SAM催眠学序説 その52
あなた方、そしてすべてのものは大いなる一つの存在からの繋がりを持っている。
その繋がりに近いとき、あなた方はあらゆるものを見通すことができる。
そして、過去・現在・未来においてあらゆるものを悟る。
そして、愛に包まれる。
だが、そこからいずれまた離れてしまう。
そして、またすべてを忘れたかのように、自分のしていることが何なのかさえも分からなくなる。
そこまでの流れは多くのものにより、あなた方の存在する世界でこれまで霊性の成長を説く者により、ある範囲までは広げられてきた。
だが、その先を理解する者はその真理を説くことができないのだと悟る。
はじまりも終わりも、すべてが選択されたものが真実だという言葉を信じるとしよう。
愚者と賢者を分けることがあなた方にできるだろうか?
愚者は、悟りを得ず言葉のみを信じようとする者である。
言葉に真実性を見いだそうとする者である。
言葉は「導き」でしかないのだということを知らない者だ。
その者は無知さゆえに「疑う」ことを思い浮かべることも出来ない。
賢者は疑う。
だがその「疑い」は否定ではない。
自らのうちに信仰という名の塔を築くため、その材料となるものを集める。
一つひとつ、どんなものでも自分の目の前にあるものはその塔を築くための手段となり、材料となり、そしてそれを行う自分の糧となることを心得ている。
あなた方は賢者としての心得を、これまで無意識のうちに行ってきた。
だが、あなた方はもっと理解しなければならない。
賢者は、愚者を賢者へと変える手助けをする。
だが、自らの思想を押しつけるのではない。
「愚者の中に内存する賢者の要素」を引き出す術を心得ているのだ。
あなた方が人々に伝えようとするものは「あなた方が相手が何も持たない状態から教える」のではなく「相手の中に賢者の要素を見い出し、それを引き出す」ものなのだ。
まだ、あなた方はその伝えるものが何か、完全にその全貌を悟ってはいない。
だが、それは時が来れば理解するものだ。
すべてのものの中にすべてが備わっているのだと理解しなさい。
あなた(稲垣)は、肩の力を抜き始めている。
それでいいのだ。
あなた方は構えていては何も見い出せなくなる。
もっと楽しみなさい。
これは「遊び」なのだ。
すべての計画はそうである。
だが、この世に存在する限りはあなた方はそれを理解できない。
そう、それでいいのだ。
あなた方はそこから離れ、ようやく悟ることができるのだから。
今日は、あなたは、M子の霊信でどの高級霊が語りかけてくるのだろうかと考えた。
だが、私は高級霊ではない。
あなたの期待を裏切るわけではない。
私はあなたが最も求めるものである。
私が何か、あなたの直感で悟るだろう。
かしこまらずに、もっと肩の力を抜きなさい。
私はあなたの上にいるものであり、
下にいるものであり、
隣りにいるものであり、
そばにいるものである。
そして、あなたの目の前にいるものである。
そして、あなただけではなくすべてのものに対してもそうである。注①
だが、人々は私が自然なものなのだと分からないあまりに、あらゆる手段を通し私を知ろうとする。
そして感じようとする。
私を恐れるもの、そして救いを求めるもの、欲するもの、すべてのものは同じ平行線の上に立っている。
だが、人々はそのことに気づかない。
その場所が自分にふさわしくないと感じ、抜け出そうとするものもいる。
だが、その場所に立つことが必然であると分からないあまり、もし抜け出し別の場所に移動したと感じても、そう思い込んだだけで、あなた方の立つ位置は変わらないままなのだ。
今、これを読みながらあなたは「何を言おうとしているのかよく分からない」と考えているだろう。
これを「抽象的な表現」として受け取っているだろう。
この世界ではそうだとしても、それが真実なのだ。
物事の本質がどんなものか、あなたは分かるだろうか?
素直に感じるもの、シンプルに表現できるもの、あなたが複雑でないと感じるもの、困難でないと感じるもの、それらは本質的なものを多く見い出せるものである。
物事は本質的なものと二次的要素、そして三次的要素、そうやって細分化されていく。
だが、どんなものも、その中心はすべて同じものなのだ。
日常的な生活に目を向ける必要性も同じである。
霊的なものでなければ、情報を与えないと限定するのではなく、あなたを中心として取り巻くすべてに対して「啓示である」と考えなさい。
ある一定の分野だけが一人歩きすることはないのだ。
すべてのものに対し、あなた方の持つ最善のものを与えなさい。
あなた方が判断を下し、そのときの最善なものを選択するのだ。
今日は「あなた(稲垣)という人間」について語ろう。
あなたの歩んできた道のりは、あなたという魂の旅である。
だが、あなただけではなくあなたに血を与えたものによる旅の続きでもある。
あなたは高級霊のみに今は焦点を当て、意識しようとしている。
だが、あなたは忘れてはならない。
あなたの知る者の存在こそが、今のあなたを創造する過程を築いていたことを。
それは、あなたとその者の旅だけではない。
あなた方よりもさらに前、そしてその前、遡るとそれはどこまでも続いていく道となる。
あなた方はすべてとの繋がりを持っている。
それは、あなた方が今の意識で思い返せる範囲に留まらない。
その繋がりを感じようと意識せずとも、あなた方はその繋がりによる恩恵を与えられているのだ。
それは、すべてのものに対してもこれまでもそうあったものである。
あなた方はあらゆるものの魂を通し、あなた方の魂の旅をする。
M子はよく自分の行う霊信の内容を疑う。
敬意を払うあまり、そして自らの感覚に対し絶対的な信頼を持てないがゆえ疑いが生じる。
だが、そうやってすべてが繋がりを持っているのだとしたら、あなた方にどんな存在が来ても不思議はないと思わないか?
なぜ自分の感覚に自信が持てない?
M子よ、あなたの目的があなたにとって負担となるほどの大きな荷物だとでも考えているのだろうか?
あなた方は、使命を大きな負担として考える傾向がある。
だが、それは違う。
言葉に重みを感じるのは、あなた方の魂の中に抵抗や反発、恐れ、不安などを感じる部分があるからだ。
目的を楽しむのだと理解しなさい。
重みを感じたとしても「楽しもう」という気持ちを持つことで、ある変化が起こる。
その変化とは「楽しむ=陽」「重みを感じる=陰」という相反するものの要素の割合を変化させるというものだ。
光と闇、それらを相反するものとして例えにしよう。
光と闇、人々はどちらも存在するものだと理解できない。
闇を拒み、光を求める。
だがそこで必要なのはどちらかを求めるということではなく、「闇の存在を認め、光に目を向けること」である。
目に映るものこそ、その瞬間の真実である。
M子がここ数日霊信中に聴く耳鳴りは、あるものの触発である。
その呼びかけは、M子に届かない。
その音しか聞くことができない。
M子は以前、過去世でそのものに誘われ破滅した。
そう選択したのはM子だ。
これまで、そのものによる接触は「思考という意識」により行われてきた。
M子が日常を過ごすに当たって感じ取り、そして流れてくる意識としてそれは受け取られてきた。
だが、あなた方を守護するものにより、それはこれまでよりも少ないものとなっている。
あなた方は、自らの魂が「透明度を高いものとし見つめるものに惑わされない」ように意識を保つ必要がある。
あなた方が特別であり選ばれたからそのように守護されているわけではない。
今その必要があるからだ。
あなた方が、より道をよく見通し、そして進みやすい状況にするべくしての必然なのだ。
それを踏まえ、守護するものに対し感謝しなさい。
そして、あなたが今世で生じさせた傷について語ろう。
それは些細なものであり、深刻に考えるべきものではないとあなた自身は考えている。
それは、あなたの思いこみであり、その傷は癒すべき傷である。
それは、あなた自身これまでの探究により得た知識で十分理解できるものである。
あなたが違和感を感じないほど自然に流す「無意識のうちに感じる孤立感」は、あなたが目を背けているものである。
あなたは、まだ気づいていない。
あなたはもっと「今の自分に対して意識を向け注意深く観察する」必要がある。
詳細を分かりやすく説明するならば、「あなたという人間がこの世に生まれついてから、あなたの魂に刻まれたものが今のあなたを形成している。
そして、それらの中にあなたにとってあなたの道を拒むもの」が存在する。
それは妨害しない。
それはあなたを傷つけない。
だが、あなたが見つめるべきものからあなたが気づかないように「見つめるべき対象から別のものへと焦点を移している」のだ。
その主張は弱いものだ。
だが、あなたの進もうとする道を拒むものである。
それは、あなたの寂しさから生まれたものである。
あなたの幼少期に感じたそういった感情が刻まれている。
もちろんM子も同様である。
あなた方は、霊信による霊的成長のための啓示が重要だと理解するように、自分という人間が生まれついてからのそういったものに対しても目を向ける必要がある。
それさえも、あなた方を大いに助け、協力し力を与えるものとなるのだ。
そして、あなた方がそれぞれ深い繋がりを持つ人間に、霊的存在としてもそばで見守る親しきものに対し愛を感じなさい。
そして、その愛を受け取り、あなた方もそれぞれその者に対して愛を与えなさい。
あなた方に今必要なのは「やすらぎ」である。
世界中の重荷を背中に乗せているのではないと理解しなさい。
肩の力を抜きなさい。
あなた方は背負うのではない。
あなた方自身の魂の傷を含め、そのすべてを抱きしめるのだ。すべてと一体となるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第5霊信おわり
第6霊信へつづく
4 件のコメント:
注①について
このように語る主体は、文脈からするかぎり「神」呼ばれている存在であろう、というのが私の直感でした。
驚くべきことに、昨日15年6月1日のセッションで、魂状態まで誘導したクライアントの女性に神を名乗る存在が降臨し、次に公開される第5霊信は、神である自分のメッセージである、と告げてきました。そのことを確認するために降りてきたと告げています。
そして、昨日のこうした事実をネット上で公開するようにとも。
この指示にしたがって、この記事を書いています。
もちろん、この女性クライアントが、私のブログを読んでいないことを確認しました。
したがって、神を名乗る存在は、私が第5霊信の公開をしようとしている意図を事前に察知して降臨したということになります。
ちなみに、このクラアントは、神?降臨中の記憶は何も残っていないということでした。
神?との対話は40分ほどしましたが、その内容は誤解を招くおそれがあるため公開を控えます。
また、録音をしていないため、今回の降臨現象という「意識現象の事実」は、私の創作だろうと疑われても、この意識現象を証明する手立てはなく、一切反論はできません。
神?は、また必要があれば、この女性クラアントのすぐれた霊媒資質を用いて、将来も私のもとへ神託を降ろすために遣わすということでした。
付言すると、霊信公開をはじめる5月16日のセッションでも、今回とは別の女性クライアントに憑依した私の守護霊が、霊信公開によって霊的真理を世に広めよ、というメッセージを告げています。
最近は指が反応するような現象は、でていなかったのですが
今日の霊信には反応がありました。
序説が霊信公開に進んだので何故だろうかとおもっていたのですがそういう事象があったのですか
興味深いですね
シュヴァル さん
あなたの指は、霊現象に反応するセンサーの役割を担っていると思われます。
5月16日、6月1日と立て続けにセッション中の降霊・降臨現象が起きているので、それに反応していると思われます。
私のコメント記事が創作ではないことの証ではないかと思います。
そのように感じます
前回のセッションで研究所にうかがったときも、着いてから動き出しました。
不思議な現象です。以前も申し上げたとおり、このような体験はわずか一年前までは
まったく無縁でありました。
おそらく、自分に起こらず他人がこのような指の動きすれば無意識によるものだろうと
片付けてしまっていたと思います。
体験しなければ、受け入れるのは難しいでしょうね
ですから私はセッションを受けずに非難すだけのひとは、別に目的があるのではないかと考えるのです。
現時点ではこの指の現象や霊信を科学的に説明することは不可能です。
しかし、これはまだ未科学であって、非科学ではないように感じます。
研究する価値、余地は十分にありそうです
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