SAM催眠学序説 その21
「ラタラジューの事例」について、これまで「応答型真性異言」、すなわち、被験者里沙さんが現世で学んでいないネパール語という異言で会話してきたことの立証をしてきました。
私は、応答型真性異言である事実をもって、生まれ変わりの立証だと考えます。
それに加えて、ラタラジューの語り内容を検証し、語った事実とその検証事実が一致すれば、生まれ変わり仮説はさらに補強されると思います。
なぜなら、個々の語り内容が事実と一致しても、それだけではただちに生まれ変わりの証明にはならず、超ESP仮説が適用される余地があるからです。
①ナル村の実在について
ラタラジュー人格が最初に現れたた2005年6月当時のグーグル検索では「ナル村」はヒットしませんでした。
このことは、拙著を読んだ大門教授も、同様に検索しておりヒットしなかったことを確認しています。したがって、初回セッション時に里沙さんがネット検索によって「ナル村」を知っていた可能性は排除できます。
ところが、2回目の実験セッション直後の2009年5月21日に、念のためグーグルで再度検索したところヒットしたのです。
それは青年海外協力隊の派遣先としてナル村が掲載されていたからでした。
その記事によれば、カトマンズから直線で南方25キロの距離にある小さな村でした。
そのローマ字表記のNalluで検索すると、ナル村は、ゴルカ地方に隣接するラリトプール地方のカトマンズ盆地内にあり、1991年の調査によれば、320世帯1849名、村民の言語の97%はタマン語であることが分かりました。
ラタラジューが日本語で語った「カトマンズに近い」、ネパール語で語った「父はタマン族」にも符合し、ナル村はこの記事の村だと特定できると判断できます。
私が現地調査を依頼した、ネパール在住のソバナ・バジュラチャリヤ博士(文化人類学)、ディック・バジュラチャリヤ氏夫妻の現地調査によれば、ナル村は海抜1800メートル、カトマンズ中心部から南へ34キロ(車で2~3時間)にあり、2010年現在、人口2,277人、420世帯の四方を山に囲まれた寒村でした。
人口の97%を占めるタマン族の90%以上が仏教徒、7%以上がヒンズー教徒であるということです。
自動車を用いると、未舗装の狭い山道を命がけで目指すという僻地にあり、観光客のけっして寄り付くような場所ではないということでした。
②ナル村の沼地とヒルの棲息について
ラタラジューは、初回セッションで、ナル村の自然環境について、「沼地・・・虫虫!」と言うので、「虫がいますか。刺しますか?」と尋ねたところ、頷きながら「ヒル」と答えています。
おそらく虫とはヒルを指していると思われます。
ソバナ博士の現地調査では、ナル村には湿地が点在し、ヒルが相当多く棲息しており調査に同行した夫君ディパック・バジュラチャリヤ氏が、油断している隙に靴下に潜り込んだヒルに刺されたという報告がありました。
このナル村のヒルは、日本のものより一回り大きく、尺取り虫のような動き方をするヒルでした。
海抜1800mのナル村に、ヒルが棲息していることが私には驚きでした。
しかし、ラタラジューの言ったことが事実であることが検証できました。
③食物「ダル(豆のスープ)」と「コド(キビなど雑穀)」「トウモロコシ」について
「ダル」は、グーグル検索で「ダルチキンカレー」としてヒットしました。
「コド」はグーグルでもウィキペディアの検索でもヒットしませんでした。
ソバナ博士の現地調査によれば、コドはかつては主食であったが、現在は朝食かおやつとして食されているということでした。
豆のスープであるダルは、現在も炊いたご飯とともに主食になっているということです。
2005年の初回セッションで出てきた「トウモロコシの粉」については、現在もトウモロコシを使った料理が多いということでした。
また、50年ほど前までは、キビ・ヒエ・アワ、米などを栽培していたということですが、現在ではトウモロコシと野菜が中心作物になっているということです。
ラタラジューの食物についての語りの内容が、事実と一致していることが検証できたということです。
④ナル村での死者の扱いについて
ラタラジューは、死者を山に運び火葬にすると回答しています。
ソバナ博士の目撃調査によれば、遺体はヒマラヤが望める山の上まで運び、ヒマラヤに頭部を向けて安置し、頭蓋骨の一部以外すべ灰になるまで燃やし、頭蓋骨と灰を地中に埋納した後、しばらくして掘り出し、川に流すということです。
ここでも、ラタラジューの語りが事実と一致していることが検証できました。
ちなみに、ナル村には墓を建てる習慣がなく、墓石から死者の名を割り出すことは不可能でした。
また、ラタラジューが、「寺院に行くか」と尋ねられ「はい」と答えたように、ナル村には修復中の小さな寺院があることが確認されました。
ただし、それがいつごろから存在していたかは確認できませんでした。
⑤里沙さんの想起した風景スケッチ画の照合について
里沙さんは、ラタラジューの真性異言実験セッションの後、たびたびナル村らしい風景がかなり鮮明にフラッシュバックするようになったと言います。
そこで、その風景を想起するまま描いてもらってありました。
その風景スケッチ画は、画面右側に草の茂る湿原、左側に大きな池とそこに流れ込む小川があり、その小川をまたぐ木の小さな橋があり、橋を渡る小道が緩く曲がって伸び、背景にはさほど高くはない、重なり合う3つの山が見えるという構図でした。
アンビリバボーのナル村取材チームは、このスケッチ画を持ってナル村入りし、村内でこのスケッチ画の風景にほぼ一致する場所を特定しましたが、大きな池は存在しませんでした。
村民によれば、ナル村には絵にあるような大きな池はないということでした。
しかし、さらに詳しく調査した結果、30年ほど前には絵に描かれた場所に同じような大きな池が確かに存在し、その池は大洪水によって消滅していたことが確認できたのです。
スケッチ画の絵の風景構図と実際のナル村の風景構図のほぼ正確な一致は、単なる偶然では片付けられないように思われます。
また、このナル村の風景や村民がコドなどを焼いている映像を視聴した里沙さんは、突然トランス状態に入ると同時にラタラジュー人格が現れる、というハプニングが起きてしまいました。
こうした事実を重ね合わせてみますと、ラタラジューの語ったナル村は、現地調査をおこなったナル村であると特定して間違いないと思われます。
⑥Shah(シャハ王朝)とラナとの関係について
ネパール語で対話する前の私との日本語対話で「・・・戦いました・・・ラナ・・シャハ・・・ラナ、戦いをした」とラタラジューは語っています。
また、カルパナさんのネパール語対話でも「ラナ」という単語を4度発語しています。
シャハ王朝とラナ、および戦いとの関係はいったいどのようなことが推測できるのでしょうか。
シャハ王朝は、1768年に始まり最近廃絶した王朝です。
そのシャハ王朝で、1846年以後1951年まで、ネパールを実質支配する独裁権力を振るった宰相家が「ラナ家」です。
ラナ家が独裁権力を握るために、1846年に有力貴族を次々殺害するという流血の権力闘争がありました。
また、1885年にはラナ家内部で流血クーデターが起きています。
一方、タエが人柱になったのは1783年(天明3年)です。
それ以後にラタラジューとして生まれ変わったとされているのですから、彼がシャハ王朝とラナ家を知っていることに矛盾はありません。
したがって、ラタラジューが発語した「ラナ」とはネパール宰相家の「ラナ家」だと推測して間違いないと思われます。
とすれば、彼が「戦いました」という語りは、ラナ家がシャハ王朝内の独裁権力を掌握するための1846年の権力闘争あるいは、ラナ家内部の1885年のクーデターに際して、ラタラジューが傭兵として闘争に参加していることを意味していると推測されます。
さらにうがった推測をすれば、カルパナさんとのネパール語対話の中で「30歳」という年齢を答えた直後に、それに触発された記憶であるかのように「ラナ、ラナ」と発語していますから、ラナ家に関わる闘争への参加はラタラジューが30歳の時だと推測することが可能でしょう。
加えて、彼は若い頃カトマンズに住んで戦ったとも言っています。
また、30歳で戦いに参加したとすれば、里沙さんの守護霊とおぼしき存在の「ラタラジューは・・・若い頃人を殺しています」という語りにも符合することになります。
そのように仮定し、ラタラジューが30歳のときにラナ家の権力闘争に傭兵として参加し、彼が78歳で死亡したとすると、彼の生年・没年は、1846年の闘争参加なら1816年~1894年、1885年の闘争参加なら1855年~1933年となります。
里沙さんは1958年生まれですから、いずれの生年・没年でもは矛盾しません。
ソバナ博士の調査によれば、シャハ王朝が傭兵としてタマン族の青年たちを用いていたことは間違いない事実であるが、どのクーデターのときにどれくらいのタマン族傭兵が参加していたかという数字については定かではないという報告でした。
特筆すべきは、上記の推測を前提とすれば、タエ→ラタラジュー→里沙さんという生まれ変わりの間隔が特定できたということです。
つまり、タエの死亡1783年(天明3年)、ラタラジューの誕生1816年、ラタラジューの死亡1894年、里沙さん誕生1958年ですから、タエからラタラジューの生まれ変わり間隔は33年、 ラタラジューから里沙さんへの生まれ変わり間隔は64年ということになります。
または、ラタラジューの誕生1855年、死亡1933年とすれば、72年、25年の間隔で生まれ変わっていることになります。
私は、ナル村古老への聞き取り調査で、ラタラジューの情報が得られなかったことを考慮すると、前者の生まれ変わり間隔が妥当であろうと思います。
ラタラジュー死亡が1894年だとすれば115年前の人物であり、1933年死亡だとすれば76年前の人物となり、当然100年以上前の古い人物の情報が残っている可能性が希薄になるからです。
いずれにせよ、タエとラタラジューという2つの生まれ変わりが、双方ともに検証可能なほど具体的に語られ、双方の死亡と誕生、つまり生まれ変わりの間隔の年数が特定できたという事例は、世界に例がないと思います。
こうして、ラタラジューがラナ家に関わる闘争に傭兵として参加していたのではないかという推測が成り立つための裏付けが検証できたということです。
⑨ラタラジューの実在証拠について
残る最後の検証は、ラタラジューのナル村村長としての実在証明ということになります。
ナル村で現地聞き取り調査をし、100年程度前の村長ラタラジューの記憶を持つ子孫あるいは住民を発見することです。
ラタラジューは自分を文盲だと語っていますから、自身が記録を残していることはあり得ないことになります。
ちなみに、2000年においてネパール人の識字率は、成人40%(女性20%)というデータになっています。
また、ネパール語と言っても単一の言語ではなく、公用語の外に50以上の言語があるとされています。
こうして、識字率の極めて低いであろう100年程度前のナル村村民が彼の記録を文書として残していることもほぼ絶望的ですから、子孫または古老の記憶に頼るしかありません。
あるいは、ナル村を統治した地方首長などが、文字記録として残しているものがあれば、それを発見することです。
この検証調査こそ、ソバナ博士に依頼した最大の目的でしたが、残念ながら現時点ではラタジューの実在を文字記録として確認するには至っていません。
ソバナ博士によれば、ネパールは1950年代以前の戸籍の記録のない社会であり、加えて1995年~2005年にかけて山村・農村の住民による反政府武装闘争が勃発、ナル村でも役場に保存されていた多くの個人情報の資料が焼かれたということです。
したがって、ナル村役場には村開発の企画書と投票者名簿以外の文書資料はなく、残りの資料は担当者が個人の家に持ち帰り散逸してしまっているので、資料からの調査は不可能な状態であるということでした。
また、34名の村の古老に聴き取り調査をした結果でも、ラタラジューおよび、その妻ラメリなど家族を知る確かな証言は得られなかったということでした。
聞き取り調査での証言の信頼性が保証されない理由として、みんな自分がラタラジューの子孫だと言いたがること、調査に協力すると何らかの利得があると思い込んでいるので嘘の情報を語っている可能性が疑われるからだということでした。
ただし、聞き取り調査の収穫がまったくなかったわけではありません。
38年前に80歳で死亡しているラナバハドゥールという長老は、若い頃には兵士であり、その後村に戻り、晩年はタカリ(長老)と呼ばれ、村の指導的存在だった、という確かな情報がその孫に当たる村民からの聞き取り調査で得られています。
つまり、ラタラジューの生涯に酷似した人生を送ったタマン族青年が実在していたということです。
この事実は、ラナバハドゥールが、青年時代を兵士として送った村長ラタラジューを知っており、それに倣って自分も兵士となり、その後帰村してラタラジューのように村の長老になったという可能性を示唆しているかもしれないからです。
つまり、ラナバハドゥールという人物の実在は、それと酷似した人生を送ったと語っているラタラジューが実在していても不自然ではないことを示しています。
前世人格ラタラジューは、応答型真性異言と、ナル村に関する語りの具体的事実に食い違いがないこととも相まって、その実在がきわめて濃厚だと判断してよいと思われます。
次回は、ラタラジューが、里沙さんの前世人格ではなく、里沙さんと関係のない憑依霊ではないか、という疑問についての見解を述べる予定です。
(その22へつづく)
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