2015年12月9日水曜日

守護霊と呼ばれる存在についての考察

   SAM催眠学序説 その79

SAM前世療法において、魂状態の自覚に至ると、頻繁とは言えないまでも、偶発的に霊的存在とおぼしき者の憑依現象があらわれることがあります。

したがって、セラピストとして目前のクライアントに起きている霊的存在の憑依現象に対して、あいまいな態度は許されず、明確な立場をとって対処することが求められます。

SAM催眠学では次の立場を明確にとっています。

憑依現象に関わる「意識現象の諸事実」をSAM催眠学では、霊的存在が実在し、その憑依現象を認める立場に立っています。
これを、SAM催眠学における「憑依仮説」と呼んでいます。

当然のことながら憑依する主体である守護霊と呼ばれる高級霊、未浄化霊と呼ばれる迷える低級霊などの霊的存在を認めているということです。

さらに言えば、SAM前世療法によって、魂の自覚状態まで遡行させ、「前世人格」を顕現化させるという方法論そのものが、魂表層を構成している諸前世人格という霊的意識体を、意図的に憑依させることを企て、顕現化させる営みということになります。

こうして顕現化した前世人格は、自分の生まれ変わりであるクライアント自身に憑依し、クライアントの肉体を借りて自己表現(発声し対話する、指を立てて答えるなど)をすることになります。

これは、まさに憑依現象ですが、「自分の魂表層の前世人格が自分に憑依する」などという奇怪な憑依現象はこれまで知られてきませんでした。
したがって、このような憑依現象に対する概念がありません。

そこで、SAM催眠学では、前世人格がその生まれ変わりである自分に憑依し顕現化する現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしました。
自己の内部に入っている魂、その表層に存在している前世人格が自分に憑依する、という意味です。

実際にSAM前世療法で魂の自覚状態まで遡行すると、自己内憑依以外にも、偶発的に第三者の霊の憑依現象が観察されます。
また、里沙さんのような霊媒資質のあるクライアントであれば、意図的に守護霊を憑依させることも可能です。

したがって、第三者の霊である憑依現象、および憑依した主体である第三者の憑依霊は、「実体のない観念」ではなく、観察できる「意識現象の事実」です。

憑依および憑依霊について考察するために、事実に基づかない観念論では決着がつくとは思われないので、憑依現象の具体的事実を提示し、それについて具体的に考察してみましょう。

守護霊とおぼしき存在が憑依中のセッション証拠映像はyou-tubeの「タエの事例」に公開してありますから、そのセッション中に、里沙さんの守護霊が憑依している25分間分の逐語録を提示します。
ちなみに、前世療法セッション中に、偶発的ではなく、意図的に守護霊に憑依してもらい、セラピストが直接対話するというセッション証拠映像は、おそらく公開されたことがないと思います。


さて、下の逐語録の記号のTHはセラピスト稲垣、CLはクライアント里沙さんの略です。
ただし、CL里沙さんには彼女の守護霊が憑依して語っていますから、守護霊そのものの語りだと理解してください。
ちなみに、この対話は里沙さんの前世の記憶ではなく、憑依した守護霊と私とのまさに現在進行形の対話です。
なお、その後の守護霊呼び出しの再セッションで語られたこと、検証の結果明らかになったことを「注」としてコメントしてあります。
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TH じゃ、一つ聞きますよ。そのあなたのいる魂の世界に、たとえば、私の愛する人が待っていて、生まれ変わりがまだなら、私もそこへ行けば会えますか?

CL はい。会えます。

TH もう、生まれ変わりをしていたらどうなりますか?

CL 必ず出会います。
注:死後霊界に行った魂は「類魂」と呼ばれる魂のグループの一員となるらしい。次の生まれ変わりに旅立つときには、霊界の類魂内に自分の分身を残すという。したがって、先に死んだ者の魂がすでに生まれ変わりをしていても、後に死んだ者の魂は、先に死んだ者の魂の分身に必ず出会うということらしい。

TH 生まれ変わりをしていても出会えますか、魂どうしは?

CL はい。

TH もう一つ聞きますよ。今、あなたは偉大な存在者そのものになっていますね。じゃあその方は、時間も空間も超越していますから、今、私が、こうやって前世療法のセッションをしていることも、きっとお見通しのはずですね?

CL はい。

TH じゃ、聞きます。多くの人が、前世のことは現世に生まれ変わると、忘れて出てきません。でも今、里沙さんは深い催眠状態で前世のことを語ってくれましたが、もともと人間は、前世のことを忘れて生きるようにできていますか?

CL はい。

TH それを、無理矢理こうやって、催眠によってほじくり出すことは罪なことでしょうか? どうでしょう。
注:本来思い出すことのない前世を催眠という道具を使って探るという企てに対して、それは罪なことではないのか? という問いは、2001年にやむをえず最後の療法として初めて前世療法を試みた当初から、私の中に在り続けた疑問であった。守護霊は、人を救う手段であれば許される、と答えている。裏を返せば、人を救うためでなく前世を探ることは罪なことである、ということになる。したがって、とりわけSAM前世療法のように霊的療法をおこなうにあたっては、霊的存在に対して敬虔な態度を忘れることがあってはならないと思う。


CL そうではありません。人を救う手段であります。人を救う手段であれば、罪なことではありません。あなたは、それができる人なので、たくさんの人を苦しみから救うことが使命であると。

TH 私の使命ですか。

CL そうです。

TH であれば、私がこうやって前世療法をやった後は、二人の人からとっても憔悴(しょうすい)  しているように見えるそうです。命を縮めているんじゃないかって言われています。そういうことになっていますか? どうでしょう。命を縮めることですか。
注:この問いも、私にとっては真剣な切実な心配であった。ちなみに、この「タエの事例」のセッション直後には、椅子から立とうして膝が笑って立てないほどの疲労が生じていた。

CL 違います。できる限りたくさんの人を救います。

TH 分かりました。じゃあ私は、それを自信を持ってやっていいのですか?

CL はい。

TH 他に、私に伝えておかなければならないことがあれば、どうぞおっしゃってくだ さい。

CL 世界にたくさんの悩める人がいます。必ず出会います。力を尽くすよう。力を尽くしてお救いください。

TH はい。私はそういう道を進むのが使命ですか?

CL そうです。
注:里沙さんの守護霊によれば、私が霊界に存在していたとき、神との約束として、次の生まれ変わりである現世の一定の準備期間によって一定の霊的成長に至ったと認められたとき、新しい前世療法を開発すること、スピリットヒーリング能力が発揮できること、が決められていた、と語っている。これを認めるとすれば、2008年、私が59歳になった時点を指している。この歳にSAM前世療法の作業仮説を教える霊信を受け取り、同時にスピリットヒーリングとおぼしき能力が現れたからである。

TH もう一つ聞きます。大きな謎ですよ。おタエさんは、人柱となって16歳で短い一生を終えました。そのおタエさんの魂が、今、平成の現世では里沙さんとして生まれ変わっています。その里沙さんは、側湾症という治る見込みのない苦しい病にかかっています。なぜ、苦しみを二度も味わわねばならんのですか? いかにも不公平な人生ではありませんか。そのわけは何でしょう?

CL 魂を高め、人を救う道に位置付きし人です。

TH 里沙さんがそういう人ですか。

CL そうです。

TH じゃあ、側湾症になるということも、里沙さん自身が、あなたのいらっしゃる中間世で決められたことなんですか?

CL そうです。

TH それは、里沙さん自身が魂として選んだ道なんですか?どうやら

CL 「わたし」が選びました。
注:のちの再セッションで、里沙さんの魂は急速な成長・進化を望み、他人の痛みを自分の痛みとして共感できるように、脊柱側湾症という不治の病を自らの意志で選び、3回目の生まれ変わりである現世に生まれてきた、と守護霊は告げている。魂の成長・進化のためには、人生において負荷がどうしても必要であるということである。負荷は「人生の課題」と言い換えることができる。生まれ変わりは惰性でおこなわれるのではなく、魂の成長・進化のために現世の課題(負荷)を決めて生まれてくるということらしい。ただし、その課題は魂が肉体に宿ると同時に忘却されてしまう。したがって、現世を怠惰に生きることも、課題を探りながら真摯に生きることも、魂の主体性に任されているらしい。

TH 「わたし」とは、魂の「わたし」なのか、それとも偉大な存在である「わたし」のことですか? どちらですか?

CL 魂の「わたし」が選びました。
注:「魂のわたし」とは里沙さんの魂のこと、「偉大な存在であるわたし」とは守護霊ことである。あとの語りで明らかになるが、生まれ変わりを卒業すると、その魂は「偉大な存在であるわたしの一部になる」らしい。この語りを認めると、守護霊である「偉大な存在であるわたし」は「類魂」と呼ぶこともできる。

TH もし、そのことを現世の里沙さんがはっきり自覚できたら、彼女は救われるでしょうか?

CL 救われます。

TH その苦しみを乗り越えるだけの力を得ることができますか?

CL できます。

TH また、聞きますよ。お答え願えますか? 浅間山の噴火のときに雷が起きましたか?
注:噴火による火山灰の摩擦により静電気が発生する。この現象を「火山雷」という。実際に天明3年当時の浅間山大噴火の絵図には黒煙の中に稲光が描かれている。

CL はい。

TH そのことを、雷神様と人々は言うのでしょうか? 雷のことを。


CL そうです。まだ、噴火、自然現象は分からない人たちですから、魔物のせいだと思ったのです。

TH 龍神様はなんのことでしょう?

CL 浅間山は信仰の山です。龍神が祀られています。
注:浅間山に龍神信仰があることは、浅間山麓嬬恋村の住人から確認できた。アンビリバボーの中で渋川市教委の小林氏は、吾妻川を龍神に見立てたのだろう、と推測されているが、守護霊やタエが語っているとおりに「浅間山に住む龍神様」と解することが妥当であろう。
なお、浅間山の龍神信仰についてはネット検索はできない。

TH その龍神が、お山が火を噴いたために住めなくなって、川を下るというように人々は思ったわけですね。

CL そうです。

TH それから、そのときの噴火によって空が真っ暗になって、日が射さなくなって、火山灰が降り注いで、農作物は不作になりますよね。その結果、下界ではどんなことが起きたのでしょう? あなたはご存じのはずですが、教えてもらえますか?

CL 噴火による土石流で川が堰(せ)き止められ、そのため洪水が起き、たくさんの人が亡くなりました。

TH その川の名前が吾妻川でしょうか?

CL そうです。利根川の上流になります。
注:吾妻川は渋川市内で利根川と合流している。

TH さっき、あなたのおっしゃったことに勇気を得て、もう一つ聞きます。今、あなたが語ったことが、その時代に生きたおタエさんしか知り得ないことだという証拠を、私はつかみたいと思っています。その結果、前世というものが間接的にでも証明できたら、多くの人の人生観が変わって、特に死を間近にした人たちに勇気を与えることができると思っています。このセッションの場には、その研究をしていらっしゃる小野口さんという先生も来ています。そういう人のためにも、おタエさんしか知り得ないことででも、われわれが後で調べたら何とか分かるようなそういう証拠の話か物がないでしょうか? そんなことを聞くのは傲慢(ごうまん)でしょうか? もし、お許しがあれば、それを教えていただけないでしょうか。

CL 傲慢ではありません。タエは・・・左腕をなくしています。渋川村上郷、馬頭観音下に左腕が埋まっています。

TH それはおタエさんの左腕ですか?

CL そうです。

TH であれば、今は随分時代が下がってますから、骨になっていますね。

CL そうです。

TH その骨が、渋川村、上郷、馬頭観音の下ですか?

CL そうです。

TH 下ということは、馬頭観音様は外に立っていらっしゃいますか? お堂の中ではない?

CL お堂です。お堂の下を掘るとタエの左腕が出てきます。

TH それが、タエが実際に存在した証拠になりますか?

CL そうです。

TH 馬頭観音様が祀られているのはお寺でしょうか?

CL 馬頭観音は寺ではありません。小さなお御堂(みどう)です。

TH それは現在でもありますか?

CL あります。

TH おタエさんの左腕を探すためにはその床下を掘れということですか?

CL 土、下。
注:「土、下」とは不可解な語りであるが、現渋川市上郷の高台にある良珊寺につながる坂道から脇道に少し入ったところに、石造りの馬と灯籠状の馬頭観音が祀られている。銘文には享保15年(1730年)と刻んである。天明3年(1783年)より53年前に設置されているので年代に矛盾はないし、石灯籠状の馬頭観音はお堂でもあるが、床はないので掘るとすれば直接土を掘ることになり、「土、下」という語りにも矛盾はないことになる。なお、上郷地区には他に馬頭観音はないので、守護霊の言う馬頭観音は、この石灯籠状の馬頭観音だと特定できる。
なお、渋川市上郷に馬頭観音が祀られていることをネット検索はできない。


TH どのくらい掘ったらいいのでしょうね?

CL 土石流で埋まっているので・・・。
注:この語りは、私が、実際にタエの骨の発掘作業をしかねないことを牽制するためのはぐらかし、つまり、土石流云々は嘘ではなかろうかと疑った。しかし、その後、私の読者のご努力で、上郷の良珊寺付近には過去に土石流被害があったことが、渋川市ハザードマップの検討から確認できている。



TH ちょっと掘れない。でも、埋まっているのは間違いない?


CL はい。


TH 分かりました。それ以外に、もっと何とかなる方法で、おタエさんの存在を証明する何かがありませんか? たとえば、おタエさんを、村の人たちが供養のために何かしていませんでしょうか?


CL 何も残してはおりません。村は洪水で壊滅状態になりました。

TH おタエさんのことは、郷土史か何かの記録には残っていませんか? 語り継ぐ人はいませんでしたか?

CL たくさんの人が浅間山の噴火を記録しました。

TH それは分かっています。でも、おタエさんを記録した人はいませんでしょうか?

CL 女は、道具です。
注:「女は道具です」、このように言い放つ語りは、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のことばだと思われる。

TH 道具でしたか。それでは、おタエさんを育ててくれた名主の・・・?

CL クロカワキチエモン。
注:タエは「クロダキチエモン」と語っており、タエと守護霊の語るキチエモンの姓が食い違っている。タエを呼び出した再セッションで、タエは、キチエモンの所有する田の土が黒かったので「黒田のキチエモン」とも呼ばれ、キチエモンの所有していた船着き場周辺の吾妻川の石が黒かったので「黒川のキチエモン」とも呼ばれていた、と語っている。つまり、黒川のキチエモンは通称ということであろう。なぜ、守護霊もタエも、本名でなく通称でしか告げないのかは謎である。ちなみに当時の渋川村には4人の名主がおり、その一人に堀口吉右衛門が実在していることが調査の結果判明している。堀口家の当主は、初代から明治に至るまで「吉右衛門」を名乗っているので、先代吉右衛門と当代吉右衛門の区別のため、当代について「黒田の」「黒川の」という通称で呼ばれていたと推測できる。
なお、天明3年当時の渋川村の名主を知るためにネット検索はできない。

TH そのクロカワキチエモンと連れ合いのハツは名主でしたから、その記録は残っているでしょうか?

CL 残っています。

TH どこへ行けばわかりますか? 図書館へ行けば分かりますか? それとも?

CL ・・・資料はあります。
注:資料とは、天明3年当時の人別帳と寺の過去帳であろう。しかし、渋川市では「人別帳」は戦災で焼失している。残るは寺の「過去帳」であるが、差別戒名という同和問題との絡みで公開されることが拒まれている。当時実在した上郷の名主は堀口吉右衛門であり、吉右衛門とその妻ハツの墓は上郷良珊寺の墓地だと推測し、墓碑を二度まで捜索したが、古い墓石は表面が風化し苔むしており、戒名・俗名の判読は不可能であった。
 
TH そこにハツの記録も残っているでしょうか? 多くのみなし子を育てたことぐらいは残ってるでしょうか?
 
CL たくさんの文書は洪水で流され、田畑(でんばた)の帳簿、村の様子など書きしるしたものはほとんどありません。

TH 分かりました。そうすると、おタエさんの存在そのものの裏付けを取ることは、現在のわれわれには無理ですね。

CL はい。

TH ただ、馬頭観音のお堂の下に、おタエさんの左腕が、土石流の下に埋まっているのは間違いないですね。

CL はい。

TH なぜ、片腕が馬頭観音様の下に埋められることになったのですか?

CL 雷神様を乗せる馬を守るために、タエの左腕が供えられたのです。

TH それは切り落とされたわけですか? 刀によって?

CL そうです。

TH それにタエさんは耐えたわけですか。

CL そうです。

TH それはタエさんが望んで腕を差し出したわけですか?

CL 違います。馬が必死で暴れるので抑えるために、タエの腕を馬の口取りのために馬頭観音に捧げることになりました。
注:タエも馬も龍神・雷神の供え物として、浅間山噴火とやがて起こる吾妻川の泥流を鎮めるために川中に縛られ捧げられた。馬が暴れるので、それを鎮めるためにタエの左腕を埋納した事情については、「SAM催眠学序説その42」をお読みいただきたい。

TH 分かりました。もう一つ、あなたは偉大な存在者なので、私の探究が許されるなら、魂がおタエさんの後、里沙さんに生まれ変わるまでの間に、もし、生まれ変わりがあるとしたら、そこへ里沙さんをもう一度行かせることはいいでしょうか?

CL はい。

TH ありますか、やっぱり。

CL はい。

TH あなたならすべてお見通しなので聞きますが、里沙さんの魂は、今までどれくらい生まれ変わりを繰り返したのでしょうか? 回数、分かりますか?

CL 長く繰り返している。

TH 一番古くはどんな時代でしょう?

CL 天明、タエが初。
注:里沙さんの魂は、タエが最初の人生、次がネパール人ラタラジュー、そして現世となり、現世が3回目の生まれ変わりとなる。

TH もう一つ聞きます。その魂はいったいどこから生じるのでしょう?

CL 中間の世界。

TH そうすると、あらゆる魂はもともと一つのところから生まれてくるのですか?

CL 中間の粒子が魂に生まれ変わります。

TH 中間の世界で粒子が魂になる。

CL そうです。

TH 魂は永久に生まれ変わりを続けるわけでしょうか?

CL 粒子の色が消えると、生まれ変わりはなくなります。

TH その魂は、中間の世界に留まることができるのですか?

CL わたしの一部になります。

TH 分かりました。ありがとうございました。わざわざお呼び立てして、申し訳ありませんでした。でも、随分いろんな勉強になりました。

注:ここまでの守護霊憑依中の記憶は一切ない、と覚醒後里沙さんは語っている。里沙さんについては、守護霊憑依中の記憶は一切残らないことがその後の再セッションでの憑依実験から明らかになっている。
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守護霊とおぼしき存在については、ワイスを始めとする前世療法の報告や、「光」や不思議な姿をした「偉大な存在者」についての報告は、本来、科学的検討の俎上(そじよう)に載せられるものではありませんし、慎重な検討が必要な主題なので、今後も考察を深めることにしますが、ここで、里沙さんのケースでの「偉大な存在者」の語りに関して、いくつか注目すべき点を挙げておきます。

「偉大な存在者」の語りとしては、次のような項目がありました。

①浅間山の龍神信仰
②上郷の馬頭観音堂とタエの左腕の埋納
③村の吾妻川泥流被害状況
④名主クロカワキチエモンと妻ハツの記録の残存
⑤タエの記録の不在
⑥「馬の口取り」という説明
⑦タエの生まれ変わり回数

なお、このほか、「中間の世界の粒子が魂になり、生まれ変わりを続け、色が消えると生まれ変わりがなくなり、自分の一部となる」といった不思議な説明が語られています。

これらが里沙さん本人の記憶ないし情報収集から導き出せるかどうかは、ポリグラフ検査を実施して検証しました。
ポリグラフ検査の鑑定では、彼女が意図的に「偉大な存在者」の①から⑦の語り内容を収集した記憶はまったくない、という結果でした。
したがって、彼女が意図的に「守護霊」の役割演技をして語ったという疑いは晴らされたと言えます。

ここで注目したいのは、タエという「前世人格」と「偉大な存在者」との、情報の差異です。
このうち、龍神信仰、上郷馬頭観音堂、「口取り」という言葉は、タエも知っていると考えられるものです。
しかし、②の「馬頭観音堂へのタエの左腕の埋納」、③の「村が壊滅状態になったこと」、④の「名主と妻の記録は残存していること」、⑤「タエの記録の不在」、⑦の「タエの生まれ変わり回数」は、タエという人格から発し得る情報ではありません。

特に、タエの左腕が切り落とされたことは、タエ自身が語っていませんし、それが馬頭観音堂に埋納されたことは、死後の出来事でしょうから、タエは知るよしもありません。

③④⑤に関しては、一部不正確であったり、確定的な検証ができないものですが、タエの立場からこのような言い方ができるとは思えません。

⑦の「タエの生まれ変わり回数」については、「偉大な存在者」は「タエが初」と言い、タエ自身が「生まれ変わり?」と聞き直すなど、生まれ変わりを経験していないので生まれ変わりの意味が理解できない、つまりタエが初めての人生ように述べたという一致がありました。

そして、最後の不思議な説明に関しては、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のものだと言えるでしょう。
ちなみにこれに類似した考え方は、「スピリチュアリズム」という西洋近代の宗教思想にもあるようです。
しかし、聴き取り調査によっても、里沙さんがそのような本を読んでいるとは考えられません。

つまり、情報の内容においても、その情報が語られる視点あるいは位相といったものからも、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」は、タエとも里沙さんとも、かなりの大きな差異を見せているということは言えると思います。

もちろん、だからといって、このような存在者が実在するという証明にはなりません。
ただし、渋川市上郷の馬頭観音石堂の下を掘り、そこにタエの左腕らしい、10代半ばの女性の骨が発見できたとしたら、どうでしょうか。
それは、タエの実在と里沙さんへの生まれ変わりを濃厚に支持するものになるでしょうし、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」の実在性の証明にも、可能性を開くものになるのかもしれません。


ここで語られた内容に関して、里沙さんはの次のように証言しています。

①浅間山については、活火山であることと、連合赤軍の浅間山荘事件以外知っていることはない。もちろん、見たこともない。火山について調べたことはない。

②天明の大噴火と火山雷や、それにともなう火砕流による吾妻川の泥流被害など全く知らない。

③群馬県に行ったことはない。ただし、絶縁状態で行き来の全くない親戚が桐生市にあると聞いている。渋川市はもちろん、渋川村など知らない。利根川の名前は知っているが、吾妻川は知らない。まして吾妻川が利根川の上流にあたることなど知っているわけがない。「吾妻」を「アガツマ」と読むことさえ知らなかった。

④過去に火山噴火などにまつわる人柱伝説や、悲話などの類の小説やテレビや映画を読んだり、見たり、聞いたりしたことはない。

⑤家にパソコンはあるが、インターネットの使い方を知らない。ただし、夫と息子は使える。誰かに依頼するなどして、タエの語り内容に関わる様々な情報を検索した事実はない。

なお、「インターネットが使えない」ということについては、里沙さんの息子にも、彼が電話に出たついでにそれとなく聞いて、母親がインターネットを使えないことを確認しています。

私は、さらに、セッションビデオを里沙さんに視聴してもらい、科学的研究のために本当のことを言ってほしい、と真剣に迫ってみましたが、逆に里沙さんに詰め寄られました。

なぜ、嘘をつかなければならないのか、嘘をつくことによって自分にどんな利得があるというのか、合理的な理由を教えてほしいと。

セッション記録ビデオを見て、自分自身でも全く知らないことを催眠中に語っているので、驚いているくらいなのに、嘘などついてるはずがないではないかと。

周囲からの聴き取り調査によっても、彼女が誠実な性格で、虚言癖などがないことを確認できました。
また、彼女の言うとおり、嘘をつくことによる利得は確かにありませんし、嘘をついていると疑わねばならない証拠が何一つ挙がっているわけでもありません。

これらの事実確認を踏まえて、できるだけ公正な視点から、この事例の解釈として、私が、彼女の守護霊の実在を認める立場をとる理由は、認めることによって「説明の成功」ができるからです。

目前で展開される意識現象を憑依だと認めることが、直感に著しく反していないからであり、憑依現象だと認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、その憑依現象が現行唯物論の枠組みからはどうにも説明が成功しないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、霊の告げた魂の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。

この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。
また、「魂の自覚状態」に至ると、霊的存在の憑依とおぼしき意識現象が起こることもめずらしくありません。 

ラタラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、里沙さんの守護霊の語りを前にして、魂と生まれ変わりの実在や守護霊の実在可能性を回避するために、回りくどい心理学概念や精神医学概念を持ち出し、無理やり引き当て、霊的な意識諸現象に対してなんでもかんでも心理学的、精神医学的な解釈することは、現行唯物論科学の枠組みに固執するあまりのおよび腰的な、不自然な営みだ、と私には思われます。

そして、里沙さんに限らず、クライアントの示す霊的意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。

唯物論を絶対視し、魂や生まれ変わりの実在、霊的存在を認めることを回避する立場で、すべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって唯物論で前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得のいく説明ができますか?

どうやって唯物論によって、私と対話した里沙さんの守護霊の語り(里沙さん自身の全く知らない諸情報の語り)の納得できる説明ができますか?

私には、霊的存在の実在を認めることが、SAM前世療法で展開される憑依とおぼしき意識諸現象の解釈として「思考節減の原理」にもっともかなっていると思われます。

ただし、クライアントに起こる憑依現象すべてが、真正の憑依現象であるとは判断できません。
憑依霊が語った内容を検証にかけ、明らかにクライアントの知り得ない情報を語っていると検証できた場合でなければ、判断留保とするのが妥当でしょう。
そして、検証に足る情報が語られることは極めて少ないのも事実です。

ちなみに、超心理学上では「超ESP(万能に近い透視やテレパシー能力)仮説」があります。
そして、催眠中に超常的な能力が発現したという事例は、わずかながらあるようです。
とは言え、「超ESP」のような万能の超能力そのものは、立証されているわけではありません。

しかし、下に紹介するレナード婦人のような希有な実例が存在し、しかも、ESPの限界が不明なので、これを拡大解釈し、人間には未発見の万能の超能力が存在する可能性がある、という理屈上の仮説に過ぎず、実証はまったくありません。

グラディス・オズボーン・レナード婦人は、一度も行ったことのない家の中にある閉じた本に書かれた文章を何らかの方法で読み、その文章が何ページに出ているか(場合によっては、そのページのどのあたりにあるか) や、その書物が本棚のどのあたりに置かれているかを正確に言い当てる能力を持っていました。
E・M・シジウィックは、レナード婦人の書籍実験に関する厳密な分析をおこなった論文を発表しています。(イアン・スティーヴンソン、笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』P500)

里沙さんが、レナード婦人を凌ぐような超ESPを発揮し、かなり広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、編集し、守護霊らしく装って語ったのだ、という解釈が成り立つでしょうか。

里沙さんの証言を信用する限り、当人にはそのような超能力もないし、それを用いて意図的に情報収集をした記憶がないことはポリグラフ検査によって明らかです。

無意識のうちにやっているとすれば、いったい誰が(あるいは何が)それをおこなっているのでしょうか。
また、無意識のうちにやっていることは証明できることでしょうか。

応答型真性異言は超ESPを用いたとしても、情報ではなく技能であるネパール語会話は取得できません。
したがって、「ラタラジューの事例」において、里沙さんが超ESPを用いることなしに、ラタラジューがネパール語会話をしている、つまり、自己内憑依現象を起こしていることは明白です。

そのすぐれた霊媒資質を備えている彼女が、守護霊の憑依ではなく、超ESPを用いて情報収集し、守護霊を偽装し語っている、と考えることのほうが不自然だと思います。

そもそも、広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、まとめ上げ、守護霊を偽装して語る、というような途方もない能力を発揮することが、人間に可能であるとは思われません。

実際、そのような万能の超能力(超ESP)を発揮した人間が、心霊研究(SPR)および超心理学研究のこれまで100年余の研究史上発見された事実は皆無です。

彼女が、私やセッション見学者たちを驚かせるために、無意識のうちに超ESPを駆使して情報を集め、守護霊を偽装して語ったのだ、という見方と、守護霊が実在し彼女に憑依して語っているのだ、という見方と、どちらがより検証結果を踏まえた直感に反せず、より思考節減の原理に沿った自然な解釈であるかは、すでに明白であるように私には思われます。


14 件のコメント:

猫 さんのコメント...

ラタラジューにたいしての否定派のコメント

記憶のコピーではないでしょうか?

http://www.jiyuuna.com/entry/2015/04/27/195235

ぱる さんのコメント...


今晩は

わたしは否定派ですが、理由は「死後の世界」を想定しなくても「この世」だけてすべて説明可能だからです。

つまり、人間も含め万物は瞬間、瞬間に変化しており、全く同じ「自分」(継続した人格)は存在しないことが量子物理学やバイオテクノロジーなどによって既に証明されています。

人間はその変化がゆっくりしているのと、他の生物に較べて比較的明確な「自意識」と「記憶」を持ってるが故に、そのことを素直に認められないか、「自分は不変である」と錯覚しているだけです。万物(生物)の「生」も「死」もその変化の一通過点に過ぎないのです。

従って、「継続した人格」を前提とした「死後の世界」もない、ということになります。

わたしは前世記憶や臨死体験は「記憶」に関係していると推察しています。

わたしにはむしろシェルドレークなどが主張する「形態形成場」仮説のほうが説得力を感じます。

つまり、そもそも「記憶」というものは「脳内」に存在せず、重力場や電磁場と同じように種ごとに世代を越えて(つまり故人も含めて)共通の「場」に蓄積されていくものだ、ということです。従って、「脳」は中継器のようなものであり、生物は「脳」を通じて遺伝子というキーを使って自分の「記憶」にアクセスしていると見るのです。

実際、脳科学が進歩した現在においてさえ、「記憶」が「脳内」に存在している、という確証はないのです。

ここで、ある条件下において他者の「記憶」にアクセスできるとすれば鳥類の「渡り」や魚類の「回遊」など世代を越えた情報交換が必要な現象や「本能」の謎も説明できることになります。

そして、この仮説により前世記憶や臨死体験などをは勿論のこと、テレパシーなどの「記憶」に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ぱるさん

あなたの主張は、「形態形成場仮説」によって、前世記憶や臨死体験などをは勿論のこと、テレパシーなどの「記憶」に関わる超常現象をすべて説明出来ることになる、ということですね。

であるなら、応答型真性異言「ラタラジューの事例」や「守護霊の語り」を「形態形成場仮説」によって、生まれ変わりや霊的存在を一切想定しないで、科学的に整合性のある論証ができるでしょうか?
そもそも、「形態形成場」仮説は、どのように検証され実証されているのでしょうか。
「量子脳仮説」などと同じく、現時点では検証できない観念論ではないでしょうか。
「ある条件下において他者の記憶にアクセスできるとすれば、という仮定の「ある条件下」とは具体的にどのような条件下であるのか、その内容が決定的に重要です。
里沙さんは、「具体的にどのような条件下」で、ネパール人ラタラジューの記憶にアクセスできたというのでしょうか?
いずれ、科学が進展して、「ある条件」さえ満たせば、誰でも、他者の記憶に自由にアクセスできるようになる、ということは夢があって楽しいのですが、そうなれば苦労して外国語を学ぶ必要は全くなくなるわけです。
そういうことが可能になるとは、私には荒唐無稽のお話であり、説得力がありません。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

猫さん

あなたのコメントに貼り付けてある記事を引用すると以下のような見解ですね。


「例えば知らないはずの言語を話すという事例。これについては、私の持論を展開すると、単なる記憶のコピーにすぎないと考えます。
私は人格=個々の記憶の産物と考えており、例えばすでに死亡しているAさんの記憶を完全コピーしてBさんに移植したとします。
そうするとBさんは、あたかも前世でBさん自身が体験した事柄としてAさんの記憶を読み起こすでしょう。所謂BさんはAさんの生まれ変わりという認識ですね。
しかしこれは生まれ変わりとは異なる気がします。もともとAさんとBさんは別人物であり、単に記憶がコピーされたことでAさんの体験を疑似体験したに過ぎないように感じます。
※この論理で言うと、話せない言葉を話すことが出来たということに違和感はなくなります。
ただ現時点では、記憶がどうコピーするのかはわかりませんが、今の脳科学の進歩具合を考えるとそう遠くない未来で実現できそうかなと思います。
※今回の事例は何らかしらの条件が重なり、記憶がコピーされ、それが読み出されたものと個人的には考えます。(根拠がなく、あくまでも推測にすぎませんが・・。)」


以上の見解は、私には実証のない観念論だと思えます。
この見解の筆者も「※今回の事例は何らかしらの条件が重なり、記憶がコピーされ、それが読み出されたものと個人的には考えます。
(根拠がなく、あくまでも推測にすぎませんが)」とはっきり述べてあるからです。
記憶がどうコピーされるのか根拠はないが、何かしらの条件が重なり記憶がコピーされそれが読み出されのだ、と推測するだけでは、「応答型真性異言」を論破できる科学的実証にはならないないでしょう。
「何かしらの条件」が明らかでないところでは、説得力はないのではありませんか。
「何かしらの条件が重なれば、私は100mを3秒台で走ることができる」と主張しているようなものに思えますが、説得力がありますか?
里沙さんは、どのような条件が重なって、ネパール人ラタラジューの記憶(会話技能)をコピーできたのでしょうか?
多少でも根拠のある「超ESP仮説」よりも、根拠のない「記憶コピー仮説」は途方もない奇怪な仮説に私には思えます。

シュヴァル さんのコメント...

形態形成場仮説については少し調べましたが現時点では
統計的なテストを一回だけやって優位に見えるという不完全な仮説にすぎないようですね。

この主張をされるまえに猫さんは統計的なテストを試みられ
事実であると確信するようなデータがあり、学会なりで発表されて議論に耐えられるという結論をだされたということでしょうか?
もしそうであるならぜひ論文や発表成果をお示しいただければと思います

権威ある○○がいってるからそうではないかは単なる言いがかりのように私には思えるのですが?

シュヴァル さんのコメント...

ぱるさん

形態形成場のほうが説得力があるとおっしゃっておられますがそれは自身で検証されたのでしょうか?
少しネットで検索いたしましたが、一度の実験で有意性があるとしたという統計的にはあまり確証がないような
文言しかみつかりませんでした。

この手の実験は再現性があるか?誤差ではないか?など処理が必要で一度の実験でしかも95%の人には
影響がないように見えるものが果たして有意なのか?と私は思います。

それに対しては、理沙さんの事例は、まず起こったこと、稲垣さんができうる限り統計、歴史的事実と照らして
棄却できるかどうか試みおられます。

この違いは大きいと思うのですがいかがでしょう?

稲垣 勝巳 さんのコメント...

シュヴァルさん

「この手の実験は再現性があるか?誤差ではないか?など処理が必要で一度の実験でしかも95%の人には影響がないように見えるものが果たして有意なのか?」という反論には、私も賛成の立場です。
「理屈より実証、観念より事実」が私の明確な立場です。

ある仮説を「科学的仮説」だと主張するための条件には、「反証可能性にひらかれていること」が必要であることに異論のある人はいないでしょう。
その反証可能性の一つが「再現性」の検証ができるかどうかです。
一定の手続きを踏めば、誰にでも一定の結果が得られる、という再現性があってこそ科学的仮説として評価できるからです。

このことは、例の、万能のスタップ細胞発見の小保方論文疑惑事件で明らかでしょう。
小保方氏以外の研究者たちが、小保方氏の主張する科学的手続きを踏んで、スタップ細胞の再現をしようと何度実験を繰り返しても、スタップ細胞が得られなかった、再現性が否定された、つまりスタップ細胞は科学的事実ではない、という結論になりました。

「形態形成場仮説」によって、「ある条件下において」他者(死者)の「記憶」にアクセスできる、という主張は、「ある条件下」の具体内容が示されないかぎり、検証実験はできません。
その検証実験によって、他者(死者)の記憶にアクセスが成功したという検証が幾分でもできてこそ、「形態形成場仮説によって前世記憶や臨死体験などをは勿論のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります」、という科学としての言説が成り立つのではありませんか?
こうした、検証のされていないところで、「前世記憶や臨死体験などをは勿論のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります」という主張は、形態形成場仮説の極端な一般化という認知の誤りに陥った非科学的な恣意的推論と言うべきでしょう。

そもそも「形態形成場仮説によって、他者(死者)の記憶にアクセスできる」などの、あたかも最新量子物理学の成果を装った主張は、形態形成場仮説を「ラタラジューの事例」に都合よく援用した安易な拡大解釈、ないし実証のない恣意的推論だと受け取るしかないではありませんか。
だからこそ、「ある条件下において」などという、安直で曖昧模糊とした、反証可能性に閉じた言い回しをして、逃げを打っているのではありませんか?

「ある条件下」の内容が不明では、その条件を満たすにはどうすればよいのか、その検証が不可能ですから、科学的仮説の体裁になっているとは言えません。
仮説の検証方法が示され、仮説の再現方法が保障されていてこそ、仮説→検証→検証結果の分析と考察→仮説の実証、という科学的方法の適用が可能です。
したがって、検証のできない仮説は、科学的な仮説ではなく、恣意的推論の表明に過ぎないという誹りを免れません。

検証のできない仮説を持ち出すのは、前世などあるはずがない、という決めつけの前提から、「死後の世界」を想定しなくてもこの世だけてすべて説明可能だ、という唯物論絶対の砦に立て籠もって、自分の世界観の安定を図ろうとする硬直した態度のように私には思えます。
そして、唯物論擁護のほとんどの研究者が、唯物論に対立する事実に対して心理的な抵抗を示し、同様の硬直した態度をとろうとします。

虚心坦懐に「ラタラジューの事例」、「タエの事例」について私の検証を綿密に検討すれば、すくなくとも現時点で、唯物論よる「この世」だけの説得力のある科学的説明ができるとは思われません。
「この世」だけですべて説明可能だという根拠のない断定は、それに反する私の主張をまともに読み込んで検討していないか、読解力・理解力の貧困を疑わざるをえません。

本ブログ記事に取り上げている守護霊との対話を例にとって、ちょっと考えてみましょう。
守護霊の語りには、里沙さんが「タエの生前の記憶をそっくりコピーできた」としても、タエの記憶にない情報が語られている事実があります。
タエの記憶には存在しない事実が語られている守護霊の語りについては、タエの「記憶コピー仮説」では到底説明できません。
だったら、里沙さんは、守護霊の記憶までコピーして、守護霊を偽装して語ったという説明をするのでしょうか?
しかし、そもそも唯物論では霊的存在など認めないのですから、この説明は矛盾しています。
こうして、具体的事実に即して「記憶コピー仮説」を検討すれば、その論理的破綻は明白です。
シュバルさんのご指摘どおり、起こった具体的事実について「まず起こったこと(タエの事例、ラタラジューの事例)を、稲垣さんができうる限り統計、歴史的事実と照らして棄却できるかどうか試みた」結果の最終的判断が、「生まれ変わり仮説」と「霊魂仮説」を支持するしかないのではないか、ということです。

だからこそ、かつては唯物論者であった私は、タエとラタラジュー両事例で起こった超常的事実を徹底的に検証した結果、唯物論以外の説明体系が存在すると思うようになったのです。

私が、「応答型真性異言ラタラジューの事例」は反証可能性にひらかれていますよ、だからyou-tubeで公開している証拠映像、およびこのブログで公開している証拠映像の応答型真性異言の逐語録に基づいて具体的に生まれ変わり仮説に反証できる個所を指摘してください、と再三述べていることも、再現性がすでに検証実験によって実証されており、タエもラタラジューも一定の手続きによって、顕現化でき対話できることに確たる自信があるからです。

「ラタラジューの事例」、「タエの事例」における「一定の手続き」とは、SAM前世療法の催眠誘導の定式にしたがって30分程度かけて催眠状態を深化すれば、「魂状態の自覚」に至り、その意識状態に至れば、魂表層からラタラジューやタエの前世人格を何度でも顕現化できるという手続きのことです。
こうした前世人格呼び出しの再現性は、里沙さんかぎらず、SAM前世療法の被験者の90%に生じる意識現象の事実です。
ただし、科学的検証に耐えるような前世人格の語りはきわめて稀であることも事実です。

しかも、ラタラジューもタエも、被験者里沙さんの前世記憶ではなく前世人格そのものとして顕現化しているのです。
したがって、里沙さんの前世記憶ではないことをの証明として、前世人格そのものであるラタラジューやタエと私との、現在進行形の直接対話をしている証拠映像をyou-tubeで公開しています。
里沙さんの過去の記憶として語られている前世人格が、私と現在進行形の直接対話をすることは考えられません。

そもそも、会話は技能であって、情報ではありません。
百歩譲って、情報である死者の記憶ならともかく、練習が不可欠な死者の技能までそっくり形態形成場仮説でコピーするように取得できるなどの説明は、到底考えることができません。
たとえば、モーツアルトの記憶にアクセスし、そっくりコピーし、モーツアルトの取得していたピアノの演奏技能までをもを手に入れることが現実として出来るはずだ、と本気で考えられるというのでしょうか。

「例えばすでに死亡しているAさんの記憶を完全コピーしてBさんに移植したとします。
そうするとBさんは、あたかも前世でBさん自身が体験した事柄としてAさんの記憶を読み起こすでしょう。所謂BさんはAさんの生まれ変わりという認識です」

このようなたとえ話は、生まれ変わりの先行研究をまったく無視した実証のかけらもない机上の空論、ないしSF小説の非現実的な想像の産物でしかなく、とても現実味のある科学的言説としての説得力などあるはずがないではありませんか。

超心理学ではESP(透視・テレパシーなど)という能力の存在は、実証されています。
このブログ記事で紹介しているレナード婦人の書籍透視実験が実例です。
しかし、死者の技能までESPによって取得するような能力者はもちろんのこと、死者の記憶をそっくりコピーできる能力者は、SPRおよび超心理学の100年以上の先行研究史おいて発見された事例は皆無です。

そして、「応答型真性異言」は、「記憶(情報)」ではなく「技能」であるからその取得はESPによっても不可能であり、したがって、生まれ変わりの科学的証拠として評価されているのです。

ちなみに、乱暴かもしれませんが、ある意味で、形態形成場仮説が成り立つとすれば、超ESP仮説の量子物理学的に形を変えた仮説と言ってもよいかもしれません。

私の個人的見解を言えば、形態形成場仮説の今後の進展によって拡大的解釈が可能になるならば、透視やテレパシーレベルのESPという超常能力を発揮できる者は、「形態形成された場」にアクセスできる能力者という説明ができるかもしれないという期待を持っています。
なぜなら、SAM前世療法の「霊体仮説」は、霊体(オーラ)を「形態形成の場」というとらえ方をする仮説だという説明も可能だからです。

坊 さんのコメント...

幽霊とか死後の世界なんてあるわけありません。

人間死んだら灰になるだけです。

生命体というのは誰もが知っている通り電池で動く機械と同じようなものです。電池が切れれば終わります。死にます。それだけの事です。

遺された人間の心の闇が死後などと言うと思います

坊 さんのコメント...

目を覚ましてください 

魂なんてもにはないです

あるなら何故世間や世の中の人は魂や生まれ変わりを一般生活に持ち込まないのですか?

それらがあるならば殺人事件やいじめ自殺や遺産相続問題も法的に死者本人の尊重をされてもいいのではないでしょうか?

イスラム被害者の後藤さんや湯川さんもなお本人のために追及するべきだと思います

稲垣 勝巳 さんのコメント...

坊さんお久しぶりです。

理屈より実証、観念より事実です。

生まれ変わりを否定したかったら、それが無いことを、感情的ではなく、私の具体的な検証結果に反証を挙げて具体的、論理的に実証しなければ何らの説得力はありません。

そうでなければ、目の覚ましようがない、というのがこのブログの主旨です。

あなたが、それ以外の抽象的な話題を取り上げて論点をずらすことはコメント投稿上のルール違反です。

私は、「生まれ変わり仮説」や「霊魂仮説」を起きた事実の具体的検証結果によって、認めざるを得ない、と主張をしているだけで、読者に押し付けているわけではありません。
もちろん、あなたに押し付けるつもりも毛頭ありません。

私の主張に対して、具体的、論理的な反論も、合理的な納得もできなければ、気にしないで放っておけばよろしいのです。

私の検証結果に、反証を挙げることができないので、唯物論との認知的不協和が気になって仕方がない、ということだろうと思います。

あなたの信奉する唯物論は絶対ではなく、憶説といってよいと思っています。
その証拠が、タエ・ラタラジューの両事例であり、唯物論の堤防に「アリの一穴」を開けています。

シュヴァル さんのコメント...

坊さん
あの、なんというかわるわけありませんっておっしゃるのでしたらないことを証明できるということでしょうか?
統計でも有意ではないとは言えてもないと証明することはとても難しい行為です。

それは断定されるということは相当のご見識・調査をされているのかと思うのですが
是非、見せていただけませんでしょうか?

ないと断定できるというのは相当なご自信がおありだと思うのでぜひ証明していただきたいです。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

シュヴァルさん

坊さんは、彼の言明している

「生命体というのは誰もが知っている通り電池で動く機械と同じようなものです。電池が切れれば終わります。死にます。それだけの事です」

という「唯物論の固定観念」の、安らかなゆりかごで眠っており、これからも眠り続けていたいのでしょうね。

その安らかなゆりかごに眠っていたいのに、私が揺さぶりをかけて彼の安眠を覚まさせてしまったので、うろたえて、寝ぼけて、不安になって、寝言を言っておいでのようだと思われます。

ほんとうにきちんと「目を覚ます」必要があり、起こった生まれ変わりを示す具体的事実を直視するべきは、坊さんの方なのです。

私に言わせれば、自分が寝ぼけているのに、目覚めている私に根拠もなく目を覚ませ、と寝言で訴える、これは喜劇であり、自分の寝ぼけに気づけず私に目覚めよ、と要求するのは悲劇でもあります。

私が寝ぼけて戯言を言っており、その目を覚まさせたかったら、それこそ目の覚めるような具体的反証を挙げて私の横っ面を張り倒し、目覚めさせてほしいものです。

シュヴァル さんのコメント...

私には悪いのですがたんなる言いがかりにしか読めないのです。
ないと断定することは科学的な論証を学んだものであればそうそうにできることではないと思います。

稲垣さんは超ESP仮説というお話よれば今となっては考証が難しい昔の一件の実例
すら棄却できないか長らく試されたことを考えると坊さんの話は私にはなんというか論証がなっていない言いがかりに見えます

その根拠は坊さんだけではなく、他のこのような投稿はことごとく単独の投稿で私や他の方の指摘に対しても
まず反論がないことです。

ぜひ、無い、違うとおっしゃるのであれば、論文として世間に公表されてはいかがでしょうか?
自信があり、十分な他者検証に耐えられるのであればここで言いがかりととられるよりも
ずっと効果的で素晴らしい功績になると私は思うのですがいかがでしょう?

稲垣 勝巳 さんのコメント...

生まれ変わりを絶対認めたくない人は、生まれ変わりを否定する証拠をもって反論する以外に方法はありません。

私がタエ・ラタラジューの両事例を提示して、生まれ変わりがある、という証拠材料を示しているのですから、この材料に対して具体的反証を挙げて、生まれ変わりの証拠にはなっていないぞ、と論破すればよろしいのです。
私の証拠提示は十分に反証可能性にひらかれているはずですから。

反証を挙げる努力をしないで、生まれ変わりは無いのだから目を覚ませ、と性懲りもなく言い続けるのは、知的怠慢、あるいは知的能力の貧困・衰退を露呈するものでしかありません。
坊さんの態度は、原発の安全神話は崩壊しているにもかかわらず、アンダーコントロールだの世界一の安全が保障されているだの、臆面もなく言い続けている政府・電力会社の態度とまったく同じだとは思いませんか?
きちんとした根拠のない主張に、真面目に耳を傾け、納得する人などはいないでしょう。
原発安全神話と同様、唯物論絶対の神話にも土台に穴が開いているのです。

生まれ変わりを裏付ける証拠のような重大な問題の場合、完璧なもの以外は証拠として受け入れられないというのであれば、この問題がきわめて重大であるからこそ、細部が不正確・不明であるという欠点より、重要なことについて確実なことを示す事実にこそ意味があり、生まれ変わりの可能性を示す証拠について、科学の方法論を用いて検討をするべきだと思います。

私の見解では、その証拠を根拠に、生まれ変わりを認めることが自然ではないかと考えられるだけのものが、これまでの海外の先行研究によって蓄積されていると思われます。

しかし、これらの証拠は、現段階ではまだ完璧なものとはなっておらず、誰もが完全に納得できる説得力に欠けることを認めざるをえません。

しかし、生まれ変わりを認める人には、十分な証拠の蓄積だと考えられますし、認めたくない人には、どこかにあいまいさを残すレベルの証拠でしかないと言えそうです。

タエ・ラタラジュー両事例も、両人の実在の状況証拠としては十分だと言えますが、残念ながら肝心のタエ・ラタラジュー両人の実在した記録が発見できないでいるのです。

アメリカ心霊研究協会(米国SPR)の会長を務め、心理学者として著名なW・ジェームズは、生まれ変わり研究にまつわるこうした状況を、何らかの意志による「挫折の法則」がはたらいているようだ、と評しています。

私あて霊信(第12霊信)で、この「挫折の法則」について質問したところ、その回答は

「挫折の法則ではない。あなた方の核となる意識体、そして神の計画があなた方が進むための原動力を与えているのだと理解しなさい。あなた方は自らの信仰を育てるのだ」

という謎めいたものでした。