SAM前世療法は、魂の実在とその二層構造を作業仮説にしています。
魂の表層は前世人格たちで構成されていることは、これまでの実践から確かめられてきました。表層の前世の者たちは、互いの人生で獲得した知恵を分かち合い、魂表層全体が進化・成長へと向かうという仕組みになっていると、このブログに公開してある筆者あて霊信は告げています。
その魂の表層から呼び出した前世人格ラタラジューが応答型真性異言を話したことで、「表層は前世人格から構成されている」という作業仮説は検証できたと思っています。
前世人格は、今も、「魂表層に自分の生きた当時の感情を抱いて、意識体として生きている、そして、互いの人生の知恵を分かち合い、苦脳・苦痛も訴え合っている、ということが、クライアントに顕現化する前世人格の語りから分かってきました。
問題は魂の内層はいったいどんな構造になっているかです。
この3年間、顕現化した前世人格に、内層のことを尋ねる作業をおこなって探ってきましたが、前世人格は、内層のあることが分かる、とまでは回答しますが、それ以上のことは答えていません。
今のところ、魂の内層について考察できることは、筆者あて霊信から推測するしかないのです。そもそも、SAM前世療法の骨格である作業仮説は、霊信にもとづいているからです。筆者にとって、霊信の恩恵は計り知れません。
そして、何度も霊信を読み返すうちに、最近やっと輪郭が浮かんできました。
霊信は次のように告げています。
①魂のはじまりは、ある「意識」から生じるものである。
②その「意識」をあらわす言葉は、「意識体」とあらわすことでしか表現できない。
③魂は転生するもの、「意識体」は転生をしないものである。
④転生する必要がある「意識体」と、しない必要がある「意識体」はつながりをもち、お互いが学びを得あう関係である。
⑤あなた方の魂の核となる「意識体」が・・・
⑥魂の表層部分により包まれるのは「意識体」である。
⑦内層にある「意識体」はあるがままに完全性を保つものである。
以上は第12・13・14霊信で使われている「意識体」の用語法です。12・13霊信は「稲垣の祖父の守護霊とつながりをもつ霊」、14霊信は「ケイシー霊」を名乗っています。
さて、二つの霊の「意識体」の用語法にはズレがあります。
①②③④で言う「意識体」は魂とは別に、霊界に存在する「意識体」を指していると思われます。
⑤⑥⑦の「意識体」は、転生する魂の核・内層を指していると思われます。
守護霊団からの霊信が、でたらめを告げていないとすれば、前者の「意識体」と後者の「意識体」は、同じものを指しているということになります。
つまり、霊界に存在する転生をしない「意識体」と同じもの、あるいは相同のものが、ペアとして、あるいは分身として、転生する魂の内層にも存在するということです。
霊信受信者M子さんは、「類魂」という言葉を知りません。したがって、通信霊は「類魂」という言葉をM子さんの語彙から用いることができず、「ある意識」、「意識体」と表現するしかなかったと推測することは可能です。大胆にそう解釈すると、「意識体」とは「類魂」のことである、ということです。
結論を言うと、魂の内層は、「類魂」ないし「類魂」と相同のものから構成されているということになります。そして、霊界の類魂と、魂内層の類魂は、互いにつながりを持ち、学びを得あう関係にあるということになります。
そのように仮定すれば、ハイヤーセルフ(高次自我)とは、魂内層を構成している「類魂」を意味していると解釈することができそうです。
類魂はそこに属する魂の地上経験を学び合っている成長・進化のための一つの共同体(共同的集合意識)ですから、叡智に富む意識体であることは当然であるからです。
ハイヤーセルフとコンタクトするとは、自分の魂内層の類魂全体の意識(集合意識)とコンタクトすることかもしれません。それは、自分の魂の故郷であるところのものでもあります。
こうして、筆者は、当面のSAM前世療法の作業仮説として、「魂の内層は、類魂ないし類魂と相同のものから構成されている」と考えてきました。 このように探究を続けてきたわけは、霊信の常套句が、「これ以上のことを今明かすことは許されない。それはあなたの成長を妨げるからだ。地上のあなたが探究するべきことだ」と教えてくれないからです。つまり、重要なヒントは与えた、あとは自力で探究し理解せよ、というのが守護霊団の方針のようです。したがって、自力で得たものを所有したうえで、その正否を尋ねるということでなければ、答えてもらえないということです。
さて、5月29日におこなった里沙さんへのセッションで、タエ・ラタラジューに続いて、彼女の守護霊の憑依をお願いし、対話のなかで尋ねたことは、次の3点でした。
①魂の内層には、類魂の分身が入っていると考えてよいか。
②魂の自覚状態になると、憑依現象が起こるのはなぜか。
③浄霊に般若心経が効力を持つのはなぜか。
そのそれぞれの回答は、筆者のこれまで探究で得た結論と一致していました。
里沙さんの守護霊の回答の概要は次のようなものでした。
魂の内層は、類魂の分身から成っていると考えてよい。それをハイヤーセルフと呼ぼうと、守護霊と呼ぼうと、それぞれ間違いではない。それぞれ自由。魂内層の類魂(分家)は、眠っている間に、その故郷である霊界の類魂(本家)と連絡を取り合い、互いに学び合う関係にある。
催眠深化であらわれる魂の自覚状態とは、霊の次元に並んだということであり、未浄化霊、高級霊を問わず、それら霊的存在と接触できるし、憑依も起こるのである。
般若心経は、三次元世界に適用して理解できるものではない。色即是空、空即是色とは、霊界の最初の次元である「幻想界」の消息を説いていると理解しなさい。すなわち、想念がそのまま実体化するというのが幻想界であり、極楽とも呼べる次元である。
未浄化霊は、本来そうした幻想界に行くべきであり、そのことを説得するように般若心経を唱えてあげなさい。それによって浄化され、浄化された霊が幻想界へと上がれるのだ。
おおよそ、以上のような回答を得ることができました。里沙さんの守護霊は、筆者に霊界の消息を伝えることを使命にしている霊界では異例の存在だと告げています。
筆者の求めに応じて、いつでも降りてきます
魂の表層は前世人格たちで構成されていることは、これまでの実践から確かめられてきました。表層の前世の者たちは、互いの人生で獲得した知恵を分かち合い、魂表層全体が進化・成長へと向かうという仕組みになっていると、このブログに公開してある筆者あて霊信は告げています。
その魂の表層から呼び出した前世人格ラタラジューが応答型真性異言を話したことで、「表層は前世人格から構成されている」という作業仮説は検証できたと思っています。
前世人格は、今も、「魂表層に自分の生きた当時の感情を抱いて、意識体として生きている、そして、互いの人生の知恵を分かち合い、苦脳・苦痛も訴え合っている、ということが、クライアントに顕現化する前世人格の語りから分かってきました。
問題は魂の内層はいったいどんな構造になっているかです。
この3年間、顕現化した前世人格に、内層のことを尋ねる作業をおこなって探ってきましたが、前世人格は、内層のあることが分かる、とまでは回答しますが、それ以上のことは答えていません。
今のところ、魂の内層について考察できることは、筆者あて霊信から推測するしかないのです。そもそも、SAM前世療法の骨格である作業仮説は、霊信にもとづいているからです。筆者にとって、霊信の恩恵は計り知れません。
そして、何度も霊信を読み返すうちに、最近やっと輪郭が浮かんできました。
霊信は次のように告げています。
①魂のはじまりは、ある「意識」から生じるものである。
②その「意識」をあらわす言葉は、「意識体」とあらわすことでしか表現できない。
③魂は転生するもの、「意識体」は転生をしないものである。
④転生する必要がある「意識体」と、しない必要がある「意識体」はつながりをもち、お互いが学びを得あう関係である。
⑤あなた方の魂の核となる「意識体」が・・・
⑥魂の表層部分により包まれるのは「意識体」である。
⑦内層にある「意識体」はあるがままに完全性を保つものである。
以上は第12・13・14霊信で使われている「意識体」の用語法です。12・13霊信は「稲垣の祖父の守護霊とつながりをもつ霊」、14霊信は「ケイシー霊」を名乗っています。
さて、二つの霊の「意識体」の用語法にはズレがあります。
①②③④で言う「意識体」は魂とは別に、霊界に存在する「意識体」を指していると思われます。
⑤⑥⑦の「意識体」は、転生する魂の核・内層を指していると思われます。
守護霊団からの霊信が、でたらめを告げていないとすれば、前者の「意識体」と後者の「意識体」は、同じものを指しているということになります。
つまり、霊界に存在する転生をしない「意識体」と同じもの、あるいは相同のものが、ペアとして、あるいは分身として、転生する魂の内層にも存在するということです。
霊信受信者M子さんは、「類魂」という言葉を知りません。したがって、通信霊は「類魂」という言葉をM子さんの語彙から用いることができず、「ある意識」、「意識体」と表現するしかなかったと推測することは可能です。大胆にそう解釈すると、「意識体」とは「類魂」のことである、ということです。
結論を言うと、魂の内層は、「類魂」ないし「類魂」と相同のものから構成されているということになります。そして、霊界の類魂と、魂内層の類魂は、互いにつながりを持ち、学びを得あう関係にあるということになります。
そのように仮定すれば、ハイヤーセルフ(高次自我)とは、魂内層を構成している「類魂」を意味していると解釈することができそうです。
類魂はそこに属する魂の地上経験を学び合っている成長・進化のための一つの共同体(共同的集合意識)ですから、叡智に富む意識体であることは当然であるからです。
ハイヤーセルフとコンタクトするとは、自分の魂内層の類魂全体の意識(集合意識)とコンタクトすることかもしれません。それは、自分の魂の故郷であるところのものでもあります。
こうして、筆者は、当面のSAM前世療法の作業仮説として、「魂の内層は、類魂ないし類魂と相同のものから構成されている」と考えてきました。 このように探究を続けてきたわけは、霊信の常套句が、「これ以上のことを今明かすことは許されない。それはあなたの成長を妨げるからだ。地上のあなたが探究するべきことだ」と教えてくれないからです。つまり、重要なヒントは与えた、あとは自力で探究し理解せよ、というのが守護霊団の方針のようです。したがって、自力で得たものを所有したうえで、その正否を尋ねるということでなければ、答えてもらえないということです。
さて、5月29日におこなった里沙さんへのセッションで、タエ・ラタラジューに続いて、彼女の守護霊の憑依をお願いし、対話のなかで尋ねたことは、次の3点でした。
①魂の内層には、類魂の分身が入っていると考えてよいか。
②魂の自覚状態になると、憑依現象が起こるのはなぜか。
③浄霊に般若心経が効力を持つのはなぜか。
そのそれぞれの回答は、筆者のこれまで探究で得た結論と一致していました。
里沙さんの守護霊の回答の概要は次のようなものでした。
魂の内層は、類魂の分身から成っていると考えてよい。それをハイヤーセルフと呼ぼうと、守護霊と呼ぼうと、それぞれ間違いではない。それぞれ自由。魂内層の類魂(分家)は、眠っている間に、その故郷である霊界の類魂(本家)と連絡を取り合い、互いに学び合う関係にある。
催眠深化であらわれる魂の自覚状態とは、霊の次元に並んだということであり、未浄化霊、高級霊を問わず、それら霊的存在と接触できるし、憑依も起こるのである。
般若心経は、三次元世界に適用して理解できるものではない。色即是空、空即是色とは、霊界の最初の次元である「幻想界」の消息を説いていると理解しなさい。すなわち、想念がそのまま実体化するというのが幻想界であり、極楽とも呼べる次元である。
未浄化霊は、本来そうした幻想界に行くべきであり、そのことを説得するように般若心経を唱えてあげなさい。それによって浄化され、浄化された霊が幻想界へと上がれるのだ。
おおよそ、以上のような回答を得ることができました。里沙さんの守護霊は、筆者に霊界の消息を伝えることを使命にしている霊界では異例の存在だと告げています。
筆者の求めに応じて、いつでも降りてきます
13 件のコメント:
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たいへん面白く拝読しました。
ちょっとわかりにくいのが、「類魂」という言葉の用法のように思います。私自身もこの言葉を使ってきましたけれども、ちょっと曖昧に用いてきてしまったかなと感じます。類魂というと、形容詞的なニュアンスがあって、「私とあなたは類魂だ」とか「タエとラタラジューと里沙は類魂だ」といった感じに使われたりするようなところもあって、混乱します(私だけの問題かな?)。
マイヤーズ通信の用語になりますけれども、「同じグループに属するいくつかの人格を統合する主体」「核となる意識体」としては、むしろ「霊」(大文字で始まる Spirit 。本霊とも)と表現し、それぞれの個別的人格を「魂」とした方がわかりやすいのかなとも思ったりします。
私のいくつもの前世人格(それぞれは「魂」)を超えて統合しているのが「私の霊」。けれどもそれはまた一つの「魂」として、ほかの仲間の魂があって、それらを超えて統合しているのが、さらに大きな group-soul としての「本霊」。さらにその上にはそうした本霊を統合する「心霊族」。そんな入れ子構造みたいな感じかなと。
(つづく)
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ところで、一つ変な疑問なのですけど、たとえば現世の私が、ひどい悪行をして、霊性とか永遠の生命の感覚とかも失って、妄念に囚われ、自殺とか殺されるとかして、要するに「迷った」とします。現世を彷徨うとか、低い想念界でうろうろするとか。そうすると、私の「次の生」は、私(の魂)が一定の覚醒をするまで生まれないのか。それとも「私の本霊」は、「迷ってしまった今生の私の魂」はそのままにして、別の「私の魂」を現世に送るのか。
奇妙奇天烈なことを考えると思われるかもしれません(笑い)。ただ、前世人格の独立性を強調していくと「私」との自己同一性や時間的連続性がわからなくなってしまうわけです。
(SAM療法の記録に、「未浄化霊の憑依を浄霊しないと前世遡行ができない」というようなことがあったような気がして、そのこととこのことは何かしら関係があるような感じもしないではないですが、まったくの頓珍漢かもしれません。)
どうももう一つすっきりしていないのですが、もしかして、前世人格というのは「遺像」のもっと強固なようなものであって、何かの具合で霊的エネルギーが注ぎ込まれると人格のように活動するけれども、それ自体は人格ではないというようなことはないだろうか、とも。
まあ、シルバー・バーチさんも言っているように、「生まれ変わりの仕組みは人間には理解不能」ということなのかもしれません。
あるいは、そもそも人間が理解している「私」とか「人格」とかいうのが、稚拙・未熟な考えに過ぎないのかもしれません。
何を言っているのか自分でもわからなくなってきました(笑い)。ぐだぐだと失礼いたしました。
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こんにちは。
あくまでも、私の、素人の仮説として述べさせてください。
まず、人間って、簡単に言ってしまえば、肉体+魂=人間 ということだと思います。そして、この魂ってのは、人の想念、意識、もっと別の言い方をすれば、「魂の力」であり、「エネルギー」(英語表現では、エネルギー)。
まず、肉体に魂が宿るときには、前世のAさん一人の魂が宿ってるってわけじゃないはずで、このケースでいえば、里沙さんの体には、ラタラジューさん、たえさん、他にも、退行睡眠や霊能者の鑑定でも現れてこないような前世人格も、多く宿っていると思われます。(つまり、類魂ってことかな。)
さて、これは、ルドルフ・シュタイナーの研究によればですが、人間は死んだあと、霊魂は肉体を離れたあと、まず、生前の記憶の大パノラマを1つ1つ思い起こすんだそうです。
人間ってのは、肉体があるからこそ、個(自分自身)というものを確保していられるわけで、その入れ物がなくなってしまえば、意識だけ(魂の記憶)だけになります。
その意識(エネルギー)は、大パノラマで人生を思い起こした後、さらに大きなものに統合される。それは、グレートスピリッツと呼ばれたり、神とか、宇宙とか、呼び方は、色々だけど、まあ、そういったものでしょう。
ところで、「統合される」からといっても、それが、消えちゃうってわけではない。ちゃんと、生前に自分が経験したこと、その思い、想念の意識を残しながら・・・・大きなものに、一度、統合される、という事のようです。
そしてその後、また、新たな肉体には、統合された意識のパーツが分散して入り、人間が誕生する。だからこそ、前世記憶が残っているケースがある・・のではないかと。
これは、物理学の原理とも同じだと思います。無から有はうまれず、エネルギー量が変わらない・・という原理。これは、魂(エネルギー)も同様ではないだろうか。
また、グレートスピリッツと言うと、絶対的な神、不変な原理、人知を超えた絶対的なものであり、人は左右され生かされているに過ぎないという考え方もありますが・・・こうなると、人は神の意思に従うだけ・・となってしまいますね。
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続きます!
通常だと、どんな強い思いを現世に残して亡くなったとしても、死後、魂となって自分の人生を振り返ったあと、意識体の一部として統合されていく・・・というコースをとります。
ところが、なかなか統合されないケースもあるようです。つまり、これって、自縛霊や浮遊霊となって、現世にとどまっちゃう、幽霊さんの事ですね。
1つの事に対する強い執着、肉体への執着が強い場合は、統合されることなく、現世をさまよっちゃうって事になるようです。肉体は無いのに生前の人間のままで、その意識が切り離せないんでしょうね。
それが、統合されるには、優れた霊能者によって浄化してもらう場合や、自分(魂)自身で、さ迷っているうちに、何かのきっかけよって、自分で気付く事によって、肉体への執着が離れるようです。ようは、魂自体が「理解する」って事みたいです。
それゆえ、この部分は、ちょっと違うと思うんですよ。↓
>私の「次の生」は、私(の魂)が一定の覚醒をするまで生まれないのか。それとも「私の本霊」は、「迷ってしまった今生の私の魂」はそのままにして、別の「私の魂」を現世に送るのか。
私(の魂)「私の本霊」という考え方自体が、肉体を持っている人間の「自分は自分なのだ」・・という、個としての考え方に基づくもの。
前述したように「決して、自分の経験したことや意識は消えない、けれど、それは統合した一部となる。個であって個ではない。」・・ということなんだと思います。
人は、前世意識がいくつも集まって作られているんで、ネガティブなものも、ポジティブなものも、また、それぞれの性癖なんかも受け継いでいると思います。
しかしながら、現世を生きるのは、個となった自分自身であって、どう生きるかは、やっぱ自分次第。
それがまた死後、一部となって生き続けて、別の肉体に受け継がれて、さらに新たな個としての人生を生きるんじゃないかなって、思うんですよね。
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すみません!
途中になってしまったので、先ほどの続きを少し。
また、グレートスピリッツと言うと、絶対的な神、不変な原理、善の塊?・・というような見方もありますが、私は、違うと思っています。
この世に、人知を超えた絶対的なものがあり、人は左右され生かされているに過ぎないという考え方だと・・・こうなると、人は神の意思に従うだけ・・となってしまいますね。
グレートスピリッツは、あくまでも、個々の人間の想念の集合体であり、グレートスピリッツが個々に影響を及ぼすように、個々もまた、グレートスピリッツに影響を与え「連動しているもの」「影響しあうもの」・・と思っています。
なので、私的には、グレートスピリッツや神という表現よりも、「宇宙」という呼び方の方が好きです。
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Reとなっているので私へのレスと受け取ってよろしいのですよね……。
ご高説のような考え方があることは承知しております。
ニューエイジの方々は比較的近い考え方をお持ちのようにも感じます。
私の考え方は少し異なっています。これも仮説ですから、こちらが正しいと強弁するつもりはありません。異なっているところをクリアにして、問題の所在がより明確になればいいかなと思うだけです。
端的に言いますと、「主体・人格」といったものを認めるのか、それともそれを別のものに置き換えるのか、という違いだと思います。
私が主に依拠しているスピリチュアリズムの観点では、「人間の個性は死後も存続する」という命題を掲げます。「主体・人格」を中心に据えるわけです。
これに対してニューエイジやトランスパーソナルの観点では、「エネルギー、想念(記憶、思い、感情など=情報?)」に焦点を合わせます。(「意識」は微妙)
どちらが正しいと言えるものではないでしょうが、私はすべてをエネルギーや情報で捉える観点を「霊的唯物論」(笑い)ではないかと疑問視しています。(もちろん、霊的なレベルのエネルギーや情報(特に想念体など)の存在を否定しているわけではありません。)
「意識」問題はちょっと置いておいて、「私の体験記憶や思いが次に生まれる人の魂に受け継がれる」というのは、これは「生まれ変わり」と言えるのかどうか、ちょっと疑問です。また、「私の体験記憶や思いが生き続ける」というのは、保持されるということなのか、それともなにかしら主体的な活動をするということなのか、これも疑問です。
物質的な世界を超えて、霊的なエネルギーや想念があり、それが様々にやりとりをして霊的世界を構成している。これは一面の真実だとは思いますが、それを全的に拡げるのは一種の機械論的世界観ではないかと思うのです。
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コメントが1000字というのはきついですね(笑い)。
私はトランスパーソナリストなどが言う「宇宙意識との合一」「より高い意識と私の意識との統合」という考え方が、正直よくわかりません。
(「死後、魂となって自分の人生を振り返ったあと、意識体の一部として統合されていく・・・というコースをとります」という記述はどういう根拠によっているのでしょうか。意識体の一部として統合された後の状態に関しての記述はありますでしょうか。)
意識とは何でしょうか。現世の人間の意識を探究する限りでは、それは単なるモニター機能でしかないとさえ言えます。「何かが起こっていることを認知する機能」です。宇宙意識と合一した意識は、宇宙に起こることをただ認知するものなのでしょうか。それとも何らかの主体的作用を持つものなのでしょうか。
「主体・人格」は、いまだはっきりわかっているものではありませんが、単なる認知機能ではなく、主体的操作・選択を行なうものです。そして、成長していくものです。
心霊研究やスピリチュアリズムでの知見では、こうした「主体・人格」は死後も存続します。それは統合を拒否して迷っている幽霊(未浄化霊)ではなく、霊界(様々なレベルの)において、思考し、選択し、成長を続けている魂です。
(霊からのメッセージによると、非常に高次の霊界では、主体は次第に独立性を薄め、類魂の中に融合していくとされていますが、それはものすごく高い世界のお話です。死んだらすぐに行けるような世界ではありません。私たちの魂は、死後も「主体・人格」を持ち続け、それはすぐ上の「幻想界」を超え、「形相界」と仮称されるような世界へ行っても保持されるという報告が多々あります。『不滅への道http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-8.html』『人間個性を超えてhttp://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-9.html』など参照。なお、「宇宙意識との統合」を主張したケン・ウィルバーも、そこにたどりつくためには何度もの転生が必要だが、「信者が離れるのを危惧したため」そのことは語らなかったと言っています。http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/3c206ef2fd21389af9fd77a0661b233e)
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エネルギーや情報に還元していくのか、主体を想定するのか。
主体を想定する考え方は、時に「我に囚われている」「古くさい人間主義」と批判されます。仏教の一部では無我説を主張し、「輪廻するのはカルマであって我ではない」というような言い方もありました。近代の唯物論や構造主義でも「主体」は否定されます。やはり主体・人格というような概念は「仮設」「妄想」なのでしょうか。
しかし、なぜそれほどまでに主体・人格を忌避するのか、私にはわかりません。そこには逆に「秘められた心理的抵抗」のようなものがあるようにさえ感じられます(笠原敏雄氏の幸福否定論参照)。
主体の存続とその後の成長がないとしたら、死後存続説も生まれ変わり説も、ほとんど意味はなくなるのではないかと思います。
生まれ変わり仮説も、部分再生といった仕組みもあるようなので、話は複雑ですけれども、ともあれ、「私の主体・人格」が再び現世に降りて成長に挑戦するということだと理解しています。これはホイットンやニュートンなどの研究でもかなり明らかになったことだと思います。
(なお、このあたりの議論については、以下を。
http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/22bedac0f2dbb63254f857ee9c6a98a0
http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/6c51c14ebefd9ae6a232384d46331b4f)
いずれにしても明確な証明ができませんので、正しさを主張するつもりはありません。
ただ私は、スピリチュアリズムの霊信が言っている「魂の永遠の成長」に共感するところが多いのです。
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前の雑感に関連して、稲垣先生に向けて、もうひとつ、素朴な疑問を述べておきます。理屈っぽい問題で申し訳ないですが。
それは、たとえば、里沙さんの前世人格であるタエさんやラタラジューさんは、「今も生きている」のかという疑問です。「生きている」というのは、どこかの場で、周囲の事物や他者と関わりながら、経験を積み、成長をしているのか、ということです。
主体・人格が、あくまで「生きている」――現在も経験を重ね、成長をしている――ものを指すのだとしたら、前世人格はそれとは存在位相が異なるのではないか。それとも、現世人格の里沙さんを通して(というのも不思議な表現になりますが)生きているのか。生きているとしたら、それは里沙さんとは別の「主体・人格」ということにならないか。
やれやれ、厄介な問題ですね(笑い)。
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高森さん
失礼しました!あて先のお名前を忘れてしまいました!
実は、私自身も不思議な体験をしたことがあり、また、友人にも強い霊能力を持った者がいるので、「なぜ?」という疑問が山ほど沸いてきました。
それ以来、自分で調べたり、人と共有して意見を聞かせて頂いたりするようになりました。
少しでも、真実に近づきたいと思っているので、
稲垣のブログにたどり着き、また、高森さんの書かれたものを読んで、すっごく嬉しく思いました!
できたら、お会いして、ゆっくりご意見を聞かせて頂ければ・・なーんて思ってしまったくらいです。
でも、私はアメリカ在住なので、それは無理なんですが。。。(笑)
>「主体・人格」といったものを認めるのか、それともそれを別のものに置き換えるのか、
>「人間の個性は死後も存続する」
私も同様、個性は全く消滅するとは、思えない気がします。ただ、肉体があるからこそ、しっかりと個性をとどめておける、個としての実感が強く、存在できるという説にも、一理ある気がします。
>「生まれ変わり」というのは、私は、少し違う気がするんですよね。一部の前世の記憶を受け継ぐけど、あくまでも、新しい人間として生まれるので、別の個である・・・と、考えないと、今度は、何のために生まれてきたのか?って、哲学的な疑問が沸いてきてしまいます。
もっとも、哲学、物理学、心霊学、深層心理学なども、突き詰めれば、1つに結びつくのかもしれません。
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高森さん
>「宇宙意識との合一」「より高い意識と私の意識との統合」という考え方が、正直よくわかりません。
私も正直、よくわかりません。
ただ、死後、そこらへんをさ迷っていない魂(つまり、幽霊ではないって意味ですが。)が、消滅してしまわない限り、どこかに行き、どこかで、形を変えたとしても、存在しているのだろう・・という仮定に基づいています。
霊能力者に言わせると、現世のあちらこちらで、見えるのは、ネガティブな思い抱いてる未浄化霊ばかりなんだそうです。ならば、満足して亡くなった魂は、どこにいるんだろう・・って話になりました。
私には、そういった霊能力が無いので見えないんですが、あくまでも、霊能力者が、見えているものを、そこにある事実として、受け止めて、考えてみたことです。
おそらく、霊界?に行き、また、新たに誕生することを繰り返し、また、様々なレベルにおいて、思考し、選択し、成長を続けている魂・・という事は、納得できます。
つまり、統合されるというのは、個が完全に無くなるのではなく、それは生き続け、肉体に宿っていたときの個よりも、成長?変化?しているので、そのときの個では、無い・・・というような意味かなあ、と考えてみました。
そして、また、新たな肉体に入る・・という事を繰り返し、どんどん成長していくのではないだろうか?
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高森さん、
>無我説を主張し、「輪廻するのはカルマであって我ではない」というような言い方もありました。
私も、これについては、高森さんと同意見です。
限られた字数の中、説明不足で本当にすみません。!
カルマが、輪廻するのは、それは、個である魂の意思では、ないでしょうか?
無念の思いを持つ魂自体が、望んで、それを解消するために、生まれてくるんだと思っています。それが、カルマであると!
前述したように、肉体に宿ったときの個は、消えて記憶だけになる・・・自分の生前を大パノラマにように、思い起こし、そして、何かを学び、何かを得て、浄化。その後、いったん、統合されるが、個としての思いは、残っているので、カルマを解消すべく、もう一度、自分の意思で、生まれてくる。・・・単純に言ってしまうと、こんなことじゃないかな?と考えてます。
また、仏教における「無」、個に対する否定説も諸説色々あるようで・・・
自然に即して生きろ!スピリチュアルに人生を見つめろ!って解釈ならば、納得できます。
我=我欲=マテリアル重視=唯物論重視という観点に基づき、NO!我は無いのだ!と言う表現になったのでは、ないかなあ・・と思ってます。
もっとも、研究者によっても、解釈はまちまちですね。
色々、URLなども紹介して頂き、ありがとうございます。 ゆっくり、読ませていただきます。
SECRET: 0
PASS:
レスありがとうございました。
もう少しやりとりしたい気もしますがここは人様のブログですので、これ以上書き込むのはやめます。
ご質問・ご意見などがありましたら、
東京スピリチュアリズム・ラボラトリー http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/
スピリチュアリズム・ブログ http://blog.goo.ne.jp/tslabo
の方へお願いします。サイトの方にはメルアドも載せてあります。
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