SAM前世療法では、魂の表層は前世のものたちによって構成されており、それらのものたちが潜在意識を作り出している、という作業仮説にしたがって、潜在意識をひたすら深め、それを作り出している源である魂の自覚まで導きます。この作業仮説は、私が考えたことではなく、私あて霊信が告げてきたことが基盤となっています。
魂状態の自覚に至ったことが確認できれば、魂の表層に存在し、主訴に関わっている前世のものを呼び出します。
こうして私は、顕現化した前世の人格と対話し、その苦しみや悲しみを共感的に傾聴します。
現世のクライアントの顕在意識(モニター意識)は、私と前世人格との対話を傍聴しています。
私と前世人格の対話、それを傍聴している現世の顕在意識という三者的構図が、これまでの心理療法になかったSAM前世療法独自・固有のセッション構造といえるでしょう。
前世の人格が苦悩を語ることによって癒しを得ると同時に、傍聴している現世のクライアントの主訴も連動して改善が起こる、というのがSAM前世療法による暫定的治療仮説です。
このことつまり、こうした治療仮説そのものは、通常のカウンセリングと何ら変わりがないものです。
ただカウンセリングの対象が生身の人間ではなく、肉体を持たない前世人格(死者)であるという点に違いがあるだけです。
したがって、カウンセラーは、クライアントと面接しているのではなく、クライアントの前世の人格と面接しているのだ、という明確な自覚のもとでセッションを進めることになります。
非常に信じがたい奇異なカウンセリングに映るでしょうが、SAM前世療法の作業仮説からしてみれば、当然の論理的帰結であり、クライアントの意識現象として現れる確かな事実です。
カウンセラーは、数百年前に人生を終え、当時のままの苦しみや悲しみの感情に苦悩しながら、今も魂の表層に生き続けている前世の人格(死者)と対面するというわけです。
ラタラジュー人格もこうして顕現化し、ネパール語で会話したのです。
ラタラジューが真性異言で会話した事実は、彼が、けっして里沙さんの作り出した架空の人格ではないことを証明しています。
架空の人格が応答型真性異言を話せるはずがありません。
ラタラジューはネパール人として生きたことがあるからこそ、ネパール語で会話できたのだと考えざるをえません。
こうしたことから、魂の表層が前世人格存在の座であり、今も前世の人格が生きて存在している、という作業仮説は正しい可能性があると思われます。
その一つの証拠が、ラタラジューとカルパナさんの次のような現在進行形のネパール語会話です。
※ CL : ラタラジュー人格(被験者里沙) KA : ネパール語話者カルパナ
CL Tapai Nepali huncha?
(あなたはネパール人ですか?)
KA ho, ma Nepali.
(はい、私はネパール人です)
CL O. ma Nepali.
(ああ、私もネパール人です)
この会話のラタラジュー(CL)という顕現化した前世人格は、カルパナさんに対して、明らかに、今、ここで、現在進行形で問いかけています。
つまり、前世人格ラタラジューは、魂表層で今も生きており、それが顕現化して問いかけているとしか考えられません。
こうした事実からも、被験者里沙さんが、ラタラジューであった前世の記憶を想起して語っている、という解釈は成り立たないのです。
応答型真性異言現象においては、それを会話した当事者の「前世の記憶」ではないというほかありません。
さて、私と同じく応答型真性異言の二つの事例を20年ほど前に出版しているイアン・スティーヴンソンは、この現象を次のように述べています。
スティーヴンソンも、応答型真性異言「グレートヒェンの事例」において、真性異言で会話したグレートヒェンを名乗るドイツ人少女を「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出そうと試みた」(『前世の言葉を話す人々』11頁)と記述し、呼び出された前世人格を「トランス人格」(前掲書9頁)と呼んでいます。
さすがにスティーヴンソンも、応答型真性異言で会話している現象は、当事者の記憶想起としてではなく、当事者とは別の、トランス人格(前世人格)が顕現化して会話している、ととらえざるをえなかったのです。
つまり、催眠下で前世人格を呼び出し顕現化させる、というSAM前世療法における私と同様のとらえ方をしています。
おそらく、この被験者も里沙さんのような高い催眠感受性と霊媒能力を持ち、タエやラタラジューの人格同様、催眠下で一気に魂状態になり、その表層に存在している前世人格グレートヒェンが顕現化したと推測してよいように思われます。
こうした海外で発見された催眠下であらわれた2例の応答型真性異言と考え合わせると、前世人格の存在する座は魂の表層である、とするSAM前世療法の作業仮説の検証は、ますます意味深い作業になると思っています。
なぜならば、スティーヴンソンは、呼び出された「トランス人格(前世人格)」が真性異言を話すことまでは言及しても、その「トランス人格(前世人格)」の存在する座はいったいどこにあるのかまではっきり言及しようとしていません。
ただし、彼は、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を『心搬体(サイコフォ)』と呼ぶことにしたらどうか」(『前世を記憶する子どもたち』359頁)とまでは提唱しています。
こうした文脈から、おそらくスティーヴンソンは、心搬体(サイコフォ)がトランス人格存在の座であると推測していると思われます。心搬体(サイコフォとは、いわゆる魂と同義です。「魂」という用語にまつわる宗教色を避けるために、「心搬体(サイコフォ)」という新しい中立的用語を提唱しているわけです。
トランス人格存在の座を明確に述べようとしないのは、実証を重んじる科学者としてのスティーヴンソンの慎重な自制からでしょうが、SAM前世療法の作業仮説は、それ以上言及されなかったトランス人格の存在する座までも検証しようとしています。
ところでスティーヴンソンは、次のような謎とその謎解きを次のように述べています。
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「私が特に解明したいと考えている謎に、イェンセンやグレートヒェンが母語(注 スウェーデン語とドイツ語)でおこなわれた質問と同じく、英語でおこなわれた質問に対しても、それぞれの母語で答えることができるほど英語をなぜ理解できたのかという問題がある。イェンセンとグレートヒェンが、かつてこの世に生を享けていたとして、母語以外の言葉を知っていたと推定することはできない。二人は、したがって、自分たちが存在の基盤としている中心人物(注 英語を母語とする被験者のこと)から英語の理解力を引き出したに違いないのである」(『前世の言葉を話す人々』235頁)。
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このことは、ラタラジューにも当てはまる謎です。
なぜ、ネパール人前世人格ラタラジューが、知っているはずのない日本語を理解し、私と対話できるのかという謎です。
これはラタラジューが顕現化した第一回セッションからこだわり続けていた謎でした。
そこで、実験セッションの始めに「ラタラジューはネパール人です。それなのに日本語が分かるということは、翻訳、仲立ちをしているのは魂の表層の『現世のもの』と考えてよろしいですか? 」という質問を里沙さんの守護霊にしたのです。
これに対して、里沙さんの守護霊とおぼしき存在も、そのとおりだ、と認めています。
またこの存在は、魂レベルでは言語の壁がなくなり自然に分かり合える、とも告げています。
つまり、「魂の二層構造仮説」のように、魂の実在を仮定すれば、スティーヴンソンの「特に解明したい謎」に解答が出せるかもしれないということです。
魂の表層に存在し、ラタラジューとつながっている「現世のもの(現世の人格)」が通訳をしているという説明ができることになるのです。
4 件のコメント:
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魂の二層構造仮説および退行催眠下で顕現したものが過去の記憶ではなく、現実に独立して存在する人格であるという推論は、説得力があると思います。なお、これに異論を唱えるとすれば、高森光季さんが主張される憑霊の可能性くらいしかないでしょうね。ゆえに憑霊説をいかに反駁するかについて考えてみる必要があると思います。
このことは、タエやラタラジューが現世人格にたいする過去世人格であることをいかにして証明するかという問題をも提起していると思いますが、稲垣先生はこの問題について再三にわたり、解説を試みておられるので、以前の記事やコメント欄をもう一度読みかえしてみたいと思います。
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おっしゃるとおり、前世記憶の想起ではなく、前世人格の顕現化だ、という仮説につきまとう問題は、前世人格として魂表層から顕現化した人格が憑依霊ではないか、という疑いです。
私のとっている立場でおこなわれている前世療法は、過去にも現在でも皆無ですから、先行研究に学ぶことができません。
したがって、セッションで確認できた意識現象の累積から判断するしかありません。
①未浄化霊がはじめから憑依している場合、魂の自覚状態に至ることができない。浄霊が成功してはじめて魂状態に戻る。したがって、魂状態の確認後に顕現化したものは未浄化霊ではない。
②異物としての未浄化霊(低級霊)が顕現化している場合、クライアントのモニター意識に、顕現化しているものとの同一性の自覚が現れない。
③未浄化霊である場合には、対話後、魂の表層の居るべき位置に戻ることをしない。浄霊しないと憑依を解いてくれない。前世人格であれば要請に応じて、魂表層の居るべき位置に戻る。
④高級霊がメッセージを携えて憑依している場合には、魂遡行の確認後、最初に高級霊が憑依していることを自ら告げる。高級霊が憑依を解くにあたっては浄霊を必要としない。
現時点で、前世人格と憑依霊の識別は、およそ上記3点の意識現象の事実から可能だと考えられます。
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>稲垣勝巳さん
先に述べたコメントにつき、考え違いや考えの足りないところが多々ありましたので訂正させていただきます。
まず、現世の人格と退行催眠下で顕現した人格は、それぞれ別個の独立した人格存在である、とするなら、問題となるのは、現世の人格と過去に生きた人格とはいかなる関係にあるのか?ということではないでしょうか。タエやラタラジューがなんらかの記憶という存在形式ではなく、現世人格とは別個の独立した人格存在だとすると、タエやラタラジューの過去世における実在性や発言内容の真実性を証明しても、現在を生きる人格との関係は自明ではなく、つまり、生まれ変わりを証明したことにならないのではないかという疑問が提起されるわけですね。現世人格が過去世の記憶を想起した、というなら、話は単純で、その記憶の事実性を立証すれば、一応は、生まれ変わりをも証明したことになるけれども、記憶説をとらず、過去世の独立人格説をとる場合には、過去世の人格と現世の人格は直接、生まれ変わりという関係にないということになりますから、過去世の人格の実在や発言内容の事実性がそのまま生まれ変わりの証明に結び付かないということになるのではないでしょうか。過去世の独立人格説と生まれ変わり説は、もしかすると相互矛盾の関係にあるのかもしれません。
生まれ変わりを言う場合、あくまでも基点として問われるのは、現在生きている人格は、何かの生まれ変わりなのだろうか?ということであり、その回答として提示されたものが過去にべつの人生を生きた記憶であると言う場合には、生まれ変わりは成立しますが、現世人格とは別個の独立した人格ということになると生まれ変わりは証明したことにならない、という問題が立ち現れてくるように思われます。
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「「ある人が死んで、一定の時期を経た後、再び生まれてくる」「ある統合的知性・精神体が、一つの肉体を占有し、それと融合しつつ物質的な世界を生きることを、かつて行ない、そして新たに行なうこと」という定義からすれば、魂の二層構造仮説は「生まれ変わり」をしていないという論理になることは当然でしょう。「現世の“私”は、死後、再びある肉体を占有して、肉体と融合して生きることはない」というのが、セッションで確認してきた意識現象の事実です。表層の前世のものたちを含め、魂全体が、次の肉体に宿る、つまり、個別の人格はそのまま生まれ変わりをしないが、それらを包含した魂全体が次の肉体に宿る、つまり、端的に言えば、私の生まれ変わりの概念は、「魂全体が次の肉体に宿ること」を「生まれ変わり」だとしています。「現世の私」は、次の肉体では魂表層の前世のものたちの一つとして死後存続していく、というわけです。
私は、この生まれ変わりの定義を普遍的なものなどとは主張していません。
臨床の場で確認してきた意識現象の事実の累積としてきた「とりあえずの真理であろう」と思っているのです。
繰り返しますが、私の生まれ変わりの概念は、「前世のものたちを表層に位置づけている魂全体が次の肉体に宿ること」を「生まれ変わり」だとしています。
このような生まれ変わりの概念を誰も述べていないのでなかなかご理解できないでしょうが、臨床の事実は、このことを裏づけています。
現世の人格と過去に生きた人格とはいかなる関係にあるのかといえば、魂表層にあって前世人格たちは互いの人生の知恵を分かち合い、それら人生の知恵(苦悩も含めて)を現世人格にも分かち与えている、という関係になります。だからこそ、現世人格は前世人格に対して何らかの同一性の感覚をもつと考えられます。
ラタラジューもタエも、里沙さんの魂表層を構成している前世人格であるという事実は検証できたと思っています。
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