2012年2月13日月曜日

「ラタラジューの事例」は憑依現象ではないかという疑問に答える

これまでの前3つのブログで、ラタラジュー人格がネパール語で対話できていること、しかも、そのネパール語は古い時代のネパール語である痕跡があることを検証してきました。
こうして、確かにラタラジューという人格が顕現化し、ネパール語対話をしていることを認めた場合に、この人格が本当に里沙さんの前世人格であるのか、「里沙さんとは無関係の憑霊人格」ではないのか、という疑いが生じてきます。
前世人格か憑霊人格かをどう判断するか、というようなやっかいな難問を抱えざるをえないのは、SAM前世療法が、「前世記憶の想起」というワイス式の考え方に立たず、「前世人格を顕現化させる」という作業仮説に立っているからこそ生じる必然的な問題です。
しかし、この難問を回避することはできません。
SAM前世療法の存立にかかわる重大問題だからです。
放置すれば、SAM前世療法は憑霊療法になりかねないからです。
実際に、アンビリを視聴した霊能者を名乗る人物から、「ラタラジューの事例」は憑依現象だ、という根拠のない決めつけのブログ記事がネット上に公開されています。
こうした誤解を受けることは、SAM前世療法の創始者として耐え難いことです。
そして、被験者里沙さんに、申し訳ないという思いでいっぱいになります。
しかし、前世人格と憑霊人格の見分けに関わる先行研究はありません。
そもそも、前世療法において、「前世人格の顕現化」という作業仮説を立てて実践しているのは、唯一SAM前世療法しかありません。
前世記憶の想起を前提にしているワイス式では起こりようがない問題です。
したがって、先行研究があるはずがないのです。
そこで、里沙さんにおこなった守護霊の降霊実験の考察と、宗教学のシャーマニズム研究、筆者のおこなってきたSAM前世療法の考察などから、次のような見分けの指標の見解を持つことが妥当であろうと思っています。
前世人格か憑依人格かを見分ける最後のよりどころは、結局、自我を形成する魂は、おのれの前世人格であるか、他者である憑霊人格であるかを、魂自身が根源であるがゆえに、見誤ることはあり得ない、という一種の信念に立ち返ることにしかないように思われます。
筆者が里沙さんにセッションから間を置かないで、セッション中の意識状態を内観して記録するようにお願いしたのは、最後は里沙さん自身の「魂」を信頼するしか見分けの指標はないと思っていたからです。
そして、そこから次のようなことが言えると思います。
①SAM前世療法の作業仮説として、ラタラジューは「魂の表層」から呼び出している。
魂がおのれの一部である前世人格と、「異物」である憑霊人格と見誤ることはあり得ない。
ゆえに、里沙さんの「セッション中の意識状態」の内観記録を信頼することは道理に適っている。
②SAM前世療法の経験的事実として、ラタラジュー霊が最初から憑依しているとすれば、里沙さんが魂状態の自覚に至ることを妨害する。したがって、魂状態の自覚に至ることができない。しかし、事実はすんなり魂状態の自覚に至っている。つまり、憑依霊はいないということになり、ラタラジューという霊が最初から憑依していた可能性はまずあり得ない。
③魂の自覚状態では、霊的存在の憑依が起こりやすくなる。未浄化霊も高級霊も憑依することはセッションに現れる意識状態の事実である。したがって、魂状態に戻ったときをねらってラタラジュー霊が憑依した可能性を完全に排除できない。
しかし、四年前の最初のセッションで、タエの次の前世としてすでにラタラジュー人格は顕現化している。
今回も、ラタラジューという前世人格を魂の表層から「呼び出して」顕現化させた。
憑依が、呼び出しによって起こった可能性は考え難い。
もし、呼び出しによって憑依が起こるとすれば、SAM前世療法で現れた人格はすべて憑霊人格ということになりかねない。
④SAM前世療法の治療構造仮説は、呼び出した前世人格との対話によって、その前世人格が癒され、それをモニターしている現世の意識も連動して癒しを得る、ということである。
前世人格ではなく、異物である憑霊人格を癒して、これと関係の全くない現世の意識が連動して癒されるとは考えにくい。
⑤第一に現世意識が、憑霊人格を異物として感知しないとは考えにくい。
里沙さんは、明らかにラタラジュー人格とおのれとの同一性の自覚があると報告しており、ラタラジューを異物として感知していない。
第二に憑依が起きたとすれば、憑依霊によって人格を占有されるわけで、その間の記憶(モニター意識)は欠落する。
これは宗教学のシャーマニズム研究の報告とも一致する。
シャーマンは憑依状態の記憶が欠落することが多いとされている。
里沙さんは、ラタラジューが対話している間の記憶が明瞭にあると報告している。 
さらに、彼女の場合には、守護霊降霊中の記憶は完全に欠落することが、過去三回の守護霊の降霊実験から明らかになっている。
ラタラジューの会話中の記憶があるということは、ラタラジューが憑依霊ではない状況証拠である。
憑依現象ならば、その間の記憶は完全に欠落しているはずである。
しかも、ラタラジューには、真性異言対話実験後、魂の表層に戻るように指示し、戻ったことの確認後催眠から覚醒してもらった。
SAM前世療法の経験的事実として、ラタラジューが憑依霊であれば、筆者の指示に素直にしたがって憑依を解くとは考えられない。
もし、ラタラジューが憑依霊であれば、高級霊とは考えにくく、未浄化霊であろう。とすれば、憑依を解くための浄霊の作業なしに憑依が解消するとは考えられない。
⑥SAM前世療法の経験的事実として、魂状態に戻ったときに憑依した霊は、筆者の問いかけに対して、未浄化霊の場合は救いを求める憑依であることを告げる。
沈黙をしているときは、「悪いようにはしないから正体を現しなさい」と諭すと未浄化霊であることを認める。
手強い沈黙に対しては、脳天に手をかざして不動明王の真言を唱えると正体を現す。
このとき、クライアントは痙攣、咳き込み、のけぞりなどの身体反応を示す。
⑦里沙さんは、2005年の「タエの事例」以後、他者に憑いている霊や自分に憑こうとしている霊を感知し、それは悪寒という身体反応によって分かると報告している。
ある種の霊能らしきものが覚醒したと思われる。
このような里沙さんが、ラタラジュー霊の憑依を感知できないとは考えられない。
憑依であるなら、彼女が自ら感知し、何らかの違和感を訴えるはずである。  
こうした諸事実から、ラタラジューが里沙さんの前世人格ではなく、まったく別人格の憑霊現象だとするのでは、説明が収まりにくいと考えられます。
 
以上述べてきた考察から、筆者は、「顕現化した人格に対する同一性の自覚の有無」と「顕現化中の記憶の有無」が、前世人格と憑依人格を線引きできる一応の指標になると考えています。
「ラタラジューの事例」の場合、里沙さんには、ラタラジューに対して自分の前世の者であるという「同一性の自覚」が明確にあり、ラタラジューがネパール語らしき言語の発話中の記憶がある、と述べています。
したがって、ラタラジュー霊の「憑霊仮説」は、棄却してよいと判断できると思われます。
次のブログで、里沙さんのセッション中の意識状態の内観記録を紹介して、筆者の判断の妥当性を検証したいと思います。
コメン

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