2014年2月5日水曜日

SAM前世療法の成立 その48

総括その9 前世の人格の所在はどこなのか
2005年の「タエの事例」において、被験者里沙さんの前世記憶の想起ではなく、タエの人格そのものが顕現化したのだとすれば、そのような前世の人格は、いったいどこに存在しているのでしょうか。
これが「タエの事例」以後、1年以上にわたって私を悩ませることになった大きな謎でした。
この謎について言及した先行研究は、イアン・スティーヴンソンに求めるほかないと思いました。
以下は、イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、1989からの抜粋です。
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生まれ変わったと推定される者では、先述のイメージ記憶、行動的記憶、身体的痕跡という三通りの要素が不思議にも結びついており、前世と現世の間でもそれが一体になっていなかったとは、私には想像すらできない。
このことからすると、この要素(ないしその表象)は、ある中間的媒体に従属しているらしいことがわかる。この中間的媒体が持っている他の要素については、おそらくまだ何もわかっていない。

前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォア)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う。(中略)
私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。
実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。人格は、一人の人間がいずれの時点でも持っている、外部から観察される心理的特性をすべて包含しているのに対して、個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる。したがって、私たちの個性には、人格としては決して表出することのないものや、異常な状況以外では人間の意識に昇らないものが数多く含まれているのである。
前掲書PP.359-360
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スティーヴンソンの言う「中間的媒体」、および「心搬体(サイコフォア)」は、古来呼ばれている「魂」と同義です。
厳密な科学者スティーヴンソンは、「soul(魂)」という語にまとわりつく宗教臭を嫌ったのだと思われます。
ただし、私は、前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を、そのまま従来の「魂」の概念でも不都合はないと思いますし、新しい概念でもないのに「心搬体」などの造語を用いることは不要だと思っています。
また、彼の、「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う」という見解は、後にSAM前世療法の作業仮説を設けるときの大きな参考となっています。
つまり、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化(変化)する仕組みになっている」という仮説を支持する考え方だと言えそうです。
ただし、スティーヴンソンは、「心搬体」=「魂」を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない、と述べています。
「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格たちは互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化する仕組みになっている」というのが、現時点の私の見解です。
つまり、「心搬体」=「魂」の表層全体は、変化していくものだということを、その後の、SAM前世療法のセッションで顕現化した前世人格の語りから確かめています。
さらに、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しない、というスティーヴンソンの見解は、そっくり現在の私の見解と同様です。
「現世の私」という一つの人格が、来世にそのままそっくり生まれ変わるわけではなく、魂表層の一つとして生き続けるのであって、生まれ変わるのは「表層を含めた一つの魂全体」だというのが、SAM前世療法の示す生まれ変わりの実相だと言えます。

また、「実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる」というスティーヴンソンの考え方も、私の見解にほぼ一致します。
現世の個性は、魂表層の前世人格たちから人生の知恵を分かち与えられており、このようにして繰り返された前世の人格に由来する「個性」と、現世での諸経験とによって、形成されているに違いないのです。
さて、私が、スティーヴンソンに求めたのは、前世の記憶を語る子どもたちの「記憶」の所在についての考究でした。
彼が、「前世の記憶」が脳にだけあるとは考えていないことは、「心搬体」という死後存続する「媒体」を想定していたことに照らせば、間違いありません。
私の期待したのは、その心搬体と脳との関係についてのスティーヴンソンの考究です。
前世の記憶を語る子どもたちは、その前世記憶の情報を、心搬体から得て話したのか、脳から得て話したのか、それとも記憶ではなく前世の人格の顕現化であるのか、いずれなのでしょうか。
しかし、スティヴンソンはこの問いについてはなにも解答を与えてくれませんでした。
私が求めた解答を与えてくれたのは、人間ではなく、私の守護霊団を名乗る霊的存在でした。
(その49につづく)

2 件のコメント:

テカルト さんのコメント...

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もし魂があるとすれば分離するところはデカルトの二元論の松果線説とは違うのでしょうか?

稲垣勝巳 さんのコメント...

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不勉強で、デカルトの松果腺説について知りません。
私は、セッションを展開するうえでの作業仮説と、作業仮説を支持するクライアントの意識現象の事実の累積結果から、魂と呼ばれる死後存続する意識体の実在を認めざるをえないと考えています。
思弁や観念や直感によるものではありません。