2012年6月22日金曜日

高森光季氏の再質問への包括的回答

前ブログ記事について、高森氏から6点のコメントと再質問が来ています。返信コメントを1000字以内にしてもアップできませんので、ここで包括的な回答をとりあえずしておこうと思います
魂の自覚状態と「前世人格の顕現化」 という考え方の基盤
「タエの事例」以後四年間の経緯と「ラタラジューの事例」によって、筆者は、「魂」や「生まれ変わり」および、「守護霊」の実在を認める立場をとることにためらわないようになっていきました。
この立場をとることは、筆者宛の霊信で告げられている予言が的中していることや、通信霊団の存在を知らないはずの催眠中のクライアントに、筆者の守護霊を名乗る霊、霊団の一員を名乗る霊、あるいはクライアントの守護霊を名乗る霊の憑依とおぼしき現象が生じ、メッセージを伝えるということが度々起きていることからも、受け入れざるをえません。何よりも、応答型真性異言「ラタラジューの事例」との出会いによって、生まれ変わりの事実を認めざるを得なくなったからです。
SAM前世療法の作業仮説は、霊の告げた魂の構造を骨格にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、現在進行形での対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。
ラタラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、魂や生まれ変わりの実在を回避するために、深層心理学的概念を駆使してクライアントの霊的な意識現象に対して唯物論的解釈することは、現行科学の知の枠組みに固執した不自然な営みだ、と筆者には思われるのです。
魂の自覚状態や、そこで現象する前世人格の顕現化という意識現象の事実に対して、事実は事実としてありのままに認めるという現象学的態度をとってこそ、SAM前世療法を実りあるものにしていくと思っています。
そして、クライアントの示す意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
魂や生まれ変わりの実在を認めることを回避する立場で、あるいはすべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって顕現化した前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得できる説明ができるのでしょうか。
ちなみに、スティーヴンソンも、「グレートヒェンの事例」において、真性異言で会話したグレートヒェンを名乗るドイツ人少女を「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出そうと試みた」(『前世の言葉を話す人々』11頁)と記述し、呼び出された前世人格を「トランス人格」(前掲書9頁)と呼んでいます。
つまり、催眠下で前世人格を呼び出し顕現化させる、というSAM前世療法における筆者と同様のとらえ方をしています。
おそらく、この被験者も里沙さんのような高い催眠感受性を持ち、タエやラタラジューの人格同様、催眠下で一気に魂状態になり、その表層に存在している前世人格グレートヒェンが顕現化したと推測してよいように思われます。 
こうして、死の時点の認識を固着したまま前世人格が魂の表層に生きて存在している、という見解を持つ理由は、それがクライアントに観察できる意識現象の事実として直感に著しく反していないからであり、それを認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、その意識現象がSAM前世療法の作業仮説の枠組みに収まっているからです。
もちろん、コメントに披露されている高森氏の、マイヤーズ通信に基づく生まれ変わりの仕組みや、前世人格の顕現化現象の説明を否定するわけではありません。説明は成功しているからです。
端的にいえば、判断留保です。筆者の説明も成功していると思うからです。
というより、判断するための科学的検証が不能な領域の、哲学的(スピリチュアル霊学的)な議論ですから、正否の判断ができないのです。それは、筆者の見解についても同様です。
ただ、今回高森氏の展開されているマイヤーズ霊の告げたSpirit論に基づく見解は、筆者のSAM前世療法実践者としてセッションから得られた素朴な実感からすれば、理屈としてはそうかもしれないが実感として素直に受け入れられない、ということでしょう。稲垣という実践者と、高森氏というスピリチュアリストの、立場の違いからくる、見解の違いということが出来るかも知れません。
いずれにせよ、きわめて高度な霊界領域に関する議論ができて、楽しませていただけたことに深謝です。

2 件のコメント:

高森光季 さんのコメント...

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 ご返答、ありがとうございます。
 言うまでもないでしょうが、私はタエさん・ラタさんの現象の真正性は疑っておりませんし、ラタさんの真性異言現象も真性のものだと思っております。つまり、「タエさん・ラタさんの人格構成要素の主要部分は物質的手段によらず存続しており伝達されている。これは唯物論の帰無仮説に対する強力な反証である」と捉えています。
 その解釈をめぐってはいろいろな仮説が可能だと思いますし、なかなか明確な立証は困難かと思います。そしてそこでは「人格・私・死後存続・生まれ変わり」などの定義自体が問われてくるのではないかと思います。
 私は前述した死後存続や生まれ変わりに関する私の理解(それは一定の根拠に基づくもので勝手な私感ではありません)を、絶対化・全般化するつもりはありません。稲垣先生の出されている解釈(あるいは霊信の情報)も、なかなか理解が追いつかないところがありますが、今後とも考究していきたいと思っています。
 ただ、私は「私は死後も存続し成長を続ける」というスピリチュアリズムのテーゼを支持したいという思いはあります。
 これは曲解なのかも知れませんが、「この私は表層を構成している人格であって、死後は私の記憶や思いや感情を保持したまま静止し続ける」という見方には、ううむ……となります。個人的感想としては、それなら帰無仮説の方がましかな、などと(笑い)。「私」というものの捉え方の違いということなのかもしれませんが。
 それはともあれ、今回のことで、非常に重大なことが明らかになってきたような気がしています。このあたりのことは、また別の機会に私のブログなどで展開できればと思います。
 ありがとうございました。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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私のこれまでの探究の現時点の到達事項は、次のブログで公開しました。
それによれば、「私」という存在は、死後、魂を構成している表層部分に生きている、「私」の前の人生を旅してきた幾多の前世人格たちに迎えられ、前世人格の一つとして、それらの者たちと人生の知恵を与え合い、分かち合いながら成長・進化するらしいのです。そして、次の肉体に宿ったときには、現世の者を守るために、魂表層に存在しつつ奉仕するらしいのです。「私」はこうして死後存続することのほうが、死後無に帰するよりはるかにマシだと思っています(笑い)。