SAM催眠学序説 その78
生まれ変わりを科学的事実として認めることは、個人の人生観・世界観は言うに及ばず、宗教や科学をはじめとして、人間の営み全体の諸領域にきわめて広汎かつ深甚な影響を及ぼすことになります。
そのため、唯物論による世界観に安定・安住してきた多くの人々を根底から揺るがすことになり、それら唯物論陣営のさまざまな反論、ときには感情的な反感による罵倒すら受けることになります。
それほどの甚大な衝撃を及ぼす重大事ですから、否定する諸仮説が持ち出されることは当然のことでしょう。
それでは、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の事実を否定する諸仮説を冷静に慎重に検討し、一つ一つ論破してみたいと思います。
こうして、最後に残った仮説が生まれ変わり仮説であるなら、それが唯物論に真っ向から対立することになっても、謙虚に認めるべきでしょう。
しかしながら、ガチガチの唯物論者は断固として認めようとはしません。
反証を挙げて反論できないと分かると、唯物論にとって不都合な事例はなかったことにするという無視の態度を取って認知的不協和を処理することが常のようです。
この仮説は、里沙さんの証言をすべて否定するうえに成り立つ仮説です。
里沙さんは、前もって入念に諸資料を読み、その情報に基づいて「タエの物語」、「ラタラジューの物語」を練り上げ作話し、セッション中には催眠に入ったふりをしてその物語を語り、しかもそのすべてをなぜか隠しているという解釈です。
里沙さんの人間性そのものを否定することになるので、私としてはくみしえないものですが、これも生まれ変わりの否定仮説として一応考えておかなければなりません。
通常の手段でどれだけの情報が収集できるかという検証にもなるからです。
「タエの事例」において、この仮説には、有利になる背景があります。
それは、2003年に出版された、立松和平の小説『浅間』の存在です。
この小説は、「ゆい」という娘が主人公で、天明3年8月5日の浅間山大噴火による鎌原火砕流と、それによって全滅した鎌原村が舞台として登場しています。
「おカイコ様」という呼び方も出てきます。
この小説はラジオドラマ化され、舞台公演もされています。
もし、里沙さんがこの小説『浅間』を知っているとすれば、架空の人物タエの物語は、さほど困難ではないと思われます。
私はこの点を彼女に詳細に尋ね、読んだことも、聞いたことも、見たことも一切ないという証言を得ていますが、意図的作話仮説に立てば、それは虚偽の証言ということになります。
しかし、小説『浅間』だけでは、これらの内容を作話として組み立てることは不可能です。「安永九年のとき13歳、三年後の天明3年のとき16歳」、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」などの情報はこの小説からは引き出せません。
特に、年号の問題はきわめて重要です。安永という年号は、中・高の歴史の教科書には出てきません。
ちなみに、当時私の同僚の中学校社会科教師6人に、「安永」を知っているかを尋ねてみましたが、全員が知りませんでした。まして、安永が9年で終わり天明へと改元されていることを知る一般人は、まずいないでしょう。
「安永9年のとき13歳」で、「天明3年のとき16歳」ということを、瞬時のためらいもなく言えるということは、容易にできるものではありません。
したがって、これだけのタエの物語が作られるためには、加えて、インターネットの検索能力が必須とされるはずです。
しかしながら、インターネットでもこれらの事項を検索することは、かなりの時間と知識が必要です。しかも、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」といった情報は、インターネットからは入手できません。
これらは、『渋川市史』を読むなり、現地を訪れるなりしないと、得られない情報です。
龍神信仰のことは当てずっぽうで言えるかもしれませんが、馬頭観音のこと、そして特に「ばと様」という特殊な呼び方は、現地でしか得られない情報だと思われます。
さらに、「水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・」という語りで検証したように、当時上流の村であった川島村の被害まで入念に調査して作話することは、まず考えられません。
また、このような入念な情報収集をして作話し、しかもそれを意図的に隠すという必然性が彼女にはありません。
そもそも彼女は、自分の病気(脊柱側湾症)の理由を知り、現世の生き方の指針を得るために、前世療法を希望したのです。
それも何らかの詐欺行為だとすることが考えられるでしょうか。
見学に同席した研究者たちの期待に応えようとした、という見方も、そういった条件がなかった第一回セッションで、既にタエの記憶が断片的にであれ出ているのですから、不自然です。
加えて、私の催眠療法体験から見て、里沙さんが催眠に入ったふりをしていたとか、少女タエを演技をしていた、とはどうしても考えられません。
5名の信頼度の高い研究者が見学していますし、証拠として彼女の表情を克明に写したビデオが残っていますから、間違いなく、催眠性トランスに入っていたと断言できます。
さらに、用意されていたいかに巧みな作話であったとしても、私が、偉大な存在者の憑依実験をすることまでは、予想できなかったはずです。
雷神に供える馬を鎮めるために、タエの左腕が切り落とされ、上郷の馬頭観音下に埋められているという語りをはじめとする、偉大な存在者(守護霊)の語りを、その場で瞬時に作話できた、とするには無理があるように思われます。
さらにまた、里沙さんが入念な事前調査をして人を欺く意図があったのなら、決定的な証拠である「堀口吉右衛門」という名前を、なぜクロカワキチエモンと言ったのか説明できません。
私が入手できたように、天明3年当時の渋川村の名主が、「堀口吉右衛門」であることは、作話する過程で、彼女にも入手可能だと思われます。
それをわざわざ、史実と食い違うようにしなければならないのか、納得できる理由が見当たらないのです。
そして、作り話などしていない、という里沙さんの証言を、嘘だと疑わねばならない証拠が、何一つ挙がっているわけではありません。
加えて、彼女が、事前にタエの物語に関わる諸情報を意図的に収集していたことは、ポリグラフ検査によって否定されています。
「ラタラジューの事例」で語られた諸情報の入手についても、まったく同様です。
以上のように、意図的作話仮説にはほとんど可能性を見出す余地がありません。
「潜在記憶」とは、通常の自覚としては忘れてしまっており、全く記憶に出てこないのですが、実は潜在意識に蓄えられている記憶のことを言います。
したがって、潜在記憶仮説で、タエの語りの内容を解釈すれば、次のようになるでしょう。
里沙さんの証言は、彼女の自覚としてはそのとおりだが、記憶を忘れ去っているだけで、実は潜在記憶として、情報の貯蔵庫に蓄えられていたはずだ。
潜在意識が、情報の貯蔵庫に蓄えていた様々な情報を巧みにつなぎ合わせ、加工・編集して架空のタエの前世物語、ラタラジューの物語を作りあげ、フィクションとして語ったものだ、という説明になります。
確かに、催眠状態にあるクライアントには「要求特性」と呼ぶ、セラピストの指示に従順に従おうとし、期待に応じようとする傾向が知られてます。
したがって、過去に得てきた情報を総動員して、架空の人格を作り上げ、それを自分の前世だと語る可能性が絶対ないとは言えません。
しかし、タエの語った検証一致率84%の事実を潜在記憶仮説ですべてを説明するのは、まず不可能のように思われます。
それは、前述したように、通常の手段による意図的情報収集でも、あれだけの内容は容易に取得できないと思われるからです。
まして、偶然の経緯で、しかもインターネットなどの手段を使わず、それらを知ることは、ほぼありえないと断言できるでしょう。
また、小説『浅間』は、出版から二年しか経っていませんので、それを読んでいて忘れるということも、まず考えられません。
また、潜在記憶仮説では作為は否定されますので、「噴火」という言葉を知らないような態度を取ったことも、説明できません。
「ラタラジューの事例」 についても、里沙さんにはネパール人との接触がまったくないという生育歴と身辺調査から、潜在記憶として蓄積しようにもその記憶の入手先がないことがほぼ確実です。
これらのことから、潜在記憶仮説も、その可能性は棄却できるでしょう。
それでも、生まれ変わりなどあろうはずがないから、きっと「どこか」で潜在記憶として入手しているに違いない、というような根拠不明な主張は科学的仮説として認めることができません。
前世記憶とおぼしき記憶に関して、「遺伝子の中に記憶が保存されるのではないか」という仮説も成り立ちます。
しかし、タエとラタラジューのケースではそれは絶対ありえません。
タエが実在したとすれば、彼女は16歳で人柱になったことになります。
彼女に子どもがいて、それが里沙さんの祖先であったということは考えられません。
16歳の若い母親を人柱にするということは、人間の心情としても、龍神という神様への「お供え」という意味からしても、ありえないからです。
また、人柱になる前に白い花嫁衣装を着てごちそうを食べたことをうれしそうに語っているのは、子を持った女性の心情とは到底思えません。
ただしタエは、セッション後のフラッシュバックでキチエモンの子を宿していたことを打ち明けています。
しかし、タエは溺死していますから、その血脈はその時点で断絶していることになります。
ラタラジューについても、里沙さんにネパール人の血が入っているかどうかを確認しましたが、さかのぼり得る限りにおいて両親双方にネパール人の祖先はいないことが明らかでした。
そして、そもそも、遺伝子にこれだけの詳細な事柄が記憶されるという科学的実証はありません。
したがって遺伝子記憶仮説は、棄却できるでしょう。
里沙さんが、通常の方法によらず、超常能力、つまり透視やテレパシーなどによる方法でタエに関する情報をことごとく入手し、それをあたかも前世の記憶として語ったとする仮説です。
里沙さんが、テレパシーによって、同席者の心を読み取り、それらをもとに前世記憶を作話した可能性はあるでしょうか。
5名の見学者のうち、火山雷の知識のある者1名、ネパール旅行経験者1名、吾妻川を知っている者1名がいました。
私は「おカイコ様」という呼び方および、天明3年の浅間山大噴火と吾妻川の泥流被害のおおよそを知っています。
天明3年8月4日・5日の大噴火と火砕流、渋川村上郷という地名、安永という年号などの細かな情報は、私を含め同席6名の者は持っていませんでした。
したがって、この解釈には無理があります。
では極めて強力な万能に近い透視能力で、これらの情報を入手したという可能性はあるでしょうか。
突飛にみえる仮説ですが、超心理学上の「超ESP仮説」として知られている仮説です。
浅間山噴火に関する情報や、当時の渋川村の歴史的状況については、私が調べられたように、ある程度は文字記録となって残っています。
それらを私同様に入手し、前世の記録として語ったと考えることは、一つの仮説としては成り立つでしょう。
タエに関する情報は文字記録にないようですから、その部分は作話ということになります。
この「超ESP仮説」を完全に棄却するのは、「タエの事例」では不可能かも知れません。
「ばと様」という極めて特殊な表現は、透視で入手することは不可能だと思われますが、それさえも、「どこかにあるはずだ」、あるいは「現在その土地に住んでいる人の心を読んだのだ」という途方もない拡大解釈が際限なくされれば、どこまでも決着はつけられなくなります。
したがって、ここでは、反論を述べるに留めることにします。
まず、前世療法のセッション以前に、里沙さんが超常能力を発揮したことは、本人・周囲とも一度もないと証言しています。
にもかかわらず、催眠中に突如として超常能力が働き、それがほとんど万能に近いものであると説明するのは無理があるように思われます。
催眠時に超常的な能力が発現するという事例は、わずかながらあるようですが、かなり広範囲に分散された様々な断片的情報を瞬時に入手し、齟齬(そご)のないようにつなぎ合わせ、まとめ上げ、里沙さんが同一視しているタエと緊密に一致する人格を構築するのは、不可能なわざとしか思えません。
里沙さんの証言を信用する限り、当人にはそのような能力もないし、そのようなことをしたという記憶もないわけですから、一体誰が(あるいは何が)それをおこなっているのでしょうか。
「無意識」がやっているという解釈も出るでしょうが、それは証明できることなのでしょうか。
また、里沙さんは、なぜよりによって、見たことも聞いたこともないタエと自分を同一視しなければならないのか、説得力のある説明ができそうにありません。
彼女が、私や見学者を驚かせるために、縁もゆかりもない架空の人物を超常能力を駆使して作話したとする見方と、素直に「前世記憶」を甦(よみがえ)らせただけだとする見方と、どちらが自然かは明白なように思われます。
さらに、超常能力を駆使できたとすれば、名主堀口吉右衛門の存在を知り得たはずなのに、なぜそれをクロダキチエモンと言わねばならなかったのか説明がつきません。
以上を考え合わせると、超常能力(超ESP)仮説は、生まれ変わり仮説を否定するために、十分な裏付けもなく強引に作り上げられた空論のように思われます。
人間にESP(透視やテレパシー) の能力があることは証明されています。
しかし、その限界が分かっていません。
限界が分かっていないので、万能に近いESP能力者が存在する可能性があるのではないかという理屈が成り立つということであって、そもそもこの仮説自体は証明されているわけではないのです。
私には、生まれ変わり仮説より、さらに突飛で奇怪な説得力のないものに思われます。、
ちなみに、ラタラジューのネパール語による会話技能は、超ESP能力によっても取得できないとされています。
技能は情報ではなく、練習を必要とするものであり、いかなる情報も取得できるとする超ESPによっても、練習が不可欠である技能までも取得することはできません。
超能力によって技能を取得した事例はないのです。
「生まれ変わり仮説」は、霊魂仮説を認めない限り成立しませんが、霊魂仮説を受け入れた場合、タエに関してもう一つの仮説による解釈が成り立ちます。
それは、第三者であるタエの「霊」が、催眠中の里沙さんに「憑依」(憑霊)したという仮説です。
突飛にみえる仮説ですが、世界中にはそれらしい事例がないわけではありません。
里沙さんも周囲も、過去に「憑依」様の体験は皆無だと証言していますが、催眠下でそれが偶発的に起こらないという保証はありません。
前世人格か憑依霊かという問題は、生まれ変わり仮説を暫定的に採用した研究者でも、迷うところの多いもののようです。
生まれ変わり仮説も霊魂仮説も、その科学的研究はまだ確固とした体系を持っていませんので、この問題に関しても、詳細な先行研究はないように思われます。
あくまで試験的な仮説ですが、私は、「同一性の感覚」の有無と「憑依状態の記憶」の有無が、前世人格と憑依霊とを識別できる有力な指標になるのではないかという仮説を立てています。
セッション後の感想で、里沙さんは、前世のタエと現世の自分とが同一の魂であることを実感している、と述べています。
第三者の憑依霊に対して、自分との同一性の感覚が生まれるはずがないでしょう。
また、「偉大な存在者(守護霊)」が直接語った場面に関して、催眠覚醒後に全く記憶がないと述べています。
このような構造は、他のケースにも見られるものです。
なお、宗教学のシャーマニズム研究でも、「憑霊」とおぼしき事態の場合、その間の当人の記憶がないことが多いと報告されています。
こうして、少なくとも、里沙さんにおいては、前世人格と憑依霊を識別するこの二つの指標が当てはまります。
このように想定すると、「偉大な存在者」とは何かという問題が残りますが、「前世人格」と「憑依霊」との間には、一応の線引きができるのではないかと考えています。
そして、「タエの事例」は、「憑霊」よりは「前世人格」である可能性が明らかに高いように判断できると思います。
「ラタラジューの事例」においても同様の解釈ができます。
疑いをかけられる当事者私と里沙さんには論外の仮説です。
しかし、可能性として、私と里沙さん、あるいはセッション見学者も含めて、事前に打ち合わせの相談のうえ、台本によるインチキセッションを企てたという仮説も考えておく必要があるでしょう。
とりわけ、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」が、娯楽番組である「アンビリバボー」で取り上げられたので、視聴率稼ぎのヤラセの疑いをかけた人がいたようです。
しかし、この仮説が成り立つためには、you-tubeに公開してあるセッション記録映像に基づいて、どの場面の、誰の、どういう台詞が、不自然でヤラセの可能性がある、という具体的指摘をしなければなりません。
生まれ変わりなどあるはずがないから、トリックがあるに決まっている、という主張は、具体的根拠不明な思い込みによる言いがかりとして判断するしかありません。
以上、およそ提出されそうな生まれ変わり否定の仮説を取り上げ、検討を加えてみました。
まだまだこんな仮説もあるぞ、という方はどうぞコメントをお願いします。
生まれ変わりを科学的事実として認めることは、個人の人生観・世界観は言うに及ばず、宗教や科学をはじめとして、人間の営み全体の諸領域にきわめて広汎かつ深甚な影響を及ぼすことになります。
そのため、唯物論による世界観に安定・安住してきた多くの人々を根底から揺るがすことになり、それら唯物論陣営のさまざまな反論、ときには感情的な反感による罵倒すら受けることになります。
それほどの甚大な衝撃を及ぼす重大事ですから、否定する諸仮説が持ち出されることは当然のことでしょう。
それでは、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の事実を否定する諸仮説を冷静に慎重に検討し、一つ一つ論破してみたいと思います。
こうして、最後に残った仮説が生まれ変わり仮説であるなら、それが唯物論に真っ向から対立することになっても、謙虚に認めるべきでしょう。
しかしながら、ガチガチの唯物論者は断固として認めようとはしません。
反証を挙げて反論できないと分かると、唯物論にとって不都合な事例はなかったことにするという無視の態度を取って認知的不協和を処理することが常のようです。
(1)意図的作話仮説
この仮説は、里沙さんの証言をすべて否定するうえに成り立つ仮説です。
里沙さんは、前もって入念に諸資料を読み、その情報に基づいて「タエの物語」、「ラタラジューの物語」を練り上げ作話し、セッション中には催眠に入ったふりをしてその物語を語り、しかもそのすべてをなぜか隠しているという解釈です。
里沙さんの人間性そのものを否定することになるので、私としてはくみしえないものですが、これも生まれ変わりの否定仮説として一応考えておかなければなりません。
通常の手段でどれだけの情報が収集できるかという検証にもなるからです。
「タエの事例」において、この仮説には、有利になる背景があります。
それは、2003年に出版された、立松和平の小説『浅間』の存在です。
この小説は、「ゆい」という娘が主人公で、天明3年8月5日の浅間山大噴火による鎌原火砕流と、それによって全滅した鎌原村が舞台として登場しています。
「おカイコ様」という呼び方も出てきます。
この小説はラジオドラマ化され、舞台公演もされています。
もし、里沙さんがこの小説『浅間』を知っているとすれば、架空の人物タエの物語は、さほど困難ではないと思われます。
私はこの点を彼女に詳細に尋ね、読んだことも、聞いたことも、見たことも一切ないという証言を得ていますが、意図的作話仮説に立てば、それは虚偽の証言ということになります。
しかし、小説『浅間』だけでは、これらの内容を作話として組み立てることは不可能です。「安永九年のとき13歳、三年後の天明3年のとき16歳」、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」などの情報はこの小説からは引き出せません。
特に、年号の問題はきわめて重要です。安永という年号は、中・高の歴史の教科書には出てきません。
ちなみに、当時私の同僚の中学校社会科教師6人に、「安永」を知っているかを尋ねてみましたが、全員が知りませんでした。まして、安永が9年で終わり天明へと改元されていることを知る一般人は、まずいないでしょう。
「安永9年のとき13歳」で、「天明3年のとき16歳」ということを、瞬時のためらいもなく言えるということは、容易にできるものではありません。
したがって、これだけのタエの物語が作られるためには、加えて、インターネットの検索能力が必須とされるはずです。
しかしながら、インターネットでもこれらの事項を検索することは、かなりの時間と知識が必要です。しかも、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」といった情報は、インターネットからは入手できません。
これらは、『渋川市史』を読むなり、現地を訪れるなりしないと、得られない情報です。
龍神信仰のことは当てずっぽうで言えるかもしれませんが、馬頭観音のこと、そして特に「ばと様」という特殊な呼び方は、現地でしか得られない情報だと思われます。
さらに、「水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・」という語りで検証したように、当時上流の村であった川島村の被害まで入念に調査して作話することは、まず考えられません。
また、このような入念な情報収集をして作話し、しかもそれを意図的に隠すという必然性が彼女にはありません。
そもそも彼女は、自分の病気(脊柱側湾症)の理由を知り、現世の生き方の指針を得るために、前世療法を希望したのです。
それも何らかの詐欺行為だとすることが考えられるでしょうか。
見学に同席した研究者たちの期待に応えようとした、という見方も、そういった条件がなかった第一回セッションで、既にタエの記憶が断片的にであれ出ているのですから、不自然です。
加えて、私の催眠療法体験から見て、里沙さんが催眠に入ったふりをしていたとか、少女タエを演技をしていた、とはどうしても考えられません。
5名の信頼度の高い研究者が見学していますし、証拠として彼女の表情を克明に写したビデオが残っていますから、間違いなく、催眠性トランスに入っていたと断言できます。
さらに、用意されていたいかに巧みな作話であったとしても、私が、偉大な存在者の憑依実験をすることまでは、予想できなかったはずです。
雷神に供える馬を鎮めるために、タエの左腕が切り落とされ、上郷の馬頭観音下に埋められているという語りをはじめとする、偉大な存在者(守護霊)の語りを、その場で瞬時に作話できた、とするには無理があるように思われます。
さらにまた、里沙さんが入念な事前調査をして人を欺く意図があったのなら、決定的な証拠である「堀口吉右衛門」という名前を、なぜクロカワキチエモンと言ったのか説明できません。
私が入手できたように、天明3年当時の渋川村の名主が、「堀口吉右衛門」であることは、作話する過程で、彼女にも入手可能だと思われます。
それをわざわざ、史実と食い違うようにしなければならないのか、納得できる理由が見当たらないのです。
そして、作り話などしていない、という里沙さんの証言を、嘘だと疑わねばならない証拠が、何一つ挙がっているわけではありません。
加えて、彼女が、事前にタエの物語に関わる諸情報を意図的に収集していたことは、ポリグラフ検査によって否定されています。
「ラタラジューの事例」で語られた諸情報の入手についても、まったく同様です。
以上のように、意図的作話仮説にはほとんど可能性を見出す余地がありません。
(2)潜在記憶仮説
「潜在記憶」とは、通常の自覚としては忘れてしまっており、全く記憶に出てこないのですが、実は潜在意識に蓄えられている記憶のことを言います。
したがって、潜在記憶仮説で、タエの語りの内容を解釈すれば、次のようになるでしょう。
里沙さんの証言は、彼女の自覚としてはそのとおりだが、記憶を忘れ去っているだけで、実は潜在記憶として、情報の貯蔵庫に蓄えられていたはずだ。
潜在意識が、情報の貯蔵庫に蓄えていた様々な情報を巧みにつなぎ合わせ、加工・編集して架空のタエの前世物語、ラタラジューの物語を作りあげ、フィクションとして語ったものだ、という説明になります。
確かに、催眠状態にあるクライアントには「要求特性」と呼ぶ、セラピストの指示に従順に従おうとし、期待に応じようとする傾向が知られてます。
したがって、過去に得てきた情報を総動員して、架空の人格を作り上げ、それを自分の前世だと語る可能性が絶対ないとは言えません。
しかし、タエの語った検証一致率84%の事実を潜在記憶仮説ですべてを説明するのは、まず不可能のように思われます。
それは、前述したように、通常の手段による意図的情報収集でも、あれだけの内容は容易に取得できないと思われるからです。
まして、偶然の経緯で、しかもインターネットなどの手段を使わず、それらを知ることは、ほぼありえないと断言できるでしょう。
また、小説『浅間』は、出版から二年しか経っていませんので、それを読んでいて忘れるということも、まず考えられません。
また、潜在記憶仮説では作為は否定されますので、「噴火」という言葉を知らないような態度を取ったことも、説明できません。
「ラタラジューの事例」 についても、里沙さんにはネパール人との接触がまったくないという生育歴と身辺調査から、潜在記憶として蓄積しようにもその記憶の入手先がないことがほぼ確実です。
これらのことから、潜在記憶仮説も、その可能性は棄却できるでしょう。
それでも、生まれ変わりなどあろうはずがないから、きっと「どこか」で潜在記憶として入手しているに違いない、というような根拠不明な主張は科学的仮説として認めることができません。
(3)遺伝子記憶仮説
前世記憶とおぼしき記憶に関して、「遺伝子の中に記憶が保存されるのではないか」という仮説も成り立ちます。
しかし、タエとラタラジューのケースではそれは絶対ありえません。
タエが実在したとすれば、彼女は16歳で人柱になったことになります。
彼女に子どもがいて、それが里沙さんの祖先であったということは考えられません。
16歳の若い母親を人柱にするということは、人間の心情としても、龍神という神様への「お供え」という意味からしても、ありえないからです。
また、人柱になる前に白い花嫁衣装を着てごちそうを食べたことをうれしそうに語っているのは、子を持った女性の心情とは到底思えません。
ただしタエは、セッション後のフラッシュバックでキチエモンの子を宿していたことを打ち明けています。
しかし、タエは溺死していますから、その血脈はその時点で断絶していることになります。
ラタラジューについても、里沙さんにネパール人の血が入っているかどうかを確認しましたが、さかのぼり得る限りにおいて両親双方にネパール人の祖先はいないことが明らかでした。
そして、そもそも、遺伝子にこれだけの詳細な事柄が記憶されるという科学的実証はありません。
したがって遺伝子記憶仮説は、棄却できるでしょう。
(4)透視などの超常能力(超ESP)仮説
里沙さんが、通常の方法によらず、超常能力、つまり透視やテレパシーなどによる方法でタエに関する情報をことごとく入手し、それをあたかも前世の記憶として語ったとする仮説です。
里沙さんが、テレパシーによって、同席者の心を読み取り、それらをもとに前世記憶を作話した可能性はあるでしょうか。
5名の見学者のうち、火山雷の知識のある者1名、ネパール旅行経験者1名、吾妻川を知っている者1名がいました。
私は「おカイコ様」という呼び方および、天明3年の浅間山大噴火と吾妻川の泥流被害のおおよそを知っています。
天明3年8月4日・5日の大噴火と火砕流、渋川村上郷という地名、安永という年号などの細かな情報は、私を含め同席6名の者は持っていませんでした。
したがって、この解釈には無理があります。
では極めて強力な万能に近い透視能力で、これらの情報を入手したという可能性はあるでしょうか。
突飛にみえる仮説ですが、超心理学上の「超ESP仮説」として知られている仮説です。
浅間山噴火に関する情報や、当時の渋川村の歴史的状況については、私が調べられたように、ある程度は文字記録となって残っています。
それらを私同様に入手し、前世の記録として語ったと考えることは、一つの仮説としては成り立つでしょう。
タエに関する情報は文字記録にないようですから、その部分は作話ということになります。
この「超ESP仮説」を完全に棄却するのは、「タエの事例」では不可能かも知れません。
「ばと様」という極めて特殊な表現は、透視で入手することは不可能だと思われますが、それさえも、「どこかにあるはずだ」、あるいは「現在その土地に住んでいる人の心を読んだのだ」という途方もない拡大解釈が際限なくされれば、どこまでも決着はつけられなくなります。
したがって、ここでは、反論を述べるに留めることにします。
まず、前世療法のセッション以前に、里沙さんが超常能力を発揮したことは、本人・周囲とも一度もないと証言しています。
にもかかわらず、催眠中に突如として超常能力が働き、それがほとんど万能に近いものであると説明するのは無理があるように思われます。
催眠時に超常的な能力が発現するという事例は、わずかながらあるようですが、かなり広範囲に分散された様々な断片的情報を瞬時に入手し、齟齬(そご)のないようにつなぎ合わせ、まとめ上げ、里沙さんが同一視しているタエと緊密に一致する人格を構築するのは、不可能なわざとしか思えません。
里沙さんの証言を信用する限り、当人にはそのような能力もないし、そのようなことをしたという記憶もないわけですから、一体誰が(あるいは何が)それをおこなっているのでしょうか。
「無意識」がやっているという解釈も出るでしょうが、それは証明できることなのでしょうか。
また、里沙さんは、なぜよりによって、見たことも聞いたこともないタエと自分を同一視しなければならないのか、説得力のある説明ができそうにありません。
彼女が、私や見学者を驚かせるために、縁もゆかりもない架空の人物を超常能力を駆使して作話したとする見方と、素直に「前世記憶」を甦(よみがえ)らせただけだとする見方と、どちらが自然かは明白なように思われます。
さらに、超常能力を駆使できたとすれば、名主堀口吉右衛門の存在を知り得たはずなのに、なぜそれをクロダキチエモンと言わねばならなかったのか説明がつきません。
以上を考え合わせると、超常能力(超ESP)仮説は、生まれ変わり仮説を否定するために、十分な裏付けもなく強引に作り上げられた空論のように思われます。
人間にESP(透視やテレパシー) の能力があることは証明されています。
しかし、その限界が分かっていません。
限界が分かっていないので、万能に近いESP能力者が存在する可能性があるのではないかという理屈が成り立つということであって、そもそもこの仮説自体は証明されているわけではないのです。
私には、生まれ変わり仮説より、さらに突飛で奇怪な説得力のないものに思われます。、
ちなみに、ラタラジューのネパール語による会話技能は、超ESP能力によっても取得できないとされています。
技能は情報ではなく、練習を必要とするものであり、いかなる情報も取得できるとする超ESPによっても、練習が不可欠である技能までも取得することはできません。
超能力によって技能を取得した事例はないのです。
(5)憑依(憑霊)仮説
「生まれ変わり仮説」は、霊魂仮説を認めない限り成立しませんが、霊魂仮説を受け入れた場合、タエに関してもう一つの仮説による解釈が成り立ちます。
それは、第三者であるタエの「霊」が、催眠中の里沙さんに「憑依」(憑霊)したという仮説です。
突飛にみえる仮説ですが、世界中にはそれらしい事例がないわけではありません。
里沙さんも周囲も、過去に「憑依」様の体験は皆無だと証言していますが、催眠下でそれが偶発的に起こらないという保証はありません。
前世人格か憑依霊かという問題は、生まれ変わり仮説を暫定的に採用した研究者でも、迷うところの多いもののようです。
生まれ変わり仮説も霊魂仮説も、その科学的研究はまだ確固とした体系を持っていませんので、この問題に関しても、詳細な先行研究はないように思われます。
あくまで試験的な仮説ですが、私は、「同一性の感覚」の有無と「憑依状態の記憶」の有無が、前世人格と憑依霊とを識別できる有力な指標になるのではないかという仮説を立てています。
セッション後の感想で、里沙さんは、前世のタエと現世の自分とが同一の魂であることを実感している、と述べています。
第三者の憑依霊に対して、自分との同一性の感覚が生まれるはずがないでしょう。
また、「偉大な存在者(守護霊)」が直接語った場面に関して、催眠覚醒後に全く記憶がないと述べています。
このような構造は、他のケースにも見られるものです。
なお、宗教学のシャーマニズム研究でも、「憑霊」とおぼしき事態の場合、その間の当人の記憶がないことが多いと報告されています。
こうして、少なくとも、里沙さんにおいては、前世人格と憑依霊を識別するこの二つの指標が当てはまります。
このように想定すると、「偉大な存在者」とは何かという問題が残りますが、「前世人格」と「憑依霊」との間には、一応の線引きができるのではないかと考えています。
そして、「タエの事例」は、「憑霊」よりは「前世人格」である可能性が明らかに高いように判断できると思います。
「ラタラジューの事例」においても同様の解釈ができます。
(6) トリック(ヤラセ)仮説
疑いをかけられる当事者私と里沙さんには論外の仮説です。
しかし、可能性として、私と里沙さん、あるいはセッション見学者も含めて、事前に打ち合わせの相談のうえ、台本によるインチキセッションを企てたという仮説も考えておく必要があるでしょう。
とりわけ、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」が、娯楽番組である「アンビリバボー」で取り上げられたので、視聴率稼ぎのヤラセの疑いをかけた人がいたようです。
しかし、この仮説が成り立つためには、you-tubeに公開してあるセッション記録映像に基づいて、どの場面の、誰の、どういう台詞が、不自然でヤラセの可能性がある、という具体的指摘をしなければなりません。
生まれ変わりなどあるはずがないから、トリックがあるに決まっている、という主張は、具体的根拠不明な思い込みによる言いがかりとして判断するしかありません。
以上、およそ提出されそうな生まれ変わり否定の仮説を取り上げ、検討を加えてみました。
まだまだこんな仮説もあるぞ、という方はどうぞコメントをお願いします。
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