2012年6月13日水曜日

なぜ、前世人格タエとラタラジューの語りにこだわるのか

ブログの記事をごらんになって、7年間も「タエ」の語りの謎にこだわっていることにあきれた読者もおいでだろうと思います。

私が強いこだわりをもって、前世人格タエとラタラジューの語りの謎を数年にわたって執拗に追いかけるのは、生まれ変わりの実証のために、出来うる限りの疑問・謎を明らかにしたいという強迫的欲求があるからです。

生まれ変わりを事実として認め、安んじて死に正対したいと願っているからなのです。
死後はないのであり、死ぬことをもって自分の存在は一切無に帰する、と思いながら死んでいくのが恐怖なのです。
というのが、生まれ変わりの実証研究に取り組む前の本音です。

現在は、タエとラタラジューの事例の検証によって、生まれ変わりの事実を実証しえたという思いがありますから、里沙さんという一人の人間に起きている生まれ変わりは、自分にも起きているはずだという実感から、死への恐怖はずいぶん軽減しています。

ただし、私の生まれ変わりが事実であってほしいという願望によって、タエとラタラジューの語りの検証にバイアスがかかっており、慎重を期しているつもりが事実誤認を犯してしているのではないかという自己反省にとらわれることがときどきあります。

こうしたことから、タエとラタラジューの語りの検証に執拗にならざるをえないというわけです。
私には、霊能者やらチャネラーやら宗教家の実証のともなわない、生まれ変わりや魂実在の言説を、素直に受け入れられない生まれつきの懐疑的気質があります。
もっともらしいけれど実証のともなわない、千、万の言説より、たった一つの実証された事実確認を自分の体験として持ってこそ納得できる凡人です。その事実が、唯物論に真っ向から対立することであっても、まちがいのない事実であることが確信できれば、受け入れることに抵抗を持つことはありません。

人は、死によって無に帰するか、死後存続があるか、のいずれでしかありません。
突然の事故死でもない限り、誰もが、死を間近にして死に正対するとき、死後はないのか、あるのか、いずれかを選び取って態度を決め、死を迎える覚悟をすることになるに違いないはずです。ふだんは、ずっと先でしかないと思う死に、今正対して考える重苦しさを回避し、他愛のないおしゃべりや快楽に気分を紛らわせていても、誰もが、否応なしに、必ず、死と正対せざるをえないときがやってきます。

そうした直近に迫った死との直面のときに、私がふだんから備えておくための探究です。なによりも、そのときに自分が救われたいための探究です。安んじて死に臨みたい。そして、死後は無である、という証明ができたなら、それはそれで大きな収穫です。生まれ変わりが無いことの証明は、前世の因果やら霊の祟りを騙って金儲けをすることはもちろん、霊能者を称する人たちは存在理由がなくなり、排除されるでしょう。前世療法が成り立つ余地もまったくなくなります。私は、死後は無となる覚悟のもとに、死の恐怖を受け入れ、死ねばよい。

しかし、生まれ変わりの探究の結果、それがあるという証拠が現れたときは公開し、分かってきた霊的真理を広めることに躊躇があってはならないと思います。自分を救うための探究が、他の人の救いにもつながるとしたら、お役立っているという喜びになります。
そうした思いからの、情報発信です。

しかし、生まれ変わりの探究だけに関心が向いているわけではありません。
原発の再稼働問題、民主党のふがいない体たらく、消費税問題等にも重大な関心を持っています。
ただ、生まれ変わりの科学的実証などという浮き世離れした探究は、原則ヒマ人や変人にしかできないことなので、それに発信をしぼっているというわけです。
私の実存的原体験は、小学校6年生に遡ります。
母方の祖父が、火葬場の焼却釜の中で、吹き出す重油の火炎に包まれて燃えていくありさまを、釜の覗き穴から見てしまったという体験です。当時の火葬場は管理が杜撰で、係員が席を外した機会に、従弟と興味半分で遺体の焼け具合を見るための釜の覗き穴から見てしまったのです。肉が焼け、頭蓋骨や肋骨があらわになっていく最中でした。
この原風景は、現在もありありと脳裏に焼き付いたまま、忘れることはできません。
そして、死ねば自分もこうなるのだ、という当たり前のことを、目前で見せつけられ

2 件のコメント:

名無し さんのコメント...

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素晴らしい内容でした。
心を打つ文章に感謝します。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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>名無しさん
コメントありがとうございました。
あなたの琴線に触れたとしたらうれしいです。
私の正直な心情を吐露しました。