2011年10月20日木曜日

タエ・ラタラジュー両事例の検証にあたって

さて、これまで「タエの事例」と「ラタラジューの事例」の両事例の全セッション逐語録を公開してきました。
ここからは、生まれ変わりが科学的事実であることが濃厚となった両事例のそれぞれの検証結果を公開していきます。
検証にあたっては、多くの方々の生まれ変わりの科学的研究に対するご理解と、惜しみないご協力をいただくことができました。
「タエの事例」については、とりわけ、渋川市教育委員会小林良光氏、可児市教育委員小野口裕子氏には貴重な検証諸資料の提供と現地調査情報について報告をいただきました。
「ラタラジューの事例」については、ネパール語の解析を中部大学客員研究員カナル・キソル・チャンドラ博士、朝日大学博士課程学生パウデル・カルパナ氏にお世話になりました。
ナル村の現地調査については、ソバナ・バジュラチャリヤ文化人類学博士、中部大学大門正幸教授から貴重な現地情報の報告をいただきました。
とりわけ、被験者里沙さんには、前世療法の実験セッションと生まれ変わりの科学的証明という大きな負担をともなう研究にご理解と惜しみない協力をいただくことができました。彼女の使命感と献身があってこそ、イアン・スティーヴンソンの生まれ変わり研究に匹敵する以上の研究成果がもたらされたと深謝しています。
私は、もともと生まれ変わりについてはきわめて懐疑的であり、前世療法についても、胡散臭さと宗教臭が鼻につく目障りな催眠療法であると思っていました。学校現場で、「教育催眠」の実践研究に取り組んできた立場にあって、前世療法は、科学としての催眠を再び非科学的な方向へと引き戻す怪しからぬ療法でした。
私は、小学校6年生のときに、火葬場の焼却炉の中で、母方の祖父が火炎に包まれて白骨へと燃えていく有様を
係員の離れた数分間のすきに、従兄弟と二人で炉の覗き穴から目撃した体験を持っています。
子ども心に強烈・鮮明に刻み込まれた実存的原風景ともいえる体験でした。人は必ず死を迎え、灰と骨を残して無に帰するしかない存在だ、という虚無感に苛まれ続け、思春期を過ごしました。燃えていく祖父の姿は、今もありありと記憶に再現できます。
幾多の哲学書をかじり、無に帰すると分かっている人生を生きる意味について模索してきました。
そして、たどりついた結論は、ありのままに見据えてみれば、人が生まれてくる意味などはない、生まれついでに生きているに過ぎない、ということでした。
結局、人は無意味に生まれ、生きる意味を生み出していく過程が人生である、という結論にようやくたどりついたのは40歳を越えた頃です。しかし、だからといって、死に対する恐怖がなくなったわけではありませんでした。
ところが、2005年に「タエの事例」との遭遇が起こり、生まれ変わりが事実としてあるのではないかと思われました。もしそうであれば、その真偽を徹底的に自分の手で納得のできるまで検証し、安んじて死に臨みたいと痛切に思いました。すでに、平均寿命の折り返し年齢を越え、人生の残り時間を否応無しに意識する年代に至っていました。
なぜ、私が執拗に生まれ変わりの検証にこだわるのか。
もし、生まれ変わりが無い、ということが明確に実証できれば、それはそれで潔く死に臨むことができます。すべては無に帰するのだと達観できれば、それは一つの目覚めとしてきわめて重要なことです。そして、生まれ変わりやカルマなどを説く新興宗教や霊能力者を名乗る人々の言説をすべて迷妄だとあっさり退けることができる。霊感商法とよばれるインチキな詐欺も、成り立つ余地がなくなりすっきりする。
そして、前世記憶と呼ばれる催眠中の語りは、潜在意識の紡ぎ出す壮大な前世物語(フィクション)として割り切ることができます。前世占いやチャネリングなどというものも、まったく根拠のない妄想として処理できます。
もし、生まれ変わりが事実として存在することが実証できれば、生前の記憶と人格を保持し、死後存続する意識体(魂)の存在を認めないことには、生まれ変わりの説明は完結できません。それは、少なくとも、意識や記憶を脳以外にも保存している意識体(魂)を想定せざるをえないことになります。消滅する脳の付随現象である意識や記憶であるなら、脳の消滅と同時に消滅するからです。
また、次の生まれ変わりが現世の死と同時に即起こるのでなければ、魂が次の生まれ変わりまで待機しているような次元(霊界)を想定しないわけにはいきません。さらにそうした次元には、高級霊と呼ばれる存在が実在する可能性が濃厚になってきます。
 
こうして、生まれ変わりを実証することは、死とともにすべては無に帰するという唯物論人生観、世界観にコペルニクス的転回を迫ることになり、このことはそれだけに留まらず、社会のあり方、政治のあり方、科学のあり方、宗教などきわめて広汎な分野に決定的な影響を及ぼすことになります。
そして、死後もなんらかの形で自分という存在が存続するという事実は、なにより私が救われることになります。
次回以後公開する両事例の検証には、私の生まれ変わりがあってほしいという願望によって、両事例の検証内容にバイアス(偏向)をかけているおそれがあるかもしれません。
読者諸賢は、そうしたバイアスに欺かれることなく、お読みくださるものと思っています。
それでは、次回以後、「タエの事例」から検証結果を一つずつ述べていくことにします。

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