SAM催眠学序説 その22
ここでの論証は、唯物論への論証ではありません。
生まれ変わり仮説を認めない唯物論者には、これまでの「ラタラジューの事例再考」 その1~その4で、虚偽記憶や潜在記憶などでは、あるいは超ESP仮説であっても、「ラタラジューの事例」という応答型真性異言現象が、生まれ変わり仮説以外では説明不可能であることを証明してきました。
ここでは、「霊魂仮説」を認める立場から、ラタラジュー人格は、前世人格ではなく(生まれ変わりではなく)、異物としての憑依霊の憑依現象ではないか、という反論に対する論証をしてみたいと思います。
さてそのために紹介する体験報告は、私が研究資料として被験者里沙さんにお願いして書いていただいたものです。
イアン・スティーヴンソンの研究文献にも、応答型真性異言の被験者の体験報告はありません。
こうした現状から、応答型真性異言の被験者の意識内容の体験報告は、きわめて貴重な研究資料であると私は考えています。
現行の意識内容の研究方法としては、その意識を体験した被験者の内観報告に頼るしかないからです。
こうして、ネパール語会話中の意識状態の内観によって、ラタラジュー人格が里沙さんの前世人格であるか、憑依した別人格であるかの一応の線引きができると考えられるからです。
ちなみに、前世人格と憑依人格を区別するための先行研究はまだありません。
なお、下記体験報告は、セッション2週間後に記述されたものです。
セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。
こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。
思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。
ラタラジューの前に、守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの78年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。
はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。
なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。
カルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。
セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。
セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。
ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。
こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。
セッション後、覚醒した途端に、セッション中のことをどんどん忘れていき、家に帰るまで思い出すことはありませんでした。
家に帰っての夜、ひどい頭痛がして、頭の中でパシッ、パシッとフラッシュがたかれたかのように、ラタラジューの記憶が、再び私の中によみがえってきました。
セッション中に感じた、私がラタラジューと一体となって、一瞬にして彼の意識や経験を体感したという感覚です。
ただ全部というのではなく、部分部分に切り取られた記憶のようでした。
カルパナさんの質問を理解し、答えた部分の意識と経験だと思います。
とりわけ、ラタラジューが、カルパナさんに「あなたはネパール人か?」と尋ねたらしく、それが確かめられると、彼の喜びと懐かしさがどっとあふれてきたときの感覚はストレートによみがえってきました。
一つは、優しく美しい母に甘えている感覚、そのときにネパール語で「アマ」「ラムロ」の言葉を理解しました。
母という意味と、ラタラジューの母の名でした。
二つ目は、戦いで人を殺している感覚です。ラタラジューは殺されるというすさまじい恐怖と、生き延びたいと願う気持ちで敵に斬りつけ殺しています。
肉を斬る感覚、血のにおいがするような感覚、そして目の前の敵が死ぬと、殺されることから解放された安堵で何とも言えない喜びを感じます。
何人とまでは分かりませんが、敵を殺すたびに恐怖と喜びが繰り返されたように感じました。
現世の私は、それを受け入れることができず、しばらくの間は包丁を持てず、肉料理をすることが出来ないほどの衝撃を受けました。
前世と現世は別のことと、セッション中にも充分過ぎるほどに分かっていても、切り離すのに辛く苦しい思いをしました。
三つ目は、ネパール語が、ある程度わかったような感覚です。
時間が経つにつれて(正確には夜、しっかり思い出してから三日間ほどですが)忘れていってしまうので、覚えているうちにネパール語を書き留めてみました。
アマ・ラムロもそうですが、他にコド・ラナー・ダルマ・タパイン・ネパリ・シャハ・ナル・ガウン・カトマンズ・ブジナ・メロ・ナムなどです。
四つ目は、カルパナさんにもう一度会いたいという気持ちが強く残り、一つ目のことと合わせてみると、カルパナさんの声はラタラジューの母親の声と似ていたのか、またはセッション中に額の汗をぬぐってくれた感覚が母親と重なったのか(現世の私の額をカルパナさんが触ったのに、ラタラジューが直接反応したのか、現世の私がラタラジューに伝えたのか分かりませんが、一体化とはこのことでしょうか?)母を慕う気持ちが、カルパナさんに会いたいという感情になって残ったのだろうと思います。
セッション一週間後に、カルパナさんに来てもらい、ネパール語が覚醒状態で理解できるかどうか実験してみましたが、もう全然覚えてはいませんでした。
また、カルパナさんに再会できたことで、それ以後会いたいという気持ちは落ち着きました。
以上が今回のセッションの感想です。
前世人格の顕現化と憑依現象の区別の指標
報告からも分かるように、里沙さんはセッション中のラタラジューとの一体感、同一性の感覚 があったことを明確に述べています。
また、セッション後に、諸場面のフラッシュバックがあったことや、いくつかのネパール語単語を思い出したことも述べています。
さらに、ラタラジュー人格の意識内容を里沙さんの意識がモニターし、二つの意識が併存していた記憶があったことも述べています。
ちなみに、この前世人格の意識とそれをモニターしている意識が分離され、しかも併存状態になることは、SAM前世療法一般に報告される共通の意識状態であり、ワイス式(ブライアン・ワイスの広めた技法)の前世療法では起こりえない意識状態のようです。
さて、ラタラジュー人格が被験者里沙さんの学んだことのないネパール語で会話できたこと、その語り内容の事実との一致は検証できましたが、問題になるのは、この人格が「里沙さんの前世人格」であるのか、「里沙さんとは無関係の憑依現象」であるのかの見分けをすることです。
しかし、この見分けに関わる先行研究は一切ありません。
そこで、里沙さんにおこなった守護霊の憑依実験の考察と、宗教学のシャーマニズム研究、私のおこなってきた独自の作業仮説によるSAM前世療法の考察などから、次のような見分けの指標を持つことが妥当であろうと思っています。
前世人格か憑依人格かを見分ける最後のよりどころは、結局、自我を形成する魂は、おのれの前世人格であるか、他者である憑依人格であるかを、魂自身が根源であるがゆえに、見誤ることはあり得ない、という一種の信念に立ち返ることにしかないように思われます。
私が里沙さんにセッションから間を置かないで、セッション中の意識状態を内観して報告するようにお願いしたのは、最後は里沙さん自身の「魂」を信頼するしか見分けの指標はないと思っていたからです。
そして、そこから次のようなことが言えると思います。
①SAM前世療法の作業仮説として、ラタラジューは「魂の表層」から呼び出しています。
魂がおのれの一部である前世人格と、「異物」である憑依霊と見誤ることはあり得ないでしょう。
ゆえに、里沙さんの「意識状態」の内観記録を信頼することは道理に適っていると考えます。
②SAM前世療法の経験的事実として、異物であるラタラジュー霊が最初から憑依しているとすれば、里沙さんが魂状態の自覚に至ることを必ず妨害します。
したがって、魂状態の自覚に至ることができません。
しかし、事実はすんなり魂状態の自覚に至っています。
つまり、憑依霊はいないということになり、ラタラジュー霊が最初から憑依していた可能性を排除できます。
③魂の自覚状態では、霊的存在の憑依が偶発的にも、意図的にも起こりやすくなることが確認されています。
魂の自覚状態では未浄化霊も高級霊も憑依することはセッションに現れる意識現象の事実です。
したがって、魂状態に戻ったときをねらって、異物であるラタラジュー霊が憑依した可能性は完全に排除できません。
しかし、4年前の最初のセッションで、タエの次の生まれ変わりとしてすでにラタラジュー人格は顕現化しています。
今回も、ラタラジューという前世人格を魂の表層から「呼び出して」顕現化させる手続きをとっています。
したがって、ラタラジュー人格が、異物としての憑依霊の憑依現象とは考えられません。
④第一にモニター意識が、憑依霊を異物として感知しないはずがないでしょう。
里沙さんは、明らかにラタラジュー人格とおのれとの同一性の自覚があると報告しており、ラタラジューを異物として感知していないのです。
第二に異物としての憑依霊の憑依現象が起きたとすれば、憑依霊によって人格を占有されるわけで、その間の記憶(モニター意識)は欠落することが多いと報告されています。
これは宗教学のシャーマニズム研究の報告とも一致します。
シャーマンは、霊的存在の憑依状態の記憶が欠落することが多いとされています。
一方、里沙さんは、ラタラジューが会話している間の記憶が明瞭にあると報告しています。
さらに、彼女の場合には、守護霊憑依中の記憶は完全に欠落することが、過去3回の守護霊の憑依実験から明らかになっています。
守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません、と報告している通りです。
ラタラジューの会話中の記憶があるということは、ラタラジューが憑依霊ではない状況証拠です。
異物としての憑依霊の憑依現象ならば、その間の記憶は完全に欠落しているはずなのです。
しかも、ラタラジューには、真性異言会話実験後、魂の表層に戻るように指示し、戻ったことの確認後催眠から覚醒してもらっています。
SAM前世療法の経験的事実として、ラタラジューが憑依霊であれば、私の指示に素直にしたがって憑依を解くとは考えられません。
もし、ラタラジューが憑依霊であれば、高級霊とは考えにくく、未浄化霊でしょう。
とすれば、憑依を解くための浄霊作業なしに憑依が解消するとは考えられません。
⑤里沙さんは、4年前の「タエの事例」以後、他者に憑いている霊や自分に憑こうとしている霊を感知し、それは悪寒という身体反応によって分かると報告しています。
ある種の霊能らしきものが覚醒したと思われます。
そのような里沙さんが、異物であるラタラジュー霊の憑依を感知できないとは考えられません。
こうした諸事実から、ラタラジューが里沙さんの前世人格ではなく、まったく別人格の憑依霊の憑依現象だとするのでは、説明が収まりにくいと考えられます。
以上述べてきた考察から、私は、「同一性の感覚の有無」と「憑依様状態(人格変容状態)中の記憶の有無」の2つが、前世人格と憑依人格を線引きできる一応の指標になると考えています。
したがって、異物としてのラタラジュー霊の「憑依仮説」は、棄却してよいと判断できると思われます。
ちなみに、ある霊能者が「ラタラジューの事例」のテレビ放映を見て、「ラタラジューは憑依霊であり、彼は腹痛を訴えて死んでいるので、今後里沙さんはその憑依霊の霊障によって腹痛に苦しむことになる」などと自分のブログに書いていました。
これは2010年8月の放映直後のブログ記事ですが、2014年10月現在に至るまで、里沙さんが腹痛に悩まされるなどの不可解な霊障らしき症状は一切生じていません。
この霊能者(そこそこに有名らしい)の霊能力は、この程度に怪しげでいい加減なものであることが暴露された実証例です。
(その23へつづく)
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