2012年6月21日木曜日

前世人格が「生きている」とは、物や他者と関わりながら、経験を積み、成長を しているのか?

前ブログ記事対して、高森光季氏より以下のご質問コメントがありました。返信しようと3度試みてもアップできないので、ここで返信したいと思います。SAM前世療法によって探究してきた前世人格のありように関して、きわめて重要かつ、核心に迫るご質問ですので、読者のみなさん多くの共通する関心事だと思われるからです。
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前の雑感に関連して、稲垣先生に向けて、もうひとつ、素朴な疑問を述べておきます。理屈っぽい問題で申し訳ないですが。
 それは、たとえば、里沙さんの前世人格であるタエさんやラタラジューさんは、「今も生きている」のかという疑問です。 ① 生きている」というのは、どこかの場で、周囲の事物や他者と関わりながら、経験を積み、成長をしているのか、ということです。
 主体・人格が、あくまで「生きている」――現在も経験を重ね、成長をしている――ものを指すのだとしたら、前世人格はそれとは存在位相が異なるのではないか。それとも、 ② 現世人格の里沙さんを通して(というのも不思議な表現になりますが)生きているのか。 ③ 生きているとしたら、それは里沙さんとは別の「主体・人格」ということにならないか。
 やれやれ、厄介な問題ですね(笑い)。                         高森光季
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さて、上記高森氏の①~③のご質問に回答できる私の前提は、SAM前世療法によって顕現化した前世人格の語り現象の共通項から推測できることだということです。「前世人格の語り」という、クライアントが示す「意識現象の事実」にもとづく推測です。クライアントのセッション中に示すその意識現象が、客観的事実であるか、主観的なものであるか、は検証不能です。
質問①について
前世人格は、どこかの場で、周囲の事物や他者と関わりながら、現在も経験を積み、成長をしているのか、ということに関しては、それはないようです。
前世の人生が終了した時点で、認識の成長は停止したまま、つまり、前世の人生終了時点の学びや、被った苦痛を保持したままで、いわば、前世で得た認識を「固着」した状態で生きていると思われます。
すくなくとも、現世の者をとおして、今も経験を積み、成長していることはありません。
なぜなら、前世人格には、現世のありようが分かっていないからです。したがって、前世人格と現世人格とは、つながりをもっていることは確かですが、相互交流の形ではなく、前世人格から現世人格への一方的な形であるようです。
つまり、現世人格の、現世の経験や学びを資源として、それを前世人格が自らの経験や学びとして取り入れ、今も成長していることはないようです。
この意味で、前世人格は、前世限りで成長を停止した死者だと考えられないわけではありません。
しかし、前世終了時の認識を固着したままで「生きている」ので、その人生の学びや、苦悩を現世人格に訴え続けています。
その結果、前世人格の獲得した技能や能力が、現世に遺産として受け継がれる場合があるようです。「生まれつき」だと言われるような、あるいは「天才的」と呼ばれるような、諸技能・諸能力の発揮される現象などが、これに当たるのでないでしょうか。遺伝的資質と生育環境の相互関係だけでは説明できないような場合です。
たとえば、私には、自分には理解不能な浄霊能力があると思われますが、そうした能力を身につける修行(訓練)は一切していないし、そうした能力を発揮したいという願望を持ったこともありません。ただし、クライアントと私が、ともに前世を過ごしたという複数のクライアントの複数の前世人格の語りには、私が修験者、禅僧、真言密教僧、牧師、神父などをしていたということがあるので、そこで宗教的修行をしており、その前世の修行で獲得した浄霊能力が現世の私に遺産として持ち越されているのかな、と思うことがないではありません。
一方、前世で被った苦痛も、現世人格に訴え続けていますから、その影響を受けて、心理的に不都合な諸症状や、ときには肉体的に不都合な症状を起こしていることも、ほぼまちがいないと思われます。その典型が、原因不明な諸恐怖症、原因不明な特定個所の疼痛などです。
だからこそ、SAM前世療法の「療法」としての存在意義があるのだと考えています。
ところで、前世人格と現世人格の交流のありかたは、一方的ですが、前世人格どうしにおいては相互交流的のようです。互いの人生で獲得した知恵を相互に分かち合う友愛関係(共有関係)にある、と私あて霊信は告げているからです。
そういう相互交流・共有関係にあるから、前世人格たちが構成している魂表層全体の集合的意識は、成長・進化の保障がされていると考えられます。
そして、一定の成長・進化に到達すると、生まれ変わりが卒業になると考えられます。
こうした、魂の成長・進化の仕組みによって、生まれ変わりが繰り返されると理解してよいようです。
質問②と③について
質問②の「現世人格の里沙さんを通して(というのも不思議な表現になりますが)生きているのか」についての回答は、既に質問①についての上記回答の中で述べています。
前世人格は、現世人格をとおして、その経験や学びを資源として、自らも経験を積み成長をしている、ということはありません、というのが回答です。
既に①の回答で述べたように、前世の人生終了時点の学びや、被った苦痛を保持したままで、いわば、前世で得た認識を「固着」した状態で生きている、というのがセッションで顕現化する前世人格のありようです。前世人格は、肉体の死後も、意識体として経験を積み、成長・進化を続けているという事実は、ないようです。
前世の死の時点で、経験を積むこと、成長すること、を停止していると言う意味では、前世人格は死者そのものでしょう。
たとえば、中世に生きた前世人格が、優れた霊能力を発揮したために、悪霊憑きや魔女の扱いを受け、殺されていた場合には、現世の者にも素質としてある霊能力を発揮できないように封印をしている、と語ります。
つまり、前世人格には、現世の事情が分からず、ひたすら現世人格が自分と同じ運命をたどることがないように守っている、ということを語ります。つまり、前世の死の時点の認識が固着したままなのです。
私が現世のありようを説明し、現世では、霊能力を発揮したからといって迫害をうけることはないこと、霊能力を発揮して人々の幸せに貢献することが、あなた(殺された前世人格)がやり残し、現世に生まれ変わっている目的の一つではないのか、という説得をし、それに納得できると、封印を解くと約束してくれます。今後は、魂の表層にあって、現世の者が霊能力を十全に発揮できるように守る、と約束してくれます。
セッション後、守護霊との対話能力や、予知能力や、ヒーリング能力の覚醒の報告を受けた事例が複数あります。
現世人格が、強い霊感や、ある種の霊能、霊媒能力を持つ場合の前世には、こうした事例が多く発生することが分かっています。
質問③「生きているとしたら、それはクライアントとは別の主体・人格ということにならないか」ということについては、そのとおりです、のいうのが回答です。
私のセッション中の、顕現化している前世人格との対話においては、前世人格に対してクライアントとは別個の主体・人格として向き合い、処遇します。そして、前世人格も、クライアントとは別個の主体・人格として私に正対します。
顕現化した前世人格は、クライアントとは別個の主体・人格として振る舞い、自分の人生を問われるままに語る、というのが観察される「意識現象の事実」です。
このことは、アンビリで登場したタエとラタラジューの両人格の示した語りの現象をご覧になれば、了解されると思います。
長くなりましたが、以上の回答が、現時点で分かっているSAM前世療法の示す「意識現象の事実」です。
また、ご質問がありましたらどうぞコメントしてください。

12 件のコメント:

高森光季 さんのコメント...

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コメントは1000字という制限があるようです。それ以上書くとはじかれます。やりにくいですね。手短かに書かねばならないので無礼な文章になるかもしれません。
《前世人格は、どこかの場で、周囲の事物や他者と関わりながら、現在も経験を積み、成長をしているのか、ということに関しては、それはないようです。》
《この意味で、前世人格は、前世限りで成長を停止した死者だと考えられないわけではありません。》
 定義の仕方にもよるのですが、「人格」とは「意志し、判断し、変化し、成長する主体」であるとするなら、前世人格は人格ではないことにならないでしょうか。
 むしろ、前世人格は「記憶、想念、感情の濃密な複合体」であって、マイヤーズ通信の言う「遺像」(『不滅への道』第十二章)の超濃密なもので、そこに霊(spirit)が再降下したり、霊的エネルギーが注ぎ込まれた時のみ賦活するものだとは言えないでしょうか。
 そうではなく、あくまで「人格」なのだとしたら、「タエやラタさん自身は、里沙さんとして生まれ変わってはいない」ということにならないでしょうか。里沙さんも次生(あるとして)の人格には生まれ変わらないということにならないでしょうか。
《「生きているとしたら、それはクライアントとは別の主体・人格ということにならないか」ということについては、そのとおりです、のいうのが回答です。》
 里沙さんはタエやラタさんの「魂の経験内容」を受け継いでいるけれども、タエやラタさんの生まれ変わりではない、ということにならないでしょうか。
 またタエやラタさんは、霊界へ行って活動することも、成長して高い境域へ移動することもない、「未浄化霊」のような存在にならないでしょうか。
 (現象学的に、タエやラタさんは「別個の人格として現われている」というのは重々理解しますが、幽霊がしばしば未浄化霊そのものではなく「遺像」である場合もあるように、そこに霊的主体を伴った人格があると結論づけられるでしょうか。)

高森光季 さんのコメント...

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 私の現時点での生まれ変わり理解というのは、次のようなものです。ただしこれは「全再生」プロセスのもので、「部分再生」などもあるようですから、あくまで一つの類型に過ぎないかもしれません。
 私の spirit は、ある領域から新しく生まれ(ニュートンが報告しています)、成長のために現世に降ります。ただし、spirit の或る部分(むしろ本体)は霊界に残ります。Aさんとして生きて死んだ後、現世に降りていた部分の spirit は霊界に戻ります。この時、Aの人生の体験(記憶、想念、感情など)は持ち帰り、spirit 全体の糧になります。この後、指導霊・守護霊と協議して再び成長のために spirit の一部は地上に戻り、Bさんとして生きます。Aは多面体である spirit の一面を構成する要素ではありますが、現時点では、spirit の活動は霊界の本体とBさんということになります。
 生まれ変わる主体は spirit であり、それはかつてのAさんと「二にして一」であったが、今はBさんと「二にして一」であり、Bさんのみが「主体人格」である。Bさんの中にはAさんの体験が生きてはいるものの、自らの spirit に立ち帰る時(そういう精神的状態になった時)にのみ、前世のAさんの体験をなにがしか想起することができ、Aさんに自己同一性を感じる。
 別に取り立てて特異な説ではありません。ニュートンの説に近いかも。マイヤーズ通信では、「spiritの本体は霊界に残る」というような言及はなかったと思います。
 つまり、過去世人格は、人格のように見え、時にそう振る舞うように見えることもあるけれども、「遺像」に近いものだということになります。
 この見方で見ると、
《前世人格どうしにおいては相互交流的のようです。互いの人生で獲得した知恵を相互に分かち合う友愛関係(共有関係)にある、と私あて霊信は告げているからです。
そういう相互交流・共有関係にあるから、前世人格たちが構成している魂表層全体の集合的意識は、成長・進化の保障がされていると考えられます。》
 というのは、前世人格同士が交流しているのではなく、それは spirit の多面の間のことなので spirit においては共有されると見ることが可能です。
 そして「成長・進化」の主語(主体)はあくまでも spirit であり、それと「二にして一」である現世の私、ということになるかと思います。

高森光季 さんのコメント...

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 けれどもタエやラタさんを始め、稲垣先生の持たれたケースでは、また違う相が見られているのかもしれませんね。(あるいは前記の仮説が間違っているのかも知れません。)
《たとえば、中世に生きた前世人格が、優れた霊能力を発揮したために、悪霊憑きや魔女の扱いを受け、殺されていた場合には、現世の者にも素質としてある霊能力を発揮できないように封印をしている、と語ります。
説得をし、それに納得できると、封印を解くと約束してくれます。今後は、魂の表層にあって、現世の者が霊能力を十全に発揮できるように守る、と約束してくれます。》
 封印をしたり、それを解いたり、守ったりするのが「前世人格」なのだとしたら、「前世人格は死んでいる」のではなく、微細ではあるにしても「活動して生きている」ことになり、「前世人格と現世人格は別人格」説となるのかもしれません。ただ、それは前述したように、理屈的には「人格の生まれ変わりの否定」になりませんか。
 この封印したり、守ったりする主体は、spirit である可能性はないでしょうか。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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>高森光季さん
私の定義の仕方は、「前世人格」とは「前世の経験と学びを保持し、意志し、判断する、個性的主体」というほどのものです。変化し成長するという含意はありません。「里沙さんはタエやラタさんの魂の経験内容を受け継いでいるけれども、タエやラタさんの生まれ変わりではない、ということにならないでしょうか」という点については、私は、前世の経験内容を受け継いでいることをもって、生まれ変わりであるという見解です。「遺像」であるかどうかについては、判断留保です。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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>高森光季さん
「生まれ変わる主体は spirit であり、それはかつてのAさんと二にして一であったが、今はBさんと、二にして一であり、Bさんのみが主体人格である。Bさんの中にはAさんの体験が生きてはいるものの、自らの spirit に立ち帰る時(そういう精神的状態になった時)にのみ、前世のAさんの体験をなにがしか想起することができ、Aさんに自己同一性を感じる」という仮説にしたがった場合、前世のAさんの体験を何がしか想起するBさんは、Aさんであった前世の記憶を「想起」するということでしょうか。
しかし、ラタラジューは里沙さんの想起した前世人格という解釈はできません。顕現化し、現在進行形でネパール語対話をしているからです。この現象はどう説明できるのでしょうか?

稲垣勝巳 さんのコメント...

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>高森光季さん
私の生まれ変わりの定義は、人格の生まれ変わりではなく、魂の表層を構成している前世人格たちと、魂内層を含めた、つまり、魂表層・内層を合わせた1つの魂全体が、来世で別の肉体に宿る、という意味で用いています。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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>高森光季さん
タエもラタラジューも魂表層を構成している前世の者として、里沙さんも魂表層を構成している現世の者として、死後、魂表層の者たちと内層を合わせた1個の魂全体として霊界に上がるというのが、セッションで語られる事実です。

高森光季 さんのコメント...

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《私は、前世の経験内容を受け継いでいることをもって、生まれ変わりであるという見解です。》
 仏教の「私の転生ではなくカルマの転生」説に近いのでしょうか。
 私が死ぬとどうなるのでしょう。私の今生の経験内容を類魂仲間の誰かが受け継ぐとして、その受け継いだ仲間は「私」なのでしょうか。「私」自体はどうなるのでしょう。霊界でずっと経験内容を保持して仮死状態で留まり続けるのでしょうか。私は死後、残り続けるけれども、冥府ないしは煉獄でじっとしているのでしょうか。つまり、厳密な意味での「私」は生まれ変わらないのでしょうか。
 「死後存続」説についても同様で、私の体験内容が何らかの形で(アカシック・レコードなどに)残る、というのは、「死後存続説」とは言えないのではないかと思います。
 私が「主体にこだわっている」というのはそこのところで、私は、「経験内容(記憶・想念・感情)」の伝達(あるいはカルマの伝搬)は「生まれ変わりとは言えない」と思うのです。生まれ変わりとは、あくまで「主体としての私が生まれ変わる」(全再生であって、部分再生ではない)ことを言うのではないかと思うのです。また「死後存続」とは、私の存続であって、私の体験内容の存続ではないと思うのです。
 私=私の体験内容ではなく、私の死後存続や生まれ変わりは私の体験内容の存続や伝達ではない。あくまで「私という主体(魂)」の死後存続であり生まれ変わりである。これがスピリチュアリズムの基本的立場だと思います。
 もちろんそうではないという立場(私=私の体験内容とか)もあると思います。
 霊的な世界は多様で複雑で、人間にはわからないことだらけなので、絶対こうだとは言えません。
 ただ、どちらをお取りになるのかな、と思った次第です。

高森光季 さんのコメント...

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《ラタラジューは里沙さんの想起した前世人格という解釈はできません。顕現化し、現在進行形でネパール語対話をしているからです。》
 確かに非常に特殊な事例で、「想起したもの」=心的イメージと解釈することは無理でしょう。ただ、「里沙さん(の脳神経場と肉体場)に、spirit がラタさんの『記憶・想念・感情の濃密な総合体』をまとって(伴って)降りてきた」という解釈なら可能かも知れません。
 故マイヤーズの交霊実験だったと思いますが、マイヤーズ霊は、死後30年ほどになり、もう幻想界を超えて形相界にたどり着いている、そして霊界の情報を伝えるために現世に降りてきている、という説明があります。その時、マイヤーズ霊は、生前のマイヤーズを知っていた人たちと親しく会話をするのですが、「生前の記憶は薄れているところがあって、在りし日の自分を再現するためには、アカシック・レコードの記憶から一部を補わなければならない」と告白しています。それによってマイヤーズ霊は友人たちと生前と同じような雰囲気で会話ができるわけです。
 spirit は、現われの姿をかなり自由に操ることができるとされています。前に生きた人格の姿ならば、如実に再現できるでしょう。話していた言葉も含めて。

高森光季 さんのコメント...

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 わりと有名なパラドックスで、「Aさんが死んだ。死後存続説では、愛し合っていた奥さんは、数十年後に死んだ時、Aさんに会えるとしているが、その時Aさんがすでに生まれ変わりをしていたら、会えないのではないか」というものがあります。
 浅野和三郎先生は非常に有能な霊媒を実験台にしてこれを実験し、「ほぼすべての霊を呼ぶことができた。だから、生まれ変わりは部分再生(体験や性質の一部を渡す)なのであろう」としています。
 けれども、spirit は、過去に生きた人物の姿を取って現われることができる。それは必ずしも過去に生きた人物がそのまま霊界に留まっているということにはならない。
 霊界にいるAさんの spirit は、現在Bさんという新しい生を現世に送り出しているが、奥さんが死んで霊界にやってきた時には、Aさんのそっくりそのままを再現して迎えることができる。だから、たとえば3歳のかわいい赤ん坊として死んだ魂は、数十年後に親が死んで霊界に来た時にも、かわいい赤ん坊の姿で出迎える。若い時に死別した恋人は、数十年後に霊界で再開しても、愛し合っていた頃の若い男女として再会することができる。それは spirit と出会っているのであって、その時に spirit は別の現世人格を現世に生きさせている(生まれ変わりをしている)最中かもしれない。
 spirit 万能説ではありません。マイヤーズ霊でさえ「細かいところは忘れた」とうろたえたくらいです(笑い)。

高森光季 さんのコメント...

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前に書きました
「タエやラタさんは、霊界へ行って活動することも、成長して高い境域へ移動することもない、「未浄化霊」のような存在にならないでしょうか。」
という質問へのお答えはいかがになりますでしょう。

高森光季 さんのコメント...

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コメントの6と7を見ないで新たに投稿してしまいました。ごめんなさい。
ちょっと混乱しますので、また日を改めて。