2019年7月1日月曜日

なぜ「前世人格」であって「前世記憶」ではないのか

           SAM催眠学序説 その123

      ~「SAM催眠学」現在の到達点 その2~


1 「心搬体(サイコフォア)と「魂」について


SAM前世療法では、「前世の人格」そのものを呼び出し対話するという仮説に基づいてセッションを遂行します。

したがって、肉体の死後も消滅することなく存続し、生前の人格、個性、記憶など心的要素を来世へと運搬する媒体(意識体)の存在を前提としています。
生まれ変わりには、志向性がなく、無目的で偶発的に起こるものではないとすれば、なんらかの志向性を帯びて死後存続する媒体(意識体)の存在を想定しないと、生まれ変わりを繰り返すという現象の説明が完結できません。

そして、なんらかの目的性・志向性を帯びて、生前の心的要素を運搬し死後も存続し続ける媒体(意識体)を、SAM催眠学では「」と呼ぶことにしています。
同様に、イアン、スティーヴンソンも「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を『心搬体(サイコフォア)』と呼ぶことにしたらどうかと思う」と提案しています。(イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、P.359)

ただし、スティーヴンソンのいう心搬体(笠原敏雄氏の訳語)は、生まれ変わりを繰り返したすべての諸前世の、心的要素によって構成されている、とは述べていません。
また、心搬体になんらかの志向性や目的性のあることにも触れてはいません。

スティーヴンソンは、「私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているかはまったく知らないけれども、肉体ない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化していくのではないかと思う」(前掲書P.359)と述べているだけです。
そして、心搬体は変化していくのではないかと思うとその変化の可能性に言及していますが、心搬体の変化になんらかの志向性や目的性のあることには触れてはいません。


こうして、スティーヴンソンのいう心搬体は、なんらかの構成要素によって成り立ち、変化していく可能性のある媒体であることが含意されていると推測できるでしょう。

心搬体とは、いわゆる(肉体に宿って精神作用をつかさどるもの)の言い換えでしょうが、「魂」という用語につきまとう宗教臭を払拭するために、科学的な中立性の意味を強調した新しい造語の「心搬体」という用語をあえて提案していると思われます。
したがって、心搬体の変化に関わるなんらかの志向性や目的性に触れることは、宗教臭を与えるおそれがあり、彼はそれに触れることをあえて自制しているのだと推測しています。

これに対し、SAM催眠学の「魂」は、なんらかの目的性・志向性を持った中心(核)となる意識体と、その中心(核)となる意識体の表層を、生まれ変わりをしてきた諸人格によって構成された二層構成になっていると定義しています。

この魂の「二層構成仮説」を単純化した視覚モデルにたとえると、魂はミラーボールのようなものになります。
中心となる球体(中心(核)となる意識体)と、その表面に貼り付いている1枚1枚の鏡体の断片(生まれ変わりをしてきた前世の諸人格)から、魂は構成されているというわけです。


この「魂の二層構成仮説」は、わたしあて霊信の告げてきたそのままの内容を仮説に採用し、その検証をおこなってきたSAM前世療法によって確認された「意識現象の諸事実」の累積をもとに提唱しているものです。

なお、 SAM催眠学の定義している上記の「魂」にも、宗教的意味合いは一切ありません。

一般におこなわれている前世療法は、クライアントのどこか(脳内?)に保存されていると思われる「前世の記憶」をイメージとして想起するという前提でセッションをおこないます。

それでは、SAM前世療法で扱う対象が、「前世の人格」でなければならない合理的理由はどこにあるのでしょうか。
わたしの主張している、「前世人格」を顕現化させて対話する、という奇抜・奇怪な仮説は、けっして人目を引くために奇を衒っているわけではありません。
こうした仮説にたどりつく必然性の経緯があったということです。

なぜ、「前世の記憶」では不都合なのでしょうか。
このことは、SAM催眠学における本質的、かつ中核的で重要な問題です。

わたしが、SAM前世療法おいては前世の人格と対話する、という明確な見解と仮説を持つに至った2005年~2009年の5年間に起きた経緯について述べてみたいと思います。

2「タエの事例」との出会い


2005年5月、被験者里沙さんへの前世療法実験セッションをおこないました。
この時点では「SAM前世療法」は、開発されていませんから、従来の「前世の記憶」を想起するという前提で、この「タエの事例」が遂行されています。
以下は、「タエの事例」の逐語録の抜粋です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
稲垣:あなたは今13歳で、年号は何年ですか?

里沙:安永九年。(1780年)

注:安永は9年で終わっていることがセッション後判明。安永という年号があることは、私を含めてその場の同席者7名全員が知らなかった。


稲垣: はあ、安永9年で13歳。で、今桑畑にいる。それがなぜ、楽しいのでしょう。


里沙:桑の実を摘んで食べる。


稲垣:桑の実を食べるんですか。口の周りどんなふうになってるか分かりますか?

里沙:真っ赤。(微笑む)①おカイコ様が食べる桑の木に実がなる。

稲垣:それならどれだけ食べても叱られることないんですか。ふだんはやっぱり遠慮がちなんですか? (里沙頷く)拾われてるから。あなたと同じように拾わ れた兄弟も 一緒に葉を摘んでますか?(里沙頷く)楽しそうに。(里沙頷く)じゃ、ちょっと 夕飯の場面に行ってみましょうか。三つで夕飯の場面に行き ますよ。一・二・三。今、 夕飯の場面ですよ。どこで食べてますか?

里沙:馬小屋。みんなも。

稲垣:下は?

里沙:ワラ

稲垣:どんな物を食べてますか?

里沙:ヒエ。

稲垣:ヒエだけですか。おかずは?

里沙:ない。

稲垣:ヒエだけ食べてるの。白いお米は食べないんですか? (里沙頷く)だからあまり夕飯は楽しくない。で、みんなとどこで寝るのですか?

里沙:馬小屋。

稲垣:馬小屋で寝るの。お布団は?

里沙:ない。

稲垣:寒いときは何にくるまるのですか?

里沙:ワラ。

稲垣:ワラにくるまって寝るの。あなたの着てる物を見てごらんなさい。どんな物を着てますか?

里沙:着物。

稲垣:着物の生地は何でできていますか?

里沙:分っからない。

稲垣:粗末なものですか。(里沙頷く)手を見てごらんなさい。どんな手になってます か?

里沙:きれいな手じゃない。

注:キチエモンは捨て子を拾い育てているが、おそらくは農作業の労働力として使役するためであろう。したがって、牛馬同様の過酷な扱いをしていたと考えられる。

稲垣:じゃ、もう少し先へ行ってみましょう。三年先へ行ってみましょう。悲しいことがきっとあると思いますが、その事情を苦しいかもしれませんが見てください。どうですか? で、三年経つと何年になりますか?

里沙:天明3年。(1783年)

稲垣:天明3年にどんなことがありましたか? 何か大きな事件がありましたか?

里沙:あ、浅間の山が、お山が、だいぶ前から熱くなって、火が出るようになって・・・。

注:天明三年六月(旧暦)あたりから浅間山が断続的に大噴火を始めた。七月に入ってますます噴火が激しくなり、遂に七月七日(旧暦)夜にかけて歴史的大噴火を起こした。この 夜の大噴火によって、鎌原大火砕流が発生し、このため麓の鎌原村はほぼ全滅、火砕流は吾妻川に流れ込み、一時的に堰き止められた。その後に火砕流による自然のダムが決壊し、大泥流洪水となって吾妻川沿いの村々を襲った。この大泥流洪水の被害報告が、『天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳』として残って いる。この大泥流に流されてきた噴火による小山のような岩塊が、渋川市の吾妻川沿いの通常の水面から10メートル近く高い岸辺に流れ着いて、「浅間石」と名付けられて現存している。わたしは現地で浅間石の確認をしている
吾妻川沿岸55か村におよぶ被害は、流死1624名、流失家屋1511軒であった。ちなみに、渋川村の上流隣村の川島村は、流死76名、流失家屋113 軒、流死馬36頭であり全滅状態であった。ただし、渋川村の被害は「くるま流 田畑少々流水入 人壱人流」(くるまながれ、でんばた少々みずいる、ひと一人ながる)となっており、流死はたった一人であった。こうした事実は セッション後の検証で判明した。この流死者こそタエだと推測できる。

稲垣:火が渋川村から見えますか?

里沙:うん。

稲垣:噴火の火がみえますか?

里沙:フンカ?

注:天明の頃には「噴火」という語は無く、浅間山の噴火を「浅間焼」と言った。

稲垣:噴火って分かりませんか? (里沙頷く)分からない。火が山から出てるんですか?

里沙:熱い!

稲垣:煙も見えますか?

里沙:は、はい。

稲垣:じゃ、灰みたいな物は降ってますか? そのせいで農作物に何か影響が出てますか?

里沙:白い灰が毎日積もります。

注:渋川市は浅間山の南東50Kmの風下に位置する。天明三年六月(旧暦)から断続的に噴火を続けた浅間山の火山灰が相当量積もったことは事実である。

稲垣:どのくらい積もるんでしょう?

里沙:軒下。

稲垣:軒下までというと相当な高さですね。単位でいうとどのくらの高さですか? 村の人はなんて言ってますか?

里沙:分からない。

稲垣:軒下まで積もると農作物は全滅じゃないですか。

里沙:む、村の人は、鉄砲撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いても、雷神様はおさまらない。

注:火山灰に苦しむ村々が、鉄砲を撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いて噴火を鎮めようとしたことは当時の旅日記などに記述されている事実である。当時の村人たちは、噴火にともなう火山雷を、雷神の怒りと見なした。

稲垣:その結果なにが起きてますか?

里沙:龍神様は川を下ります。

注:浅間山は、当時龍神信仰の山であった。浅間山に住む龍神が、噴火で住めなくなって、浅間山麓の東を流れる吾妻川を下ると当時の村人は考えたのであろう。タエは吾妻川を下る龍神の花嫁として、川中の柱(橋脚)に縛られ供えられた。

稲垣:その結果どうなりました?

里沙:天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、あま、あま、あまつ、吾妻(あがつま)川を下るので ・・・水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります。

注:2006年10月放映のアンビリバボーでは上記「上の村が水にやられるので」の台詞が消去されてしまっている。この台詞があると、タエが人柱になる理由 が渋川村を救うためではなく上流の村々を救うためになり、視聴者には人柱の理由が分かりずらくなる。タエが自分の住む渋川村を救うために人柱になる、としたほうが分かりやすいとアンビリ側が考えたうえで事実の歪曲がおこなわれたものと思われる。ちなみに、「吾妻川」を知っていたのは7名の同席者のうち1名 だけであり、私も知らなかった。

稲垣:自分から志願したの?

里沙:そうです。きれいな着物を着て、(微笑む)②おいしいごちそう食べて・・。

稲垣:それをしたかったのですか? でも、命を失いますよ。それでもいい?

里沙:村のために・・・。

稲垣:誰か勧めた人がいますか?

里沙:おとっつあん。

稲垣:キチエモンさんが、そう言ってあなたに勧めた。

注:7年後の再セッションで、キチエモンは、吾妻川上流の村々から生糸や野菜を買い入れ、吾妻川を舟で運んで交易をしていたとタエは語っている。そのための船着場を持っていた。キチエモンは交易相手の上流の村々を救うために、人柱を必要としたと推測できる。タエは渋川村を救うための人柱ではなかったのである。

里沙:恩返し。みんなのために(微笑む)③うれしい。
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このセッション逐語録の話者「里沙」を「タエ」に置き換えて違和感があるでしょうか。
わたしには「タエ」であったときの前世の記憶を、「里沙」が想起し、話している、として解釈することに大きな違和感を感じます。

ありのままに受け取れば、里沙さんが自分の前世であった「タエの記憶 」を想起してタエに代わって語っているのではなく、「タエという人格自身」が里沙さんの口を借りて、自分の人生を語っている、と受け取ることがごく自然であると思われました。

つまり、タエの人格そのものが、被験者里沙さんの肉体を借りて顕現化し、自分の人生を語っているのではないか、という直感が湧き起こったのです。
この思いは、下線を引いた (微笑む)という里沙さんの表情①~③の個所でより強い実感になっていったのです。(注:you-tube公開の「タエの事例」動画参照)

微笑んでいるのは里沙さん自身の表情ですが、微笑んでる主体は、里沙さんではなくタエの人格そのものではないかと思われました。
事実、セッション中のわたしの意識は、里沙さんではなく、里沙さんとは別人格のタエの人格を対象にして対話していたのです。


里沙さんの肉体は、前世人格タエが顕現化するための媒体ではなかろうか、という奇抜な発想と問題意識が生まれた瞬間でした。                

しかし、仮に前世人格の顕現化現象を認めるとして、2005年当時の前世療法では、前世人格の顕現化という発想を持った前世療法は皆無でした。      

そして、仮に前世人格の顕現化現象を認めるとして、ではその前世人格タエはいったいどこから顕現化してくるのか、脳内からなのか 、脳以外の場からなのか。

肉体の臓器である脳は、死後消滅します。

当然脳内に保存されていた現世の記憶も無に帰することになります。

にもかかわらず、脳内から前世の記憶があらわれることは論理的にありえないことになります。

そして、 記憶だけが死後も消滅せずどこかに存続している、という科学的実証はありません。

となれば、前世の記憶は、フィクションでしかないことになります。

SAM前世療法の成立前、2004年の日本催眠医学心理学会で、わたしが「前世の記憶を想起させた前世療法」の実践事例を発表した研究討議でも、大学の催眠研究者、医師など参会者の意見の大勢は、前世の記憶はフィクションでしかない、として批判を受けました。

(拙著『前世療法の探究』春秋社、PP.137-148)

おそらく15年を経た現在でも、アカデミックな催眠関連学会のこうした見解は変化していないだろうと思われます。 

催眠中にあらわれる前世の記憶の真偽について、生まれ変わりの科学的研究の泰斗、イアンスティーヴンソンは、みずからの催眠実験の結果について次のように述べています。 

「前世の記憶 らしきものをはじめからある程度持っている者に催眠をかければ、細かい事実を他にも思い出すのではないか、とお考えになるかもしれない。私自身もそのように考えたため、自然に浮かび上がった前世の記憶らしきものを持つ者に催眠をかけたことがある。この人たちの持つ記憶らしきものは前世に由来しているかも知れないが、特に地名と人名については、事実かどうか確認できるほど明確に語ってはいなかった。催眠状態なら、人物や場所の名前を一部にせよ正しく思い起こしてくれるかもしれないし、そうすれば、この人々の記憶に残っているという前世人格の存在が確認できるのではないかと考えたのである。私はこのような実験を13件自らおこなったり指導したりしている。一部では私自身が施術をおこなったが、それ以外は他の術者に実験を依頼した。その結果、ただの1件も成功しなかった」

(イアンスティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP.79-80)

そもそも、意識が脳から生み出されるという科学的実証はいまだにないわけですから、この問題の判断は留保としておくしかありませんでした。

この3年後、SAM前世療法を開発した2008年に、SAM前世療法を用いて魂表層からタエの顕現化実験をおこない、タエ自身から前掲のセッションにおいても、魂表層から顕現化していたことを確認しています。                        このことは、前世人格タエは、たまたま憑依した第三者の憑依霊ではなく、里沙さんの魂表層を居場所にしている前世人格であることの実証であるととらえています。

同時にSAM前世療法の定式技法にしたがえば、前世人格の再顕現化が可能であることの実証であり、SAM前世療法は、「再現性の保障」という科学の条件の一つを満たしていると思います。

ちなみに、「前世の記憶」として扱った事例で、これは「前世の記憶」ではなく「前世人格そのものの語り」ではないかと思われた先駆的事例3例(亜由美の事例、佳奈の事例、佐恵子の事例)を拙著『前世療法の探究』PP.50-136で紹介しています。
こうして、前世人格顕現化の問題はひとまず棚上げし、「タエの記憶」として語られた前世の内容を徹底的に検証した結果を紹介した『前世療法の探究』を春秋社から2006年5月に出版しました。                               

管見するかぎり、少なくとも日本においては、前世の記憶を想起するという前提の前世療法によって、語られた前世の記憶を科学的検証にかけ、「前世の記憶」の存在がフィクションではないことを実証した書籍類は、13年後の現在においても拙著以外に知りません。

前世人格の顕現化現象を認めるとして、ではその前世人格はいったいどこから顕現化してくるのか、脳内からなのか 、脳以外の居場所からなのか、この問題意識への執拗なこだわりこそ、その後のわたしの探究の原動力でした。


3 わたしあて霊信現象との遭遇


006年12月末、『前世療法の探究』を読んだ、当時26歳の東京在住の派遣社員であったM子さんから、拙著についての感想メールが届きました。           続いて、翌2007年1月11日~2月14日の1ヶ月間、このM子さんを経由して、パソコンの自動書記によるわたしあての霊信が毎夜届くという超常現象が起こりました。 わたしあて全霊信は、SAM催眠学序説「その47~72」で公開しています。

2007年1月23日の第11霊信で

「前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。     あなたの療法は、あなたにしかできないものになる」と語り

そして、同じく第11霊信で、「あなたが探究すべきものは、これまでよりもさらに深奥にあるものである」と通信霊は告げていますから、第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信の回答は、「これまでよりもさらに深奥にあるもの」を示唆しているのであり、わたしが「探究すべきもの」であると思われました。


第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信における通信霊の、魂・脳・意識・心、の関係性についての難解な諸回答をまとめると次のA~Hようになります。


A 「脳」「意識」を生み出していない。

B 「意識」を 生み出しているものは、「魂の表層」を構成している前世の者たちである。つまり、前世の者たちは「魂の表層」に存在している。したがって、「魂」は、中心(核)となる意識体と、その表層を構成する前世の者たちとの「二層構成」となっている。


C 「魂表層」の前世の者たちによって生み出された「意識」は、肉体を包み込んでいる「霊体」に宿っている。霊体はオーラとも呼ばれる。

D 「魂表層」の前世の者たちは、互いにつながりを持ち、友愛を築き、与え合うことを望んでいる。つまり、前世の者たちは、死後も「魂表層」で相互に交流を営んでいる。加えて、魂の表層には、「現世のわたし」の人格を担う者が位置付いている。

こうした霊信内容は、わたしの問題意識に対して大きな示唆を与えるものとなりました。


4 M子セッションとの出会い


 こうした霊信を受け取った4日あと、2007年1月27日、わたしはM子さんの自動書記による霊信現象の真偽と、M子さんとわたしの前世での関係性を探るためのセッションをわたしのほうからお願いしました。
以下はM子さんとのセッションの逐語録の抜粋です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
M子:(毅然とした別人口調で)今はその必要はありません。

稲垣:どうしたらいいでしょう? 
わたしにできることは、仕事としては「そのもの」を癒すということが必要ではありませんか?

M子:「そのもの」ではなく、あなたが今日、癒すべきものはM子という存在であり、アトランティスでの過去世について深く触れることは今日はできない。
だが、あなたは先ほど癒した傷ともう一つ、あなたが知らなければならない傷がある。
だが、その傷は癒され始めている。
それは、直接あなたと過去世で関わり合う者であり、「その意識」は、先ほどからあなたを見詰めている。

稲垣:そうですか。

M子:その幼子は、あなたへと伝えたい言葉をずっと胸のうちに秘めていた。

稲垣:残念ですが、わたしにはそうした存在と交信する能力がありません。
M子さんに代弁してもらえますか?
その幼子の言葉を。
M子さんが霊媒となって、訴えてる幼子とわたしとの仲立ちになってくだされば、その幼子を癒すことができるかもしれませんが。

(注:このあとM子さんの過去世である幼子の口調に変わって話す)

M子:先生!・・・先生、ありがとう。(泣き声で)ぼく、先生を悲しませて、ごめんなさい。

稲垣:分かりました。で、あなたは何をしたんですか?

M子:(泣き声で)ぼくだけじゃなくて、みんな、みんな死んで、先生泣いたでしょ。
ぼく、先生が、ずっとずっといっぱい大切なことを教えてくれて、先生、ぼくのお父さんみたいにいっぱいで遊んでくれて、ぼくは先生のほんとの子どもだったらよかったと思ったけど、でも、死んだ後に、ぼくのお父さんとお母さんがいてね、先生は先生でよかったんだって・・・。
で も、ぼく、先生に、先生が喜ぶこととか何もできずに死んだから、ぼく、ずっとね、先生に恩返ししたいってずっと思ってて・・・このお姉ちゃんは、ぼくじゃ ないけど、でも、先生とお話したりできるのは、このお姉ちゃんだけだよ。でも、ぼくも、ずっとこのお姉ちゃんと一緒だから、だから、ぼくのこと忘れないでね。

注:この幼子「ぼく」は、M子さんの魂表層を構成している前世人格の1つとして存在し、魂表層から顕現化し、現世のM子さんの肉体を借りて自己表現していることを示している。つまり、このセッション1年後に定式化されるSAM前世療法の前駆的現象であると推測できる。

稲垣:分かりました。きっと忘れませんよ。
それからあなたがね、こうやって現れて、直接あなたの声を聞く能力は、わたしにはありません。
でも、そのうちにそういう能力が現れるかもしれないと霊信では告げられています。
ですから、そのときが来たら存分に話しましょう。
先生は忘れることはないだろうし、あなたからひどい仕打ちを受けたとも思っていません。
だから、あなたはそんなに悲しまないでください。

M子:ぼくは、先生に「ありがと」って言いたかった。

稲垣:はい。あなたの気持ちをしっかり受け止めましたからね。
そんなに悲しむことはやめてください。先生も悲しくなるからね。

M子:うん。

稲垣:あなたは片腕をなくしていますか?

M子:生まれつき右腕がないんです。でも、先生は、手が一本だけでも大丈夫だっていつも言ってくれた。

稲垣:そうですか。今、あなたが生きている時代はいつ頃でしょう。
わたしには、それも見当がつかない。西暦で何年くらいのことか分かりますか?

M子:紀元前600年。

稲垣:どこのお国でしょう?

M子:・・・プ、プティアドレス。

稲垣:それは地球上にあった国ですか? ほかの惑星ですか?

(注:この後、幼子が大人の男性的口調になり、霊的存在が憑依したと思われる)

M子:それは地球にあり、前後の違いにより、今は別の地名として伝えられている。

稲垣:日本ではないようですね。中近東とかヨーロッパですか?

M子:違う。

稲垣:中南米とか南米でしょうか?

M子:南米に近いが・・・パレンケ・・・パレンケ・・・。

注:パレンケ (Palenque) は、メキシコに存在するマヤ文明の古代都市遺跡で、メキシコの世界遺産の一つである。 ユカタン半島の付根にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた都市の遺構(ウィキペディア記事より)。わたしの前世の一つとして、古代都市パレンケの孤児院の教師をしていた、ということらしい。

うがった見方をすれば、わたしあて霊信の受信者M子さんは、当然のことながら霊信の告げた魂の仕組みについて知っているので、それに合わせて、彼女の前世であるマヤのパレンケの片腕のない少年の話を、無意識的に創作して語ったという解釈も可能であろう。しかし、彼女が、パレンケ遺跡について知っていた可能性は、ほぼ棄却できる。
したがって、わたしはM子さんの創作説を採らない立場であるが、残念ながらこのパレンケの片腕のない少年および、教師であったわたしの存在の真偽を検証することは不可能である。

ちなみに、当時26歳であったM子さんとは、2007年1月27日のセッションで会ったのが最初で最後で、その後メールのやりとりが断続的に続いたが、2008年以後2019年の現在まで、彼女のメール連絡先も携帯電話先も不通になり、完全に連絡手段は途絶えたままである。手を尽くしてみたが、彼女の居場所、状況などの消息も一切不明となっている。
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さて、このM子さんのセッションで注目すべきは、M子さんの前世として現れた少年の存在です。

「このお姉ちゃん(注:M子さんのこと)は、ぼくじゃ ないけど、でも、先生とお話したりできるのは、このお姉ちゃんだけだよ。でも、ぼくも、ずっとこのお姉ちゃんと一緒だから、だから、ぼくのこと忘れないでね」

と語っている片腕のない少年「ぼく」のことばです。
少年「ぼく」は、この「お姉ちゃん(M子さん)」じゃない別人格ではあるけれど、稲垣と会話できるのはM子さんだけだ、そして、少年「ぼく」はずっとM子さんとずっと一緒にいる、と語っています。
この語りだけに注目すると意味不明ですが、このセッションの直前の霊信が告げていること、すなわち前掲の第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信の告げた内容のうち


B 「意識」を 生み出しているものは、「魂の表層」を構成している前世の者たちである。つまり、前世の者たちは「魂の表層」に存在している。

と照合して意訳してみると、

少年「ぼく」は、死後もM子さんの魂の表層で、M子さんとともにずっと存在しており、お話している「ぼく」は、彼女の魂の表層から顕現化した前世の人格なのだ。だから、お話している「ぼく」は、現世のM子さんではない。彼女の魂表層に存在している前世の「ぼく」は、彼女の肉体を借りて顕現化でき、稲垣とお話できる

 ということになります。

M子さんが、自分の前世である古代都市パレンケの片腕のない少年「ぼく」であった「記憶」を語っているのではなく、まさしく前世人格である「ぼく自身」が顕現化し、M子さんの口を借りて、自分の思いを語っていると受け取らざるをえないのです。

2005年当時「タエの事例」において、里沙さんが自分の前世であった「タエの記憶 」を想起してタエに代わって語っているのではなく、「タエという前世人格自身」が里沙さんの口を借りて、自分の思いを語っていると受け取ることがごく自然であるという直感は、霊信と少年「ぼく」の語りによって、はっきり裏付けられたと思われました。

このM子さんのセッションの4日前、2007年1月23日の第11霊信で告げられた

「前世療法についてだが、あなたは自らの霊性により独自性を持つようになる。あなたの療法は、あなたにしかできないものになる」

という予言は、「クライアントが前世の記憶を想起する」という従来の前提とはまったく異なり、「クライアントの肉体を借りて顕現化した前世人格自身が対話する」、という前提でおこなう独自の前世療法へと導くことを意味しているのだ、と思わざるえない事態が起きたのです。

こうして、これまでの前世療法とまったく前提を異にした、「魂の表層を構成している前世人格自身を呼び出し対話する」という仮説と、新たな方法論による前世療法を構築する試行錯誤が、その後2007年春から1年間にわたって続きました。
やがて、2008年春には、クライアントを「魂状態の自覚」へと誘導する新たな技法が確立され、魂の表層に存在している主訴にかかわる前世人格を呼び出すことが、9割の確立で成功することが可能であることが明らかとなりました。

この前代未聞の仮説による前世療法を、従来の「前世の記憶を想起する」という前世療法とは明確に識別するために、また、この前世療法が霊的であるがための誤解・偏見によって歪められ誤った形で流布されることを防ぐためにも、2008年春に「SAM前世療法」と命名し、商法登録をすることにしました。
SAM」とは、Soul Approach Methodの略です。
つまり、魂の状態にアプローチする方法による前世療法という意味を込めた命名です。


5 「ラタラジューの事例」との出会い


そして、前世人格を呼び出し対話するというSAM前世療法の成立を、自信をもって掲げることができた事例こそが、翌2009年5月におこなった応答型真性異言の実験セッション「ラタラジュー の事例」でした。

「ラタラジューの事例」は、SAM前世療法の技法にしたがって被験者里沙さんを魂状態の自覚まで誘導し、魂の表層から顕現化した前世の人格です。

顕現化した前世人格のラタラジューは、ネパール人の対話相手のカルパナさんと応答的に真性のネパール語で25分間対話しています。


被験者里沙さんが、ネパール語を学んでいないことは、ポリグラフ検査の鑑定によって明らかになっているので、ラタラジュー人格は明らかに里沙さんとは別人格です。

しかも、ラタラジュー人格は、現代 ネパール語ではほぼ死語となっている「スワシニ(妻)」、「アト・サトリ=8と70(78)」といった古いネパール語単語を用いて対話をしています。
こうしたネパール語の古語を里沙さんが秘かに学ぼうとしても学びようがありません。

さらに、対話相手のネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と問いかけ、そうです、という返事に対して、「お、お、・・・」と喜びを表明し、明らかに現在進行形の対話をしています。
ラタラジュー人格は、ただいま、ここに、被験者里沙さんの肉体に憑依し、自己表現している、としか解釈できない現象ではないでしょうか。

さて、前世人格ラタラジューは、次のような、現在進行形のきわめて象徴的な対話をしています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

:KAはネパー人対話者カルパナさん

里沙:  Tapai Nepali huncha?         
   (あなたはネパール人ですか?)

KA:  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)

里沙:  O. ma Nepali.
   (おお、私もネパール人です)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
この短いやりとりの重要性は、ついうっかり見落とすところですが、現れた前世人格のありようについて、きわめて興味深く示唆に富むものだと言えます。


つまり、前世人格ラタラジューのありようは、ネパール語の話者カルパナさんに対して、現在進行形で「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、ただ今、ここで、問いかけ、その回答を求めているわけで、「里沙さんの潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示しています。

ラタラジューは、前世記憶の想起として里沙さんによって語られている人格ではないのです。
里沙さんとは別人格として、ただ今、ここに、顕現化している、としか考えられない現象です。

その「別人格である前世のラタラジューが、里沙さんの肉体(声帯と舌)を用いて自己表現している」と解釈することがもっとも自然な解釈ではないでしょうか。
つまり、ネパール語で応答型真性異言を話している主体は、里沙さんではなく、別人格であるラタラジュー人格そのものとしか解釈できないということです。

換言すれば、 前世人格ラタラジューが、里沙さんに憑依しているということです。
自分の魂の内部に存在している前世人格が、自分に憑依して語る、などという憑依現象はこれまで知られていません。
SAM前世療法では、前世人格の顕現化という憑依現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしています。


この現在進行形でおこなわれている会話の事実は、潜在意識の深淵には魂の自覚が潜んでおり、そこには前世のものたちが、今も、意識体として存在している、というSAM前世療法独自の作業仮説が正しい可能性を示している事実の証拠であると考えています。

ちなみに、応答型真性異言の研究をおこなったイアン・スティーヴンソンも、「グレートヒェンの事例」について、顕現化したドイツ人少女グレートヒェンについて次のように述べています。

「私自身はこの被験者を対象にした実験セッションに4回参加しており、いずれのセッションでも、トランス人格たるグレートヒェンとドイツ語で意味のある会話をおこなっている」(イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳 『前世の言葉を話す人々』春秋社1995、P.9)

ドイツ語を話す人格(グレートヒェン)をどのように位置づけるか・・・」(前掲書P.10)

 「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出だそうと試みた」(前掲書P.11)

応答型真性異言で対話したグレートヒェンを、被験者の「前世の記憶」として話したのではなく、「前世の人格」グレートヒェンとして顕現化したのだ、と判断しています。
ただし、イアン・スティーヴンソンは、そうした前世の人格が、どこから顕現化しているかについては一切言及していません。

「グレートヒェンの事例」の臨床に立ち会ったスティーヴンソンが、グレートヒェンの語りを被験者の前世の記憶ではなく、トランス人格であるグレートヒェン自身の顕現化であるととらえていることに、わたしが勇気づけられたことは言うまでもありません。


以上縷々述べてきた5年間の経緯によって、SAM前世療法おいては前世の人格と対話する、という明確な見解と仮説を掲げるに至ったというわけです。


6 「魂の転生」と「生まれ変わり」の関係


下の模式図は、わたしあて霊信の告げた第12霊信、第13霊信、第14霊信、第15霊信、第17霊信の内容の真偽を、SAM前世療法セッションの10年間の累積と、クライアントの示した諸意識現象を検証してきた過程で明らかになってきたことに基づいて、魂の構成と転生の仕組みを単純化し、図示したものです。

SAM催眠学では、「魂の転生」とは、文字通り、魂が、それまで宿っていた肉体の死後、別の新たな肉体に「宿り先を転じて生続けること」を意味します。

生まれ変わり」とは、「生前の肉体と人格を持つ者から、現世の新たな肉体と人格を持つ者へと一新すること」を意味します。

    
      [魂とその転生の模式図]




「魂の構成」と「転生」を示す上の模式図を説明します。

左から右への矢印は時間軸を意味します。
大円、魂の核Xの下に引いてある接線は、魂表層の「前世の人格」と、肉体を持つ「現世の人格」の区別のための補助線です。
つまり、補助線より下の小円が肉体に宿る現世の人格になります。
補助線より上の小円が、死者であり肉体のない前世の諸人格です。
したがって、右端の3つ目の模式図を例にとると、魂表層の現世人格小円Cは、小円Aと小円B二つの前世人格とともに、3回目の現世の人生を送っている魂をあらわしています。

現世が3回目の人生を送っている里沙さんに例えると、小円Aが最初の人生「タエの人格」、小円Bが2回目の人生「ラタラジューの人格」、小円Cが3回目の人生である現世の「里沙さんの人格」ということになります。


魂の転生の仕組みを模式図の時間軸にしたがって説明します。

魂の核大円(X)は、最初の肉体に宿ると、その表層に小円という現世人格を生み出す。(左端の図)

現世人格はその肉体の死後、魂の核大円(X)の表層を構成する前世人格小円Aとして位置づき(真ん中の図)、死後も魂表層に存在し続けます。

そして魂は、次の来世の肉体に宿ると、新たに小円という現世人格を魂表層に生み出す((真ん中の図))ということです。

さらに小円Bという現世人格は、肉体の死後魂表層の前世人格小円Bとして位置づき、先に位置付いている前世人格小円Aとともに魂表層を構成し、存続します。、 

次の来世では小円Cという現世人格を魂表層に生み出し、先に表層に位置づいている前世人格小円A・Bとともに魂表層を構成します。(右端の図)

このように、魂の核であるは、新しい肉体を得るたびに諸前世人格を魂表層に次々に位置づけ魂表層の構成単位として包含し、転生していきます。
現世人格であったA・B・・・は死後も、それぞれの生前の人格、個性、記憶を保ちながら、魂の核とともに魂の表層を構成するそれぞれの諸前世人格として死後も存続しています。
これを「魂の二層構成仮説」と呼びます。
つまり、「核となる意識体」と、その「表層を構成している諸前世人格」の二層を合わせた全体を「魂」と呼びます。

こうして、生まれ変わりの回数分だけの前世の諸人格が、現世人格とともに魂の表層を構成しながら意識体として死後存続している、というのがSAM前世療法で確認できた意識現象の累積によってが明らかなってきた魂の構成とその転生の仕組みです。
なお、肉体を持たない魂を「霊」と呼び、肉体という器に宿る霊を「魂」と呼びます。

そして、魂は、表層を構成する前世の諸人格のすべてのものがつながり持ち、友愛を築き、与え合うことを望んでいると霊信は告げていますから、当然現世の人格は、多かれ少なかれ、また良かれ悪しかれ、前世の諸人格の智恵の影響を受けていることになります。

また、転生するたびに、魂表層の前世人格が 新たに位置付き、その前世人格の智恵が分かち合われるので、魂表層を構成している諸前世人格全体の集合的意識は、転生することによって変化していくことになります。
ある方向性、志向性に支えられたこの変化を、「魂の成長・進化」と呼んでいいのではないかと思っています。

こうして、魂の立場(観点)からいえば、一つの魂の宿る肉体の消滅後も、死後存続する同じ魂が、次々に新しい肉体へと宿り替えすることを「魂の転生」と呼ぶことになります。

また、魂の表層を構成している前世人格の立場(観点)からいえば、たとえば、模式図真ん中の「現世人格小円B」は、直前の前世を生きた「小円A人格の生まれ変わり」だと呼ぶことになります。
同様に、「現世人格小円C 」は、「前世人格小円A」や「前世人格小円B」の「生まれ変わり」だと呼ぶことになります。

肉体の死後、「一つの魂全体」は、新たな肉体へと「転生」(宿り替え)し、それにともなって、魂表層の「前世の人格」は、新たな肉体を持つ「現世の人格」へと「生まれ変わる」のです。

「生まれ変わる」の意味を、「かつてAであったものが、新たなBとなること」とするなら、生まれ変わりをするのは、肉体と人格であり、Aという魂そのものが、全く異なる新たなBという魂になることはありません。
転生するたびに、魂Aの表層を構成している前世人格の数は変化(増加)しますが、Aという魂全体が一新され新たな魂Bになるわけではなく、新しい肉体に宿り替え(転生)するだけです。

したがって、「魂が転生するたび、肉体と人格が生まれ変わる」、というわけです。

このように、「魂の転生」「生まれ変わり」の概念を明確に区別し、主張している仮説は、SAM催眠学以外にありません。

この転生と生まれ変わりの概念は、単なる思いつきの観念論ではありません。
10年間にわたるSAM前世療法セッションで確認し、累積してきた「意識現象の事実」の裏付けに基づいているからです。


ちなみに、魂の核であるXについて、わたしあて霊信では「ある意識体」とだけ告げており、その実体については謎のままです。

SAM前世療法は、「魂遡行催眠」の誘導技法によって、「魂状態の自覚」まで誘導し、魂表層を構成している肉体のない前世人格「小円A」や「小円B」を、現世の「小円C」の肉体を用いて顕現化させ(憑依させ)、「自己内憑依」によって顕現化した前世人格と対話する、という仮説と方法論によってセッションを展開します。

you-tubeに公開している動画「タエの事例」「ラタラジューの事例」がその実証です。
「前世人格タエ」も、「前世人格ラタラジュー」も、被験者里沙さんを「魂状態の自覚」まで催眠誘導し、魂表層から呼び出した前世人格です。


したがって、「ラタラジューの人格 」は、「タエの人格」の生まれ変わりであり、里沙さんは、「ラタラジュー」と「タエ」の人格の生まれ変わりだということです。

そして、こうした仮説を覆すような、SAM前世療法のセッション事例には、いまだに遭遇したことはありません。


7 魂の転生の志向性についての考察


こうして、セッションであらわれた「意識現象の事実」の10年間の累積から、わたしが、魂と生まれ変わりの実在を認める立場を主張している理由は、

それら「意識現象の事実」を、魂の実在や生まれ変わりの証拠として認めることが直感に著しく反していないからであり、

魂と生まれ変わりを事実として認めることが、不合理な結論に帰着しないからであり、

前世人格の顕現化という霊的現象(とりわけ応答型真性異言現象)が、唯物論的枠組みからはどうしても説明できないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、霊の告げた魂の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、「意識現象の事実」として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。
この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることが、クライアントの「意識現象の事実」として明らかになっています。

ラ タラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、魂や生まれ変わりの実在を 回避するために、深層心理学的概念を駆使してクライアントの霊的な「意識現象の事実」に対して、何としても唯物論的解釈でおさめようとこだわることは、現行科学の知の枠組みに固執した不毛な営み だ、とわたしには思われるのです。

魂状態の自覚、そこであらわれる前世人格の顕現化という「意識現象の事実」に対して、事実は事実としてありのままに認めるという現象学的態度をとってこそ、霊的意識現象の探究を実りあるものにしていくと思っています。
そして、クライアントの示す「意識現象の諸事実」は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
魂と生まれ変わりの実在を認めることを非科学的だと回避する立場で、あるいは魂や霊的現象はすべて妄想だと切り捨てて、どうやって顕現化した前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得できる説明ができるのでしょうか。

わたしの主張する「魂」の存在を想定せずに、「臨死体験」や「前世の記憶」を説明しようとする理論に量子論を援用した理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフに よって提唱されている「量子脳理論」があります。

 「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、 体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」
 
という主張(仮説)が「量子脳理論」による「臨死体験」と「生まれ変わり」の説明です。

イアン・スティーヴンソンの後を継いだバージニア大学のジム・タッカーも、量子脳理論
に同調していると思われ、先輩スティ-ヴソンの提案している、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する『心搬体』という媒体を想定する」という生まれ変わりの説明概念を放棄しているようで、次のように述べているようです。

量子論の創始者であるマックス・プランクなど、一流の科学者は物質よりも意識が基本的であると語りました。つまり、意識は脳が生み出したのではないのです。脳や肉体の死後も意識は生き残り続けます」「意識は量子レベルのエネルギーです。ですから、意識は前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に貼り付くのです」

 ジム・タッカーが、イアン・スティーヴンソンの提唱している生まれ変わりの説明概念である、「心搬体」という媒体の存在をなぜ考慮せず、なぜこのような量子論による考え方に至ったのかの合理的根拠も、理由も不明です。
「心搬体」のような霊的媒体を想定した説明より、最新物理学の量子論による唯物論的説明のほうが、科学的で説得力があるのだと考えているのでしょうか。
あるいは、「心搬体」も意識体として、次の肉体に宿るまでの間、量子レベルのエネルギーの形でどこかに存在していると考えているのでしょうか。
そもそも、「意識」がどこで生まれるかが分かっていない現時点で、「意識は量子レベルのエネルギー」だとなぜ断定的に言えるのでしょうか。


ハメロフやタッカーの言う「意識」とは記憶であり「情報」です。
応答型真性異言の応答的会話は、「情報」には還元できない暗黙知である「技能」です。「意識・情報」の伝達は量子論で説明できても、「技能」の伝達は量子論では説明できません。
したがって、会話技能の発揮である「応答型真性異言」現象は「量子脳理論」では説明できません。
言語に置き替え可能な「記憶情報」と、言語に置き換え不可能な「技能」との決定的に重要な相違を無視した粗雑な「説」が、「量子脳理論」だと言うほかありません。

この事実を前にすれば、「量子脳理論」による生まれ変わりの説明が破綻していることはすでに明らかです。
わたしに言わせれば、現時点で「量子脳」の実在が実証されているわけではなく、量子脳という唯物論的観念論による検証不能な「説」の域を出るものではないと思っています。

量子として宇宙にあり続ける膨大な死者たちのうちの誰かの意識が、偶然に現世の誰かの肉体(脳)と結び付くことを「生まれ変わり」だと言うのであれば、霊信が告げ、わたしが前述6の模式図で提示した「死後も存続する魂が、ある目的・志向のもとに新しい肉体に宿る」ことを「魂の転生」と呼び、それにともなって、魂表層の、生前は現世人格であった者が前世人格となり、新たな現世人格が位置付くことを「生まれ変わり」と呼ぶとする、SAM前世療法の定義においては、到底受け入れることはできません。
意識は量子レベルのエネルギーであり前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に貼り付くということが事実であれば、それは、「たまたま脳に貼り付いている誰かの前世記憶が蘇っただけの現象」というべきでしょう。
魂の存在を排除し、生まれ変わることに目的性や志向性は一切なく、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的に、たまたま、誰でもよかった誰かの脳に貼り付き宿ること、この偶然の繰り返しが「生まれ変わり」である、とわたしは、SAM前世療法セッションで確認してきた「意識現象の事実」から、認めることはできません。

なぜなら、SAM前世療法のセッションにおける「意識現象の事実」として確認してきた、何らかの目的・志向帯びて死後存続する魂が、その器である肉体の死後、次の新しい肉体に宿り、転生を繰り返している、という事実に反するからです。
また、わたしあて霊信の告げた、転生する魂の仕組みに反しています。

魂表層から呼び出し、科学的検証を経ている「タエの事例」、「ラタラジューの事例」という「意識現象の事実」が、このことを如実に実証しています。


宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的に、たまたま、誰でもよかった誰かの脳に貼り付き宿ること、この偶然の繰り返しが「生まれ変わり」であるとするなら、「生まれ変わり」は、無意味な、単なる偶然の産物であり、その繰り返しには、もともと意味や志向性など全くないということになります。


魂、あるいは心搬体の存在を否定し、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的かつ偶然に、誰かの脳に貼り付き宿ることを生まれ変わりだとすれば、たとえば、現世の里沙さんにとって、もはや「ラタラジュー」も「タエ」も、何らかの目的・志向を帯びた魂が宿り、前世を生きた人格とはいえず、現世の彼女とは一切のつながりのない、まったく無関係・無縁の死者である、タエやラタラジューの意識が、たまたま、偶然に、里沙さんの脳に貼り付いているだけだ、ということになります。

したがって、タエやラタラジューにも、何らかの目的・志向を帯びて死後存続する同じ魂が宿り、その同じ魂が現世では里沙さんに宿って転生していると、もはや言うことはできません。

「前世の記憶」と言う場合においても、「現世に生まれ変わっている私とは無縁ではなくつながっている、前世であったときの記憶」という含意があるはずですが、タッカーによれば、脳に偶然貼り付いた前世の記憶とは、「何らかの目的・志向のもとに生まれ変わった現世の私が、前世の人生を生きていたときの記憶」とは、呼べないことになります。


ただし、付言しておきますと、生まれ変わりの研究者の間でも合意されている「生まれ変わり」の明確な定義があるわけではありません。

SAM催眠学の「転生」と「生まれ変わり」を区別する定義は、「魂の二層構成仮説」から必然的に導き出されてきた「創出的定義」creative definition であり、これまでになかった定義です。
辞書的定義によれば、「転生」と「生まれ変わり」の意味の区別がなく、両者は同義語となっています。


SAM催眠学では、魂全体が、その器であった生前の肉体の死後、何らかの目的・志向のもとに、新たな別の肉体(器)へと宿ることを「魂の転生」と定義しています。

そして、魂の転生にともなって、魂の表層を構成していた「生前の現世の人格Aは、肉体の死後「前世の人格Aとなって魂表層に位置付き、「現世を生きる肉体を持つ別人格Bが、魂表層の構成要素として新たに位置付くことを、「前世のAが現世のBへと生まれ変わる」と定義しています。


新しい理論(仮説)を構築すれば、それにともなって、これまでになかった新しい概念を意味する用語が必要になるのは当然のことです。
SAM催眠学の「自己内憑依」や「魂遡行催眠」という用語も、それらの一つです。


また、魂の転生と、それにともなって「前世の人格」が「現世の人格」へと生まれ変わるのは、惰性や偶然によるものではなく、なんらかの目的性・志向性を帯びておこなわれている、これがSAM前世療法でこれまで確認してきた「意識現象の事実」です。

『科学的探検雑誌』編集長バーンハード・M・ハイシュは、スティーヴンソンの生まれ変わり研究について次のように解説しています。

人間の行動を考えると、生まれ変わりという考え方が、物事を説明するうえで、利点を持っていることは明らかである。恐怖症や変わった能力、強迫観念、性的方向といったものはすべて、精神分析の往々にして回りくどい論理よりも前世の具体的状況に照らしたほうが、おそらくはよく理解できるであろう。遺伝と環境に加え、過去世での経験という第三の要因も、人間の人格の形成にあずかっているのではないか、とする考え方は正当な提案といえる。(中略)
 スティーヴンソンは、「生まれ変わりという考え方は最後に受け入れるべき解釈なので、これに代わりうる説明がすべて棄却できた後に初めて採用すべきある」。「どの事例にしても、一例だけでは生まれ変わりの存在を裏付ける決定的証拠になるとは思っていない」。「私の詳細な事例報告をお読みいただければ、私たちが説得力に欠けると考えている点が明らかになることは間違いなかろうが、それによって読者の方々が、生まれかわりを裏付ける証拠など存在しないと否定なさるとは思われない。もし、そのようなご意見をお持ちの方があれば、その方に対しては『どういう証拠があれば、生まれ変わりが事実だと納得なさいますか』とお聞きしたいと思う」と述べている。
 (イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP.526-527)

わたしも、上記解説に全く同感です。
you-tubeで公開している「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の証拠動画、および逐語録とその解説を、虚心坦懐に見聞きしたうえで、それでも生まれ変わりの証拠などではない、と否定される方がおいでになるならば、どういう証拠であれば、あなたは、生まれ変わりと魂の存在が事実である、と納得なさいますか、とスティーヴンソン同様に尋ねたいと思います。

人間が死ねば無になるのではなく、どんな形にせよ死後も存続することが科学的に証明されば、人生観、世界観はもちろんのこと、自然界のあらゆるものに対する見方など広汎な領域にわたって根底からの深甚な変革が迫られるに違いないでしょう。
そうであるからこそ、そして自分自身も死から逃れることが不可避であるからこそ、わたしは誰もが「生まれ変わり」という大きな問題の真偽に対して、当事者性をもって真剣に取り組むことが必要なのだと考えています。

そして、唯物論者であったわたしあてに霊信が来るという超常現象が起き、霊信によって、魂の転生と生まれ変わりの秘密について開示を受けることになりました。
わたしは、催眠を道具に用いた科学の方法によって、その霊信内容の真偽の検証ができる立場にありました。

しかしながら、わたしの検証によって得られた魂の転生と生まれ変わりの事実は、検証の方法論が「意識現象の事実」を対象にするしかない、という限界があるため、間接的な証明でしかありません。

そうであっても、そこでわたしの得た知見をわたしだけに留めず、この問題に真面目な関心を寄せる人々に伝えることが、そうした目論見によって霊信を送信してきたであろう霊的存在に対する、わたしの使命だろうと思っています。

一言で要約すれば、「わたしの肉体の死後も、わたしの霊体に宿っていた現世の人格(個性、記憶などの心的要素)は魂表層に吸収され、魂表層を構成する前世人格の一つとして位置付き、やがてわたしを魂表層に位置づけた魂(全体)は、その成長・進化に資するための多様な体験を求めて新たな肉体に宿る。このようにして、わたしは生まれ変わる」ということが、これまでの探究から得た現時点における知見です。
ちなみに、わたしあて霊信によれば、現世のわたしは369回目の魂の転生なんだそうです。


このブログを開始してからの国内・国外の累積アクセス数は、17万回を超えています。
けっして読みやすい内容ではないにもかかわらず、お読みくださった読者のみなさんに感謝します。


縷々述べてきましたが、「SAM前世療法」の誕生と、そのセッションの累積から構築してきた「SAM催眠学」は、里沙さん、M子さん、わたしあて霊信、そして故イアン・スティーヴンソン博士の先行研究、催眠学者成瀬悟策医学博士の先行研究、また、論理的思考、哲学的思考の訓練を惜しみなく教示してくださった、上越教育大学大学院杵淵俊夫教育学博士などの諸恩恵なしには、けっして展開できることはありえなかったことは断言できます。

深謝。


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