2005年の「タエの事例」以後四年間の経緯と2009年の「ラタラジューの事例」によって、私は、「魂」や「生まれ変わり」および、「守護霊」など霊的存在を認める立場をとることにためらわないようになっていきました。
この立場をとることは、これまでこのブログで紹介してきた私あての霊信で告げられている予言が的中していることや、通信霊団の存在を知らないはずの催眠中のクライアントに、私の守護霊を名乗る霊、霊団の一員を名乗る霊、あるいはクライアントの守護霊を名乗る霊の憑依とおぼしき現象が生じ、メッセージを伝えるということが度々起きていることからも、受け入れざるをえません。
何よりも「ラタラジューの事例」との出会いによって、生まれ変わりの事実を認めざるを得なくなったからです。
私は、「ラタラジューの事例」以上に前世の存在を示す応答型真性異言事例は、現在のところ、世界に例がないと自負していますし、この事例をもってしても生まれ変わりの証拠にならないと言うのであれば、それではあなたはどのような事例であれば、生まれ変わりの証拠として認めるのですか、とお尋ねしたいと思います。
魂と守護霊の実在を認める立場をとる理由は、それが直感に著しく反していないからであり、それを認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、その霊的現象が唯物論的枠組みからは説明できないからです。
SAM前世療法の作業仮説は、霊信の告げた魂の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。
この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。
ラタラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、魂や生まれ変わりの実在を 回避するために、深層心理学的概念を駆使し、クライアントの霊的な意識現象に対して唯物論的解釈することは、現行科学の知の枠組みに固執した不自然な営み だ、と私には思われるのです。
あるいは、生まれ変わりや霊というだけでオカルトだと切って捨てる独断、ないし非科学的だと腰を引いてしまう偏見だと思われます。
魂の自覚状態における前世人格の顕現化という意識現象に対して、とりあえず事実は事実としてありのままに認めるという現象学的態度をとってこそ、この領域(霊的現象)の研究を実りあるものにしていくと思っています。
そして、クライアントの示す意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
魂や生まれ変わりの実在を認めることを回避する立場で、あるいはすべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって顕現化した前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得できる説明ができるのでしょうか。
応答型真性異言研究の先駆者イアン・スティーヴンソンも、「グレートヒェンの事例」において、真性異言で会話したグレートヒェンを名乗るドイツ人少女を、「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出そうと試みた」(『前世の言葉を話す人々』春秋社、1995、P11)と記述し、呼び出された前世人格を「トランス人格」(前掲書P9)と呼んでいます。
つまり、スティーヴンソンも、催眠下で「前世人格を呼び出し顕現化させる」、というSAM前世療法における私と同様のとらえ方をしています。
応答型真性異言現象を、被験者の「前世記憶の想起」だとはとらえていないのです。
こうしてスティーヴンソンは、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を心搬体と呼ぶことにしたらどうか」(『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、1989、P369)と提案し、「心搬体」、つまり魂と呼んでいるような死後存続する媒体を想定せざるを得ないとことを指摘しています。
おそらく、スティーヴンソンの研究対象になったこの被験者も、里沙さんのような高い催眠感受性を持ち、タエやラタラジューの人格同様、催眠下で一気に魂状態になり、その表層に存在している前世人格グレートヒェンが顕現化したと推測してよいように思われます。
ただし、スティーヴンソンは、トランス人格の顕現化現象は認めていますが、それが「心搬体」に存在している、ということについては何ら言及していません。
こうしたことから、SAM催眠学が提示する、魂表層に存在する前世人格の顕現化という仮説は、スティーヴンソンの考え方を一歩前進させたと自負しています。
ちなみに、2005年の「タエの事例」は、里沙さんの前世の記憶として扱ったワイス式前世療法でしたが、その後2012年のSAM前世療法による再セッションで、顕現化したタエの人格自身に、2005年のセッションのときも、魂表層に存在する前世人格として顕現化していたことを確認できました。
こうした検証から、私は、ブライアン・ワイスの「キャサリンの事例」(『前世療法』PHP、1996) も、前世の記憶の語りではなく、前世人格の語りだと解釈することが妥当ではないかという見解を持っています。
(その10へつづく)
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