「永遠なる自由ー霊的哲学を求めて」というブログ(前々回の記事で引用)に「生まれ変わり」について、下記のようなモデル図で示した面白い議論が掲載されています。これを引用して、SAM前世療法が示す魂と生まれ変わりの仕組みについて、考察してみます。
ブログ管理者高森氏は、スピリチュアリズム霊学に基づいて5つの生まれ変わりの類型を提示しています。セッションの意識現象の事実から導き出した私の提唱する「生まれ変わり」の概念は、高森氏の提示するⅤ型(多面体説)ということになりそうですが、以下にまずその記事の問題となる部分を示し、次いで記事の問題点を指摘したいと思います。
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Ⅴ.多面体説
これに対して、一応は「私という個性的存在」を認めつつ、魂なり霊なり宇宙精神なりを強調する考え方もあります。
これは、魂なり霊なりは、Aという個人的存在を現世に生み出すが、Aは死後、魂や霊に付属して存在を続ける、そして魂や霊は、別のBという個人的存在を新たに世に生み出す、というものです。
次の図は、時間軸に沿った変化として見てください。なんか雪玉ゴロゴロみたいな変な形になりましたが(笑い)。
魂であるXは、A、B、Cという現世存在を次々に生み出していきます。A、Bは死後も一応の個別性を持ちながら、魂Xとともにあります。
シルバー・バーチの「魂はダイヤモンドのような多面体であり、あなたはその一面なのだ」というような説や、稲垣勝巳さんの「人格は魂の表層のもの」という説は、おそらくこういうふうになるのではないかと思います。(ひょっとすると違うかもしれません。)
さて、この構図で問題になることは、まず、「個別の人格は生まれ変わりをしない」ということになるということです。視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。
大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)
むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか。
もうひとつ問題になるのは、死後の「人格」の状態です。一番右の時点で、AとBは、どういう状態で何をしているのでしょう。一般的に、死後存続説というものは、単に「残る」ということではなく、「活動を続ける」ということを含意しています(古代ユダヤ教の「冥府での眠り」――復活を認めないサドカイ派の死後観――はですから死後存続説としては異常説です)。
AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です。
つまり、このような捉え方(あくまでこの図のような捉え方ということ)は、「生まれ変わりの否定」であり、場合によっては(死後人格の活動状態いかんによっては)、死後存続の否定にもなりかねないということになります。
(中略)
特にⅤ多面体説の場合は、AとBとCが同じXに属するものであるということを立証しなければならず、またABC間の関係も説明しなければならず、相当ハードルは高くなってしまうでしょう。
(中略)
死後存続研究者(たぶんデュカスだったと思います)が言った「死後存続については、どういう条件が満たされると証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」という言葉と同様、
「生まれ変わりについては、どういう条件が満たされると生まれ変わりが証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」
ということになっていると思われます。
霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、「何が生まれ変わるか」「生まれ変わりの定義とは何か」についてすら、合意ができていないようです。
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①さて、上の図で誤解されやすいのは、大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)が位置づけられていますが、私の概念では、○A・○B(それぞれの前世人格)は、「魂の表層」を構成している前世のものたちであって、それらのものたちは、魂の構成要素であるので、大円X(魂)・○A・○B(それぞれの前世人格)全体を含めて「魂」と呼んでいます。
さらに言えば、○C(現世人格)も、魂の表層に存在しており、この現世人格と前世人格たちを含めて、「魂の表層」なのだということです。ちなみに、私の言う「魂」は、宗教的な意味は一切ありません。「肉体に入っており、死後肉体から離れて存続する意識体」というほどの意味です。イアン・スティーヴンソンの提唱している「心搬体(生前の人格・記憶を保って死後存続する意識体)」と同様の概念です。
②高森氏は、この多面体説では、「個別の人格は生まれ変わりをしない、ということになるということです。視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか」という主張をしています。
一方で氏は、「霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、『何が生まれ変わるか』、『生まれ変わりの定義とは何か』についてすら、合意ができていないようです」とも述べています。
生まれ変わりの定義に合意がないのであるなら、この多面体説をもって「生まれ変わり」、つまり、表層の前世のものたちを含めた魂全体が、次の肉体に宿ることをもって、「個別の人格はそのまま生まれ変わりをしないが、それらを包含した魂全体が生まれ変わる」という概念であっても、なんら支障はないと私は思います。端的に言えば、私の生まれ変わりの概念は、「魂全体が次の肉体に宿ること」を「生まれ変わり」だとしています。そして、セッションで現れる意識現象の事実は、このことを支持していますから、これまでのスピチュアル霊学一般の見解に反するでしょうが、現時点ではそうと認めるしかありません。
つまり、里沙さんの場合、図の○Aがタエ、○Bがラタラジュー、○Cが現世の里沙、ということであり、このことをもって「生まれ変わり」をしていると私は呼んでいるということです。
多面体説が、「生まれ変わりの否定」になるという高森氏の主張は、氏の概念規定上の見解に過ぎないと思います。氏が、生まれ変わりの概念に合意がないことを認めているにもかかわらず、生まれ変わりの否定になる、という主張は極論であり自己矛盾ではないでしょうか。
③高森氏の「AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です」という主張は、セッションで現れる意識現象の事実に対する認識不足す。
前世人格AとBは、友愛を結びながらそれぞれの人生の知恵を分かち合い、それぞれ成長を続けている、というのがセッションで現れる意識現象の事実です。
けっして、「単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていない」わけではありません。そもそも、「魂にくっついている」という認識が誤りです。くっついているのではなく、魂の表層を構成しているもの、したがって、魂そのものの構成要素です。だからこそ、セッションにおいて、魂状態の自覚に至れば、タエやラタラジューが顕現化するわけで、彼らが「単に眠っているように魂にくっついていたり」しているわけではないことを、セッション証拠映像を検討すれば誰もが納得されるでしょう。
④「特にⅤ多面体説の場合は、AとBとCが同じXに属するものであるということを立証しなければならず、またABC間の関係も説明しなければならず、相当ハードルは高くなってしまうでしょう」という高森氏の指摘については、今後の課題です。
氏の「立証」が、科学的立証を意味するなら、氏の提示した生まれ変わりの5つの類型すべては観念論であり、すべて立証不能です。
私は、「魂の多面体仮説」の立証を、催眠を道具に用いて、セッションで確認できた「意識現象の事実」の累積から共通項を抽出する、という方法論で、これまでもやってきましたし、これからもやっていこうとしています。それ以外に「意識」の研究は方法がないと思うからです。
そして、現時点で確認できていることは、AとBとCが同じXに属するものである、という意識現象の事実です。
魂の多面体仮説に基づくSAM前世療法は、こうしたことを探究する有用な道具だろうと思っています。
そして、これまでの探究において、多面体仮説を否定する意識現象の事実は現れていないということです。
24 件のコメント:
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稲垣先生のご主張はまったくもって正当なものであり、論理の渋滞も破綻も認められないと思います。
スピリチュアリズムに言う「霊学」なるものは、稲垣先生の実証性のきわめて高い研究とことなり、「死者と思われるもの」との交信を厳密かつ厳格にそれがなんであるか、つまり、真に死者との交信であるのか、あるいは、交信内容は客観的かつ具体的な事実に基づいて真実なものであるかについて、十分に立証されたものではありません。つまり、「霊学」なるものは、交霊会などで得られた霊信にたいする信仰と呼ぶべきものではないかと思います。
また、霊信のあるものが、通常の方法で知りえない情報を含んでいるとしても、それが「超ESP仮説」による挑戦にさらされた場合、どうやって、反論を棄却できるのでしょうか?稲垣先生の応答性真正異言の事例では、「超ESP仮説」を棄却することができますが、、霊信の「超ESP仮説」を棄却するのは、容易ではありません。
わたしは稲垣先生がお考えになる通り、高森さんは、あまりにも哲学的趣味に過ぎた観念論の遊戯に没頭されておられるのではないかと思います。もっとも、それはそれで悪いことだとも思いまさんが。
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ソウルメイトさん
あなたがきっとコメントを投稿されるだろうと思い、楽しみにしていました。あらためてコメントをありがとうございました。
「魂なり霊なりは、Aという個人的存在を現世に生み出すが、Aは死後、魂や霊に付属して存在を続ける、そして魂や霊は、別のBという個人的存在を新たに世に生み出す」という高森氏の述べておられる多面体仮説は、私の提唱している{魂の二層構造仮説」とは肝心な点で、セッションで確認してきた意識現象の事実とズレがあります。特に「Aは死後、魂や霊に付属して存在を続ける」のではありません。Aは魂や霊の「付属品」ではなく、魂全体の表層の構成要素そのものである、という主張を私はしています。しかも、顕現化した前世人格Aは、人生の記憶と、怒り、悲しみ、現世のものへの心遣い、など諸感情を表出し、現象学的にとらえるかぎり、生きて活動している人格として振る舞います。したがって、その実体がどうであれ(高森氏の言われる記憶の賦活化した「遺像」・「准人格」であれ)、「意識体として生きている前世人格」として、私はセッションで接し、対話してきました。
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高森氏が、観念論の遊戯に没頭されておられる、というあなたの感想は、私も同感です。
思うに、氏は「私という個性」そのものが死後存続し、来世に生まれ変わるという「私そのもの」の連続性に希望を託しておいでになるのではないでしょうか。しかし、そう考えるとすれば、私の言う「前世人格」は、「現世の私」の「前世の記憶」として扱うことになってしまいます。だとしたら、その「現世の私」の「前世の記憶」の所在はいったいどこなのでしょうか。少なくとも、死によって消滅する脳以外のどこかに想定しないわけにいかないでしょう。この矛盾をどのように整合性のある説明をされるのでしょうか。それとも、記憶だけは脳消滅後も存続しているという実証があるのでしょうか。
私は、あなたや高森氏が指摘した、シルバ^ーバーチの霊言(霊信)が、多面体仮説を述べていることを最近まで知りませんでした。私あての霊信が述べていることは、シルバーバーチの霊信をさらに詳しく述べていると思われます。
いずれにせよ、「観念論の遊戯」がおできになるほどの豊富な霊学的知識を所有しておいでになる高森氏に対する敬意の気持ちは変わりませんし、氏には霊学的観点からの貴重な指摘をいただいたと感謝しています。
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>稲垣勝巳さん
事実に立脚することの大切さは、あらためて稲垣先生に申し上げるまでもないことですが、稲垣先生が発表されたタエやとりわけラタラジューのきわめて実証性の高い事例を前にして、あれが前世の存在や生まれ変わりの実証例でないとしたら、では、何なのでしょうか?
健全な知性は、あくまでも、事実に立脚すべきものとわたしは考えます。
「霊学」といいますが、はたして、「学」といいうるほどに批判的検討を経ているのでしょうか?
事実をあくまでも事実として尊重するなら、正体の定かでない誰かの伝聞に基づく憶測にではなく事実をこそ、重視すべきものと考えます。
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おやおや、ずいぶんなご意見が飛び交っていますね(笑い)。
いくつか、誤解のないように付加しておきますと、
「生まれ変わりとは言えない」というのは、文の前の方にある「ある人が死んで、一定の時期を経た後、再び生まれてくる」「ある統合的知性・精神体が、一つの肉体を占有し、それと融合しつつ物質的な世界を生きることを、かつて行ない、そして新たに行なうこと」という定義(仮の)を前提にすると、ということです。
論証・論議というものは、ある定義なり命題なりを決めて、それが成立するかどうかを確かめるものでしょう。そして、実際と合わない場合は、定義を疑うか、方法を疑うかするかです。
で、定義が間違っているなら、違う定義をしなければならないでしょう。「何が生まれ変わるか」「生まれ変わりとは何を指すか」と問うているのはそういう意味です。
「現世の“私”は、死後、再びある肉体を占有して、肉体と融合して生きることはない」という主張なのだとしたら、改めて、“私”の死後存続とは、生まれ変わりとは、何なのでしょう、という問いが出てくるのは自然ではないでしょうか。
(つづく)
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それと、まあこれはかなり懐疑的な議論になりますが、超ESP仮説を超えて立証されたのとおぼしきものは、過去に生きたラタラジューという人の人格の主要部分が死後も保持されているということであって、それに関する諸説明が立証されたわけではないと思います。
私が里沙さんの真性異言現象を非常に高く評価しているのはそこにありますが、それに関する諸説明については、留保せざるを得ないものがあります。それはくさそうとするものではなく、他の諸情報・報告も勘案しつつ慎重に考えたいと思っているだけです。
また、超ESP仮説を超えるものとしては「交差通信」というものもあるので、マイヤーズ通信が故F・マイヤーズの人格から送られてきたものだということも、立証されていると思います。しかし、マイヤーズ通信の内容が真実であるかどうかは、また別の話です。
こういう話は心霊研究や超心理学の議論の中ではよくあるものだと思いますが、これもまた観念の遊技と取られてしまうのかもしれませんね。
もうひとつだけ。この一連の構図の中には、「死後世界(霊界・中間世)」というものがほとんど出てこないことに、私は強く違和感を感じています。「眠っているよう」というのは、そういう意味です。これはこれまでたくさん報告されてきた「あの世にいる死者の通信」とはえらく異なるもので、その隔絶をどう捉えたらよいのか当惑している状態です。
「こういうありようもある」ということなのかもしれません。ただ、そうしたありようを普遍化してしまうことは危険だと思います。(同様に、スティーヴンソンの事例は、情況証拠としては非常に強いものですが、あれを生まれ変わりの一般的ありようだと捉えるのは危険だと思っています。)
まあ、こういうことを言っても「観念的遊技」とお捉えになる方には意味はないでしょうから、これ以上はやめておきます。たいへん残念ですが。
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高森さん
私のブログにコメントをいただけたことにまず感謝をいたします。ありがとうございました。
あなたの生まれ変わりの定義、「「ある人が死んで、一定の時期を経た後、再び生まれてくる」「ある統合的知性・精神体が、一つの肉体を占有し、それと融合しつつ物質的な世界を生きることを、かつて行ない、そして新たに行なうこと」という定義からすれば、多面体仮説は「生まれ変わり」をしていないという論理になることは当然でしょう。「現世の“私”は、死後、再びある肉体を占有して、肉体と融合して生きることはない」
というのが、セッションで確認してきた意識現象の事実です。表層の前世のものたちを含め、魂全体が、次の肉体に宿る、つまり、個別の人格はそのまま生まれ変わりをしないが、それらを包含した魂全体が次の肉体に宿る、つまり、端的に言えば、私の生まれ変わりの概念は、「魂全体が次の肉体に宿ること」を「生まれ変わり」だとしています。「現世の私」は、次の肉体では
魂表層の前世のものたちの一つとして死後存続していく、というわけです。
私は、この生まれ変わりの定義を普遍的なものなどとは主張していません。意識現象の事実の累積として確かめてきた「とりあえずの真理であろう」と思っているのです。
生まれ変わりの定義が異なれば、それぞれの定義による論理的必然として、生まれ変わりの見解にズレが生じるのは当然のことでしょう。
こうした認識が明確になったことは、私にとって大きな稔りだと思っています。
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わたしは、高森さんの真正なスピリチュアリストと見識には敬意を覚えております。高森さんが緻密で、きわめて正確な論理を駆使される方であることも承知しております。従って、高森さんが「観念の遊戯に惰しておられる」等の表現は適切を欠くものであり、失礼の段を深くお詫びいたします。
ただ、スピリチュアリズム信奉者の間で生まれ変わりについて「部分再生説」や「全部再生説」などの概念があたかも、立証された事実であるかのように語られていることを苦々しく感じており、そもそも、それらは、いかなる客観的かつ具体的な事実によって確証されているのかという疑問をぬぐい去ることができないため、高森さんが生まれかわり=再生のパターンを説明されるさいにそれらのモデルをお使いになられたことに過剰に反応してしまいました。
なお、わたしは、ユングの深層心理学や精神医学の臨床で観察された事実に拠ってシルバーバーチの「多面体論」や稲垣先生が提唱される「魂の二層構造仮説」に与するものでありますが、高森さんのご主張もまた、正当なものであると理解するものであります。繰り返しになりますが、超越的なものごとは多様な理解がゆるされてよいと思います。
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ちょっとエスカレートしすぎたようです。ご不快がありましたらお詫びします。
確かに「普遍的なものと主張していない」のはその通りで、それはこちらの間違いでした。
この定義の違いは根幹的なところに関わるものだと思うので、私も慎重に再考したいと思います。
この議論の中でずいぶんいろんなことがはっきりしてきました。こちらからも感謝申し上げます。
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はじめまして、GlassAgeと申します。
高森さんと稲垣さんのやり取り、とても勉強になります。
私自身は多面体説=類魂説が正しいと考えてきました。ただ、類魂説だと、どこからが私でどこまでが私なのかが確かにわかりにくいですね。以前、その類魂説と仏教の無我説を関連づけた議論を展開してみたことがあります。
仏教とスピリチュアリズム(1)~(4)
http://glass-age.cocolog-nifty.com/blog/cat22614839/index.html
私はこんな風に想像します。上と同じく魂をXとし、前世Aや前世Bがあって、私はCとして生きてきたとします。Cが霊界に還ったとき、AやBが出迎えてくれるかもしれません。その時点ではAやBは他者と認識されます。しかし、A、B、Cの間には明確な境界線はないのです。ときが経つにつれて、CにはAやBの記憶が流れ込み、AやBも私である、いや、私はXそのものであるという境地に到るのかもしれません。そしてXである私は、必要に応じて、AやBやCである自分を表現することもできるのではないでしょうか。必要と判断すれば、今度はDという個性を地上に送り込むのではないでしょうか。
Cと、XやDなどの間に同一性があるのか(私と呼べるのか)というのは確かに議論のあるところでしょうね。でも、単純な全部再生説であれば、同一性が保持されるでしょうか。Cとしての経験・記憶しかない私と、AやBであった記憶も思い出した私とでは、果たして同一人物と呼べるでしょうか。生まれ変わりを考える中で、私の同一性の保持を要求するのは、どんな説であれ、困難なように思います。
ただ、正直なところ、それを受け入れがたい感情も残ります。私は数年前に母を亡くしましたが、ミディアムを通じてメッセージを寄せてきた母は生前と変わらぬ感情や個性を持ち、ミディアムが涙ぐむぐらいの情愛を示してくれました。しかし、その母が、実は、前世や前々世なども含みこんだより大きな魂となっているのだと想像すると、もはやそれは私の母とは呼べないような気がして、とても複雑な気分になります。かなり感傷的な議論になりましたが、稲垣さんと高森さんのやり取りを読んで、そんなことを思いました。
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GlassAgeさん
現世にあっては、魂状態の自覚に至れば、魂表層の前世のものがクライアントの主訴の必要に応じて顕現化し、感情を伴いながら人生の苦悩を語ります。
同様に、霊界にあっては、霊媒の求めに応じて魂表層のあなたの母上が顕現化し、霊媒に憑依し、母上の個性と感情をもってあなたに語りかけたと推測できるのではないでしょうか。この
この推測は、SAM前世療法に現れる意識現象の事実を、手がかりにした推測で、観念論ではないと思っています。
実証に結びつくような何らかの検証した事実抜きの推論・議論をすることを、私はこれまでできるだけ回避してきました。疲れてくるからです。
それが、私の生まれもっての性向です。
それが、催眠臨床実践者としての私の身上です。
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>GlassAgeさん
わたしが考える、再生や前世といったものについての認識はおおむね、あなたがおっしゃることと同じようなものだと思います。
「わたし」が「わたし」であることについて、仏教の一派である禅やヒンドゥーにおけるヨーガの修業体系においては、「自己」を脱却してより高い自己に至るものであるとわたしは認識しております。また、トランス・パーソナル心理学におけるケン・ウィルバーの主張もそのような線に沿ったものであると思います。この問題については、意識現象として立ち現れてくる、解離性同一性障害における交代人格などについても、考察する必要があるのではないでしょうか?
「わたし」とは何かという問題については、より広汎で多様な知的ソースから検討を加えるのが妥当ではないかと思いますがいかがでしょうか?
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>稲垣勝巳さん
高森さんは、稲垣先生が発表されたタエやラタラジューの事例において、彼らが彼らの霊界における活動について語っていないことに疑義を呈しておられましたが、その理由は簡単で、そのような質問がなされなかったからだとわたしは思います。
マイケル・ニュートンは、退行催眠の被験者から、中間世=霊界についての情報を聞き出して本を書いていますが、稲垣先生の収集された事例の中にニュートンの記述と一致するものが多くみつかれば、情報の普遍性、妥当性に一定の寄与を果たすのではないかと思いますが、いかがなものでしょうか?
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稲垣さん
早速のお返事ありがとうございます。
前回は字数制限の関係で書けませんでしたが、稲垣さんの著書や映像から多くを学んでいることに感謝申し上げます。
>それが、催眠臨床実践者としての私の身上です。
稲垣さんの一貫したお立場ですね。私はとても貴重な姿勢だと敬意を表します。しかも、稲垣さんの説はスピリチュアリズムで言われてきた類魂説(マイヤーズ)や多面体説(シルバーバーチ)ともほぼ一致しており、とても心強く感じます。私は稲垣さんの説明にとても納得できます。ただ、この多面体説の場合、私が生まれ変わっていると言えるのだろうかという素朴な疑問が出てくるのも当然であり、それを緻密に整理して示されたのが高森さんなのだろうと理解しました。(もちろんそれに答える責任があるのは稲垣さんではないと思います)
ソウルメイトさん
はじめまして。丁寧なコメントありがとうございます。
>「わたし」とは何かという問題については、より広汎で多様な知的ソースから検討を加えるのが妥当ではないかと思いますがいかがでしょうか?
なるほど、そうかもしれませんね。ただ、実は、私は、高森さんのように妥協なく真摯に追究しようというタイプではないようで、「類魂説や多面体説になると私とは何かという難しい問題がありそうだけど、肉体をもった人間にはすっきりとはわからないものなのだろう。まあ、それでいいか」と考えています。そう言いながら、ときにはみなさんの議論に参加したい誘惑にかられるのですが(笑)。
コメント欄を無駄に長引かせてしまったかもしれませんが、これを縁にまたお邪魔させていただければ幸いです。
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>GlassAgeさん
「仏教とスピリチュアリズム」拝読させていただきました。わたしも仏教にシンパシーを覚える人間なので大変興味深く読ませていただきました。わたしも生まれ変わりや前世については、実証の大切さは当然ですが、「わたしとは何か」については、おっしゃるように、素朴な確信の感覚もまた、大切なのだろうと思います。ありがとうございます。
稲垣先生。先生のブログの貴重なコメント欄を私事に使ってしまいました。すいませんでした。お許しください。
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GlassAgeさん
私が生まれ変わっていると言えるのだろうかという素朴な疑問が出てくるのも当然であり、それを緻密に整理して示されたのが高森さんなのだろうと理解しました。(もちろんそれに答える責任があるのは稲垣さんではないと思います)
上記のコメントをいただきましたので、「私」が生まれ変わっているかどうか、についての現時点で分かっている意識現象の事実から結論できる回答です。
高森氏にも同様に答えていますが、生まれ変わるのは「表層を含めた魂全体」だというのがセッションで確認してきた意識現象の事実です。
現世の「私」は死後、無に帰するわけではなく、魂表層を構成する前世ものたちの一つとして存続するといことです。そして、魂表層の他の前世のものたちと友愛を結び、それら前世のものたちと人生の知恵を分かち合いながら成長を続けるということらしい。要するに、現世の私は、意識体として死後存続はするが、そのまま「来世の私」として生まれ変わることはしないということです。しかし、魂表層にあって、来世のものに何がしかの影響力は保っているということです。その意味で、「私」は来世にも連続性は保っていると言えると思います。
「現世の私の人生」は、肉体の死によって、いったん完結し、その「現世の私」を、「前世のもの」として魂表層に包含した魂全体が、来世のものの肉体に宿ること、を私は「生まれ変わり」と呼んでいます。
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ソウルメイトさん
このブログのコメント欄は読者のみなさんに開かれています。
そして、私の記事に対して様々な立場からのコメントをいただくことによって、私は自分の仮説を補完し、より確かな仮説へと再構築し続けることができると考えています。私は、批判・同感などのご意見「すべての経験に開かれてありたい」と心がけています。
「私事に使ってお許しください」などは全く無用のお言葉です。
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>稲垣勝巳さん
ご寛大なお言葉、ありがとうございます。
さて、前回、コメントさせていただきましたが、稲垣先生は、マイケル・ニュートンの中間世=霊界における魂の諸活動についての先行研究を追試なさるというようなご予定はありませんか?そのような研究をなされるのであれば、是非、発表していただきたいと思います。
稲垣先生が、情報の真偽を客観的事実によって検証した被験者の語る「霊界」についての情報は、相当に信じるに足りるもののようにおもえますので。
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先日、日本教育催眠学会の席上で、日本福祉大学教授で学会理事長の鶴光代氏に次のような質問をしました。
催眠中に現れる「意識現象の内容」を客観的に判断する方法論は、被験者の内観(内省)を手がかりにする以外に現行科学にはないでしょうか?
鶴氏は、日本催眠医学心理学会理事長を歴任しておいでになるアカデミックな催眠学をリードするお一人であり、成瀬悟策医博の高弟でもあり、私を育ててくださった方でもあります。
回答は、「ない」ということでした。
催眠中の脳の活動領域や活動レベルを測定する機器はあっても、意識内容そのものを精査する方法を現行科学は持っていないということでした。
したがって、私の用いる方法論、つまり、催眠中の諸意識現象の事実を累積し、共通項を抽出し、とりあえずの真理だとみなす、という方法論でやっていくしかないようです。フロイトもユングも同様にして、無意識の概念や元型論を構築してきたわけです。
マイケル・ニュートンの霊界探索の方法論もこれにしたがっているわけで、私も追試は可能です。
再度彼の著作を読み直し、できるところから追試を試みようと思っています。
ただ、目下の興味関心は、魂の二層構造仮説の検証です。
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>稲垣勝巳さん
先生の今後のさらなる研究の続行と深化にワクワクするような期待を覚えます!
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>稲垣さん
再度の丁寧なお返事ありがとうございます。
高森さんとのやり取りでは違う印象を持たれたかもしれませんが、私にとっては、稲垣さんの説と、マイヤーズの類魂説やシルバーバーチの多面体説とはほぼ一致しているように思われます。臨床から得られた知見と霊界通信との一致は驚くべきことで、とてもうれしく思います。
これからのさらなる研究に期待しています。
>ソウルメイトさん
私のブログもお読みいただきありがとうございます。
私はマイケル・ニュートンの研究は読んだことがないので、とても興味があります。ソウルメイトさんの紹介を読んで、早速取り寄せました。貴重な情報をありがとうございます。
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>GlassAgeさん
マイケル・ニュートンが記述する霊界での魂の描写は、がっかりするくらいチープで貧弱なものです。まるでブロイラーの飼育ケージのように感じられませんか?マイヤーズやオーエンによる壮大かつ壮麗な描写とは対局にあるようです。
もちろん、魂についてのマイヤーズやシルバーバーチの説明とはかなり異なります。
マイケル・ニュートンは、稲垣先生と異なり、被験者の語りを検証や実証することもなく無批判に寄せ集めただけのように思われます。ゆえに、ニュートンの発表した内容は、他の研究で内容の真実性が立証される必要があると思います。
前世療法を標榜する人たちの問題点は、クライアントが語る「前世の記憶」が、真実、前世の記憶であるかどうかを客観的事実に照らして検証しようという真摯な態度が欠けていることです。そこが稲垣先生のスタンスとは大きく異なるところで、イアン・スティーヴンソンのような実証や事実性を重視する研究者が、前世療法で語られることの真実性に疑惑のまなざしを投げかけた理由でもあったようです。
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マイケル・ニュートンの二冊の邦訳を読んでいますが、催眠臨床実践者として私の驚きは、被験者に5時間もの催眠状態をとおして霊界情報を集めていることです。私のセッションでは2時間半が限界で、クライアントが尿意を催してそれ以上の催眠続行ができません。また、霊界情報を明確に詳細に語るクライアントにも、ほとんど出会うことはありません。類魂状態で霊界に存在していたらしいことを、「魂の兄弟たちから分かれて現世に生まれてきた」と語ったクライアントが一人だけいるくらいです。
また、マイケル・ニュートンの催眠誘導技法と霊界情報を探る上での前提が不明であるのもひっかかります。「魂状態で霊界にあったときの記憶の想起」だという前提であり、その記憶のありかが脳に局在しているというのであれば、語られた霊界情報はすべてフィクションということになります。脳以外のどこかにも記憶の所在があるというのであれば、それはどこなのでしょうか。
アカシック・レコードなどを持ち出すとは思いませんが。
管見する限り、2冊の拙著出版以後、待っているのですが、語られた前世の記憶を検証した著作は出ていないようです。
検証に値するだけの詳しい語りが出ないのか、出ていても検証しないだけのことなのか、私には分かりません。残念なことです。
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>稲垣勝巳さん
実践家としての貴重なご指摘、ありがとうございます。
わたしもマイケル・ニュートンの著作は、ニュートンによる創作の疑惑が濃いと思います。ニュートンがどんな思想背景を持つ人物なのか定かにはわかりませんが、彼は神智学やグノーシス思想に相当、影響されているように思います。
そして、肝心なことは、彼の著作は稲垣先生の研究報告とことなり、セッションの詳細、クライアントにかんする情報および、何人の被験者にどのような質問をし、その答えがどうであったかについて、一切あきらかにしておりません。
従って、彼の著作は、他の追試研究によって検証されない限り、ニュートンの創作または、被験者のファンタジーと受けとめるのが妥当だろうと思います。
わたしは、ブライアン・ワイスを始めとする前世療法家が実証研究に踏み出さないことをいぶかしく思います。彼らは、ほんとうに死後生存や生まれ変わりを単なる「信仰」や「淡い期待」以上のものにしたいという意思や熱意があるのかと。
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