2014年5月27日火曜日

溜飲が下がる思い

下記は大飯原発運転差し止め訴訟の福井地裁判決文の抜粋です。

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原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条)、 原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣 位に置かれるべきものである。しかるところ、大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子 力発電所の事故のほかは想定し難い。かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動は、その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、少 なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である。
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胸のすく正当な論理で、曖昧な判断で回避せず、みごとに判決の主旨がのべられています。

数々の検察の劣化が暴露され、司法にもそれが及んでいるという情報が流れている中で、この判決文を読む限り「司法の独立性は生きている」と実感できました。

「人格権」は、「経済活動の自由」より優先する基本的権利である、という至極まともな判決です。

福島原発事故後の2014年5月の現状を見れば、原発の存続は議論の余地のない馬鹿げた妄想であることが明明白白です。

私は、「簡素にして自給的で、喜びを中心にした生活」を理想とする者ですが、若狭湾で福島原発事故級の事故があれば、大飯原発に限らず若狭湾の原発から100キロ圏内(岐阜県可児市)で生きているそうした私の理想の生活の基盤が根こそぎ奪われることが明白です。

すでに福島原発事故で、汚染され続けている東日本と太平洋の現状を顧みれば、安価と言われる原発電力による経済活動を優先させることは、近視眼的な本末転倒の論理です。

経済活動の基盤である国土と海そのものが、取り返しのつかない状況になるからです。
孫子のためにも、生まれ変わるであろう私のためにも、原発は廃止にするべきでしょう。

原発廃止で腹をくくれば、日本人はそれに変わる電力供給をひねり出すだけの技術力と知恵を所有していると信じています。

私は、薄氷の上でのきわどい生活を余儀なくされていると思い続けています。


「根源的な権利(人格権)が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い」ので、「具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である」と断言した当裁判官は、万雷の拍手をもって称えられるべきでしょう。

呼吸をするように嘘をつく首相の言うがままにならない、反骨と正義を貫く裁判官が存在していることに、私は久しぶりに感動し、溜飲を下げたというわけです。


しかし、関電は即上告したといいますから、ときの政府の意向を反映させたがる上級審では、この判決が覆る可能性は大きいと推測できます。

溜飲が下がったのも、一時的な束の間の快感にすぎないかもしれません。

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