tag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post5888177782837535592..comments2024-01-25T12:00:36.544+09:00Comments on 稲垣勝巳生まれ変わりの実証的探究: 「憑依仮説」を認める理由稲垣 勝巳http://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comBlogger11125tag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-80387868480778800262014-06-08T08:34:45.071+09:002014-06-08T08:34:45.071+09:00稲垣先生、こんにちは。ご返信どうもりがとうございました。
私の現在の立場として、生まれ変わりが本当...稲垣先生、こんにちは。ご返信どうもりがとうございました。<br /><br />私の現在の立場として、生まれ変わりが本当に実在するかどうかは保留としていますが、人生は学びの場であるという認識には変わりがないと思います。願わくは、今世においては苦行のような形ではなく、有意義で心から楽しめるような学びをしていきたいですね。<br /><br />それでは、また疑問に思うところなどがありましたらコメントをさせていただきたく存じます。どうぞよろしくお願いいたします。VITA ÆTERNAnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-54760354771590231782014-06-07T00:22:30.496+09:002014-06-07T00:22:30.496+09:00VITAさん
生まれ変わりによる魂の成長という「教説」が、恣意的に敷衍された場合の危険性という観点か...VITAさん<br />生まれ変わりによる魂の成長という「教説」が、恣意的に敷衍された場合の危険性という観点から、示唆に富んだコメントをいただきありがとうございました。<br /><br />私は、生まれ変わりの「教説」を垂れる立場にはなく、生まれ変わりの「事実」を実証的に探究し、それを広く提供することに徹する立場に立つ者です。<br />「生まれ変わり」の事実を知らしめることが仕事であり、人々が「知った」結果、どのような「感情」を催し、その感情がどのような「意志」を生み出し、行動に至るかは、おのおのの主体性に任せるしかないという立場です。国語辞典の「心」の意味の一つでは、、心の要素は「知・情・意」とされています。私の仕事は、そのうちの「知」に関与を限定し、「知」の結果生まれる「情・意」についての関与は努めて自制する、という臨床催眠実践者でありたいと思っています。<br />正確な「知」こそが、正当な「情・意」を生み出す源になるはずだと、人間の理性に基本的信頼を置いているからです。この考えは、現職教師時代から抱き続けています。<br /><br />私あて霊信では、生まれ変わりにおけるカルマについて次のように告げています。参考までに。<br />【第1霊信抜粋】<br />どのようにすぐれた能力を持つ者も、魂に癒やすべき傷を持つ。あなた方はこの世界に存在する限り、自分の魂の傷を癒やさなければならない。それは強制ではなく、義務でもない。言葉の表現では明確にその意味合いを伝えることができない。なぜ、あなた方が、魂の傷を癒やさなければならないのか、そしてなぜ魂に傷を負うのか。その仕組みはあなた方には理解できないものである。魂の傷、そしてその癒やしは、すべてその魂によって引き起こされる。あなた方は理解できないであろう。どのように悲惨で、つらい死も、自らが選択したものであると受け入れられないであろう。あなた方はこの世界に存在する限り、どんなに求めたとしても理解を手にすることはできないのだ。真理は「生」の状態にいる限りは得ることはできない。だが、人は真理を求める。それは死を迎えると同時にどのような人間にも与えられるものなのだ.人は誰も真理を得るということを忘れている。<br /><br />【第10霊信抜粋】<br />あなた方の、罪を洗い直すために生まれ変わる、人は罪を生まれながらにして背負っている、そうした考えはすべて魂の傷から生じるものである。傷を罪あるものだと考え、そしてそれを償うために生まれ変わろうとする。その反面、それを癒やそうとする想いも存在する。罪自体あなた方の思い込みであり、それはただ「起こるべくして起こったもの」でしかない。だが、それを理解できずに傷はそのまま癒やされないものになっている。<br /><br />どうも、通信霊は、「罪自体あなた方の思い込みであり、それはただ『起こるべくして起こったもの』でしかない」という表現によって、罪=カルマという解釈に立てば、カルマという概念は思い込みである、と告げていることになります。<br />ちなみに、これまでのSAM前世療法のセッションで、明確にカルマらしき前世が語られたことは2事例しかありません。前世人格の語りによれば「加害者の立場の人生を体験した前世があるから、今度は被害者の立場の人生を体験するように生まれ変わりなさい」と守護霊に指導されたそうです。<br />こうして、SAM前世療法では、霊信とセッションの事実に基づいて、「カルマ」という概念を採用せず、「生まれ変わりの宿題」という概念を用います。「宿題」とは、「魂に宿っている成長のための課題」という定義で用います。稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-51001839812656565432014-06-06T12:01:16.935+09:002014-06-06T12:01:16.935+09:00こんにちは。ご回答どうもありがとうございました。私は、タエやラタラジューの事例は生まれ変わりの事実を...こんにちは。ご回答どうもありがとうございました。私は、タエやラタラジューの事例は生まれ変わりの事実を証明しうることのできる大変稀有なものであると拝察しております。もし生まれ変わりの試練の中で魂が成長していくということが本当であるならば、魂が不滅であるという希望を多くの人たちに与えることになりますので、その事実を広めることはとても重要なことになると考えます。<br /><br />しかしながら私は同時に、生まれ変わりによる魂の成長という概念は極めて慎重に扱わなければならないテーマだと考えております。その理由の一つとしまして、すでに多くの方もおっしゃっていることですが、この概念は魂における身分制度のようなものを生み出すことがあると思われるからです。例えば、現世における身分は過去世での行いの結果であるとしているカースト制度などはこの一例だと考えます。またこの概念の内部には、他者の魂の成長を促すためにはその命を積極的に奪うことをも肯定する「ポア」のような、極めて危険な思想の因子が存在していることも忘れてはならないと思っております。神とされる存在がタエやラタラジューの事例において完全な形で生まれ変わりを証明されなかったのも、もしかするとこのような危険な一面を考慮されたからなのかもしれないですね。(笑)VITA ÆTERNAnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-70136441310845461292014-06-06T03:56:46.651+09:002014-06-06T03:56:46.651+09:00私の理解力不足のせいでしょうが、議論の内容ではなく、論理展開について限定して言うと、
「受信機が損傷...私の理解力不足のせいでしょうが、議論の内容ではなく、論理展開について限定して言うと、<br />「受信機が損傷した場合、受信性能は変わっても受信内容は変わらない脳の損傷で何かが変わったとすると、損傷した部分は“受信部”ではないのだろう」<br />という論理展開がなぜ成立するのか理解できません。<br /><br />まず、「受信性能は変わっても受信内容は変わらない脳」という表現が理解不能です。<br />脳の受信性能に変化があれば、連動して脳が受信する内容にも変化が生ずるのが論理の筋ではありませんか。<br />たとえば、受信性能が劣化したラジオは、雑音を生じさせたり、音声を途切れさせたり、などの受信内容の変化を起こします。<br />脳に限っては、受信性能に変化が生じても、受信内容には変化が生じないという重要かつ根本的な前提に立つことのできる論理的根拠が何かあるのでしょうか。つまり、脳の受信性能と受信内容には因果関係はない、という論拠が示されていないにもかかわらず、こうした前提に立って論を展開することは、ていねいな論理を通すことの軽視であり、論理の飛躍だと思いませんか。<br /><br />また、ふつう、脳の受信機能を司る特定の脳細胞が損傷すれば、当然受信不能となりその結果、何らかの不都合な変化(症状)が生じるという因果関係の論理になるはずです。<br />「心・脳の二元論」仮説に立てば、右腕の上下運動を司る脳細胞が損傷した場合、「心」が「脳」に運動命令を発信しても、損傷した「脳」はその命令が受信不能になり、その結果腕の運動も不能という事態になる、という論理になります。であるのに、「損傷した脳細胞部分は受診部ではない」という結論になぜ至るのか、その論理の筋道が理解できないのです。<br /><br />私には、これらの論理展開は、無理があり、飛躍があり、整合性が見出せず、読み手に奉仕する意識が希薄であると思われます。<br /><br />以上は、議論内容の正否の問題ではなく、議論が展開されている論理の展開の仕方(筋道)の適否についての指摘です。<br /><br />いずれにせよ、この記事「その7」のテーマに直接関係のない、脳機能やコンピュータの議論持ち出すことは、このコメント欄では控えてください。<br />そうした内容を議論するにふさわしいブログを検索し、そこへ投稿をお願いします。稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-59128152791866773262014-06-05T15:46:44.311+09:002014-06-05T15:46:44.311+09:00脳は受信機説の疑問がでました
脳の構造を真似ると…何故か受信機でなくコンピューターが出来てしまうの...脳は受信機説の疑問がでました<br /><br />脳の構造を真似ると…何故か受信機でなくコンピューターが出来てしまうのは何故?<br /><br />脳の特定の部位が損傷を受けると、何故か特定の機能や記憶が失われたり、人格が変わったりする。<br /><br />受信機が損傷した場合、受信性能は変わっても受信内容は変わらない脳の損傷で何かが変わったとすると、損傷した部分は“受信部”ではないのだろう。<br /><br />すると、機能の分かっている部分は、すべて受信部ではない。受信部は何処にあるのだろう。<br /><br />受信内容をいったん受信部以外の脳に記憶させて活動してるとすると、“全く受信が出来ない状態”でも、脳だけで活動できる性能が、脳にはあるのだろうか渡辺章太noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-70921987076016945732014-06-03T21:06:27.309+09:002014-06-03T21:06:27.309+09:00ありがとうございます。
結局、信じる信じないは自身が決めることということなんでしょうね。
神の実在...ありがとうございます。<br />結局、信じる信じないは自身が決めることということなんでしょうね。<br /><br />神の実在が証明されたら、それはそれで自分で考えるという思考がなくなるように思います。<br /><br />私の仕事は行ったことに対して構築した矛盾がないか、整合性取れてるかとれないかなので、基本は疑うことから始まるので<br />試されているという部分は感じるものがありますね。シュヴァルnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-23209880332739157392014-06-03T09:17:39.572+09:002014-06-03T09:17:39.572+09:00シュヴァル さん
【第11霊信抜粋】
今、大きな変化の時を迎えている。それは、あなた方をはじめ人類に...シュヴァル さん<br />【第11霊信抜粋】<br />今、大きな変化の時を迎えている。それは、あなた方をはじめ人類にとって、そして地球にとって、私たちにとっての変化である。すべてのものの変化なのだ。ゆるしの時を迎える、そう理解しなさい。<br /><br />【第12霊信抜粋】<br />私たちはあなた方を常に試している。あなた方の信仰心を育てているようなものだ。あなた方は、疑いがあるからこそ成長するのである。だが、疑いと否定の類似性に惑わされないようにしなさい。否定は、あなた方の目を真実から背けるものである。ここですべての質問に、あなたは絶対的な納得を得られないだろう。だが、それも必然なのだ。あなたの成長を止めないための疑いなのだ。<br /><br />と私あての霊信は告げています。<br />彼ら霊団は、成長するために、疑いを抱くことは必然なのだと言います。神をはじめ霊団の実在についても絶対的な納得を得られないだろうとも。そして、「あなた方に必要なのは信仰である。信仰がなければ信頼は存在しない。信仰を築きなさい。信仰は自発性を持つ。だが、信頼はそこから生じるものである。その対象が何であれ、本質的にはそうなのだと理解しなさい」と第11霊信は結んでいます。私は2006年以後の様々な霊的現象を体験し、霊的存在、ひいては神の存在への信仰心を常に試されているのでしょうね。<br />稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-10442608022564962522014-06-02T22:14:29.091+09:002014-06-02T22:14:29.091+09:00こんばんは、私は正直、霊団の話はセッション受けるまで信じていなかったのですが
体験してからは起こった...こんばんは、私は正直、霊団の話はセッション受けるまで信じていなかったのですが<br />体験してからは起こったことなので受け入れる感じになっています。<br /><br />セッション受け手もう結構経つですが<br />相変わらず、指が動いています<br /><br />コメント欄見ていたらまた動いていました。<br />あくまでも直感的なものですが神の計画に対する先生の考察が正しいということなのかと思ってます。まだ時期尚早ということなのでしょう。<br /><br />計画自体も、単純に生まれ変わりの証明だけでなく、もっと広い範囲で行われようとしてるようにも感じますが、このあたりは証明するものはなにもなく、現状では想像の粋をでませんね。<br /> <br />シュヴァルnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-80896551630044178892014-06-02T17:10:31.779+09:002014-06-02T17:10:31.779+09:00VITAさんの疑問には、私もまったく共感するものです。
VITAさん同様、神がおいでになるとすれば、...VITAさんの疑問には、私もまったく共感するものです。<br />VITAさん同様、神がおいでになるとすれば、「今はまだ計画の途中段階で今後さらに新しい発見があるとするか、あるいは神はそれが完全に証明されるには今は時期尚早と見なされた」と考えることが妥当であろうと思われます。そして、この考え方は、スピリチュアリズムでも言われていることのようです。<br />現段階では、生まれ変わりを信ずる者には十分な証拠、しかし、それを否定する者にはまだ疑問の余地が残る証拠のレベルでとどめておくような神の計画があるような気がします。<br />参考までに、このことについて、私あて霊信では次のような文言があります。<br /><br />【第5霊信抜粋】<br />あなたは肩の力を抜き始めている。それでいいのだ。あなたは構えていては何も見出せなくなる。もっと、楽しみなさい。これは『遊び』なのだ。すべての計画は、そうである。<br /><br />【第7霊信抜粋】<br />我が霊団は、あなたを中心とし、ある計画を進めている。<br /><br />【第11霊信抜粋】<br />多くの者が覚醒するための準備を整える役目の一端をあなたは担っているのだ。あなたは、はじまりのものでもある。あなたは、自らの得るものを多くのものには与えることはできない。それは、多くの共感へは繋がらない。<br /><br />【第12霊信抜粋】<br />(生まれ変わりの完璧な証拠が出ないことは)挫折の法則ではない。あなた方の核となる意識体、そして神の計画があなた方が進むための原動力を与えているのだと理解しなさい。あなた方は、自らの持つ信仰を育てるのだ。<br /><br />私の直感では、里沙さんという得がたい被験者と出会わせ、タエの事例、ラタラジューの事例という希有な生まれ変わりの証拠事例を与えたのであるから、これを十分に咀嚼し、人々が覚醒するための準備を整える役目の一端を果たせ、というのが神と守護霊団の意志であると思われるのです。<br /><br />私は、ここ数年のうちに、2005年以前と比べて手の平を返すように信仰深くなったものです(笑)。稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-13578354627756510102014-06-02T14:55:43.085+09:002014-06-02T14:55:43.085+09:00こんにちは。先日は早々のご返信ありがとうございました。教えていただきました資料は近日中に拝見させてい...こんにちは。先日は早々のご返信ありがとうございました。教えていただきました資料は近日中に拝見させていただきたいと存じます。この度は先日のご返信へのお礼と、また今回のブログの中で一つ疑問に思うところがありましたので投稿させていただきました。<br /><br />さてタエの事例は偶然ではなく、神によって贈られたものであるということですが、もし切り落とされたとされる彼女の腕やタエの名前の記述がある史料が発見されていましたら、生まれ変わりの存在はほぼ覆ることのない完璧な状態で証明できていたはずです。しかしながら今回はそれらの発見までには至りませんでした。もし神の計画があるとした場合、なぜ神はそれらの発見を促さず、その計画をより完璧なものにされなかったのでしょうか。<br /><br />しかしもし仮に、神は生まれ変わりの存在が完全な形で証明されるのをよく思われなかったとするか、または今はまだ計画の途中段階で今後さらに新しい発見があるとするか、あるいは神はそれが完全に証明されるには今は時期尚早と見なされた、とのように考えると一応納得のいく答えにはなるかと思います。この疑問に関しまして、稲垣先生のご高察を伺えれば幸いに存じます。VITA ÆTERNAnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-62704739538059277682014-06-01T23:26:47.824+09:002014-06-01T23:26:47.824+09:00憑依説でも霊魂(死後存続)を認める説なので良いのではないでしょうか?
霊魂否定説の超ESPや従来の...憑依説でも霊魂(死後存続)を認める説なので良いのではないでしょうか?<br /><br />霊魂否定説の超ESPや従来の唯物論(虚偽記憶説)でなければ良いと思いますショウタnoreply@blogger.com