2013年6月12日水曜日

なにが生まれ変わるのか(魂の構成要素とはなにか)

私のSAM前世療法の「生まれ変わり」の概念は、これまで提唱されたものではないので、なかなか理解されにくいようです。
そこで、生まれ変わりの実証的研究者故イアン・スティーヴンソンの見解と、確信的スピリチュアリスト高森光季氏の見解を参考にしながら、私の「生まれ変わり」概念について考察してみます。
私の立場は、このブログのテーマにあるように、「生まれ変わりの実証的探究」です。
ただし、「魂」のように実測も計量もできない存在については、セッションであらわれた「意識現象の事実」の累積と、そこに確認できた共通項をもって「実証的探究」とする以外、現時点の探究方法はありません。
そうして、探究の結果、現時点で提示できる仮説としての生まれ変わりの定義は、「魂に包含される、魂の表層を構成する前世人格たちを含めた魂全体が、次の新たな肉体に宿ることをもって生まれ変わりとする」ということです。
また、魂表層の個々の前世人格たちは、互いの人生の知恵を分かち合い、死後も成長進化を続けているらしい。
こうして、魂表層を構成している前世人格たち全体の集合的意識も成長進化をしているらしい。つまり、魂は生まれ変わりを重ねながら成長進化を続けていくらしい。
こうした私の生まれ変わり概念は、奇抜のように思われるかもしれませんが、生まれ変わりの研究者である故イアン・スティーヴンソンの生まれ変わりの見解と共通するところがないわけではありません。
スティーヴンソンは、世界中の2000事例を越える生まれ変わりの可能性のある事例を精査した結果、次のように述べています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
スティーヴンソンの見解
たとえ生きている人間の人格全体が何でできているかを知らなかったとしても、どの事例から得られた証拠をもとに考えたところで、人格全体が生まれ変わったと言うことはできないであろう。前世に由来する可能性のある人格の一側面に注意を向けることしかできないのである。(中略)
前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォ)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化していくのではないかと思う。(中略)
私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、ひとつの人格がそっくりそのまま生まれ変わりうるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。実際に生まれ変わるかもしれないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する個性なのである。
スティーヴンソン・I 『前世を記憶する子どもたち』日本教文社,PP358-360
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記のスティーヴンソンの見解は、とりわけ、人格全体が生まれ変わったということはできないという見解は、私がセッションで確認してきた「意識現象の事実」にほとんど符合しています。
私の現時点の生まれ変わり仮説も、人格全体が生まれ変わるとは定義できません。
そのような形で、つまり、人格全体が生まれ変わることを示唆する証拠は、「意識現象の事実」として確認できないのです。
スティーヴンソンの提唱している「心搬体」とは、いわゆる「魂」と同義です。生まれ変わりとは、前世人格で構成される表層を含めた「魂」=「心搬体」全体が死後存続し、次の肉体に宿ることと考えざるをえないのです。
ただし、私は、スティーヴンソンが「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない」と述べているその「心搬体(魂)の構成要素」を、「表層部分」と「核」の二層構造になっているという仮説をもっています。また、魂表層は前世のものたちによって構成されているという仮説に立っています。
このことをさらに分かりやすく説明するために、高森光季氏のブログで提示されている下記の図によって考えてみます。
高森氏は、私の生まれ変わり仮説(魂の二層構造仮説)を、「多面体説」として次のようにな見解を提示しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

高森光季氏の見解
多面体説

  これは、魂なり霊なりは、Aという個人的存在を現世に生み出すが、Aは死後、魂や霊に付属して存在を続ける、そして魂や霊は、別のBという個人的存在を新たに世に生み出す、というものです。
 次の図は、時間軸に沿った変化として見てください。なんか雪玉ゴロゴロみたいな変な形になりましたが(笑い)。

 魂であるXは、A、B、Cという現世存在を次々に生み出していきます。A、Bは死後も一応の個別性を持ちながら、魂Xとともにあります。
 シルバー・バーチの「魂はダイヤモンドのような多面体であり、あなたはその一面なのだ」というような説や、稲垣勝巳さんの「人格は魂の表層のもの」という説は、おそらくこういうふうになるのではないかと思います。(ひょっとすると違うかもしれません。)
 
 さて、この構図で問題になることは、まず、「個別の人格は生まれ変わりをしない」ということになるということです。視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。
大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)
 むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか。
 もうひとつ問題になるのは、死後の「人格」の状態です。一番右の時点で、AとBは、どういう状態で何をしているのでしょう。一般的に、死後存続説というものは、単に「残る」ということではなく、「活動を続ける」ということを含意しています(古代ユダヤ教の「冥府での眠り」――復活を認めないサドカイ派の死後観――はですから死後存続説としては異常説です)。
 AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です。
 つまり、このような捉え方(あくまでこの図のような捉え方ということ)は、「生まれ変わりの否定」であり、場合によっては(死後人格の活動状態いかんによっては)、死後存続の否定にもなりかねないということになります。
(中略)
 死後存続研究者(たぶんデュカスだったと思います)が言った「死後存続については、どういう条件が満たされると証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」という言葉と同様、「生まれ変わりについては、どういう条件が満たされると生まれ変わりが証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」ということになっていると思われます。
 霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、「何が生まれ変わるか」「生まれ変わりの定義とは何か」についてすら、合意ができていないようです。
「永遠なる自由――霊的哲学を求めて」より抜粋
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下は、上記の高森氏の見解に対する私の見解です。
①
さて、上の図で誤解されやすいのは、大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)が位置づけられていますが、私の概念では、○A・○B(それぞれの前世人格)は、「魂の表層」を構成している前世のものたちであって、それらのものたちは、魂の構成要素であるので、大円X(魂)・○A・○B(それぞれの前世人格)全体を含めて「魂」と呼んでいます。
さらに言えば、○C(現世人格)も、魂の表層に存在しており、この現世人格と前世人格たちを含めて、「魂の表層」なのだということです。
ちなみに、私の言う「魂」は、宗教的な意味は一切ありません。「肉体に入っており、死後肉体から離れて存続する意識体」というほどの意味です。
イアン・スティーヴンソンの提唱している「心搬体(生前の人格・記憶を保って死後存続する意識体)」と同様の概念です。
②
高森氏は、この多面体説では、「個別の人格は生まれ変わりをしない、ということになるということです。
視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか」という主張をしています。
一方で氏は、「霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、『何が生まれ変わるか』、『生まれ変わりの定義とは何か』についてすら、合意ができていないようです」とも述べています。
生まれ変わりの定義に合意がないのであるなら、この多面体説をもって「生まれ変わり」、つまり、表層の前世のものたちを含めた魂全体が、次の肉体に宿ることをもって、「個別の人格はそのまま生まれ変わりをしないが、それらを包含した魂全体が生まれ変わる」という概念であっても、なんら支障はないと私は思います。
端的に言えば、私の生まれ変わりの概念は、「魂全体が次の肉体に宿ること」を「生まれ変わり」だとしています。
そして、セッションで現れる意識現象の事実は、このことを支持していますから、これまでのスピチュアル霊学一般の見解に反するでしょうが、現時点ではそうと認めるしかありません。
つまり、里沙さんの場合、図の○Aがタエ、○Bがラタラジュー、○Cが現世の里沙、ということであり、このことをもって「生まれ変わり」をしていると私は呼んでいるということです。
多面体説が、「生まれ変わりの否定」になるという高森氏の主張は、氏の概念規定上の見解に過ぎないと思います。
氏が、生まれ変わりの概念に合意がないことを認めているにもかかわらず、生まれ変わりの否定になる、という主張は自己矛盾ではないでしょうか。
③
高森氏の「AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です」という主張は、セッションで現れる「意識現象の事実」に反しています。
前世人格AとBは、友愛を結びながらそれぞれの人生の知恵を分かち合い、それぞれ成長を続けている、というのがセッションで現れる意識現象の事実です。
けっして、「単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていない」わけではありません。
そもそも、「魂にくっついている」という認識が誤りです。
くっついているのではなく、魂の表層を構成しているもの、したがって、魂そのものの構成要素です。
だからこそ、セッションにおいて、魂状態の自覚に至れば、タエやラタラジューが顕現化するわけで、彼らが「単に眠っているように魂にくっついていたり」しているわけではないことを、セッション証拠映像を検討すれば誰もが納得されるでしょう。
④
私は、「魂の多面体仮説」=「魂の二層構造仮説」の立証を、催眠を道具に用いて、セッションで確認できた「意識現象の事実」の累積から共通項を抽出する、という方法論で、これまでもやってきましたし、これからもやっていこうとしています。それ以外に「意識」の研究は方法がないと思うからです。
そして、現時点で確認できていることは、AとBとCが同じXに属するものである、という意識現象の事実です。
魂の多面体仮説に基づくSAM前世療法は、こうしたことを探究する有用な道具だろうと思っています。
そして、これまでの探究において、「多面体仮説」=「二層構造仮説」を否定する意識現象の事実はあらわれていないということです。
長々と「生まれ変わり」についての考察を述べてきました。
私の見解は、SAM前世療法の臨床から得てきた知見です。
スティーヴンソンの見解は、前世を記憶する子どもたちの検証から得られた知見です。
高森氏の見解は、過去の「シルバーバーチの霊言」に基づくスピリチュアリズム論的展開です。
ただし、私の生まれ変わり仮説=「魂の二層構造仮説」は、2007年1月23日の私あて第12霊信によって告げられた内容です。(注:私あて全霊信はこのブログで公開してあります)
そして、なぜ私に、過去のスピリチュアリズム霊信にはない、魂の二層構造のような詳しい情報が告げられたのか、という通信霊への問いに対して、2007年1月27日の第15霊信で次のような回答が告げられています。
「尋ねるまでもない、あなたに与えられるべきものが与えられたのだ。そしてこれまでのものたちに与えられるべきものが与えられたのだ。すべては神の計画によっておこなわれている。そして、それら(注:過去のスピリチュアリズム霊信)は誤りではない。それらの霊媒がそう受け取っただけなのだ。それは、真理において生じる矛盾ではなく、言葉の類似性により生まれた適切ではない表現となったものである。それは、そうあるべきであっただけだ。そして、あなたにとってもそうである。あなたには、与えられるべきものが与えられたのだ」
果たして、通信霊の告げた「魂の二層構造」は真理であるのか、それを作業仮説とし、その仮説検証の過程で生まれた前世療法が、SAM前世療法というわけです。

2013年5月29日水曜日

前世人格の存在の座はどこか

SAM前世療法では、魂の表層は前世のものたちによって構成されており、それらのものたちが潜在意識を作り出している、という作業仮説にしたがって、潜在意識をひたすら深め、それを作り出している源である魂の自覚まで導きます。この作業仮説は、私が考えたことではなく、私あて霊信が告げてきたことが基盤となっています。
魂状態の自覚に至ったことが確認できれば、魂の表層に存在し、主訴に関わっている前世のものを呼び出します。
こうして私は、顕現化した前世の人格と対話し、その苦しみや悲しみを共感的に傾聴します。
現世のクライアントの顕在意識(モニター意識)は、私と前世人格との対話を傍聴しています。
私と前世人格の対話、それを傍聴している現世の顕在意識という三者的構図が、これまでの心理療法になかったSAM前世療法独自・固有のセッション構造といえるでしょう。
前世の人格が苦悩を語ることによって癒しを得ると同時に、傍聴している現世のクライアントの主訴も連動して改善が起こる、というのがSAM前世療法による暫定的治療仮説です。
このことつまり、こうした治療仮説そのものは、通常のカウンセリングと何ら変わりがないものです。
ただカウンセリングの対象が生身の人間ではなく、肉体を持たない前世人格(死者)であるという点に違いがあるだけです。
したがって、カウンセラーは、クライアントと面接しているのではなく、クライアントの前世の人格と面接しているのだ、という明確な自覚のもとでセッションを進めることになります。
非常に信じがたい奇異なカウンセリングに映るでしょうが、SAM前世療法の作業仮説からしてみれば、当然の論理的帰結であり、クライアントの意識現象として現れる確かな事実です。
カウンセラーは、数百年前に人生を終え、当時のままの苦しみや悲しみの感情に苦悩しながら、今も魂の表層に生き続けている前世の人格(死者)と対面するというわけです。
ラタラジュー人格もこうして顕現化し、ネパール語で会話したのです。
ラタラジューが真性異言で会話した事実は、彼が、けっして里沙さんの作り出した架空の人格ではないことを証明しています。
架空の人格が応答型真性異言を話せるはずがありません。
ラタラジューはネパール人として生きたことがあるからこそ、ネパール語で会話できたのだと考えざるをえません。
こうしたことから、魂の表層が前世人格存在の座であり、今も前世の人格が生きて存在している、という作業仮説は正しい可能性があると思われます。
その一つの証拠が、ラタラジューとカルパナさんの次のような現在進行形のネパール語会話です。
※ CL : ラタラジュー人格(被験者里沙)   KA : ネパール語話者カルパナ
CL  Tapai Nepali huncha?
   (あなたはネパール人ですか?)
KA  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)
CL  O. ma Nepali.
   (ああ、私もネパール人です)
この会話のラタラジュー(CL)という顕現化した前世人格は、カルパナさんに対して、明らかに、今、ここで、現在進行形で問いかけています。
つまり、前世人格ラタラジューは、魂表層で今も生きており、それが顕現化して問いかけているとしか考えられません。
こうした事実からも、被験者里沙さんが、ラタラジューであった前世の記憶を想起して語っている、という解釈は成り立たないのです。
応答型真性異言現象においては、それを会話した当事者の「前世の記憶」ではないというほかありません。
さて、私と同じく応答型真性異言の二つの事例を20年ほど前に出版しているイアン・スティーヴンソンは、この現象を次のように述べています。
スティーヴンソンも、応答型真性異言「グレートヒェンの事例」において、真性異言で会話したグレートヒェンを名乗るドイツ人少女を「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出そうと試みた」(『前世の言葉を話す人々』11頁)と記述し、呼び出された前世人格を「トランス人格」(前掲書9頁)と呼んでいます。
さすがにスティーヴンソンも、応答型真性異言で会話している現象は、当事者の記憶想起としてではなく、当事者とは別の、トランス人格(前世人格)が顕現化して会話している、ととらえざるをえなかったのです。
つまり、催眠下で前世人格を呼び出し顕現化させる、というSAM前世療法における私と同様のとらえ方をしています。
おそらく、この被験者も里沙さんのような高い催眠感受性と霊媒能力を持ち、タエやラタラジューの人格同様、催眠下で一気に魂状態になり、その表層に存在している前世人格グレートヒェンが顕現化したと推測してよいように思われます。 
 
こうした海外で発見された催眠下であらわれた2例の応答型真性異言と考え合わせると、前世人格の存在する座は魂の表層である、とするSAM前世療法の作業仮説の検証は、ますます意味深い作業になると思っています。
なぜならば、スティーヴンソンは、呼び出された「トランス人格(前世人格)」が真性異言を話すことまでは言及しても、その「トランス人格(前世人格)」の存在する座はいったいどこにあるのかまではっきり言及しようとしていません。
ただし、彼は、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を『心搬体(サイコフォ)』と呼ぶことにしたらどうか」(『前世を記憶する子どもたち』359頁)とまでは提唱しています。
こうした文脈から、おそらくスティーヴンソンは、心搬体(サイコフォ)がトランス人格存在の座であると推測していると思われます。心搬体(サイコフォとは、いわゆる魂と同義です。「魂」という用語にまつわる宗教色を避けるために、「心搬体(サイコフォ)」という新しい中立的用語を提唱しているわけです。
トランス人格存在の座を明確に述べようとしないのは、実証を重んじる科学者としてのスティーヴンソンの慎重な自制からでしょうが、SAM前世療法の作業仮説は、それ以上言及されなかったトランス人格の存在する座までも検証しようとしています。
ところでスティーヴンソンは、次のような謎とその謎解きを次のように述べています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私が特に解明したいと考えている謎に、イェンセンやグレートヒェンが母語(注 スウェーデン語とドイツ語)でおこなわれた質問と同じく、英語でおこなわれた質問に対しても、それぞれの母語で答えることができるほど英語をなぜ理解できたのかという問題がある。イェンセンとグレートヒェンが、かつてこの世に生を享けていたとして、母語以外の言葉を知っていたと推定することはできない。二人は、したがって、自分たちが存在の基盤としている中心人物(注 英語を母語とする被験者のこと)から英語の理解力を引き出したに違いないのである」(『前世の言葉を話す人々』235頁)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このことは、ラタラジューにも当てはまる謎です。
なぜ、ネパール人前世人格ラタラジューが、知っているはずのない日本語を理解し、私と対話できるのかという謎です。
これはラタラジューが顕現化した第一回セッションからこだわり続けていた謎でした。
そこで、実験セッションの始めに「ラタラジューはネパール人です。それなのに日本語が分かるということは、翻訳、仲立ちをしているのは魂の表層の『現世のもの』と考えてよろしいですか? 」という質問を里沙さんの守護霊にしたのです。
これに対して、里沙さんの守護霊とおぼしき存在も、そのとおりだ、と認めています。
またこの存在は、魂レベルでは言語の壁がなくなり自然に分かり合える、とも告げています。
つまり、「魂の二層構造仮説」のように、魂の実在を仮定すれば、スティーヴンソンの「特に解明したい謎」に解答が出せるかもしれないということです。
魂の表層に存在し、ラタラジューとつながっている「現世のもの(現世の人格)」が通訳をしているという説明ができることになるのです。

2013年5月12日日曜日

臨死体験と魂の問題

最近、http://sankei.jp.msn.com/wired/news/130502/wir13050213270001-n1.htmという記事を紹介してもらいました。
下記にこの記事の当事者であるパーニア氏と、そのインタビュー記事の抜粋を紹介します。
パーニア氏は、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校付属病院の医師で、同大学の蘇生法研究プログラムの主任。北米と欧州の25病院で臨死体験を記録する「Consciousness Project Human」のAWARE調査の責任者として、この現象を科学的に研究している人物である。

 パーニア氏はこのほど、新しい著作『Erasing Death: The Science That Is Rewriting the Boundaries Between Life and Death(死を消去する:生と死の境界を書き換える科学)』を刊行した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
パーニア氏:
人が死ぬと、血液の脳への流入がなくなります。血液の流入が一定のレベルを下回ると、電気活動は生じ得ません。脳に何らかの隠された領域があり、ほかのすべてが機能しなくなってもそれが活動していると考えるには、大変な想像力が必要です。

 このような観察から、脳と心の相互作用に関する現在の概念に疑問が生じます。従来の考え方は、脳内の電気化学的なプロセスが意識につながっているというものです。死後に電気化学プロセスが起きないことは証明ができるので、この考え方はもう正確ではないのかもしれません。

 脳の中には、われわれが発見していない、意識を説明する何かがあるのかもしれません。あるいは、意識は脳とは別個の存在なのかもしれません。


WIRED:それは、意識の超自然的な説明に近いように聞こえますが。


パーニア氏:最高に頭が柔軟で客観的な科学者は、われわれに限界があることを知っています。現在の科学では説明ができないという理由で、迷信だとか、間違っているだとかいうことにはなりません。かつて電磁気など、当時は見ることも測定することもできなかったさまざまな力が発見されたとき、多くの科学者がこれを馬鹿にしました。

 科学者は自我が脳のプロセスであると考えるようになっていますが、脳内の細胞がどのようにして人間の思考になりうるのかを証明した実験は、まだ存在していません。

 人間の精神と意識は、電磁気学で扱われるような、脳と相互作用する非常に微小なタイプの力ではあるが、必ずしも脳によって生み出されるわけではない、ということなのかもしれません。これらのことはまだまったくわかっていないのです。


WIRED:ただ、最近はfMRIによる脳画像と、感情や思考などの意識状態の関連性が研究されたりしていますよね。脳を見ることで、その人が何を見ているかや、何を夢見ているかがわかるという研究もあります。


パーニア氏:細胞の活動が心を生み出すのか、それとも、心が細胞の活動を生み出すのか。これは卵が先かニワトリが先かというような問題です。(fMRIと意識状態の関連性などの観察から)細胞が思考を生み出すことを示唆していると結論する試みがあります。「これが憂鬱の状態で、これが幸せの状態」というわけです。しかし、それは関連性に過ぎず、因果関係ではありません。その理論に従えば、脳内の活動が停止したあとに、周囲の物事を見たとか聞いたとかいう報告はないはずなのです。脳内の活動が停止したあとも意識を持ち得るのだとすれば、おそらくは、わたしたちの理論はまだ完成していないということが示されているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、「生まれ変わりの実証的探究」の私の立場からすれば、上記パーニア氏の太字部分の医学的見解は、脳以外に意識の存在を示唆しているように思われます。彼は、「現在はっきりとしているのは、(脳死後も)人間の意識が消滅するわけではないということだ」とまで述べているようです。

この見解は、「心・脳二元論」という立場です。

過去にも、W・ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなどノーベル賞級の大脳科学者が自らの実験研究の結果、晩年になって「心・脳二元論」を表明しています。

催眠研究者成瀬悟策九大名誉教授・医博も、晩年になって、「脳は心の家来です」と述べています。


SAM前世療法の大前提は、「心・脳二元論」仮説ですから、臨床医学者パーニア氏の最新の上記見解は、我が意を得たりと言いたいところです。

しかし、厳密に検討すると、手放しで喜べるほど、ことは単純ではないようです。


脳死臨床の場で、脳が本当に死んだかどうかを、直接的に観察できる方法は現在ありません。

したがって、「脳が生きて活動しているならこういう現象が観察されるはずだ」ということをいろいろ見ていって、そういった現象がすべて観察されないからこの脳は死んでいるだろう」と推論するわけです。

これが脳死判定の方法論的論理構造です。しかし、「脳が生きている」けれども、「脳の機能発現が観察されない」こともあるのです。

脳が活発に活動しているときには、脳内でものすごい数のパルスが飛び交っており、その影響で頭皮の上に微弱な電流が生じます。これを測定したものが脳波です。つまり、脳波は、脳の電気的活動の有無を直接測定するものではないのです。したがって、脳細胞レベルでは微弱な電気活動がまだ残っている段階でも、フラットな脳波が現れるといわけです。

脳波がフラットの状態であるから脳死である、つまり、脳の機能は停止してる、にもかかわらず意識現象が生じた、だから、意識は死後も消滅しない、という論理は成り立たないのです。

脳波がフラットであっても、脳は生きており、意識がある可能性を排除できないのです。

脳死をほぼ確実に判定できるのは、一定時間の脳血流停止を確認することとされています。

その確認方法として脳の酸素消費を測定する脳代謝検査があります。

細胞は生きている限り、酸素を消費し、ブドウ糖を消費します。細胞が死ねばどちらも消費しません。

それで、理論的には、脳代謝測定が脳死決定の最終的手段とされています。


はたして、パーニア氏は、脳代謝検査などで、一定時間の脳血流停止確認後、その患者の脳血流停止中の意識があったことをもって、「脳死後も意識は消滅するわけではない」と述べているのでしょうか。

それはまずありえないでしょう。脳細胞の血流が一定時間停止すれば脳細胞が死滅し、脳の復活はありえないので、そもそも脳血流停止中の意識内容を話すことができるはずがないからです。


このように、臨死体験によって、脳とは別に、消滅しない意識(魂)の存在を証明することにも、どうやら「挫折の法則」がはたらいているような気がします。


臨死体験研究者の多くは、医師や心理学者であり、それまでサイキカル・リサーチやスピリチュアリズムが蓄積してきた知見を、知らないかあるいは無視しています。

臨死体験研究の本をいくつも翻訳している超心理学者の笠原敏雄氏は、研究者たちのそうした態度を、先行業績を参照するという科学的手続きを無視したものだ、と指摘してます。

このように、これまでの多くの臨死体験研究では、実証性ということが十分に考慮されているとは思われません。

サイキカル・リサーチ(超心理学)を踏まえたオシスらの研究ですら、超ESP仮説への取り組みが不十分で、理論上の中心主題は残されたままだとしています。臨死体験と死後存続仮説との関係という中心的問題を明らかにすることに対しては、大きな貢献はしていないと私には思えます。


そもそも、臨死体験とは、体験者が生き返っているわけですから、「真の死後の体験」だということには矛盾があります。

呼吸停止・心停止であっても、脳は生きていただろうから、それは脳内現象であり、せいぜい体脱体験と同様のものに過ぎない、という説明が成り立ちます。

脳活動(脳幹活動まで含む)が完全に停止した状態で体験された「パム・レイノルズのケース」(セイボム『続「あの世」からの帰還』)でも、厳密に理論的に検証すると、完璧であるわけではありません。

そして、脳内現象を否定できる、脳細胞が死滅したことが確認された後の臨死体験はありえません。

脳細胞の死滅は、脳の復活不可能な完全な脳死であるからです。臨死体験が報告できるはずがありません。


このように臨死体験の実証的側面は、非常に脆弱なのです。
実証性を別にして考えても、臨死体験には限界があります。仮に、臨死体験者が、死後の世界の入り口まで覗いたとしても、それはあくまで「かいま見た」程度のものでしかありません。前世療法の本をホイットンとともにまとめたライターは、臨死体験を、「国境に足止めされた海外特派員がそこからその国の事情を報告する」ようなものだと表現しています。

2013年4月9日火曜日

死後存続(生まれ変わり)仮説を広める戦略

前ブログのソウルメイトさんのコメント
「ラタラジューの事例の英訳を作成なさるということですが、さまざまな発表の舞台のひとつに、トランス・パーソナル心理学会や超心理学会などのアカデミズムを標榜する舞台での発表をご検討されてはいかがなものかと思量いたします。
バラエティー番組などでセンセーションを巻き起こすことが、おそらく先生の本意とされるところではないのではないかと推察いたします。もちろん、広く生まれ変わりや死後生存の事実を大衆にしらしめるという点では、それもあながち排除すべきものとは思いませんが、単なるセンセーショナリズムに消費されてしまうことを恐れます」
についての回答として、私の現在の立場についてまとめてみました。
SAM前世療法が前提としている「前世」、つまり「死後存続仮説」は、今の科学(医学や臨床心理学や人文科学を含む)が基盤としている「唯物論」とは真っ向から対立します。これに対して、前世を認める立場、死後存続仮説を広める側としては、どのように対応すべきなのでしょうか。
① 実証事例を集め積み上げる
これまで120年に及ぶサイキカル・リサーチ(心霊研究)及び超心理学はこの闘争でしたが、これは実に困難な闘いでした。唯物論側は様々な誹謗や奇説(超ESP仮説)を繰り出して、それらの信憑性を否定してきました。また反唯物論的現象の希少性や「とらえにくさ問題」もあって、戦果ははかばかしくありません。
(こうした歴史については、笠原敏雄編著『サイの戦場』や同氏のホームページ「心の研究室」、明治大学教授石川幹人氏のサイト「メタ超心理学研究室」http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/などを参照してください。)
この道で偉大な業績を上げたのは、イアン・スティーヴンソンの研究です。彼は気の遠くなる時間と手間をかけて、2000例を越す生まれ変わり事例を収集・検証したうえに、否定論者の最後の砦、「超ESP仮説」を棄却しうる「応答型真性異言」や、「前世記憶と一致する先天性刻印(birthmarks)」の事例をもつきとめ、生まれ変わり仮説の実証に大きく貢献しました。このことの説明は、東京スピリチュアリズム・ラボラトリーのホームページ、http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/3-3.html を是非参照してください。
ところが、こうした実証に対して、唯物論側は、「無視」という態度で終始しています。スティーヴンソンは、4巻にわたる綿密な研究書『再生と生物学』が、広く注目を集めなかったことに失望していたと言います。
生まれ変わり否定論者が、彼の研究をきちんと読んだ後に批判をしているという例は、皆無だと思います。
なお、この立場の研究者は、だいたい生まれ変わり仮説を「受け入れている」とは明確に表明しません。
そう表明するだけで、研究の信憑性が疑われてしまうのです(実はこれは奇妙な話で、例えば最近の新聞で話題になっている宇宙の「暗黒物質」に関する研究では、当人がそれを信じているかどうかは問題にされません。反唯物論現象のみこう した偏見があるのです)。
② 唯物論の論拠が絶対ではないことを論証する
実は、唯物論自体、絶対完璧の基盤を持っているわけではありません。唯物論自体は憶説(信仰)に過ぎませんし、実証主義、数理論理主義、基礎物理学なども、つきつめていくと、様々な論証不能性の壁にぶつかります。
また、科学や医学などを作り上げている知識のある部分は、「欺瞞」や「思い込み」や「政治性」などに汚染されています。一般の人はもちろん、正当科学に従事する人の多くも、こうした議論を知りませんが、現代哲学や物理学の最先端では、「実証」という概念も成立しなくなってきつつあるのです。
こういった議論は、しばしば難解ですが、興味深いものです。『七つの科学事件ファイル』『背信の科学者たち』といった暴露ものなど、考えさせられる著作もかなりあるのです。
ソウルメイトさんの紹介している、牧野尚彦著「ダーウィンよ、さようなら」、マイケル・J・ベーエ著「ダーウィンのブラック・ボックス」、マイケル・デントン著「反進化論」のように、唯物論の代表であるダーウィニズムも、その信憑性は揺らいでいるのです。
③ アカデミズムからの白眼視などどこ吹く風で信じることをやる
へたをすると、狂信家、凝り固まったオカルティストと変わらなくなってしまう危険性があります。
当人の知性、人格などが、きびしく問われ、正常な知性を疑われることになるでしょう。
少なくとも、私の学会発表体験では、アカデミックな催眠関連学会で、前世療法を正当な催眠療法として認知する、あるいはきちんと研究する動きはないと思うしかありません。白眼視されているのです。
また、生命情報科学会、日本サイ科学会など超常現象をまじめに探究する学会においても、生まれ変わりの科学的研究者は見あたらないようです。
したがって、そのような日本において、学会発表してみたところで、まともな議論ができるとは思われません。
私は、大学の研究者ではありませんから、学閥や学統のしばりを受けることなく、実践者としての自己責任で、「アカデミズムの白眼視など、どこ吹く風」とうそぶいて、我が道を行くことができる立場です。
④ 広く一般の人々の支持に訴える
唯物論信仰に深く汚染されていない、多くの人々は、反唯物論的現象への拒否反応も少ないようです。
むしろ、「チャネリング」、「ヒーリング」、「マヤ暦」などの流行に見られるように、唯物論にとらわれない柔軟な立場の動きは、ますます大きくなっているようにも思われます。
アカデミズムの威光からの離反も、かなり顕著になってきているような気配もあります。
ニューエイジャーの人々の言うように、人類は意識革命をしつつあるのかもしれません。
そうした動きと連動する道を探るという戦略です。
ただし、③と同じく、へたをすると「怪しい霊能者」と変わらなくなるでしょう。そこに一線を引くのは、誰もが納得できる「事実」に立脚した議論を第一義とすることです。
そして、生まれ変わりに関する、実証なき千万の教説より、たった一つの実証の事実に依って立つ立場を信条にしています。
前世療法を擁護したい人、特に実践者は①の立場を堅持してもらいたいと願うのですが、現実にはめったに実証性のあるデータは出てこないかもしれません。しかし、①のデータが完全でなくとも、ある程度の納得のできる実証が確認できれば、それを根拠に、③や④の戦略も、また有効性を持つはずだと思います。
特に言いたいことは、③の道において、私が明確に表明しているように、「死後存続仮説(生まれ変わり仮説)」」を受け入れる」という立場は、サイキカル・リサーチや超心理学、特にスティーヴンソンの研究が蓄積されている現在、まったく「理性を疑われる」ようなものではなくなっているのではないかということです。
つまり、ちゃんと先行研究を勉強すれば、論拠は十分にあるよ、と言えるようになるはずだと思います。
逆に、態度を留保し、明確な立場表明の回避を重ねている(あるいは人生論ないし思想という安全地帯に逃げている)一部の「前世物書き」、しかも実証の努力もしていない人々は、不徹底なのではないかと思います。(それぞれ立場や事情もあり一概に非難できないでしょうが)。
また、④の道を探れば、あまり細かいことを言わずに、「何でもあり」でやってみる、前世体験をしてみたい人にどんどんやってあげて、納得する人が少しでも増えればOKというのもありかな、と思っている次第です。
私が、『前世療法の探究』、『生まれ変わりが科学的に証明された!』の2冊を出版し、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の二つをアンビリバボーで放映することを決意し、今また自主制作映画『催眠・魂・生まれ変わりの真実』の上映会を各地で催してもらっているのは、③④の戦略を念頭においているものです。
このブログを立ち上げたのも同様の動機からです。うれしいことに、平均毎日500アクセス前後の人々がおいでくださいます。
そして、今後、「ラタラジューの事例」証拠映像の英訳版を、動画で海外に発信していく予定です。
そして、英訳にすでにとりかかってくださっている協力者がおいでになります。
そもそも、SAM前世療法の作業仮説そのものが、霊的存在を名乗るものが教えたことですし、彼らが繰り返し告げていることは、「生まれ変わりの事実(霊的存在の実在を含めた霊的真理)」を広めよ、ということなのです。
※注 この記事は、かつて高森光季氏が提案されたものに手を加えたものです。

2013年4月1日月曜日

生き霊?との対話

この奇妙なテーマは、実際のセッションのできごとです。
まずは、「生き霊」という概念についてウィキペディアの記事を引用してみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており、多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されている]。広辞苑によれば、生霊は生きている人の怨霊で祟りをするものとされているが 、実際には怨み以外の理由で他者に憑く話もあり(後述)、死の間際の人間の霊が生霊となって動き回ったり、親しい者に逢いに行ったりするといった事例も見られる 。

古典文学では、『源氏物語』(平安時代中期成立)において、源氏の愛人である六条御息所が生霊となって源氏の子を身籠った葵の上を呪い殺す話がよく知られている。また、『今昔物語集』(平安末期成立)27巻20話に、辻で立っていた女が実は夫に離婚された近江国の女房の生霊だったというものがある。

憎らしい相手や殺したい相手に生霊が憑く話と比べると数が少ないが、相手に恋焦がれるあまり、その想いの強さが生霊となって恋する相手に憑く話もある。江戸中期の随筆集『翁草』56巻「松任屋幽霊 」では、享保時代に京都のある男性に近所の女性が恋をして、あまりに強い想いが生霊となって彼に取り憑き、想いを囁いたり男の体を激しく動かしたりし、男が散々悩まされた挙句に病の床に臥せってしまったという話がある 。

『曾呂利物語』より「女の妄念迷ひ歩く事」 
また、寛文時代の怪談集『曾呂利物語』では、ある女性が眠っている間に、その生霊が抜け首となってさまよい歩き、道端で男に追いかけられ、眠りから目覚めた後に「外で男に追いかけられる夢を見た」と語っており、かつて夢とは生霊が遊び歩いている間に見ている光景と解釈されていたことが窺える
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、ここで紹介する奇妙なセッションに登場する人物は次の3名です。
①会社員で20代半ばのクライアントA子さん。
②職場同僚でA子さんの恋人B男君。
③職場同僚で生き霊を飛ばしていると思われるC子さん。
クライアントA子さんの主訴は、恋人B男君と一緒にいるときに、突然、別人格のように変身して(憑依様の状態)、B男君を非難することの改善でした。セッションには、同行したB男君が同席しました。
突然、別人格のように変身して憑依様の状態が、かなり頻繁に起こる、という心理現象にはいくつかの可能性が考えられます。
①統合失調症(精神分裂病)の症状である妄想
②解離性同一性障害(多重人格)の副人格の顕現化
③未浄化霊の憑依
④前世人格の顕現化
⑤生き霊の憑依
⑥無意識的理由によって別人格に変身する役割演技
事前のカウンセリングによって、①②など精神疾患の所見のないことは確認できました。ただし、精神疾患が隠れている可能性を疑って、催眠誘導には細心の注意を怠らないように慎重を期しておこないました。
催眠によって、潜在意識下に抑圧していたマイナス感情が噴出して(蓋開け効果)、コントロール不能になる畏れがあるからです。
A子さんの催眠感受性は良好で、異常の兆候はなく、魂の自覚状態まで順調に誘導できました。
しかし、魂状態の自覚に至って、顕現化した存在は、なんと、A子さんの職場の同僚で先輩C子さんの生き霊であると名乗ったのです。A子さんとC子さんは、同僚以上の親しい人間関係はないということです。
憑依している生き霊は、同席しているB男君を名指しで次のように罵り始めました。このとき、閉眼し催眠中であったA子さんは、薄目を開けてB男君を指さし、不気味とも思える表情をしていました。
「おまえ(B男)は、ほんとうはこいつ(A子)より、わたし(C子)のほうが綺麗だと思っているんだろう。な、なっ、ほんとうことを言えよ。私(C子)が綺麗だって言えよ」
「おまえ(B男)は、私(C子)を抱きたいと思っていたんだろう。ほんとうのことを言えよ」
「嘘つけ!ほんとうのことを言えよ。ほんとうは私(C子)を抱きたいと思ってたんだって言えよ!」
「私(C子)は、絶対、こいつ(A子)を許さないからな。おまえらの仲を必ず裂いてやるからな」
「私(C子)は、こいつ(A子)を、絶対自殺に追い込んでやるからな。殺すからな。絶対許さないからな」
生き霊を名乗る存在が顕現化したのも初めてのことですが、そうした存在が口頭で話すという現象も初めてのことで、私は驚くと同時に、どのようにしてこのセッションを終結したらよいのか混乱してしまいました。
解離性同一性障害のセッションと、インナーチャイルドのセッションから、「意識・想念」が、一個の人格としてふるまうような存在を作り出すらしいことは承知していましたから、このC子さんの生き霊に対しても、一個の人格として対話するしかないと腹を決めて、その後のセッションを展開しました。
まず、この生き霊が、なぜこのようなすさまじい憎悪と怨念をA子さんにぶつけてくるのか、その理由を問い質してみました。
生き霊が語る理由は、次のような事情でした。
前世で、A子さんは花魁であった。そしてその花魁に入れあげて妻子ある男が家庭を放棄した。その男の妻こそ現世のC子さんであった。
捨てられた妻(C子の前世)は、夫を迷わせ奪った花魁(A子の前世)を憎み、刺し殺して恨みを晴らした。
こうした前世の経緯をもつA子さんとC子さんが、ふたたび現世で再会し、しかも同じ職場の同僚として出会った。しかも、同僚のB男君は、最初C子さんに好意を示して接近しておきながら、後から就職してきたA子さんに乗り換えて、恋愛関係を結んでいる。C子さんにしてみれば、前世で夫を奪われ、今度は現世でもC男君を奪われ、恨み骨髄に徹しているということらしい。
こうして、C子さんの生き霊が、A子さんに憑依して、恨みを晴らそうということらしい。
ここまで分かったところで、私の思いは、この生き霊を説得して、おだやかにC子さんの元へ帰ってもらうことでした。生き霊というからには、浄霊して光の世界(霊界)へ送り出すことはできないでしょうし、生き霊を飛ばしているC子さんの元へ帰ってもらうしかないだろうと思われたからです。
生き霊祓いという強制措置は、最後の手段であって、祓ったからといって事が収まるとは思えなかったからです。C子さんが生きているかぎり、また生き霊の憑依現象が再発することが当然起こりうると考えられるからです。
また、私は、こうした生き霊の語りを聞くうちに、怨念へのおぞましさより、生き霊の心情に共感し、あわれに思う気持ちが湧いてきたからです。好いた男に対する深情け、その裏返しとしての奪った女への憎悪という女心をいとおしく思いました。
「あなたのC子を恨む気持ちはよく理解できた。しかし、あなたは前世で、夫を奪った花魁である前世のA子を殺して恨みを晴らし、帳消しにしたはずではなかったか。それを現世でふたたび、A子を殺すという同じことを繰り返すとしたら、C子の魂が成長するために生まれ変わった甲斐がないではないか。このような理不尽なことを、神が許されるとは思われない。あなたが、生き霊として、これ以上A子に害を為すというなら、あなたに生き霊祓いをすることになる。そのようなことをすると,C子は衰弱すると聞いている。そのようなことはどうしても避けたい。今後A子は、C子に悪意の感情を向けないという約束で、どうか憑依を解いてC子の元へおだやかに帰ってもらえないだろうか。約束が守られないときには、またあなたが憑依することはやむをえないと思っている」
ざっと以上のような説得を繰り返したところ、生き霊はやっと帰ることを約束してくれました。
その後、人格交替のような憑依様現象は収まったという報告を受けています。
また、C子さんには衰弱の気配はなく、逆にA子さんがエネルギーの減退を感じているということでした。
A子さんによれば、彼女はエンパスと呼ばれる他者の自分に向けられる想念を敏感に感知してしまう体質らしく、それまでC子さんが自分に向けている理由不明の悪感情を感じ続けていたということでした。
ちなみに、A子さんは美形というにふさわしいクライアントでしたが、C子さんもA子さんに劣らぬ美形だということでした。
この奇怪なセッションをどう解釈するかはなかなか難解な問題です。
意識現象としての生き霊の顕現化は事実ですが、果たして生き霊の憑依か否かの真偽を客観的に検証することは不可能です。
私は最初、A子さんは、恋人B男君がC子さんに想いを寄せていたことを知っているので、無意識的に生き霊の役割を演じて、B男君のC子さんへの未練の有無を試していることを疑いました。
深層心理学的解釈をするのであれば、そのようなことになるでしょう。
しかし、生き霊のすさまじい憎悪と怨念を、B男君の前で吐露すれば、B男君のA子さんへの恋愛感情が萎えてしまうのではないかと思われます。そのような憑依体質の恋人をもつことをためらうような気がします。
また、役割演技をしていることを疑われるとしたら、そこまでして疑り深いA子さんに興ざめするかもしれません。
そのようなマイナス面を覚悟してまで、役割演技をする利得があるとは考えにくいのです。
こうした生き霊現象を、精神科医であれば、統合失調症、あるいは解離性同一性障害を疑うことはほぼ間違いないと思われます。
憑依様現象を何度も体験しているセッション当事者の私は、唯物論的解釈を停止して、ありのままの意識現象の事実として、生き霊の顕現化現象として、とりあえずは認めておくしかないだろうと思っています。

2013年3月12日火曜日

SAM前世療法の治癒構造とその検証事例

どんな心理療法であれ、治癒構造の説明というものは絶対的な実証ができるわけではなく、仮説にすぎません。
SAM前世療法においても、その事情は同様です。したがって、ここで述べることも、当然、暫定的な仮説でしかありません。
それでは、わたしが現時点でSAM前世療法の治癒構造をどうとらえているのか、実践者としての実感的考えを述べてみたいと思います。

SAM前世療法では、魂の表層は前世のものたちによって構成されており、それらのものたちが意識・潜在意識をつくり出している、というわたしあて霊信が告げた作業仮説にしたがって、潜在意識をひたすら深め、それを作り出している源である魂の自覚まで導きます。

魂状態の自覚に至ったことが確認できれば、魂の表層に存在し、主訴に関わっている前世のものを呼び出します。
こうして顕現化した前世の人格とセラピストは対話し、クライアントの顕在意識(モニター意識)は、前世人格の訴えるその苦しみや悲しみを共体験しながら傾聴します。

こうした対話によって、前世人格が苦悩を語ることによって癒しを得ると同時に、前世人格とつながっている現世のクライアントは、自分の症状について「ああ、そうだったのか!」という感情を伴った納得(洞察)へと至ります。

こうして、前世人格の癒しに伴ってクライアントの主訴も連動して改善が起こるのだ、というのが、SAM前世療法による治癒の基本原理だと考えています。

このことつまり、こうした治癒原理そのものは、通常のカウンセリングと何ら変わりがないものです。ただカウンセリングの対象が生身の人間ではなく、肉体を持たない前世人格(死者)であるという点に違いがあるだけです。

したがって、セラピストは、クライアントと面接しているのではなく、クライアントの前世の人格と面接しているのだ、という明確な自覚のもとでセッションを進めることになります。
非常に信じがたい奇異なセッションに映るでしょうが、SAM前世療法の作業仮説からしてみれば、当然の論理的帰結であり、クライアントの意識現象として現れる確かな事実です。

セラピストは、数百年前に人生を終え、当時のままの苦しみや悲しみの感情に苦悩しながら、今も魂の表層に意識体として生き続けている前世の人格と対面する、というわけです。

19世紀末まで生きたラタラジュー人格もこうして顕現化し、ネパール語で会話したのです。
ラタラジューが真性異言で会話した事実は、彼が、けっして里沙さんの作り出した架空の人格ではないことを証明しています。
架空の人格が真性異言を話せるはずがありません。
ラタラジューはネパール人として生きたことがあり、死後も魂の表層に生きているからこそ、ネパール語で会話できたのだと考えざるをえません。

こうした検証事実から、魂の表層には今も前世の人格が生きて存在している、という霊の告げた作業仮説は正しい可能性があると思われます。
その一つの証拠が、ラタラジューと対話相手カルパナさんの次のようなネパール語会話です。

ラタラジュー人格: Tapai Nepali huncha?
            (あなたはネパール人ですか?)
 
対話者カルパナ: ho, ma Nepali.
           (はい、私はネパール人です)

ラタジュー人格: O. ma Nepali.
           (ああ、私もネパール人です)

この会話のラタラジューと名乗る人格は、カルパナさんに対して、明らかに、ただ今、ここに現れて、問いかけています。
前世人格ラタラジューは、今も生きており、顕現化して現在進行形で問いかけているとしか考えられません。こうした事実から、里沙さんが、ラタラジューという前世の記憶を想起して語っているという説明は成り立たないのです。

それでは、前世人格が顕現中のクライアント自身の意識状態は、どうなっているのでしょうか。これは治癒構造の根本に関わる重要なポイントだと思われます。

既に紹介してきた里沙さんの手記からも分かるように、セッションの進行をモニターしているクライアントの意識は明瞭にあります。
つまり、前世人格の意識と現世人格のモニター意識が、併存状態のままでセッションが進行・展開していくということです。
クライアントの意識は、セラピストと前世人格の間で交わされる対話を聞いている第三者的オブザーバーの立場で、セッションに参加・同席していると理解してよいと思われます。

こうして、SAM前世療法においては、セラピスト対前世人格の間で交わされる対話、そこに同席しモニターしている現世人格の意識という「三者的構図」になっていると言えるでしょう。

カウンセラーの質問に対して発話するのは前世人格です。前世人格は、クライアントの肉体つまり、発声器官を用いて発話することになりますから、モニター意識からすると、勝手に、あるいは自動的に発話がされているという自覚を持つことになります。
それは前世人格が、悲嘆の場面に直面化したときに涙を流すという場合についても同様です。前世人格がクライアントの涙腺を用いて涙を流すことになりますから、モニター意識はそれを自分が流している涙であるという自覚を持てないことになるのです。

ただしここで重要なことは、モニター意識は、単なるオブザーバーではなく、前世人格の苦悩やそれが癒されていく感情を、まさに自分のことのようにまざまざと共感的に理解しているということです。
つまり、前世人格の意識とモニター意識は、完全な分離状態として併存しているわけではなく、分離していると同時に強い一体感も持っている、ということです。

魂の生まれ変わりという視点から見れば、現世のクライアントは前世の生まれ変わりの結果ですから、別人格とはいえ、両者の意識は切っても切れない絆で密接につながっているはずで、同一性の感覚があるのは当然でしょう。

こうして、クライアントのモニター意識が、前世人格の語る苦悩の感情と、語ることによってもたらされる癒しの感情を共体験し、その前世人格の苦悩が潜在意識として現世の自分の意識に流れ込んで心理的諸症状(ときには肉体的症状)を引き起こしていたということ、を洞察するに至ると、それらの症状が改善に向かう、というのが現時点でわたしの考えている暫定的な基本的治癒構造です。

たとえば、77歳の男性クライアントの主訴は、端からみれば些細と思われる不誠実な行為に対して、激しい怒りが沸騰し、加齢とともにそれがだんだん激しさを増している、という主訴によってセッションをおこないました。
そこ
で顕現化した前世人格は、信長と敵対していた摂津の20代の若い領主でした。信長に対抗するために同盟を結んでいた大名の裏切りにより謀殺されたという事情を語りました。信頼していた同盟者の裏切りを絶対許すことができない、謀殺されていかにも無念である、と苦悩を訴えました。
魂の表層にあって、この謀殺された領主の人格が現世のものにその怒りを訴え続けていたわけです。
この前世人格の影響を受けて、不誠実な行為に対する怒りの沸騰現象を起こしていることを洞察したクライアントは、セッション1ヶ月後にはそうした怒りの爆発を意識的に抑制できるようになった、との報告をセッションに同席した奥様より報告を受けています。
おもしろいのは、覚醒後このクライアントが、「摂津とはどのあたりですか?」と尋ねたことです。ご本人が語ったにもかかわらず、摂津という語の意味するところが分からないというのです。

このように、前世人格の影響によって起きている様々な意識現象の諸事実の累積は、かなりの事例数にのぼります。

不都合な心理的諸症状や性格特性は、前世人格の持つ体験が多かれ少なかれ影響をもたらしている、という多くのクライアントの示す意識現象の事実を無視することはできません。

こうしたことから、人格の形成には、遺伝と環境に加えて、前世人格の体験という第三の要因を考えるべきではないかという提案は、あながち的外れの誤りではないと思われます。

理由不明な、各種恐怖症、強迫観念、変わった能力、変わった性癖などは、深層心理学的な、精神分析的な、回りくどい唯物論による解釈を持ち出さなくとも、前世人格のそうしたことに関わる具体的状況を探り、それに照らして理解したほうが、すっきりと解釈できることは確かです。
そうして、節減の原理にもかなった説明だと思われます。

実際に、主訴に関わる前世人格の心的外傷を癒すことによって、少なからぬクライアントの諸症状の改善が連動して起こる事実は否定できません。

生まれ変わりを認めることは、人間の性格特性や特異行動を説明するうえで、従来の心理学上の様々な考え方で解釈するよりも、より説得力があるように思われます。
もちろん、現世の不都合な諸症状や特異能力すべてを、前世からの影響に還元することは、安易な、短絡的な一般化として戒めるべきでしょうが。

今後、多くの諸事例をさらに検証し、累積し、分析をしていけば、現行の人格形成の理論的枠組みに、前世人格による要因を加えるなどの検討を迫ることになるかもしれないと思われます。
生まれ変わりの科学的研究の泰斗、バージニア大学精神科教授イアン・スティーヴンソンが、自分の研究室を、「超心理学研究室」から「人格研究室」に改称したというのも、以上述べてきたような考え方によるものかも知れないと思っています。
彼が存命中であるのなら尋ねてみたいものです。

2013年3月4日月曜日

超ESP仮説によって応答型真性異言は説明可能か

前ブログのコメント欄が膨大な議論の書き込みによって膨張しました。管理人としてはうれしいかぎりですが、ここであらたにタイトルを設けて、超ESP仮説で応答型真性異言が説明できるのかどうか、について私の現時点の見解を述べてみます。
もし、超ESP仮説によって応答型真性異言を説明するとすれば、「ラタラジューの事例」は、被験者里沙さんが、どういうわけか、催眠中に限り(覚醒時に里沙さんがESPを発揮した事例は皆無である)、無意識的に、万能の透視能力やテレパシー能力を、瞬時に発揮し、駆使した結果、瞬時にネパール語会話技能を取得し、ラタラジューという一昔前に私用された名前をはじめ、カトマンズ市民ですら知る者のほとんどいないナル村の名前、ナル村村民の食べ物、棲息するヒル、ヒマラヤを望む山上での火葬などの諸情報を、瞬時に取得し、架空の前世人格ラタラジューを演じた(ふりをした)ものだ、ということになります。つまり、里沙さんという生者の持っている「心の力」で、すべて説明可能であり、前世人格の顕現化現象、あるいは生まれ変わりなどは完全にフィクションであり、生まれ変わりの事実などはまったく「無い」ということになります。
さて、超ESP仮説の打破に挑んだのが、ヴァージニア大学精神科教授で、現代における超心理学の泰斗、そして「生まれ変わり研究」の先駆者として知られる故イアン・スティーヴンソンです。
スティーヴンソンが着目したのは、もし、ESPによって取得不可能なものであれば、それは超ESPであろうとも取得が不可能である、という事実でした。少し長くなりますが、彼の着目点を引用してみます。
デュカス(注 カート・ジョン・デュカス、哲学者)は、本来、霊媒は他人の持つあらゆる認知的情報をESPを介して入手する力を持っているかもしれないことを原則として認めているが、その情報を本来の所有者と同じように使うことはできないと考える。デュカスによれば、霊媒は、テレパシーを用いてラテン語学者からラテン語の知識をすべて引き出すこともあるかもしれないが、その知識をその学者の好みとか癖に合わせて使うことはできないのではないかという。以上のことからデュカスは次のように考える。もし霊媒が、本来持っているとされる以外の変わった技能を示したとすれば、それは何者かが死後生存を続けている証拠になるであろう。もしその技能が、ある特定の人物以外持つ者がない特殊なものであれば、その人物が死後も生存を続けている証拠となろう。・・・技能は訓練を通じて初めて身につくものである。たとえばダンスの踊り方とか外国語の話し方とか自転車の乗り方とかについて教えられても、そういう技能を素早く身につける役には立つかもしれないが、技能を身につけるうえで不可欠な練習は、依然として必要不可欠である。ポランニー(注 マイケル・ポランニー、科学哲学者)によれば、技能は本来、言葉によっては伝えられないものであり、そのため知ってはいるが言語化できない、言わば暗黙知の範疇に入るという。もし技能が、普通には言葉で伝えられないものであるとすれば、なおさらと言えないまでも、すくなくとも同程度には、ESPによっても伝えられないことになる。(スティーヴンソン「人間の死後生存の証拠に関する研究ー最近の研究を踏まえた歴史的展望」笠原敏雄編『死後生存の科学』PP.41-43)
ESPである透視・テレパシーなどによって、取得可能なのは、あくまで「情報」です。
そしていくら情報を集めても、実際にかなりの訓練をしない限り、「技能」の取得はできません。自転車の乗り方をいくら本や映像で知っても、自転車に乗ることはできないように、たとえば言語も情報による伝達だけでは「会話」まではできないはずです。つまり、「超ESP」によっても、「外国語の会話能力」までは獲得することができないわけです。
したがって、ある人物が、前世の記憶を、その前世での言語で語り、かつ現世の当人がその言語を学んだことがないと証明された場合には、超ESP仮説は適用できず、生まれ変わりが最も有力な説明仮説となる、とスティーヴンソンは考えたのです。
そして、前世記憶を語る中には、ESPによる「情報取得」では説明できない、学んだはずのない外国語での会話を実際に示す事例が、きわめて稀ですがいくつか報告されています。これを「真性異言」と呼びます。
「真性異言」(xenoglossy ゼノグロッシー)とは、フランスの生理学者で心霊研究協会の会長も務めたシャルル・リシェの造語で、本人が習ったことのない外国語を話す現象のことを言います。『新約聖書』などにも「異言」(glossolaria グロッソラリア)という現象が記述されていますが、「真性異言」は、その言語が特定の言語であることが確認されたものです。このうち、特定の文章や語句だけを繰り返すものを「朗唱型真性異言」、その言語の話者と意味のある会話ができるものを「応答型真性異言」と呼びます。
さて、真性異言のうち、「朗唱型真性異言」は、「情報」ですから超ESPによって取得が可能と言えます。
しかし、意味の通った会話ができる「応答性真性異言」は、そうではありません。言語を自由に話せるというのは、「技能」であり、いくら単語や文型の情報を集めても、実際にかなりの訓練をしない限り、応答的会話は可能にはなりません。自転車の乗り方をいくら本や映像で知っても、自転車に乗ることはできないように、言語も情報による伝達だけでは技能である「会話」まではできないのです。つまり、「超ESP」によっても、「外国語の会話能力」は取得できないことが明白です。
こうして、ある人物が、前世の記憶を、その前世での外国語で語り、かつ現世の当人がその言語を学んだことがないと証明された場合には、超ESP仮説は適用できず、生まれ変わりを最も有力な説明仮説として採用せざるをえないということになります。
生まれ変わりの証拠である応答型真性異言は、スティーヴンソンが20年にわたって世界中から収集し精査した2000余りの生まれ変わり事例の中で、わずか3例にすぎません。
「イェンセンの事例」と、「グレートヒェンの事例」、および「シャラーダの事例」です。
イェンセンとグレートヒェンの事例は、催眠中に偶発的に前世人格が出現したもので、前者はスウェーデン語、後者はドイツ語で、短い会話によるやりとりが記録されています。
シャラーダの事例は、覚醒時に前世人格が出現し、きわめて長い会話で流暢に受け答えし、歌まで歌っています(『前世の言葉を話す人々』春秋社)。
スティーヴンソンの報告以外に信頼できる事例として、数名の科学者によって調査され、覚醒時にスペイン語で流暢な長い会話をした「ルシアの事例」の調査報告があります(心霊現象研究協会 (The Society for Psychical Research)。
つまり、世界中で信頼にあたいする応答型真性異言の事例は4例発見されており、そのうち2例が催眠下で起こった事例ということになります。
さて、こうしたスティーヴンソンの応答型真性異言研究(生まれ変わりの実証研究)は、きわめて綿密な調査と、公正で慎重な検証によって、他の領域の一流科学者たちにも説得力をもって認められつつあるようです。
たとえば、有名な天文学者カール・セーガンは、「時として、小さな子どもたちは、調べてみると正確であることが判明し、生まれ変わり以外には知りえなかったはずの前世の詳細を物語る」という主張は、「真剣に検討する価値がある」(『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』P302)と述べています。
また、行動療法の創始者ハンス・アイゼンクは、「スティーヴンソンの著作を何百ページも読み、スティーヴンソンとは別個に研究が始められているのをみると、真にきわめて重要なことがわれわれの前に明らかにされつつあるという見解からむりやり目を逸らせることは、誠実であろうとする限りできない」(Eysenck & Sargent, Explaining the Unexplained, Prion, 1993. いずれも、『生まれ変わりの刻印』笠原敏雄・訳者後記)と述べています。
そして、技能である応答型真性異言こそが生まれ変わりの最有力な証拠だ、とするスティーヴンソンの研究を、科学的・実証的に反証し、論破した研究はいまだに提出されてはいないのです。
このこと、すなわち、応答型真性異言こそは、超ESP仮説を打破できたことが認められたということを意味します。ひいては、応答型真性異言こそ、生まれ変わりを証明する科学的証拠としてついに認められたことになります。
超ESPという途方もない万能の超能力者が発見されておらず、超ESPそのものの実証がない時点で、超ESP仮説によって会話技能である応答型真性異言という現象まで説明できるなどの主張は、生まれ変わりの事実を絶対に認めたくないがためのこじつけだと私には思えます。そして、超ESP仮説を持ち出して、ラタラジューの応答型真性異言を説明できるとすることのほうが、生まれ変わりを認めることより奇怪なことだと私には思われます。