SAM催眠学序説 その27
対話者カルパナさんは、顕現化しているラタラジュー人格の年齢を特定しながら対話しようとする意識がないようです。
質問の仕方について、セッション事前の打ち合わせが全くない状況ではやむをえないことですが。 したがって、カルパナさんの質問が、あいまいになりがちで、混乱がみられます。
同様に質問されているラタラジューにも、いったい何歳のときのことを問われているのか戸惑いと混乱がみられます。
注:略号KAはネパール人女性対話者カルパナさん、略号CLはクライアント里沙さん。
KA Tapai kaha basnuhunchare ahile?
(今、どこに住んでいますか?)
CL A .... ke?
(あ、何?)
注: 78年の生涯を持つラタラジューには、「今」とは何歳の時点を尋ねられているのか不明である。したがって、答えようがないということであろう。
KA Kaha basnuhuncha? Tapaiko ghar kaha ho?
(どこに住んでいますか? あなたの家はどこですか?)
注:78年の生涯を持つラタラジューには、何歳の時点のことを尋ねられているのか不明である。したがって、答えようがないというこであろう。
CL Tapai Nepali huncha?
※(あなたはネパール人ですか?)
KA ho, ma Nepali.
(はい、私はネパール人です)
CL O. ma Nepali.
※(ああ、私もネパール人です)
注:※のラタラジューの2つの発語は、きわめて重要である。魂表層から顕現化した前世人格ラタラジューが、ただ今、ここで、里沙さんの肉体を借り、カルパナさんに問いかけている、という現在進行形の会話をしているからである。前世のラタラジュー人格は、今も意識体として、魂表層に生きて存在しているというSAM前世療法の作業仮説を実証している、と考えることができる。被験者里沙さん(CL)自身が、自分の前世記憶を想起しているという事態は否定される。
KA Tapai kaha basnuhuncha? Tapai kaha basnuhuncha? Tapai ghar kaha ho?
(あなたはどこに住んでいますか? あなたはどこに住んでいますか? 家はどこにあります か?)
CL Ah. Bujina.
(あー、分かりません)
注:78年の生涯を持つラタラジューには、何歳の時点のことを尋ねられているのか特定されないと、どこに住んでいたのかと問われても「分かりません」としか答えようがないというこであろう。 あるいは、問われているネパール語が理解できないということか。
KA Bujnubhayena?
(分かりませんか?)
KA Tapai Gorkhama basnu huncha ki, tapai Kathmanduma basnu huncha ki, kaha
basnuhuncha?
(あなたはゴルカ地方に住んでいますか、それともカトマンズに住んでいますか、どこに住ん でいますか?)
CL Ah ... ah.. ah... bujina.
(あー、あー、あー、分かりません)
注:78年の生涯を持つラタラジューには、何歳の時点のことを尋ねられているのか特定されないと、「分かりません」としか答えようがないというこであろう。 あるいは、問われているネパール語が理解できないということか。 あとの会話にも出てくるが、ラタラジューには「ゴルカ地方」という概念がないようである。彼には「ゴルカ」とは「グルカ兵」の概念しかないようである。
KA Bujnubhayena?
(分かりませんか?)
KA Aru kehi cha tapailai bhannu parne kura?
(何か他に言いたいことはありますか?)
CL Kodo ... ah ... dado ... ah ... ah..
(コド、あー、ダド、あー、あー、)
注:「コド」とはキビなど雑穀を指す。コドはネット検索してもヒットしない。里沙さんが知り得ない食べ物と言える。
KA Tapai, bihana beluka ke khanu huncha tapaile gharma?
(家では何を食べていますか?)
CL Ah .. ah... Shiba ... e ... e ... dharma.
(シバ神、ええー、宗教)
注:ラタラジューは、家の意味gharma(グァーマ)を、宗教の意味 dharma.(ドゥワーマ)と聞き間違えていると推測される。
KA Dharma?
(宗教?)
KA Tapai mandir janu huncha?
(寺院には行きますか?)
CL Ho.
(はい)
KA Mandir janu huncha?
(寺院に行きますか?)
CL Ho.
(はい)
注:ナル村には2010年現在、小さな寺院が1つ存在する。ただし、いつ頃建立されたかは不明である。
KA Kun mandir janu hunccha ta?
(どの寺院に行きますか?)
注:ラタラジューは30歳のときカトマンズに住んでいたと語っている。カトマンズの寺院なのか、ナル村の寺院であるのか、年齢を特定されないと答えようがないと言える。
CL H...... ho.
(はい)
KA Ho? Tapai mandir janu huncha ki hundaina?
(寺院に行くのですか、行かないのですか?)
CL Aaaa. Bujina.
(ああああ、分かりません)
KA Bujnubhayena.
(分かりませんか)
KA Tapaiko buwa ko nam ke re? Ba ko nam. Ba ko nam.
(あなたのお父さんの名前は何というのですか)
CL Ah ... ah ... Tama ... Tamali ... ah...
(あー、あー、タマ、タマリ)
KA Tamari? Tamari?
(タマリ? タマリ?)
CL Ah ....
(あー)
KA Ama ko nam thaha cha? Ama?
(お母さんの名前は分かりますか?)
CL Ama?
(お母さん?)
KA Ama.
(お母さん)
CL Ah ... Bhayena. Ma nallu gaun ek
(分かりません。私は、ナル村の者 )
注:ラタラジューは、どうやらAmaの意味が理解できないと推測できる。ただし、里沙さんのこのときのモニター意識には、母親の名前が「ラムロ」であるとラタラジューが訴えていることが伝わってきた、と内観記録で報告している。「分かりません。私は、ナル村の者」という意味は、自分はナル村出身のタマン族であるので、タマン語ではないネパール語はよく分からない、という意味かもしれない
KA Adjur? Hajur, feri ek choti bhandinusha? Feri ek choti.
(もう一度言ってもらえますか? もう一度)
CL Ah ... Ki ... ah ... muh ...
(あー、キ、あー、むー)
KA Feri ek choti bandinuhuncha agiko?
(もう一回言ってもらえますか)
CL Ah ... e ... de ... Bujina.
(あー、えー、で、分かりません)
KA Bujnubhaena?
(分かりませんか?)
CL a ... a ...
(あ、あ)
KA Tapai tis barsa ko hunu bho ahile?
(あなたは今、30歳なんですよね)
CL Tis ...
(30歳)
KA Tis? Kati barsa hunu bho?
(30歳? 何歳ですか?)
CL Eh ... rana ... eh ...
(ラナ)
注:ラタラジューには30歳とラナが対になって想起されている。対話中にこれで二度目の想起である。「ラナ」とはシャハ王朝を実質支配したネパール宰相家のこと。30歳の時にラナ家に関わる何かについて思い出していると推測できる。さらに、ラ タラジューは日本語会話で「戦いました。・・・ラナ・・・シャハ・・・ラナ、戦いをした」と語っていることから、30歳のときにラナ家に関わった戦いをした、と推測できる。なお、ラナ家は独裁権力を握るために、1846年に有力貴族を殺害する権力闘争を起こしている。このときにタマン族青年が傭兵として 戦った史実がある。これらのことより、1846年ラタラジュー30歳のときに、ラナ家の権力闘争に傭兵として参戦したと推測できる。
KA Rana? Ke Ranako gharma kam garnu hunthiyo?
(ラナの家?で何の仕事をしているのですか?)
CL um ... eh ... ho.
(うむ、えー、はい)
注:ラタラジューが、ラナ家の「家」の意味gharma(グァーマ)を、宗教の意味 dharma.(ドゥワーマ)と聞き間違えているとすれば、会話は当然ズレが生じてしまうと思われる。
KA Rana?
(ラナですか?)
CL Rana. ... Rana.
(ラナ。ラナ)
KA Rana, kunchahi rana?
(どのラナですか?)
CL Ho?
(はい?)
KA Rana pani ta dherai thiye ni ta.
(たくさんのラナがあるんですが)
CL Bujina.
(分かりません)
(その28につづく)
2 件のコメント:
技能を伴う意識行動には大きく分けて二通りあるそうです。
1.言語の習得や知識(たとえば数学の公式)の獲得などの「前意識的なもの」
2.自転車を乗り回したり、筆で絵を描いたり、箸を用いたりといった「無意識的なもの」
1と2は確かに区別して考える必要があるにしろ、両者に共通するのは、
「その技能を習得するには反復的・継続的な訓練(学習)を伴う」ということにあります。当然、ある程度の時間を要するわけです。
科学者たちの言い分では、たとえば今回問題になっている
「こん睡状態からの回復後、異言を話すようになった人々」
については、脳がこん睡状態という危機的な状態から回復した際、普段の何倍もの潜在能力(この言葉はむしろインチキ教材商法を扱う連中が得意とするはずですが)を発揮し、本来ならば必要とされる反復的な学習を経ずに、「脳のいまだ未解明な部分(これもインチキ商材を売りつける連中がよく使う文言ですが)が活性化して異言能力を獲得したということらしいですが、これがいかに我々の社会経験上からありえないかは、説明するのに多くの言葉を必要としないと思います。
この説が正しければ、我々は何らかの下地さえあれば(たとえば前の記事では学校時代に2,3年中国語を学んだが、とても会話できるレベルではなかったとあるが)潜在的にはあらゆる言語を話すことができるようなり、さらには数学で公式を丸暗記するしかできなかった人が、突然数学オリンピックに挑戦できるほどの頭になったりとか、そういう考えられないことがいくらでも起こり得る話になるからです。
また、前意識に限らず、無意識的行動においても、下地があれば運動音痴がオリンピック級の能力を発揮できるようなるとか、突然有名画家クラスの絵を描くようになることも可能だという話になるでしょう。
いくら科学者の言うことでもさすがにこの話を信じる人は少ないんじゃないでしょうかねぇ。
結局、「脳の未解明領域」だの「潜在意識」だのを持ち出せば、なんでも都合よく説明できるという点においては、インチキ商材販売業者や疑似科学者と、何ら変わらないことを科学者はやっているということではないでしょうか。要するに、
「なんもわかってないんだろう」
ということでしょうね。
「タエの事例」のタエの語り内容にしろ、「ラタラジューの事例」のネパール語会話にしろ、否定論者(唯物論者)の持ち出す仮説が「潜在記憶仮説」です。
語りの内容もネパール語の会話能力も、被験者が無意識的に獲得した情報なりネパール語運用能力を潜在記憶として脳内に蓄積しており、それが催眠下で顕在化したという脳内現象の説明でことを済まそうとするわけです。
私は、そうした潜在記憶として獲得した可能性を徹底的に疑って検証し、検証事実を示した上で、そうした可能性は排除でき「潜在記憶仮説」が成り立つ余地はないと主張してもラチがあきません。
なぜなら、私の検証から漏れた「どこかで」潜在記憶として獲得しているに違いない、というトンデモ論法で反論してくるからです。
これでは議論になりません。
検証から漏れている「どこか」を指摘してこそ正当な反論にあたいします。
私は、「タエの事例」も「ラタラジューの事例」も、これまでの検証公開によって、反証可能性に開かれているつもりです。
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