2014年1月19日日曜日

SAM前世療法の成立 その45

総括その6 生まれ変わりの実証研究と私の問題意識 
スティーヴンソンの応答型真性異言研究(生まれ変わりの実証研究)は、きわめて綿密な調査と、公正で慎重な検証によって、他の領域の一流科学者たちにも説得力をもって認められつつあるようです。
たとえば、有名な天文学者カール・セーガンは、「時として、小さな子どもたちは、調べてみると正確であることが判明し、生まれ変わり以外には知りえなかったはずの前世の詳細を物語る」という主張は、「真剣に検討する価値がある」(『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』P302)と述べています。
また、行動療法の創始者ハンス・アイゼンクは、「スティーヴンソンの著作を何百ページも読み、スティーヴンソンとは別個に研究が始められているのをみると、真にきわめて重要なことがわれわれの前に明らかにされつつあるという見解からむりやり目を逸らせることは、誠実であろうとする限りできない」(Eysenck & Sargent, Explaining the Unexplained, Prion, 1993. いずれも、『生まれ変わりの刻印』笠原敏雄・訳者後記)と述べています。
そして、応答型真性異言こそが生まれ変わりの最有力な証拠だ、とするスティーヴンソンの研究を、科学的・実証的に反証し、論破した研究はいまだに提出されてはいないのです。
このこと、すなわち、応答型真性異言こそは、超ESP仮説を打破できたことが認められたということを意味します。
ひいては、応答型真性異言こそ、生まれ変わりを証明する科学的証拠としてついに認められたことになります。
さて、2005年にあらわれた「タエの事例」は、それに出会った当座は、生まれ変わりの事実を強力に示すものに思われました。
しかし、スティーヴンソンの著作の訳者であり、超心理学者の笠原敏雄氏の指摘から、超ESP仮説が適用できる限り、いかに史実との照合が高い一致率を示しても、里沙さんが催眠中に超ESPを発揮しなかったという完全な証拠が提出できない状況では、生まれ変わりの科学的証明としては不十分だという思いが徐々に強くなっていきました。
こうした私の断ちがたく強いこだわりが、今度こそ生まれ変わりの事実を証明できる「応答型真性異言」の発見へ真剣に向かわせることになっていきました。
生まれ変わりが人間に普遍的な事実であるならば、海外で発見されている応答型真性異言が、それがきわめて稀であろうとも、日本でも発見されないはずがないと考えたからです。
前世療法に携わる実践者として、みずからの手による前世療法で応答型真性異言を探究し、生まれ変わりの事実を確認した後、安んじて死に臨みたい、という押さえがたい衝動が突き上げていたからです。
こうした執拗な探究心の根底にあるのは、私自身の少年時代に刷り込まれた「死後無になることへの恐怖」にほかなりません。
このことについては、以前にも書き込んだ記事ですが再掲してみます。
【再掲はじめ】
私の実存的原体験は、小学校6年生に遡ります。
母方の祖父が、火葬場の焼却釜の中で、吹き出す重油の火炎に包まれて燃えていくありさまを、釜の覗き穴から見てしまったという体験です。
当時の火葬場は管理が杜撰で、係員が席を外した機会に、従弟と好奇心で遺体の焼け具合を見るための釜の覗き穴から見てしまったのです。
肉が焼け、頭蓋骨や肋骨があらわになっていく最中でした。
この原風景は、現在も生々しく脳裏に焼き付いたまま、忘れることはできません。
そして、死ねば自分もこうなるのだ、という当たり前のことを、目前で見せつけられて、自分はいずれ燃えてなくなり、すべて無に帰するのだという死の恐怖が、少年の私に圧倒的事実として否応なしに深く刻印されたというわけです。
最後は死んで灰と骨になる人生に、生まれてきた意味はあるのか。
この根源的問いは、この原体験以後、途切れることなく、繰り返し、繰り返し、私に迫ることをやめませんでした。
どのような本も、どのような教師も、「人は何のために生まれてくるのか」について、納得のいく解答を与えてくれませんでした。
宗教に救いを求めることは、観念より事実、理屈より実証への傾斜が強すぎる生来の気質によってできませんでした。
この問いに対する多くの解答は、「何のために生まれてきたかを問うより、いかに生きるかを問え」ということに集約され、真剣に生まれてくる意味を問う私をはぐらかすとしか思えない、その意味で陳腐な解答だとしか思えませんでした。
問われて答えた人たちの真相は、問われても、答えることができなかったのでしょう。
そうであるなら、誠実に「分からない」と答えてほしかった。
これほどの人物でも分からないのか、と救われたように思うのです。
結局、人生の折り返し点の40歳すぎてから、とりあえず私の自得した解答は、「生まれてくる意味など本来何もないのだ。生まれついでに生きているにすぎないのだ。本来無意味に生まれてきた自分が、意味を作り出していく過程が人生なのだ」ということでした。
死までの時間がそれまで生きた時間より確実に短くなったことを実感するようになったころに、やっとたどり着けたと思った真理でした。
そのままで行けば、それなりに覚悟して、すべてを無にする死を受け入れていくことになったはずでした。
ゆるやかに迎える死の間際には、おそらく意識朦朧となって、自分の死すら分からないままに死んでいくから、死の恐怖などに怯えることはないだろう、と思っていました。
それでも、やっぱり、すべてを無にする死はおそろしい。
暴力などで死を間近に突きつけられたときには、きっと恐怖のきわみに小便を漏らすに違いないのです。
それほど、私は死に対して臆病な人間でした。

【再掲おわり】
このように私の、いわば強迫的な生まれ変わりの実証探究の原動力は、「すべて無に帰する死への恐怖」であり、それは「死後はあるのか、ないのか」のいずれかに、たしかな事実に基づく解答をもとめることにつながっていました。
私は、自分が救われたいから、自分のために、生まれ変わりの実証探究に執念を燃やすことができたのです。
(その46につづく)


6 件のコメント:

ポン太 さんのコメント...

SECRET: 0
PASS:
ある記事で『第六感(シックスセンス)は存在しないことが明らかに!!』という記事がありましたが超ESP説の反証になるのでしょうか?

稲垣勝巳 さんのコメント...

SECRET: 0
PASS:
第六感とESPの関係が不明なので私には判断留保としかお答えできません。
超心理学の概説として笠原敏雄『超心理学読本』講談社文庫、あなたがこだわる臨死体験関係では、立花隆『脳死再論』をお読みになることをお勧めします。
生まれ変わりの科学的実証はとほうもない研究です。生まれ変わり以外に疑われる説明仮説をすべて検証し尽くさねばなりません。生まれ変わりを認めることは、唯物論世界観を覆すことであり、その影響は広汎かつ深甚であるからです。生まれ変わりのような奇怪なことを認めるくらいなら、生きている人間の心の力として説明できる超ESP仮説を認めるほうがまだましだ、と考える超心理学者がいるのです。
ただし、超ESP能力者は、いまだ発見されてはいません。ESP能力の限界が不明なので、万能の超ESP能力が存在する可能性を排除できない、というやっかいな仮説です。

聖パウロ さんのコメント...

SECRET: 0
PASS:
上記の『第六感(シックスセンス)は存在しないことが明らかに!!』の記事は今日発表された記事なので期待したのですがまだ難しいのですね
前世の証明はヒッグス粒子以上の証明だと思います
ボクは大学のキリスト教を学んだ他去年の6月母方の祖母が亡くなり死後生命について意識をし始めましていろいろ学者においての肯定的な資料を追及しています
宗教思想以外の一般論は死後意識はオカルトの類ですが稲垣先生のブログは宗教、オカルトを抜きとして肯定しているので興味深いです
いつかは輪廻転生または死後の世界が一般社会に持ち込め一般論になる世の中になることを期待しています

ポン太 さんのコメント...

SECRET: 0
PASS:
 人のハンドル勝手に使うのは不愉快です。やめてほしいですね。まあ、主張していることは私とよく似ているのだけれど。
 なので、このハンドルは封印いたします。少なくとも私は使いません。

聖パウロ さんのコメント...

SECRET: 0
PASS:
>ポン太さん
ボクは「有神論実現学会」ブログのイエス・キリストです
http://blogs.mobile.yahoo.co.jp/p/blog/myblog/content?bid=iesus_no_nazarenus_kirisuto&id=62017997&type=list&ySiD=N.TbUhQS_ngelr9oGKJc&guid=ON
あの時は臨死体験についてのコメントありがとうございました
ハンドル使ってすみませんでした
自分の発言に自信なかったもんでつい。。。

稲垣勝巳 さんのコメント...

SECRET: 0
PASS:
私のブログは、生まれ変わりや魂の存在を「宗教、オカルトを抜きとして肯定している」とコメントしてくださった聖パウロさんの見解は、まったくそのとおりです。そうした立場が成り立つことを教えてくれたのは、イアン・スティーヴンソンです。私は彼の著作を読んで強烈な衝撃を受けました。科学として、生まれ変わりの実証に真摯に取り組んでいる研究者が存在することを知ったからです。そして、私は催眠を道具として意識現象の事実を探究した結果、現在は、「物質」・「心(意識)」・「霊」の三元論の立場をとらざるをえないと思うようになっています。