2014年9月5日金曜日

SAM前世療法が抱えている謎


   SAM催眠学序説 その17


前世人格と対話する「SAM前世療法」には、前世記憶を想起する「ワイス式前世療法」と比較して、いくつかの解明できていない謎があります。

ワイス式前世療法でうまくいかなかったクライアントで、SAM前世療法で成功しなかった事例は今のところありません。
両方の前世療法を経験したクライアントは数十名にのぼります。

この両方を経験したクライアントが報告される大きな共通項は次のように2つあります。


①催眠中の意識状態が明らかに違う。SAMの場合、ワイス式と比べてうんと深い意識状態に入ったという自覚がある。

②ワイス式ではセラピストの質問に対して口頭で答えられるのに、SAMの場合には魂状態に至ると口頭で答えることができなくなる。


さて、①について、ワイス式では、催眠学に則った心理学系催眠法の「催眠深度」を標準催眠尺度によって確認することなく誘導が進められるので、どの程度の催眠深度に至ってセッションがおこなわれているかが不明です。

かつて、私がワイス式でおこなっていた前世療法では、「運動催眠」→「知覚催眠」→「記憶催眠」の順に、催眠深度を成瀬悟策の「標準催眠尺度」を用いて確認し、「記憶催眠」レベルの深度到達後、年齢退行によって子宮内まで退行し、その先の「子宮に宿る前の記憶(前世記憶)がもしあれば、そこへに戻ります」という暗示をしていました。

しかし、私の知る限り、ワイス式体験者は、「記憶催眠」より浅い催眠体験である印象を受けます。

催眠学の明らかにしているところでは、「知覚催眠」レベルでは、五感が暗示通り知覚されます。
したがって、さまざまな幻覚を暗示によってつくり出すことが可能です。

また、創造活動が活性化され、自発的にイメージが次々に現れるようになります。
それで、被験者は、そうした自発的に出てくるイメージに対して、自分が意図的にイメージをつくり出しているという意識をもつことはありません。
つまり自発的なイメージは架空のものとは感じられず、自分の中に潜んでいた真実の記憶がイメージ化して見えてきたという錯覚をもつ可能性を排除できません。

こうした催眠中に現れる自発的イメージ体験の性格を根拠にして、大学のアカデミックな催眠研究者は、前世療法における前世の記憶はセラピストの暗示と、その期待に応えようとするクライアントの無意識的努力によって引き起こされた「フィクション」である、と口をそろえて主張します。
催眠中のクライアントが、セラピストの期待を察知し、その期待に無意識的に応えようとする心理的傾向を催眠学では「要求特性」と呼んでいます。


私の敬愛してやまない成瀬悟策先生もこうした立場をとっておられます。

SAM前世療法では、必ず「知覚催眠」レベルの深度に至っていることを標準催眠尺度を用いて確認します。
知覚催眠レベルに至ることがない深度で、魂状態の自覚まで遡行できないことが明らかになっているからです。
そして、知覚催眠に至れば、ほぼ誰でも記憶催眠に至ることも明らかです。
  
したがって、SAM前世療法では記憶催眠レベルの確認はおこないません。
記憶催眠を突き抜けて、さらに深度を深めていきます。
標準催眠尺度では測れない(これまでの尺度にはない)「魂遡行催眠」と私が名付けているレベルにまで深めます。
身体の自発的運動は完全停止し、筋肉・関節の完全な弛緩状態にもっていきます。

SAM前世療法ではこうした最深度の催眠状態にまで誘導するので、ワイス式より深い意識状態に至ったという報告が共通してされるのではないかと推測しています。

②については、その解明は容易ではありません。
 
SAM前世療法の魂遡行状態では、顕現化した前世人格が口頭で答えられる割合は、およそ5人に1人、約20%しか口頭で話せません。5人のうち4人までが、どうしても口頭で答えることができないと答えます。
ワイス式ではこうした音声化できないことは起こりません。
ワイス式体験者は、誰でも前世記憶のビジョンを口頭で報告することが可能です。

この口頭で話せないという現象は、SAM前世療法の催眠深度がワイス式よりも深く、筋肉の弛緩状態がきわめて深く、声帯も弛緩し切っているので発音できないのではないか、という推測は的外れのようです。
どうも、SAMの作業仮説に理由が求めることができるのではないかと考えています。

ワイス式では、「前世の記憶として現れるビジョンをクライアントが報告する」という前提になっています。
あくまでクライアントが「前世記憶を想起し報告するのです。

SAM前世療法では、「顕現化した前世人格が、クライアントの身体を借りて対話する」という作業仮説でおこないます。
前世人格は、当時のままの感情を持ち続けて、意識体として魂の表層に今も生きている存在なのです。
こうして、多くのクライアントは、まず顕現化した前世人格の喜怒哀楽の感情を共体験します。
ビジョンが現れず、感情のみの共体験で終わる場合もあります。
療法としての改善効果は、ビジョンより感情のほうが有益ですから、それでいいと思っています。

私の対話相手はクライアントではなく、身体をもたない前世人格という死者なのです。
死者である前世人格は、身体を失ってすでに長い時間を経ている存在です。
そこで、何人かの前世人格に、なぜ話すことができないのかその理由を指で回答してもらうことを試みたところ、「発声器官の使い方を忘れているからどうしても声に出すことができない」という回答でした。
指やうなづくという単純な動作なら、現世の身体を借りてその動作で回答することが可能であるということでした。
一理あるとは思いますが、さらに探究する必要があると思っています。

ここで注目すべきは、SAM前世療法においては、クライアントは前世人格の霊媒的な役割を担うということです。

私は、クライアントの意識の中に顕現化した死者である前世人格と、声帯にしろ指にしろクライアントの身体を借用して自己表現をする(憑依している)前世人格と対話するという形をとっているのです。
つまり、クライアントは、自分の身体を自分の魂の表層に存在する前世人格に貸している霊媒的役割を担うことになっているということです。
前世人格は、現世の身体を媒介にして、現在進行形で私と対話をしている、これがSAM前世療法の構図になっているということです。

そして、このような信じがたいセッションの構図は、「ラタラジューの事例」によって証明されたと思っています。

そしてまた、私あて霊信の恩恵による、SAM前世療法は、私以外に誰も発想できない療法でしょう。
正しくは、私独自の発想によるものではなく、霊信からの教示によるものです。

里沙さんの前世人格ラタラジューは、セッション中にネパール語話者カルパナさんと次のような現在進行形でのやりとりをしています。

里沙  Tapai Nepali huncha?
   (あなたはネパール人ですか?)

カルパナ  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)

里沙  O. ma Nepali.
   (ああ、私もネパール人です)

つまり、前世人格ラタラジューは、今、ここにいる、ネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、今、ここで、問いかけ、その回答を確かめているわけで、「里沙さんが潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示しています。
ラタラジュー は、現世の里沙さんの身体(声帯)を借りて、自己表現している存在です。

里沙さんは、カルパナさんとラタラジューのネパール語会話の媒介役として、つまり霊媒的役割としてラタラジューに身体を貸している、とそういうことにほかなりません。
それは、このラタラジューのセッション直後に書かれている次のセッション体験記録からも垣間見ることができるでしょう。

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セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。
こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。
 
思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。

ラタラジューの前に、守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの78年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。

はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。

なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。

悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。

カルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。

セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。

ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 
ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。

こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。(後略)
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「でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした」、「ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした」という里沙さんの述懐は、彼女がラタラジューに「体を貸している」霊媒的役割をまさに果たしたことを如実に語っていると思います。

イアン・スティーブンソンは、退行催眠中に現れた信頼できる応答型真性異言を2例あげています。ともにアメリカ人の女性2名に現れた「イェンセンの事例(スウェーデン語)」と「グレートヒェンの事例(ドイツ語)」です。

ちなみに、スティーヴンソンも、私と同様、顕現化した前世人格を「トランス人格」(催眠下のトランス状態で現れた前世の人格)と呼んで、真性異言の話者を、クライアントとは別の人格が現れていると考えています。
つまり、クライアントが前世の記憶として真性異言を語ったとは考えていません。

「ラタラジューの事例」を含めても、催眠中下で偶発した応答型真性異言事例は、これまでたった3例の発見しかありません。
ほかに覚醒中に起きた偶発事例が2例あります。

生まれ変わりが普遍的事実であるならば、なぜもっと多くのクライアントが応答型真性異言を話せないのか、これは、ほんとうに大きな謎です。

スティーヴンソンが存命中なら、「ラタラジューの事例」を自ら再調査にくるだろうと、スティーヴンソンの著作の訳者であり、彼と親交のあった超心理学者笠原敏雄氏は述べています。

私も、かなわぬ夢ですがスティーヴンソンに、この謎解きの見解を尋ねてみたいものだと思います。


(その18につづく)

18 件のコメント:

みかん さんのコメント...

こちらでコメントするのは初めてになります。よろしくお願い致します。

私が両療法の体験から感想を述べさせていただきたいと思います。
①催眠中の意識状態が明らかに違う。SAMの場合、ワイス式と比べてうんと深い意識状態に入ったという自覚がある。

ワイス式では五感は弱くなっているものの周りの音が聞こえなくなるような状態ではありませんでした。要求特性も働いて一所懸命イメージしなければと焦っていました。それに比べSAMは周りの音が一切聞こえませんでしたし、例えるなら別世界にいるような感じでした。どちらの療法も集中していたと言う点では同じなのですが、言葉では表現し辛いのですが明らかに異なる感覚なのです。これが意識状態の違いなのかもしれません。

②ワイス式ではセラピストの質問に対して口頭で答えられるのに、SAMの場合には魂状態に至ると口頭で答えることができなくなる。

ワイス式ではイメージで浮かんだものを口頭で伝えられました。SAMでの回答は口頭は出来ないと訴えました。口頭は無理でも指やうなずきで答えていました。湧き上がる感情をもっと伝えたい!!口頭で伝えられないもどかしさと言う点は『発声器官の使い方を忘れて』というのも私も一理ありかと思います。

『生まれ変わりが普遍的事実であるならば、なぜもっと多くのクライアントが応答型真性異言を話せないのか』の謎ですが、私ももっと多くの事例が出てくるのを願ってやみません。ですが貴重な応答型真性異言だけに多く出でれば軽々しく扱われそうな懸念もあるので出て欲しくないなと思う所もあります。
生まれ変わりが普遍的事実と証明されることは非常に喜ばしいことでありますし稲垣先生のご尽力が実を結び私にとってこれほど嬉しいことはありません。が、証明されたらされたで、はたして今のこの時代に生きる人々が霊界からの真理を正しく理解できるのか?と考えてしまいます。
イアン・スティーブンソン氏や稲垣先生の研究を台無しにしかねないかとも。良い方向に転換する事になるかもしれませんが人それぞれに解釈の仕方も異なります。もしかすると私達がもうすこし成熟しなければ真理を示す証拠が出てこないのかもしれません。 
霊界から今の私たちへの宿題なのかもしれません。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

みかんさん

両療法体験者の体験談をコメントしていただきありがとうございました。
何よりも実証的な説得力があると思います。
催眠中のモニター意識(顕在意識)のありようは個人差が大きいものです。
SAMは周りの音が一切聞こえませんでした、というあなたの催眠感受性はきわめて高いと判断できます。
クライアントによっては、往来を走る車の音や部屋のドアの開閉の音を感知することが珍しくありません。

応答型真性異言(responsive xenoglossy)の事例は、少数でしょうがほかにも偶発しているだろうと推測しています。
ただし、セラピストにその希少性と価値が認識されていないと、厳密な科学的検証がされず、見過ごされていると思われます。
なぜなら「検証」のためには膨大な時間と資金が必要だからです。
まず、異言を母語とする対話相手を用意する必要があります。
ヤラセなどの疑いを排除するためにセッションには社会的地位のある複数の同席者が必要です。
異言での会話の証拠映像から音声記録を起こし、異言の表記と日本語訳をする必要があります。
異言が単語の羅列ではなく、文法に則った応答的会話になっているか分析する必要があります。
異言で語られた諸事実を検証するために異国の現地調査する必要があります。
その異言が、セッション以前に獲得されたものではない証明のために、徹底的な生育歴の調査が必要です。
権威あるポリグラフ鑑定者によるポリグラフ検査の必要があります。
以上をすべてクリヤして、やっと「検証作業」が終了するというわけです。

応答型真性異言だと宣言するためにはこのように厳密な検証作業が絶対不可欠であり、それほどに生まれ変わりの科学的事実を認めることは重大なことなのです。
私は「ラタラジューの事例」でこうした作業を貫徹した自負があります。
だからこそ、里沙さんも納得してマスコミ(アンビリバボー)での公開と、出版を許可してくれました。
また、生命情報科学会、日本サイ学会での公的発表もできたということです。

シュヴァル さんのコメント...

みかんさんの投稿を興味深く読ませていただきました。

セッションは私も受けましたが私は五感が遮断されるような体験はありませんでした。
外の車の音もはっきり聞こえましたね
体験者によってかなり違うようです。

私は、セッション時は意識がはっきりしていて特に通常時と違いがわからななったのですが、終わってから先生の部屋のドアが勝手に開いたり、何かが存在してるような気配があったり、指が勝手にうごいたりしました。

指に関しては半年以上たってかなりおさまったのですが、それでも突然動くことがあり、
このあたりは非常に謎です。
もういちどセッションを受けたほうがよいのかなと思っています。

応答型真性異言については先生のおっしゃるとおり証明に対する労力が大変なものですね。

生まれ変わりについては、否定的な議論がでる背景には過去、主に宗教において生まれ変わりを自称する人たちの必ずしも理性的、合理的根拠無い行動があったように思います。

先生はそういう話ではないとセッション受けて感じましたが、否定的な人からは区別がつかないのでしょう。

これに対する対応は地味に実証を積み上げるしかないと考えます。ぜひ、この分野の研究を先生が一歩進められることを期待しています。

みかん さんのコメント...


『セラピストにその希少性と価値が認識されていないと』
正しくそのとおりだと思います。稲垣先生のような検証作業をしない場合がほとんどだと思います。
検証作業なしでの生まれ変わりの実証論が広まってしまうのが恐ろしいのです。稲垣先生の真摯な検証作業や理沙さんの意を決した覚悟を皆さんに知っていただきたいのです。 

もしも話で大変失礼なのですが再度、応答型真性異言に出会われましたら稲垣先生は検証作業をなさいますでしょうか?

稲垣 勝巳 さんのコメント...

地味に実証を積み上げるしかない、というシュバルさんのご見解は、まさにそのとおりです。
宗教者や霊能者の言う、実証の伴わない万の言説より、一つの実証にこそ説得力があると思います。
観念より事実、理屈より実証に重きを置くのが私の私である所以だと自負しています。
ちなみに、生まれ変わりの事実を公言している私ですが、一切の宗教団体とは無縁です。
もっとも、家は代々臨済宗の檀家ではあります。法事と葬儀のみの。
あえて宗教的立場を言えば、実証的なスピリチュアリストだろうと思います。
SAM前世療法であらわれる意識現象の事実はスピリチュアリズムの説く内容に近似性が高いからです。

みかんさん、応答型真性異言の可能性が高い事例に出会えば、検証作業に着手するつもりです。
ただし、ムー語や宇宙語を話す事例とは遭遇していますが、地球上に現存していない言語では、対話相手が存在しませんから「応答的」である検証ができません。
これらの検証が可能であれば、伝説の大陸の実在や宇宙人の前世の実在の証明に肉薄できるでしょうね。

みかん さんのコメント...

シュヴァルさんのセッション後のコメントに共感いたしました。

私も少しの間、指がかってに動く感覚が残りましたし、初めてのセッションで登場した前世のものが負った背中を切られた感覚、次のセッションでの前世が味わったであろう湧き上がる感情を今も忘れる事はありません。

1回目は指による回答がほとんどでしたが、2回目はうなずきや首振りで回答していました。感覚的には次は口頭で話せちゃうんじゃないの?って思ったりしました(笑)

そこで、稲垣先生にお尋ねしたいのですが、セッション後にシュヴァルさんや私のように指がかってに動くなどの症例はあるのでしょうか?

私もシュヴァルさんと同じく再度セッションを受けたいなと思っています。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

みかんさん
セッション後にシュヴァルさんやあなたのように指がかってに動くなどの事例は少ないですが複数あります。
魂遡行に成功して以後、潜在意識が覚醒中でも指に宿る現象だと見ていいと思います。
あるクライアントの女性の場合には、覚醒後にも動く指に問いかけて、問いの答えがイエスなら指を立てなさい、と指示すると問いの答えが自動的指立てによって得られると報告しています。
指に宿っている潜在意識との対話ということになるでしょうか。
ただし、なぜこのような現象が覚醒後にも生じるのかは謎です。
あなたも、試してみる価値はありそうですね。
顕現化した前世人格は、生まれ変わりである現世の肉体を操作することを、どうやら学習することがあるようです。
しかし、根本的にはクライアントの霊媒体質の有無が、話せるかどうかの鍵を握っていると推測しています。

シュヴァル さんのコメント...


>あるクライアントの女性の場合には、覚醒後にも動く指に問いかけて、問いの答えがイエスなら指を立てなさい、と指示すると問いの答えが自動的指立てによって得られると報告しています。

先生にはメールで一度報告しましたが
私もこのとおりです。
問題は私に検証能力が無くて正しいかどうかがわかりませんし、自分の知る科学的な知見では、何らかの反射神経の異常や妄想にも思えます。

やはりもう一度セッションを受けて真偽を確認したいと思っています。しかし、なぜこうなるのかについては非常に不思議です。

Unknown さんのコメント...

 簡単な会話とはいえ、異言で「質問される」ということ自体が、かなり説得力を帯びているのは確かですね。相手に尋ねるということは、明らかにそこに「明確な意思がある」ということになるわけですから、これ一つだけでも、稲垣先生の研究成果がいかに重要なことかわかった気がします。
 
 よくこの手の話だと、

「発音なんてどうとでも聞き取れる」

との批判がありますが、それは母国語(つまり、ネパールの古語)をしゃべる人間が判断することじゃないでしょうか。

 ネパール語を知らない日本人が、発音の仕方もろくにわからんくせにただ聞いていれば、そりゃ

「どうとでも聞き取れる」

ということになりますが、このセッションは現地のネイティブほか、ネパール出身の専門家も鑑定しているわけですから、この手の批判はあまり意味をなさない気がします。

 ついでに半年くらい前ですが、池川明さんという方が

「前世を記憶する日本の子供たち」という本を出版されておりますね。胎内記憶を語る子供たちの中から、まれに前世の記憶まで語る子供がいるらしいとのことで、ただそれが本当に実在したものなのかという点に関して、どこまで調査しているのかは……(残念ながら、私はまだ未読なので)。

 今日はダライ・ラマが輪廻転生「制度」(あくまでも生まれ変わりそのものではなく、制度を)を否定する発言をし、中国政府との対立を鮮明化させておりますが、逆に稲垣先生や大門教授らの生まれ変わりの研究が進んでいけば、輪廻転生という「現象」(私は、これはもう「自然現象」として認めたほうが自然ではないかと思っております)も、政治利用や新興宗教に恣意的に利用されることもなくなるのではないかと持っておりますが……。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

シュヴァルさん

SAM前世療法の作業仮説では、深い催眠状態に至ったとき、霊体に宿っている潜在意識を指に移し替え、宿らせる、という作業をします。
こうした作業仮説に基づいて推測すれば、一度催眠下で体験した指に宿った潜在意識が、覚醒時にも宿り、何らかのメッセージを告げようとしているということが言えるように思われます。
反射神経の異常であれば、指(に宿っていると思われる潜在意識)に問いかけてみてはどうでしょう。
たとえば「あなたは前世のどなたかで、何か訴えがあって指に宿っているのですか?
そうであるなら、指を立てて答えてくれますか」のように。
こうした問いに、あなたの顕在意識とは別に、指が自動的に反応して、明らかに動くとすれば、反射神経の異常という疑いは排除できると思います。
反射神経の異常であれば、問いかけに関係なく支離滅裂の動きをするはずだからです。
ただし、応答的に指が動いても、あなたの願望が投影された無意識的な指の運動による回答であるかもしれません。
再度、SAMのセッションをして、指に宿って何か訴えようとしている前世の者がいるなら出ておいでなさい、と問いかけるという方法もあるでしょうね。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

orphan elderさん

ラタラジューの発話を、空耳の羅列にすぎない、と批判している催眠関連学会の中心的人物がいます。
この人物はガチガチの唯物論者であることは間違いありませんから、応答型真性異言を絶対認めたくないのでしょう。
応答型真性異言のような奇怪な現象があってたまるか、と思い込んでいる。
およそ唯物論者の批判とは、このような根も葉もない、反証というにはあまりにおそまつな批判が多いものです。
応答型真性異言ではないと否定するためには立証責任がともなうというルールを知らないか、無視して平気のようです。
生まれ変わりを認めたくないならば、生まれ変わりを否定できる証拠を挙げて反論するしかない、とイアン・スティーヴンソンも述べています。
言うに事欠いて、空耳の羅列としかケチのつけようがないほど、「ラタラジューの事例」は堅固な検証に支えられているのだ、と自負しています。

シュヴァル さんのコメント...

ありがとうございます。

反応的には、支離滅裂には感じないのですが
なぜ動くようになったのか、真偽という点については、やはりもう一度受けたほうが良いように思います。

その際はよろしくお願いします。

ショウタ さんのコメント...

NHKの臨死体験特集で意識は脳の蜘蛛の巣のような数学的なもので死んだら消えるというのが最新の科学と言っていました

ラタラジューの事例も虚偽記憶でしょう

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん

ラタラジューが虚偽記憶だという証拠がどこにありますか?
虚偽記憶としてあらわれたラタラジューが、なぜ被験者里沙さんの学んでいないネパール語で対話できるのですか?
そうした説明がきちんとできないのに馬鹿なことを言ってはいけません。

あなたは、応答型真性異言への理解がまったくできていないようです。

意識は脳の蜘蛛の巣のような数学的なもので死んだら消える、というのも実証のない仮説にすぎません。

今後、こうした短絡的・没論理的な低レベルの投稿は削除します。

Unknown さんのコメント...

 科学とは言えないかもですが、今回のNHKの放送に、結構失望した人が多いようですね。曰く、「なんの救いにもならない」「見なければよかった」と。

 結局、「ただ一度きりの人生なんだから、よりよくいきなさい。一生懸命がんばりなさい」という思想は、ある意味「高度経済成長」の右肩上がりの時代であれば、極めて有効に働いたのだと思うのですよ。ただ一度きりであれば、そりゃだれだって一生懸命努力して上を目指そうとします。また、個々人が努力することで、結果経済も飛躍的に成長した。要するに、個人にとっても社会にとっても都合がよかったのです、この唯物論的死生観というものが。そういう時代においては「死後の世界」を考えることは、精神的に弱いものとか知的に劣ったものという偏見が生まれるのも仕方がない。

 ですが、今はもはや経済成長が望めない時代。それどころか、あと30年もすれば、日本の人口は一億を割り込むのではないかという議論さえある。目に見えて停滞どころか、衰退の時代が訪れるわけです。当然、「ただ一度きりの人生を一生懸命生きる機会」もだんだん減ってくることでしょう。経済活動が停滞または衰退してくれば、当然そういう機会が限られてくるのは明白だからです。

 資本主義は、「機会の平等」を謳います。しかし、それはそういう機会を与えられるだけの「社会的・経済的余裕」があればこそです。余裕がなければだんだんそういう機会すら限られてくる。チャンスそのものが限定されているくるということは、結果どれだけ才能があったとしてもそれを生かすことさえままならないということです。そうなると、特に若い世代の中から、「一度きりの人生なんだからよりよくいきなさい」という戒めがいかに陳腐なものであるか気が付く人が大勢出てくると思います。これから先、科学者がいかに主張しようが、もはや唯物論的死生観は、だんだん社会と人々にとって合わなくなってくるのではないかと思います。

 また、この唯物論的死生観は、ある意味現世利益しか保証しません。それでも、先ほども言いました通り、右肩上がりの時代やバブル期までなら何の違和感もなく人々は信じることができたのだと思います。

 苦難の果てに幸福が待っているというのは、キリスト教の教えに通じるところがあります。たとえば、共産主義なんかも、社会革命という苦難の混乱期を乗り越えて、「地上の楽園」である共産主義が到来するとしております。要するに、苦難の果ての輝かしい未来なわけです。天国到来の思想ですね。

 資本主義も同じです。努力の果てに豊かさという幸福が待っているんだよと謳うことで、経済成長を促し、今日に至りました。ですが、今や先進国は軒並み借金だらけで行き詰まり、また、新たなるフロンティアも見いだせない(せいぜいアフリカくらいか?宇宙開発はコストがかかりすぎてとてもではないが、これを契機に再び高度成長をというのは不可能)状況です。

 共産主義は、苦難の果ての社会変化で楽園である共産主義社会に至ると語り、資本主義は、努力の果てに豊かさという幸福が到来すると謳うことで、人々を魅了し、存続してきました。だが、それもまやかしであるということに、だんだん人々は気が付いてきたのだと思います。

 高度経済成長期であれば、努力すれば言葉は悪いが馬鹿でも不細工でも100年前よりも豊かになれました。要するに、現世において、幸福を達成できたのです(すべての人間ではありませんが)。来世まで考える必要はなかったのです。ですが、これから先は年金も破綻してくるし、消費税も上がる。若い世代には老人たちの介護や世話ものしかかってくる。少子高齢化も進む。たくさんの子供を育てることもできない。そういう社会になっていく。明らかに人口減少社会です。さらに言えば、努力しても報われないどころか、場合によってはさほど努力しなくてもある程度のことが昔ほどの手間をかけずに実現してしまうようなことも、これから起きてくるでしょう。技術の発達によって、昔なら多数のコストと人員を割いてしなければならなかったものが、だんだん少人数のサークルみたいなものでも実現できるようになってしまうとか、そういうことは結構あります。特にIT関係ではそうです。こうなると、努力の意味合いも全く違ったものになる。要するに、努力の果ての「豊かさ」という「幸福」がだんだん見えにくくなってきております。現世における幸福の追求すら困難になってきている。それが今の時代でしょう。

 

Unknown さんのコメント...

 NHKが流した番組は、あくまでも現時点での(しかも反論されにくいごく一般的な臨死体験の事例に対する)見解です。実際に国際臨死体験学会はじめ様々な場所で発表されている特異な報告例(しかもネットの発達で、こういう情報は近年増えてきている)を考慮すれば、とてもではないがフォールスメモリーで説明しきれるものではありません。そういうのを黙殺せざるを得ないというのがおそらく現状なのでしょう。もちろん、稲垣先生のこのラタラジューの件も同様ですし、NHK自身が放送したマーティ・マーティンや、別件ではジェームズ・レイニンガーの件もそうです。これらがフォールスメモリーで説明できるというのなら、どんな没論理でもまかり通ってしまいます。無理やりその結論に当てはめた見解だけを示せばいいわけですから、これほど論理を欠いたものはないでしょう。

 知恵袋にこんな意見がありましたので、参考までに載せておきます。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13135559053

 ついでに引用しときましょう。

>インテリは虚偽記憶の問題を、スピリチュアルな分野だけに当てはめるのが好きですね。

臨死体験時の脳の仕組みを明らかにすることが、
自動的に「脳内現象にすぎない」事を証明する事になる

こうした考え(↑)について、誰も疑問に思わないのでしょうか

一元論と二元論、どちらが臨死体験を包括的に説明できるか、といった議論が
必須だと思いませんか?
なぜそれについて触れないのでしょうか

 以上、引用終わり

 これが30年くらい前なら、素直に科学者の言うことだからと大勢の人が信じたでしょうが、社会情勢の変化も相まってだんだんにわかには信じなくなってきたのでしょうね、人々も。それだけ大衆も賢くなってきたのでしょう。

 欧米では、ホーキングやドーキンス級の一流科学者たちがいくら唯物論や無神論を唱えても、敬遠されがちです。なぜなら欧米人にとっては、科学者とは経営者と同じであり、彼らの感覚からしてみれば、ホーキング級ですら、「成り上がりの経営者」なわけです。当然成り上がりの経営者がいうことと、自分たちが築き上げてきた伝統や文化、風習とどっちを優先するかと言ったら、結論は決まっております。だから唯物論や無神論は欧米でははやらないんですね。唯物論や無神論をもとに構築された文化風習など人類の歴史にはほとんどありません(一時的に席巻した時代はあるにせよ)。

 科学も所詮人の営みにすぎず、その時代において都合のいい研究や技術に投資されがちであり(当然、その分野ばかりが不自然に発達したり、逆に全く研究が進まない分野もあるが、それはみな学会や投資家あるいは政治家たちの都合によるものであり、一部日本人が信じているような、論証や実証を重ねて真理にたどり着くような「聖職」としての活動の結果ではない)、科学者たちも研究活動という名の経営活動をやっているわけです。当たり前の話ですが、どんな崇高な理念を掲げようが、研究資金がなければ研究できません。そして、研究者たちも、多くは自分たちの生活の糧を得る目的でやっているわけです。「真理の探究」という理念はありますが、理念と商売のどっちが優先するかは言うまでもないことでしょう。株式会社に例えれば、科学者たちの理念は「経営理念」であり、学会は「株主総会」であり、論文は「有価証券報告書や財務諸表等」の活動報告書にすぎません。これがわからない日本人が多いような気がします。

 日本人はナイーブに科学というのもとらえすぎている気がします。所詮科学といえども「人の営み」なのです。当然、「政治性」や「経済性」が絡んでくるし、今もたらされた科学的真理というのは、結局は今の時代のそういった科学者側の都合や政治的判断などのバイアスがかかった単なる「経営活動のための商品」でしかないんですね。当然、「死後の世界はない」という結論ですら、もしかしたらそういった為政者や科学者側の都合により信じ込まされてきたという可能性もあるのです。そのほうが、経済成長が必要な時代には都合がよかったとも考えられるからです。もっとも、現代人は自己愛が強いので、自分たちが信じ込まされてきたなんて思いたがらないでしょうが(苦笑)。

 いつの時代も、人々が為政者に求めているのは「科学的真理」ではなくて、「最低限度の生活の安定」と「自分たちを満足させてくれる価値観」です。このうち、「生活の安定」は、まあ技術の発達によっては今後達成されるかもしれませんが、「満足させてくれる価値観」については、およそ科学では達成できないでしょう。今のNHKのあの番組でさえ、内容を見て「失望した」と語っている人が大勢いるくらいですからね。

 先ほどの引用ではありませんが、そろそろ唯物論と二元論、どちらの方がこれらの現象を説明するのに「シンプル」で手間がかからないか、矛盾がないか、そこら辺の議論を進めてもいいんじゃないかと思います。科学サイドがこういった人々の声を無視し、ただ唯物論の側から語るだけで、多くの人々(「多くの」と、あえて書きます)失望や虚無感、空虚感を与え続ける限りは、いつの日か日本人も欧米人と同じように、科学者たちのことを「金や名誉とは無関係に技術発展で社会に対して恩恵をもたらし、真理を追究していく聖職者集団(現代の神官)」から「科学者もまた人の営みの束縛からは逃れられない経営者集団」とみなすようになってくるのではないでしょうか?

みかん さんのコメント...

朝日新聞の吉田調書、STAP論文、NHKの捏造、どれもじっくりと検証すればこんな大事にならなかったんですよね。

今はスピードを求められ、じっくり検証する時間を持つことが許されないのかもしれません。そして私たち視聴者、読者もまた結果を見守る余裕を持つことがなくなり、断片的な情報で判断しているように思います。

それは恐ろしいことだと思うのです。
今の大人の姿を見て育つ子供の判断力が養われるとは到底思えないからです。

何をもって虚偽とし、何をもって真実とするかをきちんと定義付けしなければ全ての事象が虚偽になり真実になりえると思うのです。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

orphan elderさん
現代社会の閉塞状況を分かりやすく解説くださってありがとうございます。また、科学者といえども専門分野の学問的経営者である、という鋭いご指摘はまったく同感です。
私は、成瀬悟策催眠学派に連なる在野の催眠療法実践者ですが、日本の大学教員である限り、SAM前世療法の研究を公にすることはおそらくできなかったでしょう。成瀬先生の前世療法研究に対する警告を受けているからです。前世などはすべてフィクションとして扱いなさい、さもないと危ういですよ、という警告です。
というわけで、私は成瀬催眠学派からすれば明らかな異端を自認しています。

昨夜のNHKの臨死体験特集には、私も落胆・失望しました。
明らかに唯物論側に偏向した事例を意図的に取り上げている編集方針が透けて見えたからです。
体外離脱、トンネル体験、その先の神秘体験など脳内現象(虚偽記憶)で説明可能な事例をことさら取り上げているとしか思えなかったからです。
虚偽記憶では到底説明が完結しない特異な事例が少なくないにもかかわらず、それを取り上げないのは中立・公正な科学番組編集とは言えません。
また、番組に登場した立花隆氏については、「立花老いたり」の感を否めませんでした。彼の著作『臨死体験上・下』2000、文春文庫、の取材以上の新しい知見がなかったからです。むしろこの著作には脳内現象で説明できない臨死体験事例が取り上げてあります。彼が番組編集にタッチしていないはずがないと思われますが、どうしてそれらを外したのしょうか。

みかんさん
「何をもって虚偽とし、何をもって真実とするかをきちんと定義付けしなければ全ての事象が虚偽になり真実になりえる」というご見解はそのとおりです。
「ラタラジューの事例も虚偽記憶でしょう」という里沙さんおよび私への挑発・名誉毀損とも受け取れるコメントが投稿されていますので、次回からは「ラタラジューの事例再考」というテーマで記事を書く予定です。