SAM催眠学序説 その20
ラタラジューの会話分析に当たって、その前提となるいくつかの考慮すべき条件があります。
ネパール語を母語とし対話相手をしていただいたネパール人女性パウエル・カルパナさん(朝日大学法学部博士課程学生)と、被験者里沙さんとは一切の面識はなく、実験セッション当日が初顔合わせでした。
カルパナさんを対話相手として探し出したのは中部大学の大門教授であり、私も里沙さんも、直前までカルパナさんの名前すら知らされていない、という条件のもとでおこなった実験セッションでした。
当然のことですが、被験者里沙さんとカルパナさんとの打ち合わせや、里沙さんにカルパナさんがどんな質問をするかなどの情報も事前に一切知らされてはいません。
この実験セッションは、2009年5月におこなっており、その記録映像をもとに「奇跡体験アンビリバボー」で「ラタラジューの事例」が放映されたのは2010年8月でした。
したがって、実験セッションとアンビリとの事前のつながりは一切なく、アンビリが事前に仕組んだヤラセではないかなどの疑惑は完全に排除できます。
また、前世人格ラタラジューの母語はタマン語であると推測され、ネパール語の理解力が十分身についていないと考えられます。
ちなみに、ラタラジューが村長を務めたナル村の2010年現在の人口は2,277人であり、その97%がタマン族が占めています。
また、ラタラジューは、父親はタマン族でありグルカ兵であったと語っています。
こうしたことから、ラタラジューの母語はタマン語であったと推測することは妥当であろうと思われます。
したがって、ラタラジューが、会話中にカルパナさんの発音を聞き間違えたり、意味を取り違えたり、意味が理解できなかったりしていることがあることを考慮しなければなりません。
たとえば、意味の取り違えとして、Gorkhama busnu huncha? (ゴルカ地方に住んでいるんですか?)と尋ねられて、ラタラジューは Mero buwa Go ... Gorkha ...mero buwa Tamang hunnuhuncha.
(私の父、ゴ、ゴルカ。私の父はタマン族です)と答えていますが、Gorkhaは同じ発音でゴルカ地方とグルカ兵の意味があり、ラタラジューは後者の意味に取り違えていると思われます。
なお、ラタラジューの住んだナル村はゴルカ地方ではなく、隣接するラリトプール地方です。
また、ラタラジューは、文盲だと語っていますから、Gorkhaがゴルカ地方を意味することをしらなかった、あるいは地理上のゴルカ地方そのものの存在を知らなかった可能性があります。
発音の聞き間違えと思われる例としては、Tapai, bihana beluka ke khanu huncha tapaile gharma?
(家では何を食べていますか?)と尋ねられて、ラタラジューは Ah .. ah... Shiba ... e ... e ... dharma.
(シバ神、宗教)と答えています。
一見ちぐはぐなやりとりで、ラタラジューは意味が全く理解できないのではないかと思いがちですが、gharma(グァーマ)の発音は dharma(ドゥワーマ)の発音とよく似ており、ラタラジューはgharma(グァーマ)の発音を dharma(ドゥワーマ)の発音だと聞き違えたと推測できます。
意味が理解できていないのではないかという例としては、あなたの息子は何歳ですか、と尋ねられて、ラタラジューが「分かりません」と答えているようなやりとりです。
しかしこれは、カルパナさんの発問が不適切であって、ラタラジューは「分からない」というほかないのです。
なぜなら、78年間生きたラタラジューは、その78年間のどの時点であるかを特定されないと息子の年齢は答えられないからです。「あなたが30歳のとき息子は何歳でしたか」というように。
そして、78年間生きたラタラジューには答えようのない、どの時点かを特定しない、同様の不適切な発問がいくつか散見されます。
さて、ラタラジューが、ネパール語を用い、ネパール語を母語とするカルパナさんと会話ができたことは、彼女の証言で確認されており、応答型異言であることはすでに明らかであると判断できます。
特筆すべきは、この実験セッションはSAM前世療法によっておこなわれたものであり、したがって前世を生きたラタラジュー人格は、魂表層に存在する意識体として、今、ここに存在し、里沙さんの肉体を借りて顕現化した、と考えるSAM前世療法の作業仮説を立証していることです。
次に、ネパール語会話内容を分析・検討した結果、浮き彫りになってきたいくつかの点について述べてみます。
1 ネパール語会話の成立度
会話の成立度の分析に当たっては、同じ話題のひとまとまりの対話ごとに58の部分に分けてみました。
そして、それぞれの対話部分について、ラタラジューの受け答えの整合性の有無を検討し、推測を交えて判断した結果は次のようなものになりました。
ア 応答に一応整合性があり会話が成立している・・・・26部分(45%)
イ 応答に全く整合性がなく会話が成立していない・・・・8部分(14%)
ウ 応答が短く曖昧で会話成立の判断が難しい・・・・24部分(41%)
「対話が成立していない部分」とは、家に妻がいますかと尋ねられ、分かりませんとか、何を食べていますか尋ねられ、シバ、宗教などと応答した場合です。
明らかに質問の回答になっていない対話部分です。
「会話成立の判断が難しい部分」とは、「わかりません」「はい」など短い回答で、質問の意味が理解できているのかどうか判然としない対話部分です。
以上のおおよその分析・検討から、ネパール語での応答的会話は、完全とは言えないものの、8割程度は成立していると判断できると思われます。
ただし、応答的会話といっても、ラタラジューの応答は、「はい」とか「わかりませんなど短い単語の単純なものが多いではないか、という問題が指摘できるでしょう。
また、話したと言っても、たどたどしいものでネパール語のきちんとした会話とは認められないではないか、という疑問も出ることでしょう。
しかし、この点については、スティーヴンソンの『前世の言葉を話す人々』の「グレートヒェンの事例」のドイツ語会話の記録(同書PP226ー310)と比較しても、けっして見劣りするものではありません。
前世人格グレートヒェンの応答も、「いいえ」「知りません」「町です」など短い応答がほとんどです。そもそも、催眠中のクライアントの発話は総じて緩慢であり、質問に対して即座に長い文脈で回答することはほとんどない、と言えます。また、自分から話すということも、ほとんどありません。
スティーヴンソンも、「グレートヒェンは、自分から話すことは稀であり、通常は、質問を受けるまで黙っていた。質問があると、それについて手短に答え、また口を噤(つぐ)んでしまうのが通例だったのである」(前掲書P22)と述べています。
ラタラジューも質問の回答ではなく、自ら発話したことは、「あなたはネパール人ですか?」とカルパナさんに逆に質問したことと、腹痛を訴えたことの二度だけです。
なお、グレートヒェンのセッションは19回に及んだそうですが、録音記録を見ると後のセッションになっても、流暢さを欠いた短い応答しかしていないという傾向はほとん変わっていないようです。
このことについて、グレートヒェンは、「応答することができたが、たどたどしいものであったし、文法も語彙も不完全であった」(前掲書P4)、「後のセッションまでの間に、はっきりした向上も低下も見られなかった」(前掲書P46)とスティーヴンソンは述べています。
ラタラジューの会話もこれとほぼ同様であり、だからこそ、応答型真性異言としての信憑性は高いと判断できると思われます。
こうしたことを考えれば、ラタラジューが初めてのネパール語会話セッションでこれだけのネパール語会話をおこなったことは、むしろ評価されるべきだと思います。
2 対話相手の用いていないネパール語
ラタラジューの発話において重要なことは、ラタラジューがカルパナさんの発話の中で用いられていないネパール語を用いているかどうかの点です。
カルパナさんが質問で用いた単語をオウム返しで繰り返しているだけならば、質問内容が理解できていなくても対話が成立しているように錯誤されてしまうからです。
ラタラジューが本当にネパール人の前世人格なら、カルパナさんが用いていない単語で、ラタラジューが自ら発語しているものがなければ、彼がネパール語を運用した信憑性は低いものとなるでしょう。
正確な意味で、会話技能を用いている応答型異言とは言えないということになります。
そこで、名前を除き、ラタラジューが初めて発語している単語を全セッションから拾ってみると、次の29の単語があることが分かりました。
mero(わたしの)・ ke(何)・tis(30)・bujina(分かりません)・ ho(はい)・ma(私) ・Shiba(シバ神)・dhama(宗教)・Nepali(ネパール人)・Gorkha(グルカ兵)・pachis(25)・hoina(いいえ)・pet(お腹)・dukahuncha(痛い)・rog (病気)・guhar(助けて)・ath(8)・satori(70)・Tamang(タマン族)・kana(食べ物)・dal(豆のスープ)・ bha(ご飯)・ kodo(キビ・アワなど雑穀)・sathi(友)・cha (ある、いる)・Nallu gaun(ナル村)・kancha(息子)・Shah(シャハ王朝)・ Himal(山、ヒマラヤ)
この事実は、ラタラジューが、ネパール語を知っており、その会話技能をある程度身に付けていることの証拠であると思われます。
また、彼の父がタマン族らしいことを考えると、彼の母語はタマン語であって、ネパール語ではない可能性があり、そうしたことを重ねて考えますと、ネパール語の少なからぬ単語を用いて応答的に発話できた事実は、ますます大きな意味を持つものと思われます。
ちなみに、ラタラジューの発音は、明らかに日本語を母語とする里沙さんの舌の用い方ではないように聴き取れます。
会話分析に当たったカナル・キソル・チャンドラ博士によれば、数字の発音などにタマン語の訛りが混入しているネイティブなネパール語であるという鑑定でした。
また、ラタラジュー程度にネパール語会話ができるようになるためには、ネパールに2年から3年程度の滞在が必要であろうとの判断でした。
文字表現では不可能な、ラタラジューのネパール語の語調、発話中の表情・動作などが分かるアンビリバボー放映の証拠映像をご覧になった読者であれば、ネパール人どうしの違和感のない会話のやりとりを実感できたと思います。
3 ネパール語の文法に忠実な助動詞の使用
ネパール語の文法は主語の人称と尊敬語に対応して、動詞・助動詞が複雑に変化する特徴があります。たとえば、日本語の「です」に当たるネパール語の助動詞は、一人称の場合では「hu」であり、二人称と尊敬語では「hunuhuncha」に変化します。
さらに三人称になると「ho」と変化します。
ラタラジューは、「私のお父さんはタマン族です」というネパール語を、「お父さん」という尊称に対応した助動詞の「です」のhunnuhunchaを忠実に用いて、mero buwa Tamang hunnuhuncha と発話していることが、アンビリバボー番組制作スタッフの検証によって明らかにされました。
こうした文法の助動詞変化に忠実な発話ができることは、ラタラジューが実在した有力な傍証の一つとして採用できると思われます。
4 ネパール語の不規則な数詞の使用
ネパール語の数の数え方には規則性がないので、記憶するには数詞ごとに一つ一つ覚えなければならないので大変やっかいです。
たとえば、日本語の場合には一の位の「いち・に・さん」が十の位でも「じゅう・いち」「じゅう・に」「じゅう・さん」と十の位の後に連結して用いられるので覚えやすいと言えます。
ところが、ネパール語の一・二・三は「ek」「dui」「tin」ですが、一一・一二・一三はそれぞれ「egara」「bara」「tera」 であり、まるで規則性がなく非常に覚えづらいのです。
ラタラジューは、このネパール語の数詞の「tis(30)」 「patis(25)」 「Ath satori (8と70)」の3語を自ら発語しています。
この複雑な数詞をよどみなく発話した事実は、ネパール人ラタラジュー人格が現れて会話したとする一つの有力な傍証として採用できると思います。
5 ネパール語と日本語の言語学的距離
日本語とネパール語の間には言語的系統性が見られず、言語学的に大変距離の遠いものと言えます。
例えば、スティーヴンソンの発表している催眠中の応答型真性異言事例は、英語を母語とする被験者がスェーデン語で会話した「イェンセンの事例」、同じく英語を母語とする被験者がドイツ語で会話した「グレートヒェンの事例」という二つですが、これら言語は先祖を同じくするゲルマン語派です。
言語学的に近いわけで、語彙も文法も似通った体系であると言えます。
また、マラーティー語を母語とする女性が、催眠を用いないでベンガル語で会話した「シャラーダの事例」は、同じインド語派に属する言語です。
したがって、スティーヴンソンの発見しているこれら3つの事例は、比較的近縁関係のある言語間において起こった応答型真性異言事例だと言えます。
ネパール語は、日本人にとって非常に馴染みの薄いマイナーな外国語です。
日本人でネパール語の単語を知る人も極めて少ないでしょうし、会話能力ともなると外交官・商社マン・ネパール研究関係者などごく限られた人間以外は学ぶ機会がない言語です。
こうしたことを考え合わせると、スティーヴンソンの発見している事例の被験者と比べて「ラタラジューの事例」は、言語学的距離の離れた、つまり、日本人の里沙さんが獲得するには非常に困難なネパール語で会話できたという点で、他の応答型真性異言事例に比較して、「きわめて学び難い異言」で会話したという事実の重みが大きいと評価できるのではないでしょうか。
6 ラタラジューが一昔前のネパール人であった2つの証拠会話
ラタラジューの語ったところによれば、彼の生きた期間は、計算上、1816年-1894年の78年間であろうと推定できます。
2014年現在からさかのぼって、120年前に死亡していることになります。
つまり、一昔前のネパール人であったということになります。
そうした推定の裏付けとなる会話を2つ残しています。
①死亡年齢78歳であることの表現を Ath satori、つまり「8と70」と表現しています。
「8と70」という表現法は、教育の進んだ現代ネパール語にはなく、したがって、カルパナさんは意味が理解できないので、 Sattari?(70ですか?)と再度聞き直しています。
しかし、現地調査をお願いしたソバナ博士によれば、昔のネパール人はこのような表現法を用いていたということでした。
下記がその会話部分です。
kAはカルパナさん、CLはクライアント、里沙さん(ラタラジュー)の略号。
KA: Kati barsama bitnu bhako?(死んだ時は何歳でしたか?)
CL: Ah ... ah ...(あー、あー)
KA: Kati barsama ...(何歳でしたか?)
CL: Umer ... Mero ... umer ...(歳は、私の歳は)
KA: Hajur. Bite ko umer.(はい。死んだ歳は?)
CL: Ath satori ... ah ...(8と70、あー)
KA: Hajur?(はい?)
CL: Ath satori. (8と70)
KA: Sattari?(70ですか?)
CL: Ath satori.(8と70)
②現代ネパール語で妻はsrimati(シリマティ)と言いますが、古いネパール語ではswasni(スワシニ)と言っていました。
古語スワシニのほうは現代でも地方では使用している所があるようです。
ラタラジューは、カルパナさんの一度目の質問srimati(シリマティ)の意味が理解できず、 Oh jirali と意味不明なことを言っています。
そこでカルパナさんが再度、現代ネパール語のシリマティと古語のスワシニを並べて
Srimati, swasniko nam? と尋ねると、古いネパール語のswasni(スワシニ)に反応して
mero swasni Rameli (私の妻、名前、ラメリ)と答えています。
ラタラジューは現代ネパール語の妻srimatiが理解できず、古いネパール語の妻swasniなら理解できたということです。
下記がその会話部分です。
KA: Tapaiko srimatiko nam ke re? (奥さんの名前は何ですか?)
CL: Oh jirali (おー、ジラリ)※意味不明
KA: Srimati, swasniko nam? (奥さん、奥さんの名前?)
CL: Ah ... ah ... mero swasni Ramel...Rameli. (あー、あー、私の妻、名前、ラメリ、ラメリ)
以上①②のラタラジューの会話部分は、ラタラジューが120年以前の古いネパール人であった傍証であると判断できると思います。
また、ラタラジューという名前も一昔前には使われたそうですが、現代ネパールではほとんど使われなくなっている名前であるということです。
この現代ネパールではほとんど使われていない「ラタラジュー」という名前を、被験者里沙さんが知りえる機会は限りなくゼロに近いと思われます。
以上の2点(名前を含めれば3点)の古いネパール語は、里沙さんが学ぼうとしても学びようがないネパール語であると断定してよく、里沙さんがネパール語を学んでいないという強力な証拠だと思われます。
7 現在進行形の会話の意味
前世人格ラタラジューは次のような、現在進行形でのやりとりをしています。
CL: Tapai Nepali huncha?(あなたはネパール人ですか?)
KA: ho, ma Nepali.(はい、私はネパール人です)
CL: O. ma Nepali.(ああ、私もネパール人です)
このやりとりの重要性は、ついうっかり見落とすところですが、現れた前世人格のありようについてきわめて興味深い示唆に富むものだと言えそうです。
つまり、前世人格ラタラジューは、今、ここにいる、ネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、今、ここで、問いかけ、その回答を確かめているわけで、「里沙さんが潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示しています。
つまり、ラタラジューは、前世記憶の想起として里沙さんによって語られている人格ではないのです。
里沙さんとは別人格として現れている、としか思えない存在です。
その「別人格である前世のラタラジューが、里沙さんの肉体(声帯)を用いて自己表現している」と解釈することが自然ではないでしょうか。
スティーヴンソンも、「グレートヒェンの事例」において、応答型真性異言を話したグレートヒェンをドイツ人少女の「トランス人格」と呼び、被験者アメリカ人女性「の記憶想起ではなく、催眠中のトランス状態で呼び出された「前世人格」の会話だと判断しています。
ちなみに、グレートヒェンの会話には、トランス人格グレートヒェンが、対話相手に、「あなたはドイツ人ですか?」と問いかけるといった、明らかに現在進行形の会話だと判断できる個所はなく、ここで取り上げたラタラジューの現在進行形の会話の発見は、きわめて重要な意味を持つと思われます。
この現在進行形でおこなわれている会話の事実は、潜在意識の深淵には魂の自覚が潜んでおり、そこには前世のものたちが、今も、生きて、存在している、というSAM前世療法の独自の作業仮説が正しい可能性を示している証拠であると考えています。
次回は、ラタラジューの語り内容の事実と、ナル村現地調査での事実照合について述べたいと思います。
(その21につづく)
5 件のコメント:
ショウタさん
「NHKの臨死体験特集で意識は脳の蜘蛛の巣のような数学的なもので死んだら消えるというのが最新の科学と言っていました。ラタラジューの事例も虚偽記憶でしょう」という「その17」で投稿されたあなたの挑戦的コメントに対する私の反論を「ラタラジューの事例再考」としてこれまで述べてきました。
「ラタラジューの事例」は虚偽記憶では絶対説明不可能である、という私の反論です。
ダンマリを決め込むことは私の反論を認めたと見做しますよ。
ショウタさん
論点を逸らしてはいけません。
私が論じているのは、「ラタラジューの事例」が、虚偽記憶仮説では説明できませんよ、ということです。
そして、現行のもっとも妥当な説明仮説は「生まれ変わり仮説」以外には考えられませんよ、ということです。
これは信仰の問題ではなく科学的事実として認めるほかないのではありませんか。
スピリチュアルを持ち出す云々とは関係ありません。
「今は説明できなくてもいずれは科学的に説明がつく」などの言辞は、どんなことにも屁理屈として通用しうる脳天気な言い訳でしかありません。
それから以前から気になっていますが、友人間の私信ならともかく、あなたの「ボク的」という表現は、成人の日本語として不適切です。成人男子であれば「私」「僕」と表現しましょう。
ショウタさん
あなたの紹介している「科学者の対話サイト」にアクセスしましたが、対話者は「NHKスペシャル『超常現象』プロジェクトの制作統括を務めた、大里智之さんと、大里さんと旧知の仲であり、超常現象に興味があるという作家の恩田陸さんによる対談を行いました」と出ています。大里氏も恩田氏も、両者とも科学者でもなく、研究者でもないですね。
不正確な情報を書いてはいけません。
迷子さん、
こんにちは。先日紹介していただいた書籍を近くの図書館といくつかの大型書店であたってみたのですが、とうとう拝読することができませんでした。こちらは来週から3か月ほど海外になりますので、読ませていただくのは当分先になりそうです。申し訳ありません。
今後も先生のブログに時々コメントさせていただくと思いますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
VITA ÆTERNAさんこんにちは、
『前世の言葉を話す人々』は、『前世を記憶する子どもたち』に比べて、あまり出回っていないので、今は古本でしか手に入りません。Amazon等から手に入れるのが無難でしょう。
笠原敏雄先生の絶版になった著書や翻訳書は、電子書籍で出してくれると本当に助かるんですがねぇ。
ただ笠原先生のおそらく最高傑作『サイの戦場』は、多数の人の論文が載せてあるので、権利関係が複雑でもう出せそうもないようです。
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