tag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post3704799746094980544..comments2024-01-25T12:00:36.544+09:00Comments on 稲垣勝巳生まれ変わりの実証的探究: 前世人格が「生きている」とは、物や他者と関わりながら、経験を積み、成長を
しているのか?稲垣 勝巳http://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comBlogger12125tag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-38633954803591313142012-06-22T07:53:51.000+09:002012-06-22T07:53:51.000+09:00SECRET: 0PASS:《ラタラジューは里沙さんの想起した前世人格という解釈はできません。顕現化...SECRET: 0<br>PASS:<br>《ラタラジューは里沙さんの想起した前世人格という解釈はできません。顕現化し、現在進行形でネパール語対話をしているからです。》<br> 確かに非常に特殊な事例で、「想起したもの」=心的イメージと解釈することは無理でしょう。ただ、「里沙さん(の脳神経場と肉体場)に、spirit がラタさんの『記憶・想念・感情の濃密な総合体』をまとって(伴って)降りてきた」という解釈なら可能かも知れません。<br> 故マイヤーズの交霊実験だったと思いますが、マイヤーズ霊は、死後30年ほどになり、もう幻想界を超えて形相界にたどり着いている、そして霊界の情報を伝えるために現世に降りてきている、という説明があります。その時、マイヤーズ霊は、生前のマイヤーズを知っていた人たちと親しく会話をするのですが、「生前の記憶は薄れているところがあって、在りし日の自分を再現するためには、アカシック・レコードの記憶から一部を補わなければならない」と告白しています。それによってマイヤーズ霊は友人たちと生前と同じような雰囲気で会話ができるわけです。<br> spirit は、現われの姿をかなり自由に操ることができるとされています。前に生きた人格の姿ならば、如実に再現できるでしょう。話していた言葉も含めて。高森光季noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-43165829051057177592012-06-22T07:19:00.000+09:002012-06-22T07:19:00.000+09:00SECRET: 0PASS:>高森光季さんタエもラタラジューも魂表層を構成している前世の者として、里...SECRET: 0<br>PASS:<br>>高森光季さん<br>タエもラタラジューも魂表層を構成している前世の者として、里沙さんも魂表層を構成している現世の者として、死後、魂表層の者たちと内層を合わせた1個の魂全体として霊界に上がるというのが、セッションで語られる事実です。稲垣勝巳http://samzense.blogspot.com/noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-31823505420468340512012-06-22T07:52:27.000+09:002012-06-22T07:52:27.000+09:00SECRET: 0PASS:《私は、前世の経験内容を受け継いでいることをもって、生まれ変わりであると...SECRET: 0<br>PASS:<br>《私は、前世の経験内容を受け継いでいることをもって、生まれ変わりであるという見解です。》<br> 仏教の「私の転生ではなくカルマの転生」説に近いのでしょうか。<br> 私が死ぬとどうなるのでしょう。私の今生の経験内容を類魂仲間の誰かが受け継ぐとして、その受け継いだ仲間は「私」なのでしょうか。「私」自体はどうなるのでしょう。霊界でずっと経験内容を保持して仮死状態で留まり続けるのでしょうか。私は死後、残り続けるけれども、冥府ないしは煉獄でじっとしているのでしょうか。つまり、厳密な意味での「私」は生まれ変わらないのでしょうか。<br> 「死後存続」説についても同様で、私の体験内容が何らかの形で(アカシック・レコードなどに)残る、というのは、「死後存続説」とは言えないのではないかと思います。<br> 私が「主体にこだわっている」というのはそこのところで、私は、「経験内容(記憶・想念・感情)」の伝達(あるいはカルマの伝搬)は「生まれ変わりとは言えない」と思うのです。生まれ変わりとは、あくまで「主体としての私が生まれ変わる」(全再生であって、部分再生ではない)ことを言うのではないかと思うのです。また「死後存続」とは、私の存続であって、私の体験内容の存続ではないと思うのです。<br> 私=私の体験内容ではなく、私の死後存続や生まれ変わりは私の体験内容の存続や伝達ではない。あくまで「私という主体(魂)」の死後存続であり生まれ変わりである。これがスピリチュアリズムの基本的立場だと思います。<br> もちろんそうではないという立場(私=私の体験内容とか)もあると思います。<br> 霊的な世界は多様で複雑で、人間にはわからないことだらけなので、絶対こうだとは言えません。<br> ただ、どちらをお取りになるのかな、と思った次第です。高森光季noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-10008826721024992912012-06-22T06:37:14.000+09:002012-06-22T06:37:14.000+09:00SECRET: 0PASS:>高森光季さん「生まれ変わる主体は spirit であり、それはかつての...SECRET: 0<br>PASS:<br>>高森光季さん<br>「生まれ変わる主体は spirit であり、それはかつてのAさんと二にして一であったが、今はBさんと、二にして一であり、Bさんのみが主体人格である。Bさんの中にはAさんの体験が生きてはいるものの、自らの spirit に立ち帰る時(そういう精神的状態になった時)にのみ、前世のAさんの体験をなにがしか想起することができ、Aさんに自己同一性を感じる」という仮説にしたがった場合、前世のAさんの体験を何がしか想起するBさんは、Aさんであった前世の記憶を「想起」するということでしょうか。<br>しかし、ラタラジューは里沙さんの想起した前世人格という解釈はできません。顕現化し、現在進行形でネパール語対話をしているからです。この現象はどう説明できるのでしょうか?稲垣勝巳http://samzense.blogspot.com/noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-1156867218160231612012-06-22T07:03:10.000+09:002012-06-22T07:03:10.000+09:00SECRET: 0PASS:>高森光季さん私の生まれ変わりの定義は、人格の生まれ変わりではなく、魂の...SECRET: 0<br>PASS:<br>>高森光季さん<br>私の生まれ変わりの定義は、人格の生まれ変わりではなく、魂の表層を構成している前世人格たちと、魂内層を含めた、つまり、魂表層・内層を合わせた1つの魂全体が、来世で別の肉体に宿る、という意味で用いています。稲垣勝巳http://samzense.blogspot.com/noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-15383758611623594302012-06-22T04:45:03.000+09:002012-06-22T04:45:03.000+09:00SECRET: 0PASS:>高森光季さん私の定義の仕方は、「前世人格」とは「前世の経験と学びを保持...SECRET: 0<br>PASS:<br>>高森光季さん<br>私の定義の仕方は、「前世人格」とは「前世の経験と学びを保持し、意志し、判断する、個性的主体」というほどのものです。変化し成長するという含意はありません。「里沙さんはタエやラタさんの魂の経験内容を受け継いでいるけれども、タエやラタさんの生まれ変わりではない、ということにならないでしょうか」という点については、私は、前世の経験内容を受け継いでいることをもって、生まれ変わりであるという見解です。「遺像」であるかどうかについては、判断留保です。稲垣勝巳http://samzense.blogspot.com/noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-86937130506582299202012-06-22T03:14:43.000+09:002012-06-22T03:14:43.000+09:00SECRET: 0PASS: 私の現時点での生まれ変わり理解というのは、次のようなものです。ただしこ...SECRET: 0<br>PASS:<br> 私の現時点での生まれ変わり理解というのは、次のようなものです。ただしこれは「全再生」プロセスのもので、「部分再生」などもあるようですから、あくまで一つの類型に過ぎないかもしれません。<br> 私の spirit は、ある領域から新しく生まれ(ニュートンが報告しています)、成長のために現世に降ります。ただし、spirit の或る部分(むしろ本体)は霊界に残ります。Aさんとして生きて死んだ後、現世に降りていた部分の spirit は霊界に戻ります。この時、Aの人生の体験(記憶、想念、感情など)は持ち帰り、spirit 全体の糧になります。この後、指導霊・守護霊と協議して再び成長のために spirit の一部は地上に戻り、Bさんとして生きます。Aは多面体である spirit の一面を構成する要素ではありますが、現時点では、spirit の活動は霊界の本体とBさんということになります。<br> 生まれ変わる主体は spirit であり、それはかつてのAさんと「二にして一」であったが、今はBさんと「二にして一」であり、Bさんのみが「主体人格」である。Bさんの中にはAさんの体験が生きてはいるものの、自らの spirit に立ち帰る時(そういう精神的状態になった時)にのみ、前世のAさんの体験をなにがしか想起することができ、Aさんに自己同一性を感じる。<br> 別に取り立てて特異な説ではありません。ニュートンの説に近いかも。マイヤーズ通信では、「spiritの本体は霊界に残る」というような言及はなかったと思います。<br> つまり、過去世人格は、人格のように見え、時にそう振る舞うように見えることもあるけれども、「遺像」に近いものだということになります。<br> この見方で見ると、<br>《前世人格どうしにおいては相互交流的のようです。互いの人生で獲得した知恵を相互に分かち合う友愛関係(共有関係)にある、と私あて霊信は告げているからです。<br>そういう相互交流・共有関係にあるから、前世人格たちが構成している魂表層全体の集合的意識は、成長・進化の保障がされていると考えられます。》<br> というのは、前世人格同士が交流しているのではなく、それは spirit の多面の間のことなので spirit においては共有されると見ることが可能です。<br> そして「成長・進化」の主語(主体)はあくまでも spirit であり、それと「二にして一」である現世の私、ということになるかと思います。高森光季noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-62070709353414276392012-06-22T03:12:23.000+09:002012-06-22T03:12:23.000+09:00SECRET: 0PASS:コメントは1000字という制限があるようです。それ以上書くとはじかれます...SECRET: 0<br>PASS:<br>コメントは1000字という制限があるようです。それ以上書くとはじかれます。やりにくいですね。手短かに書かねばならないので無礼な文章になるかもしれません。<br>《前世人格は、どこかの場で、周囲の事物や他者と関わりながら、現在も経験を積み、成長をしているのか、ということに関しては、それはないようです。》<br>《この意味で、前世人格は、前世限りで成長を停止した死者だと考えられないわけではありません。》<br> 定義の仕方にもよるのですが、「人格」とは「意志し、判断し、変化し、成長する主体」であるとするなら、前世人格は人格ではないことにならないでしょうか。<br> むしろ、前世人格は「記憶、想念、感情の濃密な複合体」であって、マイヤーズ通信の言う「遺像」(『不滅への道』第十二章)の超濃密なもので、そこに霊(spirit)が再降下したり、霊的エネルギーが注ぎ込まれた時のみ賦活するものだとは言えないでしょうか。<br> そうではなく、あくまで「人格」なのだとしたら、「タエやラタさん自身は、里沙さんとして生まれ変わってはいない」ということにならないでしょうか。里沙さんも次生(あるとして)の人格には生まれ変わらないということにならないでしょうか。<br>《「生きているとしたら、それはクライアントとは別の主体・人格ということにならないか」ということについては、そのとおりです、のいうのが回答です。》<br> 里沙さんはタエやラタさんの「魂の経験内容」を受け継いでいるけれども、タエやラタさんの生まれ変わりではない、ということにならないでしょうか。<br> またタエやラタさんは、霊界へ行って活動することも、成長して高い境域へ移動することもない、「未浄化霊」のような存在にならないでしょうか。<br> (現象学的に、タエやラタさんは「別個の人格として現われている」というのは重々理解しますが、幽霊がしばしば未浄化霊そのものではなく「遺像」である場合もあるように、そこに霊的主体を伴った人格があると結論づけられるでしょうか。)高森光季http://blog.goo.ne.jp/tslabonoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-76103776341617941812012-06-22T07:54:40.000+09:002012-06-22T07:54:40.000+09:00SECRET: 0PASS: わりと有名なパラドックスで、「Aさんが死んだ。死後存続説では、愛し合っ...SECRET: 0<br>PASS:<br> わりと有名なパラドックスで、「Aさんが死んだ。死後存続説では、愛し合っていた奥さんは、数十年後に死んだ時、Aさんに会えるとしているが、その時Aさんがすでに生まれ変わりをしていたら、会えないのではないか」というものがあります。<br> 浅野和三郎先生は非常に有能な霊媒を実験台にしてこれを実験し、「ほぼすべての霊を呼ぶことができた。だから、生まれ変わりは部分再生(体験や性質の一部を渡す)なのであろう」としています。<br> けれども、spirit は、過去に生きた人物の姿を取って現われることができる。それは必ずしも過去に生きた人物がそのまま霊界に留まっているということにはならない。<br> 霊界にいるAさんの spirit は、現在Bさんという新しい生を現世に送り出しているが、奥さんが死んで霊界にやってきた時には、Aさんのそっくりそのままを再現して迎えることができる。だから、たとえば3歳のかわいい赤ん坊として死んだ魂は、数十年後に親が死んで霊界に来た時にも、かわいい赤ん坊の姿で出迎える。若い時に死別した恋人は、数十年後に霊界で再開しても、愛し合っていた頃の若い男女として再会することができる。それは spirit と出会っているのであって、その時に spirit は別の現世人格を現世に生きさせている(生まれ変わりをしている)最中かもしれない。<br> spirit 万能説ではありません。マイヤーズ霊でさえ「細かいところは忘れた」とうろたえたくらいです(笑い)。高森光季noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-55495158981767916212012-06-22T08:09:52.000+09:002012-06-22T08:09:52.000+09:00SECRET: 0PASS:前に書きました「タエやラタさんは、霊界へ行って活動することも、成長して高...SECRET: 0<br>PASS:<br>前に書きました<br>「タエやラタさんは、霊界へ行って活動することも、成長して高い境域へ移動することもない、「未浄化霊」のような存在にならないでしょうか。」<br>という質問へのお答えはいかがになりますでしょう。高森光季noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-22224471228423395202012-06-22T08:22:45.000+09:002012-06-22T08:22:45.000+09:00SECRET: 0PASS:コメントの6と7を見ないで新たに投稿してしまいました。ごめんなさい。ちょ...SECRET: 0<br>PASS:<br>コメントの6と7を見ないで新たに投稿してしまいました。ごめんなさい。<br>ちょっと混乱しますので、また日を改めて。高森光季noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-45489433850573139952012-06-22T03:16:49.000+09:002012-06-22T03:16:49.000+09:00SECRET: 0PASS: けれどもタエやラタさんを始め、稲垣先生の持たれたケースでは、また違う相...SECRET: 0<br>PASS:<br> けれどもタエやラタさんを始め、稲垣先生の持たれたケースでは、また違う相が見られているのかもしれませんね。(あるいは前記の仮説が間違っているのかも知れません。)<br>《たとえば、中世に生きた前世人格が、優れた霊能力を発揮したために、悪霊憑きや魔女の扱いを受け、殺されていた場合には、現世の者にも素質としてある霊能力を発揮できないように封印をしている、と語ります。<br>説得をし、それに納得できると、封印を解くと約束してくれます。今後は、魂の表層にあって、現世の者が霊能力を十全に発揮できるように守る、と約束してくれます。》<br> 封印をしたり、それを解いたり、守ったりするのが「前世人格」なのだとしたら、「前世人格は死んでいる」のではなく、微細ではあるにしても「活動して生きている」ことになり、「前世人格と現世人格は別人格」説となるのかもしれません。ただ、それは前述したように、理屈的には「人格の生まれ変わりの否定」になりませんか。<br> この封印したり、守ったりする主体は、spirit である可能性はないでしょうか。高森光季noreply@blogger.com