女は霊感によって、私の背後に憑いている複数の治療霊ら しき霊の存在を感知できると語っているからです。
しかも、私のヒーリング能力についての質問をすることについては、催眠に入る前に彼女に知らせてありまし た。
したがって、治療霊とその治療エネルギーについての回答は、彼女の既有の知識を語った可能性を排除できません。

③の、私が生を受ける前の「魂」と「神との約束」についての語りは、里沙さんの想像力が駆使され、私への願望が投影された彼女の役割演技だと解 釈できるかもしれません。
しかし、私にヒーリング能力があらわれた理由がそれなりに矛盾なく説明され、瞬時に淀みなく語られた事実を考えると、「守護霊」 の憑依可能性を否定できるものではないと思われます。
ちなみに、「私の魂が大きく成長した」という語りは、タエの事例に遭遇以来、私の世界観・価値観が霊 界の存在を視野に入れたものへと転換し、現世的欲望へのとらわれから自由度を増した精神状態を指している気がしないわけでもありません。

ただし、「善人にのみ効果が現れます」という語りは誤解されやすいかもしれません。
しかし、「悪とはあなたの進む道を邪魔する者です」という語りと照ら し合わせると、その病が当人の霊的成長に必要な場合には、ヒーリングが効かないという意味に解するべきであろうと思われます。
なぜなら、治療によって霊的 覚醒が阻害されることになり、私の人を救う道に反することになるでしょうから。
したがって、この語り部分も高級霊からの霊信と矛盾するものではないと考え てよいと思われます。

④の語りについては、理解に苦しむところです。
ところで、前世療法のセッション中に中間世へクライアントを導く過程で、未浄化霊が寄ってきて憑依 しようとしていると訴えるクライアントがこれまでに2例ありました。
私に霊視などの霊能力がなく、そうした霊が見えないために、こうした事態に遭遇しても 惑わされることなく冷静に対処できたことを考えると、前世療法セラピストとしては、霊能力は持たないほうがよいという含意の語りのようにも思われます。
あ るいは、私に霊能力がなくそれらに懐疑的な普通の人間の側にいるからこそ、懐疑的な普通の人間への霊的真理の啓発には却って説得力を持ち得るので、神の道具としての啓発者には適っている、という意味かも知れません。

こう考えてみると「霊能力を与えなかった神に感謝をすることです」という意味深い語りは、里沙さん自身の通常の意識からは到底出てくるはずのないもののように思われます。
まして、その場の咄嗟の思いつきで回答できる類の語りだとは考えられないと思われます。

⑤の語りは、まさにスピリチュアリズムの霊信そのものだと言っていいでしょう。
そして、「守護霊に名前はありません」「魂の試練はほとんどが魂 の力で乗り越えねばなりません。わたくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません」「あなたに閃くインスピレーションが守護霊からのメッセージです」などの具体的な語りは、スピリチュアリズムの高級霊たちの霊信と一致し、正当な守護霊の語りとしてその信憑性が保障されているように思われます。

ここで浮上してくるのが、里沙さんはシルバーバーチなどスピリチュアリズムに関する書籍を読んでおり、それを元に語ったのではないかという疑いです。
しかし、これについて彼女はきっぱり否定しています。
また、それを信ずるに足る録音試聴後の感想があります。
彼女は感想として次のように語っています。

 「私の守護霊は阿弥陀如来だ、と高名な信頼できる霊能者から霊視しても らって、そう信じていました。だから、私自身が守護霊の役割演技をして語るとしたら、守護霊に名前はありませんとは絶対言わないと思います。阿弥陀如来で す、と言ったはずです。私の守護霊に名前がないと言われてちょっとショックです。阿弥陀如来以上の守護霊はいないと思っていたから、稲垣先生の守護霊より 霊格が上だと思って、密かに優越感があったのに、稲垣先生の守護霊のほうが霊格が高いと言われたのもショックです。」

つまり、彼女にスピリチュアリズムの知識があったとすれば、自分の守護霊を阿弥陀如来だなどと信じることはまず考えられません。
高級霊は原則素性を明か さない、というのがスピリチュアリズムの常識ですから、彼女の守護霊についての知識は、仏教の説く「守護仏」と混同している程度の知識でしかなかったと判 断できるわけです。
このように検討してみると、⑤の語りの主体は、里沙さん以外の憑依した「守護霊」である可能性が高いと判断できるように思われます。

こうして検討を重ねてきますと、憑依した守護霊の回答は、里沙さんの意識が投影された役割演技だと解釈するよりも、彼女が霊媒の役割を果たし守護霊からの霊信を伝えたものと素直に受け取るほうが妥当性が高いのではないかと思われます。 

ただし、そのように受け取るにしても、ここで述べられている内容が、絶対的に真実であると主張しているわけではありません。
治療を始めとする私自身の活 動を、こうした言葉によって権威づけようとする意図も全くありません。
あくまで何らかの存在者の一意見として、どこまでも冷静に受け止めるべきだと考えて います。
こうした言葉で自己を権威づけたり絶対化することはあってはならないことで、徹底して厳しく自戒すべきだと思っています。

特に「神の計画」「神との約束」「善と悪」といった事柄を、軽々に云々することは、極めて大きな問題を孕むものです。
こうした表現の取り扱いについては、十分過ぎるほど慎重であるべきだと考えています。

さて、ここで、私の脳裏に思い起こされるのはモーゼスの『霊訓』にある次の一節です。

 霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。(中略)
 筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動 かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者に は、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命について啓示を垂れさせる。かくのごとく人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報と が提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されてきたのである。
 今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムにほかならぬ。(中略)
 常に分別を働かせねばならぬ。その渦中に置かれた者にとっては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。
                  (近藤千雄訳『霊訓』「世界心霊宝典」第1巻、国書刊行会)

インペレーターと名乗る高級霊からの上記霊信に、里沙さんの守護霊の憑依現象という超常現象を引き当てて考えてみますと、この引用部分は私に向かって発信された啓示であるかのような錯覚すら覚えます。

インペレーターが説いているように、SAM前世療法にとりかかる前の私は、「筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者」のレベルにありました。
だか ら、「秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく」ために、「動かぬ証拠」として、1ヶ月に渡る毎夜の「私あて霊信」、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」をはじめとし て、ヒーリング能力の出現などの超常現象が、霊的存在から私に次々に提供されているような気がしています。

そうした直感の真偽を確かめるために、里沙さんの守護霊に尋ねてみるという憑霊実験を試みたわけです。
その結果と検討・考察は、述べてきたとおりです。
この検討・考察は「常に分別を働かせねばならぬ」と言うインペレーターの忠告に従っていることにもなるのでしょう。
そして、分別を働かせた結 果の帰着点は、守護霊という霊的存在を排除しては説明できないのではないかということでした。

 ちなみに、この2006年12月22日の守護霊との対話実験から3年後の2009年5月9日に、再度次のような対話実験をしています。(拙著『生まれ変わりが科学的に証明された』PP42-43)


注: 逐語録のTHは私、CLは里沙さんの略号。セッション映像はhttp://youtu.be/JBiM7rU6jmQ(日本語版) http://youtu.be/q5iVCfKuH0Q(英語版)。

TH:  あなたは、私が知る限りでは、三回目の生まれ変わりの方ですね。一人はタエで、もう一人はネパール人村長さんのラタラジューです。これから、その方と交替してもらおうと思っていますが、その前にあなたの守護霊とお話したいことがあるので、これから五つ数える間、祈ってください。守護霊にどうぞ降りて来てください、どうぞ憑依してくださいと祈ってください。そうすると、守護霊が降りて来てあなたに憑依してくださるはずです。そして、私とお話してくださるはずです。では数えますよ。一・二・三・四・五。・・・あなたは里沙さんの守護霊でいらっしゃいますか?

CL:  ・・・はい。

TH:  お久しぶりですね。この前あなたは、自分は霊界では異例の存在で、それは私に霊界の情報を伝えるのが守護霊としての使命だからそうですが、そして、私の求めに応じて、いつでも降りてきてくださるということでした。そこで、お聞きします。今日は、里沙さんのすぐ前の人生のラタラジューを呼び出すセッションを始めようとしています。それについて守護霊であるあなたの許可は出ますか?

CL:  ・・・はい。

TH: もう一つお聞きします。「タエの事例」は、あなたよりもっと上におられる方の計画によって 、私に贈られたとあなたは前回答えています。それが本になることも、新聞に載ることも、テレビに出ることもすべては計画に入っていたということでした。では、今日ラタラジューを呼び出すセッションをやることも、ひょっとして、計画のうちに入っていますか?

CL: ・・・はい。

TH: 私はこれから真性異言という里沙さんが学んだはずがないネパール語で話せるかどうかを実験的にやろうとしています。そういう実験的なセッションを許してもらえますか?

 CL: ・・・はい。


このセッションの、里沙さんの守護霊との対話実験の意図は、彼女の守護霊に予言能力があるのかを知るためでした。
つまり、応答型真性異言が果たしてあらわれるかどうかを、その直前に守護霊から回答を得ようというわけです。
それまで、催眠中にあらわれた応答型真性異言は、世界で2例しかありません。
したがって、これからしようとする応答型真性異言の実験セッションの成功の可能性は、きわめて低いと予想されますから、その成否を、事前に守護霊に予言してもらおうとしたのです。
そして、その結果は、守護霊の予言どおり、この直後にネパール語による応答型真性異言があらわれました。
さらに、「ラタラジューの事例」は、翌年、出版され、フジTV番組「奇跡体験アンビリバボー 」で60分間放映されることになりました。
「ラタラジューの応答型真性異言は偶発現象ではなく、霊界側の計画である」という守護霊の予言どおりの展開が、このあと起こったことになります。

かつての私であれば、例えばヒーラーと称する輩のヒーリング効果の解釈として、プラシーボ効果であるとか、暗示効果であるとか、信念の心身相関による効 果であるとかの知的・科学的説明に躍起となって、それを公正な態度だと信じて疑わなかったと思います。
今、自分自身に突如ヒーリング能力があらわれ、その説明は守護霊や霊界の存在抜きには(霊的真理抜きには)考えられない事態に追い込まれたようです。

そして、「動かぬ証拠」を次々に提供され、ようやく「霊的真理の 初歩段階を卒業」しかけている自分を感じています。
やはり人間は、最後は自分自身の直接体験にこそ、現行科学が何を言おうが、それに真っ向から対立しようが、動かない真実性を認める外ない、と言わざるをえません。


こうして、「憑依仮説」を認める立場をとる理由は、
それが直感に著しく反していないからであり、
それを認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、
その霊的現象が唯物論的枠組みからは説明できないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、霊の告げた魂の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。

この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し対話ができることも、守護霊と呼ばれる霊的存在との対話ができることなども、意識現象の事実として明らかになっています。

ラタラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、魂や生まれ変わりの実在を回避するために、深層心理学的概念を駆使してクライアントの霊的な意識現象に対して唯物論的解釈することは、現行科学の知の枠組みに固執した不自然な営みだ、と私には思われるのです。

魂の自覚状態、前世人格の顕現化、霊的存在の憑依、などの意識現象に対して、事実は事実としてありのままに認めるという現象学的態度をとってこそ、SAM前世療法を実りあるものにしていくと思っています。

そして、クライアントの示す霊的存在の憑依など意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。

魂や生まれ変わりの実在を認めることを回避する立場で、あるいはすべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって顕現化した前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得できる説明ができるのでしょうか。



(その8につづく)

11 件のコメント:

ショウタ さんのコメント...

憑依説でも霊魂(死後存続)を認める説なので良いのではないでしょうか?

霊魂否定説の超ESPや従来の唯物論(虚偽記憶説)でなければ良いと思います

VITA ÆTERNA さんのコメント...

こんにちは。先日は早々のご返信ありがとうございました。教えていただきました資料は近日中に拝見させていただきたいと存じます。この度は先日のご返信へのお礼と、また今回のブログの中で一つ疑問に思うところがありましたので投稿させていただきました。

さてタエの事例は偶然ではなく、神によって贈られたものであるということですが、もし切り落とされたとされる彼女の腕やタエの名前の記述がある史料が発見されていましたら、生まれ変わりの存在はほぼ覆ることのない完璧な状態で証明できていたはずです。しかしながら今回はそれらの発見までには至りませんでした。もし神の計画があるとした場合、なぜ神はそれらの発見を促さず、その計画をより完璧なものにされなかったのでしょうか。

しかしもし仮に、神は生まれ変わりの存在が完全な形で証明されるのをよく思われなかったとするか、または今はまだ計画の途中段階で今後さらに新しい発見があるとするか、あるいは神はそれが完全に証明されるには今は時期尚早と見なされた、とのように考えると一応納得のいく答えにはなるかと思います。この疑問に関しまして、稲垣先生のご高察を伺えれば幸いに存じます。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

VITAさんの疑問には、私もまったく共感するものです。
VITAさん同様、神がおいでになるとすれば、「今はまだ計画の途中段階で今後さらに新しい発見があるとするか、あるいは神はそれが完全に証明されるには今は時期尚早と見なされた」と考えることが妥当であろうと思われます。そして、この考え方は、スピリチュアリズムでも言われていることのようです。
現段階では、生まれ変わりを信ずる者には十分な証拠、しかし、それを否定する者にはまだ疑問の余地が残る証拠のレベルでとどめておくような神の計画があるような気がします。
参考までに、このことについて、私あて霊信では次のような文言があります。

【第5霊信抜粋】
あなたは肩の力を抜き始めている。それでいいのだ。あなたは構えていては何も見出せなくなる。もっと、楽しみなさい。これは『遊び』なのだ。すべての計画は、そうである。

【第7霊信抜粋】
我が霊団は、あなたを中心とし、ある計画を進めている。

【第11霊信抜粋】
多くの者が覚醒するための準備を整える役目の一端をあなたは担っているのだ。あなたは、はじまりのものでもある。あなたは、自らの得るものを多くのものには与えることはできない。それは、多くの共感へは繋がらない。

【第12霊信抜粋】
(生まれ変わりの完璧な証拠が出ないことは)挫折の法則ではない。あなた方の核となる意識体、そして神の計画があなた方が進むための原動力を与えているのだと理解しなさい。あなた方は、自らの持つ信仰を育てるのだ。

私の直感では、里沙さんという得がたい被験者と出会わせ、タエの事例、ラタラジューの事例という希有な生まれ変わりの証拠事例を与えたのであるから、これを十分に咀嚼し、人々が覚醒するための準備を整える役目の一端を果たせ、というのが神と守護霊団の意志であると思われるのです。

私は、ここ数年のうちに、2005年以前と比べて手の平を返すように信仰深くなったものです(笑)。

シュヴァル さんのコメント...

こんばんは、私は正直、霊団の話はセッション受けるまで信じていなかったのですが
体験してからは起こったことなので受け入れる感じになっています。

セッション受け手もう結構経つですが
相変わらず、指が動いています

コメント欄見ていたらまた動いていました。
あくまでも直感的なものですが神の計画に対する先生の考察が正しいということなのかと思ってます。まだ時期尚早ということなのでしょう。

計画自体も、単純に生まれ変わりの証明だけでなく、もっと広い範囲で行われようとしてるようにも感じますが、このあたりは証明するものはなにもなく、現状では想像の粋をでませんね。
 

稲垣 勝巳 さんのコメント...

シュヴァル さん
【第11霊信抜粋】
今、大きな変化の時を迎えている。それは、あなた方をはじめ人類にとって、そして地球にとって、私たちにとっての変化である。すべてのものの変化なのだ。ゆるしの時を迎える、そう理解しなさい。

【第12霊信抜粋】
私たちはあなた方を常に試している。あなた方の信仰心を育てているようなものだ。あなた方は、疑いがあるからこそ成長するのである。だが、疑いと否定の類似性に惑わされないようにしなさい。否定は、あなた方の目を真実から背けるものである。ここですべての質問に、あなたは絶対的な納得を得られないだろう。だが、それも必然なのだ。あなたの成長を止めないための疑いなのだ。

と私あての霊信は告げています。
彼ら霊団は、成長するために、疑いを抱くことは必然なのだと言います。神をはじめ霊団の実在についても絶対的な納得を得られないだろうとも。そして、「あなた方に必要なのは信仰である。信仰がなければ信頼は存在しない。信仰を築きなさい。信仰は自発性を持つ。だが、信頼はそこから生じるものである。その対象が何であれ、本質的にはそうなのだと理解しなさい」と第11霊信は結んでいます。私は2006年以後の様々な霊的現象を体験し、霊的存在、ひいては神の存在への信仰心を常に試されているのでしょうね。

シュヴァル さんのコメント...

ありがとうございます。
結局、信じる信じないは自身が決めることということなんでしょうね。

神の実在が証明されたら、それはそれで自分で考えるという思考がなくなるように思います。

私の仕事は行ったことに対して構築した矛盾がないか、整合性取れてるかとれないかなので、基本は疑うことから始まるので
試されているという部分は感じるものがありますね。

渡辺章太 さんのコメント...

脳は受信機説の疑問がでました

脳の構造を真似ると…何故か受信機でなくコンピューターが出来てしまうのは何故?

脳の特定の部位が損傷を受けると、何故か特定の機能や記憶が失われたり、人格が変わったりする。

受信機が損傷した場合、受信性能は変わっても受信内容は変わらない脳の損傷で何かが変わったとすると、損傷した部分は“受信部”ではないのだろう。

すると、機能の分かっている部分は、すべて受信部ではない。受信部は何処にあるのだろう。

受信内容をいったん受信部以外の脳に記憶させて活動してるとすると、“全く受信が出来ない状態”でも、脳だけで活動できる性能が、脳にはあるのだろうか

稲垣 勝巳 さんのコメント...

私の理解力不足のせいでしょうが、議論の内容ではなく、論理展開について限定して言うと、
「受信機が損傷した場合、受信性能は変わっても受信内容は変わらない脳の損傷で何かが変わったとすると、損傷した部分は“受信部”ではないのだろう」
という論理展開がなぜ成立するのか理解できません。

まず、「受信性能は変わっても受信内容は変わらない脳」という表現が理解不能です。
脳の受信性能に変化があれば、連動して脳が受信する内容にも変化が生ずるのが論理の筋ではありませんか。
たとえば、受信性能が劣化したラジオは、雑音を生じさせたり、音声を途切れさせたり、などの受信内容の変化を起こします。
脳に限っては、受信性能に変化が生じても、受信内容には変化が生じないという重要かつ根本的な前提に立つことのできる論理的根拠が何かあるのでしょうか。つまり、脳の受信性能と受信内容には因果関係はない、という論拠が示されていないにもかかわらず、こうした前提に立って論を展開することは、ていねいな論理を通すことの軽視であり、論理の飛躍だと思いませんか。

また、ふつう、脳の受信機能を司る特定の脳細胞が損傷すれば、当然受信不能となりその結果、何らかの不都合な変化(症状)が生じるという因果関係の論理になるはずです。
「心・脳の二元論」仮説に立てば、右腕の上下運動を司る脳細胞が損傷した場合、「心」が「脳」に運動命令を発信しても、損傷した「脳」はその命令が受信不能になり、その結果腕の運動も不能という事態になる、という論理になります。であるのに、「損傷した脳細胞部分は受診部ではない」という結論になぜ至るのか、その論理の筋道が理解できないのです。

私には、これらの論理展開は、無理があり、飛躍があり、整合性が見出せず、読み手に奉仕する意識が希薄であると思われます。

以上は、議論内容の正否の問題ではなく、議論が展開されている論理の展開の仕方(筋道)の適否についての指摘です。

いずれにせよ、この記事「その7」のテーマに直接関係のない、脳機能やコンピュータの議論持ち出すことは、このコメント欄では控えてください。
そうした内容を議論するにふさわしいブログを検索し、そこへ投稿をお願いします。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

こんにちは。ご回答どうもありがとうございました。私は、タエやラタラジューの事例は生まれ変わりの事実を証明しうることのできる大変稀有なものであると拝察しております。もし生まれ変わりの試練の中で魂が成長していくということが本当であるならば、魂が不滅であるという希望を多くの人たちに与えることになりますので、その事実を広めることはとても重要なことになると考えます。

しかしながら私は同時に、生まれ変わりによる魂の成長という概念は極めて慎重に扱わなければならないテーマだと考えております。その理由の一つとしまして、すでに多くの方もおっしゃっていることですが、この概念は魂における身分制度のようなものを生み出すことがあると思われるからです。例えば、現世における身分は過去世での行いの結果であるとしているカースト制度などはこの一例だと考えます。またこの概念の内部には、他者の魂の成長を促すためにはその命を積極的に奪うことをも肯定する「ポア」のような、極めて危険な思想の因子が存在していることも忘れてはならないと思っております。神とされる存在がタエやラタラジューの事例において完全な形で生まれ変わりを証明されなかったのも、もしかするとこのような危険な一面を考慮されたからなのかもしれないですね。(笑)

稲垣 勝巳 さんのコメント...

VITAさん
生まれ変わりによる魂の成長という「教説」が、恣意的に敷衍された場合の危険性という観点から、示唆に富んだコメントをいただきありがとうございました。

私は、生まれ変わりの「教説」を垂れる立場にはなく、生まれ変わりの「事実」を実証的に探究し、それを広く提供することに徹する立場に立つ者です。
「生まれ変わり」の事実を知らしめることが仕事であり、人々が「知った」結果、どのような「感情」を催し、その感情がどのような「意志」を生み出し、行動に至るかは、おのおのの主体性に任せるしかないという立場です。国語辞典の「心」の意味の一つでは、、心の要素は「知・情・意」とされています。私の仕事は、そのうちの「知」に関与を限定し、「知」の結果生まれる「情・意」についての関与は努めて自制する、という臨床催眠実践者でありたいと思っています。
正確な「知」こそが、正当な「情・意」を生み出す源になるはずだと、人間の理性に基本的信頼を置いているからです。この考えは、現職教師時代から抱き続けています。

私あて霊信では、生まれ変わりにおけるカルマについて次のように告げています。参考までに。
【第1霊信抜粋】
どのようにすぐれた能力を持つ者も、魂に癒やすべき傷を持つ。あなた方はこの世界に存在する限り、自分の魂の傷を癒やさなければならない。それは強制ではなく、義務でもない。言葉の表現では明確にその意味合いを伝えることができない。なぜ、あなた方が、魂の傷を癒やさなければならないのか、そしてなぜ魂に傷を負うのか。その仕組みはあなた方には理解できないものである。魂の傷、そしてその癒やしは、すべてその魂によって引き起こされる。あなた方は理解できないであろう。どのように悲惨で、つらい死も、自らが選択したものであると受け入れられないであろう。あなた方はこの世界に存在する限り、どんなに求めたとしても理解を手にすることはできないのだ。真理は「生」の状態にいる限りは得ることはできない。だが、人は真理を求める。それは死を迎えると同時にどのような人間にも与えられるものなのだ.人は誰も真理を得るということを忘れている。

【第10霊信抜粋】
あなた方の、罪を洗い直すために生まれ変わる、人は罪を生まれながらにして背負っている、そうした考えはすべて魂の傷から生じるものである。傷を罪あるものだと考え、そしてそれを償うために生まれ変わろうとする。その反面、それを癒やそうとする想いも存在する。罪自体あなた方の思い込みであり、それはただ「起こるべくして起こったもの」でしかない。だが、それを理解できずに傷はそのまま癒やされないものになっている。

どうも、通信霊は、「罪自体あなた方の思い込みであり、それはただ『起こるべくして起こったもの』でしかない」という表現によって、罪=カルマという解釈に立てば、カルマという概念は思い込みである、と告げていることになります。
ちなみに、これまでのSAM前世療法のセッションで、明確にカルマらしき前世が語られたことは2事例しかありません。前世人格の語りによれば「加害者の立場の人生を体験した前世があるから、今度は被害者の立場の人生を体験するように生まれ変わりなさい」と守護霊に指導されたそうです。
こうして、SAM前世療法では、霊信とセッションの事実に基づいて、「カルマ」という概念を採用せず、「生まれ変わりの宿題」という概念を用います。「宿題」とは、「魂に宿っている成長のための課題」という定義で用います。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

稲垣先生、こんにちは。ご返信どうもりがとうございました。

私の現在の立場として、生まれ変わりが本当に実在するかどうかは保留としていますが、人生は学びの場であるという認識には変わりがないと思います。願わくは、今世においては苦行のような形ではなく、有意義で心から楽しめるような学びをしていきたいですね。

それでは、また疑問に思うところなどがありましたらコメントをさせていただきたく存じます。どうぞよろしくお願いいたします。