2018年6月15日金曜日

私の考え方の立ち位置

     SAM催眠学序説 その114

  わたしは「実証的スピリチュアリスト」であり「プラグマティスト」


わたしの述べてきたブログ記事は、科学と宗教の両領域のボーダーに位置するでしょう。
わたしが特定の諸宗教とは無縁の、催眠臨床の実践者、生まれ変わりの実証的探究者であることを明確にするために、現在の私の考え方の立ち位置を明確にしておきたいと思います。

わたしの立ち位置は、宗教的観点からあえて言えば「実証的スピリチュアリスト」と言えるようです。
しかし、この立ち位置は、「確信的スピリチュアリスト」の人からすれば、何だ!?という批判を受けそうです。
 

真性の「確信的スピリチュアリスト」とは、科学的実証はできないであろう信憑性の高い諸霊信(『シルバーバーチの霊言』、『モーゼスの霊訓』、カルディックの『霊の書』など)の高級霊の告げている内容を「確信している人」のことを指して呼ぶわけですから。
 

ちなみに、わたしは新興宗教を含めて既存の宗教組織には大きな矛盾と不信を抱いています。
「宗教」の「宗」とは「元になっている」の意ですから、「救いの元になる教え」が原義です。
にもかかわらず、宗教的差別や迫害、政治的利用、はてには 宗教による戦争が歴史上繰り返されています。
こうした「救いになる元になる教え」であるはずの宗教によって、悲惨な現実はなぜ起こるのでしょうか?


さて、歴史的に「近代スピリチュアリズム」とは、

①地上の人間と霊界の高級霊との交信を認める、
②そうした霊の存在と霊界の存在を認める、
③ 霊魂と生まれ変わりの存在を認める、
④ひいてはすべてを統べる全知全能の神の存在を認める、
ことを内容としています。

この内容を「霊的真理」であると確信し、霊的真理を人生の指針として、よりよく生きようとする人こそ、「確信的スピリチュアリスト」と呼びます。

心霊写真、占い、霊的予言、チャネリングなど霊的現象に強い興味関心を抱き、実証抜きでそれを信じる人や、あるいは霊能があると自称し、予言したりや霊障を見ることが出来ると自称する人たちを、スピリチュアルな人という意味で、ひとくくりにスピリチュアリストと呼ぶことは正しくありません。
オカルティストと呼ぶべきでしょう。
スピリチュアリストとオカルティストは、似て非なるものです。

わたしが「実証的スピリチュアリスト」だと言うのは、わたしあて霊信内容を私の実践しているSAM前世療法よって確認(実証)できた意識現象の事実に限定してそれを認めるという表明をしているので、その立場を強いて呼ぶなら「実証的スピリチュアリスト」と位置づけてよいだろうというだけのことです。
観念より事実、理屈より実証を重んじる立場からは、「リアリスト」でもあります。


わたしが自覚し納得しているのは、自分は哲学的観点からは「プラグマティスト」であるということです。
プラグマティストとはいかなる立場・態度をとる人間であるのか、以下に説明します。
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日本語で「道具主義」と訳されるプラグマティズムが、卑近な実用と功利を重んじる安手の常識哲学だと考えることは正しい理解ではありません。
プラグマティズムを基盤とする「プラグマティスト」は次のような「生活態度」を反省的に身につけようとします。
そもそもプラグマとはギリシア語で「行為」を意味します。
 

①仏教、儒教、キリスト教、諸新興宗教、あるい政府・官僚などの言説に代表されるような美しい荘重な文言を、聞いたり口にしたりすれば、それで万事理解したように思う「言語主義(バーバリズム)」を捨てて、文言や文章の意味する内容からどういう実際的帰結が生ずるかを絶えず見届けようとする「実際主義」を身につけようとする。
 

 プラグマティストである米国哲学者パースの有名な「プラグマティズム格言」が、上記①のことを的確に言い得ています。
それは、「How to make our ideas clear(私たちの観念を明晰にする方法)」と題された内容で、「プラグマティズム格言」とは米国哲学者パースによって次のように述べられていることです。

われわれが何を知っているのか、また何に気づいていないかを、自ら意識し確かめる方法を述べたものです。

「その概念の対象が、どんな具体的影響を私たち人間の行動に対して持ち得るかを考えてみよ。そういうふうにして考えつかれ、想像される影響の総体が、もとの概念の意味の全部である。その具体的影響を考えつかないとすれば、そういう概念は、もともと空虚で意味がないのである」


この「プラグマティズム格言」こそ、「実際主義」を的確に言い得ています。
対極の「言語主義(バーバリズム)」とは、実質的、具体的内容のない空虚な文言を、あたかも実質的内容があるように思い込む思考態度や、単なる言い換えをあたかも新しい内容があるように思い込んで、ありがたがる思考態度です。

言語主義による詭弁や欺瞞は、プラグマティズム格言に照らして確認すれば、化けの皮が剥がれます。たとえば、国会における首相・大臣など政治家、官僚の答弁がいかに言語主義による詭弁と欺瞞に満ちていることか。

②生活体験を十分にくぐらない観念や信念だけでものごとを解決しようとする態度を捨て、事実の蓄積とそこに見出された法則に裏付けられた観念や思考を形成し、またこの真偽を行動・体験によって絶えず検証する態度を身につけようとする。 

このブログの「コメント投稿の留意点」に掲げている、「観念より事実、理屈より実証」のスローガンはこの②の態度の表明です。

③自分の正当な利害や幸福を追求することをうしろめたい悪いことのように感ずる卑屈感を捨て、自己を正当に主張するよい意味の個人主義的な自主的態度を身につけようとする。
こうした態度があってこそ、他人の人格や権利を正当に尊重し、他人と民主的に交わることができるようになると考える。
またこうした考えにもとづいて行動しようとする。
 

④こうしたプラグマティズムは、一つ間違うと功利主義、実利主義へとかたより、個人の直接体験を偏重する主観主義に傾き、また悪い意味での自然主義におもむいて、安易なオプティミズム(楽観主義)に走りやすくなる。
そうならならないよう絶えず「反省的思考」によって、バランスある言動・思考態度をとろうとする。
 

わたしの言う「反省的思考」とは、たとえば「ラタラジューの事例」における「生まれ変わり仮説」の真偽の検証において

①自分に都合のよい事象のみを「選択的に抽出」してはいないか?

②そうした「選択的に抽出」した事象を「拡大視」し、不都合な事象を「縮小視」し、あるいは無視してはいないか?

③「選択的な抽出」によって「拡大視」したごくわずかな都合のよい事象を短絡的に「極端に一般化」した結論へと導いていないか?

④「極端に一般化」した結論をもって、手前勝手な「恣意的推論」を展開していないか?
 
つまり、以上の4点を絶えず点検し、独りよがりの「認知の誤り」に陥ることへの警戒を怠らない思考態度を「反省的思考」と言います。


こうして、プラグマティズムは、専門的哲学の体系というよりは、よりよい充実した納得できる人生を送るための「生活態度のとり方」だと言えると思います。
 

  プラグマティズムの真理観は、「説明の成功」ですから、わたしのこれまで述べてきたブログ上の言説も、現時点でとりあえず説明が成功している「とりあえずの真理」だと理解していただきたいと思います。

したがって、たとえば「タエの事例」や「ラタラジューの事例」、とりわけ、学んだはずのないネパール語による「応答型真性異言」という現象について、今後「生まれ変わり仮説」よりも、簡潔で明確な整合性のある別の仮説によって「説明の成功」がなされれば、そちらを受け入れることに躊躇することはありません。
こうした立場から言えば、私はリアリストでもあります。

さて、プラグマティズムの系譜に連なる教育哲学者J・デューイは、「哲学とは生活態度である」、と述べ、次のように定義しています。
 

「哲学とは全体的、普遍的、究極的な生活態度である。世界の素材と取り組んで、統一ある、一貫した完全な人生を自覚的に努力するとき、人は哲学する(philosophize)。人は、哲学することによって、生活の進め方を規定する知恵を得ようとする」
 

その「哲学する(philosophize)生活態度」とは次の3つの態度に集約されます。
 

1 態度の「全体性」・・・起こってくるさまざまな事象に対する反応のしかたの一貫性を保とうとする態度。
 

2 態度の「普遍性」・・・個々の事象をバラバラに受け取らず、それぞれの事象をそれに意味を与える広い文脈の中に位置づけようとする態度。
 

3 態度の「究極性」・・・すべての事象や対象の裏面にまで進んでいって、それらの連関を発見しようと絶えず努める態度。  
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わたしがプラグマティストであるがゆえに、生活体験による実証を十分にくぐらない観念である諸霊信を受け入れる「確信的スピリチュアリスト」になりきれず、実証的態度を手放さないでいる意味において、「実証的スピリチュアリスト」にとどまっていることがお分かりいただけると思います。
そして、この科学的実証を大切にする立場は、SAM前世療法の臨床によってあらわれた「タエの事例」や「ラタラジューの事例」をはじめとする前世人格の顕現化、未浄化霊の顕現化、生き霊の顕現化など「霊的な諸意識現象の事実」への検証と考察によって形成されてきたものです。

その結果として、

●その「霊的意識現象の事実」が、著しく臨床的直観に反することはなく、
●そうした「霊的意識現象の事実」を認めることが、不合理な結論に帰着することはなく、
●そうした「霊的意識現象の事実」が、検証の結果、これまで知られている脳の特性(心・脳の一元論)から考えるとどうしても説明できない特異的な意識現象(超常現象)として存在していること、を認めざるをえない。

という立場が形成されてきたわけです。  
こうした、生まれ変わりや霊魂の存在に関わる、「いかなる霊的意識現象も先験的に否定せず、いかなる霊的意識現象も検証なくして容認せず」という思考態度が「実証的スピチュアリスト」であり、プラグマティストである、と私が自称することの理由になっています。

付言すれば、わたしの考え方の立ち位置に決定的な影響を与えてくださったのは教育哲学者であり、上越教育大学院教授杵淵俊夫教育学博士でした。
35歳のとき、現職教員の身分で2年間の大学院研修を許され、上越教育大学院修士課程の勉学の中で、指導担当教授杵淵先生との出会いと薫陶がなければ、今のわたしの考え方の基盤はけっして形成されなかったことは確かです。
杵淵先生の口癖であった「あなたのおっしゃるその考え方は、ほんとうにそうですか ?」という認知の誤りを点検する問いが、そのまま今のわたしの中に生き続けています。

その結果、教育現場にもどってからのわたしは、それまで当然のように了解してきた、文科省や県教委の教育方針や言説に否応なしに違和感を抱くことが多くなり、教員としての人生が随分生きづらく感じるようになってしまったと思います。

わたしの考え方の立ち位置は、人生を生きづらくする「毒」があるのかもしれません。。
しかし、「適度な毒」が、すぐれた薬効のある「良薬」に転化するように、適度に刺激があり、納得の得られる生き方を送るための指針としてはたらいていることも、確かな事実です。

6 件のコメント:

坊 さんのコメント...

評価知恵袋です
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14174585524?__ysp=56iy5Z6j5Yud5bez

稲垣 勝巳 さんのコメント...

坊さん

お久しぶりです。

「評価知恵袋」のベストアンサーは、理由一切抜きで「(タエの事例は)それはすべてインチキだからです」となっています。

どこが「インチキ」であるのか、「タエの事例、「ラタラジューの事例」ともにyou-tube公開
動画によって具体的な反証できるようにしてあります。したがって、インチキだと断定する側に、動画のどの部分が具体的にインチキであるのか立証責任があるのです。

このベストアンサーは「反知性主義者」のヘイトスピーチ同様の知性の不足をさらしていますね。
なんでこんなアンサーがベストであるのか、理解に苦しみます。
坊さんは、このベストアンサーが妥当だと評価したうえで、このブログに投稿されたと推察されますから、インチキ主張の補足意見がおありでしょう。
インチキである具体的反証を挙げて、どうぞご意見を投稿してください。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

「評価知恵袋」の質問は次のようにされています。

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「しかしその(タエ)次の来世では、若いころは傭兵として人を殺す過酷な生活をして、最後は苦しみながら死ぬなど、タエの生まれ変わりにしては悲惨で、一体タエは何を学ぶ為にラタ・ラジューとしての人生を選んだのかと疑問に思いました。
現世のリサさんは幸せそうな表情に見えます。
ラタラジュー→タエ→リサさんであれば理解できるのですが、タエ→ラタラジュー→リサさんとなると、前世の善行と来世の幸福度には相関はないのではと思えます」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私のおこなっている「SAM前世療法」の臨床の事実では、前世の善行が即、次の来世の幸福度には直接反映しないということです。
前世の善行は、気の遠くなるような生まれ変わりの長い連環のどこかで報われるということら
しい。
それは、本人の魂の霊的成長・進化の度合いに応じて報われるようです。

リサさんは現世が3度目の生まれ変わりだと顕現化した彼女の守護霊が告げています。
なぜ彼女が、タエ→ラタラジュー→リサと連続してシビアな境遇(3度目の人生のリサさんは脊柱側湾症が悪化して身体障害者の認定を受けています)の生まれ変わりをしなければならないのかについての守護霊の回答は、彼女の魂が急速な成長・進化を求めて、現世では脊柱側湾症という不治の病をみずから選んで生まれ変わったのだ、ということになっています。

ラタラジューは、死の間際に、自らの人生を振り返って次のように述べています。

「生きて、人と、平和な、村を守る、喜びを、感じました。願わくは、字が読めるようになりたかった」(『前世療法の探究』P183、春秋社、2006) 

つまり、彼の人生は過酷ではあったけれども、喜びもあったということでしょう。

魂の成長・進化の道は、何らかの負荷を引き受け、それを克服する過程が必要のようです。
現世のリサさんが幸せそうな表情に見える、のは彼女の魂が、こうした成長・進化の途上にあることを自覚しているからだと思われます。
実際に彼女は、悪化する脊柱の歪みから生じる激痛に耐えるため、ついにモルヒネを処方され、杖なしでは歩行にも支障が生じるようになっています。
そうした境遇にあっても、いつも笑顔を失わないでいようとする彼女の態度に、成長・進化途上の魂の崇高さに対する畏敬の念を禁じ得ません。

以上が、質問者に対する、リサさんに1ヶ月ほど前に会っている私の回答です。
私の言っていることがおわかりになりますか?

坊さん、あなたは過去の投稿コメントの経緯で分かるとおり、唯物論信仰によって、執拗に、根拠を示さず、生まれ変わり否定を続けておいでになります。

なぜ私が、アンビリスタッフを騙し、視聴者を騙し、読者を騙し、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の2冊の本を書けると思われるのですか?
なぜ私を、厚顔無恥なインチキ詐欺師だと思われるのですか?

生まれ変わりが唯物論に反するからとお考えであれば、唯物論で説明不能であることこそが唯物論の限界であり、間違いだとお認めになるしかないでしょう。

ご見解をどうぞご投稿ください。

前回までのご投稿態度から予想すれば、一切こちらの要求は無視されるでしょうから、期待することは、ないものねだりだと思っていますが。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

坊さん

私が、あなたの見解を求めた前コメントから6日間経過しましたが、どうやら予想通りだんまりを決め込まれたようですね。
おそらく、「すべてインチキだからです」というベストアンサーで満足されておいでのようです。
すべてインチキです、という言葉だけで、その中身を吟味せず、すべて分かったように納得する態度こそを「言語主義(バーバリズム)」と言い、反知性主義者が、考えを異にする人を批判するときの常套手段です。
いったい「インチキ」の具体的中身はどうなのか、何も明かされてはいないでしょう。
インチキの中身が空虚なのにありがたがる、これを言語主義者、反知性主義者と言わずしてなんと呼べばいいのでしょうか。

政府の「やってる感」を演出する中身空虚な美辞麗句に騙される人々とまったく同じ没論理の思考回路です。
そして、「タエの事例」をインチキです、とその理由も述べず言い捨てることは、リサさんおよび私への人格攻撃と侮辱でもあることに考えが及ばない浅薄さに憤りを感じます。
坊さんの過去のコメント投稿の態度からすると、私を挑発し反論をしてくることをほくそ笑んで楽しんでおいでのようです。

私は、唯物論信仰にこり固まり、頑迷な、没論理な人を相手にしようとは思いません。

そもそも坊さんのコメントは、「コメント投稿の留意点」に掲げてある「ご自身の意見は述べず、他者の見解を貼り付けるだけの安直・怠惰な投稿は『コメント』とは認められず掲載できません」に該当する安直・怠惰なコメントですから、以後同様なコメントは投稿されても掲載はしませんからご了解ください。

坊 さんのコメント...

ラタラジューもタエの事例も脳あっての物です

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180528-00000003-wordleaf-life

稲垣 勝巳 さんのコメント...

坊さん

タエ、ラタラジューの事例の動画をきちんと視聴して、この二つの事例を「心・脳一元論」で説明可能だと、本当に判断しているのですか?

その実証的根拠を、両事例の具体的場面に即して、脳が学んだことがない歴史的事実を語り、脳が学んだことのないネパール語の応答的会話ができることをきちんと説明してください。

あなたのコメントは、暇つぶしの、唯物論信仰、唯脳論信仰の吐露にすぎません。
貴方の貼り付けたhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180528-00000003-wordleaf-life
の記事は、唯物論者の随想、抽象論で、このブログの主旨の「生まれかわりの実証的探究」から大きくはずれています。

今後同様のコメントならば、いくら投稿されても削除しますのでご了解願います。

どうぞほかのサイトで持論を述べてください。