SAM催眠学序説 その171
前ブログで紹介した宝田昌子 さんが、わたしの最初のセッションを受けたときの感想と、その後催眠塾に入塾し、SAM前世療法士としてどのような努力を積み重ねて、今に至っているかを投稿していただけたので、①でそれを紹介します。
これまで、SAM前世療法士自身の具体的、分析的なセッション体験を掲載したことはありません。
SAM前世療法の実際を、SAM前世療法士自身が、どのように体験していたのか、その後「スーパーバイザーSAM前世療法士」として、彼女が実力をつけていくための具体的努力をどのように重ねてきたかの軌跡が読み取れると思います。
もう一つ注目していただきたいのは、SAM前世療法における、「セラピスト」対「前世人格」との対話と、それを傾聴している「現世のクライアントの意識」という独特なセッション構図が典型として示されていることです。
世界中の従来の前世療法には例がない、このようなSAM前世療法の特異なセッション構図をわたしは「三者的構図」と呼んでいます。
これに対して、終始「セラピスト」対「クライアント」の関係でおこなう一般の前世療法のセッション構図は「二者的構図」と呼んでいいと思います。
宝田昌子さんの投稿記事の次に、②で2009年にあらわれたネパール語の応答型真性異言「ラタラジュ-の事例」の被験者里沙さんの感想を引用して、両者を比較検討してみたいと思います。
記事の青文字部分に注目してお読みください。
① 宝田昌子さんの投稿記事
先日は投稿記事を取り上げていただきありがとうございます。
稲垣先生のブログ「SAM催眠学序説その170」の中で次のような記述がありました。
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「SAM前世療法」は、クライアントとセラピストと双方の「魂の自己実現をめざす前世療法」となりうる可能性を、まだまだ秘めている(中略)
SAM前世療法は、セラピストとクライアント双方の魂へのいやしの前世療法でもあり、それは魂表層で心身の傷を負って苦しみを訴えている、双方の前世の者たちの魂への功徳につながる前世療法でもある
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このブログの記述を拝読しながら、私は7年近く前の初めてのセッションで顕現化した「前世の者」のことを鮮明に思い出していました。
【 2017年8月 トンネル恐怖症改善の初めてのセッション 】
私は、高速道路のトンネルに入ると「全身に極度な力が入る」「スピードが出せない」「排気口を見るとクラクラする」「呼吸が浅い」「白線が怖い」「対向車線に突っ込んでいくのではないかと考える」など運転に大きな支障がでていました。
トンネル恐怖症と呼んでいい、閉所恐怖症の一つだったと思います。
頭では、「何事も起こらない」とわかっているのに、「トンネルのあらゆるものが襲ってくるような」なんとも言えない恐怖心にさいなまれていました。 普段の一般道路の運転では考えられないことでした。
[SAM前世療法初めてのセッション]セッション記録メモによる再現
稲垣先生との催眠に入る前のカウンセリングの後、室内ライトを消しカーテンを引いたほの暗い部屋の環境でセッションが進んでいきました。
セッションが進み、催眠が深くなるにつれ、私の体の感覚がなくなっていくような不思議な感覚がありました。
ただただ、「深く深く」どこかへ沈んでいくような、まどろんだ沼の中にいるようなそんな感覚だけがありました。 そこには、「恐怖心」は全くなく、穏やかで何かに包み込まれるような「安心感」さえ感じました。
けれども、先生の「声」は私の耳にハッキリと聞こえました。
催眠状態をたぶん25分~30分くらい深めて「魂状態の自覚」に至ったとき、既に私のトンネル恐怖症に関わっている前世の者は顕現化していたようでした。
私自身の現世の意識は、悲しく思っていません。
それにもかかわらず、なぜか「激しい感情」に襲われていました。 胸が苦しく張り裂けそうでした。 涙が次々とあふれだしてきました。
稲垣先生が
「もう、出てきておられますね」
と言われました。
すると、前世の者は、我慢しきれず「大粒の涙」を流し、先生の方向にグッと体をむけました。
そして、前世の者は、先生の「腕」を両手で爪を立ててガシッと掴みました。 まるで、前世の者には稲垣先生の「腕」が「どこにあるか見えている」ようでした。
前世の者は、先生の腕に頭をうずめ涙ながらに、何度も何度も
「助けてくれ!!助けてくれ!!」
と懇願して叫んでいました。
前世の者の心は、「悲しみと恐怖」に満ちていました。
なりふりかまわず必死の思いで、先生に訴えているのが伝わってきました。
私は、私自身が大泣きして訴えているのに
「こんな立派な前世の男性が震えて泣くぐらいだから、よほど辛かったんだな。」
「でも、目を閉じているのにどうして先生の腕の位置がわかったのだろう?」
と「第三者のような客観的な思い」で
「先生と前世の者」との「対話」の様子を眺めていたようでした。
SAM催眠塾にて、
「一般の前世療法」における「セラピスト対クライアント」の「二者的構図」とは異なり、「SAM前世療法」では、そこに顕現化した前世の者が参加した「三者的構図」になることを学びました。
私はその時「なるほど!こういうことだったのか!」と感動していました。
[ 稲垣先生のスピリットヒーリング ]
先生が、
「いやしが必要ですか?」
と前世人格に尋ねると前世の者は「いやしてほしい。」と応えました。
すると、目の前にオレンジ色のような白いような「眩しい光」が広がりました。
その光は、胸の辺りから光っているのがわかりました。
あたたかく気持ちのいい光でした。
前世の者の「心の痛み」は、
包み込まれるように穏やかになっていくのがわかりました。
顕現化した前世の者は、
激しい悲哀の感情を錯乱状態で吐き出し穏やかになると
1000年前
スイス
男性
土着の神に仕える「神官」
洞窟で殺された
という身元を語りました。
私は、「部屋は暗かったし、目を閉じているのになぜいやしの光がわかるのだろう?」と不思議に思っていました。
(数年後、稲垣先生のヒーリングを受けた人のなかに、私と同じような感想を持っている人が何人もおられ「やっぱり不思議だ」と思いました)
[ セッション後 ]
稲垣先生が「魂表層の前世の者たちで傷を持たない魂はない」ことを話してくださいました。
私は「他にも辛い前世の者たちがいるのなら、癒してもらおうかな」と思っていました。
[ トンネル恐怖症の改善 ]
帰路につき、高速道路のトンネルに差し掛かりました。
「また、あの嫌な恐怖心が込み上げてくるのではないだろうか・・・」
と不安でした。けれども、私はトンネルに入っても「平常心」で運転していました。
「あれ? 怖くない・・・・」
普通に運転していることが不思議で仕方がありませんでした。
「今日一日で、何が私を変えたのか?」
今日一日私が体験したのは、SAM前世療法のセッションだけです。
運転中、前世の者の悲痛な思いがよみがえりました。
「トンネル・・・」
「私の前世の者、洞窟で殺されたんだ・・・」
セッション後稲垣先生から
前世の者は「当時の苦痛体験」から学び、生まれ変わりである現世の者を自分と同じ苦痛から守ろうとして、恐怖心を訴え「危険を回避させること」がある。
「前世の者の生きた時代」と「現代」では状況が違うことに前世の者は気づくことができない。
そのような「危険を訴える潜在意識」は魂表層の前世の者が生み出す。
現世の者は、その影響を受けて生活に支障をきたす場合がある。
原因不明の「高所恐怖症」「閉所恐怖症」などがそうした典型である。
と教えていただきました。
[ 直感 ]
SAM前世療法によって、トンネル恐怖症の改善が起きた感動もおさまり運転に集中していると
「SAM前世療法を続けたら、人生が変わるかもしれない・・・」
この言葉が、一瞬心をよぎりました。
ひらめきのようなものでした。
けれども、
「人生の何かが変わっていくことだけは確かだ」と感じていました。
それからも稲垣先生の「セッション」を毎月1回受け続け、「SAM催眠塾」でも学び、今の私がいます。
SAM前世療法士初級のころから「稲垣先生と私の違いはどこにあるのか」「なにが違うのか」を反省し追究していました。
「先生は、前世の者にこんな言葉がけをしていたな」
「先生の按手(パス)の接着力は、こんな感じだったな」
「先生の暗示の間や暗示の言葉がけの話す早さはこんな感じだったな」
と稲垣先生にセッションしていただいたときのことを思い出していました。
SAMの誘導深化の技法のほかにも
「初対面の人とどうやって話の流れを作っていけばいいのか?」
「SAM前世療法の理論の説明は、どう話せば伝わりやすいのか?」
「先生の技量にどうやったら近づけるのか?」
と考え続け「出来ない!」の連続に悩み苦しんでいました。
開業後の数々のセッションをこなしていったとき、やがて私なりの「セッションの形」ができてきました。
先生のブログの記述を拝読しながら、
「今の私は、私だけの力で成長したわけじゃない。多くのクライアントのお陰だった・・・」
と気づくことができました。
それは、私のSAM前世療法士として「何が足りないのか」を「見極めるチャンス」をくれていたと気づいたからです。
また、クライアントに顕現化した「前世の者」の訴えから、私の前世の者にも「同じ苦しみを持つ者がいる」かも知れないと気づき、先生のセッションをお願いすることもありました。
私は今まで、目の前のクライアントの「主訴の改善」だけを目標に、一所懸命やってきただけだと思っていました。
けれども、実は私自身が、クライアントからも学び「SAM前世療法士」としての「土台」を作らせてもらっていたのだと気づきました。
稲垣先生への感謝とともに、多くのクライアントに思いを馳せることができました。 ありがとうございました。
3月から新しいグループメンバーとともに、さらにSAM催眠塾で学びます。
どうぞご指導をよろしくお願いします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宝田昌子さんの投稿記事終わり
②「ラタラジューの事例」被験者里沙さんの感想記事
「ラタラジュ-の事例」のセッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。
こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。
(中略)
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
(中略)
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。
カルパナ(注:ネパール人の女子留学生)さんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
(中略)
セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。
セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。
ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。
こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。
(後略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・里沙さんの感想記事終わり
さて、①宝田さんと、②里沙さん両者の記事の青字部分の叙述をお読みになって、どのような感想を抱かれたでしょうか。
宝田さんは「セラピストの稲垣」対 「顕現化した前世人格」との対話、それを現世の自分の意識は「第三者のような客観的な思いで様子を眺めていたようでした」と語っています。
また、里沙さんは同様な状況を「現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚」だと述べています。
こうした「セラピスト」対 「顕現化した前世人格」との対話、その対話を第三者の感覚で眺め、傾聴している「現世の意識」という、いわば分割された意識状態(二重の意識感覚)を、「三者的構図」と呼んでいます。
そしてこのような意識現象は、従来の前世療法とは一線を画したSAM前世療法独自の際立つ特長だととらえています。
また、宝田さんは、「私自身の現世の意識は、悲しく思っていません。それにもかかわらず「激しい感情」に襲われていました。・・・涙が次々とあふれだしてきました」と語っています。
里沙さんも、「その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした」と語っています。
こうした意識感覚は、顕現化した前世人格が自律的な存在であり、クライアントの現世の意識とは別個に前世人格の意識が働いている状況だと思われます。
したがって、「私自身の意識は、悲しく思っていません。それにもかかわらず激しい感情に襲われていました(宝田)」といった感覚や「現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした(里沙)」という意識状態が起こると考えられます。
ここのような「激しい感情と大泣き」「体を貸している私が代理で伝えただけ」 「現世の感情は、はさむ余地がない」という意識現象を起こしている「主体」は、現世のクライアントではなく、顕現化した前世人格だ、という解釈が妥当だと思われます。
実際に前世人格が顕現化した多くのクライアントから「勝手に口が動いて話してしまう」「勝手に指が起きて応えてしまう」「勝手に涙があふれてくる」などの報告を受けてきました。
そして、宝田さん、里沙さんのような憑依体質のクライアントにおいては、前世人格との口頭による対話が可能であり、そうでない場合には、セラピストの質問に前世人格は人差し指を起こして返事をするという対話の形をとることになります。
ところで、「ラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけ」という里沙さんの意識体験、「前世の者は、先生の腕に頭をうずめ涙ながらに、何度も何度も、助けてくれ!!助けてくれ!!と懇願して叫んでいました」という言動は、前世人格の憑依現象と言うしかなく、こうした自分の魂表層に存在する前世人格が、生まれ変わりである現世の者の身体を用いて自己表現する、つまり憑依している、という意味で「自己内憑依」と仮称しています。
したがって、前世人格の顕現化現象とは、「自己内憑依現象」であると言えます。
読者のなかには、「前世人格の顕現化現象」などではなく、クライアント宝田さんや里沙さんの「前世の記憶の顕現化」ではないか、と疑問視される方があるでしょう。 あるいは精神疾患の「憑依妄想」ではないか、と思われる方があるかもしれません。
しかし、記憶では説明できない、ラタラジュー人格顕現化中の現在進行形の対話現象があり、「前世の記憶説」は否定できます。
それは、ネパール人女性のカルパナさんとの対話中に、彼女にラタラジュー人格が「あなたはネパール人」ですかと尋ね、「はい、そうです」という返事に対して「おお!」と喜びの声を上げるという現在進行形の対話が、「ラタラジューの事例」で確認されているからです。
さらに言えば、ラタラジュー顕現化中の里沙さんの声音は年輩の男性に変化し、宝田さんの前世人格「神官」の顕現化中の声音も明らかに男性のものに変化していたという現象が認められるのです。
「前世の記憶」を語るだけならこのような声音の変化現象は起きないでしょう。
また、「憑依妄想」によって、トンネル恐怖症の改善が一気に起こることはないはずです。
そして、宝田さん、里沙さんともに、過去から現在にわたって精神疾患の既往歴は一切ありません。
なお、名古屋「さかえクリック」で、里沙さんを招いて「タエ」の顕現化実験セミナーをおこなった際に、顕現化した「タエ」が吾妻川の泥流を呑み込み溺死した場面で、被験者里沙さんは、腹部に胃痙攣状態の激しい身体反応を起こし、声を上げて苦悶しました。
この身体現象も、「タエ」の「自己内憑依」現象を裏付ける事実だと思います。 身体を持たない前世人格タエが、里沙さんの身体を借りて溺死の苦悶を再現してみせたということでしょう。
それでは、最後に、SAM前世療法の治癒構造仮説に触れて、まとめとしたいと思います。
クライアントの現世の意識は、主訴にかかわって顕現化した前世人格とセラピストの対話を第三者的な客観的な意識で傾聴します。 ただし、現世の意識は傾聴するのみで、セラピストと前世人格との対話に介入できません。
前世人格は、主訴についての苦しみや悲しみを、ときには泣き、ときには怒り、強い感情を伴いながらセラピストに訴えます。
現世の意識は、前世人格の訴えに共感しながら傾聴し、現世の自分の主訴の原因を洞察(見抜く)していくと考えられます。
精神分析では、主訴の原因を、理屈ではなく感情をともなって洞察できることを「ああ、そうか体験」と呼ぶようです。
こうして、現世の意識が、主訴の原因を感情を伴って洞察できた(ああ、そうか体験できた)ことによって主訴の改善に至る、というのが治癒構造だと現時点で考えています。
感情を伴って洞察できた(ああ、そうか体験できた)ことによる主訴の改善の具体は①で紹介した宝田さんのトンネル恐怖症の改善過程を読んでいただければ了解されるだろうと思います。
そして、さらに治癒構造を敷衍して考察すれば
・現在の人生のありようは、魂表層の諸前世の者たちの人生のありようと分かちがたく結びついており、潜在意識下でその影響を受けているという気づき。
・現世の自己という存在は、死後も魂の表層で他の諸前世の者たちとともに存続する、という「魂」という不滅の存在と、魂が生まれ変わりを繰り返すことへの確信的気づき。
・現世の自己という存在は、魂表層で前世・来世へと連綿としてつながっている一連の鎖の輪のひとつとして生きているという気づき。
・それらの気づきによって、自己の人生を再解釈し相対化できる超越的視点への気づき。
などの気づきを得て、セッション後においてもそれ以前の唯物論的人生観・人間観・世界観からの転換が、徐々に進んでいくのではないかと推測しています。
これらの気づきは、ある意味で宗教的認識に類するものでしょうが、あくまでSAM前世療法のセッション過程で、クライアント自らが獲得していくものであって、セラピストが外部から注入したり押しつけるものではないことを強調しておきたいと思います。
また、治癒構造の説明というものは、どんな心理療法であれ、絶対的な実証ができるわけではなく、仮説にすぎません。
ですから、わたしがこれまで述べてきたことも、当然、現時点の暫定的な仮説でしかないことをお断りしておきます。
なお、蛇足になりますが、わたしは、既存の新興宗教組織やその教義とは、過去にも現在においても一切無縁の、一介のSAM前世療法の臨床実践者です。
臨床体験で確認できたことを累積することによって、「生まれ変わりの科学的事実」を実証せんと試みる探究者です。
死後存続、および霊魂等の問題については、科学はこれまで、不関与・無関心という前提・立場をとり続けてきました。
その種のものの有無について科学は、つまり、特殊専門科学としては論及する立場にはない、という禁欲、あるいは了解が根強くあるようです。
したがって、わたしは現在アカデミズムに属することはしておりません。
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